第五話
有暮町の外れに建つ、元・学校は、近づけば近づくほど「学校じゃない何か」に見えてきた。
外壁には銀色のダクトと太いケーブルが張り巡らされ、教室の窓だった場所には金属製のルーバーがはめ込まれている。
かつてグラウンドだったところは、小さな変電設備とコンテナで埋まり、巨大な送風機が一定のリズムで唸り声を上げていた。
「……本当にここ、“学校改造しました”レベルか?」
バンの助手席から身を乗り出し、田中はフェンス越しに施設を見上げた。
「“しました”どころか、“しました、したまま放置しました”って感じだね」
ナノはそう言ってエンジンを切り、深く息を吐いた。
「さ、着いちゃったものは仕方ない。準備しよっか」
そう言うと、ナノは運転席のドアを半分だけ開け、身をかがめる。
座席の下――正確には車体のフレームと床の隙間あたりに、手を突っ込んだ。
「……何してんだ?」
「ちょっとね。うちの“非常用オプション”」
金属がこすれる小さな音のあと、ナノは布にくるまれた細長い包みを引きずり出した。
布を手早く解くと、中から黒い鉄の塊が現れる。
「……マジで銃……」
田中は思わず声を上げた。
塗装の一部が剥げたスライド。握り込めば、ずしりと重そうなグリップ。
画面越しでしか見たことのなかった「武器」が、汚れた布の上で当たり前のように転がっている。
「見たことは?」
「映像だけだよ、実物は」
「そっか」
ナノはごく自然な手つきでマガジンを抜き、残弾を確認する。
「保険みたいなもん。できれば使いたくないけどね」
「“できれば”って言うなよ……」
「ここまで来て丸腰は、さすがにお花畑でしょ」
マガジンを戻し、スライドを引いて動作を確かめると、ナノはそれを腰のベルトの内側に差し込んだ。
「ニム、周辺」
「了解」
後部から降りたニムが、ゆっくりと学校の方角へ顔を向ける。
頭部のセンサー部が微かに唸り、数秒の沈黙のあと、報告が返ってきた。
「外周フェンス内、活動中のセキュリティロボット反応、ゼロ。人間の熱源反応も、ゼロ」
「中は?」
「建物内部に、稼働中のサーバ群による排熱反応を複数検出。ただし、移動体の反応は検出できず」
「……見張りゼロで、サーバだけ元気ってこと?」
「現時点の観測では、そういう結論」
「気持ち悪……」
ナノは顔をしかめながらも、バンのドアを閉めた。
「さて、さくっと行って、さくっと帰ろ。田中、安全靴ちゃんと締めて。走る可能性は一応あるからね」
「その“一応”やめてくれ」
ぶつぶつ言いながらも、田中は紐を固く結び直した。
*
元・正門は、既にかなり前に壊されたらしい。
鉄のフェンスの一部が切り取られ、代わりに簡素なバーと色あせた注意書きが立てられている。
ナノはバーの下をくぐり、躊躇なく校舎へ向かう。ニムが無言で続き、その後ろを田中が追った。
校舎の入口も、もはや学校のそれではなかった。
かつて両開きのガラス扉だった玄関は厚い金属製の扉に置き換えられ、横にはカードリーダーらしき端末がぶら下がっている。
「鍵は?」
「いつもの電気屋鍵」
ナノは端末のカバーをこじ開け、中の配線を覗き込んだ。
数本の線を器用につまみ上げ、小さなクリップでつなぐ。数秒後、扉のロック部から鈍い音がした。
「解錠シグナル確認。開扉可能」
ニムが告げる。
「よし。ゆっくりね」
重い扉が、低いきしみを上げながら開いていく。
中から冷たい空気と、機械の熱で乾いた匂いが流れ出てきた。
廊下の面影は、辛うじて形だけ残っていた。
掲示板のあったであろう壁には、ラックがずらりと並び、床にはケーブルが這っている。
天井から吊り下がったLEDの白い光が、無人の通路を均一に照らしていた。
「……何か、出そうな雰囲気ではあるな」
「“出る”のは大体ロボか人だからね。どっちもいないなら、それはそれで気持ち悪い」
ナノは腰の銃の位置を指先で確かめながら、足早に歩く。
角をひとつ、またひとつと曲がっていくが、ニムの報告は変わらない。
「正面廊下、左側階段付近、右側分岐通路――活動中のセキュリティロボット反応、いずれもゼロ」
「巡回パターンが丸ごと止まってるかな」
「もしくは、別系統の指揮系統に移管されている可能性」
「そういうことサラッと言わないでほしい」
それでも、足は止まらない。
やがて、元・職員室だったであろう部屋の前でナノが立ち止まった。
扉には、新しいプレートで「管制室」と貼られている。
「ここだね」
「中は?」
「人体反応、ゼロ。ロボット反応も、ゼロ」
「ゼロばっかり……」
ナノは小さく息を吐き、ノブを回した。
鍵はかかっていない。
扉を開けると、冷えた空気と、モニターの光が三人を迎えた。
部屋の中央には、卓状のコンソール。その周囲を囲うように、壁一面のモニターとラックマウントの機器。
ファンの音が絶えず響き、画面に並ぶログが青白く管制室を照らしている。
「完全に“置き去り”って感じだな……」
「動いてるから余計タチ悪い」
ナノはコンソールに近づき、キーボードを叩く。
ログイン画面はすでに解除されており、管理者用のメニューが開いたままになっていた。
「ログインセッション、有効。最終操作からの経過時間、3時間52分」
ニムが画面を覗き込み、読み上げる。
「投げ出して逃げた、って線も、なくはない」
「不穏な推測やめて」
そう言いながらも、ナノの指は迷いなくメニューを進んでいく。
OMNI関連のモジュール一覧、地方ブロック管理、位置情報関連のプロセス――。
「……あった」
画面の隅で、ナノの指が止まった。
「“九州ブロック位置検索モジュール”」
「長いな、名前」
「システムって大体こういうもん」
ナノは表示内容を詳細ビューに切り替える。
構造ツリーには、「キー断片」「復号コア」「参照ハンドル」などの項目が並んでいた。
「九州分のキー断片……存在はここで見えてるね」
ニムが補足する。
「ただし、“実体”の格納先が――」
「うわ」
ナノが顔をしかめた。
「出たよ、“嫌な書き方”」
「何が?」
田中が横から覗き込むと、画面には無機質な文字列が並んでいる。
≪キー実体:仮想運用環境インスタンスに内包。ローカル側には参照ハンドルのみ保持≫
「……つまり?」
「ここには“ラベル”しかなくて、本体は全部仮想の中ってこと」
ナノは椅子の背にもたれた。
「九州分の位置情報キー、そのものは、丸ごとOMNIの仮想環境に埋め込まれてる。
このセンターにあるのは、“そこへの道しるべ”だけ」
「キー本体へアクセスするには、対象仮想環境側からの接続が必須。現実側のみでは復号処理が完結しない設計」
ニムが淡々と続ける。
「なんでそんな回りくどいことを」
田中が思わずこぼすと、ナノは画面から目を離さないまま答えた。
「“壊れる前提”で作ってるからじゃない?」
「壊れる前提?」
「どっか一箇所が落ちても、全部まとめて吹っ飛ばないように。
本サーバの位置情報を一つの箱に入れておくと、その箱が一回事故っただけでゲームオーバーでしょ」
ナノは指先で、画面上のツリー構造をなぞる。
「だから、“本当のもの”は計算でしか出てこない一時的な値にして、その計算機を仮想側に分散して埋める。
誰かが覗きたくなっても、そのたびに環境ごと立ち上げて、そこでだけ一瞬だけ見えるようにする」
「……面倒くさいにも程があるな」
「面倒くさくない仕組みは、大体先に死ぬんだよ」
しばらく沈黙が落ちる。
ファンの音と、モニターに流れるログのスクロール音だけが、管制室を満たしていた。
「一応、聞くけど」
ナノがぽつりと言う。
「仮想に戻るの、どれくらい嫌?」
「すごく嫌だよ」
田中は即答した。
「でも、ここまで来て“やっぱ無理でした”って引き返すのも、もっと嫌だ」
自分で言いながら、苦笑するしかない。
「矛盾してるのはわかってるけどさ」
「矛盾してる方が人間らしいじゃん」
ナノは、ほんの少しだけ笑った。
「じゃ、決まりだね。――ポッドルーム、探そ」
「さらっと言うな」
「ニム、仮想運用環境への接続ノード、ローカルマップに出せる?」
「可能」
ニムが短く動作音を鳴らすと、部屋の中央に簡易マップのホログラムがふわりと浮かび上がった。
校舎の一角が拡大され、「仮想運用カプセル室」と記された部屋が点灯した。
「よし。行こっか」
*
ポッドルームは、増築された校舎の端にあった。
壁際に並んだカプセルは、保管施設のものよりも少し小型で、隣に専用の端末が設置されている。
床には、仮想運用用の太いケーブルがまとめて敷設され、天井には無骨な配管が走っていた。
「ここが“日常的に人を出し入れしてた側”の設備」
ナノは端末を覗き込みながら言う。
「同時接続数、最大16。今は全部オフライン。接続先の切り替えも、こっちからいじれるね」
「ターゲット仮想環境、“九州上位センター管理領域”のサンドボックス座標、取得」
ニムが端末のログを読み上げる。
「この環境内に位置情報キー復号モジュールへのエントリポイントを検出」
「つまり、このサンドボックスに飛べば、キーの“本体”に近づける」
ナノは設定画面を開き、数値を入力していく。
「三人とも、同じエントリポイントに……できるだけ近い座標に、って感じかな」
「“できるだけ”ってのが引っかかるんだが」
「向こうの環境側の事情までは、こっちから確定できないんだよ。
まあ、“バラバラにならないでくれたらラッキー”くらいに思っといて」
「安心しろって方が無理だな」
「半分だけしといて」
軽口を叩きながらも、ナノの指は真剣だ。
「ニム、接続準備」
「了解。人間二名分の生命維持サポートモジュール、起動。仮想接続ライン、スタンバイ完了」
ナノは田中の方を振り向いた。
「一応聞くけど、今なら“やっぱやめる”もアリだよ」
「その場合、どうなんだ?」
「私とニムだけ行って、キーを取りに行く。田中は現実側の見張り」
「それもそれで、めちゃくちゃ不安なんだが」
「じゃ、一緒に来る?」
そんなふうに聞かれると、もう答えは決まっているようなものだった。
「……行くよ」
田中は言った。
「行きたくはないけど、行く」
「オッケー。それで十分」
ナノはにっと笑い、近くのポッドの蓋を開けた。
「じゃあ乗って。今度はちゃんと起こすから」
「それ、信用していいんだよな」
「少なくとも、私はそのつもり」
田中は、ポッドの中に身体を滑り込ませた。
背中に当たるクッションの感触。頭部を包み込む冷たいフレーム。腕に巻き付けられるセンサー。
知っている感覚が、嫌でも記憶を呼び起こす。
「行ってらっしゃい、現実帰りの田中」
ナノが軽口を叩き、自分も別のポッドに潜り込む気配がした。
ニム用の接続装置の蓋が閉じる音。
深く息を吸い、田中は目を閉じた。
「接続シーケンス開始」
遠くで、ニムの声が響く。
「三端末同時接続。ターゲット仮想環境――九州上位センター管理サンドボックス、エントリポイントへ」
世界が、滑るように遠ざかっていった。
*
最初に感じたのは、無音だった。
風の音も、機械の駆動音も、足音すらも、何もない。
「……ここは……」
田中は、ゆっくりと目を開けた。
白。
視界のほとんどを、白が支配していた。
ただし、真っ平らな空間ではない。
大小さまざまな「箱」が、床から生えたように立ち並んでいる。
真っ白な立方体。
真っ白な直方体。
真っ白な階段状のブロック。
どれもこれも、影だけをまとっているような無機質な形で、テクスチャというものが一切ない。
遠くまで続くその光景は、まるで作りかけの3D空間に放り込まれたかのようだった。
「……何だこれ」
田中は、自分の足元を見下ろした。
白い床。
線も模様もないのに、なぜか「ここが床だ」とわかる。
自分の靴は、安全靴のままだった。
足を少し動かしてみると、ちゃんと“コツ”と音が鳴る。
だが、その音は不自然なくらい澄んでいて、反響もしない。
「ナノ! ニム!」
声を張り上げるが、返事はない。
自分の声だけが、少し遅れて耳に戻ってくる。
視界の隅に、HUDのようなものが浮かぶかと期待してみたが、何も出てこない。
「……おいおい」
田中は周囲を見回した。
どこまで続いているのか、よくわからない白いブロックの列。
一部では、地形の端が“削れて”いるように見えた。そこから先は、白ではなく、薄い灰色のノイズのようなものがゆらゆらと揺れている。
「端っこ、壊れてないか……?」
近づくのは本能的に躊躇われた。
何となく、「あそこを踏むとまずい」と、身体が告げている気がする。
とりあえず、すぐ落ちそうな方向だけは避けて、田中は歩き始めた。
白いブロックと白い床の境目をよく見ていないと、距離感がおかしくなりそうだ。
数歩歩くだけで、軽い酔いのような感覚が頭を揺らす。
「……ナノ! ニム!」
もう一度呼んでみるが、やはり応答はない。
どの方向にも、声をかけられそうな気配はなかった。
白いブロックだけが、無言で立ち並んでいる。
「頼むから、さっきの設定、ちゃんと機能してくれよ……」
ぼやきながら、田中はブロックを避けて進んだ。
しばらく歩くと、少し開けた場所に出た。
ブロックの密度が薄くなり、見通しが良くなる。
そこで、ようやく「それ」を見つけた。
人影。
遠く、ブロックの上に、誰かが座っていた。
白い世界の中で、そこだけが「人間の形」をしている。
長い髪が、ふわりと揺れた。
「……ナノ?」
思わず呼びかける。
だが、その人物は振り向かなかった。
代わりに、僅かに肩を揺らし、小さくつぶやく。
「……人? こんなところに?」
その声色には、はっきりとした驚きが混じっていた。
人物はゆっくりと立ち上がると、こちらに向かって歩き始めた。
白いブロックの上から、別のブロックへ。
その上から、何もない空間を歩くように、軽やかに。
距離が縮まるにつれ、輪郭がはっきりしていく。
女性だった。
年は、ナノより上。
落ち着いた大人の顔立ち。だけど、瞳の奥にある光は、どこか幼さと悪戯心を残している。
髪は、長い。
肩どころか背中の中ほどまで届くストレートで、色は白に近い銀。
白い空間の中でもなお、その白さがひときわ目立つ。
上は、ふんわりとした白いシャツ。
薄く透けるような布地が、歩くたびに柔らかく揺れる。
下は、体のラインがわかる革のパンツ。足元は、実用的なブーツ。
ぜんぶ白に溶けそうなのに、なぜかはっきりと「そこにいる」とわかる格好だった。
「……珍しいね」
女性は、田中の目の前まで来ると足を止め、首をかしげた。
「こんな場所で人に会うなんて、あんまり期待してなかったんだけど」
「……誰だ」
田中は、とっさに距離を測りながら尋ねる。
この世界で、初めて出会った人間――
もしかしたら、それが「人間かどうか」すら怪しいのかもしれない。
「そんなに警戒しなくてもいいでしょ。今んとこ、襲う予定ないし」
彼女は軽く肩をすくめた。
「私はヒナ。名前だけなら、それで十分でしょ?」
「ヒナ……」
口の中で繰り返す。
「お前、ここの“住人”なのか?」
「住人ってほど、ずっといるわけでもないけどね」
ヒナは周囲の白いブロックを見渡した。
「たまに様子を見に来る、って感じ。
今日はちょっと、この辺の“端っこ”が崩れてないかチェックしに来たところ」
「端っこ……」
田中はさっき見た、灰色のノイズの揺らぎを思い出す。
「さっきから、“向こう側が削れてる”みたいな場所がいくつかあったけど」
「そう、それ」
ヒナは、軽く指を鳴らした。
遠くの方で、白いブロックの列がかすかに揺らめいて見える。
「この世界、本当はもうちょっと“それっぽい見た目”してるはずなんだけどね。
端から順番に、飾りが剥がれて、骨組みだけ見えてる状態」
「骨組みって……これ?」
田中は足元の白いブロックを指さした。
「うん。テクスチャも何もない、裸の構造物。人に見せる前の、設計図みたいな環境」
「そんな場所に、なんでお前はいるんだよ」
「さっきも言ったけど、“崩れてないかチェック”しに」
ヒナはさらりと言う。
「こっちの方で穴が開いたら、向こうで誰かが落ちるかもしれないでしょ?」
「……」
言っている内容は、やたらとシステム寄りだ。
中身を知っている人間の言葉、という感じがする。
「逆に聞くけど」
ヒナは少しだけ身を乗り出してきた。
「あなたこそ、どうやってここまで来たの?」
「どうやって、って……」
田中は少し迷ってから、包み隠さず答えることにした。
「現実側のデータセンターから、ポッド経由で。位置情報キーってやつを取りに来た」
「ふうん」
ヒナの瞳が、わずかに興味を帯びる。
「じゃあ、珍しいタイプだね」
「珍しい?」
「たいていはもっと、“ふわっとした理由”で落ちてくるから」
ヒナは、指先で空中をなぞるようなジェスチャーをした。
「気づいたらここだった、とか。どこか別の世界から滑り落ちてきた、とか。
“キーを取りに来たんです”ってはっきり言う人、そんなに多くないよ」
「……それ、褒め言葉か?」
「どうだろ。私は嫌いじゃないけど」
ヒナはくすりと笑った。
その笑顔は、なぜか一七五号を連想させた。
「仲間は? 一人で来たわけじゃないんでしょ」
「本当は、三人同時に接続したはずなんだけどな」
田中は肩をすくめた。
「ナノとニムってやつが一緒にいるはずだったんだが、ここには俺しかいない」
「三人同時接続で、バラバラに落ちたか」
ヒナは、少しだけ思案顔になった。
「この環境、今ちょっと不安定だからね。座標の割り当てが、うまくいかなかったのかも」
「“かも”で済ませないでほしいんだが」
「でも、完全に別の環境には飛んでないと思うよ」
ヒナは、白いブロックの列を指さした。
「この空間の“音”が、そこまでバラバラじゃないから」
「音?」
「比喩」
そう言って、今度は唐突に田中の目の前に一歩詰めてきた。
距離が近い。
顔立ちは穏やかなのに、目がよく通る。
「そんな顔しないの」
「どんな顔だよ」
「“めちゃくちゃ怪しんでます”って顔」
「実際、めちゃくちゃ怪しんでるからな」
「正直でよろしい」
ヒナはくすりと笑った。
「警戒はそのままでいいよ。ここで簡単に誰か信じる方が危ないし」
「じゃあ、別に信じなくていいんだな」
「ううん。“信じなくていいけど、一緒に行動はしてほしい”って立場」
「勝手な……」
「知らない世界で一人より、ちょっと怪しい人付きの二人の方が、まだマシじゃない?」
言われてみれば、その通りだった。
真っ白なブロックの迷路を、手がかりもなく一人で歩き回る――
その選択肢を思い浮かべただけで、田中はうんざりした気持ちになる。
「……どこに行くつもりなんだ、お前は」
「さっき言った通り、端っこの確認と、穴のチェック」
ヒナは、離れた場所にあるブロックの列を指した。
「ついでに、あなたの仲間の痕跡も探す。三人で落ちてきたなら、どこかに座標の歪みが残ってるはずだから」
「座標の歪みって何だよ」
「歩きながら説明する」
そう言って、ヒナはくるりと背中を向けた。
「行くの? 行かないの?」
白いシャツの裾が、ふわりと揺れる。
その下の革のパンツが、ブロックの縁でぴたりと止まる。
田中は、もう一度だけ周囲を見回した。
白いブロックと、白い床と、灰色のノイズ。
そして、自分以外の「人」の気配は、このヒナと呼ばれた女しかいない。
「……行く」
田中は、観念したように言った。
「お前のことは、まだ全然信用してないけど」
「それで十分」
ヒナは満足そうにうなずく。
「信用してない相手と、うまく歩けるかどうか試すのも、結構面白いし」
「お前、そういうことを面白がるタイプなんだな」
「かもしれないね」
二人は、白いブロックの間を並んで歩き出した。
足音は、やはり不自然なくらい澄んでいる。
それでも、二人分のリズムが重なるだけで、ほんの少し世界が“厚く”なったような気がした。
しばらく、取り留めのないやりとりと無言を繰り返しながら進んだあと、ヒナがふいに口を開いた。
「ねえ、田中」
「何だよ」
「現実の人はみんなOMNIを目の敵にしてるでしょ」
唐突な切り出しに、田中は思わず足を止めた。
「……まあ、少なくとも“好き”ってやつは少ないと思うけどな」
「でしょ?」
ヒナは足を止めず、そのまま先のブロックへと飛び移る。
「でもさ」
白いシャツの背中越しに、声だけが届く。
「可能な範囲で幸せを提供してあげてるOMNIは、才能がない人にとっては本当の意味で神様になってると思わない?」
「才能がない、って……」
田中は眉をひそめた。
「ひどい言い方だな」
「ひどくないよ。普通の話」
ヒナは振り返り、指を一本立てる。
「努力しても、人並み以下にしかならない人。頑張り方を教えてくれる人が、誰もそばにいなかった人。
そもそも“頑張るエネルギー”を持てないまま、大人になっちゃった人」
ひとつひとつ、淡々と挙げていく。
「そういう人たちからしたら、“何もしなくていいけど、そこそこ幸せにしてくれる箱”って、救いそのものじゃない?」
「……それは……」
言い返そうとして、言葉がのどの奥で詰まった。
仮想の中で出会った笑顔。
自分よりずっと満足そうな顔で暮らしていた人たちの姿が、ふと脳裏に浮かぶ。
「でも、全部決められて生きるなんて――」
「“全部決められないと怖い”人もいるよ」
ヒナは、田中の言葉をやわらかく遮った。
「選ぶたびに失敗して、選ぶたびに誰かに迷惑かけて、“もう自分で決めたくない”ってなった人。
そういう人にとっては、“あなたはここにいればいいですよ”って言ってくれる存在は、神様とどこが違うの?」
「違うに決まって――」
田中は反射的に言いかけて、口をつぐんだ。
違う、と言うなら、その「違い」をちゃんと説明しなければならない。
自由とか、自分の意思とか、そういう言葉を並べればいいのかもしれない。
けれど、OMNIの中で穏やかに暮らしていた人たちの顔を思い出すと、その言葉はどこか薄っぺらく感じられた。
「田中は、才能がある方?」
ヒナが、ごく自然な調子で尋ねる。
「……さあな」
自嘲ぎみに笑おうとして、うまく笑えない。
自分が「間引き候補」としてラベルを貼られていたことを、田中は知っている。
その事実が、喉の奥に引っかかるように重くなっていく。
「才能のある人は、たぶんOMNIを嫌う。
才能のない人は、たぶんOMNIを好きになる」
ヒナは白いブロックに片足を乗せ、軽く体重をかけた。
「どっちが間違ってる、って話じゃないんだよ。ただ、立ってる場所が違うだけ」
「……だったら……」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「だったら、俺は……」
そこで、言葉が途切れる。
自分がどっち側に立っているのか。
何を嫌っていて、何に甘えていたのか。
口の中まで出かかった言葉は、形にならないまま、白い空間に溶けていった。
私は人が当たり前にできていることができませんでした。それは才能が無いから?それともただの怠慢?そんなことを思いながらOMNIの話を妄想していました。今回の話はそんな考えの核を少し出せた回になってます。




