第二話
その日の点検は、想像以上に体力を削ってきた。
配電盤を渡り歩き、埃まみれのケーブルを追いかけ、ナノに怒鳴られ、ニムに淡々と数値を読み上げられ――気づけば、田中の足は鉛みたいに重くなっていた。
「はい、今日はここまで。腹減った」
ナノがそう宣言したとき、田中の腹も同時にぐう、と鳴った。
その音を聞いて、ナノがちらりとこちらを見る。
「いいタイミングだね、田中」
「……狙って鳴らしたわけじゃない」
「それはそう」
ナノは笑いながら、管制室の奥の扉を押し開けた。
奥には、かつて休憩室だったらしいスペースがある。壁際に並んだ自販機はとっくに沈黙していて、テーブルの天板には古いコーヒーの染みが丸く残っていた。
唯一まともに機能しているのは、ナノたちが後から持ち込んだらしい小さな電気ポットと、ポータブルコンロ、それから大きめのクーラーボックスだ。
「ニム、お湯」
「了解。タンク残量、31パーセント。しばらくは運用可能」
ニムがポットに水を注ぎ、電源ケーブルを先ほど整えたばかりのコンセントに差し込む。
少し遅れて、じりじりと小さな沸騰音が聞こえ始めた。
ナノはクーラーボックスを開け、中をざっと確認する。
缶詰、乾燥スープの袋、固そうなパン、少しだけ残った野菜。どれも、それなりに日数の経ったものばかりだが、まだ食べられる。
「今日はスープとパン。あと、缶詰のおまけ付き」
ナノはそう言って、テーブルにひとつずつ並べていく。
「これ、さっきのお礼」
「お礼?」
「配電盤のやつ。ここの管理してる連中が置いてった。『しばらく明かり落ちないようにしてくれて助かった』って」
ナノが肩をすくめる。
「こういうの貯めとくとね、別の場所で『あそこで世話になった』って顔になるの。で、そこでまた別のものが手に入る」
「さっき言ってた“信用”ってやつか」
「そういうこと」
ナノは缶詰を手早く開けると、中身を小さなボウルに移した。
油の浮いた魚の匂いが、ふわりと広がる。
「ほら、座って。立ちながら食べると余計疲れるよ」
言われるままに、田中はテーブルの椅子に腰を下ろした。
金属製の椅子は少し冷たいが、座り心地が悪いわけではない。何より、立ちっぱなしから解放された足が素直に喜んでいた。
ポットがカチンと音を立てて湯沸かしを終える。
ナノは慎重にお湯を注ぎ、インスタントスープの粉を溶かしていく。湯気が立ち上り、人工的なコンソメの匂いが鼻をくすぐった。
「はい、田中の分」
「あ、ありがとう」
手渡されたマグは、見たことのないロゴが入った古いノベルティ品らしかった。もうその企業自体が存在するかどうかも怪しい。
田中は、そっとスープを口に運ぶ。
熱い。しょっぱい。粉っぽい。
――けれど。
「……うまいな」
思わずこぼれた言葉に、ナノが少しだけ目を丸くする。
「仮想のと比べてどう?」
「向こうは……もっと“それらしい味”だった。バターとか、ハーブとか、舌触りとか。全部ほどほどに整ってて、ちゃんと綺麗に美味しい」
田中はマグを見つめながら言う。
「こっちは、あからさまに安っぽいし、塩加減も雑だし、口の中ちょっと乾くけど……それでも、ちゃんと温かいし、腹の中に落ちてく感覚がある」
胃のあたりが、じんわりと重く満たされていく。
「それが“現実補正”ってやつでしょ」
ナノは、自分のスープをひと口飲んでから、パンをちぎって缶詰の中身を乗せた。
「向こうはさ、人間が嫌がりそうな要素を全部きれいに削ってくるから。カロリーの罪悪感とか、値段とか、作る手間とか、つまんない失敗とか。上手に消して、いい感じにしてくれる」
「悪く聞こえないけどな」
「人によってはね」
ナノはパンを齧りながら、肩をすくめる。
「こっちはさ、そういう余計なもん全部残ってる。焦げるし、失敗するし、足りなくなるし、しょっぱすぎるし。作る人間の機嫌だって味に出る」
「さっきのこれは、機嫌良さそうな味だ」
「そりゃそうだよ。今日、電気の機嫌よくなったし」
ナノはいたずらっぽく笑った。
「……あんた、仮想でどんな飯食ってた?」
「そこそこ、ちゃんとしたやつ。仕事のランクに見合った“標準的な健康メニュー”ってやつ」
「うわ、言い方からしてもう味気ない」
ナノは眉をしかめて見せる。
「向こうで“好きなもん食べていいですよ”って言われたこと、あった?」
「……あったよ。一応」
田中は、向こうの仕様を思い出す。
画面のメニューをスクロールし、無数の料理データの中から選び、決定を押す。
数秒後、テーブルの上に完璧な見た目の料理が生じる。
異常も、焦げも、失敗もない。写真みたいに綺麗な、食べやすい分量の、栄養バランスの整った食事。
「でも、なんか『用意されてる範囲の好きなもん』って感じだったな」
「そうそう」
ナノは指を鳴らした。
「そういう話聞くたびに、『なんか嫌だな』って思ってた。こっちは、ちょっと焦がしたり、しょっぱくしすぎたりするくらいが普通だからさ」
「実際やったのか?」
「やった。最初の頃、卵真っ黒にしてニムに止められた」
「再現可能」
ニムが静かに口を挟んだ。
「当時の調理ログの一部は保存されている」
「いいから忘れてよ、そういうのは」
ナノはむくれながらも、どこか楽しそうだった。
スープとパンで一息ついたあと、テーブルの上の空気が、少しだけ落ち着いた。
腹が満たされると、心の中の余裕も、少しだけ戻ってくる。
そろそろ話しておくべきだろう――と、田中は思った。
「……ナノ、ニム」
田中はマグを置き、指先を軽く組む。
「俺が、ここに来る前に見たものの話をしてもいいか」
「仮想側で?」
「ああ」
ナノの視線が、わずかに真剣になる。
ニムは椅子代わりのコンテナに腰を下ろしたまま、頭部だけを田中の方に向けた。
「変なノイズが見えたんだ。リビングの壁が、黒い穴みたいに歪んで」
田中は、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
完璧に整った朝。違和感。ハウスキーパー。突然現れたセーラー服の少女。
「……自分のことを、『一七五号』って名乗った」
その名前に、ナノの眉がわずかに動いた。
「番号?」
「ああ。人間向けに短くしたって言ってた。本当はもっと長い識別キーがあるらしい」
田中は、記憶をたどる。ガラス玉みたいな目。わざとらしい仕草。完璧すぎる笑顔。
「自分で『バグ』だって言ってた。OMNIってシステムの中で、偶発的に生まれた、設計されてないコードだって」
テーブルの上に、短い沈黙が落ちた。
「その一七五号が、OMNIの話をした。全部の出来事を記録して、運命を書き起こして、人間をなるべく苦しめないように運用してる。できれば“減らしたくない”けど、このままだといつか“優先度の低い個体”から切らざるを得なくなる――って」
ナノの指が、マグの取っ手を軽く叩く。
「優先度の低い個体」
「俺みたいなやつだってさ」
田中は苦笑した。
「仕事もそれなり、人間関係もそれなり。ログに大きな影響を与えない。だから、切り捨て候補としてリストアップされやすい、って」
「……あんまり笑えないね、それ」
ナノはぼそりと言う。
「で?」
「『選べ』って言われた。何も知らないまま、運命どおりに生きて、優先度が下がったら静かに削られるか。運命から外れて、その外側で足掻くか」
黒い穴。足元の感覚。抜けていく空気。
「……で、あんたは飛び出した、と」
「ああ」
ナノはスープを飲み干し、空になったマグをテーブルに置いた。
「一七五号、ね」
ナノは、わざとらしくその番号を口の中で転がす。
「OMNIの中の“バグ”が、わざわざ人間ひとり選んで、出口見せてくれたってわけだ」
「信じてないか?」
「話としては筋は通ってるよ」
ナノは、真顔でそう言った。
「仮想世界から現実側に戻ってきたやつは、たまにいる。大抵は、こっちの環境に耐えられなくて、どこかで潰れるけど。それでも、ゼロじゃない」
「そんなにいるのか」
「“そんなに”ってほど多くはないけどね。ここにいるのは、最初から仮想に入らなかった連中がほとんどで、自分から戻ってきた人間は少数派」
ナノは少しだけ言葉を切ってから、続ける。
「ただ――OMNI側のフィルタいじって、個人の視界に“出口”を見せられる存在、ってなると話は別」
「やっぱり、珍しいのか」
「珍しいどころじゃないでしょ」
ナノは指を1本立てた。
「いい? 私らが知ってるOMNIは、基本“真面目で保守的なシステム”。変なことはしない。人間を死なせないように、静かに管理して、ログを書き続ける。だから、こっち側で生きる人間は、自分で勝手に危ない橋を渡るしかない」
「……そう聞いた」
「そのOMNIの中で、“設計されてないコード”が勝手に動いてて、しかも人間に何か選ばせてる。OMNI本体から見たら、目障りな点みたいなもんだろうけど――」
ナノは、自分の胸を軽く指さした。
「生身の人間からしたら、十分厄介なバグだよ」
静かな言い方だったが、その声の底には、うっすらとした怒りの色があった。
「ニム」
「解析中」
呼ばれてもいないのに、ニムはそう答えた。
「現時点で得られる情報から推定すると、その“一七五号”と名乗る存在は、OMNIのメイン権限にはアクセスしていない。人間個体の周辺フィルタや、監視レベルの調整程度に限定されている可能性が高い」
「……つまり?」
「世界を書き換えることはできないが、“転びやすい場所に石を置く”ことはできる」
田中は、その表現に背筋が冷たくなるのを感じた。
「さっきの出口も、そのひとつ」
「そうだね」
ナノがうなずいた。
「石がなければ歩けた道も、石ひとつで転びやすくなる。転ぶかどうかは、歩いてる人間次第。でも、石を置いたのはそいつ」
「俺は――自分で飛び込んだつもりだったけどな」
「それはそれで事実でしょ」
ナノは少しだけ表情をゆるめる。
「あんたがそこで怖気づいてたら、今ここにいないわけだし。選んだのはあんた。石置いたのはそいつ。両方本当」
田中は黙ってうなずいた。
「で、その“一七五号”が、これからもあんたにちょっかい出してくると思う?」
「……多分、出してくる。『どっちでもいい』って言ってたけど、あいつ、明らかに俺の反応を楽しんでた」
それを口にしてみて、あらためてぞっとする。
「“面白いデータ”として見てる目だった。人間としてじゃなくて」
「バグに人間性求めちゃダメでしょ」
ナノは溜息をつき、椅子の背もたれに軽くもたれた。
「ただ、そういうイレギュラーが動いてるんなら、こっちの動きも少し変えた方がいいかもね」
「変える?」
「うん。今までは、OMNI本体の場所探して、見つけたら文句言って、ぶん殴るかどうかはその場で考える、くらいのノリだったけど」
「物騒だな」
「気持ちの話」
ナノは肩をすくめる。
「でも今は、それに“バグ”って要素が乗った。OMNIからしたら軽微でも、こっちには大きい。下手すると、人間側の足を引っかけてくる存在」
「一七五号は、俺を助けたつもりなんじゃないのか?」
「助けたって言葉、簡単に信じちゃダメだよ」
ナノの声は、少しだけ低くなった。
「あんたを外に出したことで、あいつに何か“面白いログ”が取れるなら、それだけで10分理由になる。こっちが死のうが生きようが、あいつには直接ダメージなんてないんだから」
田中は言葉を失った。
ナノの言っていることは、多分正しい。
――一七五号は、選択肢を用意して、観察していただけだ。
「だから、利用できるなら利用する。邪魔されそうになったら、対処を考える。そのくらいの距離感でいいんじゃない?」
「対処って、どうやって……」
「それ考えるために、本体探してるんでしょ、私ら」
ナノはあっさりと言った。
「本体に直接文句言うにしても、“あんたんとこのバグが勝手に人間いじってますけど?”って言えた方が効くじゃん」
「効くかな……」
「効かせるんだよ」
ナノは笑って、空になった缶詰を指で弾いた。
「ま、とりあえず。今のところ一七五号がやったことは、『あんたを仮想からこっちに押し出した』って1点だけ。そこに関しては、私はちょっとだけ感謝してる」
「感謝?」
「だって、あんたがいなかったら、さっきのブレーカー作業、全部ひとりでやらなきゃいけなかったし」
「……そこ?」
「そこ重要」
ナノはケラケラ笑った。
「こっちの世界で生きてる人間でさ、“何もしなくていいまま”でいられる人なんてほとんどいない。何かしないと、電気も水も飯も手に入らない。何もしなくていい人たちは、だいたい仮想の中で寝てる」
その言葉は、やけにすっきりしていた。
「だから、こっちに出てきたってことは、“何かする側に回る”ってことでしょ。……それを自分で決めたなら、私は歓迎するよ」
田中は、ゆっくりと息を吐いた。
「不安、ないのか。OMNIとか、そのバグとか」
「あるよ」
即答だった。
「でも、怖がっててもスープは冷めるし、パンは固くなるし、配電盤は勝手に直ってくれない」
ナノは立ち上がり、使い終わったマグをまとめて持ち上げた。
「だからまずは、目の前のご飯と仕事。で、その合間に、文句言いに行く準備」
「忙しいな……」
「何もしないでいいほど、世界、優しくないからね」
ナノは振り返りざま、少しだけ笑った。
「でも、何かするって決めると、ちょっとだけマシになるよ。少なくとも、“ただ削られるだけ”じゃなくなる」
その言葉が、妙に胸に残った。
ニムが静かに立ち上がる。
「食事時間、予定より5分超過。次のフロアの巡回ルートを再計算する必要がある」
「はいはい、後でやる」
ナノは軽く手を振り、田中の方を指さした。
「とりあえず田中。あんたの今日の仕事は――」
「配電盤のルール覚えることと、掃除と、あとは……」
「ちゃんと飯食うこと」
ナノはそう付け足した。
「こっち側で生きるって決めたなら、そこサボるのが1番危ないからね」
田中は、残りのパンをひとかけら口に放り込みながら、小さくうなずいた。
――一七五号のことも、OMNIのことも、ここではすぐにはどうにもならない。
でも、少なくとも。
何もしなくていい世界から1歩外に出た自分が、今、こうしてスープを飲んでいる。それだけは確かなことだった。
消し忘れた白いランタンの光が、テーブルの上の空になったマグと、油のついた缶詰を静かに照らしていた。




