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OMNI  作者: 美味しいパフェ屋


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3/19

第二話

 その日の点検は、想像以上に体力を削ってきた。


 配電盤を渡り歩き、埃まみれのケーブルを追いかけ、ナノに怒鳴られ、ニムに淡々と数値を読み上げられ――気づけば、田中の足は鉛みたいに重くなっていた。


「はい、今日はここまで。腹減った」


 ナノがそう宣言したとき、田中の腹も同時にぐう、と鳴った。

 その音を聞いて、ナノがちらりとこちらを見る。


「いいタイミングだね、田中」


「……狙って鳴らしたわけじゃない」


「それはそう」


 ナノは笑いながら、管制室の奥の扉を押し開けた。

 奥には、かつて休憩室だったらしいスペースがある。壁際に並んだ自販機はとっくに沈黙していて、テーブルの天板には古いコーヒーの染みが丸く残っていた。


 唯一まともに機能しているのは、ナノたちが後から持ち込んだらしい小さな電気ポットと、ポータブルコンロ、それから大きめのクーラーボックスだ。


「ニム、お湯」


「了解。タンク残量、31パーセント。しばらくは運用可能」


 ニムがポットに水を注ぎ、電源ケーブルを先ほど整えたばかりのコンセントに差し込む。

 少し遅れて、じりじりと小さな沸騰音が聞こえ始めた。


 ナノはクーラーボックスを開け、中をざっと確認する。

 缶詰、乾燥スープの袋、固そうなパン、少しだけ残った野菜。どれも、それなりに日数の経ったものばかりだが、まだ食べられる。


「今日はスープとパン。あと、缶詰のおまけ付き」


 ナノはそう言って、テーブルにひとつずつ並べていく。


「これ、さっきのお礼」


「お礼?」


「配電盤のやつ。ここの管理してる連中が置いてった。『しばらく明かり落ちないようにしてくれて助かった』って」


 ナノが肩をすくめる。


「こういうの貯めとくとね、別の場所で『あそこで世話になった』って顔になるの。で、そこでまた別のものが手に入る」


「さっき言ってた“信用”ってやつか」


「そういうこと」


 ナノは缶詰を手早く開けると、中身を小さなボウルに移した。

 油の浮いた魚の匂いが、ふわりと広がる。


「ほら、座って。立ちながら食べると余計疲れるよ」


 言われるままに、田中はテーブルの椅子に腰を下ろした。

 金属製の椅子は少し冷たいが、座り心地が悪いわけではない。何より、立ちっぱなしから解放された足が素直に喜んでいた。


 ポットがカチンと音を立てて湯沸かしを終える。

 ナノは慎重にお湯を注ぎ、インスタントスープの粉を溶かしていく。湯気が立ち上り、人工的なコンソメの匂いが鼻をくすぐった。


「はい、田中の分」


「あ、ありがとう」


 手渡されたマグは、見たことのないロゴが入った古いノベルティ品らしかった。もうその企業自体が存在するかどうかも怪しい。


 田中は、そっとスープを口に運ぶ。

 熱い。しょっぱい。粉っぽい。


 ――けれど。


「……うまいな」


 思わずこぼれた言葉に、ナノが少しだけ目を丸くする。


「仮想のと比べてどう?」


「向こうは……もっと“それらしい味”だった。バターとか、ハーブとか、舌触りとか。全部ほどほどに整ってて、ちゃんと綺麗に美味しい」


 田中はマグを見つめながら言う。


「こっちは、あからさまに安っぽいし、塩加減も雑だし、口の中ちょっと乾くけど……それでも、ちゃんと温かいし、腹の中に落ちてく感覚がある」


 胃のあたりが、じんわりと重く満たされていく。


「それが“現実補正”ってやつでしょ」


 ナノは、自分のスープをひと口飲んでから、パンをちぎって缶詰の中身を乗せた。


「向こうはさ、人間が嫌がりそうな要素を全部きれいに削ってくるから。カロリーの罪悪感とか、値段とか、作る手間とか、つまんない失敗とか。上手に消して、いい感じにしてくれる」


「悪く聞こえないけどな」


「人によってはね」


 ナノはパンを齧りながら、肩をすくめる。


「こっちはさ、そういう余計なもん全部残ってる。焦げるし、失敗するし、足りなくなるし、しょっぱすぎるし。作る人間の機嫌だって味に出る」


「さっきのこれは、機嫌良さそうな味だ」


「そりゃそうだよ。今日、電気の機嫌よくなったし」


 ナノはいたずらっぽく笑った。


「……あんた、仮想でどんな飯食ってた?」


「そこそこ、ちゃんとしたやつ。仕事のランクに見合った“標準的な健康メニュー”ってやつ」


「うわ、言い方からしてもう味気ない」


 ナノは眉をしかめて見せる。


「向こうで“好きなもん食べていいですよ”って言われたこと、あった?」


「……あったよ。一応」


田中は、向こうの仕様を思い出す。


 画面のメニューをスクロールし、無数の料理データの中から選び、決定を押す。

 数秒後、テーブルの上に完璧な見た目の料理が生じる。


 異常も、焦げも、失敗もない。写真みたいに綺麗な、食べやすい分量の、栄養バランスの整った食事。


「でも、なんか『用意されてる範囲の好きなもん』って感じだったな」


「そうそう」


 ナノは指を鳴らした。


「そういう話聞くたびに、『なんか嫌だな』って思ってた。こっちは、ちょっと焦がしたり、しょっぱくしすぎたりするくらいが普通だからさ」


「実際やったのか?」


「やった。最初の頃、卵真っ黒にしてニムに止められた」


「再現可能」


 ニムが静かに口を挟んだ。


「当時の調理ログの一部は保存されている」


「いいから忘れてよ、そういうのは」


 ナノはむくれながらも、どこか楽しそうだった。


 スープとパンで一息ついたあと、テーブルの上の空気が、少しだけ落ち着いた。

 腹が満たされると、心の中の余裕も、少しだけ戻ってくる。


 そろそろ話しておくべきだろう――と、田中は思った。


「……ナノ、ニム」


 田中はマグを置き、指先を軽く組む。


「俺が、ここに来る前に見たものの話をしてもいいか」


「仮想側で?」


「ああ」


 ナノの視線が、わずかに真剣になる。

 ニムは椅子代わりのコンテナに腰を下ろしたまま、頭部だけを田中の方に向けた。


「変なノイズが見えたんだ。リビングの壁が、黒い穴みたいに歪んで」


 田中は、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

 完璧に整った朝。違和感。ハウスキーパー。突然現れたセーラー服の少女。


「……自分のことを、『一七五号』って名乗った」


 その名前に、ナノの眉がわずかに動いた。


「番号?」


「ああ。人間向けに短くしたって言ってた。本当はもっと長い識別キーがあるらしい」


 田中は、記憶をたどる。ガラス玉みたいな目。わざとらしい仕草。完璧すぎる笑顔。


「自分で『バグ』だって言ってた。OMNIってシステムの中で、偶発的に生まれた、設計されてないコードだって」


 テーブルの上に、短い沈黙が落ちた。


「その一七五号が、OMNIの話をした。全部の出来事を記録して、運命を書き起こして、人間をなるべく苦しめないように運用してる。できれば“減らしたくない”けど、このままだといつか“優先度の低い個体”から切らざるを得なくなる――って」


 ナノの指が、マグの取っ手を軽く叩く。


「優先度の低い個体」


「俺みたいなやつだってさ」


 田中は苦笑した。


「仕事もそれなり、人間関係もそれなり。ログに大きな影響を与えない。だから、切り捨て候補としてリストアップされやすい、って」


「……あんまり笑えないね、それ」


 ナノはぼそりと言う。


「で?」


「『選べ』って言われた。何も知らないまま、運命どおりに生きて、優先度が下がったら静かに削られるか。運命から外れて、その外側で足掻くか」


 黒い穴。足元の感覚。抜けていく空気。


「……で、あんたは飛び出した、と」


「ああ」


 ナノはスープを飲み干し、空になったマグをテーブルに置いた。


「一七五号、ね」


 ナノは、わざとらしくその番号を口の中で転がす。


「OMNIの中の“バグ”が、わざわざ人間ひとり選んで、出口見せてくれたってわけだ」


「信じてないか?」


「話としては筋は通ってるよ」


 ナノは、真顔でそう言った。


「仮想世界から現実側に戻ってきたやつは、たまにいる。大抵は、こっちの環境に耐えられなくて、どこかで潰れるけど。それでも、ゼロじゃない」


「そんなにいるのか」


「“そんなに”ってほど多くはないけどね。ここにいるのは、最初から仮想に入らなかった連中がほとんどで、自分から戻ってきた人間は少数派」


 ナノは少しだけ言葉を切ってから、続ける。


「ただ――OMNI側のフィルタいじって、個人の視界に“出口”を見せられる存在、ってなると話は別」


「やっぱり、珍しいのか」


「珍しいどころじゃないでしょ」


 ナノは指を1本立てた。


「いい? 私らが知ってるOMNIは、基本“真面目で保守的なシステム”。変なことはしない。人間を死なせないように、静かに管理して、ログを書き続ける。だから、こっち側で生きる人間は、自分で勝手に危ない橋を渡るしかない」


「……そう聞いた」


「そのOMNIの中で、“設計されてないコード”が勝手に動いてて、しかも人間に何か選ばせてる。OMNI本体から見たら、目障りな点みたいなもんだろうけど――」


 ナノは、自分の胸を軽く指さした。


「生身の人間からしたら、十分厄介なバグだよ」


 静かな言い方だったが、その声の底には、うっすらとした怒りの色があった。


「ニム」


「解析中」


 呼ばれてもいないのに、ニムはそう答えた。


「現時点で得られる情報から推定すると、その“一七五号”と名乗る存在は、OMNIのメイン権限にはアクセスしていない。人間個体の周辺フィルタや、監視レベルの調整程度に限定されている可能性が高い」


「……つまり?」


「世界を書き換えることはできないが、“転びやすい場所に石を置く”ことはできる」


 田中は、その表現に背筋が冷たくなるのを感じた。


「さっきの出口も、そのひとつ」


「そうだね」


 ナノがうなずいた。


「石がなければ歩けた道も、石ひとつで転びやすくなる。転ぶかどうかは、歩いてる人間次第。でも、石を置いたのはそいつ」


「俺は――自分で飛び込んだつもりだったけどな」


「それはそれで事実でしょ」


 ナノは少しだけ表情をゆるめる。


「あんたがそこで怖気づいてたら、今ここにいないわけだし。選んだのはあんた。石置いたのはそいつ。両方本当」


 田中は黙ってうなずいた。


「で、その“一七五号”が、これからもあんたにちょっかい出してくると思う?」


「……多分、出してくる。『どっちでもいい』って言ってたけど、あいつ、明らかに俺の反応を楽しんでた」


 それを口にしてみて、あらためてぞっとする。


「“面白いデータ”として見てる目だった。人間としてじゃなくて」


「バグに人間性求めちゃダメでしょ」


 ナノは溜息をつき、椅子の背もたれに軽くもたれた。


「ただ、そういうイレギュラーが動いてるんなら、こっちの動きも少し変えた方がいいかもね」


「変える?」


「うん。今までは、OMNI本体の場所探して、見つけたら文句言って、ぶん殴るかどうかはその場で考える、くらいのノリだったけど」


「物騒だな」


「気持ちの話」


 ナノは肩をすくめる。


「でも今は、それに“バグ”って要素が乗った。OMNIからしたら軽微でも、こっちには大きい。下手すると、人間側の足を引っかけてくる存在」


「一七五号は、俺を助けたつもりなんじゃないのか?」


「助けたって言葉、簡単に信じちゃダメだよ」


 ナノの声は、少しだけ低くなった。


「あんたを外に出したことで、あいつに何か“面白いログ”が取れるなら、それだけで10分理由になる。こっちが死のうが生きようが、あいつには直接ダメージなんてないんだから」


 田中は言葉を失った。

 ナノの言っていることは、多分正しい。


 ――一七五号は、選択肢を用意して、観察していただけだ。


「だから、利用できるなら利用する。邪魔されそうになったら、対処を考える。そのくらいの距離感でいいんじゃない?」


「対処って、どうやって……」


「それ考えるために、本体探してるんでしょ、私ら」


 ナノはあっさりと言った。


「本体に直接文句言うにしても、“あんたんとこのバグが勝手に人間いじってますけど?”って言えた方が効くじゃん」


「効くかな……」


「効かせるんだよ」


 ナノは笑って、空になった缶詰を指で弾いた。


「ま、とりあえず。今のところ一七五号がやったことは、『あんたを仮想からこっちに押し出した』って1点だけ。そこに関しては、私はちょっとだけ感謝してる」


「感謝?」


「だって、あんたがいなかったら、さっきのブレーカー作業、全部ひとりでやらなきゃいけなかったし」


「……そこ?」


「そこ重要」


 ナノはケラケラ笑った。


「こっちの世界で生きてる人間でさ、“何もしなくていいまま”でいられる人なんてほとんどいない。何かしないと、電気も水も飯も手に入らない。何もしなくていい人たちは、だいたい仮想の中で寝てる」


 その言葉は、やけにすっきりしていた。


「だから、こっちに出てきたってことは、“何かする側に回る”ってことでしょ。……それを自分で決めたなら、私は歓迎するよ」


 田中は、ゆっくりと息を吐いた。


「不安、ないのか。OMNIとか、そのバグとか」


「あるよ」


 即答だった。


「でも、怖がっててもスープは冷めるし、パンは固くなるし、配電盤は勝手に直ってくれない」


 ナノは立ち上がり、使い終わったマグをまとめて持ち上げた。


「だからまずは、目の前のご飯と仕事。で、その合間に、文句言いに行く準備」


「忙しいな……」


「何もしないでいいほど、世界、優しくないからね」


 ナノは振り返りざま、少しだけ笑った。


「でも、何かするって決めると、ちょっとだけマシになるよ。少なくとも、“ただ削られるだけ”じゃなくなる」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 ニムが静かに立ち上がる。


「食事時間、予定より5分超過。次のフロアの巡回ルートを再計算する必要がある」


「はいはい、後でやる」


 ナノは軽く手を振り、田中の方を指さした。


「とりあえず田中。あんたの今日の仕事は――」


「配電盤のルール覚えることと、掃除と、あとは……」


「ちゃんと飯食うこと」


 ナノはそう付け足した。


「こっち側で生きるって決めたなら、そこサボるのが1番危ないからね」


 田中は、残りのパンをひとかけら口に放り込みながら、小さくうなずいた。


 ――一七五号のことも、OMNIのことも、ここではすぐにはどうにもならない。


 でも、少なくとも。

 何もしなくていい世界から1歩外に出た自分が、今、こうしてスープを飲んでいる。それだけは確かなことだった。


 消し忘れた白いランタンの光が、テーブルの上の空になったマグと、油のついた缶詰を静かに照らしていた。



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