第一話
「そこ、触んない!」
耳元で怒鳴られて、田中は思わず手を引っ込めた。
指先から、じん、と遅れて痺れるような感覚が広がる。
「……今、ちょっとビリって」
「当たり前でしょ。高圧なら死んでたからね」
脚立の上からナノがじろりとにらみ下ろしてくる。
額には汗。肩までの黒髪は、ところどころケーブルで跳ねていた。
「いい? 赤いマーキングのケーブルには絶対に触らない。触るときは、先にここ」
ナノは、腰のホルダーから検電器を抜き、ケーブルにちょんと当ててみせる。
検電器が音とともに点滅を繰り返す。
「光ったら“生きてる”。光ってなかったら、まあ、多分セーフ」
「“多分”って言うな」
「私はだいたいで分かるから多分でいいの。あんたは絶対でやりなさい。ニム」
「了解」
呼ばれたロボット――ニムが、無言で田中の手元に別の検電器を差し出した。
「学習用。絶縁性能は自機で確認済み」
「……ありがとう」
田中はそれを受け取り、ぎこちない動作でケーブルへ近づける。
検電器の先端が触れた瞬間、喧しい音とともに光が点滅を繰り返す。
「はいアウト」
ナノが即座に言い放つ。
「そこはまだ落としてない。触るなら、まず“こっち”から遮断」
彼女は指先で配電盤の一部を軽く叩いた。
パネルには、細かい文字と数字がずらりと並んでいる。どれも色あせていて、ところどころラベルが剥がれかけている。
「上から二段目、左から三番目。ラベル読んで」
「えーと……“居住区Eブロック・照明ラインB”?」
「それそれ。今回いじるのは、その下の枝。だから、今触ってるところに繋がってる電気は、そいつ落とせば止まる」
「全部覚えられる気がしないんだけど……」
「覚えなくていい。読むだけでいい」
ナノはあっさり言った。
「ほら、仮想の仕事だってそうだったでしょ? 全部暗記してたわけじゃないでしょ。モニター見て、資料読んで、なんとなく“分かったふり”してたでしょ」
「“ふり”って言うな……一応ちゃんと働いてたんだぞ」
「はいはい、立派立派」
口では適当なことを言いながらも、ナノの視線は田中の手元を外さない。
「ブレーカー落とすときは、“これを切る”って頭の中でちゃんと意識してから。惰性でスイッチ触ると、そのうち絶対やらかすから」
田中は、深呼吸をひとつしてから、指定されたブレーカーのスイッチに指をかけた。
バチン、と乾いた破裂音がして、その瞬間、管制室の照明が一斉に落ちた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
真っ暗ではない。天井の隅に取り付けられた非常灯だけが、薄く緑がかった光でぼんやりと辺りを照らしていた。影が濃く、配電盤の輪郭もぎりぎり見える程度だ。
「はい、想定どおり」
ナノは特に慌てた様子もなく言うと、脚立の下に置いてあったランタン型の作業灯を足先で引き寄せた。
スイッチを入れると、白い光がぽっと広がり、足元と配電盤の周りだけがはっきり浮かび上がる。
「こういうときのために、電池式の光を持ち歩くの。天井の明かりは当てにならないから」
「……一気に“現場”って感じだな」
「雰囲気の感想は後。はい、もう一回検電」
言われるままにケーブルに先端を当てる。
今度は光らない。
「……光らない」
「よし。“今のところは”死んでる。念のため、ニム」
「了解」
ニムがアームから古びたテスターを伸ばし、手際よくケーブルの端にプローブを当てていく。
ピッ、と短い電子音が鳴り、腕部のディスプレイに数値が出た。
「対象区間の残留電圧ゼロ。導通は問題なし。作業可能」
「オッケー。じゃあ、そこを切って、新しいラインにつなぎ直す。田中、こっち」
ナノが手招きする。
田中は半歩近づき、渡されたペンチを握りしめた。
握った瞬間、手のひらにずしりと重さが乗る。
表面のゴムはところどころ削れ、金属の地肌がのぞいていた。
「ここの、白いライン。そこだけ、指定の長さで剥いて」
「長さは?」
「これくらい」
ナノは親指と人差し指の幅を示す。およそ二センチほど。
雑だな、と一瞬思ったが、その指先の感覚はきっと正確なのだろう。
田中は、慎重に被膜に刃を当てる。
力を入れすぎれば中の銅線まで傷つけてしまう。弱すぎれば切れない。
少しずつ、ぐい、ぐい、と押し込む。
ランタンの白い光が手元の影をはっきりと落とし、手のひらにじんわり汗がにじんできた。
「止め」
ナノの声が飛ぶ。田中は慌てて動きを止めた。
「それ以上やると、中までいく。……貸して」
ペンチがナノの手に戻る。
彼女は田中の作ったうっすらした傷をなぞって、最後のひとかきで被膜だけをきれいに剥ぎ取った。
「ほら、見て。中の線、一本も切れてない」
「器用だな」
「回数の暴力。あんたもやってれば、そのうちできるようになる」
ナノは、剥き出しになった銅線をねじり、端子に差し込んでいく。
ネジを締める手つきも、やはり迷いがない。
「……なんで、わざわざ俺に仕事教えるんだ?」
気づけば、その言葉が口から出ていた。
「教えなきゃ、あんた足手まといでしょ」
ナノはあっさり言う。
「旅するなら、最低限、自分の周りの設備くらいは面倒見れてくれないと。正直、私ひとりとニムだけでも何とかなるんだけどさ。口減らしどころか、手が増えたって思えるくらいには、働いてもらわないと困る」
「言い方きつくない?」
「事実だからね」
言い方は容赦ないのに、そこに棘はない。
「それに、ここ直しとけば、このフロアの連中、しばらく私らに頭上がらないし。どこ行っても、“あそこの電気直したナノとニムだ”って顔覚えてもらえる」
「……そういうの、大事なんだな」
「めちゃくちゃ大事。飯より信用。信用ないと、飯にもありつけない」
ナノは何でもないことのように言って、最後のネジを締めた。
「よし。機械的な接続は完了。ニム、抵抗」
「測定中……」
ニムが新しくつないだ箇所にプローブを当てる。
腕部ディスプレイに数値が表示され、安定する。
「接続部の抵抗値、許容範囲内。異常なし」
「よし。じゃあ、通電テスト。田中、ブレーカー戻して」
「……俺が?」
「当然。さっき落としたの、あんたでしょ」
ナノはランタンを持ち上げて配電盤側へ寄せ、田中の手元がよく見えるように位置を調整した。
「戻す前にもう一回確認。“今から、このラインに電気を流す”って、自分で意識して」
「……わかった」
田中は、配電盤に歩み寄った。
さっきのスイッチに指をかけ、心の中でゆっくりと言葉をなぞる。
バチン、と音がして、管制室の照明が一斉に点いた。
非常灯とランタンの頼りない明かりに慣れていた目に、天井の白い光が一気に流れ込んでくる。
「ニム」
「測定を継続……電圧、規定値との差、+0.8パーセント。許容範囲内」
「オッケー」
ナノが腕を組んで、満足そうにうなずく。
「ね? ちゃんと手順踏めば、そんなに危なくないでしょ」
「“ちゃんと”が一番難しいんだよな……」
「慣れ。あと、面倒くさがらないこと」
ナノは脚立から降り、大きく伸びをした。
背筋を鳴らす代わりに、両腕をぐるぐる回して固まった肩をほぐす。
「今みたいな確認サボると、そのうち誰かが感電したり、このフロア丸ごと真っ暗になったりする。そうなったら、ここで寝てる人たち、簡単に死ぬからね」
「そこまで行くのか……」
「行くよ。電気ナメるとマジで死ぬ。……だから、めんどくさくても確認。誰も怒りに来ないからって、サボっていいって意味じゃない」
“誰も怒りに来ない”という言葉が、妙に重く響いた。
ナノはネジを締め終えると、工具をまとめてニムに渡した。
「ニム、道具片付け。田中は、その辺りのカス掃除しといて。配線削ったゴミとか、落としたビスとか、あとで踏むと痛いから」
「了解」
ニムが無言でケースを開け、工具を収納していく。
田中は言われた通り、床に散らばった被膜の切れ端や金属のかけらを拾い集め始めた。
しゃがみ込むたびに、さっきロッカーからもらった安全靴の中で指先が少し動く。
目を覚ましたばかりの頃――冷たい金属の床に裸足を下ろした瞬間の、あの嫌な感触を思い出す。ひやりとした冷たさと、硬さと、わずかな痛み。
ナノはロッカーを荒らすみたいに開けて、くたびれた安全靴を放り出してくれた。
『ほら、余ってたやつ。持ち主たぶんもう戻ってこないし、履ける人が履いときな』
その投げやりな言い方の裏に、微妙な優しさがあった。
「なあ、ナノ」
「ん?」
「さっきの靴……ありがとうな」
「ああ、それ? 別にいいって。置いといたって誰も使わないし、湿気吸ってボロボロになるだけだよ」
ナノは、束ねたケーブルを肩に担ぎながら肩をすくめる。
「代わりに、ちゃんと歩いて。逃げないって決めたなら、足元くらい守っとかないと」
その言い方は、どこか一七五号を思い出させる――けれど、まるで逆だとも思った。
あのセーラー服の少女は「観察のため」に選択を迫ってきた。
この電気工事屋の少女は、「一緒に動くため」に道具を渡してくる。
同じ“上から目線”でも、根っこはまったく違う。
「……なあ、ナノ」
「なに」
「あんたは、なんでOMNIの本体なんか探してるんだ」
唐突な問いに、ナノの手が一瞬止まった。
すぐにまた動き出すが、その間に、ほんの少しだけ空気が変わる。
「長くなるから、今は半分だけ」
ナノは、ケーブルをまとめ終えると、足元の工具箱を軽く蹴って位置を直した。
「世界を動かしてるってシステムがあるならさ。そいつに、ちゃんと文句言いに行きたいじゃん」
「文句……?」
「“何もしなくていい人生”って、本当にそれでいいのか、ってさ」
ナノの笑い方は、どこか寂しげだった。
「残り半分は?」
「それは――あんたが、もう少し仕事覚えてから」
そう言って、ナノは踵を返した。
「さ、今日はここまで。次は別フロアの点検行くから、少し休憩ね。田中、歩ける?」
「……まあ、靴もあるしな」
「いいね、それ」
ナノの背中を追いながら、田中はゆっくりと歩き出した。
一歩進むたび、安全靴の底が金属の床を叩く感触が足裏に伝わってくる。
それは、仮想世界では決して味わえなかった「重さ」だった。
――仕事を覚えるということは、多分、この重さと折り合いをつけることなんだろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、田中は、初めて自分の意思で選んだ“新しい一日”を、ゆっくりと歩いていった。




