余談閑話一
硫黄の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
それでも朝は来る。体は重いが、昨日よりは動く。
ナノは荷物をまとめながら言った。
「今日は移動だけ」
「まずは目的地周辺まで一気に移動する」
ニムが淡々と返す。
「本日の優先タスク:移動。危険行動の回避を推奨」
田中は車のドアを開け、冷たい空気を吸った。
温泉でほどけた筋肉が、また少しずつ固まっていく。けれど、昨日の嫌な臭いは薄まっていく。
それだけで十分だった。
エンジンがかかり、道路の継ぎ目がリズムになる。
山を抜け、街を抜け、海沿いへ出る。
車内は、妙に静かだった。
静かすぎて、逆に落ち着かない。田中は口を開く。
「……ナツキとの合流地点は?」
「あとで連絡するって」
ナノは前を見たまま言う。
「多分、夕方くらい」
「ナツキは連絡の延滞が得意」
ニムが短く添えた。
田中は小さく笑いそうになってやめる。
こういう時に笑う癖は、まだ馴染んでいない。
しばらく走って、ナノがふいに言った。
「田中、さっきから窓見てる」
「見てるだけだよ」
田中は返す。
「現実の景色って、情報が多いなって思って」
「情報量、好きじゃん?」
ナノは少し砕けた声で言った。
その言い方が、昨日より少しだけ柔らかい。
「好きっていうか……慣れてない」
田中はハンドルを握り直す。
「全部“本物”だから。処理が追いつかない」
「へえ」
ナノは短く笑った。
「じゃあ、今日は慣れる日」
ニムが淡々と結論を補足する。
「移動日は環境学習に適する」
「お前はいつもそれっぽいこと言うな」
田中が言うと、
「報告は常にそれっぽい」
ニムは平然と返した。
車内に、短い笑いが落ちる。
ナノが、ほんの一瞬だけ肩を揺らした。らしくない。
田中はその揺れを見て、少しだけ気が軽くなった。
そして、気軽になった勢いで聞く。
「そういえばさ。ナノって趣味とかあるのか」
ナノが一拍、黙る。
考えたというより、“そんな質問されると思ってなかった”間だ。
「趣味……」
ナノは窓の外を見た。
「孤児院では、アニメ見るのが好きだった」
田中は思わず声を漏らした。
「……アニメ?」
「なに」
ナノが横目で見る。
「意外?」
「意外っていうか……」
田中は言葉を探す。
「ナノはいつも工具とかケーブルとか、仕事しか頭にない感じだったから」
「失礼」
ナノは即答した。
でも、口調は硬くない。
「嫌な時さ」
ナノが続ける。
「画面の中は、ちゃんと話が進む」
「原因があって、解決があって、終わる」
「現実みたいに、放置されない」
田中は、返す言葉を一度飲み込んだ。
“孤児院”という単語が、車内で少しだけ重い。
「……どんなのが好きだった?」
「昔のやつ」
ナノはあっさり言う。
「大昔に流行ったやつ。ロボが出る」
「ロボ?」
ナノは、そこで珍しく言いにくそうに口をすぼめた。
そして、ぽつりと言った。
「お願い」
「どうしても行きたいとこがある」
田中は思わず、横を向いた。
「……行きたいとこ?」
「山口県の下の方」
ナノは指で地図をなぞるように、空中を軽く叩いた。
「池の近く。でっかい槍が刺さってる」
田中は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……槍が刺さってる?」
「刺さってる」
ナノは真顔で繰り返す。
「モニュメント」
ニムが淡々と補足する。
「目的地候補:山口県南部。ランドマーク:大型槍形状構造物。観光モニュメントの可能性」
「ニム、もう分かってるのかよ」
田中が言うと、
「検索結果は未参照。推定」
ニムは平然と返した。
田中は息を吐いて、笑いを諦めた。
「……それ、なんの槍なんだ?」
ナノは少しだけ口角を上げた。
子どもっぽい笑い方じゃない。けれど、隠しきれない“好き”が出ている。
「昔のアニメのやつ」
「なんか、超すごい槍」
「超すごい以外説明できないんだけどね」
「意味わかんなそうなアニメだな」
田中が言うと、
「分かんないから良いの」
ナノは即答した。
「嫌な時、あれ見てた」
「分かんないことで頭の中がいっぱいになるのが良かった」
「極端だな」
「極端な方が効く」
ナノは砕けて言う。
「田中も、やってみたら?」
「今の生活がある意味それだな」
目的地までの道は、思ったより遠回りだった。
それでも田中は何も言わなかった。
ナノが“お願い”と言った時の声が、やけに珍しかったからだ。
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山口県の南側。風の音が水面から伝わってくる。
池の縁に、唐突にそれは立っていた。
大きな二股の槍。
空に向かって、まっすぐ。
地面に“刺さっている”という表現が、冗談じゃなく正しい。
「……ほんとに刺さってるな」
田中が呟く。
「でしょ」
ナノの声が、少しだけ弾んだ。
車を降りたナノは、早足だった。
いつもなら段取りを確認してから動くのに、今日は違う。
ニムは少し離れて周囲を見張り、田中はその後ろを歩いた。
槍の根元には、プレートが埋め込まれている。
説明文があるが、色褪せて読みにくい。
ナノは読めない部分を気にする様子もなく、槍を見上げた。
その目が、わずかに光っている。
「これ」
ナノが言う。
「見たまんまだ」
田中は横顔を見た。
普段は冷静で、作業の判断が早くて、言葉も切れる。
なのに今は、ただの“見学者”だった。
ナノは何十分も、何も言わずに槍を見ていた。
風が髪を揺らしても、視線が動かない。
その静かさが、子どもの集中に見えた。
ふいにナノが言う。
「孤児院でさ」
いつもより少しだけ、言葉が長い。
「嫌な日、あった」
「夜とか。眠れない日とか」
田中は、黙って聞いた。
「そういう時、あれ見た」
ナノは槍を指さした。
「画面の中なら、世界が終わりそうでも、ちゃんと次がある」
「……だから、私も次があるって思えた」
田中は喉の奥で息を止めて、ゆっくり吐いた。
「……そっか」
「田中は?」
ナノがこちらを見る。
「田中も、なんかある? 落ち着くやつ」
田中は一瞬、言葉を迷った。
“仮想で育った”というのは、落ち着く場所そのものが違う。
「俺は……」
田中は正直に言った。
「落ち着く場所が、最初から仮想だった」
「だから今、こういうのが落ち着くって言えるの、ちょっと羨ましい」
ナノは少しだけ眉を上げた。
それから、いつもの調子に戻すように言う。
「じゃあ、これからそういう場所見つけてこ」
「一旦、田中も見ときな。意味わかんないやつ」
「その言い方で見るわけないだろ」
田中が言うと、ナノは小さく笑った。
その笑いは、子どもっぽくはない。
でも“好きなものの前でだけ出る顔”だった。
田中は思った。
ナノは大人びて見える。
けれど、こうして目を輝かせる瞬間がある。ちゃんと、年相応の部分が残っている。
少しだけ、安心した。
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車に戻る前、ナノはもう一度だけ槍を見上げた。
それから、ぽつりと言う。
「先に進もう」
田中は頷いた。
「1週間後の現場な」
「うん」
ナノは短く言って、歩き出す。
足取りは、さっきより少し軽い。
ニムが淡々と合流する。
「移動を再開。次目的地:合流地点」
車が再び走り出す。
窓の外で、刺さった槍が遠ざかっていく。
田中はバックミラーを見た。
小さくなるモニュメントの影を見ながら、胸の中に残るものを確かめる。
ナノの“好き”の輪郭。
道はまだ長い。
でも今日だけは、少しだけ進みやすかった。




