第十五話
倉庫を出て潮の匂いが戻ったとき、ようやく現実が肺に入ってきた。
膜の中にいた時間は短いはずなのに、身体の奥だけが遅れている。腕が重い。まぶたも重い。
ナノは歩きながら、胸元の端末を確かめた。
上位キー。確かに手の中にある。
目的だったものを掴んだはずなのに、握った指が冷たい。
「九州は一旦終わり」
ナノが言う。声はいつも通り短い。
「次。出る」
ニムが淡々と頷いた。
「次段階へ移行。九州域の上位キー、確保を確認」
田中は頷きながらも、倉庫の床で言葉を失っていた川上の顔が頭から離れなかった。
あの「ん?」という間抜けな声。あの空っぽの目。
その川上の腕を、ナツキが軽々と引いていた。
背が高くて動きが大きい。疲れているはずなのに、足取りが明るい。
「よしよし、歩ける歩ける。ほら、深呼吸!」
ナツキは川上の背中を、ぽん、と叩いた。
「いやぁ……今日、派手だったね。港の倉庫で“閉じ込め”とか、そんなの聞いてないって」
川上は周囲を見回して、困ったように笑った。
「……私、何をしてたんだっけ。君らは……誰だ?」
「自己紹介する?」
ナツキは屈託なく笑う。
「私はナツキ。運び屋。で、あっちは電気屋、ロボ、あと田中」
「勝手にまとめるな」
田中が言うと、ナツキは肩を揺らして笑った。
「はいはい。細かいのはあと!」
ナツキはテンポよく続ける。
「で、この“研究者さん”ね」
ナツキは川上の肩をつかんで、くいっと向きを変える。
「一旦、私が連れてく。放っとくと拾われる系の匂いしかしないし」
ナノが視線を上げた。
「どこに?」
「中国地方!」
ナツキは指を立てる。
「私のルートがそっち。ついでに仕事もある。ちょうどいい」
「仕事?」
田中が聞き返すより先に、ナツキは弾む声で言った。
「さっき言ったでしょ?でかい工事!人手足りないやつね」
「場所は中国地方。準備がいるから、1週間後ね」
「それまで各自整えて。ボロボロで来たら、まず笑う。で、ちゃんと怒る」
「順番が怖いな」
田中が言うと、
「怖がれ怖がれ」
ナツキはにやっとして、軽く指を振った。
「ちゃんと来れば、ちゃんと褒める。私はそういうタイプ」
川上はふらつきながらも、ナツキに支えられて歩いている。
ナツキは大げさにバランスを取って見せた。
「ほらほら、転ぶな転ぶな。今日はもう十分転がったでしょ」
「……君ら、私のこと助けてるのか……運んでるのか……」
川上がぼんやり言う。
「運んでる!」
ナツキは即答した。
「人間はデータより重い。筋トレだよ、筋トレ!」
田中は、笑っていいのか迷って、結局小さく息を吐いた。
「じゃ、先に行くね!」
ナツキは振り返り、手を大きく振る。
「合流地点はあとで送る。ニム、見失うなよー!」
「了解。通信確立後に追従」
ナツキと川上の背中が、港の灯りに溶けていった。
残ったのは、ナノとニムと田中。潮風だけがやけに冷たい。
ナノは短く息を吐いて言う。
「……行く。中国地方」
「仕事、受ける」
田中は頷いた。頷くしかなかった。
上位キーは手に入れた。けれど、答えは抜かれた。
これ以上止まる理由も、戻る理由もない。
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少し移動したところで、ナノが言った。
「温泉入ろうか」
田中は思わず聞き返した。
「……温泉?」
「入る」
ナノは短く言い切る。
「休まないと、判断鈍る」
ニムが淡々と補足する。
「身体機能の回復は合理的。休息が推奨」
田中は頷いた。だが、疑問が残る。
「この状況で、やってる温泉なんてあるのか?」
ナノは迷いなく答える。
「この先にある。前にポンプの修理したの。
温泉を維持してる場所は希少だからね」
山道の先、小さな温泉宿が見えてきた。
灯りが暗い道を照らし、湯けむりが薄く漂っている。
看板は古い。だが、湯の匂いは生きていた。
玄関先に出てきた主人が、顔を上げて目を丸くする。
「あ……この前の——」
ナノは会釈して、返事を短く済ませた。
「こんばんは。まだ大丈夫?」
「もちろんです、どうぞどうぞ! 本当に助かりまして……」
主人は何度も頭を下げた。
「今日はお客も少なくて。気兼ねなく——」
田中は、宿の奥から聞こえる水音を聞いた。
湯が回っている。
それだけで、体の力が抜けそうになる。
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「ニムは?」
田中が言うと、ニムが即答した。
「私は外部待機。防犯および荷物監視を実施」
ナノが当然のように言う。
「ロボ、お風呂無理」
「湿度耐性はあるが、入浴機能は非搭載」
田中は小さく息を吐いた。
こういうやりとりが、今夜だけは救いみたいに感じる。
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男湯の湯船に沈んだ瞬間、田中はやっと息を吐けた。
熱が皮膚を撫でる。筋肉がほどけていく。
“戻った”という感覚が、遅れて押し寄せる。
壁の向こうから水音がした。女湯だ。
しばらくして、短い声が聞こえた。
「……あつ」
ナノの声だ。
同じ湯に浸かっていると分かるだけで、妙に現実味が増した。
田中は目を閉じたまま、何も言わずにいた。
壁越しに話すのは気まずい。
けれど、ナノの方が先に気づいた。
「田中?」
呼びかけは短い。ためらいがない。
「……いる」
田中は答えた。
「さっきから黙ってる」
ナノは平坦に言う。
「すけべ」
「バカな事言うな!」
田中が返すと、壁の向こうで小さく水が跳ねた。笑ったのだろう。
「今回のこと」
ナノが先に切り出す。
「仮想の動き。田中、慣れてた」
田中は湯の表面を見た。
波紋が、暗い天井の影を揺らす。
「慣れてたっていうか……体が勝手に」
「嫌な感じだった」
「嫌?」
ナノの声が少しだけ尖る。
「仮想の中に戻るみたいで」
田中は言葉を選んだ。
「想像上の動きが簡単に再現できるあの世界。
自分の身の丈を勘違いしそうになった」
しばらく沈黙があった。
壁越しの湯の音だけがする。
「……仮想で、誰かに会ったって言ってた」
ナノが言った。
「白い髪の、女の人」
田中の背中が、少しだけ固くなった。
「ああ……会った」
「白髪で、長い髪で……落ち着いてた。
変に現実味があった」
湯の熱のはずなのに、指先が冷える。
田中は目を閉じたまま、ヒナの事を思い出した。
――あなたはこの先どちら側に立つんだろうね?――
田中は、あの会話の“終わり際”を探った。
確か、会話は途切れた。自分の中の言葉が形にならなかったところで、空間の空気が変わって――
復号処理の騒ぎに飲まれた。
そして、気づいたら、彼女はいなかった。
田中は湯の中で息を吐いた。
壁越しに、ナノが小さく水を揺らす気配がした。
「分かった」
ナノの声は短い。
「その人のこと、もう少し覚えてる? 言い方とか、癖とか」
「距離が近いのに、押しつけない」
田中は言った。
「……それが逆に、怖いくらい落ち着いてた」
「……そう」
ナノはそれだけ言って、間を置いた。
「誰なんだろうね」
田中は、そこで話が切られたことを感じた。
「ナノの過去」
田中は静かに言う。
「話せるなら、聞く」
壁の向こうで、ナノが少しだけ長く息を吐いた。
「私、孤児院で育ったの」
「お父さんとは一緒に暮らした記憶はあるけど、お母さんの事何も知らない」
「けどね、お母さんが残してたノートにOMNIって文字があって……」
「会いたいの。一目でいいから」
田中は湯船の縁を握った。指先がふやける。
「そうか……」
「田中は何かやりたい事ある?」
切り替えるようにナノは田中に聞く。
「俺は……」
田中は息を吐いた。
「俺は、答えが欲しい」
「最初のところが、抜けてるんだ。俺の“最初”」
「考えてみたら、俺は気づいた時には仮想で暮らしていた」
「誰が俺をそこに入れたのか。
……そもそも、俺はどこで生まれたのか」
ナノが、少し間を置いて言う。
「じゃあ、探す」
「私の“最初”も」
「田中の“最初”も」
「……本サーバまで」
「……ああ」
「でも今日は、休む」
ナノはすぐに続けた。
「疲れた。あんたも今日は頑張ってたからね」
「同意する」
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湯から上がると、空気が冷たかった。
体の芯は温かいのに、外側だけが薄い。
田中はタオルで髪を拭きながら、玄関の方へ向かった。
外では、ニムが荷物のそばで直立していた。
湯けむりが漂う中でも、姿勢が崩れない。
「異常なし」
ニムが報告する。
「おつかれさま」
ナノが短く言う。
「労いを受領」
宿の片隅、簡易な休憩所に毛布を借りて、3人で横になった。
ナノは端末を抱えたまま、最後まで離さなかった。
田中は天井を見上げる。
明かりは暗い。硫黄の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
1週間後。中国地方。ナツキの現場。
その先に、本サーバへ繋がる道があるのかもしれない。
眠りに落ちる直前、田中は思った。
道は、少しずつ増えていく。
正しいか分からなくても、進むしかない。
隣で、ナノの呼吸が静かになった。
ニムはスリープモードに入り、動作を停止している。
蒸気が夜空に溶けるのを、田中は眺めていた。




