第十四話
川上が床に崩れた。膝と手のひらがコンクリに当たって、鈍い音がした。
勝った――と判断するには十分だったが、空気はまだ軽くならない。
倉庫の壁面を走る白い線が、細い脈みたいに明滅している。
外の波音は遠い。ここだけが薄い膜で区切られている。
ナノは呼吸を整えるより先に、落ちたケースへ向かった。
痛みを押し殺すというより、痛みを作業の外へ追いやる歩き方だ。
「ニム。拘束」
「了解。対象を拘束」
ニムが一歩で詰め、川上の肩と手首を押さえる。金属同士が擦れる音がした。
川上は抵抗しかけて、すぐ諦めたように笑った。
「はは。君ら、勝った直後に迷いがない。面白い」
「黙って」
ナノは言い捨て、ケースの留め具に指をかける。
歪んだ金具が渋く鳴り、蓋が開いた。
中は拍子抜けするほど地味だった。配線の束、小型端末、押し込み式のコネクタ。
そして、目立つ位置に小さなスイッチ。
ナノはスイッチに触れないまま、端末を引き抜き、ケーブルを順に外していく。
抜く順番に躊躇がない。現場の手順が、そのまま指先に乗っている。
「……上位キー」
短い確認。声に余計な温度がない。
田中は喉が鳴った。
“鍵”という単語の軽さに反して、これは触れるだけで何かが変わる塊だ、と身体が理解している。
ナツキが周囲を睨みながら言った。
「まだ、気持ち悪いね。外の音、戻ってこない」
ニムが淡々と続ける。
「境界内の応答、残存。フィールド維持信号、継続を確認」
つまり、閉じ込めは生きている。
ナノは端末を胸元に抱えるように確保すると、ようやく川上へ視線を向けた。
「聞く。なんで、仮想化できた」
川上は床に押さえられたまま、首だけ動かし、君らを順に見た。観察して楽しむ目だ。
「ふむ。電気屋は、答えが欲しいわけだね」
落ち着いた声のまま、口角だけが上がる。
「君らは“位置を知らせる欠片”だと思っていたんだろう? だが鍵というものは、地図じゃない。権限だ」
ナツキが低く唸る。
「講義はいい。要点」
「おや。運び屋は性急だ」
川上は愉快そうに言い切った。
「要点なら簡単だ。欠片でも、OMNIに触れる要素だ。境界に触れ、ルールに触れ、権限を振る――そのための手だよ」
田中が思わず口を挟む。
「でも、あれはただの“位置検索キー”だって……」
「君はまだ、言葉を信じすぎる」
川上は田中を見上げ、目を細めた。
「位置だけを知らせるなら、こんな手間は要らない。端末も配線も、スイッチも。君らが今いるこの閉鎖空間が証拠だろう?」
ナノの眉がわずかに動く。
「……上位キーなら、もっとできる?」
「なるほど。理解が早い」
川上は満足げに頷いた。
「上位なら、境界の形も、ルールの粒度も変えられるだろう。私は何年もそれを追ってきた。OMNIが何か――その答えも、だ」
言葉が途切れた。
空気が、もう1段薄くなる。
壁の白い線が一斉に濃くなり、脈が強くなる。
田中の耳が詰まったみたいに感じた。外界がまた遠のく。
そして、そこに少女がいた。
紺の襟元が暗い空気に沈み、黒い髪が肩先で揺れる。
表情は楽しそうなのに、目は温度がない。淡々と現状を記録している感じがする。
「へえ。物知りだね」
一七五号が楽しそうに言った。
「頑張ったんだね。研究者さん」
ナツキが息を呑む。
「……なに、それ」
田中は声が出なかった。
白い膜の圧が、皮膚の内側に残っている。その種類の気配が、今は目の前に立っている。
ナノは一歩も引かずに言った。
「出るな。邪魔」
「邪魔?」
一七五号は小さく首を傾げて、すぐ笑う。
「じゃあ、ちょっとだけ。ちょっかい。小さいやつ」
川上が一七五号を見て、眉を動かした。
「……ふむ。君が、噂の“設計外”か」
「そ。バグ」
一七五号は開き直ったみたいに言う。
「便利でしょ。なんでもバグって言えば、だいたい許される。たぶん」
川上は一瞬だけ笑いを消し、言葉を鋭くした。
「なら、その“答え”も聞いているはずだ。OMNIは――」
「それ、濃い」
一七五号が被せた。軽い声のまま、切る。
「濃いデータ、好き。でも、今ここで出すのは早い」
ナノが低く言う。
「……触るな」
「触らないよ。壊さない」
一七五号は肩をすくめた。
「大きいこと、できないし。私はちっちゃいのだけ」
言いながら、一七五号は指先を立てる。
ぱち、と小さな音。
音は軽い。
でも、空間の芯が擦れたみたいな感覚が走った。
川上が瞬きをして、言葉を探す顔になる。
さっきまで滑っていた講義の流れが、そこで途切れた。
「……ん?」
川上は眉を寄せた。
「私は……今、何を言おうと……」
ニムが淡々と告げる。
「対象の発話直前の想起が断絶。短期および長期記憶スタックの欠損を推定」
ナノの目が細くなる。怒りが短く爆ぜる前の、薄い震え。
「……消したの?」
「消してないよ」
一七五号は楽しそうに言う。
「ちょっとずらしただけ。道を」
「ほら、言いかけのところ。そこだけ、すって抜いた。軽いでしょ」
ナツキが噛みつく。
「軽いわけあるか!」
「へえ、元気」
一七五号は怯まない。からかう声だ。
「そういう反応、データ濃い。好き」
田中が喉を鳴らす。
「なんで、そんなこと……」
「だって、研究者さんが答え言ったら、あなたたちの選択が決まっちゃう」
一七五号は指を折るみたいに淡々と数える。
「決まると、面白くない」
「それに、濃い答えって、持つ人を変える。急に。ぐにゃって」
「見たいけど、今は早い。壊れるの、つまんないし」
ナノが睨む。
「観測ごっこに巻き込むな」
「観測ごっこじゃないよ。観測」
一七五号は軽く言い切る。
「私は観る。あなたは進む。ね、役割分担」
ナノの視線が、ケースのスイッチへ落ちる。
一七五号は、それを見て笑う。
「帰る? 押せばいいじゃん」
「簡単だよ。スイッチ。カチって」
「ほら。押して。私、ここに長居できないし」
ナノの顔が決まる。結論が早い。
「……ニム、準備」
「了解。境界消失に備え、周辺監視を強化」
「ナツキ、田中。離れて」
「お、おう」
田中は反射で頷いた。
ナノの指がスイッチを押し込む。
カチリ。
耳の詰まりがほどけ、遠かった波音が一気に近づいた。
潮の匂いと油の匂いが戻る。現実の空気が肺に入ってくる。
壁の白い線が、さっと消えた。
膜がほどける。
一七五号の輪郭が白く揺らぐ。消え際まで、口元は軽い。
「うわ、はや」
からかう声が落ちる。
「ナノはほんと結論だけ欲しいタイプだね」
ナノが睨む。
「次に出てきたら、押すだけじゃ済まさない」
「へえ。言うじゃん」
一七五号は嬉しそうに笑う。
「でも、また会うでしょ。データ、まだ取れてないし」
最後に、細い針みたいに刺す。
「あなたたち、これから濃くなるから」
砂みたいにほどけて、一七五号は消えた。
倉庫には、拘束された川上だけが残る。
川上は眉を寄せたまま、首をひねる。
「……私は、何を説明していた?」
視線がナノの抱える端末に止まる。
「鍵……? 上位……? ふむ。……いや、思い出せないな」
ナツキが背筋をさすって言った。
「最悪。大事なところ抜かれた」
ナノは上位キーの端末を抱え直し、短く言う。
「出る。ここに長居しない」
ニムが頷く。
「退避経路、再評価。外部通信、回復を確認」
田中はケースを見た。
鍵は取り返した。けれど、肝心の答えは“言いかけ”のまま抜かれた。
そして、一七五号は確かに――“触れる範囲”を広げている。
この先へ進むほど、開くのは道だけじゃない。
田中はそう思って、言葉にしないまま歩き出した。




