第十二話
ナツキの車は、港の方へ迷いなく滑っていった。
夜の道は暗い。街灯の間が長く、海の匂いだけが近づいてくる。
フロントガラスの向こうで、ナツキのポニーテールが小さく跳ねる。つなぎ姿のままハンドルを回すた
び。体の動きがいちいち大きい。
「道中は任せて。港は迷うと面倒だから」
軽い声だった。
助手席のナノは、膝の上で工具袋の口を整え直している。
後部座席で、田中は窓の外へ目をやった。暗い建物の影が、次々に流れていく。
ふと、さっきの声が頭の中で再生された。
――……足引っ張るなよ。
田中は喉の奥で息を飲んだ。
自分は今、どんな顔をしているのか。確認する術がないのが嫌だった。
少し迷ってから、田中は前の席へ声を投げた。
「……ナノ」
「なに」
返事はすぐ来た。淡々としている。けれど拒んでいない。
「俺さ。足、引っ張ってないか」
ナツキが、運転しながら笑いそうになって、こらえた気配がした。
でも口は挟まない。
ナノは一拍だけ黙った。
車のタイヤがアスファルトの継ぎ目を越え、小さく揺れる。
「悪意がないならいい」
ナノはそれだけ言った。
田中が言葉を探していると、ナノは続けた。視線は前のまま、声だけがまっすぐ落ちる。
「わざと引っ張るやつは嫌い。そうじゃないなら、私が踏ん張ればいいだけ。あんたが引っ張るから、気付くこともあるし」
たったそれだけの言い方なのに、田中の胸の奥が熱くなった。
甘い言葉じゃない。励ましでもない。
ただの事実として、ナノが“自分の責任範囲”に田中を置いた。
田中は小さく頷いた。たぶん誰にも見えない。
「……そうか」
ナツキが鼻歌みたいに言った。
「いいねぇ。現場監督、背負うタイプ」
「うるさい」
ナノが短く返す。
「はいはい」
ナツキは軽く笑って、ウインカーを出した。
道がさらに暗くなる。倉庫が増える。海の気配がすぐそこまで来た。
やがて、車は人気のない一角で止まった。
「ここから歩き。目立つと面倒」
ナツキがエンジンを切る。
沈黙が落ちる。遠くで波の音がする。どこかの鎖が風で擦れて、金属が鳴った。
4人――ナツキが先に降り、ナノが続き、ニムが無音で外へ出る。田中は最後に足を地面へ置いた。
冷たい空気が肺に入る。匂いは油と潮。
倉庫街は、影の塊みたいだった。
並ぶ建物はどれも黒く、窓は死んでいる。外灯は少なく、光の届かない場所が多い。
その分、外から中の様子は分かりにくい。
「昔の冷凍庫。あれ」
ナツキが顎で示した。
角ばった建物。壁は厚そうで、扉だけが無駄に頑丈だ。
ナノが小声で言う。
「ニム、周囲」
「了解。音源、熱源、電磁変化を探索」
ニムの視線が暗闇をなぞる。
ナツキは、扉に近づく前に立ち止まり、ポケットを探った。出てきたのは小さなライトではなく、ガムだった。くわえようとして、やめる。
ナノが扉へ近づく。
鍵穴を見て、指先で金具を撫でた。
「新しい傷」
ナツキが頷く。
「入ったね」
ナノは道具を出さなかった。
ただ扉の縁を掴み、体重をかけて押す。重い金属が、鈍い音でずれた。
冷たい空気が、内側から吹き出す。
その中に、別の匂いが混じっていた。新しい樹脂の匂い。熱の匂い。
ナノが一歩、踏み込む。
次の瞬間。
「――止まって」
ニムの声が低く響いた。
同時に、暗闇の奥で懐中灯が点いた。
白い光が床をなぞり、ナツキの足元で止まる。
「……おや。来たのか」
声は男だった。
妙に落ち着いていて、嬉しそうでもある。
光の向こうに、細身の影が立っている。
片手には硬いケース。もう片方の手は、何かのスイッチの上に置かれている。
田中は喉が鳴るのを抑えた。
この空気を作っているのが、相手の余裕だと分かる。
「川上」
ナツキが短く言った。
「はは。名乗る手間が省けた」
川上は、懐中灯を少し上げた。
顔が見えた。細い。目が笑っていない。けれど口元だけが笑っている。
「君が運び屋か。噂どおりだ。……それで、そっちが電気屋の子か。ふむ」
視線がナノに刺さる。
ナノは返さない。足の位置だけを半歩変える。
「返して」
ナノが言った。短く。
「何を?」
「キー」
川上は肩をすくめた。
「持っていない、と言ったら?」
ナノは動いた。
モンキーじゃない。
足だ。
床を蹴る音がひとつ。
ナノは光の外側へ滑り、川上の死角へ回った。
川上が遅れて体を向けたときには、もう遅い。
ナノの一撃が、腕を叩いた。ケースが床へ落ちる。硬い音。
ニムが前へ出る。
「対象の制圧を実行」
川上の足が絡め取られ、床へ落ちた。
呆気ない。驚くほどあっけない。
田中は思わず息を吐いた。
「……終わった?」
ナツキが、落ちたケースへ近づこうとして――止まる。
川上が笑ったからだ。
床に倒れたまま、川上は肩を揺らして笑っていた。痛みをごまかす笑いじゃない。最初から、こうなるのを待っていたみたいな笑いだ。
「……呆気ない, だろ?」
ナノは答えない。ケースと川上の指先を見ている。
川上は寝転んだまま、硬いケースの留め具を弾いた。
カチ、と乾いた音。蓋が数センチ開く。
中にあったのは、小さなモジュールだった。端に、見覚えのある規格の差し込み口。
川上はそれを摘まみ、床に据えた装置のスロットへ滑り込ませる。
ナノの目が一段、鋭くなる。
「……上位キー」
川上が嬉しそうに笑った。
「そう。鍵は鍵穴に刺してこそだ。君らが追ってくるのも、計算に入る」
ニムが一拍遅れて告げる。
「未知装置、起動準備を検出。用途推定――閉鎖空間向けの仮想化フィールド生成」
田中は意味を掴みきれず、口だけが動いた。
「仮想化……って、ここが?」
答える暇はなかった。
川上の指が、スイッチに触れる。
カチリ。
音は小さいのに、倉庫の空気が一瞬で“薄く”なった。
潮と油の匂いが引いて、代わりに乾いた電子臭が鼻の奥へ刺さる。
倉庫内のLEDが全て青白く点灯する。
壁も床も、形はそのままだ。
ただ、表面にうっすらと白い線が走る。格子みたいな、目の錯覚みたいな膜。
遠くの波音が、急に遠ざかる。
外の世界が、ガラス一枚向こうに押しやられた。
ナツキが目を丸くする。
「……これ、場を作ってるだけだ。倉庫そのものは変えてない」
ニムが淡々と続けた。
「境界形成を確認。外部通信、低下。出入口の挙動、変更の可能性」
ナノが歯を食いしばる。
「上位キーで権限を通した……。そんな事できるなんて知らない」
川上が笑った。
「強いやつを追ってこさせてさ。正々堂々殴り合うのは、趣味じゃない」
倒れたまま、川上は視線だけでナノたちを見上げる。
その目が、妙に濁って光っていた。
「頭を使って、一方的にボコボコにするのが好きなんだ。君らみたいな“現場の強いの”をね」
ナノが一歩、前に出る。
「……返して」
「返さない」
川上は、そこで――するりと起き上がった。
さっきまで床に転がっていた体が、嘘みたいに軽い。痛みをこらえる動きがない。
立ち上がった勢いが、妙に滑らかで、速い。
田中の喉が鳴る。
「……え」
ナツキが思わず口を滑らせた。
「ちょ、さっき倒れてたよね?」
川上は笑ったまま、手首をひとつ回した。
それだけで、空気が張る。倉庫の中だけ、密度が変わったみたいに。
「さあ。追ってきた分だけ、考えてみろ」
田中が半歩下がって、背中が扉に当たる。
――当たったはずなのに、手応えが違う。金属じゃない。硬い膜だ。
ナノが、低く言った。
「……閉じた」
倉庫は倉庫のまま。
ただ、ここだけが別のルールで囲われた。
川上が一歩、こちらへ踏み出す。
その足音が、やけに近く聞こえた。




