第九話
指先が掴んだのは、布だった。
白い空間の端。灰色の揺らぎが舌みたいに伸びて、足場の輪郭を舐め取ろうとしている。
田中の袖が、その境界のすぐ上で揺れた。
「動くな!」
ナノの声が飛ぶ。
田中は、動けなかった。というより、動いたら終わると本能で分かっていた。
足元の白い床は、もう床のふりをやめかけている。薄い紙みたいに、頼りない。
「……ナ、ノ……!」
声にした瞬間、喉が震えた。
呼びたかったのは助けじゃない。確認だ。自分がまだ、誰かと繋がっているって。
ナノの腕が、ぐっと引いた。
袖が裂けそうになる。
田中は反射で、もう片方の手を床に突いた。白い面が、ぬるりと滑る。力が逃げる。
「ニム!」
「了解」
低い声が返ると同時に、背中側に何かが動いた。
次の瞬間、田中の腰に硬いものが回り込む。金属の腕。
ニムが、田中の胴を抱え上げた。
浮く。
足裏の感覚が消えた途端、灰色の揺らぎが、そこにあった床ごとぷつりと途切れた。
落ちる、と思った。
でも落ちなかった。落ちる先が消えただけだった。
「……う、わ……」
言葉にならない声が漏れる。
ニムの腕の中で、田中は白い空間の裂け目を見下ろした。
さっきまで自分が立っていた場所が、もうない。白の端は溶けて、灰色のノイズに吸われていく。
「生存、確認」
ニムが淡々と言った。
「外傷なし。呼吸乱れ、心拍上昇。通常範囲内」
「通常の範囲って、今それ言う……?」
田中がかすれた声で言うと、ナノが息を吐いた。
「言わせといて。安心材料にすんの、あいつ得意だから」
ナノは田中の前に立って、じっと顔を見た。
目の奥に怒りと安堵が混ざっている。
「……ほんっと、危ないとこいたね」
「俺だって好きでいたわけじゃない……」
「言い訳は後。今は移動」
ナノの視線が、白い塔の方向へ走る。
崩れは加速している。さっきよりも大きく、白い箱が消えている。格子の整った領域すら、ところどころ歪んでいた。
「キーは退避できた。目的は達成。次は帰る」
ナノが言い切る。
その横で、白い箱の上に一七五号がちょこんと座っていた。
足をぶらぶらさせて、楽しそうにこちらを眺めている。
「いい絵だったね」
軽い声。軽い顔。
それが余計に腹立つ。
ナノが鋭く言った。
「絵とか言うな」
「じゃあ、出来事」
一七五号はあっさり言い換える。
「出来事としても、良かった。ギリギリはデータが濃い」
田中は、背中が冷えるのを感じた。
こういう“軽さ”が怖い。人間の生き死にを、ただの濃淡で語る軽さ。
ナノが田中の肩を掴んで引き寄せる。
「田中、歩ける?」
「……歩ける」
「なら走らない。急ぎ足で。転ぶから」
「それ、俺に言ってる? 自分に言ってる?」
ナノが一瞬だけ睨んで、すぐ前を向いた。
「両方」
*
白い箱の迷路を、3人が進む。
ニムが前に出て足場を確認し、ナノが次に続く。田中は遅れないように、白い面の差だけを見て歩いた。
どこも同じ白なのに、違う。濃い白は安定していて、薄い白は崩れやすい。そんな気がする。
遠くで、ぎ、と世界が軋む感覚がした。
白い箱がひとつ、ふたつ、音もなく消える。
「……なあ」
田中は息を整えながら、ナノに言った。
「さっき、そこにいたのは……一七五号だけじゃない」
ナノが一瞬だけ横目で見る。
「他にも居たの?」
「女。ヒナって名乗った」
田中が言うと、ナノの歩調がほんの少しだけ乱れた。
すぐ戻る。でも、気づくには十分だった。
「……特徴」
「白髪で、長髪。白いシャツに、革のパンツ。妙にこの世界のこと知ってる感じだった」
ナノは短く息を吐く。
「……今は探せない」
「分かってる」
田中は頷いた。
あの女が味方か敵かは分からない。でも、少なくとも今は、ここで立ち止まれば死ぬ。
背後で一七五号が楽しそうに言った。
「探すなら、今じゃない。ここはもう閉じ始めてる」
田中が振り向くと、一七五号は肩をすくめた。
「私は案内できないよ。大きなことできないし」
「じゃあ黙ってて」
ナノが切る。
「邪魔はしてないよ」
一七五号は笑う。
「私は観測されてるからさ。異常が積み重なるほど保全処理が走る。
走ればここは重くなる。重くなれば崩れる。仕方ない」
「仕方ないで済ませるな」
「じゃあ、どうしたいの?」
一七五号が首をかしげる。
ナノは答えず、足を止めずに言った。
「帰る。それだけ」
*
白い塔が見えた。
でも、さっきより傾いている。
塔の根元の白い床が波打ち、青い面が不規則に点滅していた。
ニムが短く言う。
「接続ノード方向、安定度低下。退避したキー断片は保持されているが、転送ラインの再確立が必要」
「再確立って、何するの」
田中が問うと、ニムは淡々と返す。
「出入口を“もう一度”開く。閉じかけの扉を押し戻す行為に近い」
「力技かよ……」
「この環境においては、概ね正しい」
ナノが青い面の前に立ち、手を伸ばしかけて止めた。
指先が震える。
恐怖じゃない。計算だ。ここでまた無理をすれば、崩れはもっと進む。
「ニム。手順、最短で」
「了解。必要動作は2段階。接続ノード呼び出し、認証再提示」
「認証って、さっきのキー束?」
「肯定」
ナノが頷いた、その瞬間。
青い面の奥で、文字が走った。
≪警告:不正な観測外存在の接近
環境保全処理:準備中≫
空気が冷える。
「……何それ」
田中の声がかすれる。
ナノは唇を噛んで言った。
「たぶん、“掃除”が来る」
一七五号が楽しそうに言う。
「やっと来たね。まじめな人たち」
「嬉しそうに言うな」
「だって、ここからが面白い」
一七五号は白い箱から降りて、青い面を覗き込んだ。
「保全処理が走ると、この環境、端から消される。消される前に出ないと、出入口も消える」
「つまり急げってことだね」
ナノが青い面に手を当てる。
「ニム、今」
「接続ノード、呼び出し開始」
青い面が、深い青に変わる。
転送ラインの輪郭が見えるような錯覚が走った。
同時に、白い空間の遠くで“何か”が立ち上がる気配がした。
影がないのに、影みたいなものが動く。
白い箱の並びが、規則的に揺れて、一定のパターンを組み始める。
まるで、空間そのものが“形”を作っている。
「……来る」
田中が息を呑む。
ナノは視線を逸らさない。
「来ても関係ない。出る」
ニムが続ける。
「認証再提示。上位キー束、送出」
青い面が、短く明滅した。
≪認証:受理
転送ライン:確立中≫
その瞬間、遠くの白い箱が一斉に崩れた。
崩れたのではない。組み替わった。規則正しい形へ。
白いブロックが、巨大な“何か”の輪郭を作る。
人型ではない。けれど、明らかに意思を持った動き。
保全処理。掃除。排除。
一七五号が、楽しそうに小さく拍手した。
「ほらね。真面目なやつ」
「黙れ」
ナノが吐き捨てる。
青い面が、ひときわ強く光った。
≪転送:開始≫
足元が消える感覚。
視界の白が引き延ばされる。
田中は最後に、遠くの“それ”を見た。
白い箱でできた輪郭が、こちらに向かって一歩踏み出す。
間に合うか。
光が、3人の輪郭を飲み込んだところで――
一七五号が、ふいに田中の方を見て言った。
「次は、あなたが選ぶ番だよ」
その言葉の意味を考える暇もなく、世界は反転した。




