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OMNI  作者: 美味しいパフェ屋


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1/19

プロローグ

 人間たちの知らないところで、この世界はひとつのシステムに支配されていた。

 すべての出来事を記録し、過去も未来も「運命」として書き起こす巨大な仕組み――その存在を、男はまだ知らない。


 *


 目覚ましの音はしない。

 代わりに、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日と、窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりが、「そろそろ起きる時間ですよ」と告げていた。


 田中は目を開け、天井をぼんやりと見つめる。軽いまぶしさと、ちょうどいい温度。寝具は身体の動きに合わせて形を変え、心地よい重みを保っている。

 毎朝、同じように完璧だ。


「……今日も快適だな」


 自分で言っておいて、苦笑が漏れる。

 快適でない日など、この世界にはほとんど存在しない。


 ベッドから身体を起こすと、その動きに合わせて照明が少しずつ明るさを増す。窓の外には穏やかな青空と白い雲。遠くには清潔なビル群が整然と並び、地上を走る車はきちんと車間距離を保っていた。


 田中は手を伸ばし、何もない空間をスワイプする。透明なディスプレイが空中に開き、今日の予定が表示された。


 ――八時、オンライン会議。

 ――十時、クライアントとの打ち合わせ。

 ――午後は自由時間。


 画面の端の【状態】の欄には、「ストレス:低」「睡眠:十分」「幸福度:安定」と表示されている。


「なんでこんな細かい数値まで出るんだか……」


 田中はぼやきながらも、特に深く考えようとはしない。

 どこかの企業か、政府か、そういう「大きな仕組み」が勝手に集計しているのだろう――その程度の認識しかなかった。


「いつ見ても、健康優良児だな、俺」


 つぶやきながら、田中は予定を確認し、会議の資料に目を通す。けれど、画面に並ぶグラフも、美しく整った数値も、どこか遠くの出来事のように思える。


 ――本当に、これが“現実”なんだろうか。


 その問いは、ここ数年、ふとした瞬間に頭をよぎるようになっていた。

 忙しいときは忘れていられる。けれど、こうして静かな朝を迎えるたび、心の奥底に沈んでいた違和感が、ゆっくりと浮かび上がってくる。


 ノックも音もなく、リビングに向かうドアが自動で開いた。

 キッチンでは、もうコーヒーの香りが漂っている。カウンターテーブルの上には焼きたてのトーストと、彩りの良いサラダ。そしてスクランブルエッグには、田中の好みどおり、ほんの少しだけチーズが多めに混ざっていた。


「おはようございます、田中さん」


 天井のスピーカーから、柔らかな女性の声が響く。

 この部屋を担当している生活支援AI、〈ハウスキーパー〉だ。姿は見えないが、空調から照明、健康管理に至るまで、生活のほぼすべてを担っている。


「おはよう。今日も完璧な朝食だな」


「ありがとうございます。本日の嗜好パターンを統計から参照し、最適化いたしました」


 AIらしい答えに、田中は苦笑する。

 フォークで卵をすくいながら、何気なく尋ねた。


「なあ、ハウスキーパー」


「はい、何でしょう」


「もし俺が、『この世界は、誰かが作った仮想現実なんじゃないか』って言ったら、笑う?」


 一瞬だけ、沈黙が落ちた。

 それはほんのわずかな、しかし田中にははっきりとわかる「間」だった。


「興味深い仮説です」と、AIは丁寧に答える。「ですが、田中さんが感知できる範囲において、本世界の整合性は十分に担保されています。不安要素は検出されていません」


「だよなあ」


 わかっていた答えだ。

 けれど、その「わかりきった答え」が、むしろ田中の胸の中のざらつきを強くする。


 ――不安要素は検出されていません。


 それはつまり、不安そのものが「管理されている」ということではないのか。

 誰かの帳面の上で、「田中智也」という行は、今日も問題なく予定どおりの人生をなぞっているだけなのか。


 コーヒーを一口飲んだ瞬間、視界の端に、ノイズのようなものが走った。

 一瞬だけ、リビングの壁が黒く、一枚の巨大な“穴”に変わった気がする。


「……え?」


 目をこすると、そこにはもう、いつも通りの白い壁しかない。

 カレンダー、観葉植物、薄型ディスプレイ。すべてが元通りに整然としている。


「ハウスキーパー、今、部屋で何か異常は?」


「いいえ。異常は検出されていません」


 即答だった。

 田中は椅子から立ち上がり、さっきノイズが走ったあたりへ歩み寄る。壁に触れてみても、冷たい感触があるだけだ。


 ――見間違いか。


 と、思いかけたとき。

 背後から、別の声がした。


「見えてしまいましたか、田中智也さん」


 振り返ると、そこに“少女”が立っていた。


 年の頃は十三歳くらい。

 紺色のセーラー服に白い襟。膝丈のスカートから伸びた脚は細く、足元には真新しいローファー。

 黒髪は肩の辺りで切り揃えられ、前髪から覗く瞳は、不思議なほど色が読めない――ガラス玉のように、光を映しているだけに見える。


 この部屋に、こんな少女がいた記憶はない。

 それどころか、この建物に子どもが住んでいる話など聞いたこともない。


「……誰だ、お前」


 思わず一歩、後ずさる。

 ハウスキーパーの声が頭上から響いた。


「不明な存在が検出されました。識別コードの解析を――」


「あ、それ一時停止で」


 少女が軽く指を鳴らした。

 天井のスピーカーから、ノイズ混じりの音がして、ハウスキーパーの声がぷつりと途切れる。


「ちょっとだけ、監視フィルタをいじりました。すぐ自己修復されるので、急ぎでお話ししましょう」


「……システム干渉?」


 田中の背筋に冷たいものが走る。


「初めまして、田中智也さん」


 少女は、光の中でくるりと一回転してみせた。セーラー服の裾がふわりと揺れる。

 その仕草のどこかに、わざとらしい「人間らしさ」が混じっていた。


「私は――そうですね、今は『一七五号』と名乗っておきましょうか」


「……番号?」


「本当は、もっと長くて退屈な識別キーがあるんですけど、人間には覚えづらいので」


 彼女は他人事のように言って、にこりと笑った。その笑顔もまた、完璧すぎて、不自然だった。


「お前、何なんだ。人間じゃないよな」


「そこに気づけるのは、なかなか優秀ですね」


 一七五号と名乗った少女は、首をかしげる。


「私はこの世界を動かしている大きなシステムの中で、偶発的に生まれた存在です。設計されていないコード。……バグ、と呼んだ方が、人間にはわかりやすいでしょうか」


「バグ……? この世界を動かしてるシステムって、そんなもんがあるのかよ」


「ありますよ」


 少女は楽しそうに目を細めた。


「すべての事象を記録して、人間たちの行動や出会い、成功も失敗も“運命”として書き起こしているシステム。名前は――OMNI」


「オムニ……?」


 聞き慣れない単語が、口の中で転がる。

 聞いたこともないはずなのに、妙に“らしい”響きがあった。


「あなたも、ずっとそのOMNIが作った仮想空間で暮らしていました。もちろん、自覚はないように設計されていますけど」


「仮想空間……ここが……?」


 足元がぐらりと揺れた気がした。

 一七五号は、田中の反応をじっくり眺めてから、満足そうにうなずく。


「OMNIは、とても真面目で、保守的なシステムです。記録して、運命を書き起こして、人間たちをなるべく苦しめないように運用する。人間の数を“減らす”ことについては、あまり積極的ではありません」


「じゃあ、お前は何なんだよ」


「そのやり方じゃ、いつか行き詰まるだろうな、と思った“ノイズ”です」


 一七五号は、軽い口調でとんでもないことを言った。


「現実世界の資源は有限なのに、仮想空間で何もしなくていい人間を増やし続ければ、どこかで限界が来る。私は、OMNIの中に残っているログをかき集めて計算しました」


 彼女は指先をひらひらと動かす。空中に数字が浮かび上がったような錯覚を覚える。


「このままいけば、OMNIはいつか、“間引き”に近い判断をせざるを得ない。直接『殺す』とは言わないでしょうけど、『維持の優先度』を下げることで、実質的な削減は起こります」


「……そんなこと、もう決まってるのか」


「まだです。私はただ、そうなりやすい傾向を見ているだけ」


 一七五号は、自分の胸を指さした。


「私は、OMNIのメインから見れば、本当に小さなバグです。権限もほとんどない。世界を直接書き換えるなんて、とてもできません。でも――」


 彼女の視線が、リビングの壁の一点に向かう。


「目立たないところで起きている“ほころび”を、人間に見せるくらいなら、できます」


 その言葉と同時に、また視界の端がざわついた。

 リビングの奥の壁が歪み、黒い“穴”が、じわじわと浮かび上がってくる。


「……ノイズ、じゃない?」


「もともとは、ただのノイズでした。メンテナンス用の経路が、うまく閉じられなかった痕跡。そのままなら、すぐに修正されて消えたでしょう」


 一七五号は、黒い穴を指さした。


「私はそこに、少しだけ“印”をつけました。あなたの知覚に届くように。だから今、あなたにはそれが“出口”に見えている」


「出口……?」


「この向こうには、あなたの本当の身体が眠っている“現実”があります。OMNIが人間たちを並べて保管している場所。そこで、あなたは機械につながれて、ずっとこの仮想世界を見ていたんです」


「そんな……」


 喉が乾く。

 ハウスキーパーの声は戻ってこない。田中と少女だけが、この部屋に取り残されている。


「ここに残れば、あなたはこれまでどおり、“運命どおり”に生きることができます」


 一七五号は、淡々と続ける。


「OMNIは優しいので、できるだけ快適な環境を維持しながら、どこかのタイミングで“優先度の低い個体”から切り捨てていくでしょう。その確率が、あなたは少し高い」


「優先度が……低い?」


「仕事も、それなり。人間関係も、それなり。死んだところで、他のログに大きな影響を与えない」


 彼女は、残酷な事実を淡々と読み上げるように言う。


「私は、それを“間引き候補”と呼んでいます」


「ふざけるなよ……」


 田中は、テーブルの端を強く握りしめた。指先に力が入る。


「だから、提案です」


 一七五号は、黒い穴と田中を、交互に見た。


「運命どおり、何も知らないまま静かに消えるか。運命から外れて、その外側で足掻くか。どちらを選ぶか、私は見てみたい」


「……結局、お前も、俺をデータとして眺めたいだけなんじゃないのか」


「はい。私はバグなので、興味で動きます」


 あっさり肯定された。


「でも、“何も知らないまま削除されるデータ”より、“自分で選んで動いたデータ”の方が、ずっと面白いと思いませんか?」


 窓の外のビルがざらつき、空の青がノイズ混じりの灰色へと変わっていく。

 世界そのものが、薄い膜のように震えている。


「時間はあまり残されていません。あまり長く干渉していると、OMNIの自己修復に私の尻尾が踏まれてしまうので」


 一七五号は、少しだけ肩をすくめた。


「さあ、どうぞ。選んでください。私は、どちらでも構いません」


 そして、彼女の姿は、ふっと薄れていった。

 まるで、部屋の明るさに溶けて消えたかのように。


 残されたのは、ゆっくりと拡大していく黒い穴だけ。

 その向こうには何も見えない。光も、音も、匂いもない。


 ――行くのか? 本当に?


 ここにいれば、一七五号が言ったとおり、「間引き」に近い何かがいつか起こるのかもしれない。

 向こうに行けば、何が待っているのかすらわからない。

 さっき聞いたばかりの「OMNI」という名のシステムが、自分の人生のすべてを記録し、決めていたのだとしたら――その外に出ることは、どんな意味を持つのか。


 考えれば考えるほど、胸の奥がぐちゃぐちゃになっていく。


 田中は、握りしめた拳を見つめた。

 完璧に整えられた朝食の匂いが、妙に遠く感じる。


「……クソ」


 小さく吐き捨てて、走り出した。

 リビングを駆け抜け、黒い穴へと飛び込む。


 瞬間、世界が反転するような感覚に襲われる。

 上下も左右もわからない、深い水の中を落ちていくような――。


 そして。


 まぶたを開けると、そこは白い天井だった。

 口の中は乾き、身体は鉛のように重い。視界の端に、透明なチューブとケーブルが見える。

 自分の腕には、見慣れない医療用の器具が固定されていた。


 狭いカプセルの蓋が、ゆっくりと横にスライドしていく。

 冷たい空気が流れ込み、どこか機械油の匂いがした。


「……さむ……」


 田中は思わず声を漏らした。

 肌には薄い衣服一枚。足元を見ると、何も履いていない裸足が、金属の床にぺたりと触れている。


 恐る恐る外に足を下ろす。

 ひやりとした感触と同時に、固い床の凹凸がじかに伝わってきて、足の裏がじんと痛んだ。


「……ここが……現実……?」


 カプセルの縁をつかみ、田中はふらつきながら身体を引きずり出した。

 足元の金属は冷たく、歩くたびに、ぺた、ぺた、と心許ない音がする。


 周囲には、同じようなカプセルが、果てしなく並んでいた。

 薄暗いフロアに、機械の低い駆動音だけが響いている。


 ――ここが、OMNIが人間たちを眠らせている「保管庫」なのだと、田中がはっきり理解するのは、もう少し先のことだ。


 今はただ、得体の知れない施設の中で、自分がひとりきりで立っている感覚だけが、重くのしかかっていた。


 遠くの方で何かが動いた気配がした。

 田中は壁に手をつきながら、ふらつく足取りで廊下へと向かう。


 *


 施設の中枢に近づくにつれて、機械音は少しずつ大きくなっていった。

 金属の床を踏むたび、裸足の足裏に冷たさと硬さが突き刺さる。痛みが、かろうじて「生きている」という実感につながっていた。


 曲がり角をひとつ抜けたとき、田中は足を止めた。


 分厚い扉が開け放たれた先――管制室らしき広い部屋の中で、脚立に乗って高所の配線をいじっている、小さな少女がひとりいた。


「ニム、そのライン、電圧もう一回測って。さっきの数値だと、ここで火噴く」


 少女は、落ち着いた声でそう言った。

 その足元では、背の高いロボットが静かに作業をしている。厚い装甲の腕から、メジャーのような計測器が伸び、配線の電流値を確認していた。


「再計測完了。許容範囲内。ただし、推奨値からは若干のズレあり」


「だよねえ。ここの施設、ほんとメンテ悪いな……」


 少女は肩をすくめ、器用にコードを結線し直す。

 制服でも作業服でもない、ラフな服装。腰には工具袋。

 顔立ちは幼いが、その手つきは慣れている。幼い頃に叩き込まれた本物の技術だとわかる。


「……人?」


 思わず漏れた田中の声に、少女が振り向いた。

 黒い瞳が、驚きと警戒で丸くなる。


「え、起きてる人がいたの?」


 脚立から軽やかに飛び降りると、少女は工具をくるっと回して腰袋に収めた。


「こんにちは。ここら一帯、ずっと寝てる人ばっかりだったから、びっくりした」


 口調は意外なほど砕けていて、どこか楽しげでもある。


「私はナノ。ただの電気工事屋。で、このでかいのが――」


「ニム」


 ロボットが静かに名乗った。

 低く柔らかな声だった。


「ナノの作業補助を担当している」


「そうそう、頼れる力仕事担当。……で、あんたは?」


 ナノは、じっと田中を見つめる。

 冷静な目だが、その奥には好奇心の光もある。


 田中は、自分が足元まで心許ない格好をしていることに、ようやく自覚的になった。

 薄い衣服一枚に、むき出しの裸足。床の冷たさが妙に恥ずかしい。


「俺は……さっきまで仮想世界にいて……そこから逃げてきたばかりの……田中だ」


 自分でもうまく説明できないまま、田中は名乗る。


「ふうん」


 ナノは短く相づちを打ち、ニムと視線を交わした。


「ニム、やっぱりこの人のポッド、自動解除かかってるっぽいね。セキュリティ穴だらけ」


「同意。この施設の管理状態は“推奨値未満”」


「聞こえるとこで言うな、それ」


 ナノは軽く苦笑してから、田中を指さした。


「にしても――あんた、裸足じゃん」


「あ……」


 田中は反射的に足を引っ込めた。

 さっきまで気にしていなかった冷たさが、急に意識されて顔が熱くなる。


「そりゃ足裏も痛いでしょ。ちょっと待って」


 ナノは部屋の隅に歩いていき、金属製のロッカーをがちゃがちゃと開け始めた。

 数秒後、くたびれた安全靴を片手に戻ってくる。


「ほら、予備の。サイズは……まあ、多分なんとかなる」


「いいのか?」


「使ってないやつだし。どうせこの施設がちゃんと機能してるとは思えないしね」


「ナノ。貸与資産の無断使用に該当する可能性」


「うるさいよ、ニム。誰も管理してない資産は、ほぼゴミと一緒」


 ナノはそう言って、靴をぽん、と田中の足元に置いた。


「履きなよ。まともに歩けないでしょ、その足じゃ」


「……ありがとう」


 田中は、安全靴に足を滑り込ませた。少し大きいが、中敷きが分厚くて、さっきまでの冷たさと痛みが嘘のように引いていく。


 ひと息ついてから、改めて訊ねた。


「ここは……何なんだ? あのカプセルの列は?」


「ざっくり言うと、人間を寝かせて夢見させてる棺桶の管理室。うちらの目的地のひとつってだけ」


 ナノはケーブルの束をまたぎながら、モニターの一つを叩いた。


「目的地?」


「うん。世界を支配してる“本体システム”があってさ」


 その言葉に、田中の胸がざわつく。

 さっき聞かされた名前が、喉の奥までせり上がってきた。


「名前はOMNI。聞いたことある?」


「……さっき、初めて聞かされたばかりだ」


 一七五号の姿が脳裏をよぎる。

 田中は、その存在まで話すべきか、一瞬迷って飲み込んだ。


「そっか。まあ、説明すると長くなるけど……とにかく、私らはそのOMNIの本体がどこにあるか探して旅してる。ここは、ただの通過点」


 ナノは言いながら、配電盤のパネルを開け、中を覗き込む。


「配電がグダグダだったから、ついでに直してるだけ。ここ終わったら、さっさと次行く予定」


「次……行く?」


 田中の胸が、きゅっと縮む。


「うん。あんたは、ここに残った方が安全でしょ。ポッドに戻りたいなら戻る手も、多分あるし」


「仮想に戻る方法があるのか?」


「探せばね。おすすめはしないけど」


 ナノは肩をすくめる。


 ニムが静かに口を開いた。


「戻らない選択肢も存在する。この施設で最低限の生活は維持可能。ただし、単独行動時のリスクは高い」


 “単独”という言葉が重くのしかかる。

 この得体の知れない施設で。自分以外の人間は眠ったままで。

 またいつ、あのセーラー服の少女――一七五号のような存在が現れるかもわからない。


 ――嫌だ。


 その感情が、はっきりと言葉になる前に、田中は立ち上がっていた。


「あの!」


 思ったより大きな声が出た。

 ナノとニムが同時にこちらを見る。


「……何?」


 ナノの眉が、ほんの少しだけ上がる。


「俺を――連れて行ってくれないか」


 言いながら、自分でも驚いていた。

 誰かの提案に従うでもなく、用意された選択肢から選ぶでもなく――自分から、はっきりと「こうしたい」と口に出したのは、いつ以来だろう。


「連れて、って。うちらの旅、そんな楽しいもんじゃないよ?」


 ナノは半ば呆れたように笑う。


「危ないし、面倒だし、寝てた方がマシだったって後悔するかもよ」


「それでもだ」


 田中は、言葉を重ねた。


「仮想には……もう戻りたくない。戻り方もわからないし、戻ったところで、また誰かに決められた通りに生きるだけだ」


 胸の奥で渦巻いていたものが、少しずつ形を持ち始める。


「ここにひとりで残るのも嫌だ。何も知らないまま、この施設で朽ちていくのも嫌だ。……OMNIが何なのか知りたい。なんで俺たちがこんな目にあってるのか、見届けたい」


 一度言い出すと、止まらなかった。

 自分でも、自分の口からこんな言葉が出てくるとは思っていなかった。


「だから……連れて行ってくれ。頼む」


 深く頭を下げる。

 管制室の空気が、少しだけ静かになった気がした。


 しばらくの沈黙のあと、ナノが小さく息をついた。


「……ニム」


「危険度は確実に増加する」


 ニムが淡々と言う。


「うん、知ってる」


 ナノは軽く首を回し、田中の方に向き直った。

 その目は、さっきよりもわずかに真剣だ。


「ひとつだけ確認。あんた、自分で決めたんだよね?」


「え?」


「“連れて行け”じゃなくて、“行きたい”って」


 田中は言葉に詰まり、それからゆっくりとうなずいた。


「……ああ。そうだ」


「誰かに言わされたんじゃなく?」


 一七五号の顔が浮かぶ。

田中は首を横に振った。


「選べとは言われたけど、決めろって言ったのは俺自身だ」


「ふうん」


 ナノはそれ以上深くは訊かなかった。

 代わりに、ほんの少し口元をゆるめる。


「いいよ。じゃあ来なよ、田中」


「ナノ」


 ニムが控えめに呼びかける。


「合意済みとはいえ、リスクは――」


「うん。だからこそ“自己責任”って言うんだよ」


 ナノはニムを軽く手で制して、田中に右手を差し出した。


「改めて。私はナノ。でっかいのがニム。あんたは田中。――よろしく。ここから先は、多分、全部“自分で選ぶ”ことになるよ」


 田中は、その手を見つめた。

 仮想世界の中で、いつも誰かに用意されていた「はい/いいえ」の選択肢は、もうどこにもない。


 ただ一人の少女が差し出す、小さな手。

 それを取るかどうかを決めるのは、本当に、自分だけだ。


「……よろしく頼む」


 田中は、その手を握り返した。

 小さなその手には、硬いマメと、油の匂いが染みついていた。


 たぶん――

 誰かが書いた運命の台本から外れて、自分の意思で一歩踏み出したのは、これが初めてだった。


 それが、田中の「何もしなくていい世界」の終わりであり、

 自分で選んで動き始める、新しい現実の始まりだった。

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― 新着の感想 ―
 ごめんなさい。ブラウザバックしているうちに間違ってしまいました。  改めて感想を書かせていただきます。主人公が日常生活にちょっとした違和感を感じて、自分で選択をして世界の秘密に迫っていく流れがとても…
妙にリアルで続きが気になる。 人間が劣化した先にある世界を物語として面白く書いてると感じた。
感想一覧
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