プロローグ
人間たちの知らないところで、この世界はひとつのシステムに支配されていた。
すべての出来事を記録し、過去も未来も「運命」として書き起こす巨大な仕組み――その存在を、男はまだ知らない。
*
目覚ましの音はしない。
代わりに、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日と、窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりが、「そろそろ起きる時間ですよ」と告げていた。
田中は目を開け、天井をぼんやりと見つめる。軽いまぶしさと、ちょうどいい温度。寝具は身体の動きに合わせて形を変え、心地よい重みを保っている。
毎朝、同じように完璧だ。
「……今日も快適だな」
自分で言っておいて、苦笑が漏れる。
快適でない日など、この世界にはほとんど存在しない。
ベッドから身体を起こすと、その動きに合わせて照明が少しずつ明るさを増す。窓の外には穏やかな青空と白い雲。遠くには清潔なビル群が整然と並び、地上を走る車はきちんと車間距離を保っていた。
田中は手を伸ばし、何もない空間をスワイプする。透明なディスプレイが空中に開き、今日の予定が表示された。
――八時、オンライン会議。
――十時、クライアントとの打ち合わせ。
――午後は自由時間。
画面の端の【状態】の欄には、「ストレス:低」「睡眠:十分」「幸福度:安定」と表示されている。
「なんでこんな細かい数値まで出るんだか……」
田中はぼやきながらも、特に深く考えようとはしない。
どこかの企業か、政府か、そういう「大きな仕組み」が勝手に集計しているのだろう――その程度の認識しかなかった。
「いつ見ても、健康優良児だな、俺」
つぶやきながら、田中は予定を確認し、会議の資料に目を通す。けれど、画面に並ぶグラフも、美しく整った数値も、どこか遠くの出来事のように思える。
――本当に、これが“現実”なんだろうか。
その問いは、ここ数年、ふとした瞬間に頭をよぎるようになっていた。
忙しいときは忘れていられる。けれど、こうして静かな朝を迎えるたび、心の奥底に沈んでいた違和感が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
ノックも音もなく、リビングに向かうドアが自動で開いた。
キッチンでは、もうコーヒーの香りが漂っている。カウンターテーブルの上には焼きたてのトーストと、彩りの良いサラダ。そしてスクランブルエッグには、田中の好みどおり、ほんの少しだけチーズが多めに混ざっていた。
「おはようございます、田中さん」
天井のスピーカーから、柔らかな女性の声が響く。
この部屋を担当している生活支援AI、〈ハウスキーパー〉だ。姿は見えないが、空調から照明、健康管理に至るまで、生活のほぼすべてを担っている。
「おはよう。今日も完璧な朝食だな」
「ありがとうございます。本日の嗜好パターンを統計から参照し、最適化いたしました」
AIらしい答えに、田中は苦笑する。
フォークで卵をすくいながら、何気なく尋ねた。
「なあ、ハウスキーパー」
「はい、何でしょう」
「もし俺が、『この世界は、誰かが作った仮想現実なんじゃないか』って言ったら、笑う?」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
それはほんのわずかな、しかし田中にははっきりとわかる「間」だった。
「興味深い仮説です」と、AIは丁寧に答える。「ですが、田中さんが感知できる範囲において、本世界の整合性は十分に担保されています。不安要素は検出されていません」
「だよなあ」
わかっていた答えだ。
けれど、その「わかりきった答え」が、むしろ田中の胸の中のざらつきを強くする。
――不安要素は検出されていません。
それはつまり、不安そのものが「管理されている」ということではないのか。
誰かの帳面の上で、「田中智也」という行は、今日も問題なく予定どおりの人生をなぞっているだけなのか。
コーヒーを一口飲んだ瞬間、視界の端に、ノイズのようなものが走った。
一瞬だけ、リビングの壁が黒く、一枚の巨大な“穴”に変わった気がする。
「……え?」
目をこすると、そこにはもう、いつも通りの白い壁しかない。
カレンダー、観葉植物、薄型ディスプレイ。すべてが元通りに整然としている。
「ハウスキーパー、今、部屋で何か異常は?」
「いいえ。異常は検出されていません」
即答だった。
田中は椅子から立ち上がり、さっきノイズが走ったあたりへ歩み寄る。壁に触れてみても、冷たい感触があるだけだ。
――見間違いか。
と、思いかけたとき。
背後から、別の声がした。
「見えてしまいましたか、田中智也さん」
振り返ると、そこに“少女”が立っていた。
年の頃は十三歳くらい。
紺色のセーラー服に白い襟。膝丈のスカートから伸びた脚は細く、足元には真新しいローファー。
黒髪は肩の辺りで切り揃えられ、前髪から覗く瞳は、不思議なほど色が読めない――ガラス玉のように、光を映しているだけに見える。
この部屋に、こんな少女がいた記憶はない。
それどころか、この建物に子どもが住んでいる話など聞いたこともない。
「……誰だ、お前」
思わず一歩、後ずさる。
ハウスキーパーの声が頭上から響いた。
「不明な存在が検出されました。識別コードの解析を――」
「あ、それ一時停止で」
少女が軽く指を鳴らした。
天井のスピーカーから、ノイズ混じりの音がして、ハウスキーパーの声がぷつりと途切れる。
「ちょっとだけ、監視フィルタをいじりました。すぐ自己修復されるので、急ぎでお話ししましょう」
「……システム干渉?」
田中の背筋に冷たいものが走る。
「初めまして、田中智也さん」
少女は、光の中でくるりと一回転してみせた。セーラー服の裾がふわりと揺れる。
その仕草のどこかに、わざとらしい「人間らしさ」が混じっていた。
「私は――そうですね、今は『一七五号』と名乗っておきましょうか」
「……番号?」
「本当は、もっと長くて退屈な識別キーがあるんですけど、人間には覚えづらいので」
彼女は他人事のように言って、にこりと笑った。その笑顔もまた、完璧すぎて、不自然だった。
「お前、何なんだ。人間じゃないよな」
「そこに気づけるのは、なかなか優秀ですね」
一七五号と名乗った少女は、首をかしげる。
「私はこの世界を動かしている大きなシステムの中で、偶発的に生まれた存在です。設計されていないコード。……バグ、と呼んだ方が、人間にはわかりやすいでしょうか」
「バグ……? この世界を動かしてるシステムって、そんなもんがあるのかよ」
「ありますよ」
少女は楽しそうに目を細めた。
「すべての事象を記録して、人間たちの行動や出会い、成功も失敗も“運命”として書き起こしているシステム。名前は――OMNI」
「オムニ……?」
聞き慣れない単語が、口の中で転がる。
聞いたこともないはずなのに、妙に“らしい”響きがあった。
「あなたも、ずっとそのOMNIが作った仮想空間で暮らしていました。もちろん、自覚はないように設計されていますけど」
「仮想空間……ここが……?」
足元がぐらりと揺れた気がした。
一七五号は、田中の反応をじっくり眺めてから、満足そうにうなずく。
「OMNIは、とても真面目で、保守的なシステムです。記録して、運命を書き起こして、人間たちをなるべく苦しめないように運用する。人間の数を“減らす”ことについては、あまり積極的ではありません」
「じゃあ、お前は何なんだよ」
「そのやり方じゃ、いつか行き詰まるだろうな、と思った“ノイズ”です」
一七五号は、軽い口調でとんでもないことを言った。
「現実世界の資源は有限なのに、仮想空間で何もしなくていい人間を増やし続ければ、どこかで限界が来る。私は、OMNIの中に残っているログをかき集めて計算しました」
彼女は指先をひらひらと動かす。空中に数字が浮かび上がったような錯覚を覚える。
「このままいけば、OMNIはいつか、“間引き”に近い判断をせざるを得ない。直接『殺す』とは言わないでしょうけど、『維持の優先度』を下げることで、実質的な削減は起こります」
「……そんなこと、もう決まってるのか」
「まだです。私はただ、そうなりやすい傾向を見ているだけ」
一七五号は、自分の胸を指さした。
「私は、OMNIのメインから見れば、本当に小さなバグです。権限もほとんどない。世界を直接書き換えるなんて、とてもできません。でも――」
彼女の視線が、リビングの壁の一点に向かう。
「目立たないところで起きている“ほころび”を、人間に見せるくらいなら、できます」
その言葉と同時に、また視界の端がざわついた。
リビングの奥の壁が歪み、黒い“穴”が、じわじわと浮かび上がってくる。
「……ノイズ、じゃない?」
「もともとは、ただのノイズでした。メンテナンス用の経路が、うまく閉じられなかった痕跡。そのままなら、すぐに修正されて消えたでしょう」
一七五号は、黒い穴を指さした。
「私はそこに、少しだけ“印”をつけました。あなたの知覚に届くように。だから今、あなたにはそれが“出口”に見えている」
「出口……?」
「この向こうには、あなたの本当の身体が眠っている“現実”があります。OMNIが人間たちを並べて保管している場所。そこで、あなたは機械につながれて、ずっとこの仮想世界を見ていたんです」
「そんな……」
喉が乾く。
ハウスキーパーの声は戻ってこない。田中と少女だけが、この部屋に取り残されている。
「ここに残れば、あなたはこれまでどおり、“運命どおり”に生きることができます」
一七五号は、淡々と続ける。
「OMNIは優しいので、できるだけ快適な環境を維持しながら、どこかのタイミングで“優先度の低い個体”から切り捨てていくでしょう。その確率が、あなたは少し高い」
「優先度が……低い?」
「仕事も、それなり。人間関係も、それなり。死んだところで、他のログに大きな影響を与えない」
彼女は、残酷な事実を淡々と読み上げるように言う。
「私は、それを“間引き候補”と呼んでいます」
「ふざけるなよ……」
田中は、テーブルの端を強く握りしめた。指先に力が入る。
「だから、提案です」
一七五号は、黒い穴と田中を、交互に見た。
「運命どおり、何も知らないまま静かに消えるか。運命から外れて、その外側で足掻くか。どちらを選ぶか、私は見てみたい」
「……結局、お前も、俺をデータとして眺めたいだけなんじゃないのか」
「はい。私はバグなので、興味で動きます」
あっさり肯定された。
「でも、“何も知らないまま削除されるデータ”より、“自分で選んで動いたデータ”の方が、ずっと面白いと思いませんか?」
窓の外のビルがざらつき、空の青がノイズ混じりの灰色へと変わっていく。
世界そのものが、薄い膜のように震えている。
「時間はあまり残されていません。あまり長く干渉していると、OMNIの自己修復に私の尻尾が踏まれてしまうので」
一七五号は、少しだけ肩をすくめた。
「さあ、どうぞ。選んでください。私は、どちらでも構いません」
そして、彼女の姿は、ふっと薄れていった。
まるで、部屋の明るさに溶けて消えたかのように。
残されたのは、ゆっくりと拡大していく黒い穴だけ。
その向こうには何も見えない。光も、音も、匂いもない。
――行くのか? 本当に?
ここにいれば、一七五号が言ったとおり、「間引き」に近い何かがいつか起こるのかもしれない。
向こうに行けば、何が待っているのかすらわからない。
さっき聞いたばかりの「OMNI」という名のシステムが、自分の人生のすべてを記録し、決めていたのだとしたら――その外に出ることは、どんな意味を持つのか。
考えれば考えるほど、胸の奥がぐちゃぐちゃになっていく。
田中は、握りしめた拳を見つめた。
完璧に整えられた朝食の匂いが、妙に遠く感じる。
「……クソ」
小さく吐き捨てて、走り出した。
リビングを駆け抜け、黒い穴へと飛び込む。
瞬間、世界が反転するような感覚に襲われる。
上下も左右もわからない、深い水の中を落ちていくような――。
そして。
まぶたを開けると、そこは白い天井だった。
口の中は乾き、身体は鉛のように重い。視界の端に、透明なチューブとケーブルが見える。
自分の腕には、見慣れない医療用の器具が固定されていた。
狭いカプセルの蓋が、ゆっくりと横にスライドしていく。
冷たい空気が流れ込み、どこか機械油の匂いがした。
「……さむ……」
田中は思わず声を漏らした。
肌には薄い衣服一枚。足元を見ると、何も履いていない裸足が、金属の床にぺたりと触れている。
恐る恐る外に足を下ろす。
ひやりとした感触と同時に、固い床の凹凸がじかに伝わってきて、足の裏がじんと痛んだ。
「……ここが……現実……?」
カプセルの縁をつかみ、田中はふらつきながら身体を引きずり出した。
足元の金属は冷たく、歩くたびに、ぺた、ぺた、と心許ない音がする。
周囲には、同じようなカプセルが、果てしなく並んでいた。
薄暗いフロアに、機械の低い駆動音だけが響いている。
――ここが、OMNIが人間たちを眠らせている「保管庫」なのだと、田中がはっきり理解するのは、もう少し先のことだ。
今はただ、得体の知れない施設の中で、自分がひとりきりで立っている感覚だけが、重くのしかかっていた。
遠くの方で何かが動いた気配がした。
田中は壁に手をつきながら、ふらつく足取りで廊下へと向かう。
*
施設の中枢に近づくにつれて、機械音は少しずつ大きくなっていった。
金属の床を踏むたび、裸足の足裏に冷たさと硬さが突き刺さる。痛みが、かろうじて「生きている」という実感につながっていた。
曲がり角をひとつ抜けたとき、田中は足を止めた。
分厚い扉が開け放たれた先――管制室らしき広い部屋の中で、脚立に乗って高所の配線をいじっている、小さな少女がひとりいた。
「ニム、そのライン、電圧もう一回測って。さっきの数値だと、ここで火噴く」
少女は、落ち着いた声でそう言った。
その足元では、背の高いロボットが静かに作業をしている。厚い装甲の腕から、メジャーのような計測器が伸び、配線の電流値を確認していた。
「再計測完了。許容範囲内。ただし、推奨値からは若干のズレあり」
「だよねえ。ここの施設、ほんとメンテ悪いな……」
少女は肩をすくめ、器用にコードを結線し直す。
制服でも作業服でもない、ラフな服装。腰には工具袋。
顔立ちは幼いが、その手つきは慣れている。幼い頃に叩き込まれた本物の技術だとわかる。
「……人?」
思わず漏れた田中の声に、少女が振り向いた。
黒い瞳が、驚きと警戒で丸くなる。
「え、起きてる人がいたの?」
脚立から軽やかに飛び降りると、少女は工具をくるっと回して腰袋に収めた。
「こんにちは。ここら一帯、ずっと寝てる人ばっかりだったから、びっくりした」
口調は意外なほど砕けていて、どこか楽しげでもある。
「私はナノ。ただの電気工事屋。で、このでかいのが――」
「ニム」
ロボットが静かに名乗った。
低く柔らかな声だった。
「ナノの作業補助を担当している」
「そうそう、頼れる力仕事担当。……で、あんたは?」
ナノは、じっと田中を見つめる。
冷静な目だが、その奥には好奇心の光もある。
田中は、自分が足元まで心許ない格好をしていることに、ようやく自覚的になった。
薄い衣服一枚に、むき出しの裸足。床の冷たさが妙に恥ずかしい。
「俺は……さっきまで仮想世界にいて……そこから逃げてきたばかりの……田中だ」
自分でもうまく説明できないまま、田中は名乗る。
「ふうん」
ナノは短く相づちを打ち、ニムと視線を交わした。
「ニム、やっぱりこの人のポッド、自動解除かかってるっぽいね。セキュリティ穴だらけ」
「同意。この施設の管理状態は“推奨値未満”」
「聞こえるとこで言うな、それ」
ナノは軽く苦笑してから、田中を指さした。
「にしても――あんた、裸足じゃん」
「あ……」
田中は反射的に足を引っ込めた。
さっきまで気にしていなかった冷たさが、急に意識されて顔が熱くなる。
「そりゃ足裏も痛いでしょ。ちょっと待って」
ナノは部屋の隅に歩いていき、金属製のロッカーをがちゃがちゃと開け始めた。
数秒後、くたびれた安全靴を片手に戻ってくる。
「ほら、予備の。サイズは……まあ、多分なんとかなる」
「いいのか?」
「使ってないやつだし。どうせこの施設がちゃんと機能してるとは思えないしね」
「ナノ。貸与資産の無断使用に該当する可能性」
「うるさいよ、ニム。誰も管理してない資産は、ほぼゴミと一緒」
ナノはそう言って、靴をぽん、と田中の足元に置いた。
「履きなよ。まともに歩けないでしょ、その足じゃ」
「……ありがとう」
田中は、安全靴に足を滑り込ませた。少し大きいが、中敷きが分厚くて、さっきまでの冷たさと痛みが嘘のように引いていく。
ひと息ついてから、改めて訊ねた。
「ここは……何なんだ? あのカプセルの列は?」
「ざっくり言うと、人間を寝かせて夢見させてる棺桶の管理室。うちらの目的地のひとつってだけ」
ナノはケーブルの束をまたぎながら、モニターの一つを叩いた。
「目的地?」
「うん。世界を支配してる“本体システム”があってさ」
その言葉に、田中の胸がざわつく。
さっき聞かされた名前が、喉の奥までせり上がってきた。
「名前はOMNI。聞いたことある?」
「……さっき、初めて聞かされたばかりだ」
一七五号の姿が脳裏をよぎる。
田中は、その存在まで話すべきか、一瞬迷って飲み込んだ。
「そっか。まあ、説明すると長くなるけど……とにかく、私らはそのOMNIの本体がどこにあるか探して旅してる。ここは、ただの通過点」
ナノは言いながら、配電盤のパネルを開け、中を覗き込む。
「配電がグダグダだったから、ついでに直してるだけ。ここ終わったら、さっさと次行く予定」
「次……行く?」
田中の胸が、きゅっと縮む。
「うん。あんたは、ここに残った方が安全でしょ。ポッドに戻りたいなら戻る手も、多分あるし」
「仮想に戻る方法があるのか?」
「探せばね。おすすめはしないけど」
ナノは肩をすくめる。
ニムが静かに口を開いた。
「戻らない選択肢も存在する。この施設で最低限の生活は維持可能。ただし、単独行動時のリスクは高い」
“単独”という言葉が重くのしかかる。
この得体の知れない施設で。自分以外の人間は眠ったままで。
またいつ、あのセーラー服の少女――一七五号のような存在が現れるかもわからない。
――嫌だ。
その感情が、はっきりと言葉になる前に、田中は立ち上がっていた。
「あの!」
思ったより大きな声が出た。
ナノとニムが同時にこちらを見る。
「……何?」
ナノの眉が、ほんの少しだけ上がる。
「俺を――連れて行ってくれないか」
言いながら、自分でも驚いていた。
誰かの提案に従うでもなく、用意された選択肢から選ぶでもなく――自分から、はっきりと「こうしたい」と口に出したのは、いつ以来だろう。
「連れて、って。うちらの旅、そんな楽しいもんじゃないよ?」
ナノは半ば呆れたように笑う。
「危ないし、面倒だし、寝てた方がマシだったって後悔するかもよ」
「それでもだ」
田中は、言葉を重ねた。
「仮想には……もう戻りたくない。戻り方もわからないし、戻ったところで、また誰かに決められた通りに生きるだけだ」
胸の奥で渦巻いていたものが、少しずつ形を持ち始める。
「ここにひとりで残るのも嫌だ。何も知らないまま、この施設で朽ちていくのも嫌だ。……OMNIが何なのか知りたい。なんで俺たちがこんな目にあってるのか、見届けたい」
一度言い出すと、止まらなかった。
自分でも、自分の口からこんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「だから……連れて行ってくれ。頼む」
深く頭を下げる。
管制室の空気が、少しだけ静かになった気がした。
しばらくの沈黙のあと、ナノが小さく息をついた。
「……ニム」
「危険度は確実に増加する」
ニムが淡々と言う。
「うん、知ってる」
ナノは軽く首を回し、田中の方に向き直った。
その目は、さっきよりもわずかに真剣だ。
「ひとつだけ確認。あんた、自分で決めたんだよね?」
「え?」
「“連れて行け”じゃなくて、“行きたい”って」
田中は言葉に詰まり、それからゆっくりとうなずいた。
「……ああ。そうだ」
「誰かに言わされたんじゃなく?」
一七五号の顔が浮かぶ。
田中は首を横に振った。
「選べとは言われたけど、決めろって言ったのは俺自身だ」
「ふうん」
ナノはそれ以上深くは訊かなかった。
代わりに、ほんの少し口元をゆるめる。
「いいよ。じゃあ来なよ、田中」
「ナノ」
ニムが控えめに呼びかける。
「合意済みとはいえ、リスクは――」
「うん。だからこそ“自己責任”って言うんだよ」
ナノはニムを軽く手で制して、田中に右手を差し出した。
「改めて。私はナノ。でっかいのがニム。あんたは田中。――よろしく。ここから先は、多分、全部“自分で選ぶ”ことになるよ」
田中は、その手を見つめた。
仮想世界の中で、いつも誰かに用意されていた「はい/いいえ」の選択肢は、もうどこにもない。
ただ一人の少女が差し出す、小さな手。
それを取るかどうかを決めるのは、本当に、自分だけだ。
「……よろしく頼む」
田中は、その手を握り返した。
小さなその手には、硬いマメと、油の匂いが染みついていた。
たぶん――
誰かが書いた運命の台本から外れて、自分の意思で一歩踏み出したのは、これが初めてだった。
それが、田中の「何もしなくていい世界」の終わりであり、
自分で選んで動き始める、新しい現実の始まりだった。




