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運命の残響  作者: 蘋果
第一巻 夢の始
8/10

第一卷第八話「さよなら、ちいさな星」──いいえ、実は……

3週間近くお待たせしてしまってごめんなさい。裏で設定を更新していました。これから出てくるキャラたち、きっと好きになってもらえると思います


ムトは夕暮れの通りを縫うように駆けていた。ふわふわの毛玉が石畳すれすれを滑るように飛んでいく。まるで毛皮の弾丸だ。


黄昏の市街は人で溢れ、屋台の呼び声、鍋を叩く音、子どもの笑い声がごちゃ混ぜになって、熱い騒がしさを作っている。空気には揚げ物の油、香辛料、湿った布の匂いが漂っていた。


そのムトに、三人はほとんど引きずられるように走っている。


「ムト、待ってってば!」

セレイアは追いかけながら叫ぶ。人波にスカートの裾を擦られ、籠を提げた婦人にぶつかりそうになって、危うくよろけた。


ムトは止まらない。短い脚がありえない速さで回り、尻尾は旗みたいにぴんと立っている。


「セレイア、どうする!? ムト、ちっちゃすぎる!」

コンティは息を切らし、前方の小さな影から目を離さない。

「このまま人混みに潜り込まれたら、絶対見失うぞ!」


「ムト……ちょっと、ゆっくり……」

小星星は横で小さな歩幅を必死に合わせ、手を伸ばしては引っ込める。抱き上げたいのに、追いつくのが精一杯だった。


『匂いは近い! いや、もっと先だ。』

ムトの鼻先がぴくりと震えた。何かに引かれているみたいに、集中がさらに深くなる。


ムトは細い路地の入口へ勢いよく飛び込み、影が水のように落ちてくる。肌に冷えがぺたりと張りついた、その瞬間。


路地の奥から、一人の男が出てきた。


ムトは匂いに夢中で、顔を上げもしない。小さな頭が「ごん」と男のズボンの脚にぶつかり、壁に当たったみたいに跳ね返って尻もちをつきそうになる。


「どこから来たんだ、この子。かわいいなぁ」

男は身をかがめ、自然な笑みを浮かべた。声が、温めたミルクみたいに柔らかい。


『ムト様が見えてないのか!? 噛むぞ!』

ムトは毛を逆立て、鼻先を誇らしげに突き上げた。


三人は同時に息を呑んで足を止めた。コンティと小星星は固まったまま、まるで急に動きを止められた人形みたいだ。セレイアだけが先に反応し、さっとムトを抱き上げて胸に抱え込む。ぎゅっと、守るように。


見上げた男の顔は、人当たりのいい線をしていた。輪郭はすっきりしていて、瞳は生まれたての子どもが持つような明るい好奇心を宿している。けれど同時に、年齢に似合わない落ち着きがあった。人に見られることに慣れている、そんな雰囲気。


「すみません!」

セレイアはムトを抱いたまま軽く頭を下げる。

「うちの巡獣が、あなたの脚にぶつかっちゃって……」


「大丈夫、大丈夫」

男は手を振って笑った。

「僕の脚が道を塞いだだけだよ。この子が悪いわけじゃない」


コンティと小星星も、ようやくそろそろと近づいてセレイアの後ろへ。コンティはまだ警戒を解かず、肩が少し硬い。小星星はこっそり顔を覗かせ、相手が悪い人じゃないか確かめるみたいに見ていた。


「いえいえ、ムトが不注意で……」

セレイアは気まずさを避けるように、慌てて付け足した。


『ムト様はぶつかってない! 向こうがぶつかった!』

腕の中のムトがむくれて身をよじり、鼻を鳴らす。


「ムトっていうんだ」

男の目がムトに落ちて、溺愛みたいに柔らかく細まった。

「いい名前だね。素敵な名付けだ」


「えへへ、そんな……!」

褒められてセレイアの頬がふわっと緩むが、すぐ思い出したように慌てて訂正する。

「でもムトの名前は友だちがつけたんです! ムトも、その子の訓獣で……」


「そうなんだ?」

男は少し眉を上げ、笑みは崩さない。

「じゃあ、その友だちはきっと優しい人なんだろうね。こんな可愛い子を育てるなんて」


男はふと何か思い出したように、外套のポケットを軽く叩いた。


「……あ、僕としたことが」

自分に呆れたみたいに笑い、言った。

「自己紹介が遅れた。エイシェン・サイラス。エイシェンでいいよ」


「こんにちは、エイシェンさん!」

セレイアは風鈴みたいに明るい声で返す。

「私はセレイア。こっちは男の子でコンティ! それでこの子は……うん、“小星星”って呼んでるの!」


「セレイア、コンティ、それに小星星」

エイシェンは一つ一つの名前を丁寧に口にした。音を落とすのが怖いみたいに。

「どれも、いい響きだ」


彼は漆黒の外套の内側から、小さな手帳を取り出した。表紙は擦れ、角はめくれ、何度も開かれてきたことがわかる。ぱらりと開き、空白のページに三人の名前を書き込む。さらに横に短いメモ。


セレイア:金髪、笑顔が明るい。

小星星:指輪が光る、銀白の髪。

コンティ:黒髪、目がきれい。


「えっと……エイシェンさん?」

セレイアは手帳を見て、遠慮がちに訊いた。

「それ、何を……?」


「あっ、ごめん!」

エイシェンは慌てて顔を上げた。

「僕、物覚えがひどくて。すぐ忘れちゃうんだ。だからこうして、出会った人を書き留めてる。今気づいたんだけど、先に許可を取るべきだったよね……書いてもいい?」


「私は全然平気!」

セレイアは即答し、振り返って二人にも聞く。

「二人は?」


「俺もいいよ」

コンティは小さく頷く。


「わ、わたしも……いい……」

小星星の声は小さく、壊れ物みたいに慎重だった。


けれど、ムトは納得していない。


『おい! ムト様に許可取ってないだろ!』

腕の中で暴れ、爪がばたばたと動く。セレイアの襟元が少し歪むほどだ。


セレイアがぎゅっと抱き直し、小声で宥めると、ムトはしばらくもがいてから、力尽きたようにだらりと伸びた。


『疲れた。好きにしろ。』

「どうでもいい」って顔で、腕の上にぺたりと乗っている。


そのとき、小星星がセレイアの袖をそっと引いた。


「どうしたの?」


「……ママ、探す……」

小さな声が、水面に落ちた小石みたいに、ちょうどよく彼女を現実に戻す。


セレイアは額をぱしんと叩いた。


「あっ、そうだった!」

彼女はエイシェンに申し訳なさそうに笑う。

「ごめんなさい、エイシェンさん。私たち急いでて……また今度お話してもいいですか?」


「もちろん」

エイシェンは自然な手つきで手帳をしまい、手を振った。

「邪魔しちゃって悪かったね。じゃあ、また」


小星星は指輪をもう一度ムトの鼻先に近づける。ムトがくん、と嗅いだ瞬間、見えない糸で引かれたみたいに目つきが変わり、地面に降りるとまた走り出した。


三人は慌てて別れを告げ、人混みへ戻っていく。エイシェンは路地口に立ったまま、遠ざかる背中に手を振った。


……そして、ふっと表情が抜け落ちる。思考が誰かに抜き取られたみたいに、彼はその場で立ち尽くした。


「……あれ。俺、何しに出てきたんだっけ」



ムトは彼らを、左へ右へと導いた。市場の端を抜け、洗濯紐が交差する細道を抜け、騒がしさが少しずつ後ろへ遠のいていく。石畳はいつの間にか綺麗になり、空気も冷たく澄んでいった。


「追いつけるか」「見失うか」その緊張が、時間を少しずつ削っていく。


そして、ムトが唐突に止まった。


前にあるのは教会だった。


市街の建物みたいに密着していない。短い空地があり、まるで意図的に距離を置かせている。外壁の石は冷たく、窓枠の線は刃物で刻んだみたいに真っ直ぐだ。夕陽が尖塔に差し込んでも、その光は砕けて散るだけで、建物を温めることはない。


三人はやっと足を止め、溺れた後みたいに息を吐いた。


「ここは……」

コンティがふらつく頭を振る。


セレイアは表情がわずかに硬くなり、無意識に小星星を見る。さっきまでの笑いが、すっと引いていた。


小星星は教会を見上げた。拒めない答えを前にしたみたいに。


「……ここは、聖教……」


セレイアはすぐに空気を戻すように明るく言う。

「小星星、ママに会えるんだよ? よかったね!」


「うん!」

小星星は小さく頷き、スカートの端をぎゅっと握った。

「助けてくれて……ありがとう。あなたたちに会えて、よかった……!」


そのとき、教会の脇の扉が音もなく開いた。


最初に出てきたのは一人の女だった。


細身で、歩き方がやけに安定している。自分のリズムを一歩一歩刻むみたいに。腰と肩に、形の変わった短剣が二本。武器というより、何かの儀式道具みたいな異様さがある。


彼女は三人の横をすれ違うとき、ほんの少し口元を上げた。礼儀の笑み。けれど、その温度は目に届かない。


止まりもしない。振り返りもしない。ただ人波に溶けていく。


不思議だった。歩く速度は速くないのに、周りが自然に道を空けて、数呼吸のうちに姿が消えた。


コンティは消えた方向を見つめ、背中に薄い寒気が走った。理由は説明できない。ただ、嫌な予感だけが残る。


ほどなくして、今度は正面の方から別の女性が慌てて出てきた。


豊かな体つきで、動きは上品。頬には焦りの色が残っていて、必死に周囲を探している。けれど小星星を見つけた瞬間、その憂いは陽光みたいに溶けた。


「小星星! どこ行ってたの!」

彼女は駆け寄ってきて、ほとんど飛びつく勢いで抱きしめる。

「ずっと探してたのよ!」


「ママ!」

小星星の声が、張り詰めていた糸が切れたみたいに弾んだ。


抱擁の中で、小星星の体がやっと安心を思い出したように見える。コンティとセレイアも、見ているだけで胸の奥が少し柔らかくなる。


二人は視線を落としてムトを見た。そして揃って抱き上げ、毛を確かめるように触る。


「うーん……ムトって、小星星のママほど柔らかくないね……」

セレイアが本気で残念そうに言う。


「……同感」

コンティまで真顔で追撃した。


『てめぇら!!』

ムトは一瞬でブチ切れ、二人の頬をそれぞれ一回ずつ噛んだ。判子を押すみたいに、きっちり。


二人の腕から飛び降りると、少し離れた場所で毛づくろいを始める。舐めながら、目だけで罵っていた。


女性は小星星を離し、二人の前へ来て深々と頭を下げる。


「この子を連れてきてくださったのね。本当にありがとうございます!」


コンティとセレイアが「いえそんな」と言いかけた瞬間、ふわっと柔らかいものが顔面に押し寄せた。


女性が二人を丸ごと抱きしめていた。逃がさない勢いの感謝の抱擁。


「本当に、ありがとう!」


「ママ……」

小星星が母の裾を引っ張り、小さく抗議する。

「二人、苦しい……」


女性はやっと手を緩め、二人は同時に息を吸い直した。なのに、口から出た言葉が同じだった。


「……最高……」


「え?」

女性は首をかしげて笑う。

「何が?」


「な、何でもない! コンティのせい!」

セレイアが即座に責任転嫁し、顔を赤くする。


「そ、そう……だな……」

コンティも耳まで赤いまま、逃げるように頷いた。


女性は追及せず、くすっと笑って流した。


「そうそう」

彼女は改めて名乗るように言う。

「私はエストラ・ルミア。エストラでも、“星ママ”でもいいわ。小星星、あなた、お友だちに名前は言ったの?」


「……言ってない」

小星星は俯く。

「リオン叔父さんが、外で人に会うときは名前を簡単に言うなって」


エストラは楽しそうに笑った。


「リオンの言うことは正しいわ。でもね」

彼女は小星星の頭を撫でる。

「もう友だちなら、黙ってるのは逆に失礼よ?」


「わかった!」

小星星は顔を上げ、やけに真面目に言った。

「コンティ、セレイア。ちゃんと自己紹介する。わたし、リア・ルミア。最初に言えなくて、ごめんね」


「リア、すごくいい名前!」

セレイアは嬉しそうに手を叩き、コンティに振る。

「ね、可愛いよね?」


「……うん。いい名前だ」

コンティは笑う。けれど、少しだけ視線が泳いだ。


セレイアの目が細くなる。噂の匂いを嗅ぎつけた顔。


「んー? どうしたの?」

彼女はにやにや寄り、囁くように言う。

「コンティ、何か後ろめたいことでもあるの?〜」


わざと耳元へ近づき、ふっと息を吹きかける。コンティは雷でも落ちたみたいに固まり、顔が一気に真っ赤になった。


「な、ない!」


「ほんとに〜?」

セレイアはしつこく迫ろうとする。


コンティは焦って耳を手で守った。弱点を守る獣みたいに。


セレイアは勝ち誇ったように笑う。

「へへへ……」


エストラはその様子を見て、母親らしい柔らかな笑みを浮かべた。


「よかったら、何か食べていかない?」

エストラが言うと、リアも目を輝かせてうなずく。


「お願い、少しだけでも!」


「いいよ!」

セレイアは即答した。


その次の瞬間、コンティがセレイアの服の裾を引いた。声は低く、現実を突きつけるみたいに。


「……野菜。……それと、薬」


セレイアの顔が固まった。


「うわ、忘れてた!!」

頭を抱える勢いで言い、慌てて謝る。

「買って帰らないとオットソに怒られて死ぬ……! ごめんなさい、エストラさん、リア。今日は無理かも!」


リアの顔にほんの少し寂しさが差したけれど、すぐに笑顔を作った。小さく、けれど大事そうに聞く。


「じゃあ……次は、一緒にいられる?」


「もちろん!」

セレイアとコンティがほぼ同時に答えた。


二人が別れの挨拶をして立ち去ろうとしたとき、コンティがふと戻ってきた。背中を引っ張る何かがあるみたいに。迷いながら鞄を開け、母からもらった菓子を取り出す。


「……これ」

差し出す声が少し震える。

「本当は最初に渡したかった。……えっと、嫌じゃなければ、受け取ってくれる?」


リアは両手で受け取った。宝物を扱うみたいに丁寧に。


「うん……ありがとう」

小さく笑い、目を上げる。

「あなたと……あなたのお母さんにも。……またね」


エストラは二人の様子を見て、恋の妄想が勝手に頭を駆け抜けたのか、隠しきれない笑いが漏れた。


「ふふ、コンティ、やるじゃない」


その直後、セレイアが後ろから急に現れて囁いた。


「ねえ、私の分は?」


「うわっ! 背後に出るな!」

コンティがびくっと跳ねる。


セレイアは悪びれずににやにやする。

「じゃあ、私ももらえる〜?」


「……ある」

コンティは即答してから、悔しそうに付け足す。

「でも謝れ」


「え〜、コンティくん〜」

セレイアは甘えた声で絡む。

「長い仲じゃん、ちょっとくらい〜」


コンティは鼻を鳴らし、わざと不機嫌そうに一番形のいい大きめのやつを選んで渡した。


セレイアは満足そうに笑う。

「ツンデレ〜」


「それ言うなら取り返す!」

コンティは赤い耳のまま睨むが、迫力はあまりない。


エストラは二人を眺め、リアをちらりと見て、独り言のように小さく言った。


「ライバルができたわね、娘」


「え? ママ、何か言った?」

リアが首をかしげる。


「何も何も」

エストラは無邪気に笑って誤魔化した。


セレイアは空を見上げた。黄昏がもう沈みかけ、市場の音が“最後の売り切り”みたいにせわしない。


「行こ! 本当に行かないと買えない!」


「じゃあ、またね」

セレイアは手を振る。

「エストラさん、リア。次、絶対会おう!」


「うん! 絶対!」

リアは力いっぱい頷いた。約束を胸に閉じ込めるみたいに。


コンティとセレイアは黄昏の市場へ向かって歩き出す。斜めの夕陽が二人の影を長く引き伸ばし、石畳の上で影が交差して、うっかり絡まったみたいに見えた。


その背後で、小さな怒り声が炸裂する。


『おい!!』

『ムト様を忘れてんじゃねぇ!!』


ムトはぷりぷりしながら短い脚を必死に動かし、二人を追いかけた。その足音は小さいのに、怒りだけは通りの端まで届きそうだった。

次回以降、重要な人物が登場します。お楽しみに

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