第一卷第八話「さよなら、ちいさな星」──いいえ、実は……
3週間近くお待たせしてしまってごめんなさい。裏で設定を更新していました。これから出てくるキャラたち、きっと好きになってもらえると思います
ムトは夕暮れの通りを縫うように駆けていた。ふわふわの毛玉が石畳すれすれを滑るように飛んでいく。まるで毛皮の弾丸だ。
黄昏の市街は人で溢れ、屋台の呼び声、鍋を叩く音、子どもの笑い声がごちゃ混ぜになって、熱い騒がしさを作っている。空気には揚げ物の油、香辛料、湿った布の匂いが漂っていた。
そのムトに、三人はほとんど引きずられるように走っている。
「ムト、待ってってば!」
セレイアは追いかけながら叫ぶ。人波にスカートの裾を擦られ、籠を提げた婦人にぶつかりそうになって、危うくよろけた。
ムトは止まらない。短い脚がありえない速さで回り、尻尾は旗みたいにぴんと立っている。
「セレイア、どうする!? ムト、ちっちゃすぎる!」
コンティは息を切らし、前方の小さな影から目を離さない。
「このまま人混みに潜り込まれたら、絶対見失うぞ!」
「ムト……ちょっと、ゆっくり……」
小星星は横で小さな歩幅を必死に合わせ、手を伸ばしては引っ込める。抱き上げたいのに、追いつくのが精一杯だった。
『匂いは近い! いや、もっと先だ。』
ムトの鼻先がぴくりと震えた。何かに引かれているみたいに、集中がさらに深くなる。
ムトは細い路地の入口へ勢いよく飛び込み、影が水のように落ちてくる。肌に冷えがぺたりと張りついた、その瞬間。
路地の奥から、一人の男が出てきた。
ムトは匂いに夢中で、顔を上げもしない。小さな頭が「ごん」と男のズボンの脚にぶつかり、壁に当たったみたいに跳ね返って尻もちをつきそうになる。
「どこから来たんだ、この子。かわいいなぁ」
男は身をかがめ、自然な笑みを浮かべた。声が、温めたミルクみたいに柔らかい。
『ムト様が見えてないのか!? 噛むぞ!』
ムトは毛を逆立て、鼻先を誇らしげに突き上げた。
三人は同時に息を呑んで足を止めた。コンティと小星星は固まったまま、まるで急に動きを止められた人形みたいだ。セレイアだけが先に反応し、さっとムトを抱き上げて胸に抱え込む。ぎゅっと、守るように。
見上げた男の顔は、人当たりのいい線をしていた。輪郭はすっきりしていて、瞳は生まれたての子どもが持つような明るい好奇心を宿している。けれど同時に、年齢に似合わない落ち着きがあった。人に見られることに慣れている、そんな雰囲気。
「すみません!」
セレイアはムトを抱いたまま軽く頭を下げる。
「うちの巡獣が、あなたの脚にぶつかっちゃって……」
「大丈夫、大丈夫」
男は手を振って笑った。
「僕の脚が道を塞いだだけだよ。この子が悪いわけじゃない」
コンティと小星星も、ようやくそろそろと近づいてセレイアの後ろへ。コンティはまだ警戒を解かず、肩が少し硬い。小星星はこっそり顔を覗かせ、相手が悪い人じゃないか確かめるみたいに見ていた。
「いえいえ、ムトが不注意で……」
セレイアは気まずさを避けるように、慌てて付け足した。
『ムト様はぶつかってない! 向こうがぶつかった!』
腕の中のムトがむくれて身をよじり、鼻を鳴らす。
「ムトっていうんだ」
男の目がムトに落ちて、溺愛みたいに柔らかく細まった。
「いい名前だね。素敵な名付けだ」
「えへへ、そんな……!」
褒められてセレイアの頬がふわっと緩むが、すぐ思い出したように慌てて訂正する。
「でもムトの名前は友だちがつけたんです! ムトも、その子の訓獣で……」
「そうなんだ?」
男は少し眉を上げ、笑みは崩さない。
「じゃあ、その友だちはきっと優しい人なんだろうね。こんな可愛い子を育てるなんて」
男はふと何か思い出したように、外套のポケットを軽く叩いた。
「……あ、僕としたことが」
自分に呆れたみたいに笑い、言った。
「自己紹介が遅れた。エイシェン・サイラス。エイシェンでいいよ」
「こんにちは、エイシェンさん!」
セレイアは風鈴みたいに明るい声で返す。
「私はセレイア。こっちは男の子でコンティ! それでこの子は……うん、“小星星”って呼んでるの!」
「セレイア、コンティ、それに小星星」
エイシェンは一つ一つの名前を丁寧に口にした。音を落とすのが怖いみたいに。
「どれも、いい響きだ」
彼は漆黒の外套の内側から、小さな手帳を取り出した。表紙は擦れ、角はめくれ、何度も開かれてきたことがわかる。ぱらりと開き、空白のページに三人の名前を書き込む。さらに横に短いメモ。
セレイア:金髪、笑顔が明るい。
小星星:指輪が光る、銀白の髪。
コンティ:黒髪、目がきれい。
「えっと……エイシェンさん?」
セレイアは手帳を見て、遠慮がちに訊いた。
「それ、何を……?」
「あっ、ごめん!」
エイシェンは慌てて顔を上げた。
「僕、物覚えがひどくて。すぐ忘れちゃうんだ。だからこうして、出会った人を書き留めてる。今気づいたんだけど、先に許可を取るべきだったよね……書いてもいい?」
「私は全然平気!」
セレイアは即答し、振り返って二人にも聞く。
「二人は?」
「俺もいいよ」
コンティは小さく頷く。
「わ、わたしも……いい……」
小星星の声は小さく、壊れ物みたいに慎重だった。
けれど、ムトは納得していない。
『おい! ムト様に許可取ってないだろ!』
腕の中で暴れ、爪がばたばたと動く。セレイアの襟元が少し歪むほどだ。
セレイアがぎゅっと抱き直し、小声で宥めると、ムトはしばらくもがいてから、力尽きたようにだらりと伸びた。
『疲れた。好きにしろ。』
「どうでもいい」って顔で、腕の上にぺたりと乗っている。
そのとき、小星星がセレイアの袖をそっと引いた。
「どうしたの?」
「……ママ、探す……」
小さな声が、水面に落ちた小石みたいに、ちょうどよく彼女を現実に戻す。
セレイアは額をぱしんと叩いた。
「あっ、そうだった!」
彼女はエイシェンに申し訳なさそうに笑う。
「ごめんなさい、エイシェンさん。私たち急いでて……また今度お話してもいいですか?」
「もちろん」
エイシェンは自然な手つきで手帳をしまい、手を振った。
「邪魔しちゃって悪かったね。じゃあ、また」
小星星は指輪をもう一度ムトの鼻先に近づける。ムトがくん、と嗅いだ瞬間、見えない糸で引かれたみたいに目つきが変わり、地面に降りるとまた走り出した。
三人は慌てて別れを告げ、人混みへ戻っていく。エイシェンは路地口に立ったまま、遠ざかる背中に手を振った。
……そして、ふっと表情が抜け落ちる。思考が誰かに抜き取られたみたいに、彼はその場で立ち尽くした。
「……あれ。俺、何しに出てきたんだっけ」
⸻
ムトは彼らを、左へ右へと導いた。市場の端を抜け、洗濯紐が交差する細道を抜け、騒がしさが少しずつ後ろへ遠のいていく。石畳はいつの間にか綺麗になり、空気も冷たく澄んでいった。
「追いつけるか」「見失うか」その緊張が、時間を少しずつ削っていく。
そして、ムトが唐突に止まった。
前にあるのは教会だった。
市街の建物みたいに密着していない。短い空地があり、まるで意図的に距離を置かせている。外壁の石は冷たく、窓枠の線は刃物で刻んだみたいに真っ直ぐだ。夕陽が尖塔に差し込んでも、その光は砕けて散るだけで、建物を温めることはない。
三人はやっと足を止め、溺れた後みたいに息を吐いた。
「ここは……」
コンティがふらつく頭を振る。
セレイアは表情がわずかに硬くなり、無意識に小星星を見る。さっきまでの笑いが、すっと引いていた。
小星星は教会を見上げた。拒めない答えを前にしたみたいに。
「……ここは、聖教……」
セレイアはすぐに空気を戻すように明るく言う。
「小星星、ママに会えるんだよ? よかったね!」
「うん!」
小星星は小さく頷き、スカートの端をぎゅっと握った。
「助けてくれて……ありがとう。あなたたちに会えて、よかった……!」
そのとき、教会の脇の扉が音もなく開いた。
最初に出てきたのは一人の女だった。
細身で、歩き方がやけに安定している。自分のリズムを一歩一歩刻むみたいに。腰と肩に、形の変わった短剣が二本。武器というより、何かの儀式道具みたいな異様さがある。
彼女は三人の横をすれ違うとき、ほんの少し口元を上げた。礼儀の笑み。けれど、その温度は目に届かない。
止まりもしない。振り返りもしない。ただ人波に溶けていく。
不思議だった。歩く速度は速くないのに、周りが自然に道を空けて、数呼吸のうちに姿が消えた。
コンティは消えた方向を見つめ、背中に薄い寒気が走った。理由は説明できない。ただ、嫌な予感だけが残る。
ほどなくして、今度は正面の方から別の女性が慌てて出てきた。
豊かな体つきで、動きは上品。頬には焦りの色が残っていて、必死に周囲を探している。けれど小星星を見つけた瞬間、その憂いは陽光みたいに溶けた。
「小星星! どこ行ってたの!」
彼女は駆け寄ってきて、ほとんど飛びつく勢いで抱きしめる。
「ずっと探してたのよ!」
「ママ!」
小星星の声が、張り詰めていた糸が切れたみたいに弾んだ。
抱擁の中で、小星星の体がやっと安心を思い出したように見える。コンティとセレイアも、見ているだけで胸の奥が少し柔らかくなる。
二人は視線を落としてムトを見た。そして揃って抱き上げ、毛を確かめるように触る。
「うーん……ムトって、小星星のママほど柔らかくないね……」
セレイアが本気で残念そうに言う。
「……同感」
コンティまで真顔で追撃した。
『てめぇら!!』
ムトは一瞬でブチ切れ、二人の頬をそれぞれ一回ずつ噛んだ。判子を押すみたいに、きっちり。
二人の腕から飛び降りると、少し離れた場所で毛づくろいを始める。舐めながら、目だけで罵っていた。
女性は小星星を離し、二人の前へ来て深々と頭を下げる。
「この子を連れてきてくださったのね。本当にありがとうございます!」
コンティとセレイアが「いえそんな」と言いかけた瞬間、ふわっと柔らかいものが顔面に押し寄せた。
女性が二人を丸ごと抱きしめていた。逃がさない勢いの感謝の抱擁。
「本当に、ありがとう!」
「ママ……」
小星星が母の裾を引っ張り、小さく抗議する。
「二人、苦しい……」
女性はやっと手を緩め、二人は同時に息を吸い直した。なのに、口から出た言葉が同じだった。
「……最高……」
「え?」
女性は首をかしげて笑う。
「何が?」
「な、何でもない! コンティのせい!」
セレイアが即座に責任転嫁し、顔を赤くする。
「そ、そう……だな……」
コンティも耳まで赤いまま、逃げるように頷いた。
女性は追及せず、くすっと笑って流した。
「そうそう」
彼女は改めて名乗るように言う。
「私はエストラ・ルミア。エストラでも、“星ママ”でもいいわ。小星星、あなた、お友だちに名前は言ったの?」
「……言ってない」
小星星は俯く。
「リオン叔父さんが、外で人に会うときは名前を簡単に言うなって」
エストラは楽しそうに笑った。
「リオンの言うことは正しいわ。でもね」
彼女は小星星の頭を撫でる。
「もう友だちなら、黙ってるのは逆に失礼よ?」
「わかった!」
小星星は顔を上げ、やけに真面目に言った。
「コンティ、セレイア。ちゃんと自己紹介する。わたし、リア・ルミア。最初に言えなくて、ごめんね」
「リア、すごくいい名前!」
セレイアは嬉しそうに手を叩き、コンティに振る。
「ね、可愛いよね?」
「……うん。いい名前だ」
コンティは笑う。けれど、少しだけ視線が泳いだ。
セレイアの目が細くなる。噂の匂いを嗅ぎつけた顔。
「んー? どうしたの?」
彼女はにやにや寄り、囁くように言う。
「コンティ、何か後ろめたいことでもあるの?〜」
わざと耳元へ近づき、ふっと息を吹きかける。コンティは雷でも落ちたみたいに固まり、顔が一気に真っ赤になった。
「な、ない!」
「ほんとに〜?」
セレイアはしつこく迫ろうとする。
コンティは焦って耳を手で守った。弱点を守る獣みたいに。
セレイアは勝ち誇ったように笑う。
「へへへ……」
エストラはその様子を見て、母親らしい柔らかな笑みを浮かべた。
「よかったら、何か食べていかない?」
エストラが言うと、リアも目を輝かせてうなずく。
「お願い、少しだけでも!」
「いいよ!」
セレイアは即答した。
その次の瞬間、コンティがセレイアの服の裾を引いた。声は低く、現実を突きつけるみたいに。
「……野菜。……それと、薬」
セレイアの顔が固まった。
「うわ、忘れてた!!」
頭を抱える勢いで言い、慌てて謝る。
「買って帰らないとオットソに怒られて死ぬ……! ごめんなさい、エストラさん、リア。今日は無理かも!」
リアの顔にほんの少し寂しさが差したけれど、すぐに笑顔を作った。小さく、けれど大事そうに聞く。
「じゃあ……次は、一緒にいられる?」
「もちろん!」
セレイアとコンティがほぼ同時に答えた。
二人が別れの挨拶をして立ち去ろうとしたとき、コンティがふと戻ってきた。背中を引っ張る何かがあるみたいに。迷いながら鞄を開け、母からもらった菓子を取り出す。
「……これ」
差し出す声が少し震える。
「本当は最初に渡したかった。……えっと、嫌じゃなければ、受け取ってくれる?」
リアは両手で受け取った。宝物を扱うみたいに丁寧に。
「うん……ありがとう」
小さく笑い、目を上げる。
「あなたと……あなたのお母さんにも。……またね」
エストラは二人の様子を見て、恋の妄想が勝手に頭を駆け抜けたのか、隠しきれない笑いが漏れた。
「ふふ、コンティ、やるじゃない」
その直後、セレイアが後ろから急に現れて囁いた。
「ねえ、私の分は?」
「うわっ! 背後に出るな!」
コンティがびくっと跳ねる。
セレイアは悪びれずににやにやする。
「じゃあ、私ももらえる〜?」
「……ある」
コンティは即答してから、悔しそうに付け足す。
「でも謝れ」
「え〜、コンティくん〜」
セレイアは甘えた声で絡む。
「長い仲じゃん、ちょっとくらい〜」
コンティは鼻を鳴らし、わざと不機嫌そうに一番形のいい大きめのやつを選んで渡した。
セレイアは満足そうに笑う。
「ツンデレ〜」
「それ言うなら取り返す!」
コンティは赤い耳のまま睨むが、迫力はあまりない。
エストラは二人を眺め、リアをちらりと見て、独り言のように小さく言った。
「ライバルができたわね、娘」
「え? ママ、何か言った?」
リアが首をかしげる。
「何も何も」
エストラは無邪気に笑って誤魔化した。
セレイアは空を見上げた。黄昏がもう沈みかけ、市場の音が“最後の売り切り”みたいにせわしない。
「行こ! 本当に行かないと買えない!」
「じゃあ、またね」
セレイアは手を振る。
「エストラさん、リア。次、絶対会おう!」
「うん! 絶対!」
リアは力いっぱい頷いた。約束を胸に閉じ込めるみたいに。
コンティとセレイアは黄昏の市場へ向かって歩き出す。斜めの夕陽が二人の影を長く引き伸ばし、石畳の上で影が交差して、うっかり絡まったみたいに見えた。
その背後で、小さな怒り声が炸裂する。
『おい!!』
『ムト様を忘れてんじゃねぇ!!』
ムトはぷりぷりしながら短い脚を必死に動かし、二人を追いかけた。その足音は小さいのに、怒りだけは通りの端まで届きそうだった。
次回以降、重要な人物が登場します。お楽しみに




