第一章第四段三神録(さんしんろく)
読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
翻訳はずっと私の課題で、読んでくださる皆さんにとってあまり負担にならないようにするのは本当に難しいです。
読者の皆さん、本当にごめんなさい!
コーディは、深い眠りの底からいきなり引き上げられた。
誰かに、そっと名前を呼ばれた気がした。
懐かしいような、けれど思い出せない声。夢のいちばん奥から、ゆっくり浮かび上がってくるみたいな響き。
それが誰なのか考えるより早く、頬にくすぐったい感覚が伝わってくる。
指先で触れてみると、そこはうっすらと濡れていた。
コーディはきょとんと瞬きをしてから、自分が泣いていたことに気づく。
手の甲でごしごしと涙を拭い、布団をめくってベッドから降りた。素足に床の冷たさがじんわりと染み込んでくる。
廊下は静かで、軋む床板の音だけが耳に残る。
両親の寝室の前まで来ると、コーディは小さく拳を握って、こんこんと二度ノックした。
「パパ……ママ……」
泣き声をこらえたような、小さな呼び声。
眠っていたルシアンは、その声に気づいて目を覚ました。
隣で眠るセレナを起こさないようにそっと身を起こし、ドアの方へ歩いていく。
「どうした、坊や? 眠れなくなっちゃったか?」
ドアを開けた瞬間、ちいさな体が勢いよく飛び込んできた。
コーディはルシアンの服をぎゅっと掴み、震えながら顔を埋める。ぽつぽつと熱い涙が寝間着の胸元を濡らしていく。
ルシアンは、その震えを腕の中で受け止めた。
理由を急いで聞こうとはせず、ゆっくりと抱きしめ返す。
「ほら、大丈夫だ。いい子だから、もう泣かないで。」
彼は穏やかな声で続けた。「今夜はパパとママと一緒に寝ようか。ふたりがちゃんと守ってあげる。」
「……うん……パパ、抱っこ……」
コーディは肩に顔を押しつけたまま、くぐもった声でそうねだった。
ルシアンはふっと笑い、慣れた手つきで抱き上げる。
そのまま寝室に向き直ったとき、廊下の奥からひゅうっと風が吹き抜けてきた。風はルシアンの腕とドア板のあいだをすり抜け、閉まりかけていた扉をそっと押し戻す。最後に、小さな「カチッ」という音が鳴った。
ルシアンは一瞬だけ扉に視線をやる。
気にはなったが、深く考えず、腕の中の子どもの方を強く抱きしめた。
彼はベッドのそばまで静かに歩み寄り、まずコーディをそっと寝かせると、身をかがめてセレナを呼んだ。
「なぁ、起きてくれ。コーディが一緒に寝たいって。」
セレナのまつ毛がわずかに震え、ゆっくりと瞼が開く。
泣きはらしたようなコーディの顔が目に入ると、彼女はすぐに柔らかな笑みを浮かべ、腕を広げて抱き寄せた。
「悪い夢、見ちゃったのね。」
彼女は囁くように言う。「大丈夫よ。ママがここにいるから……もう怖くないわ。さ、目を閉じて。」
コーディは答えず、ただぎゅっとしがみついた。
どんな時でも、パパとママの腕の中がいちばん安心できる場所だった。
ルシアンは、ふたりが次第に落ち着いていく様子を見届けてから、自分もベッドに戻る。
そして両腕を伸ばし、セレナとコーディをまとめて抱き寄せた。
「おやすみ、セレナ。おやすみ、コーディ。」
低く、優しい声でそう呟く。
彼が目を閉じたあと、さっき閉まったはずの扉の向こうから、また風がするりと忍び込んだ。
風は三人の額と髪をひとりずつ撫でていき、しばらく名残惜しそうにとどまってから、音もなく部屋を離れていく。
……もしかしたら、その小さな風も、帰る場所を探していたのかもしれない。
***
朝の光が、カーテンの隙間からこぼれ落ちていた。
その柔らかな光は、もつれ合う三つの影を、薄い金色に染めている。
ルシアンは、その光の中でゆっくりと目を覚ました。
最初に視界に入ったのは、自分の腕の中で寄り添うセレナとコーディの寝顔だった。
思わず口元がゆるむ。彼は身をかがめ、ふたりの頬にそっとキスを落とした。
「……おはよう、あなた。」
キスに目を覚ましたセレナが、眠たげな声で囁く。
「おはよう。」ルシアンは小さく笑う。「見てみろよ。うちの坊や、まだ爆睡だ。」
彼は指先で、コーディのほっぺをつん、と軽くつついた。
コーディは眉間にしわを寄せて「ん……」と声を漏らし、セレナの胸元に顔を埋める。両腕を彼女の腰に巻きつけ、さらにしっかり抱きついた。
「もう、子どもをからかわないの。」
セレナは苦笑しながら、ルシアンの手を軽く叩いた。
「はいはい、反省してまーす。」
彼は肩をすくめてベッドから降りる。「先に顔洗ってくるよ。」
浴室へ向かう途中、ルシアンはふと振り返った。
ベッドの上、朝の光に包まれて眠る母子の姿は、夜の不安を上から塗り替えるみたいに穏やかで、静かで、美しかった。
──昨日、部屋に入り込んできたあの風は、あれもただの夢だったのだろうか。
そんな考えが一瞬よぎり、すぐに溶けて消えた。
少しして、セレナもそっと身を起こし、コーディに布団を掛け直すと、その額に軽く口づけを落とした。
それから寝室を抜け、朝食の支度を始める。
いつも通りに時間は流れていく。
ルシアンは食事を終えると、出がけにセレナの腰を軽く抱き寄せ、頬にキスをしてから玄関の扉を開けた。
外の通りには、もう馬車と人の気配があった。
荷物を抱えた人々の声、石畳を車輪が走る音が混ざり合い、街の朝を形づくっている。その中にルシアンの背中も紛れ込み、セレナの視界から少しずつ遠ざかっていった。
しばらく見送ってから、セレナは小さく息を吸い込み、胸の奥の名残惜しさをそっと飲み込む。
そして気持ちを切り替えるように一度瞬きをし、今度は主寝室へ向かった。
──今日も、家の小さな太陽を起こさなくちゃ。
「コーディ、起きて~。朝ごはんできてるわよー。」
彼女はベッドの端に腰掛け、肩をやさしく揺らす。母親の声が、耳元で柔らかく響いた。
「……ママ、おはよう……」
コーディはゆっくり目を開けた。
まつげがふるふると震え、口の端には乾いたよだれの跡がうっすら残っている。彼は目をこすり、布団を押してなんとか上体を起こしたが、途中でぐらりと揺れた。
それを見て、セレナは思わず吹き出す。
「もう、寝相までだらしないんだから。ほら、早く起きなさい。朝ごはん、冷めちゃうわよ。」
「ん~……わかってるよ、ママぁ……」
口ではそう言うものの、コーディはベッドから降りるどころか、ばふっとセレナの方に倒れ込んだ。
頭を彼女の太ももに乗せ、服の裾をちょんとつまんで、頬をすり寄せる。
「起きるって顔してないんだけど?」
セレナは呆れたように眉を上げる。
「ちゃんと起きてるよ~。」
コーディは小さな手をひらひらさせ、得意げに笑った。
「……はいはい。しょうがない子。」
小さく息をついてから、セレナはコーディの体をひょいと抱き上げた。
コーディは腕の中で少しもぞもぞと動き、頭を彼女の肩に預ける。両手で彼女の腕を掴み、自分の居場所を確かめるように指先に力を込めた。
「下ろすわよ。ちゃんと立ってね。」
洗面所に着くと、セレナはそっとコーディを床に降ろす。
「さ、まずは顔を洗って、歯を磨きましょう。」
コーディは渋々タオルを手に取った……が、すぐに別のものに目を奪われた。
洗面台の上、金属の口から水が流れ出ている。
「ママ! なんでここから水が出てくるの? 変なの!」
彼はその装置をぱしぱしと叩き、今度は前屈みになって穴の奥を覗き込んだ。初めて見るおもちゃを研究しているような真剣さだ。
「これねぇ……説明するの、ちょっと難しいのよ。」
セレナはくすりと笑い、装置を分解して中身を取り出した。
現れたのは、淡い青色に輝く小さな石だった。
コーディはすぐさま近づき、指先でそっと触れてみる。
石の表面はひんやりとしていて、つるんと滑らかだ。彼は流れ落ちる水にも手を伸ばし、掌で受け止めては面白そうに指の間からこぼしていく。
「ほら、さっきの水は、この石のおかげで出てたの。」
セレナは石を指差しながら説明した。
コーディは目をまん丸に見開き、口をぽかんと開ける。
跳ねるようにその場でぴょんと飛び上がり、興奮を抑えきれない様子で手足をばたつかせた。
「なんで石なのに水が出るの!? それに、明かりとか、火とかもそうなの!?」
疑問が止まらない。
セレナは、あまりに真っ直ぐな好奇心に思わず笑い、そっと頬をつついた。
「うちのコーディは、本当に好奇心旺盛ね。知りたい?」
「知りたい! ママ、教えて!!」
コーディは小さな拳を握りしめ、ぴょこぴょこと跳ねながら訴える。目の中には期待の光がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「じゃあ、ちゃんと歯を磨いてからね。」
「う……うん!」
「知りたい」の一言で、彼は一瞬で真面目モードに切り替わる。
コーディは急いで歯を磨きながらも、ちらちらと青い石を横目で見ていた。
身支度を終えると、ふたりはリビングへ戻った。コーディはセレナの手をぐいっと引き、半ば引きずるようにソファへ座らせる。
「ママ! 早く、話して!」
「わかったわよ。まずは朝ごはん、ね。」
セレナは朝食をテーブルに並べ、それから箱の中から一冊の分厚い本を取り出して、コーディの隣に腰を下ろした。
「さ、食べながら聞きなさい。何から知りたい?」
「石なのに水が出るのとか、火とか光とか! なんでなのか全部!」
コーディはパンをひとかじりしてから、本の表紙を指差す。目はすでに中身へと向いていた。
セレナは本を開く。
表紙には『三神録』と書かれており、中にはさまざまな石と紋章の絵が並んでいる。
「この石たちはね、とある神様が作ったものなの。」
彼女はページをめくりながら説明する。「自然を司る神様で、自分の力を石に宿して、いろんな性質を与えたのよ。一つひとつに名前が付いてるの。」
そう言って示したのは、さきほど見せたのと同じ、青い石の絵だった。
「これがさっきお風呂場で見た石。『アクイネイト』っていうの。水の中で生まれる石で、人たちが水底から掘り出して、少しずつ使い方を覚えていったの。」
コーディは身を乗り出し、指先で絵の縁をなぞる。
眉をきゅっと上げ、まるで目の前の石が本当に動き出すのを待っているみたいな顔だ。
「ママ、この石たち、みんなすっごく特別で……すごいね! じゃあ、この神様がいちばん強いの?」
セレナは彼の髪を撫で、首を横に振った。
「どうかしらね。他にも神様はいるから、誰がいちばんなんて、簡単には決められないわ。」
「じゃあ、ほかの神様のことも教えて!」
コーディはすっかり本に食いついている。
「いいわよ。」
セレナはページをめくりながら続ける。「神様は三人いるの。今話した自然神『イデニス』のほかに、生き物を司る神様と、『未知』を司る神様。」
「生き物の神様から聞きたい!」
「生き物の神様は『ルナレイス』っていうの。すべての生命の創造主で、まるでみんなのお母さんみたいな存在ね。」
ページには、さまざまな姿の人影や獣の絵が描かれていた。
「わぁ……人みたいだけど、耳とかしっぽがある……形もみんな違う!」
コーディはページのあちこちを指差しながら目を輝かせる。
「この子たちも人間よ。ただ、私たちとは少し違うわ。」
セレナは説明を続ける。「『亜人』って呼ばれていてね。猫のような耳を持つ人、狐みたいな人、竜の血を引く人……いろいろいるの。」
「でも、ぼく見たことないよ……もしかして、透明になってるの?」
「違うわよ。」セレナはくすっと笑う。「あなたが今まで見てたのは、パパとママと、ごはんだけ。」
「そんなことないもん!」
コーディは頬を膨らませて抗議したが、すぐに小さく付け足す。「……ちょっとは、そうかもだけど。」
セレナはコーディの手を取って、窓の外を指差した。
「ほら、あそこ。耳の尖ってるあのおじさん、あの人が亜人よ。学校に通うようになったら、亜人の友だちもできるかもしれないわ。そのときは、ちゃんと仲良くするのよ。」
コーディの目が、ぱっと明るくなる。
「うん! 友だちになる!」
セレナは、その返事に満足そうに微笑んだ。そして、さらにページをめくって、今度は大きな影が描かれた絵を見せる。
「これは竜。ルナレイスが生み出した生き物の中でもとくに有名ね。」
紙の上の竜は翼を広げ、今にも空へ飛び立ちそうだ。
「すごい……かっこいい……!」
コーディは両手でほっぺたを押さえ、絵に顔を近づける。
「かっこいいけど、気をつけないとね。」
セレナはコーディの手をぱくりと軽く噛んでみせる。「力が強くて気まぐれだから、小さな子どもなんて、ひとくちでぱくっと……。」
「やっ!」
コーディはびくっとして、それからおかしそうに笑った。
「自然の神様も、生き物の神様も、どっちもすごいね!」
「うん、ふたりとも素晴らしい神様よ。」
「じゃあ、最後の神様は?」
コーディは身を乗り出す。「その、謎の神様!」
セレナは本の後ろの方を開いた。
そこにははっきりとした姿ではなく、抽象的な線と記号のような紋だけが描かれている。上には「ヴェロス・エニング」という名が記されていた。
「この神様は『未知の神』って呼ばれているの。人が知らないこと、説明できないこと……そういうものの多くが、この神様の名前のもとに語られているわ。」
彼女は小さく息を吸ってから、付け加える。
「昔からね、神様に選ばれた人は『祝福』を授かるって言われてるの。自然神に選ばれた人は、自然を操る力を。未知の神に選ばれた人は、常識では理解できないような力を。」
そこで、セレナの言葉がふと止まった。
コーディは、その小さな間を聞き逃さなかった。
「ねぇ、じゃあ、生き物の神様の祝福は?」
「ルナレイスはね、とても寛大な神様なの。」
セレナは微笑む。「祝福を、みんなに平等に分け与えたのよ。私たち人間には、よく働く頭を。亜人たちには、私たちより強い身体を。」
「じゃあ、ぼくたち、人間は力で負けちゃうってこと?」
コーディは腕を組んで、むっとした顔になる。
「そうとも限らないわ。」
セレナは優しく言う。「身体を鍛えれば、追いつくことだって、並んで立つことだって、きっとできる。」
「……そうなんだ。」
コーディは瞬きをし、その言葉をそのまま心の奥に沈めた。
「ねぇ、ママ。」と、彼は少し間をおいてから尋ねる。「ママは、どの神様がいちばん好き?」
セレナは一瞬だけ目を丸くしたあと、本を膝から下ろし、コーディをぎゅっと抱きしめた。
「ママはね、どの神様がいちばん、なんて決められないわ。」
彼女は顎をそっとコーディの頭に乗せ、柔らかく続ける。
「でも、いちばん好きなのはパパとコーディ。これだけは、はっきり言える。」
「ぼくも!」
コーディは勢いよく抱き返し、頬をすり寄せる。「ぼくもママとパパがいちばん! ふたりは、ぼくの中の『神様』だよ!」
セレナが笑って力を込めたとき、本はバランスを失い、膝からつるりと滑り落ちた。
床の上で、分厚い本は重い音を立てて開き、そのままぴたりとあるページで止まる。
そこに描かれていたのは、黒い炎に包まれたひとつの影。
見出しには、くっきりとした文字でこう書かれている。
――サフルン。
人々に「罪の神」と呼ばれた存在の名だった。
本のページが、わずかに風に揺れる。
閉じようとするかのように震え、けれど見えない何かに押さえつけられているように、その章だけが開かれたまま静止していた。
次の章は、コンティと老人の初対面と入学の日です」




