第5話:旅路、過去の断章、そして新天地
旧センニア郡へと向かうまでの数日間は、本当に目の回るような忙しさだった。
冥川悠夜とフォレストエルフたちは、以前のアジトだった針葉樹の林に最後まで残された、すべての物資を漏れなく整理した。
解体した家屋の資材や、新たに伐採して乾燥させた木材、それらを種類ごとに分けて、運び出しやすいように一つにまとめていく。
エルフたちは手際が良く、悠夜の指示がなくても、何をすべきかを理解して動いた。
悠夜は、出発前に買い溜めておいた食料と、予備の水を入念にチェックし、最後の仕上げに取り掛かる。
「よっしゃ、これで全部だね」
悠夜は満足げに呟くと、集められた大量の遺骨に向かって、お馴染みの呪文を詠唱し始めた。
「我が隷属せよ、死と魂の残滓よ。永遠の僕として、我が命に従え」
漆黒の魔力が辺りを渦巻き、骨がカタカタと震え出す。
十数体のアンデッドが新たに蘇り、すでに悠夜が使役していた個体と合わせると、その数は二十体を超えていた。
骨が軋む音は、フォレストエルフたちにとっては、もはや救済の音に聞こえた。
「お前ら、資材と食料、水を運べ。丁寧に、落とすなよ」
悠夜の命令と共に、アンデッドたちは重い木材の束や、食料の入った麻袋を器用に持ち上げ、行進を始める。
その効率的で無駄のない動きは、人間や獣では決して真似のできない、死者ならではの強みだった。
ヒナエルをはじめとするフォレストエルフたちは、アンデッドの軍団が荷物を運ぶ光景に慣れてはいたが、改めて、その力の規模と、悠夜の持つ異質な才能に圧倒された。
こうして、アンデッドとエルフたち、そして一人の少年による、新しい領地、旧センニア郡を目指す旅が始まった。
荒れた赤土の道を、アンデッドの硬い足音と、エルフたちの静かな足取りが響く。
ヒナエルは、先頭を歩く悠夜の広い背中を見つめながら、自然と過去の記憶の中に沈み込んでいった。
それは、彼女が故郷の森を失い、一族の長としての重責を背負うことになった、あの悪夢の夜の断章。
あの日、森を包んだのは、突然の喧騒だった。
「キャアアア!」
「助けてくれ!」
叫び声と、悲鳴、そして、剣と剣、魔法と魔法がぶつかり合う、不協和音の嵐。ヒナエルが慌てて小屋を飛び出したとき、森の空気は既に焦げた臭いで満たされ、故郷の木々は巨大な炎の柱と化していた。
一人の若いフォレストエルフが、顔を血で濡らしながら、ヒナエルの傍に転がり込んできた。
「ヒナエル! 魔族の、大軍に襲われてます! 族長が、時間を稼いでいる間に、早く……早く逃げてください!」
そのエルフの言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
ドォン!
背後から放たれた強烈な闇の魔法が、彼女の華奢な体を一瞬で貫き、彼女は炎に照らされた地面に崩れ落ちた。
ヒナエルは、頭が真っ白になるほどの混乱の中で、生き残った他のフォレストエルフたちを探し出し、無我夢中で森の奥、まだ炎が届かない場所へと逃げ続けた。
どれほどの時間、走り続けたのだろうか。疲労で足が鉛のように重くなり、精神が限界を迎えた頃。
やっと、一時的に安全と思える場所にたどり着き、ヒナエルは震える手で、残った一族の人数を確認した。
集まれたのは、わずか二百人余り。
頼りにしていた族長や、森の生活を熟知していたフォレストエルフたちの姿はなかった。
そのほとんどが、あの夜に命を落としたか、あるいは逃げ惑う中で、二度と会えないほど遠くへ散り散りになってしまっていた。
当時、まだ若く、戦闘と狩りの才はあったものの、指導者としての経験が全くなかったヒナエルは、否応なしに、この生き残った一族の責任を、たった一人で背負うことになったのだ。
しかし、その後の逃亡生活は、故郷を失った悲しみよりも、さらに過酷な現実を突きつけた。
森という強固な庇護を失ったフォレストエルフたちは、もはや身を守る術を持たず、外界の人間たちから見れば、ただの「高価な商品」でしかなかった。
奴隷商人たちはフォレストエルフを狙い、街道沿いの強盗たちは彼らを格好の獲物と見なした。
毎日のように襲撃があり、少しずつ、確実に、エルフたちの人口は削られていった。
「もう、どこにもいられない……」
安全を求め、どこかの領主の傘下に入ろうとした時期もあったが、その美貌と魔法の才能ゆえに、エルフたちは「価値ある商品」としてしか扱われず、再び奴隷として捕らえられそうになる。
「マジで、息苦しかった。どこに行っても、利用されるだけ」
最終的に、彼女たちは人から徹底的に離れることを決意した。
逃げ込んだ先は、このカラデン大荒原。
そこで細々と見つけた針葉樹林を、彼女たちは最後の砦として、武器を取って必死に守り続けた。
それでも、荒原の環境は厳しかった。
水は少なく、食料は枯渇しがち。
カラデン大荒原という、弱肉強食の地で、生きるための資源を手に入れるには、絶対的な実力か、あるいは莫大な金が必要だった。
フォレストエルフたちは、不慣れな狩りで得た獲物を、わずかな金銭に変え、その金で貴重な薬や、最低限の食料を購入するという、ギリギリの生活を強いられていた。
そして、やっと生活がわずかに安定しかけたと思った、その矢先。
あの巨大なクモ魔獣だ。
あれは、本当に死を覚悟した戦いだった。
「みんな! 動揺しないで! 落ち着いて、私が指示を出すわ!」
ヒナエルは、恐怖に震える仲間たちを叱咤し、必死に指揮を執った。
エルフたちの放つ弓矢と魔法は、的確に魔獣を誘導し、彼らを周囲に点在する流砂のエリアへと誘い込んだ。
流砂に足を取られた魔獣は、もがき苦しむ。
しかし、巨大な体躯を持つクモ魔獣の強靭さは凄まじく、何体かは泥から力ずくで脱出を図った。
完全に流砂から這い上がってきた瞬間、ヒナエルの身体は、もはや躊躇なく、風のように駆け出していた。
ザシュッ!
彼女の剣が、魔獣の分厚い皮膚を切り裂き、その頭部へと深く、深く突き刺さる。
命の輝きが完全に消えるまで、ヒナエルは剣を握りしめ、力を込めていた。
――遠い回想が、そこで途切れる。
ヒナエルは、隣を歩く悠夜を改めて見つめた。
この、頼もしくも、あまりにも異質な少年が、本当に自分たちを、この絶望的な状況から救い出してくれるのだろうか。
未来は、まだ不透明で不安だが、ヒナエルは、その不安を打ち消すほどの、確かな希望の光を、悠夜の存在の中に感じていた。
旅を続けてしばらく経つと、目の前に視界を遮るものがなくなった。
「……あれが、旧センニア郡」
シルファンが、乾いた声で呟く。
ヒナエルも、思わず息を飲んだ。
広大。
あまりにも広大だ。
見渡す限り、地平線の彼方まで続く赤土の平原。
木々はもちろん、草一つ生えていない。
緩やかな起伏はあるものの、山と呼べるようなものは見当たらず、地面は砂浜のように鬆軟で、歩くたびに足が深く沈み込む。
空は雲一つなく、容赦のない酷暑が、エルフたちの肌をジリジリと焦がした。
喉が渇き、体力を奪う。
水は、どこにも見当たらない。
ここは、生命が生きることを拒絶している、文字通りの死の大地だった。
かつて、この地が栄華を極めた都市であったことを示すものは、風化し尽くして砂と化した、わずかな残骸と、瓦礫の跡だけ。
過去の輝きは、もはや影すら残っていなかった。
その絶望的な光景を目の当たりにしたフォレストエルフたちは、一瞬、心が折れそうになる。
しかし、すぐに彼らは顔を引き締めた。
「……まぁ、仕方ないわ。ここよりマシな場所なんて、もう世界中探してもないだろうし」
シルファンが、覚悟を決めた表情で、そうつぶやく。
この荒地でも、少なくとも、奴隷商人や強盗に怯える日々よりはマシだ。
ゼロからのスタートだが、誰にも邪魔されない。
彼らの諦めと、それに勝る強い決意が混ざった反応を見て。
悠夜は、心底楽しそうな、満面の笑みを浮かべた。
「最高じゃんか! こんなに広い土地、誰の邪魔も入らない。全部、俺の領地だ!」
悠夜は、その赤土の上に、まるで王者のように力強く立ち、声を張り上げた。
「よし。正式に宣言するぞ。ここが俺の領地、旧センニア郡だ」
「今から、俺の領主としての最初の仕事だ。当面、やるべきことは三つある」
悠夜は人差し指を立て、一つずつ、フォレストエルフたちに向けて確認するように数える。
「第一に、生命を繋ぐ水源の確保。第二に、こ家屋の建造。そして最後に、日々の生活を支える安定した食料の確保だ」
悠夜はアンデッドたちを、フォレストエルフたちに二体ずつ割り当てていく。
「お前ら、エルフたちの指示に従って、シェルターを造り始めろ」
そして、戦闘力に長けた、強靭な体を持つ獣人アンデッドを率いるエルフ三名を選び出した。
「お前たちは、この旧センニア郡の残りの区域を、警戒しつつ偵察しろ」
「ただし、向こうから攻撃してこない限り、無駄な血は流すな。」
エルフたちは、その大胆で尊大な言葉の重みに、ただ力強く頷くしかなかった。
続いて、悠夜は懐から、あのクモ魔獣の魔晶を再び取り出した。
ドクン、ドクン。
掌中の魔晶は、まるで心臓のように、不気味な脈動を始める。
悠夜が低く、囁くような呪文を唱え始めると、魔晶から漆黒の霧が噴き出し、瞬く間に膨張していく。
その霧が、周囲の魔力を貪るように吸収し、巨大な肉体へと凝結していった。
ガサ、ガサ、ガサ……!
目の前に現れたのは、先日、ヒナエルたちが文字通り命懸けで打ち倒した、あのクモ魔獣と寸分違わぬ姿。
否、魔力によって召喚されたそれは、以前にも増して異様な威圧感を放っていた。
「う、嘘でしょ……!? まさか、あの魔獣を、また蘇らせるなんて……!」
シルファンは、あまりの衝撃に、思わず地面にへたり込みそうになる。
ヒナエルもまた、信じられないという表情で、ただ立ち尽くすことしかできない。
悠夜は、そんな彼らの反応を全く気にせず、まるでペットに話しかけるように見上げる。
「よっし、クロちゃん。今日からまた、よろしくな」
(悠夜が、この巨大な魔獣を親しげに「クロちゃん」と呼んでいる事実に、フォレストエルフたちは、もはや言葉を失っていた)
「さーて、この力があれば、水源確保なんて余裕だろ」
悠夜の能力は、フォレストエルフたちの想像力を遥かに超えていた。
ネクロマンサーという恐ろしい職業を持つ少年だが、彼の存在が、彼女たちに生きるための絶対的な力を与えてくれている。
「この人と一緒なら、本当に、どんな絶望からも生き残れるかもしれない」
フォレストエルフたちの心に、悠夜への絶対的な信頼と、未来への確信が、深く根を下ろした瞬間だった。
悠夜はクロちゃんに向かって、冷たい声で命令する。
「クロちゃん、真下に掘れ。水脈を見つけるまで、ノンストップだ。ただし、井戸にするから、穴は真っ直ぐにな」
巨大なクモ魔獣は、その強靭な八本の足を器用に使い、鬆軟な赤土を恐ろしい速さで掘り進めていく。
土砂は、まるで間欠泉のように、勢いよく吹き上がった。
「ヒナエル、シルファン。二人は土魔法で、掘り出された砂土を横にどかしてくれる? 効率が落ちるから、迅速にな」
「は、はい! お任せください!」
二人のエルフが土魔法を連続して使うたびに、大量の土砂は遠くへ移動していく。
エルフたちとアンデッド、そして魔獣という、異色のチームプレイだった。
掘削は、荒原の地下深くまで進んだ。
どれくらい掘り進んだだろうか。エルフたちが疲労を感じ始めた、その時。
チョロチョロ……。
地面の奥底から、微かな、しかし確かな水音が聞こえてきた。
「水よ! 嘘じゃ、ないわよね!? 水源よ!」
ヒナエルとシルファンは、喜びのあまり、思わず抱き合いそうになる。
この乾燥した大地における水は、命そのものだ。
だが、悠夜は淡々としていた。
「よかったな。でも、まだ作業は半分だ」
悠夜はクロちゃんを地上に戻し、次にアイテムボックスを開いた。
スッ。
突然、悠夜の手の何もない空間から、大量の骨粉が入った大きな袋が取り出された。
「え、ちょっと待って!? 今のは何!? 空間が歪んだ……!」
「アイテムボックスだよ。収納魔法の一種だ。まあ、今は気にしなくていい。便利な道具だと思ってくれ」
悠夜は、その骨粉と、掘り出された砂土、石を混ぜ合わせ、そこにクロちゃんの吐き出す粘液を大量に混ぜ込んでいく。
「これ、めっちゃ強いレンガの素になるんだよ。ちょっと臭いけど、強度は抜群だ」
骨粉で強化された泥と、蜘蛛の粘液で固められたそれは、みるみるうちに強固な資材へと変化していく。
悠夜はクロちゃんに、そのレンガで掘り当てた井戸の壁を固めるよう命令した。
荒原の太陽が地平線に沈むと、カラデン大荒原の気温は一気に、恐ろしいほどに急降下した。
ブルブル……。
まるで体内の水分が凍るような、身を切る寒さが、エルフたちの全身を襲う。
その日の家屋の建設は、二枚の壁が立っただけで、屋根はおろか、四方を囲むことすらできていなかった。
フォレストエルフたちは、互いの体温を分け合うように、壁の隅に、まるで子猫のようにギュッと身を寄せ合い、寒さを凌いでいる。皆、疲労と寒さで、ほとんど言葉を交わす元気もなかった。
悠夜は、その日の建設計画を全て完了させた後、一人、壁から少し離れた場所で、持っていた分厚い寝袋に入って横になった。
「はっ、くしゅん!」
思わず、大きなくしゃみが出る。
「さっみぃ。てか、マジで、冬より寒いだろ……この荒原」
壁際で、エルフたちに囲まれて暖を取っていたシルファンは、一人で震えている悠夜の姿に気づいた。
「悠夜!」
シルファンは、皆の体温を離れるのを惜しみつつも、意を決して悠夜の元へと駆け寄る。彼女は悠夜の寝袋の端を掴み、まるで赤ん坊を扱うかのように、問答無用で引きずり始めた。
「おい、やめろって! 自分で寝るからいいって言ってんだろ!」
悠夜は不意打ちのシルファンの力に抵抗するが、フォレストエルフは意外と力強い。悠夜は、文句を言いながらも、結局はエルフたちの体温が集まる壁の隅へと引き寄せられてしまった。
シルファンは、悠夜の寝袋ごと、エルフたちの群れの中央に押し込む。
「駄目です、悠夜! あなたが風邪を引かれたり、体調を崩されたりしたら、私たちはどうすればいいのですか!」
シルファンはそう言って、悠夜の身体を、まるで大切な宝物のように、そして絶対に離してはならないものとして、強く、強く抱きしめた。
背中からは、ヒナエルを始めとする他のエルフたちの温かい体温が伝わってくる。
悠夜は、最初は「ったく、世話焼きすぎだろ……」と口の中で文句を言っていたが。
エルフたちの持つ、優しくも強い温もりと、シルファンの抱擁に包まれて。
――彼の身体から力が抜け、すぐに、静かな寝息を立て始めた。
それから、さらに数日が経過した。
悠夜の合理的で的確な指示と、クロちゃんの驚異的な掘削・建築スピード、そしてアンデッドたちによる休むことのない作業のおかげで。
井戸は完成し、水を、この命の拒絶された荒原で、惜しみなく供給し始めた。
そして、家屋も完成した。
シンプルな構造ながら、骨粉レンガで固められたそれは、荒原の寒暖差にも耐えうる、強固な石造りの建物だ。
建物は三つ。
一つは、大量の物資と食料を保管するための倉庫。
もう一つは、悠夜とフォレストエルフたちが共同で生活するための大部屋。
中には、最低限の快適さを求めて、トイレやキッチンも簡易的だが設置されている。
最後の部屋は、将来的に必要になるであろう、外部の者を受け入れるための客室だ。
さらに、周囲には、アンデッド用の警備拠点も複数作られ、遊休しているアンデッドたちは、昼夜を問わず、巡回と防衛の任務に就いていた。
フォレストエルフたちの悠夜に対する態度は、もはや絶対的なものになっていた。
彼らは、悠夜が話す時は、真剣な眼差しで、その一言一句を聞き逃すまいと耳を傾ける。
エルフたちの間では、こんな会話が日常になっていた。
「悠夜様マジでヤバいよね。こんな荒地に、水と家を、たった数日で造っちゃうんだもん」
「うん。前の族長が束になっても敵わないわ。」
「こんなに安全で、水もあって、暖かい生活、夢みたいだわ。悠夜様のおかげで、やっと眠れるようになった」
彼らは、もう悠夜に完全に命運を託し、信頼を寄せている。
この少年が、自分たちに、この過酷な世界で豊かな未来をもたらしてくれると、心の底から信じ始めていた。
そんな、希望に満ちた生活の第一歩を踏み出した時、偵察に送り出したエルフたちから、ついに朗報がもたらされた。
「ウイルードチキンを発見しました!」
水源の確保、住居の確保に続き、安定した食料への、大きな一歩だった。