第21話:壊れた人形
男は、立っていた。
アレクシディム村の、真昼の灼けるような日差しの中。
無骨な穀物倉庫の前で。
男の名は、ない。
いや、あったはずだが、とうに忘れた。
人々は彼を「行政官」と呼ぶ。
それでよかった。
彼は貧しい農民の子だった。
物心ついた時から、腹は常に空いていた。
泥にまみれ、家畜以下の扱いを受け、明日死んでもおかしくない日々。
彼はそれが、嫌だった。
ある日、村に来た役人の、清潔な服を見た。
馬に乗る、その堂々とした姿を見た。
彼は決意した。
猛勉強。
まさに、非人道的なまでの刻苦。
寝る時間を削り、血反吐を吐きながら文字を覚えた。
指がすり切れるまで、勉強した。
彼は合格した。
人生で初めて、腹の底から歓喜した。
これで、泥の日々とはおさらばだ。
しかし。
彼に「背景」はなかった。
裕福な実家も、有力な縁故も、ない。
彼に与えられた任地は、結局、農村だった。
彼が必死で抜け出そうとした、あの泥臭い場所。
都の華やかな生活は、彼には与えられなかった。
絶望。
だが、彼は立ち直った。
なぜなら、彼は「努力」によってここまで来たのだから。
「努力」は裏切らない。
そして、その「努力」を正当に評価してくれたこの「お国」は、正しい。
彼はそう信じ込むしかなかった。
そうでなければ、彼の人生そのものが無意味になってしまう。
彼は時計仕掛けを巻かれたブリキの兵隊だ。
「お国のために」「任務を遂行する」が、彼の全てだった。
その、行政官から少し離れた場所。
もう一人、小さな影があった。
ジョルジアーナ。
まだ少女と呼んでいい年齢の、女剣士。
彼女もまた、農民の娘だった。
彼女の人生が変わったのは、幼い頃、「魔力持ち」だと判明した時から。
両親の目は、歓喜に歪んでいた。
いや、それは歓喜ではない。
欲望。
飢餓。
「これで、ウチも楽ができる!」
「ジョルジアーナ! お前は軍隊に入るんだ!」
「お前が、私たち家族の運命を変えるんだ!」
その日から、彼女の「訓練」が始まった。
それは訓練というより、虐待に近かった。
泣けば殴られた。 弱音を吐けば食事を抜かれた。
「家族の期待に応えろ」
「お前は、私たちの希望なんだ」
その言葉が、重い鎖となって彼女に巻き付いた。
彼女は強くなった。
剣を覚え、魔法を鍛えた。
感情を殺し、ただ両親の期待に応えるためだけに、歯を食いしばった。
彼女もまた、時計仕掛けの人形だった。
「家族のために」「期待に応えるために」 が、彼女を動かしていた。
彼女は、自分が何をしたいのか、もう分からなかった。
ただ、ここで失敗するわけにはいかない。
失敗すれば、家族の人生が、終わる。
彼女は、自分のものではない重圧に、とっくの昔に潰されていた。
ただ、その形を保ったまま、動いているだけだった。
ギュッ、と。
彼女は、その小さな手には不釣り合いな大剣の柄を、白くなるまで握りしめた。
その瞬間は、唐突に訪れた。
ヒュンッ、と風を切る音。 「ぐあっ!?」
倉庫の見張りをしていた村人の一人が、喉に矢を突き立てて倒れた。
「「「敵襲だァァァ!!」」」
行政官が叫ぶ。
ジョルジアーナが剣を構える。
だが、遅かった。
農田の影から、三つの影が疾風のように躍り出た。
フィーナ。
エルザ。
シルファン。
「そこっ!」
シルファンがエルフの俊敏さで兵士たちの懐に飛び込む。
手にした短剣が、的確に急所を貫いていく。
「やあっ!」
フィーナは後方から、支援の矢を放つ。
弓の腕は未熟だが、敵の注意を引くには十分だ。
そして、エルザ。 彼女は、ただ歩いていた。
気だるそうに、あくびでもしそうな足取りで。
「な、なんだコイツ!?」
パシン。
ゴシャッ!
兵士の首が、ありえない角度に曲がり、巨体が吹き飛んだ。
「「「!?」」」
他の兵士たちが、一瞬、凍り付く。
その隙を、シルファンとフィーナは見逃さない。
次々と倒れていく兵士たち。
ほんの数十秒で、倉庫の守りは、行政官とジョルジアーナ、そして数人の怯えた兵士だけになっていた。
「……さて」 三人は、一旦距離を取る。
フィーナが、小声で二人に囁いた。
「どうする? あの女剣士、見た目より厄介そう……」
「エルザ、一緒にあの子をやる? 」
「……めんどい」
エルザはジョルジアーナを一瞥した。
「あれ、フィーナじゃ無理。死ぬよ」
「……」
「シルファンが行け」
「なんですって?」
シルファンが、カチンと来たように眉を吊り上げる。
「私一人で十分よ。あんな人間の小娘に、二人も必要ないわ」
フィーナは、一瞬ためらった。
(エルザが、ああ言うなんて……でも、シルファンを説得してる時間も……)
「……わかったわ。じゃあ、私とエルザは、あの役人を!」
「それでいいわ!」
シルファンは、ジョルジアーナを睨みつけ、短剣を構え直した。
「「「行くよ!」」」
三人が、同時に動いた。
「お国のために! 死ねぇぇぇ!」
行政官が、狂ったように叫びながら、剣を振りかざす。
彼は、後方にいるフィーナを狙った。
まず、厄介な遠距離攻撃を潰す。
合理的な判断だ。
「(私の努力は! 私の人生は! 間違ってなどいない!)」
彼の精神は、既に限界だった。
米を狙う敵=彼の人生の否定者。
彼は、ブリキの兵隊のように、ただ突撃する。
「ひゃっ!?」
フィーナが、迫りくる行政官の形相に怯え、矢を放つ。
だが、焦りで狙いが逸れた。
「(死ぬ!?)」
「……あーあ。めんどくさい」
エルザの、ため息が聞こえた。
次の瞬間。
エルザの姿が、フィーナの視界から消えた。
『獣化』。
エルザの外見は、ほとんど変わらない。
ただ、その瞳が、黄金色の、縦に裂けたネコのそれに変わっただけ。
行政官は、まだフィーナに向かって走っている。
(殺せる! まず一人!)
彼が、勝利を確信した、その時。
真横に、影が差した。
「え?」
行政官は、ゆっくりと横を見た。
そこには、黄金の瞳のエルザが、無表情で立っていた。
彼女の拳が、まるでスローモーションのように、行政官の側頭部に向かって伸びていく。
「(あ……れ……?)」
行政官の、最後の思考。
(私の……努力は……)
グシャリ。
スイカが、コンクリートに叩きつけられたような音。
行政官の頭部が、文字通り、破裂した。 赤黒い血と、白い脳みそが、青空を背景に、派手に撒き散らされる。
フィーナの頬に、生温かい何かが付着した。
ドシャッ。
頭部を失った行政官の体が、数歩よろめいて、地面に倒れた。
首の断面からは、まだ血が、噴水のように溢れ出ている。
「……あ……う……」
フィーナは、声も出なかった。
ただ、血の海に浮かぶ「首のない死体」を、呆然と見つめていた。
ほぼ、同時刻。
シルファンは、苦戦していた。
「(速い!? いや、重い!)」
シルファンは、エルフの俊敏性でジョルジアーナに切りかかる。
だが、その全てが。
キィィン!
ジョルジアーナの、常軌を逸した大剣によって、弾かれる。
少女の構えは遅い。
動きも、シルファンに比べれば鈍重だ。
だが、その一撃が、あまりにも、重い。
「(かすっただけで、骨ごと持っていかれる……!)」
シルファンは、回避に専念するしかなかった。
彼女の短剣では、あの防御を崩せない。
攻撃が、全く通じない。
ブンッ! 大剣が、地面を抉る。
風圧だけで、シルファンの体勢が崩れる。
「ぐっ……!」
「(勝たなきゃ……勝たなきゃ……)」
ジョルジアーナの瞳は、濁っていた。
目の前の敵を倒すこと。 家族の期待に応えること。
彼女の頭には、それしかなかった。
「(このままじゃ、ジリ貧……!)」
シルファンに焦りが見えた。
その一瞬の隙を、ジョルジアーナは見逃さない。
「はぁっ!」
大剣が、シルファンの肩を、浅くではあるが、捉えた。
「きゃあっ!?」
鎧が砕け、シルファンは地面を転がる。
短剣が、手からこぼれ落ちた。
「(……終わった)」
シルファンが、絶望に目を見開く。
ジョルジアーナが、ゆっくりと大剣を振り上げた。
止めの一撃。
「(これで……また一つ、期待に……)」
「エルザ! シルファンが危ない!」
フィーナの、悲鳴のような声が響いた。
エルザは、フィーナに付着した血を、面倒くさそうに指で拭っている。
「……別に、いいんじゃん?」
「え?」
「邪魔者、消える。楽でしょ」
エルザの瞳は、まだ黄金色だった。
「だ、ダメ! マカカチが! 『仲間』だって言ってたの!」
フィーナは、必死にマカカチの言葉を思い出す。
「監視対象だけど、一応、仲間だって!」
「……チッ」 エルザは、盛大に舌打ちした。
「仲間、ね」
彼女は、シルファンと、剣を振り上げたジョルジアーナを、鬱陶しそうに眺めた。
「……なら、生かしとくか」
エルザは、ジョルジアーナに向き直った。
その体が、ミシミシと音を立てる。
『獣化・第二段階』
彼女の、普段は隠されているネコ族のシッポが、服を突き破って現れる。
耳もまた、獣のそれに変わり、鋭く敵意を向ける。
指先が、鋭い鉤爪に変わっていく。
筋肉が、僅かに膨張した。
「……じゃあな」
エルザが、地面を蹴った。
いや、それは蹴ったというより。
「(体を、投げた……?)」
シルファンには、そう見えた。
ドゴォォォォン!!!
轟音。
ジョルジアーナは、迫るエルザに対し、咄嗟に大剣で防御しようとした。
だが。
エルザの突進は、その大剣ごと、ジョルジアーナを粉砕した。
「ガハッ……!?」
大剣は、真ん中からへし折れ。
ジョルジアーナの体は、くの字に折れ曲がり、倉庫の壁に叩きつけられた。
壁が、衝撃でひび割れる。
「(……あ……? なに……?)」
ジョルジアーナは、激痛の中で意識を混濁させる。
(……負け……た……?)
(どうしよう……お母さん……お父さん……)
(期待に、応えられ……)
彼女の目の前に、血まみれのエルザが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「(いや……まだ……戦わな……)」
ガブリ。
エルザは、倒れたジョルジアーナの上に馬乗りになると。
その顔面に、躊躇なく、噛み付いた。
「アアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
それは、もはや人間の声ではなかった。
獣の、咆哮。
ブチブチブチ! 肉が引き裂かれる、生々しい音が響き渡る。
「(……い……た……い……?)」
ジョルジアーナの顔が、原型を失っていく。
エルザは、狂ったように、その肉を食いちぎり、吐き捨てる。
「(う……そ……でしょ……?)」
シルファンは、その光景を、腰が抜けたまま見上げていた。
人間を喰っている。
エルザの爪が、ジョルジアーナの薄い胸当てを、紙のように引き裂いた。
そして、その下の、柔らかな胸の肉に、深く突き立てられる。
「や……め……」
ジョルジアーナの、か細い声。
だが、エルザは止めない。
まるで、獲物の内臓を引きずり出すライオンのように。
肋骨を力任せに折り、その胸郭に、両腕を突っ込んだ。
「(ああ……やっぱり……私は……ダメだったんだ……)」
ジョルジアーナの意識が、途切れていく。
最期に浮かんだのは、両親の、失望した顔だった。
エルザは、ジョルジアーナの内臓を、子宮を、次々と引きずり出し、それを貪り喰らう。
腕が、足が、あらぬ方向に引きちぎられる。
肉が、あたりに飛び散る。
そこには、もはや「ジョルジアーナだったもの」は、存在しなかった。
ただ、赤い、ぐちゃぐちゃの、肉塊があるだけ。
「おえええええええええええっ!!」
シルファンは、耐えきれずに胃の中身をぶちまけた。
フォレストエルフの彼女にとっても、この光景は、悪夢そのものだった。
「……エルザ! もういい!」
フィーナが、青ざめた顔で叫んだ。
「目的は果たしたわ! 早く火をつけて、行くよ!」
「グルルルルル……」
エルザは、まだ肉塊に喰らいついている。
「エルザァァァ!!」
フィーナが、金切り声を上げた。
ピタッ。 エルザの動きが、止まった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
顔も、手も、服も、返り血と肉片で、真っ赤に染まっていた。
彼女は、唇についた血を、ペロリと舐めた。
「……ああ。終わり」
黄金色の瞳が、元の気だるげな瞳に戻る。
鉤爪と尾も、すっと消えていった。
いつもの、省エネなエルザだ。
「いいから! 立って、シルファン! 倉庫に火を放って、撤退するよ!」
フィーナが、半ば引きずるようにして、シルファンを立たせた。
三人は、燃え上がる穀物倉庫を背に、再び農田の中へと消えていった。
虐殺の跡。
首のない行政官の死体。
シルファンの嘔吐物。
そして。
原型を留めないほどに、破壊され、喰い散らかされた、ジョルジアーナの、肉塊。
全てが、終わった。
……かに、思われた。
その、肉塊の中心。 引きずり出された内臓の、さらに奥。 その、残骸が。
……ピクリ。
と、動いた。
(まだ……)
(まだ、死ねない……)
(お父さんの……お母さんの、ために……)
ジョルジアーナの、砕け散った「時計仕掛け」が。
消えかけた執念が。
奇跡を、呼び起こす。
彼女の体の奥底から、微かな、金色の光。
神聖魔法の残滓が。
……瞬いた。




