episode84「Deathscythe-1」
「ハァッ……ハァッ……!」
男の荒い息遣いが、深夜の町に響いた。男の表情は、町の静けさから考えると違和感を覚える程に切迫しており、もうこれ以上走れないとでも言わんばかりの表情だったが、男は必死に走り続けていた。
中年くらいの男性で、恰幅が良いとも言えないが、均整の取れた肉体とも言えない体つきをしている。かけている眼鏡は、髪を伝ってたれてきたのであろう汗で濡れていた。
その男の後ろを、ゆっくりと歩いて追う男がいた。細身で背が高く、腰まで伸ばされた長い黒髪が、彼の顔全体を覆っていた。長い前髪の隙間から、瞳を覗かせ、ゆっくりと男は歩いている。傍から見れば、追いかけているとは思えない程に緩慢な速度だった。
「クリストォ……鬼ごっこはいつまで続けるつもりだァ……?」
ニヤリと笑みを浮かべ、男はそんな言葉を吐いた。
「渡す……わけには……ッ! この――」
この、疑似聖杯を。
荒い呼吸と共に、クリストと呼ばれた中年男性はそんな言葉を吐き出した。
窮屈な船旅の末にヘルテュラへ戻った青蘭達は、東国へ行く前の予定通りにアルケスタへと向かった。聖杯の所在は依然として不明、赤石はゲルビアの手に渡ったとなれば彼らの行く先は自然とゲルビアへと定められる。元々東国を滅ぼした憎きゲルビアだ。赤石の件がなくても、青蘭達には復讐するだけの理由がある。それに青蘭の元々の目的地はゲルビアだ。行き先自体には、特に支障はない。
アルケスタへ到着後、青蘭達は大図書館の宿に宿泊することになった。安全な上に、宿泊費もあまり高くない。
「おい、この写真って……」
アルケスタを歩いていて、一番目立ったのが町中に張られたポスターだった。そこに映っているのは己の身の丈程もある大剣を構えた、白い長髪の少年。
「チリー……」
ボソリと。ポスターを見つめつつ青蘭は呟いた。
「アイツ、指名手配って……何かやらかしたんじゃねーのか?」
そんな光秀の言葉に、伊織はムッと顔をしかめた。
「違うと思いますよ。この間のだって誤解だったんですし」
ね、青蘭君、と伊織は青蘭へ同意を求めたが、青蘭は何も答えず、ポスターを睨みつけた。そして無言のままポスターをはぎ取り、険しい表情のままその場でビリビリと破り捨てた。
「……美しくないわ」
呟いた麗の言葉に耳も傾けず、青蘭は大図書館へ向かって一人歩き始めた。その後ろを、不安そうな表情で伊織がついていき、更にその後ろを麗と光秀は嘆息しつつついて行くのだった。
アルケスタ大図書館内の宿で適当な部屋を二部屋借りた青蘭達は、一度青蘭と光秀の部屋に集まっていた。麗と光秀が今後のことについて話し合っている中、青蘭は陰鬱な表情のままベッドに腰かけていた。チリーとの一件がまだ気になっているらしく、青蘭は東国を出てからずっとこんな調子だった。
「大丈夫?」
うつむいている青蘭の顔を覗き込み、伊織が問うと、青蘭は大丈夫だ、と呟くような声で答えた。
「あ、そうだ! ちょっと散歩にでも行かない? 折角だから観光ついでに」
青蘭は顔を上げ、いや、いいと断ろうとしたが、伊織のその提案が自分を気遣ってのことだと気づき、小さく頷いた。
「……そうだな。少し息抜きでもしよう」
青蘭のその言葉に、伊織は表情を明るくした。
「じゃあ、ちょっと市場に行ってみない? 買い物するわけじゃないけど……」
「ああ、行こう。すいません麗さん、ちょっと伊織と行ってきて良いですか?」
青蘭がそう訊くと、麗は構わないわ、と静かに答えたが、光秀は顔をしかめた。そして青蘭に何かを言いかけたが、すぐに麗の美しくないわ、という言葉によって制止され、閉口する。
念のために青蘭は日本刀を腰に差すと、伊織と共に部屋を出て行った。
様々な店が並ぶ市場を、青蘭と伊織は歩いていた。伊織は珍しい物を見つけると嬉しそうにはしゃぎ、青蘭はその様子を見て表情をほころばせる。そんなことを繰り返しながら、二人は市場を歩いていた。そうしている内に、暗かった青蘭の表情は少しずつだが明るくなっていき、笑う回数も増えていった。
「それにしても……大変なことに、なっちゃったよね」
とある喫茶店の外席で紅茶を飲みつつ、伊織は呟くようにそう言った。
「大変なこと?」
「うん。だって本当なら私達、今頃は東国で、皆と一緒に……」
言いかけ、伊織はうつむいた。そんな伊織にどう声をかければ良いのかわからず、青蘭は口ごもった。
「あ、ごめんね! 青蘭君を元気づけようと思って外に出たのに……」
「いや、気にしないでくれ。それより伊織……ありがとう」
青蘭のその言葉に、伊織はえ? と短く声を上げた。
「助かった。本当に。伊織がいなきゃ、今頃俺はまだ宿で沈んでたよ」
それは青蘭の本心だった。東国でのチリーとの一件、赤石をゲルビアに取られたこと、様々な悪いことが重なり、沈んでいた青蘭をすくい上げてくれたのは、伊織だった。今回のことだけではない。伊織はことあるごとに青蘭を気遣い、笑顔をくれた伊織に対して、青蘭は心から感謝していた。
伊織はしばらく茫然とした表情を浮かべていたが、すぐに頬を赤らめた。
「別に、大したことじゃないよ……私はただ……」
伊織が言いかけ、恥ずかしそうに青蘭から顔をそむけた時だった。
「ハァッ……ハァッ!」
一人の男性がこちらまで駆けてきて、青蘭達の座っている席の傍で勢いよく倒れた。空席だった青蘭達の傍の席は、男が倒れるのに巻き込まれて机や椅子が倒れ、悲惨な状態になっている。男や机の倒れる音に驚いた他の客達は、一斉に男の方へ視線を向けた。
「な……何っ!?」
伊織は表情を驚愕に歪め、倒れている男へ視線を向けている。その傍で青蘭は目を丸くして、男を凝視していた。
男は中年くらいの男性で、恰幅が良いという程ではないが、均整がとれているとは言えない体つきをしており、汗をダラダラと流しながらその場へ倒れている。
男はしばらく倒れたままだったが、やがて勢いよく顔を上げた。
「追われている!」
唐突に、男はそんなことを叫ぶように言った。
「お、追われてるって……」
「クリストォ……」
青蘭の言葉を遮るかのように、倒れている男とは別の男の声が後方から聞こえた。
声のした方向へ青蘭が視線を向けると、そこには細身で高身長の男がいた。真っ黒な髪をまんべんなく腰まで伸ばしており、彼の顔は髪で覆われている。男は長い前髪の隙間から鋭い眼光を覗かせ、青蘭の傍に倒れている男を見ていた。
「奴だ……ッ」
クリスト、と呼ばれた倒れていた男は立ちあがると、男を指差してブルブルと震えた。
「そろそろ、鬼ごっこは終わりにしようぜェ……」
ニヤリと。男は前髪の奥で笑みを浮かべると、こちらへ歩み寄りつつ右腕を横に広げた。
「まさか……ッ!」
神力使い、と青蘭が口にするよりも先に、男の右手に大鎌が形成されていく。黒く、禍々しい装飾のされたその大鎌は、男の身の丈程もあった。
「「きゃああああっ!」」
男の姿を見て、客の一人が悲鳴を上げた。それにも構わず、男は大鎌を振った。それも、まだこちらへ近づき切らないままに、だ。当然、大鎌は届くハズがなかったのだが――
「――――ッ!?」
大鎌は、まるでゴムのようにこちらへと伸びてきたのだ。
「伏せてッ!」
青蘭の言葉と共に、伊織やクリスト、何人かの客は伏せたが、立ったままだった客の内数人は、振られた大鎌に巻き込まれて首を狩られた。数人分の首が、切断部分から大量の血を流しつつ宙を舞い、ボトボトと音を立てて地面へ落ちた。
ほとんど反射的に青蘭は抜刀し、刀で大鎌を防いだ。
「ほォ……」
その青蘭の動きに、男はニヤリと笑みを浮かべる。
「伊織、大丈夫か!?」
青蘭の問いに、伏せていた伊織は小さく頷く。
「貴方は!?」
「わ、私も大丈夫だ……」
青蘭は安堵の溜め息を吐くと大鎌を弾き、悲鳴を上げながら逃げ惑う客達の間を駆け抜け、男へと接近した。男は大鎌を元の長さへ戻すと、青蘭へ視線を向けて再び笑みを浮かべた。
「おおッ!」
声を上げ、接近した青蘭が男へ刀を振り下ろすと、男はそれを素早く大鎌で受ける。と同時に、男は青蘭へ顔を勢いよく近づけた。
「東国の武器かァ! 面白ェ……面白ェぞおいィ……!」
狂っている。と、青蘭は直感的に理解した。青蘭を、刀を見る目が、おかしい。戦いを、刃を、殺戮を求めているようにしか見えないその瞳は、青蘭にとっては不快で仕方がなかった。
「お前は一体……!?」
青蘭の言葉には答えず、男は大鎌で刀を弾いた。その勢いで後退した青蘭へチラリと視線を向けた後、男は周囲を見回し、小さく嘆息した。
「興ざめだなァ……おいィ」
逃げ惑う人々を見つつ、男はそんなことを呟くと、青蘭へ背を向けた。
「ッ! 待て!」
喫茶店の周囲に集まり始めた人々に紛れて、男の姿は見えなくなった。
「何なんだ……一体……」
そう呟きつつ、青蘭は歯噛みした。