episode105「Resistance-1」
一人の少女が、鎖によって両手足を縛り付けられ、椅子に座った状態で張り付けられていた。
その隣には玉座があり、部屋の入り口から玉座へ向けて赤いカーペットが敷かれている。どういうわけか部屋の中は薄暗く、明りの類は一切付けられていない様子だった。
玉座には、初老の男が座っている。体格の良い男で、白髪のない、長く艶やかな黒髪は見た目の年齢にはそぐわないように見える。
男は、ただ座っているだけだというのに凄まじい威圧感を放っていた。地上に存在する全ての生物を平伏せさせることが出来るかのようなその威圧感は、正に「王の貫禄」だった。
その男こそ、ゲルビア帝国現国王、ハーデンである。
そしてハーデンの隣の椅子に縛り付けられ、気を失っている少女は、ゲルビア帝国第一王女――ミラルだった。
やがてゆっくりと、少女――ミラルの目は開かれる。
ミラルは目を覚ますと、声を上げるよりも先に自分の着ている服が、気を失う前と違うことに気が付いた。真っ白なフリルのあしらわれた、緑色の豪奢なドレス……気を失う前とあまりにも違うその服装に、ミラルは驚きを隠せずにいた。
両手足を動かし、縛られていることを理解すると、次にミラルはここがどこなのかを確認するために周囲を見回そうとした――その時だった。
「随分と冷静だな」
不意に、隣から声がかけられる。
「お生憎様。こういう状況には慣れて――」
隣にいる男へ視線を向けつつ、そう言おうとして、ミラルは口を開けたまま男を凝視した。
「どうした? この父の顔に虫でも付いているのかね?」
表情を全く変えずに男は――ハーデンはそう言った。
「お父……様……」
呟くようにそう言って、ミラルはゴクリと唾を飲み込んだ。
ゲルビアの首都、パンドラ。ゲルビア帝国国王であるハーデンが住まう、ゲルビア城を中心とした都市で、その面積と人口は小国にも匹敵する程だが、パンドラはゲルビア帝国の国土の三分の一にも満たない。
早朝、人気のないパンドラの中を、静かに歩く三人組がいた。
男が二人、女が一人。三人の内二人は、大陸内では見ないような服装をしており、周囲の景色の中で少しだけ浮いていた。
男の一人――光秀は、そっとリンゴを荷物の中から取り出すと、後ろを歩いている男の方へ、振り向きもせずにリンゴを放った――――が、次の瞬間、そのリンゴは真っ二つになって地面へ音を立てて落下する。
「……やるようになったじゃねえか」
後ろの男、青蘭が、瞬時に腰に提げている刀を抜刀し、放られたリンゴを切り裂いたのだった。
「ええ、おかげさまで」
青蘭は、光秀の言葉に答えると同時に、刀を鞘の中へ収めると、地面に落ちたリンゴを拾い上げて土を払うと、片方を一口口にした。
光秀が振り返らずに左手を後ろに差し出すと、青蘭は何も言わずにもう片方のリンゴを光秀の左手へと放った。
光秀は青蘭からリンゴを受け取ると、満足げな表情を浮かべつつ、そのリンゴを口にする。
「修行の成果、十分に出てんじゃねえか」
アルケスタからパンドラまでの道中、光秀はことあるごとに青蘭へ刀の稽古をつけていた。青蘭の異常なまでのやる気のせいか、青蘭の刀の腕はメキメキと上達し、短期間の間に、先程のような芸当が出来るまでに成長していたのだった。
――――俺に、刀を教えて下さい。
空虚なようでいて、その奥にドス黒くさえ見える意志を秘めた青蘭の瞳を、光秀は今も忘れることが出来ずにいた。
青蘭が、ただ復讐のためだけに刀を振るっていることは、稽古を付けてみてすぐに理解出来た。一太刀ごとに感じる、ドス黒い妄執めいた青蘭の感情。殺意で濁ったその凶刃は、少しでも気を抜けばすぐにでも光秀の喉下まで突きつけられていた。
そんな青蘭に不安を感じつつも、ついにこの場所――パンドラまで辿り着いてしまった。
「ついにここまで辿り着いたわね……」
静かにそう呟いた女性――麗に、青蘭と光秀はコクリと頷いた。
「取りましょう。同胞達の仇を……そして掴むのよ、東国の未来を」
青蘭達がパンドラへ到着してから数時間後、日が昇る頃にチリー達はパンドラへと到着していた。
パンドラに到着したチリー達は、その夥しいまでの人の数に圧倒されていた。どこもかしこも人ばかり、これまで彼らの住んでいたテイテスでは、一瞬たりともあり得ないような光景だった。
これまでの旅の中、様々な町の中を歩いたが、これ程までに人の多い町はチリー達にとっては初めてである。
いつもなら、この物珍しい光景に興奮して、チリーはニシルと共に大騒ぎするのだが、今回ばかりはそれどころではなかった。顔を隠すためにかぶっているフードの下で、チリーは険しい表情を浮かべたまま、一言も発さずに歩いている。
「流石は大陸一の人口……ですね」
眼鏡の位置を直しつつ、周囲を見渡しながらカンバーがそう言うと、隣でニシルがまったくだよ、と苦笑しつつ頷いた。
「どこもかしこも人だらけ。息苦しいったらないね」
そう言って、ニシルは小さく溜息を吐いた。
「カンバー、ゲルビア城の位置は把握出来ているのか?」
トレイズの問いに、カンバーはええ、と答えると、そのまま言葉を続けた。
「ゲルビア城はこの町の中心部……。元々パンドラ自体が、ゲルビア城の周囲を囲むようにして作られた町みたいです。パンドラの歴史を語り出すと長くなるので、今は割愛しますが……」
ゲルビア城。という単語を聞いた途端、今まで黙っていたチリーの表情が一変する。
「場所がわかってんならさっさと行くぞ……! んであのクソハーデンをぶっ飛ばしてミラルを助ける!」
今にも駆け出さんばかりの勢いのチリーに、カンバーは落ち着いて下さい、と右手で制止する。
「落ち着いてなんかいられっかよッ!」
――――チリー! チリーっ!
必死に伸ばされたミラルの手を、チリーは掴むことが出来なかった。
動かない身体と、遠ざかっていくミラルに絶望し、己の無力さを噛み締めることしか出来なかった。
アクタニアから、パンドラへ辿り着くまでの数日間、チリーは片時もあの瞬間のことを忘れなかった。
救えなかった。
後一歩だったのに、助けることが出来なかった。
自分を信じて、想像を絶する絶望と苦痛の中、待ち続けてくれていた彼女を、救うことが出来なかった。
「今度は絶対ェ……掴んでやる!」
悔しがっているのは、チリーだけではない。ニシルも、トレイズも、カンバーも、ミラルを助けることが出来なかったことを悔いている。しかしだからと言って、全員が冷静さを欠くわけにはいかない。
「気持ちは痛い程わかります。ですが、策も無しにただゲルビア城へ突っ込むのはあまりにも無謀です」
「そりゃ……そうだけどよ……ッ」
カンバーの言葉に、チリーが歯噛みした――その時だった。
「いい加減、白状したらどうだ?」
そんな言葉が、路地裏から聞こえてきた。
すぐにチリー達が路地裏へ視線を向けると、そこには数人の兵士に、一人の小さな少年が囲まれていた。
少年は怯え切っており、兵士が何かをする度にビクビクと肩をびくつかせている。
「アジトの場所さえ吐けば、お前だけは助けてやるぞ?」
そんなことを言いながら詰め寄ってくる兵士に、少年は頑なに首を左右に振った。
「頑固なガキだな……一回痛い目見ねぇと……」
言いつつ、男は腰に下げている剣を抜いた。
「わかんねえか?」
剣先を突きつけられた少年は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながらも、首を左右に振っていた。
その少年の態度に、剣を少年へ向けた兵士は表情を怒りで歪めると、剣を振り上げた――が、その剣は背後に現れた何者かによって取り上げられる。
「痛い目見んのはテメエの方だ」
兵士が振り向くと、そこにいたのはローブを着込んだ白髪の少年――――チリーだった。
チリーは兵士が何か言うよりも早く、兵士の顔面にその右拳を叩き込んでダウンさせると、間髪入れずに残りの兵士にも殴りかかる。
そして一分と経たない内に、その路地裏で立っているのはチリーと、その少年だけになった。
「おい、大丈夫か?」
チリーの問いに、少年は安心したような表情を浮かべ、ありがとう、とチリーへ頭を下げた。