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巡礼の子  作者: 日根野 了太
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第三部 巡礼の子 6 聖地ボロブドゥール

 6 聖地ボロブドゥール


「私にちかづくな、おまえも食われるぞ!」


 しかし、声はかすれて言葉にならなかった。バロン・マユラは自分の体に取りついたどす黒い呪いの龍たちがあたりの空間をまるで歪めるかのような邪悪な瘴気を発しているのがわかった。


 そばには村人たちに殺されたグルルの死体と、彼らを連れてきた子供。豹から助けやった少年だ。痛みと苦しみでのたうちまわるマユラを、男たちは心配そうに抱え、山を下りていく。


 ――彼らには見えていないのか。


 まるで腐肉にたかる蠅のように自分の体にまとわりつく黒い龍たちが自分の意思と生気を奪っていく。理性を失っていくかわりに呪いが肉体と精神に充満していく。血が毒にかわっていく。いまにも爆発しそうだ。


 殺したい殺したい殺したい、憎い憎い憎い憎い!


 生意気なグプタもスラビーも、ラーマに護られるヴィシュヌも、愛するラーマも、ずたずたに斬り裂いて殺してやりたい——。


 殺したい殺したい殺したい、ああああああ殺したい——!


 目からこぼれているのが涙なのか黒魔奈なのか血なのかわからなかった。目が覚めた時、死体の山があることをマユラは想像しながら、アンガはラーマの名をつぶやいた。



 ※



 人々は東の空に見える噴火の煙を見て驚嘆の声を上げた。


 巡礼団を信じてついてきたグノン村の住人たちは命を救われたとヴィシュヌの名を口々に叫んだ。

 

 スラビーは僧に言って、ヴィシュヌの様子をさぐるために早馬を出させようとした。しかし、ふとめまいのような感覚がして、少し前に考えたことを忘れてしまった。


 今、なんのために、早馬の指示を出そうとしていたのか。


 石造りの工事事務所の二階のテラスから身を乗り出し、噴火の様子を眺めているヴィシュヌの姿を見て、ようやく気付く。


「過去改変?」


 記憶がよみがえる。


 グノン村でヴィシュヌがグプタを捕縛させ、村人を引き連れて山から避難した。


 すでにグプタの中のクンビーラはいなくなっていた。グプタは操られていたことをぼんやりと覚えていたが、自分が姫を生贄にしようとしていたことに驚いて、泣き出した。ずいぶん性格が変わったが、建築の知識は残っていて、すでに職人や僧に交じって工事作業に加わっている。


 クンビーラが懸念していたとおり、ディリ村での虐殺の噂を聞いて離れて言った労働者も多く、人手は足りていないが、グノン村をはじめ噴火の被害から逃れてきた住人たちが工事に加わったことで計画は前進している。グノン村の石工職人たちの活躍も大きかった。


 時間はかかるが、寺院が完成する未来はほぼ確定したと言えるのではないか。



 ※



 かがり火に照らし上げられたボロブドゥールは、完成前とはいえ、圧巻の姿だった。


 幾重にも重なる基壇は回廊になっていて、すでに彫刻が完成している下層部の絵巻物語は荘厳を通り過ぎ、神秘的な迫力で存在感を示している。まさに仏の世界観による宇宙の姿を凝縮しているようだった。


 それは寺院であり、曼陀羅であり、巨大な経典だった。


 未完成だが、文字の読めない者は掘られた絵巻を観て世界を感じ、盲目の者は手で彫刻を触り、足で天へ向かう階段を昇って歓喜の涙を流していた。


 その様子を見て、信心の浅いラーマも、前にヴィシュヌが目を輝かせて語ったボロブドゥールへの情熱がわかった気がした。


 あの姫が見ているのは、ボロブドゥールの仏塔そのものではない。それがそこにあることで救われる人々がいる未来を見ている。


 未来——瞬妃が見たがったのは、それだ。凌太から聞く未来の日本は、不幸もあるだろうが、今の唐やシュリーヴィジャヤに比べれば、平和で、少なくとも、毎日のようにそこらへんで人が斬り合う世界ではない。


 そんな未来を信じ、形にしようとする――。


 ラーマは石工職人たちに混じって作業を手伝った。見えかけた答えはまだはっきりしないが、体を動かすことで、なにかが掴めると思ったのだ。


 三日が過ぎた。職人たちはよく働いた。手伝いに来る巡礼者もいた。ヴィシュヌとグプタは現場監督の職人たちと一日中打ち合わせをしていた。外観はほとんど完成していて、あとは彫刻を施していく作業だけだった。


 その夜は天気が良かったので、巡礼団は屋外で夕餉をとった。労働者にも秘蔵の酒がふるまわれた。噴火の犠牲になった山麓の人々へのねぎらいも兼ねて、ちょっとした宴が催された。


 ラーマとスラビーはかがり火で黄金色にライトアップされたボロブドゥールを肴に酒をちびちびと飲んだ。酒好きのくせに酒に弱いラーマをからかって、スラビーがぐいぐいと白い濁り酒を注ぐ。スパルナやその部下たちがそれを見て笑う。


 ラーマは凌太の憑依により千里眼を得たせいか、まわりの人間の心がなんとなくわかるようになっていた。スラビーが自分に対して好意をよせていることも感じていた。ずいぶん年上だが、美しく聡明な女戦士に魅力を感じないわけではない。


 だが、マユラもそうだったが、彼女との未来はどうしても想像できなかった。想像しようとしても、なぜか、ぽっかりと空白で、不吉な感覚が湿った空気のように思考にまとわりついた。


「マユラはグルルを一人で始末しに行ったんだろうか」


 ラーマは足もとの水たまりを見て言った。かがり火の朱色が映えて、マユラの赤毛を思い出させた。自分の一言が思った以上に彼女を傷つけ、無茶な行動に走らせたのではないか――そんな気がした。


「だろうね。アンガ……マユラが殺されるなんて想像できないが、一度ディリ村のほうに戻って様子を——」


 そのとき、かがり火が倒れ、悲鳴が上がった。


 ガルーダの兜をかぶった歩兵隊や騎馬隊が押し寄せてきて、宴にわく人々を騒然とさせた。百人ほどの部隊だった。


 先頭の派手な兜の隊長らしき男が馬上から労働者たちに向かって、全員一か所に集まれと命令する。


 スパルナたちが剣を持って前に出ると、ガルーダ軍は身構え、槍を突き出す。


「なんの真似だ、ヴィシュヌ王子の御前だぞ」


「それはこっちのセリフだ、逆賊どもめ」


 声は兵たちの後方から聞こえた。兵たちが両脇によけ、道をつくると、豪奢な装飾をつけたガルーダ、クリシュナが歩み出てきた。


「略奪と虐殺の容疑で、ヴィシュヌ王子にはヴィルシャナ王の御前で裁判を受けていただく。そして、スパルナと護衛団、おまえたちにはすでに死刑が言い渡されている」


「なにを……」


「工事は中止だ。すべて埋めてしまえ。労働者はヒンドゥー寺院の建設に移動してもらう」


 隊長の合図で屈強そうな兵たちがヴィシュヌを捕らえに行く。グプタがヴィシュヌの前に立ちはだかるが、兵たちは躊躇なく剣をふるった。


 斬り伏せられるグプタ。


 ヴィシュヌが泣き叫びながら覆いかぶさる。必死に叫んで過去を変えようとするが、今日一度使っているので、改変は起きなかった。


 ラーマは助けに行こうとするが、ガルーダ兵に阻まれる。スパルナたちも取り囲まれて、すでに追いつめられていた。


 逃げようとする者は斬り捨てられた。多くはその場にへたり込み、仏に祈った。


「姫は関係ない! 私の首がほしいなら持って行け!」


 スパルナの嘆願は聞き入れられず、槍兵に囲まれた護衛団は抵抗す間もなく槍で貫かれていく。スパルナをかばって盾となって死んでいく護衛兵もいた。


「くそおおっ!」


 棍棒を振り回すラーマを槍兵が取り囲む。


「バロンだ、討ち取れ!」


 そこにスラビーが加勢し、兵たちの首や手足をヴァジュラで斬り裂いていく。


「ここは私に任せて、おまえは姫を助けろ。彼女が死んだら寺院完成の可能性が消滅する」


 スラビーは背中合わせで言った。


「しかし」


「あんたはなんのためにここに来た! 私は、おまえをガルバダートへ送るためだ!」


 スラビーは自分の首飾りを引きちぎると、両手でヴァジュラを持ち、縦に構えた。兵たちが警戒して動きを止める。


「ヴァルナに会ったら、自由に生きろと伝えてくれ。それまではおまえも死ぬな」


「おい、何をする気だ」


「チャクラ開放」


 スラビーがそう言うと、その体がほんのりと輝きはじめた。掲げられたヴァジュラに魔奈がこもり、一斉に飛びかかってきたガルーダ兵たちの槍をはじき返し、押し寄せてくる兵たちをものすごい速さで斬り裂いていく。命の灯を燃やす最後の手段を使ったのだ。


 ラーマは「トウシャバンライ」とつぶやくと、スラビーの奮闘を背に走り出した。ガルーダ兵や護衛兵の死体を飛び越え、槍をすり抜け、ヴィシュヌを捕らえる大柄な兵の額を棍棒で突いて倒した。


 馬屋のほうを見ると、見張りのクタたちが馬を曳いてこちらを見ていた。


 ラーマはヴィシュヌの体を抱えると、馬屋に向かって走った。


 しかし、すぐに兵が回り込んできて、槍を構えてラーマの行く手をはばんだ。クタたちは兵に追われ、馬に乗って逃げてしまった。


 背後の戦闘もすでに大勢が決していた。スラビーの死が気配でわかった。


 逃げ場がない。ラーマの胸の中で絶望の黒いもやが立ち込める。


 前方にいた兵がとなりにいた兵を槍で貫いた。


 その後ろにいた兵が奇声を上げながらその兵を斬る。


 同士討ちが始まり、ラーマに向けられた槍はガルーダ兵に向いていた。


「なんだ……?」


 ゆっくりと、闇の中から歩み出てきたのは黒い肌の女だった。全身火傷のあとのような黒いアザだらけで、尋常でない力の黒魔奈が彼女の体に充満し、あたりの空間を歪ませていた。


「マユラ……?」


「ラーマ、私は殺してないよ。力を解放せずにずっとここまで歩いてきた」


「だ、大丈夫か」


 マユラの肩に触れようとしたラーマをマユラは手で制した。


「こんな姿、見せたくなかったよ。ここは任せて、あんたは行って。可能性が閉じる前にグルマウコウを使うんだ」


 マユラはガルーダ兵たちに向かって歩いていく。兵たちは黒魔奈に当てられると正気を失い、同士討ちを始める。


 ラーマはヴィシュヌを木陰に運んだ。トウシャバンライの呪符を懐から取り出し、ありったけ持たせる。


「隙を見て逃げろ、俺がひきつける」


 ヴィシュヌは泣いていた。


「ラ、ラーマ、こんなに人が死んで……グプタも……。わらわの寺院建設は間違っていたのだろうか?」


「間違っていたかはわからん。けど、君が兄上の言葉を信じるなら、最後までやり遂げろ。グプタやスラビーや、死んだ人たちのためにも。この寺院の持つ力は本物だ。仏の教えに疎い俺でも一目でわかったよ。きっと、多くの人が救われる。それは間違いない」


「同じことを……夢でナティにも言われた」


「なに、ナティ?」


「ナティだけではない。いろんな声が聞こえた」


「君にはそういう力がある。だから生き延びてそれらの声にこたえてやれ」


「……おまえも死なないでくれ。ボロブドゥールで封印を解くのであろう。わらわの力を使え」


 ヴィシュヌは立ち上がった。涙に濡れたその目は覚悟に満ちていた。


「青姫の魂はあそこにあるそうだ。ナティが言っていた」


 そう言うと、ヴィシュヌは走り出す。そびえたつボロブドゥールに向かって。


「おい、姫! 青姫がなんだって?」


 彼女は白い光に包まれていた、錯乱した兵が光に触れると、足を止め、我に返ったような顔をして、その場に立ち尽くした。


 ラーマはヴィシュヌのあとを追って、頂上までまっすぐ続く中央の階段を駆け上がる。


 回廊から飛び出してきた男がいた。クリシュナだった。


「こんな幻術を使うとは、グルルが裏切ったか」


 ヴィシュヌを攻撃するには十分な間合いだった。ラーマが防ごうとする前に、その剣は振り下ろされていた。


「ひぃっ!」


 叫んだのはクリシュナだった。


 突然攻撃を止めた将軍は驚愕の表情をしたまま固まっている。


「クリシュナよ、ここを通せ。私はこの方を崑崙城へ送り届けるのだ」


 ヴィシュヌから発する淡い光がクリシュナには亡霊に見えているのだろう。彼女の背後にいる何者かに怯えているようだった。


 ラーマはへたり込んだクリシュナのわきをすり抜け、階段を駆け上がった。


 ヴィシュヌのもとに駆け寄り、クリシュナに投降を求めるスパルナの姿が見えた。


「いけっ、ラーマ! 青姫を今度こそ捕まえるのだ!」


 ヴィシュヌの声を背に、ラーマは振り向かずに駆け上がる。


 ————追いつくんじゃない。助けるんだ。今度は、俺が、あいつを。


 最上階の円壇に到達すると、懐から赤い呪符を取り出した。

 

 曇天の夜空に向かって呪符を掲げ、「グルマウコウ」と叫んだ。



 ※



 少年は人だかりを見つけて足を止める。大きな門の入口が渋滞になっていて、中に入ろうとする人々が路上にまであふれている。人だかりに阻まれ、中が見えない。


「なあ、あんた、あれは何をやってるんだ?」


 少年は入口で客の整理をしていた小男を捕まえて訊いた。


「漫画という絵巻さ。座席だけではなく、立ち見からも金をとりゃあいいのに、もったいない。まあ、わしは駄賃をもらえるからいいけどな」


 少年はいい席を安値で売ってやるという男を無視して、人ごみをかき分けた。


 背伸びすると、露天の舞台上の緞帳に絵物語が映し出されているのが見えた。


「あれは……」


 そこには少年自身――トゥミがスリンらとともにダウ船に乗っている姿が描かれていた。


 嵐で船が転覆しそうになったとき、スリンがロケラオクークの札を持たせてくれた。死に瀕したときに魂を一時避難させるための呪符だと言っていた。


 そうだ、嵐のあと、自分は気付けばこの町にいた。


「ということは、ここが魂の避難場所か?」


「ここはヴァジュラダートにある崑崙の都です」


 そう言ったのは、青い頭巾をかぶった女性だった。ペルシア風とも唐風ともとれない奇妙な出で立ちだ。彼女はさっきの男に指示を出しており、どうやらこの露店の劇場らしき施設を取り仕切っているひとりのようだった。


「崑崙城の封印が解けたので、ガルバダートに流れた魂の一部が地続きのこの町に漂着しました。私もそうでした。けれど、崑崙王に捕まった人たちはまだ城にいます」


「うーん、よくわからない。君は誰だ?」


「はじめまして、ご先祖様」


 一羽の鳶が飛んできて、少女の肩に止まる。少女がにこりと笑う。そのほっこりとした笑顔は、母と妹の面影があった。



 ※



 凌太は目を覚ました。


 土の上に倒れていた。プラ・ダーマチェディの仏塔が見える。


 仏塔のレリーフを見ると、槍で突かれるラーマの姿が消えていた。


 すぐそばに巨漢のネオバロン・ナンディがうつ伏せに倒れていた。さらにそのすぐ向こうにはロハスが横たわっている。二人とも、口や胸から血を流していて、ピクリとも動かない。


「ロハスはあんたをかばって相打ちになった」


 そばに座り込んでいたモニカが言った。


「ナンディの能力がフリーズしたんや。スラビーがバロン・ナンディを産む前に死んだんやろうな」


 もし産んでいたとしたらラーマの子だったのだろうか――。


 凌太はロハスの言葉を思い出す。書き換え前は彼がナンディだった。


「そうか……わずかなつながりを頼りにラーマを支援していたのは……」


「警察が来る前に逃げるよ」


 モニカは体の砂を払いながら立ち上がる。


「約束してくれ」


 凌太はバイクのエンジンをかけるモニカの背に向かって言った。


「ナティやネオランダのみんなを復活させるって」


「凌太次第や。あんたは平群広成の魂と共鳴できるから生きたままヴァジュラダートへ行ける。ラーマが崑崙城の扉を開けたら、乗り込んで崑崙王を調伏するんや」


「ラーマはボロブドゥールでグルマウコウを使った。けど、崑崙城に行けたかどうかはわからない。崑崙王の罠かもしれない」


「それでも信じるしかない。もう一度、晴明があんたを向こうに送ってくれるまで、なんとしてもネオバロンから逃げ続ける」


「晴明はなぜ自分で崑崙王を倒さない?」


「あいつらどうしの特約があって、いろいろ制約があるんや。武内宿禰系のあんたに倒させたいみたいやな」


「なら、早くヴァジュラダートに送ってくれるよう言ってくれ」


「今は無理や。また声が途絶えた。あいつの時代でも邪魔する者がいるみたいで、こっちまで手が回らんようや」


 モニカがバイクにまたがる。


「乗って」


 凌太はロハスたちの死体を振り返りながら、バイクの後ろに乗った。


 走り出すと、風が顔に当たる。エンジン音とともに景色が猛スピードで過ぎていくが、心が追いつかない。死んでいった仲間を救うには前に進むしかないのはわかっているが、とてつもなく心細い綱渡りだ。


 空港に着き、スマホでヴィッキーにラインで状況報告した。ヴィッキーたちも女のネオバロンに襲われたということだった。呪符術でなんとか逃げたが、リーロンが負傷した。


 モニカはLCCのカウンターで二人分の航空券を買ってきた。


「どこへ?」


「海龍剣のあるべきところ」


 渡されたチケットはバンコク経由の関西国際空港行きだった。


「トゥミが無事唐に着いて海龍剣を日本の遣唐使に託すという筋書きを信じるんや。うちらは日本で海龍剣を見つけて印を発動させる。平群広成と海龍剣が日本に帰れば、ウルラガは発生せんはず」


「ウルラガが消えたら、晴明の子孫の君はどうなる?」


「消えるかもね。めちゃくちゃな人生やったから、リセットされてもかまわん」


「スーパーモデルが、ぜいたくだな」


「DVの恋人を逆に殺しかけて、薬にハマって入退院繰り返して……見てくれ以外になんの才能もないマネキン女によくある人生崩壊や。そこを晴明につけこまれた」


 凌太はそのときなぜかモニカの横顔に懐かしいものを感じた。彼女の身の上は前にも聞いたことがあった気がしたのだ。


 離陸すると、妙な胸騒ぎがあった。 


 異変に気付いたのは離陸から30分ほどたったときだった。高度が急に下がり出し、まわりがざわついている。客室乗務員がタイ語でなにやら叫んでいる。どうやら機体のトラブルのようだ。操縦席の方向から奇声が聞こえてくる。操縦士が錯乱しているのだ。


「ネオバロンの……工作か」


 凌太はこみあげてくる恐怖をごまかすように、呪符アプリを開く。しかし、どの呪符を使うべきかわからない。


「……こうなったら、魔奈はまだ足りんけど――」


 モニカがロケラオクークの札を出して凌太の膝に乗せる。


「たのむで。今度こそ広成とナティを救ってくるんや。それで、またみんなで聖地巡礼のつづきするで。大宰府と蘇州と西安と、ジャワにも行こう」


 モニカがとても遠くで話しているように見えた。


「吉祥寺に戻ったら、面白い漫画を描いて。あんたならやれる。世界中の人が巡礼したくなる漫画を描ける。ナティもきっと巡礼したくなるような、素晴らしい物語を描ける」


 彼女と話すのはこれが最後になる気がした。歴史が大きく変わったら、自分も自分でいられるかわからない。生まれてこなくなるかもしれない。彼女も、自分も。


 凌太の脳裏に、飛行機が海面に突っ込む光景が浮かぶ。


 震える凌太の手に、モニカが手のひらを乗せる。


「楽しい未来を想像するんや。想像した未来がかならずやってくる。千里眼は元来、誰にでも備わってるもんや。魔奈の強いあんたは特別、引き寄せる力が強い」


 モニカが座ったままの凌太の頭を抱きよせ、深いハグをした。いい香りが鼻を蹂躙し、心地よい感覚に包まれる。


「書き換え前は、あんたはうちの義理の弟やった。イギリスの別荘でよく遊んだ。うちの父は羊子さんの元彼で、書き換え前は夫のひとり。あんたに英語を教えたのはうちや」


 飛行機の高度がぐんぐん下がる。急流を滑り落ちる丸太のように、海面に向かって突っ込んでいく。


「きっと、崑崙城の封印は解けた。あとは崑崙王を倒すだけ。ありったけの魔奈であんたをヴァジュラダートに送ったげる。大丈夫、あんたならやれる」


 モニカの手には紫色の呪符があった。彼女はそれをロケラオクークの札の上に重ねた。


「我、モニカ・サンダーの存在と引き換えに、此の者、葛城凌太をヴァジュラダートへいざない給え――リメラスオンク」


 モニカのささやき声とともに、凌太は意識が落ちた。


「さよなら。世界を救ってこい」

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