表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巡礼の子  作者: 日根野 了太
5/10

第三部 巡礼の子 1 聖地ナコーン・シータンマラート ~ 4 聖地ジャワ

 第三部 巡礼の子



 1 聖地ナコーン・シータンマラート


 ウー・シューヤンは『ドラゴンジャーニー』のアニメを観るにつけ、わきあがるものがあった。自身が監督した『建国神話』は、一部からは高い評価を受けたものの、それはたぶんに政治的な共感や、商業的な成功についてであり、ドラゴンジャーニーと比較され、批判された。悔しさという単純なものではなく、純粋なリスペクトもあり、愛憎ともいうべき感情だった。

 ほんとうは、あんな物語を描きたかった。


『建国神話』は、広成たちの戦いが終わった十数年後が舞台だ。

 主人公のヴァルナはある英雄の血を引く孤児で海賊の手下だったが、生まれついての強さとかしこさを買われ、シュリーヴィジャヤの海軍に拾われる。周辺国との戦いを経て、軍人としてのし上がっていくが、庶民を虐げる王家と対立した彼は、独立建国を考える。


 ヴァルナは自分がかつて南海に君臨した王族の末裔だと判明する。孤島の洞窟に隠された一族の宝剣ナーガラージャを受け継ぎ、王国に反旗を翻す。唐や日本に使節を送り、独立国としてウルラガを世界に認めさせるところまでが映画のストーリーだ。


 おとぎ話をたよりに脚本を書いたが、史実不明の箇所のほとんどはプロデューサーであるレオ王子の創作による。


 ウルラガ建国については謎が多い。現存する文献が少ないのだ。わずかな資料も、情報庁が公表を制限していて、閲覧がままならない。これまでも、王室に都合の悪い史実はかき消されてきたのだろう。それが情報庁の役目だからだ。


 先日、ネットで騒がれた『ドラゴンジャーニー2』について、ウーはようやく読むことができた。パールパレスの限定会員の抽選にもれたが、違法サイトにアカウントが売られていたのだ。


 その続編によると、もう死んで退場したが、マカラこと養年富の境遇はヴァルナのそれに似ていた。ヴァルナは謎の多い人物だ。実在したとしても、そのインドの神にちなんだ名は、あとで付けられた称号だろう。


 ヴァルナという名が出てくる文献は、十世紀の日本の歴史書しかない。日宋貿易の船団とともに平安京を訪れたウルラガの使節団が、始祖ヴァルナの末裔だと名乗ったのだ。


 海龍剣を手にした者がのちの世でヴァルナとして語られる――とすれば、このままではトゥミがヴァルナになる。しかし、それをバロン・ガネーシャが阻止しようとしている。


 バロン・ガネーシャの容姿はアニメのヴァルナによく似ている。キャラデザインはレオ王子の指示だった。


 王子は、シュヴェータの息子であるバロン・ガネーシャがヴァルナだという確証があるのか、あるいは、そう信じたいのか。


『ドラゴンジャーニー2』はまだつづいている。第八話が発表されていた。

 創作者としての探究心もあったg、なにより一読者として、物語にのめり彼はこんでいた。


 視点はトゥミとラーマに戻る。



【第八話 再会】


 大きな椰子の木が風に揺れている。


 港には大小の商船が停泊し、荷下ろしが行われていた。肌の黒い獅子国の商人やアラブ人が行きかっていて、ナコーン・パトム以上に国際色豊かだった。


 タンブラリンガはマレー半島東岸の中腹にある港市で、シュリーヴィジャヤの属国だ。


 風は湿っぽく、日差しは鋭い。南へ下るほど暑くなるのは太陽が近くなるせいだとトゥミは思った。世界が球体だという説を書物で読んだが、直感的にそれが正しいと感じた。


 敵地だが、シャイレンドラ朝の影響は薄く、トゥミとラーマも商人らと一緒にすんなり入港できた。船員の話では、タンブラリンガはドヴァーラヴァティに対し友好的で、むしろ、シャイレンドラに対する反発のほうが強いようだった。


 南方から来る船は少なく、北との間、つまりドヴァーラバティやチェンラとの間を行き来している船がほとんどだった。


 木箱いっぱいに盛られたトパーズや果物、陶磁器や珊瑚が広い通りを荷車で運ばれていく。唐人の客引きが、同じく唐人の船員たちに宿をあっせんしている。


 簡易な木材と布だけのテントや掘っ立て小屋がひしめく港町の先には、日差しに輝く石造りの寺院がある。道々で、袈裟を着た仏僧が托鉢をしている。


 ラーマはいつのまにかいなくなっていた。トゥミは雑踏の中をきょろきょろ探した。


 青い王子は男たちの輪の中にいた。闘鶏の賭けごとに興じている。


 ラーマが悔しがる姿が頭に浮かんだトゥミは、彼にそのことを耳打ちして、ひとりで路地に入る。寺院を目指して歩いていると、近くに異様な気配を感じた。見ると、白いフードを被った長身の男の後ろ姿が見えた。


「あ、あ、あいつは……バロン・ガネーシャ……!」


 物陰に隠れて様子を見た。ガネーシャはこちらに気づいていない。


「動くな」


 女の声と、首筋にあたる刃の冷たい感触。


 振り返ると、大柄な女はトゥミの服をつかみ、通行人に見えない角度でヴァジュラの切っ先をさらに強く押し当ててきた。ティティーラとの闘いでついた傷にあてがうように。


 金髪の長身美女――バロン・スラビー。父マカラを殺した刺客のひとりだ。


「ひとりか。青い王子はどこだ」


 次の瞬間、トゥミはスラビーの手の中におらず、路地の薄闇にむかって走り出していた。


「なるほどね。千里眼か」


 スラビーのつぶやきを背に受けながら、トゥミは暗い路地を走り、ラーマのいる目抜き通りを目指した。父の仇を目の前にして逃げるのは悔しいが、ガネーシャに見つかる前に、ラーマに知らせなければ。


 鋭い殺気に振り返ると、ヴァジュラを持ったスラビーがすぐ背後に迫っていた。トゥミは大振りの斬撃をすんでのところでかわし、海龍剣を抜く。


「うわああああ!」


 柄から伝わってくる魔奈が手のひらから腕に走り、体がひとりでに動いた。振り向きざまに放った剣撃は牛仮面の女の首筋を水平に一閃し、血しぶきが舞った。




 ラーマはトゥミに言われたとおり、勝っても負けても悔しがった。結果、敗北は確定せず、持ち金は四割増えた。


 ――やっぱり、あいつの千里眼は本物だ。ますます覚醒していく。


 いぶかしがる賭場の客たちを後目に通りに出ると、「景気がいいな、青い王子」と耳元で声が聞こえた。


 周りを見たが、誰もいない。声の出所をさぐる。魔奈の匂いがするのは、数軒先の果物屋の軒下に立つ小柄な老婆だった。彼女の声だが、彼女の言葉ではない。メッセージを発した術者はどこか別の場所にいる。


 店先の大瓶に張られた水に、空を舞う鷹が映っている。視線はそこから感じた。水面を反射する光を媒介に魔奈を飛ばし、まるで見えない糸を張り巡らせて情報を送ってくる。


 ――バロン・ガネーシャが近くにいる。そっちへは行くな――。


 今度は、向かいの旅籠の給仕の娘が言った――ように聞こえた。


 魔奈の匂いからしてトゥミではない。バロンの誰かでもない。ラーマの知らない魔奈使いだ。まるでいくつもの声が混ざっているようで、男か女かもわからない。


「誰だ? あんたは」


 ――いま、おまえを見ている者だ。トゥミがこっちに走って来るから、合流したら西の物見塔に向かって走れ。港にも敵兵がいるから気をつけろ――。


 俺を見ている――?


 ラーマは首をかしげながらも、剣を持って走って来るトゥミの姿を見つけたとき、「声」のいうとおりに「こっちだ!」とトゥミに声をかけ、西の路地に飛び込んだ。




 バロン・スラビーは自分の喉元を触る。血は出ているが気道には達していない。異様な量の流血は現実ではなかった。いや、ありえたかもしれない別の現実が一瞬見えたのだ。喉をかき斬られた世界の自分は死に、紙一重で助かった世界の自分は生き残った。最近、使えるようになった不死の術だ。


「やれやれ、あの坊やも成長しているってことか」


 路地裏での騒ぎを聞いて、柄の悪い連中が集まってきた。スラビーの露出の多い服装を見て、好色な笑みを浮かべる男たち。


 スラビーがヴァジュラを構えると、彼らは怯えて逃げて行った。


「ふん、ここにもろくな男がいないね」


 ガネーシャの予言どおり、トゥミがここタンブラリンガに現れた。バロン・ナーガは生け捕りにしろと言っていたが、ガネーシャは殺して海龍剣を奪えという。ガネーシャの千里眼そのものが意志をもって、未来の彼の子孫のための作戦を命じてくる。父シュヴェータは子孫からの支配に抗ったが、ガネーシャはそうではないようだ。


 そのとき、小柄な女が路地の細い隙間から猫のように飛び出してきた。


「姉さま、やっと見つけた」


 深い眼孔の奥から、大きな目が鋭い光を放っていた。黒い肌に細長い手足。赤毛で、碧い孔雀の面をつけたタミル人の女戦士。


「アンガか、おどかすな」


 元海賊娘は獣のように俊敏で、スラビーですら気配に気づく前に間合いに入られる。まだ若いが、暗殺技術は完成されている。誰もが彼女を天才と呼んだ。


「いつになったらバロン・マユラって呼んでくれるの」


「青い王子を討ったら認めてやるよ。おまえこそ、スラビー様って呼べよ」


 トゥミの走り去った方向へ移動しながら、マユラはタンブラリンガの情勢を語る。


 王のダルマは仏教に熱心で、各地から留学僧を集め貧民や孤児も受け入れている。しかし僧院の実態は練兵所で、僧兵を鍛え、インド方面から武器を輸入し、ひそかに軍備増強を進めている。ヒンドゥー勢力とも手を組んで、独立を目指しているようだ。


「ジャワやパレンバンから軍や視察団が来るたびに兵たちはぴりぴりしててさ、先月も馬鹿な僧兵がハヌマン兵ともめて乱闘になってたわ」


「そりゃ大変だ。トゥミ捕獲のためにハヌマンから一部隊を借りてきている」


「ここで暴れさせたらやばいよ。僧兵たちとドンパチになるかも」


「ふむ……それも面白いかもしれないね」




 ラーマとトゥミは平屋の家屋がひしめく貧民街を走り、木組みの物見矢倉を目指した。


 塔のまわりは広場になっていて、屋台や露店が集まっていた。


 塔の二階にいた見張りの大柄な男が、ラーマを見つけるやいなや、なにやら興奮した様子で奇声を発し、欄干を乗り越えて飛び降りた。


「な、なんだ、あいつ!」


 トゥミは敵兵かと思って立ち止まる。


 飛び降りた坊主頭の巨漢は長い棍棒を振り回して向かってくる。眉間に刀傷のある、強面の僧兵だった。


 ラーマもまた相手にまっすぐに向かっていく。


「ラーマ、この野郎!」


 巨漢が発したのは唐語だった。


 ぶおん、と草を薙ぐように巨漢が水平に振った棍棒をラーマは跳びこえてかわす。


 そのままラーマが相手に一撃を食らわせる――かと思ったら、二人は抱き合った。


「ウーウォン、生きていたか!」


「おまえこそ!」


 塔の詰め所に入り、ラーマとトゥミは僧兵たちから歓待を受けた。


 ウーウォンはラーマが子供のころから彼の母に仕えていた船乗りで、安南からの海龍剣を探す旅に同行したが、オケオ沖で嵐に遭って海に落ちた。流れて流れて、商船に拾われ、寄港先のタンブラリンガの寺の世話になり、そのまま僧兵になったのだという。


「で、海龍剣は……その子が持っているのがそれだな」


 ウーウォンは粗暴そうだが、その岩のような顔に張り付いたつぶらな目は慈悲に満ちていて、知的な印象すら受けた。


「あなたは……唐人か」


「蘇州の生まれだ。おまえは唐語が話せるが、その服はモン人のようだな」


「こいつは、こう見えてドヴァーラヴァティの遣唐使。長安へ向かう途中なんだ」


「なんと」とウーウォンは目を丸くした。


「僕はトゥミ・プージャ。唐語は日本人だった父に習いました」


「日本人、トゥミ……? まさか」


「そのまさかだよ。このちびすけは田口養年富とムーの子だ」


「お、おお! 養年富殿とムーの!」


 ウーウォンは感激したようで、目を潤ませてトゥミの肩を掴んだ。


「ラーマ、どういうことだ。このお坊さんは父様の知り合いなのか?」


「ウーウォンはもともと俺の死んだ父の従者だった。まあ、いままで黙ってたけどさ、俺の父ってのが、俺もよく知らねえんだけど、おまえの父の同僚と言うか、友達というか」



「え、なにを言っている?」

「トゥミ殿、貴殿の日本名を聞いたことがある。田口斗見麿。養年富殿が息子につけると言っていた」


「日本名……そうか。トゥミって、変な名だと思っていたが」


「女の子だったら嬉妃。そう言っていた」


「俺にも……日本名があるらしくてな」ラーマが言いにくそうに言った。


「ヒロタリ……平群広足っていうらしい。ちなみに、ラーマってのも本名じゃない。アムーラっていうんだが、それをさかさまに読んでラーマだ」


「そうだったのか」


「海南島にいた頃、難破した船がうちの近くに流れ着いたんだけどさ、その中に日本人が乗ってて、栄叡っていったかな、うちの母親がそいつに話してるのが聞こえたんだ。俺が大陸に興味を持ったのは、その坊さんらのせいなんだけどな。特にあの一番えらい坊さん、ガンジー和尚の説法にはしびれたね」


「鑑真和尚だ。無事日本に渡れたのだろうか」


 トゥミは驚いたと同時に、なにかがすとんと落ちた気がした。いろんなものが、目に見えないところでつながっていたのだ。




 とりあえず安全なところに移動しようということになり、長槍を持った僧兵たちに護られながら、一行は高台の僧院を目指した。町中には、背中に猿の刺青を入れた半裸の武装兵たちがうろうろしていた。


「ハヌマン兵だ」とウーウォンが言った。「俺たちの見張りとしてハヌマン将軍が置いていった。将軍が近くにいなけりゃあ、ただの海賊まがいのゴロツキだけどな」


 家屋が密集する貧民街を抜け、堀を渡す幅の広い橋を渡り、石造りの寺院に入る。ナコーン・パトムのそれと似た尖塔型の仏塔を中心にした回廊と楼閣からなる建物だった。


 奥の僧院には、長い棒や槍を持った僧たちがいた。あちこちに仏像はあったが、読経は聞こえてこず、かわりに、鍛錬の掛け声や棒の打ち合う音が鳴り響いている。中庭には軍馬のほか、軍象までいた。


 僧には、ペルシア系やインド系もいて、坊主頭もいれば、長髪や辮髪もいた。


 小柄な僧院長は二人を歓迎した。トゥミとラーマは中庭で沐浴し、着替えをもらった。ラーマは僧兵用の水色の袈裟に動きやすいズボン。トゥミはサイズが合うものがなく、黄色い袈裟を着た。


 ココナツ油で米と魚を炒めたアラビア風の炒飯(ピラフ)が出された。二人は香辛料の効いた異国の飯をほおばり、ココナツのジュースで流し込んだ。ナツメグで味付けされた鶏肉もやわらかくて美味かった。


 トゥミがまわりを見渡すと、肉を食べている僧はほかにもいた。


「ダルマ王の指示で僧兵には肉食が奨励されているんだ」


「戦争でもはじめる気かね」


 ウーウォンは「食べながら聞いてくれ」と言って、広成と養年富について話した。


「二十年ほど前、シュリーヴィジャヤの防衛長官だった養年富殿は、独断でチェンラの海軍やインドシナの沿岸都市を攻撃した。オケオの南のトララッチ島を拠点に、支配域を広げようとしたが、東ジャワのヒンドゥー勢力からの防衛を重視するヴィルシャナ王と対立した。


 広成殿は日本へ戻る途上、ヴィルシャナ王の要請で養年富殿の説得に向かった。奥方のナギや俺も同行したが、説得は失敗し、養年富軍と交戦状態になった。


 戦いのさなか、嵐が起きて、広成殿は海に落ちて行方不明になった。養年富殿はハヌマン軍に敗れ、ドヴァーラヴァティに亡命した。俺たちは広成殿を探したが見つからなかった」


「ハヌマン……南海最強の水軍とは聞いていたが、父様が……」


「しかし、遣唐使か」ウーウォンが言った。「いま、唐は混迷期。各地で反乱の機運が高まっている。内政が不安定な上に、西域タラス河畔でペルシア軍に大敗。ムスリム勢力に押されている。国は衰退の一途だ。朝貢を取りやめる国も多い」


「日本の遣唐使が唐にいるのはたしかだ。しかし、あと四〇日しかない。季節風は逆風だ」


「逆風でも進む船はあるぞ」とウーウォン。


「ダウか」とラーマ。


「なんだそれは?」


「アラビア商人が乗っている三角帆の船だ。小さいが、俺たちだけなら十分だ」


「帆の向きを操作し、風を真横から受ければ、逆風に向かって蛇行して進める。彼らはアラビアからインドの海をそれで支配したのだ」


「俺があてにしていたのも、唐へむかうダウ商船なんだが、なかなか見つからなくてな」


「僧院にアラビア出身の元船乗りがいる。そのつてで、船に乗られるよう手配しよう」


「かたじけない」


「ウーウォン、おまえも一緒に行かないか」


 ウーウォンはラーマの言葉に、嬉しそうな、それでいて申し訳なさそうな顔をした。


「そうしたいが、この寺に恩がある」


「そのとおり、ウーウォンは大事な戦力だ。ただでは手放せない」


 ラーマの背後から言ったのは、白い袈裟に金ぴかの装飾品を腕や首につけた小柄な男だった。仕草や雰囲気からして僧ではなさそうだ。


 肌艶のよい中年で、流ちょうな唐語だが、顔つきや濃い肌の色からしてシュリーヴィジャヤ人のようだ。シルクのターバンを頭に巻き、インド風の長剣を腰に下げている。


 傍らには、帯刀した女官が二人ついていた。


「おまえが青い王子だな」


「あんた、誰だ」


「ラーマ、この方が……ダルマ王だ」


「そういう君はプージャ将軍の息子さんだよな。大きくなったな」


 トゥミは数年前にナコーン・パトムに訪れたシュリーヴィジャヤの使節団にこの男がいたことを思い出した。


「いい話がある。遣唐使なら、我がタンブラリンガも派遣しようとしていたところだ」


 ダルマ王の提案は、ドヴァーラヴァティとタンブラリンガの合同で使節団を唐へ派遣し、ともにシャイレンドラ王を出し抜こうということだった。


「人も荷も船も準備万端だが、邪魔なやつがいてな」


 マラッカ海峡を掌握し、インドへの交易路を独占したシュリーヴィジャヤだが、高い通行税を逃れるため古くからあるマレー半島を陸路で横断する交易ルートを選ぶ商人もいる。

 

 タンブラリンガはその「裏ルート」で富を蓄積している。ドヴァーラヴァティやチェンラの密輸船も受け入れていて、大陸各地にコネクションもある。もちろん違法だが、中央政府も政治的判断で黙認している。


 しかし、唐へ向かう船だけは、トララッチ島を拠点にするハヌマン軍に阻まれてどうにもならない。途中の補給港にもハヌマン兵が駐屯している。


「ただ、最近はハヌマン軍が頻繁にタンブラリンガに来る。主戦力をマレー半島東岸に集めているんだ。これを出し抜いて出航できれば、あとはダウの船団で唐までひとっとびだ」


「そううまくいくもんかね。ハヌマン軍は軍船三百隻、水兵は二万人以上と聞くが」


「だからおまえの逃亡術がいる。現に、トゥミをここまで逃がしてきただろう」


「はあ、どいつもこいつも……」


「ダルマ王、ハヌマンはなぜマレー半島に軍を?」トゥミがおそるおそる聞いた。「チェンラ軍の南下を阻み、海賊を取り締まるのが彼らの役目のはずでは」


「ドヴァーラヴァティが混乱している今、攻めこむ隙を待っている。やつらは専守防衛じゃないからな。漁夫の利を狙っているってわけさ」


「奴らの目が大陸に向いている隙に、わきをすり抜けようってのか。なあ、トゥミ、この話は乗ったほうがいいかもしれねえぞ」


「ああ……」


 トゥミは故郷が心配になった。唐から帰っても滅ぼされていたら意味がない。


「あの、ダルマ王。ハヌマン軍をここで撃退することはできないでしょうか?」


 トゥミはそう言って、座布団に胡坐をかくダルマ王の前に歩み出た。


「海戦では分が悪くても、停泊中の今、奇襲をかければ大打撃を与えられるはず」


 ウーウォンと侍女たちは驚いた顔をした。ラーマはにやりとした。


 ダルマ王は黙ってトゥミの目をじっと見たあと、小さくため息をついた。


「だめだ。うちはあくまで唐と貿易がしたいだけだ。今、本国を敵に回す気はない」




 ラーマたちは中庭に面した僧房の寝室を与えられ、案内役の若い僧にあれこれ施設について説明された。もともと王族の宮殿をもとに拡張されたようで、中庭はどこか豪奢な雰囲気があった。


 解放されたあと、ラーマは中庭で棒術の素振りをした。トゥミは長椅子に腰かけて稽古の様子を見ていた。


「ラーマ、唐へ行ったあとはどうするつもりだ」


「おまえから帰国の旅費をもらって、盗賊稼業に戻るだけさ」


「よかったらナコーン・パトムに来ないか。唐語ができて海外情勢に詳しい君なら役人に登用できるし、呪符術の指南役にもなれる」


「興味ねえよ。それに俺はかつて南海を脅かした海賊女帝の息子で、諸国のお尋ね者だぜ」


 トゥミの誘いは予想していたし、それもありかもしれないと思いながら、実感がなかった。もともと、海龍剣を手にしたあとの未来など考えていなかった。


 トゥミの千里眼は本物だが、青姫が生き返るなんてどうしても考えられない。


 トゥミが僧たちから情報収取すると言ってウーウォンのところへ行ったあと、ラーマは僧房の寝台に寝転んでそのまま眠ってしまった。


 トゥミはバロン・シャシャンカのことを考えていた。スラビーたちがいるということは彼女もここタンブラリンガに来ているかもしれない。会うならチャンスだ。


「シャシャンカならいねえよ」


 と眠っていたはずのラーマが言った。


「な、なんでわかる」


「俺の中の誰かが言った。千里眼てやつだ」




「父上、もっと王らしくしてください」


 アラブ製の王座に座ってインド製のサーベルを磨いていたダルマ王に向かってスーティが言った。王のそばにいても護衛の侍女と間違えられる王女は最近とみに意見を言う。


「提案とか、合同で遣唐使とか。命令して、彼らをお供にすればいいじゃないですか。まるで商人の交渉です」


「あんな少年でも、外国の使節だ。家来じゃない。それに、おまえの言う王らしさとは、シャイレンドラの連中みたいな振る舞いをいうのか?」


 ダルマはワイングラスに残る葡萄酒を飲み干すと、ふうっとため息をついた。


「さっき、トゥミがハヌマンを撃退したいと言ったとき、ちょっと嬉しそうな顔をしたな。おまえも戦がしたいか?」


「そうではありませんが、ハヌマン兵の横暴ぶりを見ていれば、あの坊ちゃんの言うことに賛同したくもなります。僧兵をいくら鍛えても、宝の持ち腐れです」


「力は使わなくてすむようにするためにある。無用な殺生はご法度だ」


「こんなときだけ仏教徒づらするんだから」


 スーティが退室したあと、ダルマは静かな部屋で燭台の炎を眺めながらトゥミやさっきのスーティの言葉を思い出す。


 ハヌマンやシャイレンドラを倒したいのはやまやまだ。しかし、うかつな動きはできない。商売でつながっているマレーの豪族たちも一枚岩ではない。さらに、北の港市国家チャイヤーはチェンラの支配を受けていて、背後を突かれるかもしれない。


 スーティは母を早くに亡くし、政治や商売に長けた父に反発してか、お転婆な女戦士に育ってしまった。自分の船をもって、若い傭兵を引き連れて海賊狩りのようなこともしている。その統率力と利発な性格で民の人気も高い。


 遣唐大使に任命したときは本人も驚いていたが、今のこの緊迫したタンブラリンガで危険な目に会わせたくないというのが本音だった。


 王宮二階の居室は静かで、虫の声も遠くでちろちろと揺らめいている。厠に行こうと廊下に出ると、番兵が倒れていた。


「どうした……?」


 しゃがんで声をかけるも、反応がない。


 頸動脈を斬られていた。


 気配に振り返ると、闇の中に一対の目があった。それはゆらりと空中を浮遊し、やがてもやもやとした影になって人の形をつくった。


「おまえは……」


 スーティと仲の良い彼女の侍女のアンガだった。


「アンガ……敵襲か?」


 赤毛の女戦士は黙って廊下の先を指さした。振り返ると、廊下の突き当りの薄闇に倒れている女の姿が見えた。


「スー…ティ……?」


「道楽で海賊狩りをするこの女、前から殺したくてうずうずしてた。やっとハヌマン将軍のお許しが出たのさ」


 そう言うと、アンガはまた影となって闇に同化する。


 ダルマは番兵の剣を拾い、怒号を上げて闇に向かって斬りかかる。しかし女の笑い声だけが背後に響き、やがて気配は薄れて消えた。


 ――。




 世界中に衝撃が走ったことだろう。


 ラーマが広成とシーンの息子ではないかとは薄々感じていたが、まさかここで判明し、しかもウーウォンが再登場するとは。


 凌太は軍用輸送車のような乗り合いバスの座席でバックパッカーたちと膝を突き合わせながら、タブレットで何度も第八話を読み返した。がたがた揺れる車窓は椰子の木と荒れた雑木林の風景がつづき、二人乗りの原付バイクが追い越していく。むあっとした熱帯の湿度と排気ガスが吹き込んでくる。


 凌太のとなりでは、巨体のロハスが窮屈そうにしている。


 誰が死んで、誰が歴史に影響するかはわからないが、漫画の展開が自分たちの安否に直結する。登場人物のその後の血筋も重要だが、まずはトゥミとラーマとキキが死なないようにメッセージを送らなければならない。


 ヴィッキーとリーロンはキキのあとを追うためロッブリーにとどまった。


 リーロンの呪符はスマホに画像を取り込んでいる。ボタン一つで呪文が一文字ずつ画面に現れ、術が発動する。


 この呪符アプリはリーロンが作った。安定して効果が発動する紙の札と違い、スマホによる使用は術者の魔奈力次第だが、「印」を見つけて一時的にでも魔奈が高まれば効果は大きくなるし、なにより何度でも使用できる。


「俺の予測では、モニカはこの先もキキじゃなくトゥミのルートに現れる」


「だろうね」


 ウルラガ使節団の血を引く陰陽師の家系ということは、先祖はトゥミかバロンの誰かだからだ。おそらく、バロン・ガネーシャかスラビーだろう。


 凌太とロハスはロッブリーから夜行列車でナコーン・シータンマラートへ移動した。マレー半島中部東岸に位置し、三世紀にインド人が入植した港市だ。


 のちにリゴールと呼ばれるこの都は江戸時代に傭兵として移民しアユタヤ王国の武将になった山田長政がパッタニー王国との戦の末に果てた地だ。長政は戦で足を負傷し、刺客によって傷に毒を塗りこまれて死んだ。


「モニカはロッブリーにはいなかったことになっているから、すでにここに来てるかもな」


 バイユを撃った狙撃手は直前に部屋が変わったことを知らずに、眼鏡をかけたギャングの若頭を狙ったつもりだった。空港で警察に捕まった犯人はミャンマー人の男で、凌太が見たスナイパーも記憶の中でモニカからその男に代わっていた。


 シンクロニシティを利用した暗殺だ。書き換えで犯人は変わったがバイユが撃たれたという事実だけが残ったわけだ。


 バイユの死体は彼の祖父が引き取りにきた。彼が死んだとき、夢で見たという。最後の魔奈が存在の因果関係が強い肉親に伝わってメッセージを残す現象は、ヴィッキーによると、よくあることらしい。


 凌太は近い人間の死が幼少時の祖父の葬式以来だった。頭を撃ちぬかれたバイユの最期の姿は鮮明に残っている。


 リーロンがソウケンバイカとほかいくつかの呪符で精神を回復してくれなければ、ロッブリーでリタイアしていただろう。


 それでも、トラウマが消えたわけではなく、ふとした瞬間に恐怖が蘇って息を荒げてしまうことがある。


 その点、ロハスは逞しかった。見た目もそうだが、オーストラリアで軍経験があるだけあって、精神的にもタフだった。凌太を気遣ってくれていることもあって、今なら聞けなかったことを聞けそうだと思った。


「ねえ、ロハス、今更だけど、あんたはなんでネオバロンに?」


 ロハスはしばらく無言で、景色を見続けていた。


「いや、やっぱりいいよ。それを聞いたらバイユも――」


「家族を消されたんだ」


 ロハスは凌太の声を遮るように言った。


「気づけばオーストラリア人になっていた。最愛の妻や親兄弟との人生が夢にされるなんて、けっこうこたえるぜ。ロハスとしての人生が嫌いなわけじゃないし、今更ウルラガ人に戻りたいとも思わない。けど、ウルラガをほうっておけば、またあの悲劇が、俺や俺以外の人間にもたらされる。なんかそういうのって、黙ってられないたちでね。ウルラガが消えたらまた大きな改変が起きるだろうが、それで最後にしてほしいんだ」


「ウルラガ人だったときのことって覚えている?」


「おぼろげにな。ネオバロンでありながら、大学でいろんな研究をしていた。そういう研究結果だけは情報庁に蓄積されていて、書き換えられても技術や機密情報が守られるようになっているんだ」

「そんな国があったら、そりゃバランスがおかしくなるね」


「これまではそれがぎりぎりのところで守られていたが、レオという馬鹿がやらかした」

「ところで、なんの研究を?」


「ひとつはケルビンスキー病。娘がその病気だった」


 凌太はロハスの腕を掴む。


「治療法は?」


「かかったあとは治しようがない。けど、ヴァジュラダートへ行けばあらゆる知識が得られると聞いた。手がかりはあるかもしれない」


 車は舗装された坂道を上り、木々のトンネルを抜けて景色のよい場所で停まった。


「着いたぞ」


 凌太はロハスにつづいてソンテウを降り、タンブラリンガ時代の遺跡に向かう。


 高台に建つプラ・ダーマチェディは十メートルほどの尖塔を擁した仏塔を中心にした古代の寺院だ。


 王立の僧院があったと言われているが、当時の繁栄は見る影もない。まるで手入れのいきとどいていない公園のようで、あちこちに雑草が生えている。今は観光客どころか地元の参拝者すらこないみすぼらしい遺跡だ。


 仏塔を囲む外壁にはハヌマンのほか、ガネーシャやガルーダの彫刻もあった。


 ガネーシャ――「群衆の主」を意味する。シヴァの息子で、母パールバティの居宅にいたときに誤解でシヴァに首を斬り落とされ、象の頭に挿げ替えられた。


「シュリーヴィジャヤの将軍とバロンたちだ。やつら、軍神として崇められたんだな」


 あたりはしんとしていて、空は曇っている。むわっとした湿度はあるが、木々を揺らす風は涼しい。


「この様子だと、ハヌマン軍に僧兵軍団が敗北した……ということか」


「娘を殺された王が無謀な戦をしかけたんだ。しかし、ラーマたちはどうなった?」


「これ……!」


 凌太はひとつのレリーフを見つける。剣を持った長髪の僧兵が背中に矢を受け、腹を槍で貫かれている。


 その姿はどこかラーマに似ている。


「凌太、逃げろ!」


 突然のロハスの声に振り返る。柱の陰から飛び出してきたモヒカンの大男が、凌太に掴みかかってきた。


 割って入ってきたロハスの蹴りを大男は肘でガードし、距離を置く。そして、戦闘用のナイフを取り出す。


「事故に見せかけて殺すのがおまえらのやり口だと思っていたがな」


「時間がないんでね。それに、先代と能力勝負してみたくなった」


 ネオバロン・ナンディは不敵な笑みを浮かべる。凌太にはそれがはったりだとわかった。追いつめられ、なりふり構わず始末しにきたのだ。


 ロハスがポケットから拳銃を出す。ナンディはひるまず突進する。


 ロハスは発砲する。弾丸がナンディの太ももに命中し、もんどりうって倒れた――はずだったが、次の瞬間、ナンディはロハスの胸にナイフを突き立てていた。


「がはっ」


 今のは――不死の術? スラビーがタンブラリンガで使ったのと同じ術だ。


 凌太は思い出す。インド神話では、ナンディはスラビーの息子で、シヴァの乗り物。つまり、ネオバロン・ナンディの先祖はバロン・スラビー……!


 地面にうつぶせに崩れるロハス。


 血の付いたナイフを逆手に持ち、凌太を見つめるナンディ。凌太はスマホの呪符アプリを開いたまま動けなかった。


 そのとき、境内に面した道路に一台のバイクが停まる。


 長身の金髪女性――モニカだった。


 ナンディはモニカには目もくれず、凌太に狙いを定めて突進してくる。


「ポウポウロウや、凌太! ポウポウロウを使って仏塔の印を見つけて!」


 凌太は言われるがまま、「ポウポウロウ」を唱えた。


 スマホの画面に、「宝波勞」の文字が一文字ずつ現れて、消える。


 視界の端でなにかが光った気がした。仏塔を囲む外壁、さっきのレリーフだ。


 逃げようとする凌太の行方にナンディが立ちはだかる。


「悪いが、俺は無敵なんだ」


 モニカが拳銃を構え、ためらいなく発砲する。ナンディの足に当たるが、次の瞬間には書き変わり、かわしている。


 ナンディが迫る。凌太は足がすくんだ。ナイフを喉に突き立てられても、動けなかった。


 そのとき、


 ――ここで死なれたら困る。死ぬかもしれんが、こっちにこい――


 という声が聞こえ、誰かに後ろから襟首をつかまれた。


「うわあ」


 背後に引っ張られる。引きずり込まれたそこは、ロッブリーで見た仮想現実のような場所だった。

 床に引き倒され、上から自分を見下ろす男。


 烏帽子をかぶった平安貴族。鋭い切れ長の目と通った鼻筋。白い肌は美しく、女かと思うほどの妖艶さがあった。服には五芒星の文様があった。平群広成ではない。


「あ、あ、あんたは……まさか」



「印は未完成だ。今からおまえが作ってこい、ほら」


 乱暴に穴のようなところに蹴落とされたかと思うと、そこは暗がりの中だった。





 2 聖地タンブラリンガ


 暗がりの中で目を覚ました。


 簡素な竹製の寝台の上だ。周りでは汗臭い僧たちが寝息を立てている。さっきまで葛城凌太としてナコーン・シータンマラートでネオバロンと戦っていた記憶はぼんやりあるが、だんだんと薄れていく。


 自分が誰なのかわからないまま、丸窓から漏れ入る月明りをたよりに、隣で眠るトゥミの枕元の海龍剣を手に取る。鞘から伝わってくる魔奈の波動が手のひらを伝って体に充満していく。

 自分はラーマになっていた。


 これは……夢か。いや――。


 印を作ってこいという陰陽師の言葉が刻まれた碑文のように胸に残っている。凌太の記憶が薄れて消えたとしても、それだけは残るのだろう。


 ――そいつは龍泉玉の後遺症で魂が半分死んでいる。だから簡単に入れるんだ――。


 陰陽師の声が聞こえた気がした。


 剣を持ったまま、中庭を横切る渡り廊下に出る。懐には昼間書いた呪符が入っている。


 熱帯の甘い湿度、青い月明りを照らす椰子の葉、壁際に並ぶ妖艶な仏像のシルエット、はだしの足裏から伝ってくるひんやりした木目の感触。それらから心が感じるすべてが、凌太の感覚とはどこか違っていて、違和感があった。


「ラーマ、どうした?」


 トゥミが起きてきた。日本語ではないが、彼の言葉はわかる。彼のリアルな容姿は漫画で見るのと印象が違うが、ジーメイが彼を見て描いたのだということはよくわかった。


「王宮へ行ってくる。海龍剣を借りるぞ。おまえはここで待て」


 ラーマはそう言うと、廊下の突き当りの塀をひょいと乗り越え、王宮に向かって走る。地面を蹴り、風を切る。身体の軽さと四肢の強靭さに驚く。


 本当に、ラーマになっている……。


 そして、ここが古代世界――夢ではなく、現実としての。自分がまだ生まれていない世界――だからこそ、印こそが未来の自分を世界につなぎとめる生命線になる。


「待て待て、俺も一緒に行く。おまえだけだとつまみ出される」


 図体に似合わない俊足で追いついてきたのは長い棍棒を持ったウーウォンだった。


「ウーウォン、王と姫が危ない。敵の刺客が潜入している。多分、バロンだ」


「だろうな、俺もそんな気がしてた」


 深夜の王宮は静かで、まるで船を重ねたような形の屋根の妻側が反り返った三階建ての王城は深海に沈んだ古の魔宮に見えた。


 闇の魔奈が充満している。


 門の番兵が倒れていた。頸動脈を斬られて息絶えている。


 異様な気配に振り返ると、闇の中に、月明りにうっすらと浮かぶ白いシルエットがあった。フードを被った長身の男――。


 ラーマが気づいたとき、すでにガネーシャは双刃のヴァジュラを構えて突進してきた。


「言っただろ、三仏逝のことを。次の三回目の攻撃でどちらかが死ぬ」


 まるで頭に直接響くような、官能的な響きだった。ラーマは気圧され、動けなかった。


 ウーウォンが前に出る。長い棍棒で突き、ガネーシャを牽制する。


 飛びのいて距離をとったガネーシャはウーウォンの持つただならぬ雰囲気に警戒している。天性の頑強さを持つウーウォンに自分と似た怪物の臭いを感じ取ったようだ。


「行け、ラーマ!」


 言われる前に走っていた。堀の石橋を渡り、王宮に入り、王室を探す。ところどころに警備兵の死体が横たわっている。


 二階の奥の部屋の前で、横たわるダルマ王の傍で泣きじゃくるスーティ姫の姿があった。


「父上……父上が、私をかばって……ハヌマンの手先に!」


 小柄な王はすでにこと切れていた。彼の横たわる廊下は王室の灯りでぼんやりと朱く、その向こうの闇はどこまでも黒かった。


 ――漫画の内容と違う。読者の声でダルマ王の行動が変わったのか。


「獲物が飛び込んできてくれた」


 声に振り返ると、廊下の隅の闇から、白い一対の目がぎょろりとこちらを見ていた。


「はやく私を仕留めないと、王宮中の人間が全員死ぬよ」


 ラーマは剣を大きく振りかぶる。柄から伝わってくる魔奈により、剣筋が闘気を帯びる。


「青波!」


 袈裟切りが闇を切り裂く。孔雀(マユラ)の仮面の女バロンを真っ二つにした――と思ったら、斬ったのは黒い残像だった。バロン・マユラは闇から闇へとびうつり、ラーマの死角から飛びかかってきた。


 闇隠形か――。


 ラーマはすんでのところで刃をかわすが、長い脚から繰り出される鋭い蹴りが脇腹に入った。息が止まり、壁まで吹っ飛ぶ。


「青い王子、噂ほどのことはないな!」


「ロケラオクーク」


 ラーマが立ち上がりながら呪文をつぶやくと、バロンの足もとに落ちていた三枚の青い札が光を放つ。直後、彼女の動きが止まり、闇が晴れ、手足の細い女暗殺者の姿が現れる。


「なにを……した?」


「緊縛の呪符だ。しばらく金縛りで動けん」


 バロン・マユラは膝をつき、前のめりに倒れる。


「どけ、ラーマ!」


 剣を持ったスーティが怒り満面で立っていた。


「アンガ、よくもいままでだましてくれたね!」


 バロン・マユラは金縛りで引きつりながらも、スーティに嘲笑の顔を見せる。


「よせ、こいつはもう抵抗できない。殺すな!」


 ラーマの静止を聞かず、スーティは暗殺者に向かって突進した。


 ラーマがとっさに投げた剣がマユラのまわりの札を弾き飛ばし、術が解ける。


 立ち上がったバロン・マユラは不思議そうな目でラーマを見つめながら闇に姿を消した。 

 スーティの剣は空を切った。


 王女の怒号が王宮内に響き渡った。




 一万人の民が参列した。


 ダルマ王の葬儀は盛大に行われたが、宮廷は悲壮感よりも殺気に満ちていた。ハヌマンの刺客による暗殺だとス―ティが宣言したのだ。葬儀場となった中庭には武装した三千人の僧兵が槍や棍棒を持ち、出撃に備えていた。


 港にはハヌマン将軍の軍船が停泊している。将軍は葬儀への参列を希望したが、タンブラリンガ側がそれを拒否し、上陸を許可しなかった。ハヌマン兵も町から退去し、船に押し戻された。一触即発の状態だ。


 ウーウォンは寺院の幹部を集めた。バロン・ガネーシャを撤退させはしたものの、あちこちに傷を負ったウーウォンは、痛々しい姿で戦争回避の必要性を説いた。


「バロンの狙いはつぶし合いをさせることだ。それに、兵数は拮抗しているものの、装備が違うし、向こうは援軍も来る。港を抑えられている今、戦えば分が悪い」


 しかし、国家元首となったスーティの命令には逆らえないと言って、僧正らは首を縦に振らなかった。


 ウーウォンの憂いのとおり、スーティはまもなくハヌマンに宣戦布告した。港からの即時退去と今後の出入り禁止を勧告したが、ハヌマンは従わず、逆に降伏を勧告したからだ。


 ハヌマン兵は僧兵たちを攻撃し、王宮に向かって進軍しだした。魔奈の憑依術の一種で、猿の刺青をした兵たちは術者のハヌマンの近くにいるほど強い力を発揮した。とくに、七人の親衛隊は一騎当千で、彼らに護られた将軍には近づくことさえできなかった。


 ラーマたちが宮廷に戻ると、一階の大広間で黄金の甲冑に身を包んだスーティが将軍たちに指示を飛ばしていた。


「ラーマ、トゥミ、やつらがここに到達する前にウーウォンとともに逃げろ」


 ラーマ達を控室に呼んで、スーティは言った。


「おまえたちまで巻き込む道理はない。ダウ船なら用意させる。まずオケオまで行け」


「スーティ王女、これはバロンの策略だぜ」ラーマが言った。「やつらはハヌマンも邪魔で、つぶし合いをさせるつもりだぜ」


「だとしても、シュリーヴィジャヤが仇なことに変わりはないわ。それに、遅かれ早かれ、ハヌマンとはこうなっていたわ。今こそ、父上の作った僧兵軍団を使うときよ」


 兜の下から外の広場の兵団を見据える王女の目は覚悟に満ちていた。


 ラーマはトゥミとウーウォンを連れて宮殿の最上階に上り、展望台から欄干越しに町の戦況を眺めた。


 低い城壁の向こうでは味方の軍がハヌマン兵に押されてあちこちで火の手が上がっている。南西の僧院や東の寺院の周りでも戦闘が起きている。


 ハヌマン将軍は港から王宮につづく大通りを水牛に曳かせた巨大な戦車に乗って優雅に進軍してくる。


「王宮陥落は時間の問題だな。どさくさに紛れてバロンは俺たちを殺しに来るだろう」


「どうする、ラーマ」 


「海龍剣ごとトゥミをハヌマンに引き渡し、人質にする」


「なっ……?」


 あっけにとられる二人を後目に、ラーマは作戦を説明する。


「元ガルーダの息子でドヴァーラヴァティの大使を殺しはしないだろう。おそらくパレンバンかジャワまで護送される。ハヌマンの軍船にいればバロンも暗殺は難しいし、海龍剣も軍に没収されてやつらにとって入手困難になる」


「そんなことしたら……唐への旅はどうなるんだ」


「俺が替え玉になる。ハヌマンは俺やお前の顔を知らない。俺はハヌマンの部下に顔は知られているが、兜をかぶってりゃあ、すぐにはバレないだろう。逃げだして、あとで合流する。俺がかく乱している隙に、お前はウーウォンと一緒にオケオへ迎え」


「無茶苦茶だ。この状況でタンブラリンガを見捨てるっていうのか?」


「俺が将軍を説得する。うまくいけば、バロンと敵対させられるだろう」


「海龍剣は?」


「なくったって、ウーウォンがお前の身元を証明してくれる」


「それだと、僕も君も千里眼を得られない。シュンヒはどうするんだ」


「シュンヒのことはもういい。過去を都合のいいように変えるなんて人間のすることじゃねえ。俺は未来を変えるために生きる」


「ラーマ……」


「おまえを守りきって、バロンの思惑を潰す。俺はそのために今ここにいるんだ」


 そのとき、展望台の入り口を守っていた衛兵のひとりが三人に近づいてきた。小柄な男はふいに兜を脱ぐと、その刺青だらけの顔をラーマに見せて、にやりと笑った。


「聞いたぞ、青い王子。さっそく将軍に報告だ」


 ラーマはその猿顔の男を見て、「おまえ、マシュラ!」と言った。


 マシュラは欄干を飛び越え、猿のように屋根を伝って走り去る。


「おい、今の男、まさか!」


「親衛隊の一人だ! 前に顔を見られたやつだ。あいつを止めないとまずい!」


 ラーマはそういうと、ウーウォンの手から棍棒をもぎ取り、欄干を飛び越えた。


「ウーウォン、トゥミを頼む! 二人とも、オケオで会おう!」


「おい!」


 ウーウォンの巨体ではとても歩けない甍の上をラーマは軽業師のように走っていく。


 トゥミは欄干に身を乗り出し、叫んだ。


「ラーマ、海龍剣忘れてるぞ!」


 ラーマはトゥミの声を無視してマシュラの背を追う。


 閑散とした市場を走り、石造りの商館が並ぶ路地を過ぎると、ふいにマシュラが立ち止まり、振り返った。


「ここまで逃げたのは、おまえを怪物のウーウォンから遠ざけるためだ!」


 マシュラは短槍を構える。彼の全身に彫られた無数の猿の刺青がほのかに輝いている。


 ラーマは危険を感じて横に跳ぶ。


 マシュラの槍の一突きは屋台の木の柱を折り、倒壊させた。


 土煙が上がり、籠の鶏が逃げ出す。


「憑依術か。おっかねえ術だな、相変わらず」


「あのときおまえをオケオ沖で取り逃がさなかったら、俺はいまごろ将軍だ」


「ハヌマンがいなけりゃなんもできねえくせに」


 ラーマは反撃する。棍で薙ぎ払い、振り回し、突く。華麗な棒裁きで力で勝るマシュラの槍をいなし、追いつめていく。


 しかし、マシュラが防御にまわったのは計算だった。わざと後退し、ラーマをある場所へおびき寄せていた。


 そこはハヌマン親衛隊の弓手、リジャールとミジャールの双子が物見台と仏塔の上からそれぞれラーマを狙う射程範囲のぎりぎりだった。ラーマは二百メートル以上も離れた位置から狙われているなどとは考えもしなかった。


 龍の装飾が施されたリジャールらの大弓は魔奈が宿っているうえに、人の背丈を超えるほど長大で、長身の彼らがハヌマンの憑依術を発揮して放つ渾身の一矢は通常の矢の射程の倍以上があった。しかも高所で追い風なので、飛距離はさらに伸びる。


 デッドゾーンにラーマが足を踏み入れようとした瞬間、二人は同時に弓を引いた。


 ラーマはマシュラに決めの一撃を見舞おうと一歩踏み出した。


 そのとき、市場の屋台の隅に隠れていた子供が突然「ラーマ、伏せろ!」と叫んだ。


 見ず知らずの子供の声に戸惑うも、咄嗟に身をかがめると、頭の上を矢がかすめていった。さらにもう一本はマシュラの足もとの地面に突き刺さった。


 二本目はリジャールの矢だった。放とうとしたとき、なにかが彼の視界に飛び込んできて、手元をわずかに狂わせたのだ。


 ラーマは矢の飛んできた方角を見た。南西の物見矢倉の上で弓手が鳶に襲われている。


 そこから少し離れた仏塔の上から、別の弓手が追撃の矢を連続で放ってきた。


「バルバロウカイ!」 


 札を出すのが間に合わず、呪文のみ。回避の効果は薄く、一本が右腕をかすり、肉がえぐられる。ほかの矢はそばにあった仏像や陶器に当たり、破片が飛び散る。


 殺気を感じ、見ると、槍を持ったマシュラがとどめを見舞おうと突進してきていた。


 ――足もと!


 直感がラーマに足もとに目線を向けさせた。転がっていたかぼちゃを蹴飛ばす。マシュラは槍でそれをはじき、攻撃が遅れる。


 ラーマはとっさに左腕で棍棒を持ち直し、反撃の一突きを放つ。


 棍棒と槍が交差する。長さでわずかに勝るラーマの棍棒がマシュラの喉を突き、槍の切っ先はラーマの眼前で止まった。


 マシュラは白目をむいて倒れる。


 棍棒を持ってきてよかった――いや、いちど剣で戦って死んでいた?


 僧兵たちが駆け込んできた。ラーマは彼らにマシュラを捕縛させた。


「戦が終わるまで捕虜として閉じ込めておけ」


 ラーマはハヌマン将軍のいる方向へ走りながら、さっき少年に叫ばせたものの正体について考えていた。唐の言葉だった。そして、弓手を妨害した鳶――。


 大通りはハヌマン兵がひしめき、その先頭には五頭の水牛が曳く巨大な戦車が停まっている。戦車の玉座で足を組むハヌマン将軍は金色の鎖帷子をまとった髭面の巨漢だった。鉾を持った三人の女官がまとわりつくように彼を警護している。


 派手な軍服姿の狡猾そうな小男がなんどもハヌマンに耳打ちする。


 将軍は兵たちの前に歩み出てきたラーマを見て、わずかに眉を動かした。


 ラーマは大将軍を前にしても、ものおじすることなく、まっすぐに巨漢の目を見た。


「我はシュリーヴィジャヤ王国元ガルーダ田口養年富の息子にしてドヴァーラヴァティ連合王国の遣唐大使トゥミ・プージャ。またの名を田口斗見麿。一国の使節の長として、ハヌマン将軍、貴殿と正式な交渉の場を所望する!」


 将軍は養年富の名を聞いて表情を変える。


「ヨネフは死んだと聞いた……そうか、息子か」


 ラーマは、しめた、と思った。どうやら疑われていない。


 参謀の小男がまたハヌマンに耳打ちする。


「しかし、おまえはヨネフにもムーにも似ていない。インド系の血が入っているな」


 ラーマはぎくりとした。その表情を参報は見逃さなかった。嬉しそうにまた耳打ちする。


「トゥミ・プージャであることを証明して見せよ。でなければ即刻打ち首とする」


 作戦失敗だ――ラーマは逃走経路を計算する。


「待って、将軍」


 女の声がした。兵たちが道を開け、歩み出てきたのはバロン・スラビーだった。


「私はナコーン・パトムでトゥミに会った。ムーの親族にはインド系もいる。その子、よく見れば養年富の面影があるわ」


 金髪の女戦士は不敵な笑みを浮かべる。


「けれど、青い王子にもそっくりよ。情報では、トゥミの護衛をしているとか」


 ハヌマン兵たちがざわつく。


「そいつが替え玉かどうか、おまえはわかるのか、バロンよ」


「戦えばわかる。トゥミは父に似て一騎当千の強さを持つはず」


 なんて理屈だ。しかし、バロンはまともに挑んで勝てる相手ではない。呪符術を使えば正体がバレる。殺すつもりなら、なぜ助け舟を出した。ラーマは相手の意図を測りかねた。


 ハヌマン軍の楽隊がドラや太鼓を打ち鳴らし、一騎打ちを囃し立てる。


 バロン・スラビーはヴァジュラを構え、にじみよってくる。バロン・ガネーシャのものより長大なヴァジュラは剣というより両刃の鉾だった。


 スラビーが手首を返すと、ヴァジュラの刃に反射した太陽光がラーマの目を襲った。


 一瞬目がくらんだラーマに、スラビーが一気に間合いを詰めてくる。回転するヴァジュラが容赦なく眼前に迫る。ラーマはヴァジュラの動きに合わせて棍棒で刃を受け、後退しながら攻撃を受け流した。


 刃がついているかいないかの違いで、武器としての動きは近いものがあった。ラーマは師匠との稽古を思い出していた。


 しかし、攻撃の重さも速さもバロンは段違いだ。さらに、なんとか攻撃をしのいで放った反撃の一振りも、いとも簡単にかわされる。そして、怒涛の回転刃が襲ってくる。


 仕方がない――。


 ラーマは懐から呪符を取り出す。


「チョウソブユーゴ」


 棍棒を振る力がさっきまで違うのは攻撃を受け止めたスラビーの表情から見て取れた。


「呪符術の効き目はさすがやね。でもそんなに魔奈を使って、大丈夫か」


「るせえ、おまえ、どういうつもりだ……って関西弁?」


 武器を互いに押し付け合うなか、ラーマの驚いた顔を見てバロンがにやりと笑った。


「凌太、うちや。モニカや」


「はあ?」


「日本語で話せ。こいつらにはわからん」


 二人は一度離れ、間合いを取る。


 突然見知らぬ外国語で話し出した二人を見て、まわりはざわつく。


「モニカ……なのか」


「一時的に陰陽師の力を借りてこの女をアバターにできた。話はあとや、戦うふりをして逃げるぞ。このままじゃあんたは殺される」


 ラーマの中の凌太の意識がふたたび持ち上がって来る。


 怒りのままに、棍棒を振り上げ、殴りかかる。ヴァジュラで受けるスラビー。


「なぜバイユを殺した!」


 悲し気に目を曇らせるスラビー。


「うちも抵抗したけど、無理やった。ただ、バイユの分身のリアムがウルラガに情報漏らしてたんや。あのままやと、あんたらはロッブリーで全滅してた。バイユとリアムはララワグとバロン・クトットみたいに、二人で一人やったんや」


「わけのわからないことを! あんたは何者だ!」


「じゃあ、戦いながら話す。聞け。うちは生まれつき魔奈の素養があって、先祖の陰陽師のアバターにされて、半分無意識に行動してた。解放の条件は、歴史からウルラガを消すこと。あんな強力な魔奈国家が出来たら、どの時代の人間にも脅威なんや。信じてほしいのは、ドラゴンジャーニーはほんまに好きで、あんたとナティと一緒にいたのは私の意思やったってことや! ナティを復活させたいなら、うちと協力して!」


「ナティが生まれてくるのか?」


「ロケラオクークの効果でナティの存在可能性は胎蔵界ガルバダートに一時保存されてる。手順を守って歴史を軌道修正すれば、書き換え後の世界に生まれてくるはずや。そのために、海龍剣を守り、崑崙王を説得して平群広成の存在可能性を解放するんや」    


 そのとき、斜め後ろからの殺気を感じ、ラーマは目を向ける。


 ハヌマンが大きな鉾を自分にむかって振り下ろそうとしていた。


 スラビーに足裏で胸を蹴られ、ラーマは後方にすっ飛ぶ。鉾は二人の間を引き裂くように振り下ろされ、地面を叩いた。


「きさまら、仲間だな」


 鉾を構えたハヌマンと親衛隊の三人官女がラーマとスラビーの周りを取り囲む。


「作戦変更や。うちが猿どもを引き付けるから、得意のトウシャバンライで逃げろ」


「言われなくても逃げるさ」


 宮殿の方角が騒がしくなった。戦象に乗ったスーシャを先頭に、タンブラリンガ軍が押し返していた。さらに、あちこちの寺院や僧院から僧兵軍団がなだれこんでくる。僧兵の中には猿の刺青をしている者が多くいた。ダルマ王の指示でハヌマン兵のふりをした伏兵を町に潜伏させていたのだ。


 数で勝るハヌマン軍も、これには意表を突かれ、後退しだした。


 戦況の変化を皆が確信したとき、ハヌマン将軍はラーマの前に歩み出た。


「まあ待て、青い王子。よく考えろ、ここで俺を討ち取ればこの戦は終わるぞ」


「はあ、何言ってんだ、おっさん!」


「俺に勝ったらこの水軍をくれてやる。どうだ、勝負していけ!」


「本当か?」


 参謀の小男は頭を抱えてあきれている。


 ラーマはあえて挑発に乗った。確かに、ここから逃げるのは容易ではない。一か八か、大ボスを倒して一発逆転を狙うほうが得策だ。


 そのとき、意識がふっと分離し、地面に落ちていく感覚があった。魔奈が尽きたのだ。


 ――肝心なときに!


 落ちながら、凌太は頭上でハヌマンと対峙しているラーマが横目でこちらを見ていることに気づいた。


 彼は言った。


「心配するな、俺がなんとかする。だから凌太、次降りてきたときは未来の話を聞かせてくれ――」




 凌太は目を覚ました。


 八角形の東屋の床上に横たわっていた。天井も柱も床も、まるで象牙のように白い。東屋は蓮の浮かぶ湖の真ん中に建っていて、周囲を囲む水面はほのかに青白い光を放っている。その先は白い霧がかかっていて、岸は見えない。


 シュヴェータの真珠宮を思わせる神秘的な場所だった。


 東屋の欄干が途切れる先は、屋根のある細い廊下がずっと先まで続いていて、はるか先の湖面に、ぼんやりと、別の東屋の影が揺らめいている。


 またヴァジュラダートだ。しかし、前に来たところとは違う。もっと、景色が鮮明で、はっきりとした質感もある。


 導かれるように、廊下を進んだ。


 やがて、次の東屋が見えてきた。さっきの部屋と同じつくりだが、違うのは、近づくと、遠くからは見えなかった人影がそこに立っていることだった。


 人影は近づくにつれ輪郭がはっきりとしていく。


 女性だった。紺色の忍び装束のような勇ましい服を着た若い美女。茶色がかった長い黒髪、大きな碧い瞳。どこかで会った気がするが、思い出せない。


「お待ちしておりました」


「あなたは……?」


 女はそれには答えず、凌太を引率するように東屋に入ると、振り返った。


「歴史はゆらいでいます。あなたのいた世界は可能性のひとつに過ぎません。次に目覚めたとき、どうなっているかは、これからの行動次第です」


「印を……つけなきゃならないんだよね」


 女はうなづく。

「それより、ガルバダートにはどうやっていくんだ?」


「ここからの通路は閉ざされています。まずは、現世で歴史を守るのです」


 凌太は女と自分の間の床に、黒い渦のような穴があるのに気付いた。


 穴は大きくなり、凌太の足もとを飲み込んだ。


「印も大事ですが、海龍剣とトゥミ、そしてラーマの命はなんとしても守ってください」


 落ちながら、女の声が頭上から聞こえた。


 ――。


 ――。


 ――。


「お待ちしておりました。私たちが船までお連れいたします」


 トゥミとウーウォンを王宮の裏口で待っていたのは若い男女だった。白いターバンを巻いた胡人系の男女。まだ若く、年は自分とそれほど変わらないように見えた。


 男はスリン、女はユーリと言った。僧のようなシンプルな服装で、商人らしくなく、どこか気品を感じさせるたたずまいだった。


 ウーウォンも彼らと初対面の様子だったが、迷っている暇はなかった。トゥミは彼らについていくことを決めた。


「念のため、持っておいてください」


 ユーリが黄色い札を差し出した。ラーマが持っていたトウシャバンライの札だった。トゥミはそれを懐に入れた。


 トゥミたちは二人につづいて裏庭を走る。トゥミの手にはラーマが持っていくはずだった海龍剣がある。あのとき、ラーマに憑依していた凌太はわざと棍棒を選んだ。剣を持って槍で殺されるラーマのレリーフが頭によぎったからだ。


 藪を抜け、土手を下ると、用水路があり、小舟が停泊していた。


「河口まで行き、北の海岸で外洋船に乗り換えます」


 スリンが櫓を漕ぎ、小舟で用水路を下った。


「しかし、さっきのハヌマン兵の男、わざと正体をばらしてラーマに追わせたのでは?」


「罠かもしれんな。しかし、こうなってはわれらにはどうにもできない」


「大丈夫です」ユーリが言った。「青い王子には別の守護者がついています」


「別の守護者……? 呪符といい、あなたたちは何者なんだ。ただの商人には見えないが」


「歴史の番人です。あなたがたを正しく導くのが使命です」


「もしや、おまえたちは……」


 ウーウォンが何かを思い出したように言った。


 そのとき、トゥミは川岸の草むらに動くものを見た。それは目線を向けると姿を隠し、走り去った。


「スリン、右岸に敵だ! 川下に先回りされるぞ!」


 船尾に立つスリンが櫓を操作し、左岸に方向を変える。そこに、矢の雨が飛んできて、進行方向を遮った。


「伏せてください!」


 スリンが叫ぶ。巨体のウーウォンがトゥミをかばうように覆いかぶさり、身をかがめる。


 矢の雨を回避して向こう岸にわたり、陸路で海岸を目指そうとしたが、すでに回り込んでいた部隊がいた。


 ハヌマン兵たちの腹や背に描かれた奇怪な猿の刺青がほんのりと光っている。槍を持っているが、動きは猿そのものだった。瞳孔が開き、顔が充血している。


 背後は川、行く手には十名あまりの兵。スリンは剣を抜き、矢を使い果たしたユーリも短剣を逆手に構える。


 トゥミも海龍剣を抜く。こんなところで死ぬわけにはいかない――そう思ったとき、浮かぶのはいつもバロン・シャシャンカの横顔だった。不思議な雰囲気の、異国の美少女。自分がそこに幻想を抱いているのはわかっていた。けれど、生きたいと思う人生の希望とは、そういうものに宿るのかもしれないとも思った。


「スリン、ユーリ、トゥミ殿を頼む。俺が突っ込んで活路を作る」


 ウーウォンが前に出る。その瞬間、トゥミの脳裏に血まみれで倒れているウーウォンの姿がよぎった。


「ウーウォン、ダメだ! ここは投降して、ハヌマン将軍に会うことにしよう!」


「だめです」スリンが言った。「彼がそれを許さないでしょう」


 スリンの視線の先には、ハヌマン兵たちの後ろに立つ指揮官らしき男に向いていた。白装束に象の

 仮面をかぶった長身の男。


「バロン・ガネーシャ……!」


 ウーウォンは鉾を構えたまま動かない。ガネーシャもウーウォン以外は眼中にないようで、彼を見つめながらじりじりと前に出てくる。


「ウーウォン……王宮前で戦ったって言ってたけど、何か言われなかったか?」


 ウーウォンはトゥミを横目でちらりと見た。


「ああ、次会ったときの、三回目の攻撃で必ずどちらかが死ぬって言ってたな。なあに、心配するな、俺は蘇州では不死身の鉄鬼と言われていたんだ」


 トゥミの脳裏に浮かぶ未来のウーウォンはまだ血まみれのままだった。





 3 聖地ヴァジュラダート


 ――。


 凌太は目が覚めた。また東屋だ。その周りは鏡面のような波一つない水面と淡い色の空。


 さっきの穴はなく、ひんやりした床上に寝そべっていた。


 ラーマの次はトゥミになった。彼が先祖である可能性もまた存在するということか。


 水平線の向こうまで、どこまでも伸びる細い回廊。かすんで見えないその先から、何者かが歩いてくる。ずっと遠くにいたと思ったら、気づけばすぐ近くにいた。


「印はどうだった」


 陰陽師だった。淡い色の着物には五芒星の模様があり、派手な装飾の剣を持っている。


「あんたは……安倍晴明ですか?」


 クールな陰陽師は不機嫌そうに眉をひそめる。


「質問に質問で返すな。その調子だと印どころではなかったようだが、まあ、ラーマが死なずにすんだ。おまえにしては上出来だ」


 この態度、誰かに似ている――そうだ。ドラゴンジャーニーに出てきた朝衡だ。


「朝衡か。あれは半分私だった。気質が近いせいかモニカと違って自在に操れた」


 思考を読まれている。


 よく見れば、うすぼんやりとした小さな人影が陰陽師の両脇に付き従っている。おそらく式神だ。前に会った女もそうなのだろう。


「ここはヴァジュラダート?」


「そうだ。古の術師たちが作った魂の十字路を今の崑崙王が集結させて巨大な町にした。現世にもたまに出入口が開く。神隠しというやつだ」


「胎蔵界……ガルバダートにはどうやって行く?」


「あれは不死の術のために作られた仮想空間だ。現世からは死ぬ間際のロケラオクークでしか到達できない。こことつながってはいるが、その境界に崑崙王が城を作って居座っている。やつをなんとかするしかない」


「ケルビンスキー病の治療法を教えてほしい」


 陰陽師は無表情でじろりと凌太を見る。


「なんだ、突然。私は医者ではないが」


「あんたが知らなくても、知る方法は知っているはずだ。ここでは様々な情報が手に入ると聞いた。

 俺はあんたに従うけれど、こっちだって見返りが欲しい」


「治療法はない。あれは幼いころから魔奈を使い過ぎた者が、過剰な魔奈が身体を出入りするようになって、成長期に必要な生命力を魔奈とともに放出してしまうことで発症する。病気というより、体質によって寿命が縮まる現象だ。一度かかると治らない」


「それは、つまり……過去に戻って魔奈を使わないようにさせるしかないってことか」


「ナティの生存可能性がガルバダートに封印されている限り、過去を変えても復活できない。過去改変してもシンクロニシティが作用して死は回避できない可能性が高い。それ以前に、そんな過去改変は私が許さない」


 凌太は晴明を睨む。陰陽師は動じない。


「まあ、お前の言い分ももっともだ。何らかの見返りはやろう。ともかく、意識転移でお前はラーマの能力を得た。ナティの封印を解きたければ、この剣で崑崙王を調伏するのだ」


 陰陽師が鞘に入った刀を投げてよこした。


「これは……海龍剣?」


「かつてここにいた刀鍛冶が初代の武内宿禰のために打った一振りだ。現世の海龍剣はこの刀の情報をもとに古代人が作った模造品だ。真打には翡翠ではなく瑪瑙が施されている。崑崙王が苦手とする種類の魔奈を宿しているから、宿禰系のおまえがふるえば傷を負わせられるはずだ」

「モニカは説得しろって」


 陰陽師は首を振る。


「話の通じる相手ではない。ここで同志を集めて袋叩きにしろ。モニカがシュリーヴィジャヤで崑崙城へ行く術を探るから、やつらが侵入に成功すれば封印が解ける。私はおまえたちを崑崙城へ飛ばす術式を使うから、一緒には行けないがな」


「同志って誰? どこにいる?」


「まずはそいつらだ。ガルバダートとの通路がふさがれる前にここに逃げのびてきた」


 背後に気配を感じて振り返ると戦士風の男女が立っていた。


 ひとりは袖のない忍び装束を着た黒髪の東洋人女性。美人だが目つきが鋭く、背は凌太より高く、筋骨たくましい。


「エグニという。崑崙王には個人的な因縁があってね」


 もう一人は皮の鎧を纏った青年。鷹のような目と傷だらけの身体。ボウガンのような小型の石弓を持っている。


「アムーラだ。平群を助ける義理はないが、崑崙王は目障りだからな」


 蝦夷の暗殺者とカムチャッカの戦士。凌太はドラゴンジャーニーの登場人物二人を前にして、不思議な気持ちになった。


「ナティもガルバダートにいる?」


「わからん。行って確かめろ。まずは町へ行って仲間を探せ」


 そう言うと、陰陽師は遠くを指差した。すると、そこに水面を這う廊下がまっすぐに伸び、はるかかなたの陸地につながった。


「私の式神が守っている場所がある。まあ、そこはすぐ見つかるだろう」


 凌太は廊下を進みながら仲間二人に訊いた。


 なぜ崑崙王は広成を幽閉するのか。


「広成が日本に帰国してウルラガが消えるのが嫌なのさ。殺さないのは晴明と宿禰との密約のせいでできないんだろう」


 エグニが答えた。


「初めは反ウルラガだったくせに、この金剛界を統治するのになにかと利用できるとふんだんだ。ガルバダートの出入口をふさぎ、そこにいる者の生存可能性を掌握してウルラガとの交渉材料にしようとしている。そういう意味では晴明とは逆だ。あいつは、はじめはシュヴェータを利用してウルラガを守ろうとしていた。つまり、広成らが崑崙王に囚われているかぎり、彼らが生きていたという歴史が実現しない。歴史改変を操作し、ウルラガを現世における属領にしたいんだ」


 水面に浮かぶ渡り廊下を進むと、やがて陸地についた。


 陰陽師の言ったように、そこには町があった。


 低い城壁に囲まれた古代中国の都のような東アジア風の街並み。格子状の街路が交差し、着物を着た人々が行きかっている。


 大小の楼閣は渡り廊下や階段でつながり、複雑な迷路のようだ。馬車や牛車が果物や宝石を積んだ荷車を引き、食べ物屋の屋台からは香ばしい油のにおいがする。


 この感じ――そうだ。広成が長安の都に着いたときに感じた雰囲気だ。


 百塔がひしめく異国の都。


「あんたら、はじめてかい?」


 寄ってきたは、背の低いはげた老人だった。妖怪じみた顔で、いかにもうさんくさい。

「うちの妓楼で遊んでいかんか。いい子いるよ」


 エグニが睨みを利かすと、老人は彼女の顔を見て驚いて退散した。


「なんだ、あれ?」


「コサムイだ。まだこんなことを」


 ここには作中で死んだ登場人物たちが住んでいる。彼らがあのとき死ななかったかもしれないという可能性そのものが魔奈の力によってここで守られているのだろう。


「コサムイがここにいるってことは、彼も不死の術を?」


「だろうな。私と同じで、ここにずっといるってことは、不死の術はまだ成功していないということだが」


「そうだ、ジーメイ。彼もここにきているはずだ。ここで過去の自分に情報を送っている」


「あれのことだろ」


 エグニが指さした楼閣に人だかりがあった。間口の広い門から見物人らしき人があふれている。どうやら劇場のようだ。入口に志明館と書かれている。


 人ごみを割って入ると、ステージの上に画像が浮かんでいる。


「あれは、ドラゴンジャーニー2……」


 まるで映画のように空中の巨大スクリーンに漫画のコマが映し出される。




【第十二話 女王】


 ラヴォの都ラヴォプリーはナコーン・パトム以上に人が多く、大小の仏塔が林立していた。大理石造りの宮殿は豪華絢爛で、国中から集められた器量のよい少女たちが宮廷に仕え、肌の色の様々な黄色い袈裟の僧たちが出入りし、技師たちが妖艶な仏像を日夜作り続けている。


 キキはこの学徒の都で学問と武芸を磨き、ヴィーやその家臣たちの遠征にも同行した。敵対部族と交渉し、交易路を守り、盗賊団を壊滅させるのを間近で見て学んだ。


 背も伸び、並の男よりも屈強な彼女は、その美貌もあって、未来の女王と騒がれる。ほかの都市から一目見に来る者たちや求婚してくる貴族もいた。悪い気はしなかったが、恋する気など起きなかった。心は空虚で、その穴を埋めるように、自己研鑽に没頭した。


 王の生誕祭のとき、キキは宴会場の一段高いステージにいた。きれいな礼服を纏い、ヴィーの隣でご馳走を食べ、挨拶に来る各都市の使節が出入りするのを眺めた。


 そこに、見覚えのある家族の姿を見つける。ナコーン・パトムの大臣とその妻、そして、娘のユーウィだった。彼らはラヴォ王やキキのいる上座の近くへ来ると、恭しく礼をした。キキはかつてのいじめっ子の顔を興味深げに見た。


 ユーウィの顔は、悔しがっているわけでも悲しそうでもなかった。親愛のまなざしを訊きに向けていた。次の来賓も同じく満面の笑みだった。叔父のファーンすらそうだった。


 どの笑顔も策略的で、好きになれなかった。恐ろしさすら感じ、吐き気をもよおした。


 ユーウィの笑みは、かつてのライバルのそれではなく、彼女の知るキキ・プージャがここにいないことを語っていた。それはキキをひどく孤独な気分にさせた。


 そんなとき、キキは町である男の姿を見かける。


 頭に矢の刺さった半裸の男。


 夕暮れ時、巡礼者でにぎわう寺の境内だった。男の後ろ姿は林立する仏塔の影に消えた。彼の影を追いかけたが、いつしか夕闇に追いつかれ、見失った。


 キキは召使たちにシュワンを探させた。メーンにも使いを出し、調べさせた。彼の死体は川に捨てられたというので、もしかしたら生きていたのではないかという希望がわいた。


 しかしドヴァーラヴァティの情勢はキキにゆっくりとシュワン探索をする時間を与えなかった。


 ヴィーは国中から亡命してきた貴族や武官、その他有能な者を優遇していた。そうすることでナコーン・パトムから人材が流出し、敵国の弱体化に成功した。


 その好機を逃さず、それまで周辺地域の防衛に向けていた軍を突然南に進軍させ、電撃的に町や村を制圧した。さらに、ナコーン・パトムの南の海を海上封鎖し補給線を絶った。


 ナコーン・パトムの宰相となったガイヤンはハヌマン軍に援軍を要請したが、将軍は動かなかった。ヴィーがハヌマン軍に潜伏させていた隠密による情報操作のせいだった。


 さらに、バロンたちも姿を消し、周辺都市からも孤立したナコーン・パトムに、ヴィーは詰めの一手を打つ。海と陸からの同時侵攻で逃げ場をなくし、無血開城を迫った。


 勝利は目前だった。しかし、運は彼女に味方しなかった。


 キキが服従を条件に侵攻しなかったメーンの町で、シュワンを殺した女射手ラーフが反乱部隊を密かに指揮していた。行軍の途中、ヴィーは立ち寄ったこの町で毒殺される。料理人も毒見役も衛兵もグルだった。


 遅れてメーンに到着したキキは千里眼で犯人を特定し、ラーフらを縛り首にした。


「侵略者ども、未来永劫、人を殺して奪い、争いつづけるかいい!」


 ラーフの最期の言葉はキキの中で何かが終わり、そして始まったことを告げていた。


 チャーマデヴィ死亡の報が知れ渡る前に、若干十五歳のキキは死に際の女王の遺言どおり、彼女の役職と軍を引き継いだ。


 そして、ナコーン・パトム目前の草原で、両軍の主力どうしが激突した。


 騎馬隊に戦車隊、軍象部隊、歩兵部隊、弓隊に楽隊、各地から集まった傭兵たちが、平野に隊列を組んで敵軍と向かい合っている。


 宝石のちりばめられた鞍を装備したファンカムの背に乗り、キキは漆黒の刀カーリーを振り上げ、突撃の合図をする。ほら貝が吹かれ、短槍を持った軽装歩兵たちが突進し、敵の長槍部隊の隊列に亀裂を入れる。


 騎馬隊や軍象が歩兵を蹴散らし、弓隊が一斉射撃する。兵数は拮抗していたが、戦局は一方的だった。


 倒れていく敵兵のなかには知った顔もあった。世話になったことのある鍛冶職人や牛飼いの青年が死ぬのを見た。


 軍神を憑依している間は、何も感じないでいられた。天性の模倣力で、ヴィーの能力をその身に宿した。生前の彼女がやっていたことを真似しているだけでなく、戦場での経験はそれ以上の成長をキキにもたらしていた。


 キキがヴィーから受け継いだのは剣と兜、そして――。

「我は女王チャーマデヴィ四世! 聖地ドヴァーラヴァティを汚す敵を殲滅する!」


 百年前からつづく称号を襲名したキキは敵軍を打ち破り、勢いのままナコーン・パトムに進軍する。


 チャーマデヴィ軍は後続軍を待つ時間がなく、連戦で兵力が不十分だったこともあり、ガイヤンは降伏には応じなかった。しかし、兵数は拮抗していたものの、都市防衛軍は戦意を喪失しており、士気には雲泥の差があった。


 環濠と城壁を乗り越え、チャーマデヴィ軍がなだれ込む。軍象が仔牛を踏みつぶし、火矢が建物を焼く。キキは生まれ育った町を自らが率いる軍で蹂躙する様を見た。以前なら耐えられなかっただろうが、今なら魚を獲るように容易だった。


 防衛軍はすぐに制圧したが、大将のガイヤンの姿がなかった。キキは自ら小隊を率い、千里眼を駆使して行方を追った。

 

 三日天下の王は宮廷の裏の仏堂に潜伏していた。


 キキが仏堂の中央広間で彼を見つけたとき、ガイヤンは堂の奥につづく廊下から飛び出してきた。


 彼が走ってきた方向、廊下の奥から剣の交差する音がする。誰かが戦っているのだ。


 豪華な絹の衣に金ぴかの装飾品を身に着けた大柄な男は、キキの顔をみると、驚いたような、怯えた顔をした。


 そのとき、どこからか飛んできた短剣がガイヤンの首に刺さり、彼はうつぶせに倒れた。


 天井や壁に穿たれた採光窓からの光が短剣を青く輝かせる。柄に瑠璃が散りばめられた宝剣。それは美しさの反面、禍々しい黒い魔奈を纏って不気味に煌めいていた。


 こつこつと、堂内に足音を響かせながら、廊下の薄闇の中から現れたのは、蛇の仮面をつけた女だった。


 女バロンはガイヤンの首から宝剣を抜くと、滴る血を憎らしげに眺めた。


 彼女自身も手傷を負っていて、脇腹から血が出ている。


「力を貸してやったのにこのザマだ。衛兵は精鋭ぞろいだが、すぐにシャシャンカが始末するだろう」


「……バロン・ナーガか」


「おまえたちの勝ちだ、キキ。ナコーン・パトムはくれてやる」


 ナーガはあざけるように言った。


「な、なにを……きさま、父様の仇のくせに、ぬけぬけと……!」


 キキの背後についてきたはずの部下たちがいない。足もとに、黒い蛇のようなうねうねがいくつもあり、すでに術中にはまっていることに気づいた。


「おまえには効かないか。さすが姫巫女の血筋だな」


「血筋……?」


「おまえの母ムーも姫巫女だった。不自由な境遇から逃げ出して海賊になったのさ。ついでに、ここに倒れているのがおまえの本当の父親だ。ムーのラヴォへの寝返りを疑って拷問し、おまえを奴隷に堕とした。命を奪わなかったのは、父としての情だろうがな」


「な、わ、わけのわからないことを言うな!」


 バロン・ナーガはにやりと笑い、仮面に手をかけた。現れたのは、ひどい火傷痕のある色白の女性の顔だった。鋭い目つきはまるで獰猛な獣のようだった。


 シュワンの背中にも同じような火傷跡が――。


「シャルカールが死んだそうだな」


「誰だ?」


「おまえらがシュワンと呼んでいた男だ」


 キキには、ナーガがすこしさみしそうな顔をしたように見えた。


「あんたらが町を襲ったせいよ」


 そう言ったキキを、ナーガはまっすぐに睨めつける。その眼力を通じて、映像がキキの頭に流れ込んできた。


 ――。


 ひどい嵐のなか、揺れる船上で言い争う二人の男。ひとりは父マカラだ。


 南海世界を制覇し、領土として日本に献上するという計画を父は語る。相手はそれに賛同しない。男は父を動かしているのは彼が日本にいたころの劣等感だと指摘する。


 もみ合いになり、相手の男が落とした剣をマカラは拾って斬りつける。男は海に落ち、姿が見えなくなる。


 別の船からそれを見ていた自分も彼を助けるために海に飛び込む。そばにいた男が「ナギ、止せ!」と叫ぶ。


 気付けば浜辺で倒れていた。椰子の葉が揺れている。打ち上げられている無数の死体。生き残りの男がナギを抱え、焚火のところまで運んでくれた。彼はシュワンだった。ナギは彼のことをララワグと呼んだ。


 近くの漁村にかくまってもらい、やがてナギは女児を出産する。オケオにある幻人という結社のアジトに子を預けたら、海に落ちた夫を探しに行くつもりだった。


 オケオに向かう途上、深夜に森の中で野営していると、突如弓隊に囲まれる。蛇仮面の老人の合図で火矢が放たれる。ララワグが体を張って赤子をかばい、背中に無数の矢を受ける。


 蜥蜴仮面の術者が口から噴出した油が火炎となり、剣を抜いたナギの顔面を焼く。


 ナギとララワグは鬼神と化したように敵を斬り倒していく。ララワグは炎に焼かれながら蜥蜴仮面を斬り、ナギは頭目の蛇仮面の首にヴェルーリヤを突き立てる。


 蛇仮面の老人、バロン・ナーガは死の間際に術式を使う。彼の意思は自分を殺したナギの心に潜り込む。


 ララワグは白魔奈を振り絞り、ナギを治療する。火傷の跡が顔の半分まで引いたところで、彼は力尽き、ララワグとしての意識を失う。バロン・シャルカールに戻った彼はふらふらと水をもとめて川辺へ行き、崖から足を踏み外して大河に呑み込まれる。


 バロン・ナーガに憑依されたナギは他のバロンと合流する。牛仮面の女と象仮面の少年。


「おまえたちの妹だよ、かわいいだろう」とわが子を見せるナギ。


 老ナーガの意志により、ナギは娘のバロン・シャシャンカに身体強化の秘術を施した。老ナーガの次なる依り代とするために。


 しかし、ナギの意識は消えていなかった。老ナーガの黒魔奈に心を侵食されていたが、やがてその精神力で黒い遺志を打ち消した。


 しかし、いまもバロン・ナーガのままだ。心は憎悪と復讐心に支配されていた。


 ――。


 バロン・ナーガは手負いで息が乱れている。それでもなお、鋭い殺気を放ちながら間合いを詰めてくる。


 キキは剣を抜く。ヴィーから受け継いだ黒剣カーリー。三日月のように反り返った刀身は歴代所有者の魔奈を受け継いで妖しく黒光りしている。


 ナーガが斬りかかってくる。キキは剣で攻撃を防ぎ、応戦するが、素早い動きで背後に回り込まれる。反射的に回し蹴りを見舞い、相手の攻撃を牽制する。


「いい動きだ。養年富とヴィーに鍛えられたようだな」


 そう言うナーガの脇腹の血は止まらない。顔色も悪く、相当に消耗しているようだ。それでも、鋭い殺気は衰えることがない。


「おまえたちの目的はなんだ!」


「わが娘シャシャンカをガネーシャが作る新王国の君主にする。この都市を拠点にシュリーヴィジャヤから独立し、大陸に支配域を広げる」


「新王国?」


「エフタル結社が目指した魔奈使いが支配する理想郷だ。ガネーシャは秘術の影響で長くは生きられないから、シャシャンカを女王に立てる。


 しかし、娘には感情というものがない。欲望も野心もない。血の呪いだ。その封印を解くには、尽きかけたわが命が生贄だ。


 おまえが私を殺せば、シャシャンカは怒りとともに感情を取り戻す。憎悪は魔奈を増幅し、あのガネーシャをもしのぐ強さを得るだろう。私がそうであったようにな」


 キキはナギの過去を見て、彼女を斬る気が起きなかった。父の仇とはいえ、すべては前のバロン・ナーガの呪いによるものであり、彼女もまた犠牲者だ。


「ガイヤンの参謀となり、ムーとヴィーを殺させたのは私だ。それでも斬れないか!」


「なに……?」


「風切!」


 剣を逆手に持ったバロン・ナーガの渾身の一撃が繰り出される。


 互いの剣撃が交差し、刀身の長さで優ったキキの剣がナーガの短剣をはじく。返す刀、カーリーの黒い刃が女バロンの胸を斬り裂いた。


 血しぶきの中、キキは広間に駆け込んできたバロン・シャシャンカの姿を見た。


 十数歩は離れていた。しかし、巨大な斬象刀はすでにキキの頭上に迫っていた。


 間一髪かわす。大剣は大理石の床を砕き、破片がキキの頬に当たる。


「よくも、母様を」


 仮面の隙間で怒りに満ちた目が光る。


 キキは睨み返す。


「私だって……あんたらに家族を殺されてんのよ!」


 カーリーが怒りでさらに黒光りする。


 シャシャンカが大剣で薙ぎ払う。キキはかがんでかわして懐に飛び込み、反撃を見舞う。


 斜めに切り上げた一閃はシャシャンカの仮面を割り、その素顔があらわになる。バロン・ナーガに似た端正な顔立ちに白い肌。瞳は殺意の焔色に染まっている。


 シャシャンカの細い腕が大剣を風車のように回転させる。キキは反り返るカーリーの刀身でそれを受け、大剣の刀身を滑るようにいなし、受け流す。


 大剣の刃が何度も迫って来る。一撃でもまともに食らえば終わりだ。


 なぜか、シャシャンカの攻撃の軌道が先取りできる。一瞬先の未来が見える。千里眼が冴えている。まるでたくさんの目が未来から情報をくれるようだ。それがなければ、何度死んでいるかわからない。


 情報――生きていくためにもっとも重要な要素。それがキキを生かし続けている。


「そこだ!」


 斬象刀の剣筋の嵐のなか、一瞬見えた隙。そこに向かってカーリーを振り下ろす。


 しゅどっ、という感触がキキの脇腹にあった。


 落としたカーリーが床を跳ねる。


 底なしの激痛とともに、キキはその場に崩れ落ちる。


 すぐそばに瑠璃の宝剣を持ったバロン・ナーガが立っていた。黒い蛇たちがナーガの傷口をふさいでいる。彼女の顔面はさらに醜く焼けただれて見えた。


 次の瞬間、ナーガの傷をふさいでいた黒蛇がはじけるように霧散し、ナーガもその場に倒れる。


 大剣を持つバロン・シャシャンカだけがそこに立っていた。



 ――。




 第十二話はそこまでだった。


「キキが敗北……それじゃあ、彼女の子孫が……生まれてこない」


「キキの父が養年富でなくガイヤンという過去が浮上して、僕やヴィッキーの声が届きづらくなったんだ。読者の声だけじゃ限界がある」


 声の主は上下スウェット姿の大柄な男だった。


「あんた、まさか、……ジーメイ?」



「まさか竜星の息子がここに来るなんてね」

 ジーメイは凌太たちを劇場裏の大部屋に案内した。作業場兼寝室で、真ん中には漫画制作用の作業台があった。煙草の匂いが充満していた。


「あんな映画を上映して、崑崙王に目を付けられないの?」


「護衛がいる、晴明の式神だ」



 ジーメイが窓の外を目で指す。一羽の鳶が窓の外の欄干に止まっていた。


「やつらは互いの式神には手が出せないようなんだ。そういう密約らしい。あれは見張りでもある。俺もここに封印されているようなもんだ」


「晴明か。武内宿禰系の俺たちからすればもともとは敵対者だ。いずれ戦うことになるのかもしれないよな」


「めったなこと言うもんじゃないよ。式神が聞いている」


 ジーメイが桂皮茶を出してくれたが、アムーラたちは手をつけず、「ここは空気が悪い」と言ってどこかに行ってしまった。


「十話と十一話は見てない。ラーマたちはどうなった?」  


「予期せぬ展開でね、公開していない」 


「でも十二話は掲載したんだね」


「ナギの過去編を見たろ。あそこに、ことの発端があった」


 ジーメイは疲れている様子だが、はっきりとした意思と明晰さがその目に宿っていた。


「バロン・ゲッコーたちに指示してナギを襲わせたのは、少年のバロン・ガネーシャだ。歴史を変えるためにね。子を殺さなかったのは、歴史の揺らぎを最小限に抑えるためだ」


「それって、ナティラの血筋を変えたっていう」


「そう。本来ならナギの娘は幻人に預けられ、ドヴァーラヴァティでトゥミと出会い、彼らの子がキキの子と結婚するはずだった。けれど、娘は兎のバロンになり、トゥミは唐へ旅立った。こうしてシュヴェータ系統と養年富系統の血を引くナティラが消え、トゥミの子孫はナティや僕らになった。ついでにレオはトゥミも消したがってる」


「ちょっと待って、シャシャンカがシュヴェータの系統って」


「シャシャンカはシュヴェータとナギの子だ。パレンバンで愛人関係だったろ。ついでに言うと、ガネーシャはレオと晴明にとっては共通の先祖。先祖を手駒に取られた晴明は子孫のモニカを使うしかなかった」


「ところで、さっきの予期せぬ展開って」


「そこにネームがある」


 卓上のノートにラフな下書きが描かれていた。場面はタンブラリンガでハヌマン軍と戦うラーマたちの戦いの続きだった。


「読んで感想を聞かせてくれ」



 第十話 バロン・マユラ(仮)


 モニカが憑依したバロン・スラビーは三人官女を倒し、ラーマに加勢する。二人は将軍の大振りの鉾をかわしながら、じわじわと追いつめていく。


 塔の上からラーマを狙っていた親衛隊のリジャールは自身の影から現れたバロン・マユラに背後から刺される。マユラはリジャールの弓でミジャールを仕留めると、スラビーではなく、昨夜自分を助けたラーマを助けるためハヌマン将軍を狙う。


 だが、遠かった。標的の頭を狙ったマユラの放った矢はハヌマンの肩に命中する。


 ラーマがチャンスとばかりに突進し、ハヌマンにとどめを刺そうとするが、マユラの矢は鎧の肩当てを壊しただけだった。


 不用意に飛び出したラーマはハヌマンの喉を一撃するも、反撃の鉾をかわすことができず、肩を斬られる。傷は浅かったが、動きが止まったところ、押し寄せてきたハヌマン兵に囲まれ、捕縛される。それに気をとられたスラビーも、まだ死んでいなかった三人官女の不意打ちを受け、取り押さえられる。


 二人は人質にされ、一時休戦となった。ハヌマンはマシュラたち捕虜の解放と好条件での港の使用権を求めてきた。陥落が時間の問題と踏んでいたタンブラリンガの大臣らは、ハヌマンに譲歩する言い訳ができたと喜んだ。


 しかし、スーティは交換条件を飲まなかった。バロン・マユラを追っ払ったラーマに恩があるとはいえ、スラビーと仲間だったということは、片棒を担いでいたと疑わざるを得ない。


 見捨てられた青い王子の公開処刑がすぐに執り行われることなった。


 ラーマとスラビーは広場に打ち立てられた長い柱に磔にされ、十数人の射手がハヌマンの合図を待った。


 殴られて血まみれになったラーマは、そこに現れた男を見て目を疑った。海龍剣を持ったトゥミだった。


「馬鹿やろぅ……なんで」


「ハヌマン将軍、僕が本物のトゥミ・プージャだ。僕がその者の代わりに人質になる」


 海龍剣の影響だとラーマは気付いた。あの剣がトゥミに何かを教えている。もたらしたのは千里眼だけではなかった。


 ハヌマンはトゥミに免じてラーマらの処刑に執行猶予を与えた。


 結局、ハヌマン軍とタンブラリンガはそのまま休戦となり、マシュラらの身柄を引き取った海軍は別の港に一時退去することとなった。


 海龍剣は没収され、ラーマとスラビーは軍船の船底に収容された。


 トゥミは拘束されず、兵の監視付きでラーマとの接見が認められ、少しの間だけ話が許された。


 トゥミはガネーシャとウーウォンがもつれ合いながら川に落ちたあと、ラーマの窮地を千里眼で察知し、引き返して駆け付けたということだった。


 船は将軍の主軍を別れ、南のランカスカに向かっていた。そのあとはおそらくジャワに護送されるとトゥミは言った。船にはハヌマンの部下の隊長が乗っていて、これから船上で取り調べを受けるという。


「大丈夫だ、ラーマ。切り抜けて見せる」


「うるせえ、なぜ逃げなかった」


「君は僕の護衛だろ。安南まで一緒に行くと約束した」


 トゥミが兵たちに引っ張られて去ったあと、眠っていたスラビーが目を覚ました。


 いつのまにかスラビーの中のモニカは消え、獣臭い檻の中で気が付いたスラビーは怒りをあらわにしていた。


「何者だ、モニカとは。青い王子、おまえの仕業か」


「知るか。俺だってとりつかれてたんだよ」


 夜になった頃、どこかで断末魔のような声が聞こえた気がした。


 ラーマは暗闇で目を凝らした。魔奈の力を目に集中した。突然、闇の中に一対の目が現れたかと思うと、それはわざと足音をたてるように、踊るような足取りで近づいてきた。


 女であることが気配でわかるほどに近くに来たら、突然檻の錠が開いた。つづいて、となりのスラビーの檻を開けた。


「こっちが先だろ、アンガ」


「ざまあないね、スラビーの姉さま」


 バロン・マユラはラーマの檻の戸を開くと、「私の奴隷になるなら助けてあげる」とい言った。


「ああ、なんにでもなるさ。さあ、どうやって脱出する。海に飛び込むのか」


「心配しないで、この船は私らのもんさ。みんな殺したから」

「なに……?」


「ひとり、私の術が効かない坊やがいたけど、あれ、あんたの友達でしょ」


 ――。





「トゥミが死んだ……?」


「わからない。十一話を描くのが怖いんだ。どっちの過去が確定するのか」


 そのとき、雷鳴がとどろき、太鼓を打つような雨音がしだした。窓の外は真っ白な雨煙のなかに沈んでいる。


「雨も降るのか」


「ここは現世の物理法則、というか五感を再現している世界なんだ。雨も降れば夜もくる。それに、現世の物も出入りする。町で売られているものの大半は、現世から持ち込まれたものさ。いたるところに現世につながるポータルがある。行き来できるのは限られた者だけだとね、君のような」


「俺のような?」


「広成の子孫だからだろう。そうだ、第十一話のネームは君が描いてくれ」


「俺がドラゴンジャーニーのつづきを……」


「君はラーマをアバターにできた。もう一度八世紀にダイブするんだ」


「よくわかんないけど、ラーマが俺の先祖ってことはないよね」


「別の世界線ではそれもありえたのさ。そこに繋がりがあるんだ」


 運命はわずかな違いで分岐する。過去は頻繁に書き換わるが、魔奈の痕跡は残り、わずかな繋がりでも意識のシンクロが起きる。竜星がナギの体験を夢で見たり、ジーメイがラーマの体験を漫画にできるのはそういうわけだ。


「アバターにまでできた君ならまだ繋がりが残っているかもしれない」


「でも、トゥミの死を回避するには、もっと手前で書き換えを起こせないかな。ラーマ敗北のきっかけはマユラの矢だ」


「あれがもしハヌマンの頭に命中していればな」


「いや、ジーメイ、ハヌマンは殺しちゃいけない。負けたら軍をくれてやると言ったけど将軍が死んだらきっと部下たちは約束を守らない。殺さずに負けを認めさせるんだ」


 雨はまだやまない。窓の外は、雨煙の中で尖塔や城壁がかすんでいる。テラスの欄干に式神の鳶が止まって雨を避けている。


「そうだ……親衛隊の矢からラーマを守ったのは鳶だった」


「それは僕も気になっていた。読者の声が鳶にそうさせたのか」


「ジーメイ、雨が止んだら、第十話を描いて上映しよう。みんなに漫画を見せるんだ」



 ※



 いつもの寝覚めと明らかに違った。


 窓から差し込む陽光の角度、空気の質、シーツの乱れ具合、それらが微妙な違和感をもって、レオを取り巻いていた。


 次の瞬間、心臓が掴まれたように苦しくなった。まるで自分の内臓の一部をかすめ取られたような痛みをともなって、喪失感の風穴が胸の奥でみるみる広がっていく。慧眼の強さが仇となり、急激なドーパミンの禁断症状が襲ってきた。


 ララ・ソーマのいない世界――信じたくないが、自分はいまそこにいる。


 死んだのではない。はじめからいないのだ。彼女は生まれてこなかった。


 原因はなんだ? キキの死か? 海龍剣の喪失か?


「生まれてこなかった者を再度復活させるのは死の回避より数段難しい。それこそ、ソヴァカの行った秘術――をもう一度行うくらいのことが必要だ」


 レオは病室のベッドに横たわるティティーラの傍らで言った。独り言だった。ティティーラは昏睡状態で、ずっと眠ったままだ。


「けれど、一か八か、私は自分でそれを試すつもりだ。印をしっかり残せば、存在可能性を残して秘術が使えるはずだ」


 リメラスオンクは「交換」の呪符術の究極――自らの存在可能性を生贄に願望成就させる禁呪中の禁呪だ。


「だめです」


 眠っていたはずのティティーラが目を閉じたまま声を出した。


「あなたはウルラガに必要な方です。私が生贄になります。どうせ、バロン・ティティーラの力はもう使えません。最後の魔奈を、あなたのために使いたいのです」


「しかし」


「印は残しています。あなたの中に。あなたが私のことを覚えてくれているだけで、それが私にとって強力な印になるのです。お願いします。どうか、私に秘術を。それと、眠っている間に、夢の中でヴァジュラダートを垣間見ました。わかったんです。本物の海龍剣のありかが。それさえあれば、どんなことがあってもウルラガは消えません」



 ※



 落ちていく感覚がずっと続いた。


 永遠とも一瞬ともとれる時間のあと、ヴァルナは気づけば鉾で腹を貫かれている自分の姿を斜め上から眺めていた。ガネーシャの仮面をつけた金髪の戦士の姿を。


 川べりだ。あたりは薄暗く、色彩は乏しい。鉾を持つウーウォンも、走り抜けようとするトゥミやスリンも、弓を構えるハヌマン兵たちも、石化したように動かない。


 自分が死ぬ間際の瞬間がレリーフのように空間に刻まれている。


 ――私は、どうなったのだ。死んだのか。


 そう思った直後、体がふわりと上昇し、ものすごい速度で天へ昇っていく。兵たちが小さくなっていき、タンブラリンガの都が見渡せるほどの高さに至った。 


 意識ははっきりしているが、風や温度は感じられない。現世の物質から解き放たれ、意識だけが空をさまよっている。


 そして、意識だけになったせいか、いつも自分に憑依しているレオの存在がない。


 普段、彼に支配されているときも意識や記憶はあるが、レオの目的達成のためだけに行動させられる。ときおり、今のように自由になり、呪縛を解く方法を考えようとするが、一刻もしないうちにまた自由を奪われる。


 頭目のバロン・ナーガはレオの作戦に従っている。彼の千里眼とヴァルナの力を利用して、シャシャンカにシュヴェータの夢を継がせようとしている。南海の制覇と大陸侵攻。ナコーン:パトムを裏から支配し、シャイレンドラに対抗してエフタルの叡智を復興する。


 スラビーはそんなナーガに反発を覚えながらも、ウルラガ建国だけが自分たちを救うすべだと信じている。


 ――そうだ、いまなら。


 ヴァルナは故郷パレンバンの景色を思い浮かべる。すると、タンブラリンガの上空を漂う意識がぐんという力で引っ張られ、南のパレンバンまでひとっ飛びで移動した。


 大河沿いの巨大な港、懐かしい街並み、水上都市のような川辺の桟橋と行きかう人々の活気あふれる笑顔。少年期に過ごした思い出の地はあのころのままだった。


 王都がジャワに移ってから、何年も帰っていないが、あそこには、まだレオに支配される前の自分がいた。


「里帰りはそこまでじゃ。そろそろ来てもらうぞ」


 振り向くと、白髪の老人がいた。自分と同じように宙に浮いている。地上のひとびとと違って時間が止まっていない。


「行く先は、もしや、あの世か?」


「馬鹿言え、死なれちゃ困る。わしもおまえも相応の力は消費するが、そこにおまえの必要とするものもある」


 ヴァルナは理解した。レオは勝てるはずのウーウォンとわざと相打ちになって死んだのだ。いや、死んだか死んでいないか、両方が重なり合った状況にしたのだ。老人が招こうとしている場所にいくために。


「ガルバダート、まずはそこに行く」


 抗えなかった。そう思ってしまった心の弱さがそうさせたのか、また、ぐんという引力に引っ張られ、景色が消える。意識がなにかの意識の中に取り込まれるようだった。


 薄明の濁流のなかを流れていく中で、現世の光景がいくつも見えた。いま自分は千里眼そのものになっている。


 その中に、スラビーとともに船に乗るラーマの姿が見えた。


 なぜ、彼の姿を見たのか。いや、見ようとしたのか。彼こそが、われらバロンを救ってくれる存在ではないか――なぜだか、そんな気がした。


「おまえはやつを殺すために生まれたのだ。バロン・ガネーシャ」


 老人の声がした。


「おまえの妹は大事な器だが、スラビーはもう用が済んだ。いつでも始末できる。この意味が理解できるほどに利口なら、変な気は起こさんことだ」


 老人はおそらく自分でラーマを殺せない理由があるのだろう。現世の者に直接干渉できないのかもしれない。


「なかなか勘が鋭いのう。だが、崑崙城ではわしの独壇場だ」


「私は自由にはなれないのか、崑崙王よ」


「とっくに自由だろう。レオの支配も、おまえが本当は望んで受け入れていることだ。そうすることが、バロンにとって正しいことだと思っておる」


 ――そうかもしれない。しかし、この尊大な老人に対して湧き上がる怒りはなんだ。


 ヴァルナは右手に持つヴァジュラの柄を強くにぎり、その感触を確かめる。現世と同じだ。ガルバダートにこの武器が持ち込めるなら、現世と同じように戦えるなら、反抗の一撃を見舞うことができれば――。


「だから言っとるだろう、死なれちゃ困る。変な気を起こすな。やれやれ、しょうがないのう、どいつもこいつも、一丁、もんでやるか」





 4 聖地ジャワ



【第十話 バロン・スラビー】


 モニカが憑依したバロン・スラビーは三人官女を倒し、ラーマに加勢する。二人は将軍の大振りの鉾をかわしながら、じわじわと追いつめていく。


 塔の上からラーマを狙っていた親衛隊のリジャールは自身の影から現れたバロン・マユラに背後から刺される。マユラはリジャールの弓でミジャールを仕留めると、スラビーではなく、昨夜自分を助けたラーマを助けるためハヌマン将軍を狙う。


 しかし、突如視界に飛び込んできた鳶がマユラの手元を狂わせる。矢は外れ、牛車を曳く水牛の尻に刺さる。


 将軍が暴れた牛の突進に気を取られた一瞬、ラーマがレインナスタを唱えながら棍棒を突き出す。


 見事、ハヌマンの喉を強打し、巨体が崩れる。偃月で足を払い、倒したところにスラビーがすかさず馬乗りになり、ヴァジュラの刃をハヌマンの首筋に押し当てる。


「全員投降しろ! さもなくば、将軍の喉を掻っ切るぞ!」


 声が出ない将軍のかわりに側近のカンチャナがハヌマン兵たちに武器を置くよう叫ぶ。


 戦は終結し、ハヌマン将軍と親衛隊は捕虜として宮廷に連行された。


 停泊していた船団の大半はマレー半島南端のテマセックまで撤退した。


 トゥミたちは無事出航し、スリンらとダウ船でオケオに向かったという報告があった。


 不思議なことに、彼らを阻もうとしたバロン・ガネーシャがウーウォンの鉾で死んだという報告と、逆にウーウォンが斬られて死んだという報告があった。二人は相打ちのような恰好で川に落ちたという。彼らの行方は見つからなかった。


 ハヌマン将軍は、「約束通り軍をくれてやる」とラーマに言うが、親衛隊は猛反発する。


 ラーマは、軍はいらないから、ナコーン・パトムとタンブラリンガへの侵攻をやめること、オケオに向かったトゥミを安南まで護送するよう要求する。


 牢獄でスラビーは我に返る。モニカが憑依していた影響が残っていたのか、敵意を示すことなく、ラーマに過去を語る。


 十三歳のときに父であるシュヴェータの子ヴァルナを産む。シュヴェータは息子を自分の死後のアバターとするために、彼の魂をロケラオクークで封じ込め、身体強化の秘術を施した。しかし、シュヴェータは成仏したのか、彼をアバターにすることはなかった。


 親を亡くし、奴隷になったスラビーとヴァルナは先代のバロン・ナーガに拾われ、母子で暗殺術を叩きこまれる。スラビーには牝牛の、ヴァルナにはガネーシャの仮面が与えられる。生まれたときから魔奈で身体強化されているバロン・ガネーシャは幼少期のうちから暗殺任務をこなすようになる。


 あるとき、何者かの魂がヴァルナに入り込んだ。シュヴェータではなく、子孫のレオと名乗った。以来、彼は感情を失くし、レオの目的のために動くようになった。それはレオの野望が達成されるまでつづく呪いだった。


「ヴァルナを救うには、海龍剣を手に入れ、あの子をウルラガ建国の祖にするしかないのさ。殺し、騙し、裏切り、たくさんの町や国を滅ぼしてきたよ」


 スラビーはガネーシャの行先に心あたりがあると言い、ラーマは彼女とともにジャワ島へ向かう船に乗る。


 ――。




 作業部屋の上、三階の鑑賞室のテラス席から凌太とジーメイは書き換えられた第十話を鑑賞した。


 オリジナルの第十話を上映したのち、効果はすぐにあった。凌太は降りてきたイメージをネームにした。鳶はマユラの矢の軌道を変え、運命を変えた。


 ジーメイはそれをすばやく漫画にした。パソコンに取り込むと、露天の舞台に浮かぶ巨大スクリーンに漫画が映し出された。


 漫画を鑑賞し終えたあと、ジーメイは首をかしげる。


「不可解だね。なぜガネーシャがジャワ島に? トゥミと海龍剣はオケオに向かったのに」


「もしかして、トゥミの剣が影打ちで、本物がここにあることに気づいたのかも」


「だとしても、ジャワになにがあるってんだろう。それに、なぜラーマがついていく?」


 凌太はそのとき、画面から目を離せなかった。なぜか、絵の中の海原の波しぶきが目をとらえて離さなかったのだ。


「入口はいたるところにある。魔奈が尽きたら、自動的に戻って来れるさ」


 ジーメイの声がどこか遠くで響いているように聞こえた。


 ――。


   ――。


     ――。



 帆は潤沢な風を受け、船は快調な速度で南へ向かう。百人乗りの大型帆船の船首には巨大なナーガの像が設えられている。軍艦の乗員はランカスカで雇った操船に必要な最低限の水夫のみで、兵士は乗っていない。


 ラーマは帆柱にもたれて、水平線にぽつぽつと浮かぶ島影を眺めていた。


 マレー半島東岸沿いに南下し、四日も海の真ん中にいるが、ようやく半島の南端を超えたところだ。ジャワ島まではこの倍はかかる。日差しはきついが、よく雨が降るので暑さにまいることはなかった。それよりも、退屈だし、食べ物が干物ばかりで代わり映えがなく、早く陸に上がらないと心が干からびてしまいそうだった。


 スラビーが船室から現れ、おやつのクルミを投げた。ラーマはそれを受け取り、口に放り込む。


「なにかわかったか?」


「ジャワになにがあるかはわからん。うちの存在を警戒してまだ記憶を閉ざしてる。さすが、天性の魔奈の器や」


 ここ最近はずっとモニカだ。うまく憑依するコツをつかんだのだろう。


「でも、ガネーシャはそんなもんじゃない」


「あれは無茶な秘術でチャクラを解放されている。感情や人格に支障をきたすかわりに、超人的に強い。すべてレオの操り人形になるための施術や」


「ちょっと、姉さま! 私の夫になにちょっかいかけてんのよ」


 船室から出てきたバロン・マユラがスラビーを押しのけ、ラーマの隣に座る。


「誰が夫だ」


 ラーマの言葉を無視して、マユラはラーマの腕にしがみつき、猫のように甘える。


「おい、ばかやってないで、寄港の準備を手伝え。次の港が見えてきたぜ」


 帆柱の上からそう言ったのは、長髪を後ろで束ねた十幾つばかりの少年、グプタだった。父のかぶっていた鰐の仮面を腰にぶら下げている。


 ラーマは彼が仲間になったいきさつを思い出す。


 タンブラリンガの南、ランカスカの港で急襲してきたバロン・クンビーラは強敵だった。突然、どこからともなく加勢したバロン・マユラが死角から近づいて手傷を負わせ、なんとか追いつめた。


 背後から石弓で鰐仮面の頭を撃ち、とどめを刺したのはクンビーラに同行していた見習いバロン――彼の息子グプタだった。


 父には虐待の恨みがあり、この機を狙っていたと彼は言った。


「バロンとして不本意だが、ガネーシャを止めるため同盟を結ぶぞ、青い王子」


 クンビーラ二世はガネーシャの中にいるレオの存在に気づいていた。レオがバロンを操ってシュリーヴィジャヤから独立しようとしているが、バロンの一門を破滅に導いているとしか思えないという。


 いくらクンビーラが暴君とはいえ、実の父を殺して平然としているグプタにラーマは不気味さを覚えたが、その有能さと利用価値のために目をつむることにした。


 スラビーはラーマに小声で言った。


「クンビーラは死んだけど、息子が生きてるってことは、未来のネオバロン・クンビーラは能力を失わへん。現代に戻る前にあいつも始末するよ」


「ん、ああ……君はすっかりバロンに同化しているな」


 ラーマは頭がときおり混乱して、自分が誰だかわからなくなる。


「うちはゲームの世界にいるつもりでいる。でないと、歴史を変えるために暗殺なんかできんやろ。ところであんた、凌太の意識はどんだけある?」


「凌太……か。ああ、いまはかろうじてあるけど、すぐに薄れちまう」


「同化してしまうと、戻れなくなるで。しっかりしいや」


「いや、大丈夫だ。凌太は眠らせて、ラーマでいるほうがむしろ負担がない。二人同時に意識を共有するとアイデンティティが崩れる」


「アイデンティティなんて言うてるうちは大丈夫やな」


「さっきから、ラーマと姉さま、何語で話してんの?」


「おっと、ごめんよアンガ。チャンパのほうの言葉だ」とスラビーが嘘をつく。


「なんかむかつくう、二人にしかわからない言葉なんて!」


 いくつもの港を経て、ときに嵐を越え、やがて船はジャワのカリンガという港に着く。三日滞在したのち、長船で川を下って南の都へ向かった。


 そこはラーマが想像していた以上に豊かな土地だった。


 島と言っても、海南島の数倍も広く、平地や河川も多い。豊かな稲作地帯と東のモルッカ諸島からもたらされる香辛料により富を築いた諸王朝のうち、十数年前、スマトラで蜂起した反乱軍をシャイレンドラ軍が制圧し、シュリーヴィジャヤの覇者となった。


 そのときに北から攻めてきたラヤン水軍とシュヴェータ率いる反乱軍の主力がぶつかり、漁夫の利を得たのだとグプタは言った。


 一晩川を上ったところにある町について一泊した。あくる日、また船に乗り、背の高い仏塔や楼閣が見えてくると、今度は牛車に揺られ、都へ向かう街道を進んだ。


「のどかなところだな。まあ、こんな南の果てまで攻めてくる国もないか」


「いや、そうでもない。三百年後に南インドのチョーラ朝の侵攻を受けて滅ぶ運命や」


「チョーラか。タミル人の国だな」


 建物などの文化様式はクメールのそれに似ていた。石造りの楼閣の先端は仏塔のように細長い。人々は独特のなまめかしさのある服装をしている。体に薄い布を巻きつけていて、女は胸や尻の肉付きがくっきりわかる。


 ヒンドゥーの寺院や石造もあるが、シャイレンドラ王家は敬虔な仏教徒で、町には大小の仏塔が林立し、通りには多くの僧侶の姿があった。寺院から聞こえてくるガムランの独特な金属音と水牛の鳴き声が混ざり合い、ラーマを異界へ来たような心地にさせた。


 目についたのは、町のそこここにある祭壇で、小さな龍や獅子の彫刻が祭られていた。


「形あるものに魂が宿るという考えがあるのさ」グプタが言った。「魔奈で式神を作り出すときも、神獣の像を依り代にすることがある」


 宮廷前で出迎えた役人たちは煌びやかな装飾品をまとっていた。紺色のターバンと腰巻には鷲の文様があった。


「気をつけろ、こいつらはガルーダの文官だ」グプタが小声で言った。「ただの王都の守護隊のくせに、支配者きどりだ。内心、ハヌマンは家来、バロンは不安分子とみなしてる」


 王宮に入り、シャイレンドラ王に謁見した。玉座を大臣たちが囲み、防衛長官のガルーダがわきの椅子に座っていた。


 スラビーが代表して王への挨拶をした。


 王は不健康にやせ細り、もごもごとねぎらいの言葉を述べ、すぐに奥に引っ込んだ。


「あれが養年富とともにシュリーヴィジャヤを統一したっていう賢王ヴィルシャナか。まだ四十くらいって聞いたが、もっと老けて見えるな」


「最愛の第一王子を病気で亡くしてからすっかり腑抜けなのよ」


「ラーマ、マユラ、静かにしろ」


 グプタが後ろから二人の背をつつく。


 ガルーダや大臣たちが場を引き継ぎ、スラビーからの報告を聞いた。頭に布を巻いた文官たちがそれらを書きとめる。


「そこのバロン、新参か。仮面は……豹か」


 ガルーダが言った。若さに相応な高い声は自信に満ちていた。


「バロン・マチャンといいます。特技は逃げ足です」


「よけいなこと言うな」


 またグプタがラーマの背を肘で小突く。


「ははは、暗殺者には大事な特技だな。やはり、われわれとは違う」


 若い防衛長官の見下した態度にマユラが舌打ちをして、グプタが小声で戒める。


「意外に真面目なんだね」とラーマが言うと、グプタは「そんなんじゃねえ」と言った。


 スラビーは宮廷での会食を断り、先に官舎に落ち着きたいと世話役の文官に申し出た。


「グプタ! グプタはいるか!」


 謁見の間を出たところで、坊主頭の身なりの良い少年が駆け寄ってきた。声変わりしておらず、背格好からして、グプタより少し年下のようだ。


「ヴィシュヌ王子、ご無沙汰しています」


 くりっとした目の人懐っこそうな美少年はグプタを捕まえると抱えていた図面らしき紙や分厚い写本を廊下の床に広げた。役人たちがあきれた表情で廊下を通り過ぎていく。


 建築様式やら彫刻について熱心に話す王子。グプタはそれらに笑顔で答え、自分の意見を言ったりして、二人はうなづき合う。そんな二人を心配そうに見つめる若い護衛兵は警戒するような目つきでバロンたちを一瞥した。


 グプタは王子と打ち合わせることがあると言って宮廷に残った。


 ラーマたちは役人に引率されて船で川を下った。宮廷から数キロ離れた田園地帯にバロンの官舎はあった。妻側が船のように反り返った屋根の宮殿で、等間隔に立つ石の柱にはインド神話を表現した見事な彫刻がほどこされていた。かつてはインド系の豪族の屋敷だったという。


 主たちが任務で留守にしていることが多いせいか、館を守る召使いはわずかだった。


 召使いたちは港にバロンがついたことは知らされていたが、てっきり宮廷の会食に参加すると思っていたようで、夕餉の支度に追われていた。


「おそらく、ガネーシャは胎蔵界へ行った。そこへ行くための方法がここジャワにある」


 西洋風の豪奢な彫刻の施された椅子に腰かけ、長い脚を組んだスラビーが言った。


 沐浴を終え、絹のバティックに着替えたスラビーは甘い香のにおいを漂わせている。


 負けじとマユラもめかしこんでいる。ひらひらした服は露出が多く、まるで踊り子だった。もちろん、ラーマを誘惑するためだ。


 マユラの大きな目とエキゾチックな赤毛は男を惹きつける魔力に満ち、赤褐色の肌は妖艶な色香を発していた。しかし、まるで暗殺剣の権化のような彼女の危険さに気後れしたラーマは船旅での彼女の夜這いをことごとく拒否してきた。それでも、めげることなく接近してくる強靭さに根負けしそうになっていた。


「グプタは何をやってんだろう」


 ラーマはスラビーに話題を振り、くっついてくるマユラから離れた。


「思い出してきたわ」スラビーが言った。「この国の権力争いの構造を。グブタはそのための工作の最中なんや」


 スラビーは語った。


 シャイレンドラ朝の属国の一つにマタラム王国がある。ヒンドゥー教を信仰する南の小国で、スマトラ方面から来た征服者であるシャイレンドラ王家と姻戚関係を結んで平和に共存しているが、裏では次期王位継承権を巡って争っている。


 ヴィルシャナ王の叔母はマタラムの王子に嫁いだ。その息子クリシュナは若くしてガルーダに任命されたやり手で、次期国王にふさわしい器だと言われている。


「ヴィシュヌは出来が悪いと軽んじられているが、王位継承権第一位や。マタラム王家のクリシュナもシャイレンドラ王の血筋を引いているから、かろうじて継承権がある。ヴィシュヌの兄のパラン第一王子が死んだのはおそらくクリシュナ派の暗殺。しかし、王はそれが国家転覆を狙うバロンの仕業だと吹き込まれている」


 そのとき、館の入口のほうが騒がしくなった。


 召使いが慌ててやって来て、大勢の客人が来たと言う。玄関に出ると、グプタと十人ばかりの僧や従者に囲まれたヴィシュヌ王子だった。昼間の護衛兵もいた。部下を何人も従えたその武人はよく見れば女官で、鳥の羽の装飾が施された兜をかぶり、鎧の下の腰巻には鷲の文様があった。


「ここが一番姫にとって安全だ。巡礼の前に、一時避難させてもらう」


 女官の言葉にラーマはヴィシュヌについて感じていた違和感を吐露する。


「もしかして、女か……?」


 目を丸くしてラーマを見つめるヴィシュヌ。よく見れば、かすかに胸のふくらみがある。


「王女でも仏門に入り、男として数年過ごせば王位を継げる」グブタが説明した。「そういうしきたりがあるのだ。姫ってのは幼少期からの呼び方だが、公式には王子だ。ちなみに、姫は十六歳で、十四歳の俺より年上だ」


「ナ、ナ……」


 愛らしいまん丸い目、つるりとした頭。ラーマはヴィシュヌの顔を見て、なぜだか浮かぶ名前があった。


「……ナティ?」


 スラビーがぴくりとし、マユラが眉を顰める。


「はにゃっ? ナティってだれだ。わらわはヴィシュヌだぞ」

「あ、ああ。そうだった」


 ――そうだ。ナティはガルバダートにいる。ナティなわけがない。


 ヴィシュヌはラーマのわきをすり抜けた。


「さあ、グブタ、昼間のつづきだぞ、どうしても入れたい彫刻があるのだ!」


 姫はまずはお食事をと言う護衛兵を無視して、図面を抱えて奥へ走っていった。


「昼間から、何の工事の打ち合わせをしているんだ? 巡礼って、どこへいくんだ?」


 ヴィシュヌに手を引かれながら、グプタは答えた。

丘の上の寺院(ボロブドゥール)だ」




 円卓に置かれた模型を見て、一堂は息を飲んだ。


 正方形の基壇がいくつも重なり、その上に円壇が乗った巨大な仏塔だった。各段は回廊になっていて、頂上は中央の円を中心にいくつもの円が並んでいる。


 敷地はこの宮殿より広く、頂上は王宮の屋根よりも高い。各層の回廊には仏教世界を表現した精密な彫刻が施される作りになっている。


「すでに全体の形は出来上がっておる」ヴィシュヌが得意下に言う。「あとは頂上の仏塔と回廊の壁に彫る彫刻だ。ラーマーヤナもここに入れたいのだ」


 次に、グプタが説明する。


「火山地帯の岩を積み上げて人工丘を作り、そこに石をはめ込んで階段状にしている。下の階層から欲界、色界、無色界をあらわしている。中心の仏塔には如来像が入る。亡き第一王子が建造をはじめたが、今はヒンドゥー勢力の反対で工事が止まっている。ヴィシュヌ王子が引き継いで完成させようとしているが、宮廷内に理解者は少ない」


「巡礼ってのは、この仏塔工事のためか?」


「そうさ。村々を巡って寄進者や労働者を募る。税金を免除する代わりに、付近の仏教徒に工事を手伝わせることで大臣や各地の豪族とも話がついている。王からも許可は下りた」


「それで、なぜ俺たちのところに来た? ガルーダ軍の護衛がついてるってのに」


 女官がグプタに目配せする。グプタは彫刻の打ち合わせをしようと言って、別室へヴィシュヌを連れて行く。


 女官はスパルナと名乗った。兜を脱ぐと、長髪を観音菩薩のように結わえた美しい女性だった。褐色の肌はラーマに彼の母シーンを思い出させた。


「王からの許可は表面上のものだ。問題はクリシュナ派だ。やつらはもっと立派なヒンドゥーの寺院を作りたがっていて、あの手この手で妨害してくる。姫の身も危ない。何度も刺客が襲ってきた。賊の襲撃ということになっているがな」


「あんたはガルーダ軍なのに、クリシュナ派じゃないのか」


「防衛軍も一枚岩ではない。私もマタラム出身だが、わが一族はやつらとは昔から敵対している。私の父はガルーダに就任直後、訓練中に謎の事故死を遂げた」


「権力争いってのは、どこの国もおんなじやな」とスラビー。


 ラーマはボロブドールの図面を見て、何かをひらめく。港町で見た獅子や龍の像のように、この寺院は何かを模しているのではないかと思ったのだ。


「これは……曼陀羅?」


「いかにも」スパルナが言った。「創造の世界の金剛界と慈悲の世界の胎蔵界を表している」


「そうか……ここが胎蔵界……ガルバダートの入口なんだ」


 ラーマの言葉にスラビーがはっとした顔をする。


「かつての魔奈使いは式神を作るようにガルバダートを作った。ボロブドゥールはそのための依り代だ」


「でも、まだ完成してないじゃない」


「一度寺院を完成させて、ガルバダートを創造したあとに、完成しないよう歴史を書き換えて、よそ者が入って来られないよう扉を閉じたのさ。ガルバダートは時間を超越しているから、歴史が書き換わっても存在し続ける」


 マユラは理解できていないようで、むすっとした顔をする。


 スラビーは確信した顔をした。


「それが正解らしいわ、ラーマ。スラビーの記憶がよみがえった。あと、二十一世紀でも、ジャワのボロブドゥールは未完のまま。それを引き継いだという完成形は……ウルラガの首都ラーガプルにあった。ピラミッド型の王立図書館がまさにこの仏塔や。奈良の頭塔を見たときに思ったけど、あれも奈良時代の誰かがゲートとして作ったのかもしれんな」


「つまり……ヴィシュヌ王子を助けてボロブドゥールを完成させれば、生きたままガルバダートに行けるってわけだ」


「イグザクトリー。さすが広成と晴明の子孫どもだな。少し違うのは、ガルバダートへ直接行けるわけじゃなく、その入口にある崑崙城に入り込めるってことだけどな。ガルバダートを完全に開放するには崑崙王をなんとかしなけりゃならない」


 英語で言ったのはグプタだった。


「俺はネオバロン。コードネームはクンビーラだ」


「やっぱりな」とスラビーが食い気味に言った。


「ラーガプルでレオの刺客に殺された瞬間に先祖への転移が成功して、いまここにいる」


「その態度、どこかで見たと思ったわ」


「戻ったら、あの夜のつづきをしたいところだな」


 スラビーは顔をゆがめ、グプタは下卑た笑みをうかべる。


「どうせウルラガは消える。あんたも私も、戻っても肉体がないかもよ」


「それでも、ガルバダートを経由して書き換え後の世界に転生するしかないのさ。でなきゃ、このまま八世紀の世界で朽ち果てることになる。モニカ、凌太、おまえらもな」


「でも、完成させるのにはまだ何年もかかる」


「いや、工事がある程度起動にのって、完成するという未来が確定すればええんや。それだけで入口になりうる。強力な開錠の術式を使えばな。そこで青い王子、あんたの出番ってわけや」


「俺の?」


「あんたなら、寺院完成前でもきっと扉をこじ開けられる」


「そうか……解錠の呪符術――グルマウコウ」


 英語の会話にきょとんとしているスパルナ。


 マユラはいぶかし気な目でラーマたちのやりとりを見ていた。




 その夜、夢の中で凌太はラーマと会話をした。


 はじめてではなかった。ふたつの人格が精神崩壊せずに心を共有するために、互いが無意識にとった調整方法だった。


 決まって、そこは夜の海に揺れる船内で、二人きりだった。ふらふらと揺れるランプの炎が壁に貼られた不格好な形の古い世界地図を黄色く照らしている。


 ラーマは八世紀以降の歴史や、とりわけ科学や医術のことを知りたがった。好奇心で訊いているふりをしているが、理由はわかりきっていた。


 凌太は葛藤していた。青姫を救えないことはいつか告げなければならない。しかし、彼を突き動かしている動機がそれだとすれば、ここで話していいものだろうか。


 同時に、後ろめたさもあった。自分はナティを助けるため、ウルラガの脅威を消すためにラーマを利用している。彼にガネーシャを倒させるよう誘導している。レオや晴明となんら変わらない。


「青姫のことは、もうあきらめてるよ」


 とラーマは先回りするように言った。


「死んだ人間は生き返らない。俺はただ、あいつが見たがった未来がどんなものか知りたいだけさ」


 風でごうごうとうなる夜の海。不安を掻き立てる暗い闇を背景に、狭い船室はさながら命の最期の灯だった。


「そんなことより、なんとしても、崑崙城へ行くぞ」


 ごまかすようにラーマは話をそらした。


「なぜ、そうまでして戦ってくれる?」


 ラーマはほんの少し驚いた顔をした。そして、少し考えてから、言った。


「さあ。なんでだろうな。ただ、青姫ならそうすると思うんだよ」


 凌太は、彼のふるまいや青装束や青い王子という二つ名、絶対に捕まらない盗賊になった理由を理解した。

 

 あの夜からずっと、まだ追いかけ続けているのだ。安南の青姫を。




 夢の終わりはいつもはっきりしない。


 気付けば朝になっていて、凌太の意識を少し残しながら、ラーマは目を覚ます。夢の中での会話の記憶は薄れていくが、大事なことだけが胸に残っている。


 バロン・ガネーシャ、レオ・ヴィーラ、崑崙王。あるいは、安倍晴明も――。


 いつか倒すべき相手の名と、敵意だけがラーマの胸に碑文のように刻まれていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ