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巡礼の子  作者: 日根野 了太
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第二部 建国神話 5 聖地ナコーン・パトム ~ 8 聖地ロッブリー

 5 聖地ナコーン・パトム


 ヴィッキー・リー。


 ドラゴンジャーニーの現代編に登場する香港人で、ジーメイの姉。中国名は李小楊(リシャオヤン)。田口養年富や黄麻呂ら大陸に残った遣唐使の血を引いていて、姉弟でリュガ王国の密偵と戦っていた。


 そのキャラクターを名乗る人物が、いま、凌太の目の前にいる。


「簡単に言うと、私たちはウルラガ情報庁に殺された竜星の弔い合戦をやってるの。つまり、ドラゴンジャーニーでのビリーとの戦いがまだ続いてるってわけ」


「僕らはみんな、ウルラガが起こした歴史改変の被害者なんだ」とバイユ。「僕らはたまたま書き換え前の記憶があるけれど、多くの人は覚えていない。生まれてすらこなかったことになった人もいる」


 彼らこそがウルラガの密偵だと思っていた凌太は、バイユがパールパレスの管理人だったことをノートパソコンの画面で示したことで、ようやく彼らを信じた。


「隠れ家にしていたゲストハウスの宿帳に君の名を見つけてね。そのあと書き換えが起きて消えたけど、書き換え後もシンクロニシティでまた来るだろうと思って張ってたんだ」


「あんたが竜星の息子ってことに確証がなくて、みんなで探りを入れてたのよ」


「お、俺だって確証なんかないよ」


「いや、間違いない」車の外から窓をのぞきこんでロハスが言った。「先日、サンフランシスコで君のお母さんに会って確認したよ。木野竜星は君の父で、君が生まれる少し前に亡くなった」


 ちなみにダニエル・バーントウッドとは別れたそうだとロハスは付け加えた。


 凌太は訊きたいことがあふれるほどあったが、混乱して言葉にならない。代弁するように、ヴィッキーが言った。


「ナティのことだけど、彼女は私たちも探している」


「生きてるの?」


「わからない」ロハスが答えた。「ジョグジャカルタにも行ったけど、彼女の知り合いには会えなかった。別な国に生まれたのかもしれない。そもそも、彼女はもともとインドネシアに生まれてくるはずじゃなかったんだ」


「どういうこと?」


「書き換え前のナティはウルラガの皇女ナティラだった。国王の第一夫人の娘で、次期国王候補だったんだが、馬鹿が起こした大規模な歴史改変で血筋が代わり、七年の時間差を置いてインドネシアにナティ・シンハとして生まれてきた」


「ナティがあちこちで書き換えを起こしていることに私たちが慧眼で気づいて、ロハスに見張ってもらってたのよ。そしたら、竜星が住んでいたアパートにあんたがいた。あのアパートはもともと羊子さんの紹介でしょ。竜星もそのツテで住んでた。偶然じゃないわ」


「慧眼って……千里眼のこと?」


「近いけど、すこしちがう。慧眼は魔奈の流れを察知する能力。あんたが書き換えに気づくのも慧眼の一種。千里眼はもっと難度が高くて、過去未来をさかのぼって情報を送受信する能力。それを極秘で使っているのが、消えたナティラのかわりに次期国王になった現皇太子レオ・ヴィーラ。漫画家になったあともウルラガの書き換えを探っていた竜星はやつらに危険視されて殺されたってわけ。私たちも最近知ったことだけどね」


「やっぱり、ビリーに殺されたのか……」


「リュガのビリーは漫画版の呼称さ。現実じゃウルラガのネオバロン。情報庁所属の隠密だ。現隊長はキリクという元特殊部隊のレジェンド。隊員のコードネームはそれぞれの先祖であるバロン名で呼ばれる。ただの魔奈使いじゃなくて、先祖の力を召喚して各段に能力を高めている」


「ちなみに、ロハスも書き換え前はネオバロンだったのよ。バロン・マンデーだっけ?」


「誰が月曜日だ。ナンディだよ。牛のバロンだ。いまは、別のやつがナンディらしい。たぶん、遠い親戚だ。俺は四年前に書き換えで先祖がかわって、メルボルンで生まれたことになった。魔奈の力が残っていて、過去世の記憶を保持してたんだ」


「ナティがナティラだったのはなんでわかるの? ウルラガの記憶はなさそうだったけど」


「ジーメイの千里眼による情報よ。いまはそれしか言えない」


「ところで、モニカ……モニカ・サンダーは……あんたらの仲間?」


「いいや。彼女は謎だ。ナティに付きまとっていたからネオバロンかと思ったが、ちがうようだ。レオはナティの存在に気づいていないはずだしな」


「ウルラガの滞在歴があるから、なにか魂胆があるとは思うけど。ただの元スーパーモデルじゃないわ。今、探偵に身元を調べさせてる」


「どっちにしろ、彼女も行方不明。俺も、書き換え前の吉祥寺で会ったきりだ。でも、彼女を見つければ、ナティも見つかるかもな」


「ナティを見つけてどうするの?あんたらの狙いは?」


「歴史を元に戻す。ナティやあんたにもトゥミやキキに情報を送るのを手伝ってほしいの」


「つまり……歴史を改変して竜星を殺したウルラガを歴史から消すってことか」


「飲み込みが早いわね。ナティがⅮJ2にアクセスしたとたんに、また大きな書き換えが起きたの。きっと、漫画の内容を見て、過去の誰かに情報を送ったのよ」


「じゃあ、つづきは移動しながら」と言って、ロハスはバイクにまたがった。


 無口なリーロンが車を発進させる。緑色の景色がまた車窓に流れ出す。


「DJ2を描いているのは?」


 凌太はとなりでノートパソコンを操作するバイユに訊いた。


「ジーメイだよ。ある場所に潜伏しながら、夢で見た過去の事実を漫画にしている。つまり、あれは正真正銘の史実。つづきはジーメイさえもわからない。見えたらその都度結果を描く。いまも、歴史改変合戦が八世紀で行われているんだ。みんなの先祖の行動が漫画になる。多数に読ませることでその歴史の確定性を強める効果がある」


「漫画そのものが巡礼の印になって、存在可能性を高めるってことか」


「そういうこと。歴史改変合戦の発端は、ご存じのとおり、エフタル結社が古代のエフタル王に送った情報だ。歴史が混乱し、後の世の陰陽師がその犯人が生まれる前に過去改変を阻止した。けれど、その策謀のなかで、平群広成が千里眼に目覚め、さらに歴史が狂い、ウルラガ建国という存在しないはずの歴史が出来てしまった」


「じゃあ、今回も敵より前の時代にさかのぼって情報を送ればいいってことじゃ?」


「そう簡単にいかないのよ」


 ヴィッキーが言った。


「誰かが改変を起こしたあと、すぐに対処しなければ、歴史の確定性が強まって、それ以前の時代への干渉が難しくなる。それに、一度、ある特定の先祖とのつながりができた時点より前にはさかのぼれない。ほら、竜星が夢で見てた平群広成の人生って、時系列を追っていたでしょ」


「ゲームで言えば、一定時間ごとのオートセーブ機能だよ。セーブされた時点以前からはやり直せない。ジーメイの漫画はそのセーブ機能も果たしてる。閲覧数が360を超えると確定性が大幅に増すんだ」


「でも、こっちに不利な結果の場合は?」


「漫画で多数に見せるのはそのためでもあるのよ。ジーメイは主にキキの体験を描いてる。あの時代の私たちの先祖で千里眼の能力がいちばん強いのが彼女なの。でも、トゥミとラーマの視点も断片的に入ってくる。のちに彼らも先祖のひとりになる可能性があるから」


「可能性……? ジーメイや俺たちの過去は確定しているでしょ?」


「そこが魔奈のおもしろいところでさ。魔奈による書き換えを観測できる僕らにとっては、過去すらも一定ではないんだ。諸行無常っていうでしょ」


「ウルラガの建国については、キキの行動よりも、トゥミと彼が持つ海龍剣が大事。漫画を読んだ会員のなかに魔奈の素養のある人、あるいはトゥミたちの子孫がいれば、危機を伝えて死を回避させられる。それぞれに能力に自覚がないほど魔奈が弱くても、複数の人間が、危ないっ! て思えば、それが漫画の中のトゥミたちに伝わるわけよ」


「漫画のキャラが行動を変えるってこと?」


「そう。私もキキの行動を何度か変えたわ」


「そうか、第二話の結末が書き換わったのは、トゥミが未来予知をしたのか」


「え、あれ、やっぱりそうだったの?」


「うん、俺が最初読んだときは、バロン・ガネーシャにやられてた」


「あんたの声が救ったのかもね。トゥミの死にたくないって感情とあんたの死なせたくないって気持ちがシンクロすれば、そういう奇跡が起きるのよ。千里眼の正体ってつまり、そういうことなの。しかし、バイユ、あんた、慧眼弱いわね。ほんとに書き換え前の記憶あるの?」


「あるさ、なんたって、日本のセレブだったんだ。日本語ぺらぺらなのがその証拠さ」


「でもさ、ネオバロンとか敵の誰かが漫画を読んだら、逆も起こりうるんだよね。バロンが危機を察知するでしょ」


「そういうときは、アクセスを一定数に制限して確定を遅らせるのよ。いい結果になったら、限定会員全員に開放する」


「いい結果にならなかったら?」


「公開を止める。まだそうなったことはないけど私がキキを本格的にアバターとして操作して火消しをさせる。キキとトゥミが別行動なのは偶然だけどリスク分散にもなってるわ」


「もし第二話みたいな書き換えが起きたら、それを起こした会員を特定して仲間にする。いま、そのアクセス記録を解析しているところさ」


「ナティも書き換えを起こしたんだね」


 凌太の言葉に、一堂は顔を曇らせた。


「そうよ。彼女が最後の書き換えを起こしたのは、彼女がパールパレスにはじめてアクセスした直後だった。きっと、漫画を読んでトゥミとキキを死の運命から救った。自信の存在が書き換わるほどの大きな歴史的改変だったのかもしれないわね」


「すまなかった、凌太。彼女の存在そのものを見失うとは思ってなかった。甘かったよ」

「いいさ、もしかしたら、その書き換えが、逆に彼女を救ったのかもしれない。どこかで生きていると思うんだ」


 車は市街地へ入った。交通量が増え、広告看板が多くなっていく。


「ところで、ラーマって何者なんだろう? 幻人の呪符術を使う安南の海賊……」


「漫画を読み進めれば、いずれわかるわ」


「それで、これからどこへ?」


「ナコーン・パトム。ツアーに申し込んだでしょ」


「本物のツアー車が来る前に俺をだまして乗せたんでしょ」


「そうだけど、ナコーン・パトムは巡礼してもらうわ。あんたや私たちの誰かが無意識に先祖に印を送っているかもしれない。ジーメイがキキに残させたものでもいい。それを見つければ、かなり有利になる」


「ところで、パールパレスはほかに何人いるの?」


「正式メンバーは僕たちとジーメイだけだよ。それに、パールパレスはサイトの名前」


「私たちは〈ネオランダ〉。バロンの新たな敵って意味よ」






 挿絵(By みてみん)




「そういえば、漫画だと、港が近かったけどな」


 南の方角を見渡しても、海は見えない。ずっと先のようだ。


「当時の海岸線はこの近くだったんだよ。河川が運んでくる土砂が堆積して、陸が隆起するまでは、バンコクもアユタヤも海の底だったんだ」


 凌太とバイユはナーガの装飾が施された欄干のついた幅広の石段を上った。階段を昇り切ると、石造りの厨子があり、金ぴかの大仏が祀られていた。そこから左右に向かって境内がつづく。


 その先にある円形の回廊に囲まれた黄色い仏塔は、釣鐘状の形をしていて、てっぺんのアイスのコーンのような尖塔の突端までの高さは120.45メートル。直径は65メートル。世界一の高さを誇り、その建立はインドのアショーカ王が4世紀に布教のために作らせたといわれる。その後ビルマやクメールの支配を受け、支配者が代わるたびに改修が重ねられ、今の大きさと形になった。


 祭壇が設けられた参拝所で、人々が座ってお祈りしていた。香炉に線香を立てるのは日本と同じだが、蓮の花をささげるのがタイ式だ。


 参拝客や屋台の売り子、黄色い袈裟を着た裸足の僧たちが行きかい、朝から活気にあふれている。二頭一組の獅子や象の狛犬があちこちにあり、小階段をいくつも昇って仏塔に近づいていく。


 塔を守る回廊の壁には、数歩おきに窓のようなくぼみがあって、そこに仏像が設置されていた。回廊を通り抜け、仏塔の近くまでくると、その迫力に圧倒された。


「日本の寺とは方向性が違うよなあ」


「仏教と言っても、上座部とか密教とか、いろいろあるからね」


 とバイユがあちこち写真を撮っている。印を探しているのだ。


 ヴィッキーはアルファベットで「VICKEY」、ジーメイは「G‐MAY」と刻むよう念じているという。


「前にそれで成功したんだ。ほら、DJで呪符の裏や剣に名前が書かれているのがあったでしょ。凌太君もなにか決めて、常日頃から念じてれば先祖に伝わるはず」


 先祖と言っても、広成は行方不明。『ドラゴンジャーニー2』には出てこない。


「そういえば、さっきの石段のナーガ、チチェンイツァのククルカンに似ていた」


「なにそれ?」


「マヤのピラミッドだよ。最下段に羽毛の生えたククルカンという蛇の頭があって、春分と秋分の日暮れに胴体が石段の影となって浮かび上がるんだ」


「へえ、詳しいね」


「漫画描くときに、いろいろ調べるからね」


「え、君、漫画描くの?」


「あ、いや、まあ、友達が描いててその手伝いでさ……ナーガっていえば、蛇はアジアでは豊穣の神だね」


「そうそう。もともと土着民の信仰対象だったのが、仏教が布教の過程で守り神に取り込んだ。バロンもそうかもしれないね」


 凌太もバロンについては調べていた。日本や中国の獅子舞と起源を同じくするというバリ島のバロンダンスは、古代インドネシアに訪れた仏教僧が伝えたものと言われる。舞踏で演じられるのは、神獣バロンと魔女ランダの戦いの物語だ。


 バロンが森の聖なる力である良気バナス・パティを体現した姿であるのに対し、ランダとは、「寡婦」という意味で、亡き夫のあとを追って死に切れなかった魔女のことだ。


 おとぎ話によると、魔女という理由で大陸の王様から娘の輿入れを拒否されたランダが殺戮の女神ドゥルガーをその身に召喚し、屍の兵を率いて戦を仕掛けた。対抗した大陸の高僧は神獣バロンに変化して戦った。高僧は、彼の息子にランダの娘をたぶらかさせ、魔術の本を盗ませていた。高僧はランダと同じ不死の術を会得し、両者は死んでも何度も復活し、永劫に戦いつづけるという。


 バロンとランダは表裏一体と言われる。陰と陽であり、光と影だ。どちらが欠けても世界の均衡が崩れる。『ドラゴンジャーニー』ではバロンが正義の仮面をかぶった悪のように描かれている。仮面の下には憎悪の権化であるランダが隠れている。


「正義の仮面……か」


 凌太は昨日の飲み会のメンバー、リリィのことを思い出す。英語と韓国語、日本語も少し話せる謎めいた美女だった。店を出た凌太を追ってきて、二人で飲もうと路地裏に連れ込もうとしてきた。ショートヘアの黒髪と褐色の肌で、美しい顔は仮面のようだった。美人局だと思い、必死で逃げた。


「バイユ、昨日のリリィって女の人……本人はシンガポール人って言ってたけど、あの人……まさかネオランダじゃ」


「リリィ?」バイユはきょとんとした。「誰それ?」


 凌太はリリィの特徴や会話を説明するが、バイユの言うことと嚙み合わない。


 凌太ははっとする。


 書き換えだ。バイユが覚えていないということは、昨日、彼女とは会わなかったことになったのだ。


「書き換え……だとすれば、リリィが起こしたのかな」


「君の拉致に失敗したからミスを帳消しにしたってこと? まさか」


 仏塔では印らしきものは見つからなかった。


 境内へ出ると、ベンチでヴィッキーが不機嫌な様子で待っていた。


「収穫なしね」


「そもそも、この仏塔なのかな?」


 凌太は黄金色に輝く巨大仏塔を振り返る。ラーマが見た地味な仏塔とはえらい違いだ。


「バイユ、このへんの地図開ける?」


「え、ああ」


 バイユはベンチに座ってパソコンを開き、ナコーン・パトムの地図を表示する。


 幅三、四キロくらいのエリアを楕円形の水路がぐるりと囲んでいる。環濠の外の北西のあたりに、現在地のプラ・パトム・チェディがあり、正方形の水路で囲まれている。


「宝剣を納めた仏塔は町の真ん中、新しい仏塔や僧院は町はずれってキキが言ってた。当時は、今いるこのへんが町はずれだったってことはない?」


「たしかに、こっちの環濠に囲まれたほうがもともとの旧市街で、このあたりは町を増築して水路を延長したのかもしれないわね」


「あ、環濠の真ん中にも、古そうな寺があるよ」


「行ってみようか」


 リーロンの待つ駐車場に戻る途中、屋台でかき氷のようなものを食べていたロハスをヴィッキーが見つけ、移動するよと言った。


「あ、うまそう、フッチュー。あとで食べよう」とバイユ。


「有名なの?」


「福州って意味で、華僑がもたらしたお菓子だよ」


「漫画のとおり、世界中の食が集まってたんだな」


「夜になると、ここにバンコク以上の巨大な屋台街ができるんだよ」


「あんたら、遊びに来たんじゃないんだよ」


「はいはい、僕らは聖地巡礼者。観光客じゃないですよ」


 リーロンがまた無言でハンドルをにぎり、ロハスがバイクで並走した。


 わずか数分でついたその寺は、低い塀に囲まれた公園のような場所で、茶色いレンガの土台の上に白い仏塔が建っていた。人気はなく、静かだった。


 凌太は難波宮跡に似た雰囲気を感じた。プラ・パトム・チェディにスターの座を奪われたが、もともとはこっちが本尊だったのではないかと直感した。


 リーロンは車で待機し、ロハスは寺院のまわりの様子を探りに行った。凌太はヴィッキーとバイユとともに寺の敷地内に入った。


 境内には、小さな鐘楼があり、賽銭用の托鉢が露天に並べられていた。仏塔前の祭壇に金色の仏像があり、花やフルーツが供えられていた。静かな中で祈りをささげている人がちらほらといた。


 仏塔の土台はチチェンイツアのピラミッドのような階段状で、ところどころ崩れた赤黒いレンガが年月を感じさせた。


「正方形の土台はまさにドヴァーラヴァティ様式ね。プラ・パトム・チェディは丸い尖塔のビルマ様式だった」


「あの上の白い仏塔は後の時代のものっぽいけど、土台はかなり古いね」


「ドヴァーラヴァティ時代の銀貨がここで発見されたそうだよ」とバイユがネットで調べながら言った。


「それだ。ラーマが見つけた番兵の死体のそばにも銀貨が落ちていた」


「間違いないわ。プラ・パトム・チェディと同時期の寺院なら、こっちのほうが漫画の感じに近いしね。ここが、海龍剣が奉納されていた寺よ」


「あのガジュマルとか、漫画のと似てるね」


 凌太はガジュマルの木に近づき、根とも幹ともつかない茎がいくつも束ねられた幹肌を触った。ぐるりと一周まわって見たが、印らしきものはどこにも見つからなかった。


「ないな。もっと後の時代に生えたものなのかな――」


 振り返ると、ヴィッキーとバイユの姿はなかった。遠くの仏塔の前の祭壇で祈っていた女性が倒れているのが見えた。

「なんだ?」


 引き返し、祭壇のほうへ近づくと、木陰にバイユが倒れていた。


「おい、どうした!」


 バイユは苦しそうにうめいている。


「パソコン……とられた……」


 さらに先を見ると、仏塔の陰に気絶したヴィッキーの両脇を抱えて引きずっていく人影が見えた。


「ヴィッキー!」


 凌太は走って追った。敵は振り返り、立ち止まった。


 リリィだった。


 ――やっぱり、あいつがネオバロン……!


 彼女は凌太のほうをまっすぐに見て、口を開けた。何かを叫んでいるようだが、なにも聞こえない。

 突然、めまいが起き、体がバランスを保てなくなった。


 凌太は地面に倒れる。パソコンを抱えたリリィが再びヴィッキーを引きずっていくのが見えた。


 ――バロン・ティティーラの能力か?


 足音が聞こえた。だっだっだっだっだっだ……。


 いつか聞いたことのあるリズムだ。書き換えのあと、似たようなことが起きるというのをドラゴンジャーニーのなかでジーメイが言っていた。シンクロニシティという現象だ。


 だっだっだっだっだ――。


 井の頭公園でベビーカーに向かって走っていくモニカの姿が浮かんだ。


 それがまた目の前で起きている。


 モニカが走りこんできて、キキを彷彿とさせる鋭い回し蹴りをリリィにむかって放った。リリィはヴィッキーを放してキキの攻撃をかわすと、柵を飛び越え、見えなくなった。


「モニカ!」


 モニカはヴィッキーの様子を確認し、なにかを彼女の顔に乗せると、凌太に追いつかれる前にまた走り出した。


「待って、モニカ!」


 モニカは振り返らないまま藪に姿を消した。凌太の声はむなしくひびいた。


「凌太、大丈夫か?」


 ロハスが遅れてやってきた。


「お、俺よりも、ヴィッキーと、バイユのパソコンが……」


 ヴィッキーが起き上がって、こちらにふらふらと歩いてきた。彼女が青い札を凌太の額に当てると、たちまちめまいがやみ、楽になった。


「え……これは」


 凌太は体を起こし、札を見る。青黒い文字で「索健拜卡」と書かれていた。


「ソウケンバイカ……病魔払いの呪符。モニカが置いていったわ」


 倒れたときに頭を打ったバイユを車で休ませ、ロハスとリーロンがあたりを探ったが、リリィもモニカもすでにいなかった。


「まずいな、パールパレスのデータを奪われたら」


「さっきのは超音波。バロン・ティティーラの能力ね」


「こういうときこそ改変が使えたら……印を今から残せないかな。」


「遅いよ。キキもトゥミも、もうナコーン・パトムにいない」


「ヴィッキー、キキの行動を変えたって言ってたよね?」


 ヴィッキーは凌太の問いに足を止める。突然、何かを思い出したかのように、仏塔にとって返し、階段を昇りはじめた。


 凌太が息を切らしながらようやく頂上へたどり着くと、ヴィッキーが白い仏塔の根元の赤レンガの床になにかを見つけたようで、じっと見つめている。


 そこには床がえぐられたあとがあった。


「これは……キキの矢のあと!」ヴィッキーはしゃがんで、その箇所を触る。「私がキキに話しかけて、狙いを外させたの。これがここで見つかるなんて」


 ふおん、と空間が歪み、まためまいのような感覚があった。


 ――。


 気づけば、凌太は仏塔の階段の下に立っていた。


 パソコンを持ったバイユと、ヴィッキーがいて、ロハスがいた。


 書き換わった過去の記憶がどっと流れ込んでくる。


 ヴィッキーが「耳ふさいで!」と叫んだ。


 直後、走りこんできたモニカが、リリィに蹴りかかる。


 リリィはそれをかわし、藪の中に消えた。それを追うモニカは一瞬振り返り、凌太のほうをちらりと見た。その目は、ラーマが夜のナコーン・パトムで対峙したバロン・ガネーシャのそれに似ていた。




 ライトアップされた巨大な仏塔が町を見下ろしている。


 見下ろしているように見えるのは、塔の中央には小さな一つ目が描かれているからだ。


 それがフリーメイソンのマークのようだと凌太が言うと、


「そりゃそうだ。同じ意味だもん」とバイユは言った。


「あの仏眼は、仏様はいつでもおまえたちの行いを見てるぞ、という意味。フリーメイソンのマークにあるピラミッドに描かれたホルスの目も、万物を見通す目さ」


「まさに、どっちも千里眼だね」


「情報を制する者がこの世を支配するってことよ」


 コンクリートの広場の上はひしめく屋台の鍋から上がる香ばしい煙に覆われていた。無数の原付が停まり、家族連れでにぎわっている。


 凌太たちが囲む露天のテーブルには、揚げ物や炒め者などの屋台料理が並んでいる。バイユが買ってきた超音波対策の耳栓も人数分あった。


 屋台街の酒飲みたちにとって、プラ・パトム・チェディはもはや酒の肴でしかなかった。


 凌太は酔っ払い炒め(パットキーマオ)の辛さと格闘していた。海老と豚肉と太麺のハーブ炒めは美味いが、唐辛子がそれを凌駕していた。辛くしないでくれと言うべきだったと後悔した。


 うまそうに貝の卵とじ炒め(ホイトート)を食べているロハス。フッチューを食べるバイユ。レオビールを飲むヴィッキー。リーロンは無言で煙草を吸って行きかう屋台の客を眺めている。


「食うか、バイユ」とロハスがバイユにホイトートを勧めるが、彼は「油物は気分じゃない。うまそうだけどさ」


「言ってることが矛盾してるぞ」


 凌太はモニカのことを考えていた。日本では会わなかったことになったのだから、昼間の邂逅は初対面ということになる。けれど、彼女は自分のことを知っているふうだった。ナティの枕元に置いた呪符といい、昼間の行動といい、彼女は何者で、何が目的なのか。


 吉祥寺や奈良や難波で見せた天真爛漫なキャラクターは偽りだったのだろうか。


「データは守ったな。けど、書き換え前の現実で、漫画を見られたかもしれない」


 ロハスが言った。


「いいわ。いずれバレる。それより、名前の刻印ほどの効果はなかったけど、印が見つかったのは大きいね。これで、キキが生き残って子孫を残す可能性がまた高まったわ」


「シュワンとの子だったら、ヴィッキーはシャルカールの能力を得られるかもね」


 バイユが言った。


「それはキキが気の毒。回復技が使えると便利だけどね」


「しかし、先祖かどうかというのが確定していないってのは、いまだに信じられない。量子論じゃ観測するまで事象は確定しないっていうけど、先祖にもそれが当てはまるなんて」


「千年を超えると、そうなるんだよ」バイユが答えた。「その間に先祖は数千人、下手すりゃ何万人もいるわけで、一人や二人変わったって、シンクロニシティの効果で生まれてくる人間に大きく影響しない。もちろん、大きく影響する人物もいるけどね。魔奈の使い手とか。一族の当主とか有名人とかは影響力が大きいんだ」


「だったら、ラーマとキキをくっつけて、ラーマが先祖というのを確定させればいいんじゃない? ラーマを操作できれば有利だよね」


「実はそういうことなのよ」


 ヴィッキーが言った。半分冗談のつもりで言った凌太は拍子抜けした。


「これは古代世界のアバターを使った恋愛ゲームでもあんのよ、まじめな話。そもそも、ナティラがナティになったのも、レオが先祖を使って、ある男女の仲を引き裂いたせいのようなのよ。もともとは、ナギと養年富の共通子孫が生まれるはずだった」


 凌太は思い出す。『ドラゴンジャーニ―』の作中で、ナギは宝剣ヴェルーリヤの刀身に刻まれた「NAGI」というアルファベットの文字を見つける。それは、子孫のヴィッキーがナギにつけさせたものだった。


「トゥミがナギの子と結婚するか、あるいは彼らの子どうしが結ばれるはずだった」


「ナギの子というと、つまり広成の子?」


「それはわからない。とにかく、ナギの血筋と養年富の血筋はレオが先祖を使った歴史改変のせいで混ざらなくなったの。そして、ナティラからナティへの書き換えが起きた」


「レオの先祖って……」


「凌太君はウルラガの『建国神話』ってアニメ観た? あれはレオが作らせた映画なんだ」


「見たよ……あ、主人公の剣士!」


「初代王ヴァルナ。戦災孤児ということで出自は不明だけど、おそらくバロンの誰かだ」


 凌太の脳裏に、ラーマやキキを戦慄させた不気味な碧眼が浮かんだ。


「バロン・ガネーシャ……」


「おそらくね。やつは海龍剣を狙っていた。ほかのバロンとは目的が違うようだし」


「私の見立てでは……ウルラガは、広成、養年富、ナギの共通子孫が、のちに姻戚関係になる家臣のひとりのヴァルナの協力で建国したけれど、レオがナティラの一族を消したために、ウルラガの発生条件にヒビが入った。それで、帳尻合わせのために、先祖のヴァルナにキーアイテムの海龍剣を持たせてウルラガを建国させようとしてるのよ」


「ヴァルナは……あの見た目からして、シュヴェータの息子とか」


「ありうる。シュヴェータにはナギ以外にも妾がたくさんいた。ヴァルナは父シュヴェータの死後、復讐に燃えていたところをバロンの一味に拾われ、ガネーシャになった、ってとこじゃないかな」

「あ、第四話がアップされてるぞ!」


 バイユがテーブルに開いたパソコンを見て言った。


 一同は画面を覗き込む。


 ラーマとトゥミが二人で無人島に漂着するシーンだった。



【第四話 月と蝙蝠】


 トゥミは穏やかな波音のなかで目を覚ました。体中、砂だらけだった。そこは砂浜の椰子の木陰で、すぐそこで波がしゅわしゅわと泡を立てている。背後は藪があり、椰子の林があった。地形からして島のようだ。


 記憶はおぼろげだが、波にのまれて流され、溺れそうになったところをラーマに助けられ、浜まで引き上げられた。そのまま、力尽きて寝てしまった。


「そ、そうだ、剣!」


 半身を起こすと、海龍剣が鞘ごと砂に突き刺さっているのが見えた。その上にトゥミの丸帽子がかけてある。


 トゥミは岩陰に人が倒れているのを見つけた。這うようにして立ち上がり、近づくと、それは船にいた兵士だった。一目で死んでいるとわかった。片足の膝から下がなかった。


「あ……ああ……」


 トゥミは膝から崩れ落ちた。


「礼を言っとけ。そいつがいなきゃ、俺たちが鮫に食われていた」


 上半身のはだけたラーマが現れた。死んだ兵士の物だったと思しき剣を腰に下げている。


 彼は右手に平べったい魚、左手に大きな海老を持っていた。岩に腰かけると、ズボンのポケットから小刀を取り出した。器用に魚のうろこをとり、火打石で火を起こした。


「……ジュターユは……?」


「さあな。みんな船に残って戦ってた。俺たちを逃がすためにな」


 ラーマが魚を食べている間、トゥミは砂を堀り、二人を埋めた。


 あたりは薄暗くなりはじめていた。空には海鳥が群をなして旋回している。


 トゥミはなぜだか、ナコーン:パトムの市場で見たバロンの少女のことを思い出していた。


 あの美貌で、若さで、なぜ彼女が暗殺集団などに属しているのか。できることなら、もう一度会って話がしてみたいと思った。


「ほら、おまえの分だ」


 ラーマが木の枝に刺した焼き海老を差し出した。


「食べる気分じゃない」


「食える時に食っとかないと死ぬぞ。これだから坊ちゃん育ちは」


 トゥミはラーマを睨んだ。


「……ロタ島という島に海軍の基地があって、十分な食料もある。そこへ行けば、ジュターユとも合流できるかもしれない」


「ジュターユは死んだよ。甲板でバロンのおっさんに斬られるのが見えた」


「なっ、さっきはそんなこと……!」


「言うとおまえがますます食欲をなくすと思ってな」


 トゥミは怒りとも悲しみともとれない思いがこみ上げ、砂を握りしめた。


「くそっ……父様だけでなく、ジュターユも……もうだめだ……」


「ははははは」


 ラーマは笑った。


「何がおかしい」


「やっぱりおまえ、揚州どころか、安南までだって行けねえよ。そんなんで大使なんて、笑わせるな。なにが遣唐使だ」


 涙目でにらみつけるトゥミの胸倉を、ラーマはつかんだ。


「俺はナコーン・パトムに来るまでに仲間を全員失った。海を越えるってのはそういうことなんだよ。嵐もあれば海賊も出る。さっきみたいに船が沈んだこともある」


 ラーマに怒鳴られ、トゥミはとつぜん喉が苦しくなった。手をついてうずくまる。


「ほら、さっさと海老食え。おまえを兵隊に預けるまでは面倒みてやるよ」


 ごほごほ、といつまでも咳き込むトゥミを見てラーマはさすがに様子が変だと困惑した。


「け……剣を……」


 トゥミの指すままに、ラーマが海龍剣をとってきてトゥミに渡す。すると、とたんにトゥミの喘息は治り、落ち着きを取り戻した。


「魔奈の力か。ますますお前のもんになっちまったな。その剣」


 夕日が空と海を劇的に赤く染めていた。


「ここもけっこう大きい島みたいだが、そのロタって島はここじゃないのか」


「違う。僕も一度行ったが、岩だらけの、もっと小さい島だった」


 そのとき、トゥミの脳裏に、暗闇に紛れて襲ってくるバロンの姿が浮かんだ。


「……いる。敵がちかくに……」


「わかるのか?」


「むこうは暗闇でもこっちの位置がわかる。あれは蝙蝠(ティティーラ)のバロン。聞こえない音を発して、その反射で位置を探っているんだ」


「なんだそれ」


「あの音は幻覚も見せる。脳を破壊するんだ。船でみんなが正気を失ったとき、僕らは船室にいたから被害を受けなかった」


「聞こえない音って、意味がわからねえ。聞こえなきゃ平気だろう」


「聞こえないけど耳には入っている。超音波というんだ」


「超音波……聞いたことない言葉だ。それも千里眼で知ったのか」


「たぶん……どうやら心の奥底で未来の誰かとつながっているみたいだ」


 太陽はみるみる水平線に沈んでいく。断末魔のような過剰な赤が空を染める。


 背後の空は深い紺色の闇に包まれている。


 敵の気配が近づいてくる。


「なあ、ラーマ、ここを切り抜けたら唐まで一緒に行ってくれ」


「おまえの活躍次第だ」


 太陽が沈み切り、トワイライトがあたりを包む。光が空全体から降り注ぎ、あらゆるものの影がなくなる。


 逢魔が時――魔物が現れる時刻だ。


「すぐそこまで来ている!」


 二人は藪から離れ、波打ち際まで逃げた。潮が満ちてきていて、逃げ場は少ない。黒い波に足もとを撫でられる。


 ラーマは剣を構える。トゥミも海龍剣を鞘から抜いてへっぴり腰で構えた。


「暗くなったらまずい。いっそ泳いで逃げよう」


「いや……逃げてもいつか追いつかれる。夜になれば寝首をかかれる。敵が一人のうちに、迎え撃ってここで仕留めるぞ」


「か、勝てるのか?」


「勝つしかないだろ!」


 そのとき、トゥミは足首を誰かにつかまれた。


「ひっ!」


 見ると、波打ち際の波の下から手が出てきて、トゥミの足をつかんでいた。トゥミは波の中で尻もちをつく。


「ひ、ひいいい!」


「どうした?!」


 それは砂の中からずぶずぶと這い出してきて、やがて頭を出す。


 出てきたのは、さっき砂に埋めた血まみれの兵士だった。斬り刻まれた顔面からどろどろと血が噴き出している。口から大量のフナムシを吐き出し、なぜ俺を砂に埋めたのだと叫びながら迫って来た。


「うわ、うわああああ!」


 さらに、水中から無数の青い手が出てきて、トゥミを引きずりこもうとした。


 ジュターユやその部下たち、そしてバロンに殺された級友たちの声がした。


 ――俺たちを残しておまえは海の向こうに逃げるのか。


「はなせ、はなせー!」


 幻覚だ! しっかりしろ! というラーマの声が遠くなっていく。


 海龍剣をやみくもに振り回し、幽霊たちを斬ろうとするが、刃は空を切るばかりだった。


「トゥミ、耳をふさげ!」


 ようやくラーマの声が届き、トゥミは耳をふさぐ。


 あたりはすでに闇に包まれている。潮が満ち、砂浜の半分は海に沈んでいる。


 夜の海は、まるで背後に待ち受ける死の世界のようだった。


 ラーマは耳をふさぎながら、近づいてくる敵の気配をさぐる。


「くそ、両手で耳をふさいだままで、どうやって戦えってんだよ……」


 しかも呪符がない。海にすべて落としてしまった。


 トゥミは波の中に座り込んで、耳を押さえて震えている。死の恐怖の虜となっている。連れて逃げるのは困難だ。


 ラーマは闇に眼を凝らす。藪のなかからぬらりと出てきて、砂の上を歩き、こちらに超音波を送っている敵の姿をかすかにとらえる。


 わずかな月明かりがバロン・ティティーラの手元を一瞬光らせた。何かを持っている。


 石弓だった。それはトゥミのほうへ向けられていた。


「うあわあああ!」


 ラーマはわざと声を上げながら砂を蹴り、ティティーラに向かって突進した。


 石弓がラーマに向けられる。放たれた矢は頬をかすめる、相手が次の矢をつがえる前に、一か八かの大技を繰り出す。


偃月(ユェンユェー)!」


 相手の脚を狙った右から左への水平斬りは空を切った。ティティーラは一歩後退して攻撃をかわし、超音波を発する。これが狙いだったとばかりに、大口を開け、聞こえない声で叫ぶ。


 ラーマは剣を振り回し、あさっての方向へ攻撃する。


 わあわあとわめきながら、幻影を斬り、ひとりで暴れる。やがて足がもつれ、濡れた砂の上にあおむけに転がった。


 ようやく我に返ったトゥミがうつろな目でラーマを見たとき、青い王子は獣の断末魔のようなうなり声をあげ、けいれんしていた。


 バロンがラーマに近づく。刃で確実にとどめを刺そうと、倒れたラーマの胸を狙う。


 バロンが刃を突き下ろしたときだった。


 ラーマは突然腕をついて半身を起こし、小刀でバロンの胸を刺した。


 白髪の暗殺者は完全に意表を突かれた。刃は深く刺さり、血が噴き出す。


「がはぁああ!」


 起き上がったラーマの両の耳から、白い粒のようなものが落ちる。


「海老の身が耳栓になるなんてな」


 胸から大量出血したバロンは、がはっと血を吐くと、後ずさった。


 ラーマはすかさず回し蹴りを放つ。顔面を蹴られた小柄なバロン・ティティーラは砂の上を数回転がり、トゥミの近くにごろりとあおむけになった。胸の傷は深いようで、血が止まらない。傷を手で押さえ、ぐったりしている。


「トゥミ、とどめを刺せ!」


 トゥミは海龍剣を振り上げるが、そのまま固まってしまった。人を殺したことなどないし、殺す覚悟もない。


 躊躇している中、仮面に穿たれた穴からこちらを見るティティーラと目が合ったそのとき、トゥミの脳裏にある光景が浮かんだ。


 ――水色の海原と白砂に囲まれた島――。


 足裏に刺す灼けた砂の感触。肩に担いだ漁網の重さ。


 となりを歩く漁師が、自分を「ガダラ」と呼ぶ。


 ――これは、このバロンの記憶か――?


 椰子の隙間に並ぶ高床式の家屋。子や孫が群がってきて、唐風の繊細な模様の鞠を見せびらかす。


 それをどうしたのかと聞くと、子供たちはあの女の人がくれたと指差した。


 椰子の木陰に背の高い金髪の女が立っていた。


 ガダラは裏の芋畑でバロン・スラビーと二人で話す。


 はじめに、「ティティーラと呼ぶな」と釘を指し、どうしてここがわかったのか訊くと、スラビーは、「ガネーシャの千里眼が目覚めた」と言った。


 要件はわかっていた。案の定、バロンへの復帰勧誘だった。


 ガダラは断る。先代の頭目が死んだときに、自分の役目も終わったのだ、と。


 スラビーは無理強いする気はない、と言って、あっさりと引き下がる。


 ガダラはスラビーと彼女を島に運んできた船員たちを家に招き入れ、王都パレンバンにいたころの友人だから、丁重にもてなせと妻と娘たちに言いつける。


 スラビーと四人の船員は、蒸した魚や豚肉を食べ、椰子酒を飲む。隣人とその息子たちも飲んで騒ぐ。スラビーは娘や孫たちと寝床をともにし、ジャワやスマトラにある都の話を聞かせる。すこし見ないうちに彼女がずいぶん社交的になったとガダラは感心する。


 次の朝早く、スラビーの一行は手を振る子供たちに見送られながら、船首に色彩豊かな布がいくつも巻かれた小さな帆掛け船で島を去る。


 あくる日、両手を縛られたスラビーと船員の一人が二隻の海賊船とともに島に戻ってくる。ほかの仲間は殺され、スラビーは部下を人質にとられて投降したのだろうとガダラは思った。


 海賊たちは二十人ぐらいで、みな武器を持っていた。怯える村長に命じて五十人ばかりの島民を一か所に集めさせた。そして、船につめるだけの食料と年頃の娘を差し出せば、月に一度のみかじめ料だけで勘弁すると言ってきた。


 年老いた村長がガダラに末娘を行かせるよう言う。移住者のガダラを島に受け入れた恩をきっと返してくれるだろうという期待でいっぱいの顔だ。


 泣きわめく末娘を海賊は無理やり連れて行こうとする。慈悲を求めたガダラと妻は海賊にこん棒で殴られ、砂の上で取り押さえられる。


 娘を担ぐ海賊に男の子が飛びかかる。娘と仲の良い隣人の子だった。少年は蹴とばされ、止めに入った彼の父とともに、砂の上で斬り捨てられる。


 ガダラが声にならない声で叫んだとき、海賊たちの動きが一瞬止まった。


 ガダラは、海賊から剣を奪って少年たちを斬った男の首を撥ねると、なだれかかってくる海賊たちを斬り殺していった。


 乱戦のなか、逃げまどう島民たち。あわてた海賊は無差別に島民を斬りはじめる。


 ガダラが我に返ったとき、すでに海賊は退散し、船を漕ぎ始めていた。


 足もとには、十人ばかりの海賊と、妻と、娘たちと、隣人たちの死体。


 ――。


「トゥミ!」


 ラーマの言葉にトゥミが我に返ったとき、バロンは起き上がってトゥミの首と手首を掴んでいた。海龍剣を奪い、素早くトゥミの背後にまわりこんだ。


「馬鹿やろっ!」


 ラーマは剣を構えるが、海龍剣の刃がトゥミの首筋に突き付けられていて、動けない。


「いま……あなたの過去が見えた」


 トゥミはバロン・ティティーラに言った。


「僕は海龍剣で千里眼に目覚めた。ガダラ、あなたは善人だ。残虐な殺し屋などではない」


「黙れ」


 ティティーラは刃の先端をさらに強くつきつける。首筋に生暖かい血が伝う。


 トゥミは一瞬のうちに、この男の悲しい過去を見た。同情の言葉が通用するような生易しいものではなかった。


「バロン・スラビーだ」


 トゥミは言った。


「彼女が海賊を連れてきた。あなたを暗殺者に戻すために。海賊の頭目や村長とも結託していた。やつらの自作自演だったんだ」


「……なぜそう思う」


 バロンの声に動揺の色が見えた。


「海賊の頭目とその取り巻きはずっと落ち着いていた。まるで、あなたの強さを知っていて、暴れる展開を予想していたようだ。あなたに斬りかかって死んだのは服装の粗末な下っ端ばかりで、まるでそのへんで雇われたばかりのゴロツキのようだった。島民で死んだのも、あなたの家族と、村長に意見していたあなたの隣人だけだった」


 バロン・ティティーラは無言だ。薄々気づいていたことを口にされ、次の一手を迷っているのをトゥミは感じた。


「たのむ、ガダラ。僕らを逃がしてくれ。どうしても海龍剣を持って、行かなければならないところがあるんだ」


「わしも同じだ。仲間のもとに海龍剣とお前たちの首を持ち帰らなければならない。青い王子、剣を捨てろ」


「わかったよ。俺のことも知ってたのか」


 ラーマはあきらめた口調でそう言った。


「トゥミ、これは賭けだ。これで助かったら唐まで連れてってやる」


 ラーマはそう言うと、「レインナスタ」と呪文をつぶやき、剣を斜め上に放り投げた。


 剣が空中でくるくると回るのに一瞬気を取られたバロン・ティティーラの隙をつき、ラーマが一気に間合いを詰める。


 バロンはトゥミの背中を押して突き放す。


 トゥミはバロンが背中から自分もろともラーマを突き刺そうとしているのを悟った。


「父様……!」


 トゥミの言葉に反応し、ティティーラは打突を躊躇する。


 ラーマはトゥミを払いのけ、手を伸ばして自分が投げた剣をつかむ。


 ラーマが放った袈裟切りは無防備に構えを解いたバロン・ティティーラの胸を斜めに一閃した。


 ――。




「バロン・ティティーラを倒した……。これは、有利な状況じゃないか」


 凌太の言葉に、バイユが無言でうなづく。


「しかも、やつの子や孫が死んだっていう過去をトゥミが見たのは大きいね。これで昼間のネオバロンは能力を失う。閲覧数を増やして確定させればいいんだ」


「しかし、ラーマ危なっかしいな。早死にしそうだ」


「そうかなあ、僕には、キキとシュワンよりはだいぶまともに見えるけど」


「まあ、そうなんだけど」


 凌太はラーマの自己犠牲的な性質に広成やナティのような危うさを感じた。他人のトラブルに巻き込まれ、見捨てられない呪いに縛られているように見える。バロンに勝ったのもトゥミの千里眼のおかげだし、行き当たりばったりなのも心配だ。


 そのとき、背後で炒め物をしていた屋台の主が突然奇声を上げ、暴れ出した。


 鍋が倒れ、椅子が燃えた。


 あちこちでパニックのように人々がわめきだし、煙が上がり、騒然となっている。


「なんだ?」


「攻撃よ! 耳塞いで!」


 そう言って耳栓をしたヴィッキーに錯乱したロハスが襲い掛かる。ヴィッキーとリーロンが二人がかりで巨体を抑え込む。


 あちこちで乱闘が起きている。


 この状況は、ナコーン・パトムの市場に似ていた。凌太は直感した。バロン・クトットが水を、バロン・ナーガが煙を媒介に魔奈の幻術効果を拡散させたように、ネオバロン・ティティーラもなにかを媒介にして、超音波攻撃の効果を増幅させているはずだ。


 凌太は鋭い殺気を感じた。


 見ると、屋台街の入り口にリリィが立っていた。


 そのとなりには目線のおぼつかない警官が立っていて、銃口をこちらに向けていた。


「伏せろ!」


 バイユが叫んだ。凌太は咄嗟に伏せる。弾丸が頭上をかすめる。


 心臓が凍り付く。脳がしびれ、まわりの音が遠のいていく。


 バイユがノートパソコンを持ったまま逃げていく。凌太も我に返り、それにつづく。


 さらに響く銃声。


 パニックの市場の中で、凌太はバイユに追いつき、耳元で叫んだ。


「バイユ、アクセスを解除しろ! ティティーラにとどめをさすんだ!」





 6 聖地シンガポール


「シンガポールが嫌いな理由が五つある」


 夕方、港沿いのレストランは露店席から埋まっていく。レオはコーヒーを飲みながら向かいの席の男に話す。通りは観光客でにぎわっている。日よけのパラソルの下は、家族連れやカップルがひしめいている。


「ひとつめは、蒸し暑いこと。ふたつめは独裁主義なことだ。明るい北朝鮮などと言われているが、一歩間違えばどうなるか」


 欄干を挟んだ向こうがわに、五十人乗りの遊覧ボートが停泊している。無人の屋形船は波に揺れて、ちゃぷちゃぷと独り言のような音を立てている。


「一歩間違えば、か」


 相手は茶化すように言う。


「みっつめと、よっつめは省く」


 レオはコーヒーを一口飲んで、ソーサーに置く。


 話し相手はレオの視界にちらちらと入る。けっして凝視できない。視界のすみのぼんやりしたところに常にいる。


 レオは断片的な情報を脳内でつなぎあわせてリアム・ヤンの全体像をつかむ。髪を金髪に染めた身なりの良い中国系の青年。相変わらず、微笑みを絶やさない柔和な雰囲気だ。眼鏡の奥の細い瞳がさらに細くなり、レオの話にあいづちを打つ。


「ウルラガに似ているって言われることかい?」


「そうだ。国のなりたちがまったくちがうのにな」


「たしかに。ここはもともと、シュリーヴィジャヤの一港町だった。その後、シャムやマラッカ王国の支配、西欧列強各国の支配を受け、大戦後、イギリスから独立し、マレーシア連邦から離脱した」


「つまり、他人に干渉されつづけたなかで生まれた歴史の浅い国だ」


 光のかげんによって、リアムの半身は白く消える。しかし、声ははっきりと聞こえる。まるで、何枚もの合わせ鏡越しに針の穴に糸を通すようだ。レオはわずかな隙間から言葉をすべりこませ、会話をする。


「ウルラガは、1250年間、ヴァルナ王が建国してから、王都はどこからも支配を受けていない。二度の世界大戦でも中立を守った」


 レオはウルラガの歴史を確かめるように語った。リアムはヴァルナの名を聞いて、笑みを強める。


「映画観たよ。ヴァルナ建国説を広めたいのはわかるけどさ、一次資料が不足している。無理をとおせば、破綻するよ。完璧な経営は完璧な防御のもとに成り立つんだ」


 台湾と香港とシンガポールで上場企業7社を経営する彼の言葉には説得力があった。


「次期国王の私にそんな口が利けるのは、いくら従弟でも君だけだ」


「君がそういう役割を僕に求めているからだよ、レオ」


 ウルラガ王室の血を引くリアムには魔奈の素養があった。情報庁に入っていれば優秀なエージェント、ともすれば魔奈大師になっただろう。


「ネオバロンが心配かい?」


「大切な部下だ」


「彼らは魔奈大師を生贄に召喚した怪物だもんね」


「そういう言い方はよせ」


「魔奈大師なんかにならなくてよかったよ。ウルラガ仏教会の法王とは名ばかりの、皇室の埴輪だ。その最終奥義は、自らの存在と引き換えに都合のいい歴史を作り出す」


 リアムの言うことは事実だった。レオの乳母でもあった魔奈大師ソヴァカの秘術によってレオは先祖に憑依することができた。


 歴史を変え、ナティラとソヴァカが消え、かわりに生まれてきたクンビーラたちネオバロン。ヴァルナが建国したという史実を守らなければネオバロンも消える。


 死の危険を冒してでも魔奈を高め、先祖とシンクロし、トゥミたちを妨害しなければ、彼ら自身も存在が危うくなる。それが彼らの士気を高めている。


「彼らは強力な力を持つけれど、歴史は異物を消そうとする。さらなる改変による出生取消しか、死か」


「それを言うなら、ウルラガも異物だ。私や君も」


「気分を害したお詫びにひとつ情報を」リアムが言った。「モニカ・サンダーはナコーン・パトムにいる。ティティーラと接触してまた消えた。ヴィッキーたちは、これからトゥミかキキの旅路を追って移動するだろう」


「ティティーラはどうした?」


 リアムはうつむく。はじめて微笑みを絶やした。


「力に代償はつきものだ。エントロピー? 等価交換? なにかを得たとしても、時計の針のように、ぐるりとまわって、また0に戻る」


「失敗したのか」


「大丈夫。じき連絡がくるさ。それより、またジーメイの漫画がアップされたぞ」


 言いながら、リアムは立ち上がり、自分の分の札をカップの横に置く。


「ワリカンだ。日本式にはまっていてね」


「また会えるよな」


「当然だ。文字通り、君あっての僕だ」


「最後にひとつ、青い王子――ラーマとは何者だ」


「誰かの先祖かもしれないが確定していない。ただ、早めに始末しておかないと、彼は無敵のバロンをことごとく撃破するだろうね。ランダの化身かもしれないな」


 リアムが不敵に笑う。


「じゃあこれで。これから日本の商社と大事な商談があるんだ」


 リアムが立ち去ると、レオはウエイターにコーヒーのおかわりを頼む。


 前頭葉が熱くほてっている。いつもながら、リアムとの会話は集中力をつかう。


 スマホを開き、ソーマから送られてきた漫画のデータを見る。すでに第五話までアップされていた。


 キリクが現れ、向かいの席に座る。


「誰かと話してたのか?」


「いや」


 テーブルにはレオのコーヒーカップだけがあった。


「それより、タイのティティーラの安否を確認してくれ」



 ※



 閲覧数が2000を超えたところでリリィが倒れ、超音波攻撃は止んだ。360アクセスで過去が確定するというのは、事象にもよるようだ。


 人々は正気に戻った。パトカーと救急車が何台もやってきて、何人かが連行されていったが、本人たちも何が起こったのか理解していない様子だった。リリィも救急車に担ぎ込まれていて、仲間が来ないうちにと、凌太たちは気絶していたロハスを抱えて逃げた。


「後戻りできなくなったわね」


 助手席で、額に絆創膏を張りながら、ヴィッキーが言った。リーロンは煙草をふかしながらアクセルを踏み、前の車両を追い越す。


 車は夜の国道を北に向かっていた。ラヴォを目指すキキ・プージャの足跡を追って。


「限定解除でいっきに5000アクセスを超えた。とっさだったから、一話から四話までまとめて公開しちゃったよ。公開はすぐに止めたけれど、拡散されているかもしれない」


 何度も読み返したが、危惧していた改変はなかった。バロン・ティティーラがラーマに斬られる事実と彼の子供たちが死んでいた事実が確定した。


「いろいろ急がないとね。ネオバロンを経由してほかのバロンにトゥミたちの居場所が知れるかも」

「あのままじゃ殺されてたよ」


「わかってる。凌太、あんたの判断は正しかったわ」


 先祖がバロンじゃなくなっても、彼女が使った幻術の被害が事実として残ったことを凌太は不気味に思った。魔奈は時間だけでなく、並行世界をも超えて存在するのだ。


「油を魔奈の媒介にしていたようね」


 凌太は、パットキーマオが辛くなかったら自分も錯乱していただろうと思った。バイユが油物を避け、デザートを食べていたのも、ラッキーとしかいいようがない。


 ただ、凌太が不気味さを感じたのは、バイユの食べていたフッチュー(福州)の名称がテージウ(潮州)に変わっていたことだった。確実に、自分たちは歴史を変えている。


 ロハスはリーロンが両手で印を結んでまじないらしき呪文をとなえると、正気を取り戻した。今は、元気にバイクで並走している。自分がヴィッキーに襲いかかったと知ると、ずいぶん怯えた顔をしていた。


 休憩のガソリンスタンドでパッタイとコーラを人数分買って戻ると、ジーメイがラップトップ画面をみんなに見せていた。


「もう第五話がアップされてる」


「キキ編か。ちゃんとラヴォの都に向かってくれるのかね」


 かつてラヴォ王国の都だったロッブリーまであと一時間もかからない。着いたら宿をとって、明日の朝から印探しの散策開始だ。明日に備えて休みたかったが、漫画の内容チェックは最優先だった。

 第五話は、袈裟を着た老僧のまわりに集まる子供たちの絵からはじまる。



【第五話 古い夢】


 ここにある石とおまえたちとの違いはなんだ。


 ここにある石と今この花に止まっている蝶の違いはなんだ。


 キキは石を手に取って答える。


 私たちには意思があります。好きなように動いて、好きなところに行ったり、石を投げたりすることもできます。けれど、石には投げられるか投げられないかを選ぶことはできません。


 なるほど、石はただ身をゆだねるしかないが、おまえは違うというのだな。


 はい、違います。生きるということは選択することです。


 ほかの生徒が訊く。木はどうですか。木は生きています。けれど選びません。


 なるほど、けれども、木はどこにでも生えているわけではない。生えるべき場所に根を下ろし、しかるべき場所と季節に果実を実らせる。おまえたちが頭で考えて選んでいるのと同じように、水や、風や、土や、石や、太陽や、まわりの環境と、木がもつ性質が呼応して、木は生き方を選ぶ。同じことだ。


 キキは訊く。


 では、石も木も人間も同じなのですか。


 同じでもあり、同じでもない。石と違って、木や人間は感覚をつかって、じぶんの置かれた状況を知ることができる。それによって、選び取るものが変わってくる。


 つまり、情報を使うことができる。


 あのガジュマルの幹のように、いくつもの幹や枝が絡み合っているが、行きつく先はつながっている。ひとつの木だ。しかし、選ぶものによって、形は大きく変わる。


 物質と同じくらい、この世界には情報があふれている。それらをどれだけ知り、どれだけうまく使うことができるかで、歩く道が変わってくる。ものを知ることはそれだけ大事なことだ。どこまでいっても知ることのできないものもあるがな。


 キキは手を上げる。


 では、選ばなかった道はどうなるのですか。消えてしまうのですか。


 消えはしない、ただそこに降り積もっていく。表に見える道はひとつでも、その下にいくつもの古い夢のように、見えない場所で存在しつづける。


 木は古い夢そのものなのだ。今おまえが見ている世界も、古い夢も、木にとっては同じ夢なのだ。いくつもの世界に、いくつもの夢に、同時に存在するのだ。


 ――。


 川のせせらぎが聞こえる。


 ――夢か。


 キキは草でこしらえた寝台から半身を起こし、土手の下の川の優美な流れをしばらくぼおっと眺めた。シュワンの姿はない。町はずれの見張り小屋から彼が盗んできたずた袋が置きっぱなしだから、遠くへは行っていないようだ。


 キキは自分の手のひらを見る。血は洗い流したけれど、まだそのしわのひとつひとつに、臭いがしみ込んでいる。


 もう一生、とれないだろう。


 ここへ来るまでに、シュワンは五人殺した。はじめの三人、ムーシャとその息子たちは投げ倒し、石で頭を叩き割った。見事な体術だった。次は剣を奪って、すばやく二人の番兵の喉を斬った。死体を運んで運河に捨てるときに、キキは手が血で染まった。


 死んだら石と同じになる。道を選べなくなる。


「朝めしだ」


 シュワンが帰ってきた。番兵から奪った着物を着ている。二本の短剣を腰に差し、手には一羽の兎の死体をつかんでいる。


 兎の血が枯草に滴る。


 剣で髪を短く切り、もじゃもじゃだった髭を剃ったシュワンは理知的な狩人に見えた。


「火を起こすから、皮はぐの手伝え。焼いて食ったらさっさと行くぞ。追手が来るかもしれねえ」


「命令しないで。私が主よ」


「でも、俺の言うとおりにしないと死ぬぞ。あんたは火も起こせないし、魚もとれねえ。いまは俺があんたを生かしてやっている」


 彼の言う通りだった。シュワンは思っていたよりも頭が回る。生きるためには、彼の指示に従うしかなさそうだ。


「俺が走れと言ったら走り、隠れろと言ったら隠れるんだ。あんたはまだ子供だ」


「もうすぐ十五よ。大人だわ」


「なら、俺があんたを奴隷商人に売っちまわないよう、早く王様になってくれ」


「王様になったら、あんたを将軍にしてやるわよ。そのかわり、私が出撃しろと言ったら出撃すんのよ。チェンラでもシュリーヴィジャヤでもインドでも」


「いいさ。そのかわり、でっかい宮殿をくれよ。ガイヤンのような」


 シュワンは控えめに笑う。


 彼はどこまで本気なのだろうとキキは思った。子供の戯言と思っているふしもあるし、かと言って、狂っているわけでもない。


 兎を食べ終えると、シュワンは短剣を一本キキに渡し、番兵から奪った銀貨と毛布の入ったずた袋を担いで歩き出す。キキも弓矢を背負ってあとにつづく。番兵から奪った矢は三本。安っぽい鏃だが、人を殺すことはできそうだ。


 目指しているのは北西にあるはずの川沿いの町だ。そこでしばらく休み、さらに北東のラヴォに亡命する。大叔父のファーンなら、キキをかくまってくれるだろう。ナコーン・パトムと戦争になるかもしれないが、望むところだ。


 シュワンは山歩きに慣れている様子で、藪の中をずんずん進んでいく。無言で、なるべく痕跡を残さず、それでいて無理のない道を選んでくれるが、キキはあちこち擦り傷だらけになった。早く町で休養をとり、装備を整えたかった。


「やっぱり先回りされてるな。気配が増えてきた」


 シュワンが立ち止まって言った。


「盗賊……?」


「虎や狼の匂いはしないしな」


「勝てる? 銀貨で見逃してもらえないかしら」


「そんなんじゃすまねえよ。金とられた上に、奴隷にされっぞ」


 藪が切れて、細い小川が北に向かって蛇行している。川の両側の林の中に、それぞれ、動くものが見えた。


 キキは命の危険にさらされて、心臓がばくばく言っているが、頭は思ったより冷静だ。


「剣を持った男が、二人、いや、三人ずつ左右の薮にいる」


 キキは言った。


「川の先にも大勢待ち構えているし、うしろにも三人。一人は弓矢を持っている」


「わかるのか」


「うん。なぜかわかった。魔奈の力かしら」


「こりゃ驚いた、あんた、千里眼の素質もあったのか。こりゃいいや」


 シュワンは嬉しそうに笑った。


「うしろの三人を倒す?」


「いや、右だ。前か後ろ、どっちかに指示を出す親玉がいるが、左右は下っ端のはずだ。まずその剣を俺にあずけろ。俺があんたをおぶって林を突破する」


 シュワンはすばやかった。


 キキをおぶっているとは思えない剛脚で藪の中を山犬のように駆け抜ける。


 盗賊たちの掛け声が聞こえ、前方から剣を持った男たちが飛び出してくる。矢も飛んでくる。離れた場所に張っていた者たちも、声を上げながら集まってくる。


 キキはシュワンの首にしがみつき、振り落とされないよう、両足を彼の固い胴に絡みつかせる。シュワンは飛びかかってきた半裸の盗賊を走りながら剣で薙ぎ払う。喉がすぱっと切れ、男は倒れる。シュワンは立ち止まらず、まっすぐ走る。その先は林の切れ目で、草原が見える。


 木々の隙間からこちらを狙っている殺気を感じ、キキは叫ぶ。


「跳んで!」


 キキの声に反応し、シュワンが跳ねる。その足元を矢が突き抜けていく。


 キキは首から手を放し、矢をつがえていた。景色がゆっくりとうごき、木陰の標的がまるで光って見えた。


 放った矢はまっすぐに飛び、盗賊の胸を貫いた。


 シュワンはじぐざぐに走って敵を翻弄する。藪を抜け、草原に出て、走る。走る。走る。

 怒号と掛け声が背後で小さくなっていく。


 矢が届かないところまで来たところで、「ひゃっはー!」とシュワンが歓喜の雄たけびを上げる。

 キキもシュワンの首に抱き着いて、一緒に叫ぶ。


「きゃはっはーっ!」


 そのとき、キキの脳裏に、ある光景が浮かぶ。


 自分がシュワンに抱かれているところを。腹の底が潤んで、胸が熱くなるところを。


 そして、それはよくない未来だと直感した。男女の関係になれば、未来の王と将軍という関係か壊れてしまう。しかも、父と娘ほど年が離れている。歯車が狂ってしまう。目的を見失ってしまう。


 彼の背中に押し付けていた胸を放し、冷静な頭に戻そうとする。


「怪我ねえか、お姫様」


 シュワンが走りながら静かに言った。


「……はじめて人を殺したわ。しかも、若い女の子だった」


「死んじゃあいねえよ。刺さったのは肩だ」


 いや、矢は確かに胸に刺さった。心臓か肺か。致命傷に違いない。シュワンなりに気を遣っているのだろう。


 その夜、畑の納屋に忍び込んで寝た。畑の主を探して銀貨で泊めてもらうこともできたが、昼間の盗賊に売られるかもしれないので、人との接触は避けた。


 矢を射る前に目が合った女の顔が浮かび、なかなか眠れなかった。弓矢を胸に抱えて、ふるえているキキに気づいたのか、シュワンはあえて背を向けて寝てくれた。


 そんな調子で、二日間、人目を忍んで田畑や平坦な森を進むと、両岸がもっさりした」木々に覆われた大きな川に出くわした。


 向こう岸に、小さな手漕ぎ船がいくつも停泊している。高床式の小屋も見える。町か村があるのだ。


「あれがあんたの言ってた町だな」


「小さいころに行っただけだけど、大きな川の近くにあったから、たぶんそう」


「とりあえず行ってみるか」


 しかし、橋がない。こちら側の岸に船はない。流れは穏やかだが、川幅は湖のように広く、船なしで渡るのは難しそうだ。


 土手から河原に降りて、渡れそうな浅瀬を探していると、一頭の象が水辺に寝そべっているのが見えた。


「近くに象使いがいるかも。渡る方法を教えてくれないかしら」


「おいおい、あぶねえぞ」


 象に近づいていくキキ。シュワンは野生の象の怖さを知っているのか、慎重な足取りでそのあとにつづく。


 象はキキたちを見つけると、寝そべったまま、怯えることなく鼻先をむけてきた。どことなくしぐさがあどけない。まだ額に産毛の生えた子供だった。とはいえ、水牛より大きく、尻は大岩のようだった。


「見て、怪我してる」


 後ろ足から血が出ていた。崖から落ちたかなにかして、最後の力を振り絞って水を飲みに来たところで力尽きたのだろう。


「治してあげて」


「こんなでかい傷、簡単にはいかねえよ。それに、治ったとたんに暴れださねえか」


「大丈夫よ。この子、人に慣れてるもん」


 シュワンはやれやれとため息をつくと、象の後ろ足に手を当て、力を送り込みはじめた。


 キキは象の鼻をなでてやり、「大丈夫よ」となぐさめた。




 象に乗って川を渡って来る二人組を見て驚いたのか、川岸で魚を釣っていた少年が慌てたようすで逃げて行った。


「歓迎されてねえぞ」


「今更引き返せないよ。とにかく渡り切りましょう」


「敵地ってことはないよな」


「このあたりの町や村はナコーン・パトムの支配下のはず。寺へ行けば顔見知りのお坊さんがいるかも」


 渡り切ったところでキキは象から降りた。象の鼻柱に抱き着いて、乗せてくれたお礼を全身で表現した。


 途中の深くなっているところで尻まで水につかってしまったので、濡れた服の裾をしぼった。ガイヤンの目を避けて象のかげに隠れると、象は鼻をからめて甘えてきた。


「あんたがいろんなものから守ってくれそうね」


 槍を持った五、六人ばかりの男たちが土手の上から降りてきた。


「あんたら、どっから来た」


 年長の男が訊いてきた。


 シュワンは臆することなく前に出た。


「俺はナコーン・パトムで兵隊やってるもんだ。休暇の里帰りの途中で、娘にまともなものを食わしてやりたくってな。いい旅籠はないかい」


「町に入るなら、入域検査をさせてもらう」


 通された高床式の小屋は番兵の詰め所で、荷物を検査され、ようやく入域許可が下りた。


 シュワンが取り調べを受けている間、若い兵隊のひとりがキキにしきりに話しかけてきて、あとで遊びに行こうと誘ってくる。キキは適当にはぐらかして、町の情報を聞き出そうとした。


 そこは、キキが幼いころ来た町ではなく、もっと北に位置する宿場町で、メーンといった。上流にある鉱山の町への玄関口で、鉱山労働者や交易商人がよくここへ立ち寄る。ナコーン・パトムの傘下ではあるが、自警団が町を守っていて、駐在兵はおらず、仏僧がたまに布教や巡礼で来るくらいということだった。


 年長の番兵はシュワンに荷物を返すと、キキに豆菓子をくれた。


「近頃盗賊が出て物騒でな。この前も、狩人が襲われて怪我をしたところだ」


 キキがこの前の盗賊団のことを言おうとすると、シュワンが制した。


「にいさん、旅籠へ案内してくれねえか」


 若い番兵に引率され、町へむかう小路を進んだ。さっきの子象がついてくるが、番兵は気にする様子はなかった。


 緩い坂道を上ったところに、屋台のならぶ市場が見えてきた。


 水牛が荷車を曳き、女性が野菜や農具を売り、仏僧が托鉢をしていた。


 石造りの仏塔もあった。ナコーン・パトムのものほど大きくはないが、仏塔を見るとキキはなぜか安心した。同じ文化と思想のなかにいるという気持ちがわくからだろう。


 象は牛舎のそばに誘導され、そこに腰を下ろして干し草を食べはじめた。


「ここで待っててね」キキがそう言って鼻をなでると、象はまた鼻先を絡めて応えた。


 高床の木造家屋がつらなる道の途中、東屋の療養所で、寝そべって看護を受けている女性がいた。胸に傷があるようで、血止めの包帯でぐるぐる巻かれ、熱にうなされている。


「あの子は野草を摘みに行って、盗賊に襲われたんだ。物騒になってきたよ」


 彼女の看護をしていた男が、キキとシュワンを見て、一瞬、目を光らせた。


「シュワン、あの子……」


「ああ。自分たちが襲っといて、よく言えたもんだ」


 どうした? と青年は怪訝な顔をした。シュワンは「いえ、なんでもねえっす」と言った。


 旅籠につくと、裏の運河沿いに沐浴場があると管理人に聞いて、キキはほっとした。シュワン以外の人と接するときに、自分が臭くないかと不安でならなかったのだ。


「早くここを出よう。それとも、さっきのやつら、口封じにやっとくか」


 そう言ったシュワンをキキは睨みつけた。


「俺たちがやったと知れたらやっかいだぞ。こっちが盗賊扱いされる」


「治してあげられないかしら」


 シュワンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。


 キキは、人殺しになりたくないから、という言葉をいいかけてやめた。


 ここへくるまでに、シュワンは何人も殺している。自分だけが潔白でありたいというのはいくら主人でも傲慢だ。


「さあ、どうしたもんかな。あの怪我は手遅れかもしれん。俺の体にも負担がある。象を治したばかりだしな」


「そうよね、ごめんなさい」


 管理人の男が部屋にやってきて、シュワンをしきりに売春宿に連れて行こうとしていた。キキは聞こえないふりをして、そばを通り過ぎ、沐浴場へ向かった。


 石畳の、きれいに整備された沐浴場には、数人の男女が腰巻だけになって水を浴び、体を清めている。背後には崖があって、小さな滝が流れているのがなんとも風流だった。


 水面には湯気がたっている。


「お湯……?」


 水は運河ではなく近くの山から直接引いているようだ。一定の水位になると、排水路から運河に流れる仕組みだった。


 人の少ない端っこに移動して手をつける。ぬるま湯だ。服を脱いで、おそるおそる入ると、とても気持ちがいい。


「わあっ、きもちいー!」


 山に温泉というものがあるのは聞いたことはあるが、実際に入ったのははじめてだった。


「ここの温泉は新しくてまだ無名だ。穴場だな」


 はしゃいで手足をばしゃばしゃでしていたキキは、びくりとして声の主を見た。


「小さいが、そのうち湯治客が増えるだろう」


 筋肉質な若い女だった。褐色の肌と長い手足。面長な顔立ちからクメール人だと思った。美しい黒髪はまるで若いころの母のようだった。


「ファンカムを助けてくれたのはおまえだな」


「ファンカム?」


「若い象だ。夜にいなくなって、探していたのさ」


「あなた、象使いなの?」


「ははは。そうではない。あれはわが軍の戦象の仔だ」


 女が湯から上がると、侍っていた腰巻姿の逞しい男たちが湯揚げの手拭いを持ってきて彼女の体をふき、形のいい尻に腰巻を巻いた。


「戦象……。あの子を戦に連れて行くの?」


 キキの脳裏にバロンの斬象刀が浮かんだ。


「いずれはな。あれはやっと生まれたわが愛象の仔だ。おまえにやるわけにはいかない。もちろん、礼はする。あとで旅籠に届けさせよう」


 衣服をまとった女は話し方やしぐさは軍人だが、見た目は麗しく、まるで王族だった。きらきらした装飾のついたバティックの上から腰に巻いた革ベルトには、鞘と柄に宝石がちりばめられた宝剣が下げられている。


「私はラヴォ王国のハリプンジャヤから来たヴィー。おまえは育ちがよさそうだから、ぼっちゃん育ちのファンカムとは気が合いそうだな」


 そう言って、ヴィーは部下の男たちを従えて去っていった。


 ハリプンジャヤは母ムーのふるさとだ。行ったことはないが、ラヴォのさらにずっと北にある山間の小都市で、周辺は象使いの村が多いという。ということは、彼女はクメールではない。ラヴォには混血が多いというから彼女もそうなのだろう。


 旅籠に戻ると、その手前に人だかりがあった。その中心でシュワンが番兵に取り押さえられていた。


 シュワンは顔を地面に押し付けられ、あらっぽく縛られているが、抵抗しようとしない。


「ちょっと、なにしてんの!」


 キキの声に反応し、すぐ前にいた巨漢の番兵が振り返った。川の詰め所にいた男の一人だ。彼はキキの腕をつかむと、すごい力でひねり上げた。


「はなせ!」


「黙れ、追剥親子。旅籠にあった弓矢が証拠だ」


 キキは後悔した。やはり、シュワンは正しかった。やられる前に、やるべきだったのだ。


 二人は縄で縛られ、連行された。集まってきた人だかりの中にヴィーがいて、気の毒そうな目でキキを見ていた。


「助けて! あなた、軍人なんでしょ、さっきお礼くれるって言ってたじゃない!」


「こうなっちまったらねえ。どうしようもないさ。私らもよそ者だしねえ」


「シュワン、なんで抵抗しないの」


「あんたの指示があれば暴れたけどさあ。まあ、疲れてたしなあ」


「どうせ売春宿行って、疲れて寝てたんでしょ!」


 こんなときに親子喧嘩かよ、と言って旅籠の主人があきれたようすで笑う。見物人がシュワンとキキに石を投げてきて、若い番兵が槍を振り回してそれを制する。


「なんとか逃げられない?」


 キキは前を歩かされているシュワンの背中に向かって言った。


「ちと厳しいな。……やれっつうんならやるけど、死人も出るぞ」


 このままだと、捕まって殺される。よくても、ナコーン・パトムに送還されるのがオチだ。それなら……。


「いいわ、やって! 私たちはラヴォまで行かなきゃならないのよ!」


 シュワンは振り返ったまま、キキの目をしばらく見つめたあと、またぷいと前を向き、立ち止まった。番兵たちに引っ張られるが、動かない。


「おい、歩け!」


 シュワンの背中の刺青のあとが、ほのかに光った気がした。


 ――。




「着いたよ。ロッブリー市内に入った」


 ヴィッキーが後部座席の凌太たちに向かってけだるそうに言った。


 背の低いビルがひしめく地方都市だった。深夜近くだというのに、車道はやや渋滞ぎみで、なかなか進まなかった。バイクで追走していたロハスが速度を上げ、車を追い越していった。車の間を器用にすり抜けていく。


「こんなときにまたネオバロンに襲われたら……」


「大丈夫、私の慧眼がそれはないと言ってる。わかるんだ」


「あ、ちなみに、さっきのネオバロン・ティティーラは再起不能だよ」とバイユ。


「なんであんたがわかるのよ」


「んー、なんでだろ。慧眼……いや、千里眼に目覚めたのかな。見えたんだ」





 7 聖地安南


「力を失うのを焦って、無茶な術を使ったんだ」


 主治医が退室すると、キリクは言った。


「魔奈の器としての素養を失った体には負担が大きすぎた。脳損傷は免れない」


 寝台に横たわるティティーラの寝顔を見て、レオはララが死んだときのことと、生き返ったときのことを思い出していた。


 この世界は、過去さえも一定ではなく、形を変えてしまう。魔奈の氾濫により、それが顕著になってきている。


 人の死も過ちも、幸福も真実も一瞬先にはひっくり返るかもしれない。そんな世界に足を踏み入れてしまったレオは、感情をどこかに置き忘れてきたような感覚があった。ララが消えても、涙を流すこともないかもしれない。記憶すらも書き換えられるのだから。


「諸行無常……か」


「なんだ?」


「作戦をかえるぞ」


 表情を変えないレオの顔をキリクが心配そうに見つめる。


「クンビーラたちを先祖とのシンクロ完了に集中させろ。ラーマとトゥミを殺し、キキを殺し、早急に建国神話を完成させる」


「わかった。すぐ対応する」


 キリクはこうなるのを予想していたのか、作戦変更をすんなり受け入れた。


「レオ、言ってなかったことがある。私もあとからクンビーラから聞いたんだが、ティティーラが石油プラントで死にかけたのには理由があった。海賊が人質を殺そうとしていたんだ。彼女はそれを見て、囮になろうととっさに飛び出した」


 レオはキリクの話を聞いて、「続編」のバロン・ティティーラの過去を思い出す。


「先祖のトラウマが突き動かしたのか」


「ああ。それが、変則的だが、ひとつの印としての効果を発揮し、能力を高めたのかもしれん。ナンディたちのシンクロも、印を見つけさせる旅になるだろう」


「ネオランダの連中と同じく、続編漫画の舞台を巡礼させることになるということか」


「またバッティングするかもな」


 二人はバンコク中央病院を出ると、在タイ大使館の官用車でホテルへ向かう。レオのSPはキリクが兼ねている。


 レオは車の中で、スマホを開く。別件でハノイにいるララ・ソーマがハッキングして送ってくれた第六話のタイトル「安南の青い姫」を見て、シンクロニシティがまた起きていることに不穏なものを感じた。安南とは現在のハノイのことだ。


 魔奈が揺らいでいる。


 レオは背中がじわりとした。焦りが背中を伝わるのを感じた。


 千年ぶりの魔奈の洪水がはじまろうとしているのか――。




【第六話 安南の青姫】


 海龍剣を背中に縛り付けているせいもあって、トゥミは思うように泳げなかった。


 前を行くラーマはすいすいと優雅に進んでいく。


 ラーマが椰子の木の上から陸地が見えたというのは本当だとしても、すぐに着くというのはでたらめだった。ヤシの実を気休めの浮き輪にしてもう一時間ぐらい泳いでいるが、上陸できる気配はない。

 しかし、あのまま島にいるのは危険だった。バロンのなかには、仲間の位置を察知する能力者がいる。ティティーラの気配が消えたのを知ったら、かならず向かってくる。


「ラ、ラーマ、まだか」


「もう半分来た。根性見せろ。長安まで行くんだろ


 体力は限界だった。やはり、椰子の汁だけではもたない。海老を食べておくべきだった。いや、食っていたらラーマの耳栓がなかったか……などと考えながら泳いでいると、トゥミは波に息継ぎを阻まれ、ごぼごぼと海水を飲んでしまう。


 溺れかけているのをさすがに見かねて、ラーマが助けにくる。トゥミの服をつかみ、沈まないよう持ち上げる。


「しっかりしろ、早く着かないと鮫に襲われるぞ」


「おげっ、げほっ、うわっ! いま、下に黒いものが!」


「あれは海亀だよ。食われやしない」


 トゥミは気を失いそうになりながら、なんとか泳ぎ切った。

 たどり着いた海岸は、白砂の浜辺で、無人の小舟が停泊していた。砂には子供の足跡があった。


「助かった。漁村が近いぞ」


「ここは……チャイヤーか。ランカスカか」


「長安じゃないことは確かだ」


 そこはナコーン・パトムの南のモン人の漁村だった。村人は100人ばかりで、小さな寺があった。ナコーン・パトム出身だという老僧が口をきいてくれて、二人は空いている漁師小屋を寝床として貸してもらえた。当面の滞在費として、トゥミが腕に着けていた真鍮の装身具を村長に渡した。


 しばらく漁師の仕事を手伝って駄賃を稼ぎ、南のタンブラリンガへ向かうことにした。そこからオケオかチャンパへ向かう商船を捕まえて大陸へ渡るのだ。


「海賊扱いされなくて助かったね。ドヴァーラヴァティの使節ということも信じてくれた」


「おまえは育ちがいいと思われたようだ。まあ、ガキだしな」


「あんたこそ、いくつなんだよ」


「もうすぐ十八になる。おまえはもう少し大人を敬え」


「僕と二つしか変わらないじゃないか」


 二人は高床式の小屋の入口の階段に腰かけ、風になびく椰子の葉ごしに空を眺めていた。ラーマの手には海龍剣があり、鞘から抜いて刀身の状態を確かめるように眺めている。


「なあ、ラーマ、君はなんで千里眼をほしがるんだ? 安南でなにがあった?」


「質問はひとつにしてくれ。俺は海南島で海賊の子として生まれ、安南で人さらいをして逃げた。千里眼がほしいのは未来を見るためだ」


「もう少し具体的に話してくれよ」


「俺は唐の高官を目指して、安南の学校にいた」


「え、それって、科挙を受けようとしてたってことか?」


 科挙とは唐の官僚登用試験で、家柄に関係なく実力でのし上がることができる制度だ。数千倍の倍率を勝ち残って合格すれば富と名声が約束される。


「そんなに驚くな。目指すのは勝手だろう。こう見えて、成績は良かったんだぜ。童試に受かって、長安の太学への入学も決まってた。で、母親が元海賊だってのがバレて寮を追いだされ、生きるために盗賊になった。仲間の一人が未来を見たがっていて、魔奈を宿す霊具を集めていたんだ」


「その、仲間って……」


「いいとこの令嬢で、俺が誘拐したことになってる。旅の途中で病死した」


 トゥミは訊きたいことが山ほどあったが、言葉にならなかった。どういう尋ね方をするべきかわからなかったのだ。勉強ばかりして、人付き合いをおろそかにしてきたツケだ。


「すまない、嫌なことを思い出させたね」


「気にすんな。人はいつか死ぬ」


「未来を見てどうするつもりだったんだ」


「べつに。一応、旅の目的だったからな」


 ラーマは海龍剣を空に向かってに突き上げた。もう手に入らないものの影をそこに見たのか、そのうつろな目がわずかに潤んでいる。


 夕日が刀身に反射し、トゥミの目を一瞬くらませる。


 トゥミが目を閉じたとき、その光とともに、ラーマの心の声が頭にすべりこんできた。


 ――千里眼でろくでもない未来を見て青姫が失望せずにすんだって思いたかった――。




 その夜、ふたりは蒸し暑い小屋を出て軒先のハンモックで寝た。


 海龍剣は鞘に納められ、トゥミの手の中にあった。トゥミに千里眼をもたらした霊剣は、いまも、ふつふつと力を溜め続けている。歴代の所持者の残したある種の魔奈はまだ刀身にこもっていて、それがさらなる魔奈を呼び寄せているのだ。持っているだけで、いろんな情報が頭に入ってくる。


 いつだったが、バーリ先生の授業で、人と木と石の話があった。人や木は情報を使って生きるが、石は情報を使えない。生死の違いを説明するにはいい例えだが、魔奈を会得したいまは、その説明ではすこし足りないように思える。


 記憶はあらゆるものに宿っている。生き物以外でも、それらの情報はあちこちを飛び交っている。おそらく魔奈とはその媒介になる目に見えない力の総称だ。


 椰子の葉が触れ合う音や、繰り返されるさざ波の音は、体内の鼓動や呼吸と連動している。あらゆるものに、境目などない。


 石も、木も、人も、この夜空の星々も、月も、光さえも――。


 そのとき、トゥミの頭に、またイメージが流れ込んできた。昼間よりも、はっきりと、ひとつの物語となって、彼の夢に、ラーマの夢が溶け込んできたのだ。


 安南の夜を舞う宝石「青姫」――彼女はそう呼ばれていた。


 ――。


   ――。


     ――。



 屋根から屋根を伝って、夜の町を飛ぶように走る人影。


 十五歳のラーマはその背中に必死についていく。


「私に追いついたら、勝負してあげる」


 ラーマが狙っていた目当ての宝玉を商館から先に盗んだ青姫はそう言った。


 ラーマは、子供の頃から、俊敏さだけは誰にも負けたことがなかった。ましてや、さして年の変わらない若い娘に負けるわけにはいかない。


 青姫は反りかえった甍の上を器用に走り、石壁を蹴り、松の枝を足場にして、まるで猫か小鳥のように夜の町を駆けていく。妖術としか思えない動きだが、ラーマもやってやれないことはない。根性で石垣を駆け上がり、細い欄干の上を走った。


 青姫はちらちら振り返りながら走っている。追いすがるラーマに意表を突かれている様子だ。あと数歩で、手を伸ばせば彼女の背中に届くところまで迫った。


 学校では誰にも負けなかった。学問でも、けんかでも。長安の太学へ進学する予定だった。それを妬んだ同級生とその親が、ラーマが海賊の子だと言いふらし、母の海商としての仕事を妨害した。


 母は確かに、もともとは南海をなわばりにする海賊だった。ラーマが十二歳のときに島に漂着した鑑真という高僧を安南に護送したのをきっかけに海商として認められ、海賊稼業から足を洗った。


 それなのに、母には懸賞金がかけられ、海南島を追われた。生死は不明で、討ち取られたという噂もあった。


 後ろ盾を失ったラーマは寮を追い出された。資金は敷金として持っていかれ、手持ちの書物はほかの生徒に勝手に分配された。


 ――じゃあ、とことん盗賊になってやる。奪われたら奪い返す。蛙の子は蛙なのだ!


 楼閣の甍の上を走り、青姫のターバンを掴むまであと一歩のところまで迫ったが、ここでは二人とも危ない。もっと足場のいいところはないかと探ったところ、踏み込んだ足元の瓦が崩れ、ラーマはバランスを崩した。


「うわっ」


 ラーマは、三階の屋根から転落した。


 石畳にたたきつけられる前に、服の襟がなにかに引っ掛かった。


 誰かが襟をつかんで墜落から助けてくれたのだ。見上げると、青姫が木の枝に片手でつかまり、もう片方の手でラーマの襟首をつかんでいた。


「私が低い場所に降りるのを待ってたんだね。あんたは優しいな」


「ちげーよ、」


「でも驚いた、あんた、素質あるよ」


「おまえ、何者だ。……おっぱい見えてるぞ」


 着物の隙間から、青姫の乳房が見えた。


 故意に手を放され、ラーマは数メートル下に墜落する。頭を打ち、意識が暗転する。


 ラーマは青姫の師匠、李諷(リーフォン)のもとに連れていかれ、強引に弟子入りさせられる。


「ただじゃあ教えないよ。弟子なら奉仕しろ」


 と言って、フォンはラーマに家の雑用を押し付けた。ラーマは悪態をつきながらそれらをこなした。


 初老のフォンは青姫より小柄な女性だが、背筋はピンと伸び、眼光鋭く、ラーマは棒術の乱取りで一度も勝てなかった。西域のソグド商人をルーツに持つ胡人の呪術師で、普段は占いや憑き物祓いなどをしながら古物商を営んでいた。


「べつにあたしゃ、無理強いはしないよ。嫌なら逃げりゃいいのに」


「るせえ。あいつに勝つまではここにいる」


 路地の裏の裏の裏にあるフォンの店は青姫が連れてきた浮浪児が出入りし、さながら孤児院のようだった。


 フォンが子供たちをげんこつで近づけさせない奥の倉庫には、怪しげな呪術道具や魔術書がひしめいていて、古今東西の魔術幻術の知識の宝庫だった。


 フォンが得意とするのは呪符術だった。はるか昔に胡人の呪術集団がつくった魔奈を込めた呪文で、呪符は漢字で書かれているが、発音さえ正しければ梵字でもアラビア文字でもよかった。


 魔奈は鉱石に宿りやすく、その粉末を溶け込ませた墨で書いた呪符は呪文や札の色によって効果が違った。術者に魔奈の素養があれば、どんな墨でも指から魔奈がつたわるので、それなりの効果を出せるという。


 逃者萬來(トウシャバンライ)  逃亡

 超所歩玉戈(チョウソブユーゴ) 身体強化

 列英纳斯塔(レインナスタ)   命中

 巴鲁巴罗烏凯(バルバロウカイ) 回避

 牢克拉奥库库(ロケラオクーク) 封じ込め

 宝波勞ポウポウロウ    引き寄せ

 索健拜卡ソウケンバイカ  治癒


「私がよく使うのはチョウソブユーゴ。頭の回転も速くなる」と青姫が言った。


 札の色の効果は、青は効力の強さ、黄は持続性、赤は即効性に特化していて、それぞれ一長一短があった。念じるか唱えるかで発動する。


 青姫には仲間が二人いた。ちびの少年スンとその妹リャン。ラーマより年下だが、胡人の血が入った二人は浮浪児時代からのフォンの弟子、つまり青姫の兄弟子だった。


「俺たちは兄弟子だが青姫様の子分だ」


「だからラーマ、あんたも青姫様の子分なのよ」


 生意気な二人に掴みかかろうとしたラーマを青姫が止め、フォンが仲良くやりなとラーマの鼻を指ではじく。それを見て笑うスンとリャンはフォンに棍棒で小突かれる。


 青姫とスンとリャンはおそろいの青い頭巾をかぶっていた。


「俺たちは義賊団、青旗だ」とスンは自慢げに語った。


 ラーマは、はじめは青頭巾を被るのを嫌がったが、青姫に似合っていると言われると普段から被るようになった。


 フォンは四人に体術や呪術は教えるが、自身は盗みには関わらなかった。善人だからというわけではなく、彼女なりの処世術だとラーマは思った。


 青旗は青姫の指揮のもと、それぞれの力を補い合った。情報収集はスン、後方支援はリャン、敵のかく乱と現場指示は青姫、宝物の盗取はラーマが担当した。誰かがへまをやらかしても――たいていはラーマだったが――青姫が機転を利かせて切り抜けた。


 青姫は仲間の失敗を咎めることなく、いつも笑顔で三人をねぎらった。その笑顔の下に彼女の本心が隠されているようで、ラーマはわざと彼女を怒らせるようなことを言うが、嘲笑され、あしらわれるだけだった。


 盗品はフォンが知り合いの商人のところで金に換えてくれた。稽古の謝金と換金手数料としてフォンに三割を天引きされたあとの儲けはきっちり四等分だが、青姫は孤児のいる悲田坊に寄付したり、浮浪児に衣服を買い与えたり、自分のために使うことはなかった。


「あいつ、非田坊なんかに出入りして、足がつかねえか」とラーマがペルシア製のポットで桂皮茶を淹れながら訊くと、フォンが答えた。


「金持ちの嬢ちゃんだ。誰も怪しまないよ」


 ラーマはそのときはじめて、青姫が安南一の大海商である安家の令嬢、安瞬妃であることを知る。安南では有名な美女で、病弱な箱入り娘というのが世間の評判だった。


 ラーマは稽古で青姫に何度も勝負を挑むが、競走でも棒術でも、いつも負けた。


 そのたびに悪態をついて悔しがり、青姫が「わきが甘いのよ」と言ってくすくすと笑う。そんなやりとりをスンたちがあきれた様子で見るのが日常になっていた。


「さっき、わざと負けたろ。本当はおまえが一本とれてた」


 稽古のあと、庭の長椅子に寝転んでいたラーマにフォンが言った。


「なんのことだか」


「勝っちまったらここにいられなくなるって思ってんのかい」


「ちがうよ。あいつは一味の頭だ。俺が勝つときは、あいつに盗みを辞めさせるときだ。それに――」


 ラーマは稽古の最中、青姫の顔色に見た影のようなものが気になっていた。長年呪符術を使い続けたつけがまわってきたのだろうか。


 勝つべきか負けるべきか、ラーマの迷いの一瞬を青姫は見逃さなかった。


「迷うのは俺が弱いからだし、そこを容赦なくついてくるあいつは俺より強い」


 フォンは嘲笑ともため息ともとれない息を吐いた。


「気づいてんだろ、あれは相当弱ってる」


「やっぱり、病気なのか」


「病弱な箱入り娘ってのは、世を欺くための演技じゃない。本当に不治の病に侵されてんだ。日に日に視力や聴力が落ち、頭痛やめまいも起こす。魔奈の使い過ぎだ。命を削って力を得ているのさ。なにごとにも代償がある。やめとけって言ってんだが、時間がないって聞かなくてね」


 その頃の安南は治安が悪く、貧民街には浮浪児があふれていて、人さらいも横行していた。青姫の慈善事業で救われている者がいることは確かだった。


 唐政府にとって安南は重要都市ではあるが、隣国の南詔やチャンパ、そしてシュリーヴィジャヤとの緊張関係もあり、中央から派遣される官僚にとって、決して当たりくじではなかった。数年の任期をしのいで、さっさと内地に戻ろうと考える者ばかりで、賄賂が横行し、貧富の差も広がるばかりだった。


 加えて、多数の民族が入り乱れ、利権をめぐって日夜争っている。海南島付近で頻発する海賊どうしの小競り合いはその代理戦争だ。町の盗賊は後ろ盾や盗品を流すルートを確保するため、いずれかの海賊の傘下として活動していた。


 青旗がどこにも属せずにいられたのは、フォンがバックにいるからだった。彼女の属する胡人集団は唐全土にネットワークがあり、地元のやくざ者もうかつに手が出せないのだ。


 しかし、フォンたちは、口を揃えて「黒龍団には手を出すな」と言った。


 安南の富豪を後ろ盾に持つ数百人の構成員を持つ大海賊団で、黒塗りの船首には恐ろしい龍の彫刻が施されていた。頭目のルーとその息子グエンは役人への賄賂によってやりたい放題だった。酒場で威張りちらし、町で気に入らない者がいれば躊躇なく斬り捨てた。


 そんな彼らを見て、ラーマは憤り以上のものを感じていた。


 あるときフォンの倉庫に入ると、めずらしく青姫がいた。見たことのない、紫色の紙の呪符を手に持ってなにやら思いつめた顔で眺めている。


「その呪符はなんだ?」


 青姫はびくりとしてラーマを見た。


「特殊な呪符よ。よほどのことがないと使うなってフォンが言っていたけど」


「そのよほどのことが起きてるってことか。いや、これから起きるのか」


 青姫はそれには答えなかった。呪符を懐にしまい、立てかけていた棍棒を手に取ると、「ひと勝負しない? 一本とれたらなんでも言うこと聞いてあげる」


 ラーマは胡麻化された気分になったが、勝負を受けた。


 結果は三戦三敗。手を抜いたわけではなかったが、打突をしようとすると、なぜか心が一瞬躊躇するのだ。


 強く触れると破れてしまいそうな蝶の羽のようなオーラを青姫はまとっていた。




「その玉はなんだ、ラーマ?」


 スンは、ラーマが首に下げていた白い玉を箸で指した。麻紐で縛って首飾りにしている。


「聞いて驚くな、魔力を封じ込めた龍泉玉って宝玉だ」


「まさか、それ……黒龍団のやつらが盗まれたって騒いでた……」


「ああ、ちょろいもんさ。この前、やつらの船に忍び込んでさ。見張りのチンピラは呪符術で軽くのしてやった。これで青姫親分も、ちったあ、俺のこと見直すかね」


 スンは「ばかやろう!」と言って、米麺をすすっていたラーマの胸倉をつかんだ。


「あれほど手を出すなって言われただろう!」


 ラーマはスンの手を振りほどき、土間に突き飛ばした。


「これ以上あいつに無理させられねえだろう。みんながびびってる黒龍だって、俺一人でなんとかなる。俺が頭目を引き継いで、青姫の代わりにこの町を変えてやるさ!」


 大見得を切ったラーマだが、すぐに後悔することになる。


 フォンや青姫に咎められるのを恐れて、龍泉玉を自ら闇市に売りに行くと、いつも青旗の盗品を流していた商人は「すぐに返してこい!」と言って龍泉玉を受け取らず、ラーマを追いだした。黒龍団に目を付けられるのが怖いからだ。


 しかし、やりとりを聴いていたほかの商人がそのことを酒の席で漏らしてしまう。


 ラーマのいないときに黒龍団がフォンの店に押し入った。龍泉玉はどこだと探し回り、さんざん暴れて物をめちゃくちゃにして帰っていった。


 ラーマが店に戻ると、もみくちゃにされたフォンとスンが雑然とした店の中で茫然としていた。

「スン、リャンはどうした?」


「おまえのせいだ!」


 あちこちアザだらけのスンがラーマに掴みかかった。


「リャンが連れていかれた!」


「なんだって!」


「青姫様にひとりで龍泉玉を持ってこさせろと言っている!」


「俺が……ひとりで返してくるよ。こんな玉っころ、もうどうでもいい」


「玉だけじゃすまないよ」フォンが言った。「落とし前を求めるだろうね」


 そこに、忍び装束を着た青姫が現れた。


「あ、青姫……」


 会うのは十日ばかりぶりだが、ずいぶんやつれていた。いつにも増して顔色が悪い。

「龍泉玉はどこ」

 いつもの柔和な雰囲気ではなかった。ラーマは射抜かれるような眼光にたじろぎ、何も言えなかった。

 懐から紐で縛った白玉を取り出し、青姫に渡した。


 青姫は玉を受け取ると、スンのほうを向いた。


「話をつけてくる。リャンは取り返すわ。私がなんとかする」


「黒龍は糞だぞ。おまえの大嫌いな奴隷商人のおかかえ海賊だ」


 ラーマが青姫の背中に浴びせるように言った。


 青姫はラーマを睨んだ。


「だったら、なんなの?」


「あんなやつらにへこへこするなんて、おまえらしくない」


 青姫はしばらく、冷たい目線で薙ぎ払うようにラーマを見つめた。


「あんたが、私のなにを知ってるの?」


「金持ちのお嬢さんだろう。結局、おまえも黒龍のようなやつらをのさばらして利益を得ているやつらと同類だったんだな」


「なんてこと言うんだ、この野郎!」


 掴みかかってきたスンを受け止め、脚をかけて倒す。スンがラーマの脛にかみつく。二人が土まみれになっている間に、青姫はもういなくなっていた。




 夜の波の音は不気味だった。


 黒龍団の船は港の真ん中の桟橋に停泊していた。弓のように反りあがった船体は大きく、いつか見た鑑真の船より大きかった。


 船室には灯りがついていて、中で大勢がなにやら談合しているのが気配でわかる。


「本当に、ここにリャンと青姫様が乗ってんだろうな」


「間違いない。やつらは重要な商談はいつも船でやるんだ」


 二人は見張りの目を盗んで船べりにとびうつり、戸の隙間から船室を覗く。


 青姫はいた。大勢の海賊に囲まれ、グエンに宝玉を差し出していた。グエンは玉を受け取ると、手間賃をよこせといって、青姫を困らせる。


 すこし離れた壁に手足を縛られたリャンがいた。スンは怒りに顔を震わせる。黒龍の連中は、まだ十二、三のリャンを囲んで好色な笑みを浮かべている。


 青姫のほうを見ると、なぜか着物の帯を自らほどきだした。袴を脱ぎ、小袖を脱いでいく。男たちが下卑た声でげらげらと笑う。


「あいつら……素っ裸で踊れって言いやがった。でなきゃ二人ともグエンの妾にするって」


 スンが言い終わる前に、ラーマは扉を蹴破っていた。


「おまえら、本物の龍泉玉はこっちだ!」


 武器を持った男たちが一斉に振り返る。ラーマは船べりに立ち、懐から出した白い玉を掲げて見せた。そして、懐からいくつもの白い玉を出してばらまいた。


「青姫が持ってたのはこれらと同じ、二束三文のくず玉だ。でもこいつは違う。斑紋のある本物だ。青姫とリャンを放せ。さもなくば海に投げ捨てるぞ!」


 奥に座っていた頭目のルーがゆらりと立ち上がり、剣を構えた部下たちを手で制する。


「わかった。落ち着け。まずは娘たちをそっちへよこす」


 海賊たちは矢をつがえ、ラーマを狙う。


 服で胸を隠す青姫と手を縛られたままのリャンが押し出されるように船室から出てくる。


「ラーマ、何で……」


 青姫がラーマを咎めようとしたとき、ラーマは青姫とリャンをそれぞれの腕で抱えた。


 海賊たちが弓を引く。


「スン、いまだ!」


 ラーマの帯に結ばれていた綱が引っ張られ、三人は宙に舞う。綱は桟橋のクレーンにつながっていた。海賊船から放たれる矢は「バルバロウカイ」の呪符によりことごとく外れ、ラーマは娘たちを抱きかかえたままクレーンの頭頂部に立った。


 海賊たちが船から桟橋になだれ込んでくる。ラーマは綱を素早くほどき、二人を抱えたまま桟橋に降り立つ。スンが煙幕弾を投げつけ、煙が海賊たちを足止めする。


「もう自分で走れる!」


 青姫はそう言うと、着物がはだけたまま、スンの投げてよこした棍棒を受け取る。煙を抜けて追ってきた海賊に水平の一閃を見舞う。


「偃月!」


 海賊たちの脛を薙ぎ払う。先頭の三人が転倒し、後続もぶつかって積み重なる。四人は桟橋を走り抜け、フォンが櫂を持つ手漕ぎ船に飛び乗った。


 そのとき、風で煙の晴れた向こうに立っていたグエンが石弓の引き金を引いた。


「危ない!」


 青姫を突き飛ばしたラーマの胸に、重たい鏃が撃ち込まれた。


 血を吐いて倒れるラーマ。船が揺れ、フォンが急いで岸を離れる。


「ラーマ!」


 青姫の声を聞きながら、ラーマは揺れる船の上で死を悟った。


「ラーマ、大丈夫、今助けるから!」


 青姫は腰巻から紫の札を取り出し、血があふれるラーマの胸に押し当て、悲痛な顔で何やら呪文を唱えた。


 ――。


 気づくと、ラーマは寝台に横たわっていた。フォンの家だ。薄暗い寝室にはリャンがいて、湯呑に茶を淹れていた。


 ラーマは起き上がる。胸の傷は痛みはあるものの、塞がっていた。


「やつらは……」


「黒龍団なら心配ない。龍泉玉を返して話はついたよ」


 青姫はどうなったかと訊くと、リャンは口を堅く結んだまま、隣室へラーマを連れて行った。

 フォンとスンが寝台の傍で険しい顔をしていた。


 寝台に横たわる青姫は髪の毛が一本もなく、目は色を喪い、うつろに虚空を眺めていた。


「交換の呪符で生気をおまえの傷の治癒力に換えた」フォンが言った。


 ラーマは変わり果てた青姫の姿を見て膝から崩れた。


「俺は、なんてことを……助けるはずが、また助けられた」


「この子を救う方法――というよりはただの延命に過ぎないが」


「なんだ!? なんでもする!」


 フォンが白い玉をラーマの眼前に突き出した。


「本物の龍泉玉だ。おまえが持っていたのとはじめにすり替えておいた。これを飲めば、素養があれば魔奈の器になれる。そうしてためた白魔奈を使って青姫を治療するんだ。もっとも、命を落とす覚悟でね」


「わかった」


 玉を取ろうとするラーマの手をフォンはかわした。


「命にかかわるもんだ。簡単に渡すわけないだろ……ひとつ約束しな。飲んでやばいと思ったらすぐ吐き出すんだ」


 ラーマはうなづく。


 そして、渡された白い玉を躊躇することなく飲み込んだ。


「う……うああああ」


 すぐに激しい息苦しさが襲ってきた。喉を過ぎて腹に落ちたとき、玉は冷たさを通り越してまるで高熱の塊になった。ラーマは床上でのたうち回った。心配するフォンたちの声が遠くなっていくのを感じた。




「未来が……見てみたいの」


 青姫は最後の願いを語った。


 いつか、魔奈に当てられてうなされたときに見た夢で、青姫は未来の世界を垣間見た。空飛ぶ船、動く階段、動く絵に動く文字。多分、あれは自分の子孫か来世か、その世界で青姫は歌を歌っていた。聞いたことのない、躍動感のある音楽に合わせて、感情をほとばしらせるような歌を歌っていた。


 千里眼を得られたら、またあの世界に行けるかもしれない。紫の呪符を使おうとしていたのは、ラーマと同じく、千里眼を得るために魔奈のこもる龍泉玉を盗むためだった。


 これまで孤児を助け、ラーマやスンを助けていた彼女がはじめて語った自分の望みだった。


 ラーマは安家から瞬妃を誘拐する形で連れ出した。はじめて現場で協力してくれたフォンはそのまま安南から姿を消した。


 青旗一味は密航船で安南から脱出した。海南島に向かったが、頼りにしていた母の船は見つからなかった。海商や唐政府の後ろ盾を得た海賊団に襲われ、みな散り散りになったという。


 同じく彼女を探していた元船員たちと再会でき、そのまま同行してくれる者もいた。


 霊具の噂を頼りに南に向かって漕ぎ出しだとき、青姫は寝たきりになり、そのまま、船上で命を落とした。


 スンとリャンは安南に戻り、ほかの仲間とは嵐の中ではぐれてしまった。


 一人になったラーマは、それでも千里眼を求めて旅をつづけた。


 チャンパ、チェンラ、シュリーヴィジャヤ、そして海龍剣のあるというドヴァーラヴァティにたどり着いたときには、呪符術の達人になっていた。



 ――。


   ――。


     ――。



 朝になっていた。淡い陽光が椰子の葉を照らし、波の音が優しくさざめいていた。


「ラーマ……」


 トゥミはとなりのハンモックの中の青い王子に話しかける。


 ラーマはあくびで返事をする。


「千里眼は過去も未来も見れるんだ。これは、今思いついたんだけど、もしかしたらだけど。僕の千里眼が強くなれば」


「なんだ……まわりくどいな」


「未来を見て病気の治療法を探り、過去の僕にそれを伝えて、安南へ行くよう導けば、シュンヒを助けられるかもしれない」


「シュンヒ……っておまえ、その名」


「僕が千里眼を得たのはきっとそのためだ」


 ラーマはしばらくトゥミを見つめたあと、また椰子の葉に遮られた空を見た。


「俺のことは気にすんな。まあ、まずはお前を唐へ向かう船に乗せるところまでつきあってやるよ」

「ラーマ、でも」


「いいから、死んだ人間が生き返るわけがないだろう」


 ラーマはトゥミに背を向けてまた寝てしまった。





 8 聖地ロッブリー


 バンコクの北150キロに位置する古都ロッブリーは、五世紀にモン人により建設され、古代にはラヴォ王国の都ラヴォプリーと呼ばれた。「溶岩の町」という意味だ。


 海岸線が近くにあった頃は、モン人だけでなく、マレー人やクメール人も居住する国際的な港市だった。


 ラヴォプリーはナコーン・パトムの没落後、ドヴァーラヴァティの中心都市となるが、十世紀にマレー半島のシュリーヴィジャヤの属国単馬令(タンブラリンガ)に侵攻され、新たな支配者となったマレー人王子がクメール人の王妃を迎えたことで、クメールの支配力が増していく。


 その後、ビルマ族のパガン朝やクメール人のアンコール朝、タイ族のスコータイ朝からの侵略を受ける。アンコール朝支配時代の建築物、プラーン・サムヨート寺院はアンコールワットにも似た、アーモンド型の縦長の塔堂三基を擁した石造りのヒンドゥー教寺院だ。


「うわ、猿が怖い、猿!」


「目合わせちゃだめなんだって」


「バイユ、リュックを狙われてるぞ!」


 クメールの寺院は公園のような広場にぽつんとあったが、そこは完全に猿の群れに占拠されていた。ラーマーヤナのハヌマンが由来らしいが、観光客たちはみな小さな略奪者を怖がっていた。


 凌太も荷物を狙ってとびかかって来る猿たちに苦戦した。小さいが、人間への遠慮のなさはニホンザル以上だった。群れを成して電線を走り、我が物顔で道路を横切り、観光客の手荷物やコンビニ袋を狙って突進してくる。


 オレンジの袈裟を着た少年僧たちが、寺院前の広場で猿を肩に載せて写真を撮っていた。


「すげえ。徳の違いかな」とバイユ。


「あんたらが間抜けなのよ、私なんか、猿どもが避けて通るよ」


 たしかに、ヴィッキーが睨むと、狂暴な猿たちがたちまち逃げていく。本能的に、危険を察知するのだろう。


 町には人が多いが、建物の多くは古く、大都会バンコクとはずいぶん雰囲気が違う。原付バイクが多く、クラクションがうるさい。新興国らしいエネルギーにあふれている。


「先回りしたけど、キキとシュワンはラヴォに来れるのかな」


「シュワンの強さなら難なく切り抜けるでしょ」


「メーンの町って、どこなんだろ。地図にないね」


「おそらく滅んだか、名前が変わったんでしょうね。まあ、千二百年前だし、残ってるほうが奇跡なのよ」


 八世紀から残っている建造物は見当たらず、その日は宿をとって漫画がアップされるのを待つことにした。


 凌太とバイユとロハスは宿のとなりのマッサージ店でタイ式マッサージを受けた。ねそべって、おばさんの力強い按摩に身をゆだねて眠くなってきたとき、となりのマットでバイユが「いたたたた」と言った。


「バイユ、体固いんだね」


「デジャヴだ。書き換え前の前世でもそうだったんだ」


「こういうシーン、ドラゴンジャーニーであったね。ほら、馬主と養年富が蘇州で按摩を受けるシーン。デジャヴってそれじゃないか」とロハス。


「そ、そこまでオタクじゃないよ、いてて」


 マッサージが終わると、ロハスは屋台街に行くと言って立ち去った。凌太が店の露台のベンチでハーブティーを飲みながらぼおっとしていたら、となりでバイユがなにやら嬉しそうに微笑んでいる。


「どうした?」


「なんか、楽しくってさ。いや、ナティやジーメイのような不幸なこともあるけど、僕はこういう旅がしたかったんだなって。ドラゴンジャーニーを好きになったのも、こういうのに憧れてたんだろうなって」


 どこか影のある笑顔だった。けれど、凌太はバイユの気持ちがわかった。


「なにしてもダメだった僕が、世界を救うために戦っているなんて。しかも、平群広成の子孫やあのヴィッキー・リーと一緒に旅をしているんだぜ」


「そういえば、バイユはどういういきさつでネオランダに入ったんだ?」


 バイユはなにかをためらうように一瞬うつむいた。その表情はさっきまでの、はしゃいだオタク青年ではなかった。


「こういう暑い日だったな、書き換えに気づいたのは。校舎の裏の、人目のつかない日陰のひんやりしたところでさ。はじめて歯向かったんだ。殴られるのは慣れてたけど、頭を踏まれて、コンクリートに顔を押し付けられたのははじめてだったんだ。で、そのときに、なんか、これって現実じゃないなって思ったんだよ。ほんとうはもっと、快適な場所で、順風満帆な人生を送っているはずだ。そう思えば、夢から覚めて、本当の現実に移行するんじゃないかって思った」


 バイユは高校のときにいじめられていたこと、友達はオンラインゲームの世界にしかいなくて、それで日本語と英語を覚えたこと、ITの専門学校に進んだが、家が貧乏で学費を払えなくなって退学したことを話した。


「それで、だいぶたってから気づいたんだ。あのときの現実感のゆらぎは、書き換えによるものだった。快適な人生は誰かが起こした歴史改変によって消えて、この厳しい現実に放り込まれたんだ。そう考えると、つぎつぎに、過去世の記憶がよみがえった。はじめは妄想かと思ったけど、そのことをパールパレスのチャットで話していたら、ヴィッキーがメールを送ってきた。僕の知っている歴史的事実と彼女の記憶が一致したんだ」


「それで、前は日本人だったって言ってたけど? それも記憶があるの?」


「いいや、それは妄想。なぜか、書き換え前の自分のことはわからない。でも、なんとなく、裕福だったっていうのはわかるんだよ。ときどき、夢で巨大な資産を動かしている場面を見るんだ」


「人生を取り戻すためにネオランダに協力しているってわけか」


「はじめはそうだったけど、それももうどうでもいい。なんていうかさ、この旅そのものが、チェン・バイユとしての人生を取り戻すことになる気がするんだ」


 ヴィッキーから呼び出しのラインが来た。


「ホテルに戻れってさ」


「やれやれ、短い休憩だったね」


 日差しが強く、立ち上がったバイユの姿が一瞬、逆光で白く光って消えた。




「ロッブリーでキキの印が見つからなきゃ、トゥミを追ってマレー半島を南下したほうがいいかも」


「そうね。ここらでチームを分けるというのもありかも。私とリーロンはキキに、ロハスと凌太はトゥミについていくの」


「僕は?」


「あんたはバンコクでサイトの管理。そのほうが安全だ。台湾に戻ってもいい。どちらかに同行するなら私たちね」


「ちぇっ。南の島に行けるかと思ったのにさ」


「ねえ、今更だけど、ヴィッキーとジーメイはキキとトゥミ両方、バイユはおそらくキキ。ロハスはバロンが先祖って話だけど、リーロンは?」


「リーフォン。第六話に出てきたラーマの師匠よ。ちなみに、彼は魔奈の器としては弱いから千里眼は使えないけど、呪符術は代々引き継いでる」


「モニカが使っていた呪符術はリーロンと同じみたいだけど、彼女もリーフォン系?」


「謎。どこで呪符術を覚えたのかも不明。気になるのは、彼女が八分の一引いているという日本人の血だけど――」


 そのとき、太陽に雲がかかったかのように、突然あたりが色を失くしたように薄暗くなり、音が遠のいていった。色と音以外に変化はなく、ヴィッキーやバイユはさっきとかわりなくしゃべっていて、リーロンの吐き出した煙草の煙がゆらいでいる。ロハスも警戒している様子はなく、真剣な表情でヴィッキーの話を聞いている。


 空気が密度をなくし、光が存在感を喪い、あらゆる輪郭が糸のようにほどけていく。


 貧血か、それとも――。


「ロケラオクーク」


 誰かの呪文が聞こえた。小声だったので、男か女かはわからなかった。


 部屋の壁や天井や調度品や人物のほどけた輪郭が躍るように再構築されていく。線は柱になり、梁になり、3Dの空間座標が有機的に結びついてく。そして、色が戻って来る。二色刷りの世界から、三色、四色、と、次元を増やしていく。そこは六角形の広間で、天井が高い。バスケットボールのコートが入りそうな広さだ。


 どことなく、平城宮の大極殿を思わせる古風なつくりだ。


「これは――仮想現実?」


「そう。役小角や李密翳が使っていた術式だ」男の声だった。「密翳ならうまくできるんだろうけど、私のつたない技術で別時代の者とこの魔奈空間を共有するには、強力な因果関係が必要でね、末裔の君を招待するだけで精一杯だった」


「末裔?」


 見ると、烏帽子をかぶった奈良貴族のような男が、壁際の腰掛に座っているのが見えた。


 まだ視界はぼんやりしているが、すこしずつ照準が定まっていく。


「あんた……まさか」


「はじめましてだな。私は平群朝臣広成。崑崙王に封じ込められている」


「へ、平群? ひ、広成……?」


 広成の姿はぼんやりしていて、まるで出来損ないのホログラム映像だった。しかし、その顔はドラゴンジャーニーに出てきた平群広成に似て、整っていた。容姿も選考基準のひとつであるという遣唐使に選ばれるだけのことはあると思った。


「話はあとだ。まずは、ジーメイの絵巻を読もう。新しい話が掲載されている。ほら、そこから読める」


 広成が指差したところに、大きな緞帳のような垂れ幕があり、そこに漫画のコマが映し出されていた。



【第七話 光】


 シュワンが力を解放しようとしたとき、キキは彼の体が光を放ったように見えた。その光はキキの目だけに映っているようで、ほかの者には見えていない。


 いや、ただひとり、人だかりの中から見ていたヴィーだけが、シュワンを見て驚いたように目を見開いている。そして、キキにも光が見えていることに気づいているようだ。


 あの光はシュワンのいう白魔奈の力の具現だろうか、と思ったとき、その光がとつぜん、キキの目をくらませるほど強く瞬き、視界が白く染まった。


 その白い世界のなかでは、あたりは血に染まっている。番兵も見物人も、首や手が斬られ、腹を斬られ、狂戦士と化したシュワンが血しぶきのなかで飛び跳ねながら槍を振り回している。


 飛び散った肉片がキキの頬にあたり、足もとに誰かの手首が転がる。朝に旅籠まで案内してくれた若い番兵が倒れている。はらわたが飛び出し、ぴくりとも動かない。


 凄惨な光景は一瞬のひらめきのうちに消え、キキは現実に戻る。


「シュワン、待って――」


 シュワンが暴れ出すのを止めようとしたが、もう彼は戦闘態勢に入っていた。縛られていた縄を引きちぎると、そばにいた番兵を投げ倒した。素早く槍を奪い、倒れた番兵の脚を突き刺す。番兵の悲鳴とともに、あたりは騒然となる。


 番兵たちが槍を構え、シュワンに切っ先を向ける。


 ――だめだ、止めなければ!


 キキはシュワンの背中に体当たりするようにぶつかった。シュワンは驚いて我に返る。


「だめ、やっぱり、殺さないで!」


「何言ってる、もう遅い!」


 キキはシュワンを見上げる。彼の目はまだわずかに理性を残していた。キキはその光をとらえようと、見失わないよう、必死で彼の目を見つづた。


「けど、あんたが言うなら――」


 ずしゃっ、となにかが刺さる音がした。


 飛んできた矢がシュワンのこめかみに命中したのだ。


 キキはシュワンのさいごの知性の光をやどした目が、キキになにかを語りかけようとしているのに気づいた。


 くちびるがかすかに動いたが、声はなかった。ありがとう、という言葉が頭にひびいた。


 シュワンはただ茫然と目を見開くキキをゆるすように、やさしく微笑んだ。


 景色がゆっくりと動く。まるで、時間が止まったかのようだった。


 異様に青い空。


 自分にむかって前のめりに倒れてくるシュワンの体が、キキの肩にふれ、そのまま固い地面に倒れ伏した。糸の切れた人形のように。


「シュワン……?」


 キキは石のように動かなくなったシュワンの背中を見ながら、千里眼で矢の飛んできた方向を探った。そして振り返り、射手を睨みつけた。


 小屋の陰から矢を放ったのは、キキが森で射抜いた娘だった。その左胸の傷が開いたのか、苦しそうに息を吐きながら、涙目でキキを見ている。


 キキは一瞬で理解した。彼女は藪の中でシュワンが喉を斬って殺した男の身内だ。そして、シュワンは彼女の傷を治した。だから、彼女は立てるようになり、シュワンはあんなに疲れていたのだ。


 ――。


 キキは落ちていた槍をつかむと、怯えた娘の顔面に照準を合わせ、振りかぶった。


 今度こそ、息の根を止めてやる――!


 そのとき、誰かがキキの手首をつかみ、すごい力でひねり上げた。そのままキキは地面に組み伏せられる。


「ぐうっ、はあっ」


「よせ、おまえまで殺されるぞ」


 キキの頭を抑え、背中に膝を押し付けていたのはヴィーだった。


 番兵たちはキキたちのほうに槍を向けたまま、じりじりと近づいてくる。


「私は偉大なるラヴォ王国の姫巫女(クマリ)にして聖地ハリプンジャヤ太守チャーマデヴィ!」


 ヴィーが番兵たちにむかって声を張り上げた。恫喝するような声だった。


 人々がざわつく。


「この娘の命、私が預かる!」


 キキは地面に顔を押さえつけられながら、言葉にならない声で泣き叫んでいた。涙と鼻水が土にしみこんでいく。


 斜めになった視界のなかに、シュワンの死体がある。彼の光をなくしたうつろな瞳はもうなにも見ていなかった。


「シュワン! シュワン……!」




 乾期の密林は涼しく、朝は肌寒さすらある。日差しを遮る背の高い木々が生い茂る薄闇のむこうから、冷たい空気がただよってくる。


 ほかの象よりひとまわり小さいファンカムの背中に揺られながら、キキは自分の心が石仏のように冷えて固まっていくのを感じた。


 父が死に、母が死に、ピーウォックが死に、シュワンが死んだ。兄のトゥミも生きているかどうかわからない。遠ざかっていくナコーン・パトムの町は、もう戻れない穏やかな日々そのものだった。

 

 キキは殺す相手のリストをぶつぶつとつぶやいた。シュワンを殺した娘、ラーフの名が殺しのリストに加わった。


 番兵たちに運ばれていったシュワンの死体。追いかける余裕はなかった。ヴィーとその部下たちはキキをなんとか町の連中から守るので手一杯だった。


 ヴィーはメーンの町長と最後までもめていたが、結局、十頭の恐ろしい戦象を見た相手が折れて、ヴィーら使節団一行は、キキをファンカムに乗せて町を出ることに成功した。


「もうすぐだ。ラヴォプリーについたら、ファンカムにきれいな鞍をつけてやろう」


 大河沿いの野営地で、焼いた川魚を食べながらヴィーが言った。


 ヴィーやキキが砂利の上に座って夕食をとっている間、家来たちはかがり火をあちこちに炊き、象に積んでいた天蓋を組み立てている。


 ヴィーの筋骨はたくましく、言葉遣いも粗暴な軍人だが、仕草は上品で、きれい好き。髪からは香のにおいがした。礼装に着飾ったら、たちまち貴婦人に様変わりするだろう。


 部下に対する的確な指示や、相手の言うことを一瞬で理解する頭の回転の速さから、彼女が身分だけでその地位にいるわけではないのもわかった。年はまだ二十歳そこそこのようだが、異様な貫禄がある。そして、シュワンと同じ魔奈の香りがする。


 キキが両親を殺されたこと、ガイヤンとバロンのこと、シュワンのことを話すと、ヴィーはたちまち状況を理解したようだった。


 ナコーン・パトムへの朝貢を兼ねて祭りに参加していた彼女は、ラヴォ王国の使節にしてハリプンジャヤの太守であり、バロンの襲撃もガイヤンが政権を乗っ取ったことも知っていた。キキ以上に政情を理解していて、次の一手をさぐっているようだった。


 ほかの使節団は船で帰ったが、ナコーン・パトム王に戦象を献上するため陸路で来たヴィーは帰りも陸路だった。周辺地域の視察も兼ねているのだろう。


「で、私をどうする気?」


 キキは焚火で赤く染まったヴィーの横顔を睨む。


「言ったろ、おまえの親戚に会わせてやるって」ヴィーは横目でキキを見た。「そのつもりだったんだろ?」


「私に利用価値があるから、危険をおかして助けたんでしょ」


「かしこいな。見込んだだけのことはある」


 ヴィーはキキの顔を覗き込む。キキは同性ながら、その目の輝きの深さにどきりとした。大きな目はどこまでも澄んだ底なしの泉のように碧く、長いまつげと形のいい鼻筋は、彼女の言った「姫巫女」に必要とされる素養なのだと思った。


「ラヴォについたらぜんぶ話すさ」


「いま話して」


 ヴィーは微笑みを止め、キキの目をじっと見る。キキは負けじと睨み返す。


「わかった、話そう」


 ヴィーはそばにいた部下を外させ、焚火を挟んでキキとふたりで向かい合う。


「ナコーン・パトムはガイヤンの手にある。国王は老衰で寝たきり、王子や邪魔な貴族らは流刑にされ、宰相は毒を盛られて虫の息。マカラ派の軍人たちも都を追われて散り散りだ。ガイヤンの背後にはシュリーヴィジャヤがいる。バロンが都に現れると、その国は親シュリーヴィジャヤの政権に代わり、やがて属国化する。ランカスカやタンブラリンガのようにな。シュリーヴィジャヤを支配するシャイレンドラ王家の狙いは大陸侵攻だ。扶南の地を取り戻したいんだ。ナコーン・パトムはその前線基地にされるということだ」


「そんな……」


「元シュリーヴィジャヤ人のマカラを謀反の犯人に仕立てたのはモン人諸王や国民の目を欺くため。裏ではきっちり属国化がはじまってる。ここでガイヤンを叩かないと、ドヴァーラヴァティに未来はない。東のチェンラとの挟撃でいずれ滅ぶぞ」


「戦をするのね、ナコーン・パトムと」


「このまま国王が死んでガイヤンが即位すればな。国賊討伐の大義名分が立つ。そして、おまえをナコーン・パトムの新女王にする」


「ええっ、なんで……私が?」


「おまえはラヴォ王家の血を引いているし、なにより、姫巫女としての素養がある。見えてたろ、あのシュワンという男が光るのを」


「あれは……魔奈という力よ。シュワンに教わった」


「魔奈か。安南の胡人はそう呼んでいたな。ラヴォ王国にはその魔奈の素養のある乙女を宮廷巫女として王家に差し出す風習があってな。私もそうだった。おまえを姫巫女に推薦する。ふつうは初潮前に奉職するが、まだ処女なら問題ない」


「しょっ……」


「なんだ、ちがうのか? シュワンに抱かれたか?」


 キキは顔を真っ赤にして首を振る。


「ならいい。ナコーン・パトムでガイヤンに復讐し、両親の墓標を建てろ。それと……」


 女王は睨むようにキキを見た。キキはぞくりとした。心の奥底を射抜くような目だった。


「進軍の途中、メーンも通る。シュワンを殺したあの町をどうするかは、おまえに任せる」


 キキの脳裏に、象に踏みつぶされ、火矢に焼かれるメーンの町が浮かんだ。


 キキの想像を読んだのか、ヴィーの目の光がすこし昏くなった気がした。


「ねえ、シュリーヴィジャヤがガイヤンの背後にいるって言ったよね……」


「ああ。いまも、バロンが何人かナコーン・パトム近辺に潜伏しているようだ。ガイヤンが黙認しているんだろうな」


 キキは未来を想像する。戦場になったナコーン・パトムが戦火にのまれる中で、斬象刀を持つバロン・シャシャンカの姿が見える。


「今度会ったら……かならず」


 殺す。


「ん?」


「ヴィー、私に剣を教えて。身を守るために。殺し方は、もう見て覚えた」


 ――。




 部屋の中央に垂れる大スクリーンの漫画は心に呼応してひとりでにページがめくられる。


「チャーマデヴィの手駒にされるとは。保護者ができたのはいいが、修羅の道だ。あの娘にとってあまりいい展開ではないかもしれないな。しかし、シャルカールが死んだか……」


 凌太は奇抜な形の腰掛に座って、斜め隣の席の広成を見た。さっきよりも輪郭がぼやけている。距離が離れているように思える。


「キキの選択がことごとく裏目に出るのは、絵巻を観た者たちからの声の影響か」


「あの……チャーマデヴィは何者なんですか?」


 ほかにもっと聞くことがあるだろうと自分を責めたが、伝説の登場人物が目の前にいるのだ。聖地中の聖地だ。動転して当然だった


「元クマリのラヴォの将軍だ。クマリとは天竺由来の処女信仰で、容姿のいい乙女を女神として崇める、生贄の一形態だ。大人になれば族長になったり、踊り子や娼婦になったりするが、あのお転婆姫は別格だ。諸部族を牽制するため北部の総督に任命されたが、そこに独立国を作ろうとしている。怖い女だ。誰かを思い出すなあ」


「ず、ずいぶん詳しいんですね」


「ヴァジュラダートでいろんな情報に触れるからね」


 広成はけだるそうに手足を伸ばした。退屈しているように見える。


「あの、さっき崑崙王っておっしゃいましたけど、チャンパ王のことですか。崑崙国って、チャンパのことでしょう」


「ちがう。崑崙王はヴァジュラダ―――統べ―主、――のこ―だ。もと―と崑崙―は異界のこ―。仙界や桃源郷とも―う。―の部屋のもっ―大きな―の――。そ―に魔奈―いの―があ―」


 広成の言葉がとぎれとぎれになっていく。彼との距離が離れかけている。


「――しは養年―と――して死に――たとこ―を―つえいの―――」


 景色がまた色と線を失っていく。柱の線が消え、天井の鴨居が消え、椅子が消え、広成の体がもやもやとしていく。


「ちょっと待って! どうすればまたここに来れる?」


 ぼんやりとしたフォルムだけになった広成がなにかを答える。


 ――。


   ――。


     ――。


「どうした、凌太?」


 ヴィッキーたちが不思議そうな顔でこちらを見ていた。


  ――今のは、夢?


「いま……」


 凌太は今起きたことを説明しようとしたが、なぜか頭のなかにいろんな情報が入ってきて、うまく思考がまとまらなかった。またいくつもの書き換えが起きて、微妙に過去が変わった気がする。一瞬の夢のなかで誰かに会っていたが、名前も顔も思い出せない。


「そうだ、第七話がアップされているはずだ」


「なに? あ、本当だ。ついさっきだ。凌太君、なんでわかったの?」


「リーロン、あんたの呪符術にロケラオクークというのはある?」


 凌太の問いに、リーロンの目が鋭くなる。彼は小さくうなずく。


「ロケラオクークは封じ込めの呪文」ヴィッキーが答えた。「李密翳が真備に使ったやつよ」


「やっぱり。いま、俺は誰かにその術をかけられて、仮想現実にいた」


「なんだって?」


「ネオバロンの攻撃か?」


「ちがうと思う。会ったのが誰かよく思い出せないけど、そこで第七話を読んだよ。ねえ、ジーメイのいる場所って、もしかしてその……ヴァジュ……なんだっけ」


「ヴァジュラダート。サンスクリット語で金剛界のことさ」


「ジーメイは漫画を描いたのは現実世界だけど、同時に、ヴァジュラダートで過去の夢を見ている。そこから魔奈を使って、過去の自分に情報を送って漫画を描かせてんの。未来からアップロードの日時も指示しているのよ」


 リーロンがヴィッキーを驚いた眼で見ている。こいつらに話していいのか、という顔だ。バイユとロハスも初耳だったようだ。


「すでに描いたものっていうのは気づいてたけどさ」


「まさか、すでに死んでるんじゃないだろうな」


 ロハスの軽口めいた問いに、ヴィッキーは目を曇らせる。


「え、まじなのか」


「もう時間がなさそうだから」


 とヴィッキーは前置きして、ジーメイについて語った。


 二十年前、ジーメイは日本の出版社に『巡礼の印』という漫画の原稿を持ち込んだ。漫画に描かれたリュガ王国との戦いは、書き換えが起きる前の消えた歴史だった。ジーメイは書き換え前のことを覚えていなかったが、紙にペンを走らせ、竜星や自らを漫画に描き、物語に命を吹き込むうちに、なにかが「印」となって彼の魔奈をふたたび目覚めさせた。


 五年前、新人作家の売り出しに悩んでいた編集者が、書庫の奥から、偶然シュレッダーを免れたボツ原稿を見つける。持ち込んだ漫画家の記録はなく、欄外のメモで外国人だということだけがわかった。それをいいことに、絵だけが上手い新人を起用して、『ドラゴンジャーニー』として世に出した。作品は文化庁の漫画賞を受賞し、ヒット作となる。


 二年前、アニメ化されたとき、台北で無名のギャグ漫画家になっていたジーメイは悔しがった。しかし、もともと彼も竜星の遺したネームをもとに描いたわけで、盗作だと騒ぐ気にはならなかった。

 歴史改変を題材にした大作漫画で一花咲かせようという野望は捨てていなかった彼は、ヴィッキーが止めるのも聞かず、竜星のあとを引き継いで、中国や東南アジアで広成やナギの足跡を追いつづけていた。そのなかでリーロンと知り合い、エフタルの呪符術に精通していった。


 一年前、ヴィッキーは久しぶりにジーメイからの連絡を受ける。


「いま、ドラゴンジャーニーの続編を描いてるんだ。僕も竜星のように、夢で先祖になることができた。今度こそ、自分の作品だ。すごい漫画になるぞ!」


 なにかにとりつかれているようだった。漫画は日本の漫画投稿サイトで連載されはじめた。ウルラガに見つかったらどうなるか――。ヴィッキーが心配していた矢先、ジーメイは自動車事故で死んだ。


 九か月前のことだった。彼が身に着けていた遺品のなかに、ロケラオクークの黄色い呪符があった。こうなることを予測していたようだ。彼は、千里眼による不死の術でも回避できない死の運命にあったのだ。死ぬ少し前に、ヴィッキーにメールを送っていた。 


 漫画は最後まで完成していたが、原稿はジーメイ以外にアクセスできないクラウドサーバー上から、彼のSNSに、指定日時に自動投稿される。SNSのアクセス権はヴィッキーに付与されたが、限定会員にのみ作品を公開するよう管理を任された。


 ヴィッキーは〈パールパレス〉を立ち上げ、身元を調べた限定会員だけが閲覧できるようにした。

 漫画をSNSで発表したことでウルラガの密偵に命を狙われたジーメイは、過去の自分に漫画の内容を教えるとともに、発表方法まで指示し、漫画をウルラガに対抗する武器――歴史改変装置としたのだ。


 ロケラオクークは、不死の術が発動するまでの猶予期間をつくりだす。今後、ジーメイの漫画を読んだ誰かがおこなう歴史改変により現実が描き変わり、再びこの世界にジーメイが現れるかもしれない。それまでの間、生と死の可能性のはざまにいるジーメイの存在は揺らぎ続けている。


 ロケラオクークで封じられたジーメイの存在可能性、つまり転生を待つ魂は、時空を超越したヴァジュラダートにいる。そこからジーメイは歴史が改変するたびに、過去のジーメイに情報を送り続ける。


「そのヴァジュラダートにアクセスできれば、魔奈を介してあらゆる情報に触れることができるというわ。ナティラがナティに生まれ変わるまでのタイムラグも、それで説明がつく。彼女も一時ヴァジュラダートにいたのよ」


「そうか……モニカのあの呪符は、そういうことだったのか」凌太はモニカがナティの枕元に置いた呪符を思い出す。「ナティもそこにいるのか」


「そのモニカ・サンダーのことだけど、探偵から情報が入ったわ。親が金の力でもみ消したけど、過去に殺人未遂と薬物中毒でモデルをやめたらしいわ。あと、彼女が八分の一もっている日本人の血について。五十年前に亡くなった彼女の曾祖母が、日本からインドネシアに嫁いだらしくて、その旧姓が驚きなのよ」


「まさか、平群とか?」


「いえ、彼女の名は土御門(つちみかど)妙子(たえこ)。土御門家は、天皇に仕えた陰陽師の家系。つまり――」


 そのとき、凌太は窓の外から、異様な気配がするのに気付いた。


 見ると、向かいの建物の屋上から、こちらを見ている女性がいた。


 背の高い、ホットパンツを履いた白人女性。


 彼女は手に望遠レンズのついたカメラらしきものを持っていて、唇を動かした。


 凌太には、なぜか、その声が頭に響く。


「レインナスタ」


 列英納斯塔――ラーマが使っていた「命中」の呪文――。


 モニカの手にあるのが望遠カメラではなく狙撃銃で、自分たちの部屋に照準を合わせていることに凌太が気づいたとき、彼女はすでに引き金を引いていた。


 その狙う先は凌太ではなかった。ヴィッキーでもない。


 弾丸は窓際にいたバイユのこめかみを打ち抜いた。おびただしい血がカーテンと壁を赤く染めた。



 ※



 ――やられた、死んだーwww――


 リアムからのラインメッセージを見て、レオは搭乗ゲートに向かう足を止める。


 前を歩いていたキリクが振り返る。


 ――モニカには密偵行為がばれてたみたいだね。バイユ自身にすらばれてなかったのに。


 メッセージは表示されると、リアムのアカウントごとすぐに消える。そしてすぐにまた次のメッセージがあらわれる。リアムの存在が点滅している。


 ――分身が死ねば僕も同じ運命を歩む。ララワグのように。しかし、そこは魔奈大師(クトット)候補と言われた僕だ。手は打ってある。


 レオは返事をせず、ただ既読にして次のメッセージを待つ。


 ――モニカはあれで僕が消せると思ったんだ。デコヒーレンスすると思ったんだ。けれども、逆効果。むしろ、僕を先に進めてくれた。僕が殺せないバイユを殺してくれた。


 レオは待つ。


 ――君は動くだろう。僕のために。海龍剣のために。君たちの立っている歴史という名の土台はなんともろいことか。同じく、そこにいる君たち自身も。


 ――竜星が広成とつながったときから、すでにはじまっていたんだ。魔奈が時空に穴を開けたときから、八世紀よりあとの歴史は白紙に戻った。


 ――きみたちが見ている二十一世紀の世界は〈現在〉なんかじゃない。不確かな、未来


 の可能性のひとつにすぎない。


 レオは親指で素早く返事を打つ。


「どうすれば一つに収束(デコヒーレンス)する?」


 ――やはり海龍剣だ。あれは強力な印だ。オーパーツであり歴史のマクガフィンだ。あれさえ手に入れれば、確実に建国シークエンスが起動する。過去世ではトゥミとラーマが持っている。僕のいうとおりに、バロンを動かして彼らから奪え。そうすれば現世でも手に入る。


 ――その行為自体が印となって、僕は生まれ変わるだろう。トゥミ以外の誰かの子種が、時代を超えて、代わりに生まれてくる誰かが、僕になるだろう。


 ――先祖を殺すパラドックスが僕に新たな転生先を用意してくれる。そのときこそ、デコヒーレンスは達成される。


 ――レオ、今度こそ建国神話を完成させるんだ。


 ――歴史を手に入れろ。


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