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巡礼の子  作者: 日根野 了太
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第二部 建国神話 1 聖地ラーガプル ~ 4 聖地バンコク

 第二部 建国神話


 1 聖地ラーガプル


 竜を模した七人掛けのソファの真ん中で、長身の男がふんぞり返っている。短く刈り込んだ金髪の青年は両側を水着の女性に挟まれている。


 端正だが傷だらけの顔。胸元のはだけたシャツの隙間に銃痕が見える。ローテーブルに長い足を乗せ、一杯65ドルのカクテルを飲む。


「まずい」


 男は酒を床にこぼす。上品なポロシャツを着たボーイが、彼が汚した床を手際よく掃除する。


 レオ・ヴィーラは彼に近づいて苦言を呈す。


「クンビーラ、いくら金を落とそうと、品行が悪いとまた出禁になるぞ」


 クンビーラは冷笑する。


「退屈だ。ソマリアかシリアにでも送ってくれよ」


「馬鹿言え。キリクがあきれていたぞ。いいかげん、チームプレイを覚えろ。ナンディは一緒じゃないのか?」


 クンビーラがあっちだ、と親指で示したほうには楕円形の室内プールがあり、そのまわりで、全裸の大男が水着の女たちを追いかけまわしていた。黒い肌に緑色のモヒカン頭。その股間の逸物を見た常連客たちが面白がって鬼ごっこをあおっている。


「あいつといれば、こっちが品行方正に見えるから、便利なもんさ」


 レオはあきれてまたため息をつく。


「まったく、魔奈の器ってやつらは――」




 黒いダイバースーツに身を包んだクンビーラとナンディ。


「ケチな任務ばっかりだな」ナンディがぼやく。「暗殺部隊と聞いていたが?」


「もめごと解決部隊だな」とクンビーラが笑う。


「海兵たちの前では言うなよ」


 キリクが釘をさす。二人とも、身長180センチのキリクよりも頭ひとつ分背が高いが、言動も仕草もまるで子供だ。


「今回はもめごとどころじゃない。世界的なニュースになってもおかしくない大事件だ。一人も殺さずに人質を救出してみせろ」


「殺さずの縛りね。俺たちは見習いバロンってわけか」


 クンビーラは腰のナイフを抜いて、重さを確かめるように手でもてあそぶ。


「無駄口はいい。これも訓練だ」


 キリクらは甲板に出て、夜の潮風に当たる。三人の逞しい筋骨はダイバースーツの下ではちきれんばかりだった。


 先に外に出ていた紅一点のティティーラは船尾でショートヘアを風になびかせていた。


 ネオバロンの中では小柄だが、ダイバースーツはその引き締まったボディラインを際立たせている。海兵でも並の男では勝てないだろう。彼女の特殊能力を抜きにしても。


 ウルラガ海軍の巡視艇ハヌマーンはボルネオ東岸を北に向かって航行している。


 ネオバロンは公式名称ではない。四人は情報庁の特務官という肩書だ。海兵出身のキリクとクンビーラは古巣の巡視艇に便乗させてもらっているわけだが、かつての同僚らは手柄を横取りされまいとぴりぴりしている。


 ごうごうとうなるエンジン音に気配をかき消されているにもかかわらず、ティティーラは近づいてきたキリクに気づいて振り返った。


 蒼い月明りが一瞬、その目に宿る。


「予定通り、おまえはクンビーラたちと行け。私は海兵らと後方を支援する」


「キリク隊長、やっぱり、不安分子があります」


 ポーカーフェイスのティティーラはいつになく目線がうつろだ。


「因果律に微妙な波紋が」


「改変が起きそうか」


「影響の乏しい遠くではすでに起きているかもしれません。作戦には支障はないと思いますが」


「作戦にはおまえの能力が要る。改変のことはレオを信じよう」


 海上石油採掘施設が見えてきた。人工島というより、動かないタンカーのようだ。一同は待機室に戻り、作戦の最終確認をする。


「輸送機からパラシュートで降下するやつ、やってみたかったのになあ」クンビーラがまた軽口を叩く。「特殊部隊っぽいじゃん」


「飛行機を使うのは移動時間の短縮のためです。私たちには必要ありません」


「しかし、不自然だと思われるけどねえ、たまたま都合よく現場近くを航行してましたとか。死人を出さないとかって、自作自演だと怪しまれねえかな」


「怪しまれてもかまわねえんだろうよ」ナンディが低い声で言う。「この国自体が、怪しさだらけだ」


「情報庁が海賊の襲撃を予測していたなら、なぜ未然に防ごうとしなかったのかという批判が出る」とキリク。


「今の話……」


 ティティーラが言った。彼女はキリクではなくクンビーラを見ていた。


「なんだよ、千里眼でなにか見えたか?」


「……気のせいでした。デジャヴを感じたのですが」


「まあ、軍の自作自演や都合のいい偶然なんて、よくある話さ」


「あと、私の能力は千里眼ではありません。慧眼です。魔奈の流れを察知するだけです」


「どっちでもいいよ。どっちも、見たくないものまで見えるなんざ、俺はごめんだ」


 部隊は三台の小型ボートにわかれ、武装強盗に占拠された採掘施設に向かう。敵はおそらく気づいているが、こんなに早く来るとは予想外だったことだろう。


「わかっていると思うが、おまえたちなら、殺さなくても済むミッションだ」


「半殺しでやめといてやるよ」とナンディが真顔で言う。


「じゃ、ご武運を」と言って、クンビーラがゴーグルをかける。


 無言で船べりに立つティティーラ。キリクはその表情に曇りのようなものを感じる。言葉にならない不安要素が戦場ではときに命とりになる。


 声をかけようとしたが、彼女はクンビーラたちを追い越し、すでに作戦行動のシークエンスに入っていた。


 ティティーラを先頭に、レギュレーターを咥えたネオバロンたちは音もなく夜の海に身を沈めていく。



 ※



 カップに残るコーヒーに朝日が入り込みちらちらと光っている。レオは職場に泊まることはめったにないが、その日は朝まで執務室にいた。


 キリクからの報告を受けて、情報解析室から送られてくる書き換えのログをチェックしているうちに、仕事を切り上げるタイミングを失ってしまった。


 焦りや不安を通り越し、怖れにも近い感情があった。


 明け方にわずかな間うたた寝をしたが、そんなときに限って、変な夢を見る。よく覚えていないが、後味からして悪夢といっていい。ふと油断したときに、鋭利な角度で刺しこんでくるそれは、いまが歴史の重要な分岐点であることを暗示している。


 仮眠をとったあと、シャワーを浴び、スーツを着込む。庁舎フロアからビルの外につながるコンコースに出る。


 長いエスカレーターを降り、吹き抜けのエントランスホールを横切る。渡り廊下のウォークムーブに乗り、ジャングル風の植え込みの中を進む。龍の像の口から流れる人工滝の出すマイナスイオンに頬を撫でられながら、世界各地から訪れる官僚やビジネスマンらとすれ違う。


 この中央街区はセキュリティチェックがあるので、SPなしで移動ができる。


 屋内は涼しいが、熱帯特有の甘い湿気が雨季のはじまりを告げている。


 空港ターミナルのような官庁ビル群は、日本の有名な建築家がデザインした。建物のあらゆる隙間に緑があり、空気は清浄だ。


 近代的な高層ビルの隙間から仏教寺院群が見える。とがった仏塔(ストゥーパ)が青空にいくつもそびえていて、その奇妙なコントラストはラーガプルを象徴する風景のひとつとなっている。


 ウルラガは東南アジア島しょ部では珍しい仏教国で、帰化人にはキリスト教徒やイスラム教徒もいるが、国民の多くはヒンドゥー教の影響を受けた独自の上座部仏教を信仰している。ラーガプルの寺院群は世界遺産であり、東南アジア随一の仏教聖地だ。


 寺院の本堂はイスラムのモスクのようにドーム型で、回廊には金箔の塗られた数百体の仏像が壁に設えられている。


 レオはそんな寺院群とは対照的なピラミッド型の王立図書館のエントランスでララたちと合流し、併設の多目的ホールに入る。


 ホールの丸天井には、ウルラガの国旗デザインでもある、巨大な三つ巴紋が描かれている。第二代国王ブリトラが考案したといわれるその旗印は、白、黒、朱の人魂が追いかけ合っている。白は昼、黒は夜、朱色はそのはざまにある朝日と夕日を表している。


 もとは、初代王の聖剣ナーガラージャに刻まれたレリーフから来ている。


「――いまや漫画やアニメは世界共通のコミュニケーションツールとなりつつあります。我が国でも、漫画家やアニメーター、映画監督を志望する若者を育成するため、米国や日本政府と連携した文化交流プロジェクトを推進しています」


 レオは壇上で定型文のようなスピーチ原稿を暗唱する。


 そのあと、似合わないあごひげをたくわえた若き映画監督に文化勲章が授与される。華僑系移民のウー監督は、ウルラガ建国にまつわるおとぎ話を題材にした90分のアニメ映画『建国神話』で国内外から高い評価を受けた。


 スポンサーは情報庁からの天下りが主席を務める政府の外郭団体。つまり、レオがプロデューサーの元締めだ。


『建国神話』は古代ボルネオ島の戦災孤児ヴァルナが聖剣ナーガラージャを手にして海洋国家樹立を目指し、チャンパの海賊やチェンラの水軍を退け、シュリーヴィジャヤ王国から独立を勝ち取るまでを描いている。


「八世紀の物語だが、遣唐使もバロンも出てこないし、ヴァルナは千里眼も隠形術も使わない。アンチドラゴンジャーニーだという批判は望むところだ」


 レオはいつか、部下にそう話した。ドラゴンジャーニーはウルラガ国内でも人気で、キリクの姪も熱心なファンだという。


 イベントのあと、レオは別件のあるララと別れ、病院に向かった。


 広い病室にはキリクだけがいた。ソファで新聞を読んでいた。面長で長身の老兵は白髪交じりだが、五十路とは思えない逆三角形の逞しい体系をしている。


 任務のみならず報道関係者の対応に疲れているはずだが、その落ち着いた様子を見てレオはすこしほっとする。


「ティティーラは?」


「じき検査から戻ってくる。幸い、四日で退院できるそうだ」


「よかった。あんた以外は、彼女だけがまともな隠密だ」


「クンビーラとナンディは基地に置いてきた。しばらく軍に預ける。二人とも、とくにクンビーラがえらく荒れていたからな。あんたに会わせるとなにをするか」


「いいことだ。チーム意識が芽生えてきた証拠だ」


「それはそうと、海龍剣のほうはどうなった。アニメなんかで国民の集合意識を統一しようが、改変の頻度は高まっているぞ」


「わかってるさ」


 ログによると、最近、建国にまつわる史料データが王立図書館のアーカイブからごっそり消えた。歴史学界は諸説入り乱れている。歴史は揺らいでいる。


 やがて主治医が病室に現れ、レオに恭しく挨拶する。インド系の医師はティティーラの怪我の状況を丁寧に説明し、最後に両手を合わせて頭を下げ、退室した。


 入れ替わりに、ティティーラが戻ってきた。タンクトップに病人用のズボンを履き、頭にターバンのような包帯を巻いているが、思っていたより顔色は悪くなかった。


 武装強盗の撃った弾丸は彼女の額をかすめ、頭皮をほんの少し削った程度で済んだ。検査の結果、脳に損傷はなかった。


「すまなかった、私の責任だ」


 ティティーラは「いいえ。私のミスです」と言って、ベッドに腰かけた。


 ティティーラの慧眼でテロリストたちの動きを遠視し、クンビーラとナンディも能力を発揮して着実に敵を捕縛していったが、ティティーラの能力が突然フリーズした。


 彼女は身体能力も失い、敵二人の眼前に出てしまった。銃撃を受けながら、咄嗟にクンビーラが飛び出して強盗の手首をナイフで斬り落とし、ナンディがその怪力でもうひとりの首をへし折った。海兵の特殊部隊がなだれ込み、犯行グループを殲滅した。


 人質の施設職員たちは無事だったが、武装強盗は七人死亡。死人を出さないというミッション目標は果たせなかった。


「慧眼は?」


「大丈夫です。まだ生きています」


 ティティーラの肩に彫られた青い蝙蝠のタトゥーは、心なしか色あせて見えた。


 彼女の遺伝子に潜む先祖の能力を魔奈の秘術により召喚した。能力が不安定なのは、彼女の先祖の歴史が揺らいでいるせいだ。大きな書き換えが起きないということは、「震源地」は少なくとも千年以上前。その時代の彼女の先祖、蝙蝠のバロンが子孫を残さずに死んだという可能性が現れたり消えたりしている。


 情報庁の量子コンピュータからデータを盗んで消えたモニカ・サンダーの行動が関係しているかどうかはわからない。


 モニカは元英国大使の父親のコネでウルラガ富裕層に近づき、パーティーで知り合った クンビーラをたらしこんだ。ほどなくして、彼女は王族と情報庁幹部しかアクセスできない「書き換え」のログデータを持ち出して逃亡した。渡航先はシンガポール。調査の結果、その後、LCCで東京へ向かったことがわかった。


 目的は不明だが、数年前から続く微細な書き換えのログを解析し、波紋の中心を探ったのだろう。そして、それが日本にあると気づいたのだ。彼女が追っているターゲットが何者かがわかれば、この状況を打破できるとレオは直感していた。


「皇太子」


 レオの去り際に、ティティーラが呼び止めた。


「私はあなたを信じます。あなたも、私たちを信じてください」


 レオはティティーラのかしこさを感じた。


 彼女は気づいている。ネオバロンがただの暗殺部隊として作られたものではないことを。


 ティティーラが不安定なことを知っていて作戦を強行させたことをキリクは咎めなかった。能力の底上げに死の回避は必要な試練だ。


「あいつ、大化けするぞ」


 キリクの言葉は忠告めいていた。


「だろうな。あんたがうまく導いてやってくれ」


 ウルラガの存続はネオバロンにかかっていた。歴史が不安定になる原因をつくったのはレオだが、そのことについてキリクが不平を言ったことはない。書き換えで消えたものより、得たものが大きいのは彼も同じだからだ。彼だけでなく、多くのウルラガ人が今の歴史の恩恵を受けている。


 ありえなかった歴史の上に立つ、ありえなかった人生。あるはずのない国。

 負けてしまえば、すべてを失うだろう。




 レオはとなりで眠るララ・ソーマの寝顔を見ながら、また言いようのない不安と孤独に襲われる。目を閉じて、眠りにおち、いつもの不快な夢のあと、歴史が描き変わり、ララのいない世界に自分が属していたら――


 四年前、ラーガプルの王立仏教寺院で起きた王族を狙った爆破テロ――あのとき、巻き添えで死んだはずだったララが生きている世界にたどり着いたのは偶然だった。魔奈の秘術は命をトレードする。この代償を自分はいつか払うことになるのか、それともすでに失いつつあるのか。


 一連の書き換えのなかで王立博物館から消失した建国のキーアイテムであり、それ自身が強力な「印」である聖剣を現代で手に入れ、書き換えに揺るがない確固たる存在になれば、千里眼に目覚め、この歴史が揺らぐ世界を正常に戻すことができるだろう。


 レオは目を閉じる。


 瞼で閉ざされる世界から、深い無意識の海に沈むとき、自分をいつも見ている何者かの存在がある。

『ドラゴンジャーニー』のなかで、妓女リューシャは平群広成に言った。


 ――あなたは千里眼に目覚めかけているのです。未来のあなたが、「目」としてあなたに降りてきているのです。


 彼は未来の自分なのだろうか。


 いや、違う。


 魔奈大師ソヴァカが命と引き換えに施した秘術は、竜星のように意識を魔奈に乗せて過去の先祖に飛ばし、歴史に干渉するものだった。飛ばされた意識は、古代の海龍剣になんらかの印を残すよう命令された。術はまだ発動したままで、レオの無意識が先祖を操り、気づかないところで進行している。


 バックグラウンドで処理されるミッションが完了するのが先か、ララといる時間や皇太子としての人生がウルラガの歴史とともに消失するのが先か。


 レオは気づく。未来の自分が降りてきているのではない。逆だ。夢のなかでこちらを見ているのは自分自身だ。自分は「巡礼の印」をつくるために先祖の誰かの「目」になったのだ。


 その誰かとは――毎夜、悪夢のような世界でもがいているのは――。


 そして、その「過去の自分」のじゃまをする男がいる。異物のように目障りで、得体の知れない脅威を感じるのだ。


 青い王子――その二つ名だけが寝覚めの頭に残っている。




挿絵(By みてみん)



 2 聖地クルンテープ


 アルファベットとタイ文字の派手な看板がどこまでも連なっている。


 カオサン通りの両側に日よけのパラソルが並び、オープンエアのバーで世界中の男女がビールを飲んでいる。


 そろいのポロシャツを着た露店のマッサージ師たちが白人娘たちの足をもみ、巨大なバックパックを背負ったカップルが何かを探して通りを行きかっている。


 違法コピーのCD屋が大音量で英米のロックを流し、人ごみの中で三輪バイク(トゥクトゥク)がクラクションを鳴らす。陽に灼けた路面、ガソリンと腐った果物の甘い匂い。誰かが落とした青い五十バーツ札が風に舞う。猫が子猫をくわえてセブンイレブンに入り、両替屋の窓口で中国人青年が札を数えている。


 凌太はバックパックを背負ったまま何度も通りを行ったり来たりした。似たような景色が延々つづき、横道からなだれ込んでくる人ごみにもまれ、意識が朦朧としてくる。


 日本人かと思って若い男に道を訊いたが、韓国語が返ってきた。


 タイ――海外旅行先ランキングでいつも上位に入る、インドシナ半島中央の王国。


 大阪から首都バンコクまで直行便で六時間。北はラオス、東はカンボジア、西はミャンマー、南はマレーシアに接する、発展目覚ましい東南アジアの優等生。


 古代にはモン族のドヴァーラヴァティ王国が栄え、のちにアンコール王朝をたてたクメール人や中国の雲南から南下してきたタイ族の支配するところとなった。


 暑さに疲れ果て、目についたレストランに入った。若い店員はだらけていて、座ったまま適当にどうぞどうぞと席を勧める。天井のファンがやる気なさげに回っている。


 帽子をテーブルに置き、コーラを飲みながらガイドブックをぱらぱらとめくる。目当ての宿、サワディー・ゲストハウスはどこにも載っていない。Wi-Fiを使おうにも、スマホのバッテリーは切れてしまっていた。


 ガイドブックのバンコクの歴史紹介ページが目についた。そこには、この都の正式名称が載っていた。


 クルンテープ・プラマハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロックポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット


 略して「クルンテープ」というのが現地人による呼称だ。天使の都という意味らしい。


 たしかに、金ぴかの仏像や派手な装飾の寺院は極楽のような華やかさがあった。




 凌太はスタッフから英語でシャワーや朝食の説明を聞き、Wi-Fiのユーザー名とパスワードが描かれた紙をもらった。


 ツアー会社の客引きに訊いてようやく見つけたサワディー・ゲストハウスは路地裏のわかりにくい場所にあった。一階奥のドミトリールームはくたびれた壁際に二段ベッドが三つ。うち、いくつかには荷物が置いてあった。


「まあ、千円じゃ、こんなもんか」


 関空で買った変圧器をコンセントに刺し、スマホを充電する。


 手前の空いているベッドの下段に横になり、ようやく一息ついた。


 ナティの死と同時に、書き換えがあった。


 ナティの死の直後の不思議な感覚を思い出す。


 凌太は難波の病院ではなく、吹田の実家にいた。


 書き換え前の記憶は夢か妄想だったかのように記憶が薄れていく。逆に、書き換えにより新たに現れた記憶は、徐々に鮮明になっていくが、それもまた自分の体験したできごとではないような気もする。まるで昔読んだ漫画のエピソードのような。


 皮肉にも、また電子書籍のライブラリから『ドラゴンジャーニー』全七巻が消えていた。


 書き換え後の記憶を思い出す。


 あの日、吉祥寺通りで暴走車が突っ込んできた。左に飛びのいて間一髪かわしたあのとき、そこに誰もいなかったことにひどい違和感を覚えた。その強烈な違和感こそが「印」だったのかもしれない。


 正体不明の喪失感を引きずったまま、予定通りアパートを引き払い、帰郷した。


 三日目の夜、書き換えられて消えたはずの過去の記憶が頭のなかにどっと押し寄せてきた。ナティとモニカが部屋に訪ねてこなかった過去に書き変わったのに、凌太は彼女たちのことを覚えていた。


 インドネシアのアイドルをネットで調べたが、ナティらしき人物は見つからなかった。モデルのモニカ・サンダーの情報はあったが、引退したということ以外はわからなかった。


 しかし、この旅をつづけていれば、二人にどこかで再会できることも予感していた。ナティが言っていた。書き換え後の世界は以前と似た歴史を歩むと。シンクロニシティという現象だ。


 その頃、テレビで大阪サミットの様子が連日流れていたが、ウルラガ皇太子レオ・ヴィーラの会見映像が妙にひっかかった。ウルラガはリュガ王国のモデルとされる国だ。おそらく、『ドラゴンジャーニー』の作者の行方に関係があるはずだ。


 母に電話したが、父については、次に帰国したときにきちんと話すと言って、逃げるように電話を切られた。


 次の手がかかりとして、母の若いころの写真にちらりと看板が写っていたライブハウス「RAINY YARD」を探した。ネットで情報を探り、実家に近い江坂の駅前にあることがわかった。すでに閉店していて、ドラッグストアになっていた。


 その同じビルの上階に、気になる名前の店があった。


 バー・クラウド。狭いカウンターバーには、金髪のマスターがいた。




「ハアイ、アーユーチャイニーズ?」


 眼鏡をかけた東洋人青年が部屋に入って来るなり凌太に話しかけてきた。髪を金色に脱色しているが、どこかあか抜け切っていない印象を受けた。


「ああ、ノー、アイム、ジャパニーズ」


「ああ、日本人でしたカ。失礼しまシタ」


 青年は片言の日本語を話した。


「わたし、おとといから泊まっていマス。台湾から来ました、チェン・バイユです」


「ああ、どうも、葛城凌太です」


 旅慣れている様子の台湾人は、凌太のドラゴンジャーニーTシャツに反応して、「ドラゴンジャーニー好きなんですか? ぜひトモダチになりましょう!」と鼻息荒く言った。


 台湾人の間で、旅先で日本人と友達になるのが流行っているのだ。竜星とジーメイが西安で道ずれになることのオマージュらしい。


「よかったら、あとで飲みにいきまセンカ? 何人か、声かけています。女の子も来ます!」


 少し迷ったが、行くことにした。情報は必要だし、旅先で知り合いができたら安心だ。


「それじゃ、六時に宿の前で!」


 日が暮れかけていて、薄汚れた窓の隙間から刺す西日が黄色い。通りの喧噪が聞こえてくる。夜になればなるほど活気が出てくる。静かなバー・クラウドとはえらい違いだ。


 凌太はバー・クラウドでのことを思い出す。


 マスターは五十歳過ぎくらいで、RAINY YARDのことも、そこに出演していた常連バンドのことも知っていた。ドラゴンフリークというバンドがいなかったか訊くと、ドラゴンスターというバンドならいたと言った。


 母羊子のバンドの写真を見せると、彼はしばらく言葉を失った。


「ヨウコ……サトル……リュウセイ。それだよ、ドラゴンスターだ」


 凌太は自分が葛城羊子の息子であること、父のことはわからないこと、ドラゴンジャーニーという漫画に、母たちをモデルにしたと思われる登場人物がでてくることを話した。


 マスターは『ドラゴンジャーニー』のことはあまり知らなかったが、「柱の傷」の怪談話を竜星にしたのはたしかに自分だと言った。


 木野竜星はどうしているのか訊くと、聞いていないのかと言って、困惑した様子だった。嫌な予感はしたが、案の定、彼は死んでいた。バンドを辞めて漫画家になったが、二十年ほど前に取材先で自動車事故に遭って死んだという。


 マスターは「ちょっと待って」と言って、奥にひっこんでどこかに電話した。「ラムの息子さんが来ている」という声が聞こえた。


 しばらくして、マスターは「君に会いたいって人が来る」と言って、サービスでカクテルを出してくれた。


 三十分後、店にひとりの男性が現れた。長身で、長髪。上品な髭を生やした四十代くらいの、サテン地のシャツを着たアーティスト風の中年男性だった。


「サトル君、この子がラムの息子さん。凌太君」


「おお、ラムにそっくりやな」


 サトルは凌太のとなりに座り、やさしそうな笑顔で名刺をくれた。


 ウエブデザイン会社の代表取締役の加茂悟は、少し涙目になっているようにも見えた。関西弁なのは漫画と違うところだが、それ以外は凌太の知るサトルそのものだった。


 凌太はサトルとマスターから木野竜星のことをくわしく聞いた。竜星が音楽をやる以前から漫画を描いていたこと。高校の同級生のサトルが竜星を誘って、いくつかのバンドを経験したのち、二人で新たにはじめようとメンバー募集をしたら羊子がベースが弾けると嘘をついて応募してきたこと。サトルの反対を押し切って竜星が彼女を加入させたこと。


 竜星が漫画の新人賞で佳作をとって編集者がつき、シナリオライターと組んで青年誌に連載漫画を描き始めた矢先、取材先のタイで死んだときのことを。


 竜星が凌太の父であることはわかりきっていたが、そのことには誰も触れなかった。


 竜星はタイの山道をチャーターしたタクシーで走行中、崖から車ごと転落した。単独事故で、運転手も死亡しており、事故死として処理された。二十一年前、恋人だった羊子が妊娠しているのがわかった直後のことだった。


『ドラゴンジャーニー』のことはサトルも知っていた。彼が調べたところ、あの漫画は竜星が遺したアイデアノートをもとに編集者が鎬夕馬という架空の漫画家の遺作という設定で世に出したものだった。『ドラゴンジャーニー』のラストで竜星が引き出しにしまった「巡礼の印」のネームが描かれたノートは実在したのだ。


「あんとき、ドラゴンスターを早々と解散しとったら、羊子や俺がメジャーデビューしてたかもしれんってのは、竜星の創作やろうけど。俺もさ、あのときああしてたらってのは、今でも思うよ」


 サトルは、最近はじめたという新しいバンドの紹介カードをくれた。


 カードを受け取ったまま固まり、涙をこぼしている凌太を見て、サトルがどうした? 優しく訊く。


「……父親なんて、いないと思ってた……でも、ちゃんといて、いろんな人と、ちゃんと関わってて……」


 サトルも涙目になり、酒を一口飲むと、「今度、墓参り行くか」と言った。


 マスターはサービスだと言って竜星が好きだったというソルティドッグを二人にくれた。


 凌太は一度あきらめかけたけれど、漫画家を目指していることを話した。


「どうしても、俺の漫画を読んでもらいたい人たちがいるんです」


 最後に、竜星の不審な死について、サトルはひとつのヒントをくれた。


 アジア旅行好きだった竜星がよく泊まっていたのがカオサンのサワディー・ゲストハウスで、友人の台湾人とよく一緒に「取材」に行っていたという。


 台湾人と聞いて思い浮かぶのはジーメイだ。ドラゴンジャーニーの最終話では、竜星の起こした過去改変によって、ビリーに殺されずに済んだはずだ。


 彼にも会えるかもしれない。


 凌太はバンコクに来て、真実に迫っていることを確信していた。


 そして、今は他人が起こした過去改変に気づける程度の能力だが、いつか千里眼に目覚めれば、死の危険を過去の竜星に伝えることができるかもしれない。


 そうなれば――いつまでも手に入らないものをもとめて世界中をさまよい、浅はかな短命の恋を繰り返す母を見なくて済むようにかもしれない。


 スマホが少し充電されたところで、Wi-Fiにつないだ。


 パールパレスのサイトへ行き、ユーザーネームとパスワードを入れる。


 限定会員だけが入れるページへ飛ぶ。


 謎の作家「ランダ」によるウェブ漫画を、もういちど、はじめから読む。


 日本語版と英語版と中国語版があり、一話十八ページ。画風は鎬夕馬に似せて描いているが、別人なのは確かだった。ファンによるただの二次創作だという可能性は捨てきれないが、ナティを見つける手がかりになる気がしてならなかった。


 いや、それどころか、もしかしたら父竜星が過去にこれを描いた――?




 ドラゴンジャーニー2 ――巡礼の子――


挿絵(By みてみん)



【第一話 はじめの町】


 雨期のおわりを告げる乾いた北風がキキの後ろ髪をなびかせる。新しい季節の息吹は、太陽に向かってかざした笹の風車をくるくると回した。


 市場は食材や生活用具のみならず、めずらしい品々であふれていた。


 鮮烈な色の宝石やきらきらした装身具、様々な形の弦楽器に太鼓、貝殻細工、真鍮の燭台、山岳民族の作る鳥の形をした髪飾りや櫛や簪、高価な仏像や銅鼓、鉄製の農具、木製の玩具。その場で木製の椅子や棚を作っている職人もいた。


 色彩豊かな着物や織物の露店が女たちの足を止め、頭に蓮の花の飾り物をつけた腰布(バティック)姿の少女たちがかけまわる。


 竹笛や小鼓を鳴らす楽隊が買い物客の目を引く。油物の煙に、果物の香り、線香の匂い。キキは心が躍った。その日は式典のときだけに披露する黒い腰布と七色のビーズの装身具を腕や首につけていた。いつもと違う衣装をまとうだけで、別世界に足を踏み入れた気分になって、気分が高揚する。


 木組みの天井を布で覆っただけの簡易な屋台が並ぶ食材市場では、けたたましい掛け声の呼子が焼き鳥や小麦菓子を売っている。唐由来の揚げ物や麺料理が人気で、香草(パクチー)や香辛料をかけて食べるのが流行りだ。


 足元を駆けまわる鶏の親子に驚きながら、キキはおそろいの衣装の級友たちのあとについて、迷路のような市場を歩いた。外国人も多くいて、聞こえてくる言葉は様々だった。マレー語にクメール語、知らない言葉で早口で会話するインド人の集団もいる。


 兄のトゥミは何か国語も聞き取れるというが、キキはモン語とクメール語以外の話し言葉ほとんどわからなかった。かろうじて、父に習った唐語はわかるが、この町に来る唐人は少ない。ペルシア人やアラビア人のほうが多いくらいだ。


 宮殿暮らしのキキと違い、中流家庭の友人たちは市場の雰囲気に慣れた様子だ。


 町の南にある港には、ふだんから外国の商船が多くやってくる。さらに、この時期は、よその町の仏教徒たちも多く訪れる。そこここの路地を、黄色い袈裟を着た僧侶がぞろぞろと歩いている。


 ナコーン・パトム――「はじめの町」という名のこの都はインドシナに点在するモン人の都市国家を束ねるドヴァーラヴァティ連合王国の都であり、インドから来た高僧(バラモン)が大きな仏塔(ストゥーパ)を建てた大昔から、南海世界における仏教聖地のひとつだった。


 各地の物産、米や塩や鉄などを運ぶ水路や道路がいつしか巡礼路となり、この港の玄関口(ドヴァーラヴァティ)に人や物や文化が流れてくる。


 寺院は北西の町はずれにたくさんあるが、町で最も古い仏塔を囲む寺院は環濠に守られた町の中心にあり、その南の広場が祭りの主会場だ。石造りの舞台があり、夕暮れには女神像の燭台にかがり火が炊かれる。王族や貴族が舞台のまわりに天蓋を立て、香を焚き、美しい男女が儀式めいた舞を披露する。もとは宗教儀礼であり外交のための式典だったが、いつしか娯楽行事になっていて、祭りの時期は旅の観光客が押し寄せてくる。


 町を歩いていると、片言のモン語で話しかけてくる若い外国人の男たちがいる。祭りで浮かれた年頃の娘をかどわかし、遊んでいこうという旅人たちだ。


 キキたちは、そういう輩がいたら娼婦街を案内するよう親から言われているが、異邦人のもつ独特の色気に惑わされ、ついていってしまう娘も少なくなかった。たしかに、とくにインド方面から来る旅人のなかには、仏像のように美形だったり、長身だったり、おしゃれな装身具をつけていたり、地元の男たちとはちがった、エキゾチックな魅力をもつ男が少なくなかった。


「ねえ、あの人かっこいいね」


 友人がキキに耳打ちした。彼女が指さすほうを見ると、風変りないでたちの一団が、市場の薄暗い旅籠の食卓を囲んで、牛肉入りの米麺を食べていた。中年男性や若い女性もいたが、目についたのは、長身で金髪の男女。


 ふたりとも美しく、そして、よく似ていた。インド風ともペルシア風ともとれない、まるで舞子のような白い衣装を着ていた。授業で習ったミトラ教徒かゾロアスター教徒かもしれないとキキは思った。


 金髪の二人以外はモン人やクメール人にしては肌が白く、唐人に見えた。みな、木彫りの面らしきものを額につけていた。薄暗いのもあって、顔はよく見えなかった。


「きっと旅の劇団よ」と友人は言った。


 金髪青年がキキたちの視線に気づき、こちらを見た。


 色めき立つ少女たち。しかし、キキだけは、その青年の視線に不穏なものを感じた。


 その長い前髪のすきまからのぞいていた碧い目に、すべてを射抜くような、魔力じみたものがひそんでいるように思えたのだ。顔立ちは神々しいほどに美麗だが、無表情で、無機質な宝珠のような目の色に、不吉な光が宿っている。


 どこか、ここでないどこかからこちらを見られているようだった。


「ねえ、あっち行こ」


 どうしたの? と不思議がる友人の袖を引っ張り、キキが引き返そうとしたところに、橙色のシルクの長袴をまとった短髪の少年が立っていた。腰に豪奢な装飾の短刀を下げ、肉付きのいい腕や足首には、インド風の金きらの装飾品をいくつもつけている。


 ガイヤン将軍の息子、ピーウォックだ。


 いつもの召使の下男をひとり連れていた。中年で髭もじゃのやせた下男は、重たそうな麻袋を腕いっぱいに抱えさせられている。


「やあ、キキ。偶然だね。出店見物か?」


 肥満体は尊大な態度で見下ろしてくる。強い香水の匂いにキキは一瞬、顔をしかめる。


「え、ええ。まあ」


「じゃ、じゃあキキ、私たち行くから、また夜にね」


 逃げるように去っていく友人たち。ピーウォックは機嫌よさげに笑うと、「おい、(シュワン)!」と、後ろにいた召使いの男にむかって、叱りつけるように言った。


「おまえも、とっとと失せろ。豆袋をあと十個、今日中に屋敷に運んでおけ!」


 そう言うと、ピーウォックはシュワンの尻を乱暴に蹴った。よろけて豆袋を落とし、さらに怒鳴られるシュワン。彼は口がきけないのか、怯えた声でうなるだけだった。


「ちょっと、今のはひどいんじゃない?」


「こいつは文字も読めない馬鹿だから、こうして教育してやるしかないんだよ」


 まわりは見て見ぬふりをしていた。


 以前、シュワンをいじめるのをキキが咎めてから、あからさまにピーウォックは人前で彼を蹴るようになった。国王の甥であるガイヤンが将軍の座についてから、そのドラ息子は、権力をたてにわがまま放題だった。


 キキの父マカラはガイヤン配下の海軍隊長で、出世も左遷もガイヤンの匙加減ひとつで決まるが、宰相のクラン大臣が次期宰相にマカラを推薦すると言い出したことから事態が変わった。


 自分の反対勢力がマカラ側につくのを恐れ、ガイヤン将軍はあれこれ画策した。彼は、こともあろうに、キキをピーウォックの許嫁にしようと提案した。


 キキが乗り気でないのでそれ以上話は進んでいないが、ピーウォックの求愛の視線にさらされる日々がつづいた。式典やパーティーではなるべくピーウォックを避け、講義でも離れた席についた。


 それでも、いずれ婚約が実現すると信じて疑わない馬鹿息子は、恋人気取りでキキに話しかけてくるし、まわりも変に気をつかって、今みたいにふたりきりにしようとする。キキに言い寄ってきていた男友達たちも彼女のまわりからいつの間にか消えた。


 許嫁の話があってから、トゥミがピーウォックのグループからいじめられなくなったことが、ますますキキを恐れさせた。


「市場の裏でインドの芸人が火芸をやるそうだ。俺といれば、いい席で見られるぞ」


 ピーウォックはぶよぶよした手でキキの細い手首をもぎ取るようにつかむ。こんな温室育ちのデブひとり、父やその部下の猛者たちに仕込まれた武術を使えばひとひねりだが、そういうわけにもいかない。


 母は言っていた。大人になるのは、我慢するということを覚えることだと。シュリーヴィジャヤ王国からの亡命者である父とその家族が生きていくには、政略結婚を受け入れることも必要だと暗に言っているとキキは考えた。


 でも――嫌だ。いくら家族のためとはいえ、生理的嫌悪感だけは我慢のしようがない。キキはピーウォックがあと一センチ近寄ったら、手を振り払い、逃げだそうと心に決めた。


「あの、お客さん」


 ピーウォックの背後から、軽薄な口調で話しかけてきた男がいた。ターバンを頭に巻いた若い商人だった。きれいなとび色の瞳は、不思議な光をたたえていた。


「なんだ、きさま」


「こちら、滋養強壮にたいへんよく効く食材でして、おひとついかがですか?」


 商人は壺を両手で持っていた。


 ピーウォックは壺の中を覗き込み、そして悲鳴を上げた。


「うわわあああああ」


 ピーウォックは腰を抜かして倒れ、背後の屋台の商品棚を倒して壺を頭からかぶり、油まみれになった。

「き、きさま、ど、どういうつもりだ!」


「ああ、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったんですが。では、これならいかがですか?」


 商人は肩に下げていたずた袋から、ばらばらと黒いものを投げた。ただの豆に、さらに悲鳴を上げるピーウォック。


 キキはその間に「じゃ、じゃあピーウォック、またね」と言って走って逃げた。


 ちらりと振り返ると、ターバンの商人が壺をそばの珍味屋の店主に返し、「はははは」と笑いながら走り去っているのが見えた。


 彼のインド風の袴はきれいな光沢のある瑠璃色で、光に一瞬白くなったかと思うと、市場の雑踏のなかにまみれて消えた。




 夜になると、昼間、太陽の光で目立たなかったさまざまな色が躍り出す。


 通りの灯篭に火が灯され、軒下の提灯が列をなして揺れる。町を囲む運河の川面には、ろうそくの乗った無数の葉船が浮かぶ。


 大きな竹のブランコの振り子の板の上に、火がともされた燭台が載せられ、薄闇のなかで左右に振れる。燭台には笛が仕込まれていて、振り子が揺れるたびに、不思議な、ほうほうという音をたてる。


「それが、不思議なのよ。壺になにが入ってたと思う?」


 キキは屋台で買った揚げ団子をかじりながら、となりで退屈そうにマレー人楽師たちの奏でる金属打音(ガムラン)の演奏を眺める母のムーに言った。


「毒蛇でも入っていたのかしら? それとも鰐の子?」


 ムーは少し酔っていて、いつもはキキがピーウォックのことを悪く言うととがめるが、その日は愉快そうだった。町の有力者だった母の兄のチャーンが死んでから、宮廷内でうまく立ち回ることに神経質な母だが、酒が入ると、元来の明るさと、女官らしからぬ毒気が出る。


 彼女はもともと海商の娘で、幼いころから兄弟たちと船に乗って育った。剣や弓も得意だ。彼女は海賊のようなものだったと父は言っていた。


「それが、キノコの漬物(アチャール)だったのよ。ピーウォックはその漬物と、投げつけられた豆が毒蛇に見えたみたい。手品師だったのかな」


 母の顔がなにかの危険を察知した表情になった。


「その商人って、木彫りの仮面とかつけていなかった?」


「え、ううん。仮面はつけていなかったけど」


「ところで、トゥミはどこへ? もうすぐラヴォの大叔父様たちがお見えになるのに」


 いつもの気難しい母に戻っていた。キキは、面倒な親族の社交辞令を自分に押し付けて、悪友たちと見世物小屋に行っている兄のことを思い出し、腹が立った。


 白い礼服姿の父マカラは広場のあちこちの宴席を回って要人たちに挨拶している。誰よりも背が高いので、遠目でも目立つ。ちびのトゥミと違って、キキにはその体格が強く遺伝していた。同年代の女友達のなかでは、頭がひとつぶん抜きんでている。母の背は十四歳にして追い越していた。


 キキはその恵まれた体格のおかげで運動は得意だが、裁縫や歌や踊りは苦手だった。繊細な作業や芸事には向いていない。ピーウォックは、こんな女らしさのない自分のどこがいいのか。


 さっき舞台で級友たちと一緒に披露した踊りでも、何度も間違えてみんなの足を引っ張った。リーダーのユーウィとその腰ぎんちゃくたちからは白い目で見られ、年少者たちからも笑われた。弓や格闘の大会があれば、きっと、ぶっちぎりで優勝できるのに。


 ガムランの演奏が終わり、次の演者が登場する。ごてごてした被り物をかぶったインドの楽隊だ。彼らは、見た目よりもずっと大きな音を出す太鼓を鳴らし、フクロウの声のような音の鳴る縦笛を吹いた。音楽の盛り上がりにあわせて、猿の仮面をかぶった舞手たちが、かがり火に照らされた土肌の舞台に、軽業を披露しながら躍り出た。


 彼らの滑稽な動きに、最前列で観ていた子供たちがけたけたと笑う。


「ねえ、母様、さっきの仮面って、なに? ああいうの?」


 母は答えず、神妙な顔で演舞を眺める。


 演じられていたのは『ラーマーヤナ』だった。千年以上前から伝わるインドの神話で、キキは以前、人形劇で観たことがあった。


 猿王どうしの権力争いがあり、主君を討たれた猿の英雄ハヌマンの復讐に協力したコーサラ国のラーマ王子が、恩返しに家来になったハヌマンの力を借りて宿敵の羅刹王ラーヴァナを倒し、さらわれたシータ姫を助けるという叙事詩だ。


 仏教の聖地でヒンドゥー教の物語が演じられることに違和感はあったが、なぜか仏陀が登場してハヌマンにものを教えるなど、うまくアレンジしてあった。


 仏教徒もヒンドゥー教徒もわりと他の宗教に寛容で、争うことは少ないが、それでも南海世界はそのいずれかの勢力にわかれる。


 百年前までインドシナを支配していた扶南(ふなん)国はヒンドゥー教の国だった。それが属国だったクメール人の真臘国に滅ぼされた。南に逃げた扶南の王族はマレー半島とスマトラ島にシュリーヴィジャヤ王国を作った。インドと中国をつなぐ海路の要衝マラッカ海峡を支配した彼らは、海洋貿易の主導権を握り、繁栄した。


 インドシナのモン人の都市の多くは、扶南が去ったあと、都市国家として独立した。


 以前はモン人同士の争いもあったが、いまは各都市の首長が大国に対抗するために連合している。この祭りはその象徴で、都市間の協力体制がより重要となる乾期のはじまりの時期に武器を置いて、ともに舞いを披露しあったのが起源だという。


 モン人の支配者層には敬虔な仏教徒が多く、巨大な仏塔のあるこの古都が連合王国の都に選ばれた。


「仮面の術師でなければ、青い王子……かもね」


 ムーがつぶやいた。


「誰それ?」


「不思議な幻術をつかう、絶対につかまらない盗賊の噂があるの」


 ラーマーヤナの演目の中、いつのまにか新たな演者が舞台に上がっていた。コブラのような不気味な仮面をつけた女性の踊り子が音楽に合わせて妖艶に舞っている。猿の仮面たちはひとり、またひとりと、なにかに当てられたように舞台の上で倒れる。演出にしてはわかりにくい。


 キキが不思議に思って母の顔を見ると、彼女はなにか恐ろしいものでも見たかのように強張った顔をしていた。


「か、母様、私、飲み物とってくるね」


 舞台に魅入られている母を残して席を立ち、露店のほうへ向かった。


 昼間の男が青い王子という盗賊かもしれないなら――と思うと、とたんにキキの胸がざわつき、同時に愉しさがこみ上げてきた。


 この祭りに乗じて、彼が何かを盗もうとしているのかもしれない。だとすれば、可能性があるのは――。



 ――。



 凌太は壁時計を見る。バイユとの約束の時間だった。


 貴重品をボディバッグに入れ、あわてて部屋を出た。廊下で女とぶつかりそうになった。


 筋肉質な、タンクトップ姿の女は不機嫌そうに、凌太を一瞥した。肩には特徴的な太陽紋のタトゥーがあった。


 母と同じくらいの年齢だろうか。どこか退廃的な色気のある中年女性は、「ソーリィ」と言って、廊下の奥へ消えた。


 どこかで会ったことがある気がした。書き換え前の現実で会ったのだろうか。


 下に降りると、バイユのほかに四人の男女がいた。韓国語で会話する男女のカップルと、若い日本人女性二人組。社交的なバイユは全員と英語で会話していた。


 凌太は和気あいあいとしている彼らのあとにつづいた。


 夜のカオサン通りはまるで祭りのような人だかりだった。ナコーン・パトムの喧噪のようで、華やかで猥雑で、なにかが起こりそうな、不穏な湿気がまとわりついてきた。




 3 聖地カオサンロード


 凌太は喧噪をあとにして宿に戻った。レセプションは無人で、また猫が宿帳を守っていた。喉をなでると、にゃあ、と鳴いた。


 シャワーを浴び、硬いベッドに寝転んだ。


 日帰りツアーのチラシが枕元に落ちていた。巨大な金ぴかの仏塔と、蓮の浮かぶ美しい池のある庭園の写真。一人650バーツ。


「ナコーン・パトム……行ってみるか」


『ドラゴンジャーニー2』のはじまりの地。キキやトゥミが何者なのかはまだわからないが、前作の誰かの子なのだろう。


 スマホでパールパレスにアクセスし、「第二話」を開く。


 サトルは言っていた。「鎬夕馬」として作画を担当した無名の漫画家や編集者はみな失踪したり、メンタルを病んで退職したり、「呪い」にかかったと噂されている。


 ウルラガの密偵による工作か、はたまた、黒魔奈にあてられたのか。


「続編」の作者ランダの意図はわからないが、竜星のように千里眼で見た風景を描いているのだとすれば、そこに、なんらかのメッセージを含んでいるだろう。


 通りのクラブの四つ打ちビートを聞きながら、凌太は古代のタイ、ドヴァーラヴァティ王国の祭りの夜に再びダイブする。



【第二話 バロン】


 寺院周りの警備は皆無で、呪符術を使わなくても侵入できた。


 夜空は曇っていて、月明りはほとんどない。


 ラーマは遠ざかる祭りの喧噪に背を向け、夜の闇に身をひそめながら、広い境内の中央にそびえる仏塔を目指した。


 大昔にインド人が建てた仏塔は何度も修復され、そのたびに大きくなっていくという。尖がった塔の先端はそのへんの大木より高い。宗教を同じくすれば往来しやすくなり、人や物が集まるという狙いがあったのだろう。交易地としての繁栄と仏塔の大きさは比例するものだとラーマは思った。


 辺りはいたって静かだった。仏僧は出払っているようで、警備兵はひとりいたが、境内のガジュマルの木に背をもたせかけ、眠りこけていた。


 四角い土台に立つ円錐形の仏塔の中は意外に狭く、宝物を収める小さな石室だけがあった。真鍮の燭台に灯されたいくつものちいさな炎が室内をほのかに照らしている。


 ラーマはひんやりした石畳みをひたひたと歩きながら、携帯用の松明に火をともした。石室の中央には銅の大甕があり、そこにいくつもの剣が差し入れらえていた。どれも古びた骨とう品で、殺傷力はなさそうだ。祭りの間だけ奉納される諸国の宝剣だが、儀礼につかうためのもので、その本来の切れ味はとうに(うしな)っている。


 だが、目当ての剣だけはちがう。ただの宝剣でなく、恐るべき力が宿っているはずだ。


 それが、最後の希望だ。これまでに盗んだ霊具や宝珠は、どれもまがいもので、目的は果たせなかった。

「……あれ。ないな」


 そこには、伝説の片刃の長剣――海龍剣があるはずだったが、それらしきものはなかった。どの剣も両刃の直刀で、目印の三つ巴のレリーフが刻まれているものはなかった。


「やっぱりあんただったのね、青い王子」


 声に振り返ると、弓を構えた女がいた。市場でキキと呼ばれていた貴族の娘だ。


「昼間は助けてくれてありがとう。でも悪いけど、祭りに乗じて宝剣を盗みに来たのはお見通しよ。現行犯で逮捕する!」


「まだなにも盗ってねえよ。ここにはなさそうだし、出直すわ」


 そう言いながら、ラーマはゆっくりとキキに近づいた。懐から青い呪符を取り出し、口元に寄せて「バルバロウカイ」とつぶやく。


「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」


「撃ってみな」


 キキは走り出したラーマの動きに反応して、矢を放つ。しかし、なにかが彼女の手もとを狂わせた。なぜか無意識に的を外してしまい、矢はラーマの足元の床板をえぐった。


 ラーマは床を蹴り、猿がごとき敏捷さで一気にキキに間合いを詰めた。


「殺さないよう脚をねらってくれたのか。あんたはやさしいな」


 キキの耳元でそういうと、ラーマは彼女のわきをすり抜けた。キキの鋭い回し蹴りが飛んできたが、すんでのところでかわした。


「おっと、なかなかやるじゃないか」


「待て!」


 待てと言われて待つやつがいるか、と思いながら、ラーマは石室の外に飛び出した。彼女の部下がいるかと思ったが、誰もいなかった。


 このまま逃げようとしたが、しかし、奇妙な違和感が彼をその場にとどめさせた。仏塔に収められていたのは、なまくら刀とはいえ、各国の要人が預けた宝剣だ。それなのに、警備があまりにも薄い。


 そのとき、遠くで建物が崩壊する音がした。悲鳴まじりの騒ぎ声も聞こえてくる。


 見ると、祭りの広場の先、南の市場のあたりから火が上がっている。


「何事? あれもあんたの仕業?」


 追ってきたキキが言った。


「ちがうよ。今日は油がいっぱい売られていたからな、引火したんだろう」


「大変! 市場にはトゥミたちが……」


「行ったほうがいんじゃないか。俺はずらかるよ」


 ラーマはそう言うと、わざと市場のほうへむかって駆け出した。


「待てー!」


 ラーマは石塀を跳び越え、暗闇を走り、木陰に隠れてキキを撒く。追跡をあきらめた彼女が市場のほうへ走っていくのを確認したあと、境内に戻り、ガジュマルの木に近づく。


 やはり、番兵は眠っているのではなかった。喉を斬られて死んでいた。足もとには銀貨が二枚落ちている。


 その近くの藪の中にも同じような死体がいくつもあった。


 ――すでに盗られてたってわけか。


 ラーマは死体を横たえ、手に銀貨を握らせてやった。その胸に手を当て、殺人者の痕跡を探った。死体に残る殺気をもとに、賊の行方を追った。


 目に見えない、煙筋のようなものが闇のなかにつづいている。それを追って、彼は境内を出て、草むらを抜けた。広場とは反対の、人気のない方角だ。


 まばらに木が生えている休閑中の畑のようだ。暗闇に、死体がひとつ。若い男。よく見ればまだ少年だった。身なりのよい貴族の子弟だ。彼も喉を斬られていた。


 乾いた風が吹く。虫の声だけが大きいしんとした闇の中に、青い王子は異様な気配を感じた。相手も、こちらを察知したようで、獣のような殺気を向けてくる。


 ラーマは短剣を抜き、敵の姿を探す。


 ほかにも視界のなかに死体はあった。敵と自分の間にふたつ。いずれも少年だ。


 そのとき、雲が晴れ、月明りが草むらに立つ者の姿を一瞬、白く照らした。


 仮面をかぶった長身の男が柄の両側に刃のついた剣――金剛杵(ヴァジュラ)を持って立っていた。


 その白い仮面は、鼻が下に長く垂れていて、二本の牙がそそり立っている。


「白象……象神(ガネーシャ)か……?」


 ひらひらした袈裟のような白い衣装の男の足もとには、唐風の丸帽子をかぶった少年がへたりこんでいた。鞘に入ったままの長剣を抱えている。今まさに殺されようとしていたようだ。


 仮面の男は間合いの外にいるラーマを気にすることなく、少年にむかって刃を振り上げた。


 少年は持っている剣を抜こうとしない。心底怯えた様子で、声も出せない様子だ。


「馬鹿やろっ、なぜ逃げない!」


 ラーマは舌打ちすると、懐から青い呪符を取り出す。


「チョウソブユーゴ」


 文字に息を吹きかけるように呪文を唱え、呪符を懐に戻す。


 剣を振り上げ、地面を蹴る。


青波(シンボー)!」


 こちらに注意を向けるために、あえて声を出した。仮面の男が振り返ったとき、ラーマの大振りの剣はすでにその眼前に迫っていた。


 しかし、ラーマの高速の刃は空を斬った。


 必中だと思っていたラーマは、攻撃をしかけたことを後悔した。やはり、こいつは相手にしてはいけない相手だった。


 ガネーシャは体を反らせて剣をかわし、ヴァジュラですかさず反撃してきた。


 しかし、ラーマには当たらない。紙一重で刃をかわし、飛びのいて距離をとる。


「よくかわしたな」


 仮面に穿たれたふたつの穴からのぞく碧眼が月明りに白く光る。ラーマはぞくりとした。こっちのセリフだ、という言葉がひっこんだ。


「おい、はやく剣を持って逃げろ!」


 ラーマは腰をぬかしている少年に向かって叫ぶ。


 番兵を買収して、友人に見せびらかすために海龍剣を盗みだしたところで、剣を狙ってやってきた仮面の男に鉢合わせて襲われた、そんなところだろう。


 ラーマも逃げ出したかったが、いまは、この象男に海龍剣を取られることのほうがまずい。足止めして、遠ざけなければ。


 少年は泣きながら闇へむかって走り出した。向こうには、町を囲む運河がある。逃げられる範囲は限られている。


 ラーマは剣を構え、ガネーシャの行く手を阻んだ。


 斬りかかってくるガネーシャ。


 ラーマは剣で攻撃をはじき、蹴りを放つも、巧みな体裁きでまたかわされる。


 剣を交えて、はっきりと理解した。


 この男は、自分よりずっと強い。呪符の効き目が切れたとたんにやられる。


「二回もつづけて私の攻撃を防ぐとは。やはり、魔奈使いだな」


「なに?」


 いま、こいつは魔奈と言ったのか?


「一時的な身体強化か。こんなコソ泥が使えるとは、すごい時代だな」


 ラーマはこの男の強さの秘密を知った気がした。生まれながらに魔奈を身体に宿した怪物の集団がいると聞いたことがある。シュリーヴィジャヤの暗殺部隊――バロン。


 ラーマは思い出す。昼間、壺にミミズを入れただけなのに、貴族の少年は蛇を見たかのように腰を抜かしていた。町を歩いていて、視界のあちこちに黒い蛇のようなものがのたうっていた。気のせいかと思っていたが、あれは、彼らが町を襲うために魔奈で異界から呼び出した幻蛇だったのだ。


「三回目だ」


 バロン・ガネーシャはヴァジュラの切っ先をラーマに向けて言った。刃は月明りを反射し、怪しく光る。

「私の三回目の攻撃を君が受けたとき、私か君のどちらかが、かならず死ぬ。三仏逝(スリーヴィジャヤ)という方術だ」


 彼が嘘をついているとは思えなかった。声に出して予言することにより攻撃の成功率を上げる――そんな呪術があると師匠から聞いたことがある。


「なるほど、こりゃあ、やっかいなやつに出くわしたな」


 ラーマは少年が遠くまで離れたことを確認すると、懐からまた呪符を取り出す。


 今度は赤い呪符。生命力を削って願いを叶える切り札だ。


「悪いが、俺は孫氏の兵法を愛読していてね」


 札を人差し指と中指で挟んで、口元によせると、息を吹きかけるように呪文を唱える。


「トウシャバンライ」



 ※



 南の市場はあちこちから火の手があがり、さながら戦場だった。


 逃げ惑う人々の波をかきわけ、キキは騒ぎの中心を目指す。途中、級友たちやピーウォックがいた。そっちには行くなと警告する彼らの声を背中に受けながら、キキは走った。


 兄は市場の広場に見世物を観に行っていた。喘息持ちの彼が、こんな煙の中にいたら大変なことになる。


 市場の商人や衛兵たちがあちこちで倒れている。血を流していない者が多く、まるで毒にやられているようだ。不思議に思ってあたりを見回すと、地面のあちこちでうねうねと動く黒い蛇のようなものが無数にいて、見えたり消えたりする。毒煙だろうか。


 キキは荷物を抱えて逃げようとしていた男を捕まえて訊いた。


「なにがあったの?」


「あいつらが、とつぜん暴れ出したんだ!」


 倒れた衛兵たちのむこうで、仮面をかぶった男女が武器を振り回していた。


 旅籠にいた奇妙な異邦人たちだった。昼間は額に着けていた仮面を下ろし、顔の上半分を覆っていた。たった数人の彼らが、数で勝る衛兵たちを圧倒している。


「仮面の……もしかして、あいつらが、母様の言っていた……?」


 いちばん目立つのは、兎の仮面をつけた若い女。その華奢な体躯からは想像もつかない剛力で自分の背丈以上ほどもある大剣を振り回し、屈強な衛兵たちを薙ぎ払っている。その豪剣は屋台の柱を斬り、倒壊させていく。


「あれは、戦象の脚を攻撃する斬象刀……あんなのを片手で振り回すなんて」


 逃げ遅れた人たちが助けを求めて叫んでいた。背後の店が燃えていて、物売りの女たちが立ち往生している。


 すぐそばで、鉾を振り回す巨漢と両手に鉤爪をつけた小男が暴れていた。彼らは獣のような素早い動きで、衛兵の攻撃をかわし、腕を斬り落とし、喉を掻き切っていく。まるで虐殺だった。


「やめろー!」


 キキは震える手で矢をつがえ、仮面の暴漢たちを狙う。


 そのとき、キキの背後の木の柱が倒れてきた。


「危ない!」


 誰かが叫んだ。


 次の瞬間、キキは路上に倒れていた。


 飛び込んできた男がキキを突き飛ばし、救ってくれたのだ。


 見ると、燃える柱と梁の下敷きになって血を吐いているピーウォックがいた。


 ピーウォックの腹から腸が飛び出している。おびただしい出血が血溜りをつくっている。彼は声を振り絞るように「逃げろ」と言うと、目を開けたまま動かなくなった。


「あ……あ……!」


 キキは這うようにしてピーウォックに駆け寄り、その太い指を握った。


 衛兵たちは戦意を失っている。大勢が決したようで、市場を制圧した仮面の戦士たちは攻撃をやめた。

 しかし、町に兵力はもっとあるはずだ。なぜ防衛軍が動かないのか。弓兵や戦象部隊はどうしたのだ。


「ここはもういい。シャシャンカ、行くよ」


 兎仮面に向かって、露出の多い踊り子のような服を着た大柄な女が言った。金髪で、額に黒い牛の仮面をかぶっていた。大きな背中には牛の刺青があった。


 牛仮面の女は血の付いたヴァジュラを持っていた。柄の両方に刃のついた奇妙な剣だ。彼女は燃える屋根から落ちてきた黒い蛇のようなものをその刃で振り払った。はじかれた蛇は空中で一瞬のたうって、はじけて消えた。


 あれはきっとやつらが放った呪いのかけらだ。あれの毒が衛兵たちを弱らせたのか。


「待ちなさいよ……!」


 キキは立ち上がると、落ちていた衛兵の剣を拾う。


「……よくも……私の友達を……」


 シャシャンカはキキを振り返ると、「ともだち……?」と感情のこもらない声で言った。


「昼間はそうは見えなかったけど。死んでほしかったんじゃないの?」


 その言葉にキキは感情のタガが外れる。兎の仮面に斬りかかった。


「邪魔」


 斬象刀が、ぶおん、という音を立ててキキの体を左から右に薙ぎ払った。


 とっさに剣で防御したが、キキはそのまま背後のがれきの中まで吹っ飛ばされた。衝撃であばらが折れ、息ができなかった。


「あ……がはっ」


 意識が薄れる中、シャシャンカたちが煙の向こうへ走り去るのが見えた。


 あっちは広場――父様たちのいる方向だ。だめだ、行かせてはいけない。


 しかし、体は動かなかった。煙と砂塵のなか、キキは無力感と悔しさを抱えたまま気をうしなった。



 ※



 鞘に入れたままの海龍剣を抱えてトゥミは走った。父に買ってもらった唐製の帽子が落ちないように片手で押さえ、靴が片方ぬげたまま、草の上を駆けた。


 祭りの宴席、父と母がいる場所に向かって。


 同級生たちの遊び仲間に加えてもらうために、父が寺に収めた海龍剣を一時拝借しただけなのに、こんなことになるなんて。祭りに乗じて宝剣を狙う賊がいることは不思議ではないが、市場での騒ぎからして、ただごとではない。


 あの動物の仮面の男は、噂で聞いたことがある。シュリーヴィジャヤ王国の暗殺部隊、バロンだ。市場で火事を起こしているのはその仲間だろう。昼間市場で見た奇妙な出で立ちの集団だ。その中には、兎の仮面を後頭部に着けていた美少女もいた。彼女もバロンだったのか。


 バロンが狙うくらいだから、この海龍剣はただの宝剣ではない。国を動かすほどの価値があるということだ。


 鞘に施された精巧な竜の浮彫。柄には翡翠がちりばめられている。刀身の付け根に刻まれた三巴の風車紋。古代の英雄の剣だというが、それをなぜ父が持っていたのか。


 獅子の彫刻が施された堀の石橋を渡って広場に踏み入る。


 広場もただならぬ状況だった。あちこちでうねうねと動く黒いものたちがいた。黒い蛇のようだ。しかし、ぼんやりしていて、まるで実態がない。


 舞台のまわりの見物人はみな倒れていた。貴族も、兵士も。


 唯一立っていたのは、父のマカラと、数歩間合いを置いて彼を囲む三人のバロン――ヴァジュラを持つ背の高い牛仮面の女。長い鉾を構えた鰐仮面の大男。


 そして、父と向かい合うキングコブラの仮面の女は刀身の反った青い柄の短剣を持っている。シュリーヴィジャヤ風の長い腰巻を身に着けた彼女は、ほかの二人に比べると小柄だが、その立ち居振る舞いには貫禄があり、彼女がバロンの頭目だとトゥミは直感した。


 トゥミは椰子の木陰に身を隠し、遠巻きに様子をうかがった。


 母の姿はなかった。避難したのだろうか。


 短剣を構える父は脇腹から血を流していた。儀礼用の白い袈裟が赤く染まっている。三対一とはいえ、剣の達人である父に傷を負わせるとは、やはりバロンは只者ではない。


 あんな護身用の短剣ではなく、せめて、この立派な海龍剣が父の手にあれば。


 しかし、足がすくんで動けない。


 父はバロンたちとなにやら会話をしている。トゥミは耳をすませる。


「……海龍剣が狙いのはず。なぜ町を襲う」


 父の問いに、蛇のバロンが答える。


「剣もいただく。そのまえに、復讐を果たさせてもらう。一騎当千のあんたから兵を遠ざけ、護衛が手薄になるのを待っていた」


 中年の、低い女の声だった。立ち居振る舞いからまだ若く見えるが、暗殺者としてのこれまでの壮絶な人生が彼女の声から滑らかさを奪っていったようだ。


「狙いはあんたの命だ。マカラ・プージャ。いや、元シュリーヴィジャヤ王国ガルーダにして、日本国遣唐使、田口養年富」


 トゥミはバロンの言葉が一瞬理解できなかった。


 父がシュリーヴィジャヤの将軍だったのは知っていた。モン人の母と結婚し、政治的見解の違いで国を離れ、母の親族を頼ってドヴァーラヴァティに亡命してきたことも。


 しかし、日本国の遣唐使だって? たしかに、父が唐語に詳しいところや、シュリーヴィジャヤ生まれの軍人にしてはマレー語や梵語の読み書きが不得手なところも合点がいく。唐出身ではないかと思っていたが、まさか、辺境の小国、日本国の出身だなんて、考えたこともなかった。


 バロンたちがふたたび武器を構え、攻撃態勢に入ると、マカラは剣を片手で振り上げ、頭上にかかげた。捨て身の剣を放つための、最上段の構えだ。


「わが夫の無念を思い知れ」バロンの頭目が言った。


「おまえは……」


 蛇のバロンは、今度は何語かわからない言語で父にむかって怒鳴ると、仮面をはずして素顔を見せた。トゥミの側からは見えないが、その顔を見て、父は明らかに動揺している。


 次の瞬間、とどめをさそうと、三方向から一斉に突進するバロンたち。


 動揺したマカラは一瞬反応が遅れ、上段から振り下ろされた剣は敵を斬り倒すにはいたらなかった。バロンの女頭目は短剣でマカラの剣を受け流し、そして、牛女のヴァジュラと鰐男の鉾がマカラの体を両脇から貫いた。


 おびただしい血とともに、地面に倒れる父マカラ。


 強く、優しく、偉大な父の最期――それを目の前にして、なにもできないでいる自分。


 海龍剣の柄を握りながら、トゥミは泣いた。


 そのとき、背後に異様な気配を感じ、振り返ると、象仮面のバロンがこちらに突進してくるのが見えた。逃げようにも、あっという間に間合いをつめてきた。


 死に物狂いで剣を振るが、ヴァジュラではじかれる。


 トゥミは死を覚悟する。



 ――。



 スマホを置き、ベッドの上で、永遠につづきそうなカオサンロードの喧噪を遠くに聞きながら、凌太はこの「続編」について考える。


 ドラゴンジャーニーの終盤で田口養年富はムーと結ばれた。


 ムーはオケオで広成らと同盟したモン人の海賊一味のひとりだった。二人はチャイヤーで奴隷にされていた丹仁ら遣唐使の救出作戦のときにシュリーヴィジャヤのハヌマン水軍に出くわしてともに戦い、絆を深めた。子供たちの年齢からして、それから十数年は経っている。つまり西暦750年代だ。


 日本はその頃、天然痘の流行で打撃を受け、聖武天皇は民衆の救世のため大仏を建立。藤原清河を大使、吉備真備を副使とする第十二次遣唐使が唐に派遣される。


 唐では、玄宗皇帝が楊貴妃におぼれ、政治が混乱し、胡人節度使の安禄山(アンリューシャン)らによる反乱「安史の乱」が起きて国力が大きく衰退する。


 タイにはドヴァーラヴァティ王国があった。六世紀頃に成立し、玄奘三蔵が著書で「堕羅鉢底」と記した上座部仏教の国で、何度も唐に朝貢していたようだ。


 シュリーヴィジャヤはシュヴェータらによる内乱で唐への朝貢が途絶え、ジャワ島のシャイレンドラ家が台頭する。


 ちょうどその頃に、ウルラガ王国が建国されている。建国にまつわる経緯は諸説あるが、ウルラガのアニメ映画『建国神話』では「ナーガラージャの剣」を手にした英雄ヴァルナがシュリーヴィジャヤ王国を相手に独立戦争をしかけ、ボルネオ島西岸に建国したことになっている。映画には広成もシュヴェータも出てこなかった。


 ナーガラージャの剣のモデルと思われる海龍剣はシーンでも広成でもなく、養年富が持っていた。その剣をバロンが狙っている。あれはウルラガ建国のキーアイテムだった。


「続編」が竜星のように過去を見た誰かによる史実の一幕だとすれば、建国にまつわる真実がこれから語られることになるはずだ。


 第三話はまだ公開されていない。


 第一話、第二話の更新日時からして、そろそろだ。


 限定会員が世界中に何人いるのかわからないが、その誰もが固唾を飲んで、つづきを待望していることだろう。


 凌太もそのうちのひとりだった。純粋な好奇心もまた彼を動かしていた。





 4 聖地バンコク


 宿の狭い食堂で朝食の薄いトーストをぼそぼそと食べていると、バイユが現れた。


 凌太は飲み会をすぐに離脱したことについて咎められるかと思ったが、バイユは「おはよう」と凌太に言うと、無言でトーストをかじり、ため息をつきながらヨーグルトを口にはこんだ。


 訊くと、昨夜の日本の女子大生たちは韓国人男性と一緒にカンボジアへ向かったということだった。バイユはふられたのだろう。それ以上、何も言わなかった。


 バイユは自分のスマホを凌太に見せた。ツイッターの画面で、パールパレスのフォロワー一覧が表示されていた。


「このRYO‐TAっていうアカウント、君でしょ。もしかして、DJ2、読んでル?」


「まさか、バイユ、君も……?」


 同志を見つけたバイユは嬉しそうに笑った。


「ランダが鎬夕馬じゃないとしても、このストーリーは絶対DJだヨ」


「まだわかんないけどね。第三話がそろそろアップされると思うから、その展開次第だ。この漫画が偽物か、本物か」


「次は、キキのエピソードだろうネ。トゥミが都から逃げて、一方、キキが都にとどまって中で情報を集めるトカ」


「あの状況でトゥミが逃げられるかな。死ぬか捕まるんじゃないの?」


「いや、逃げたでしょ。逃亡成功の呪符もあったし」


 第二話までの話をしていて、違和感を覚えた。どうも、バイユが話す内容と凌太が読んだ内容とでは、微妙に食い違うのだ。


 もう一度第二話を読んでみると、バイユの言う内容が正しいことに気づいた。


 おおむね同じだが、最も違っていたのはラストだ。



 海龍剣の柄を握りながら、トゥミは泣いた。


 トゥミは声をあげそうになった。剣を抜こうとしたそのとき、背後から迫る異様な殺気に背筋がぞわりとした。


 象仮面の男が、こちらに向かって走ってくる映像が見えた。振り返ると、誰もいないが、その闇の先から、彼が現れることが予感できた。


 トゥミは剣を鞘に納め、走った。明かりから遠ざかり、闇にむかって。


 その先にある運河に差し掛かったところで、誰かが待ち構えていた。


 さっきの青いターバンの男だった。広場と運河の位置関係から、トゥミがここへ逃げてくるのを予想して、先回りしていたのだ。


 男は素早い動きで間合いを詰め、逃げようとしたトゥミの胸倉をぐいとつかむと、呪符らしき黄色い紙片をその服の中にねじ込んだ。


 そして、「剣を絶対に離すな」と言って、トゥミを運河に投げ入れた。



「バイユ、君が読んだのって、いつ?」


 バイユはきょとんとした。


「ええと、アップされてすぐ。たしか、いち、に、さん……四日前の夜。タイ時間で」


 内容が差し替えられたのではなく、これは――。


「まさか、書き換え……」


「書き換え? それも演出だったらすごいよね」


 小説ならまだしも、漫画を短時間で差し替えられるとは考えにくい。未来の誰かがトゥミの千里眼に働きかけたのだろうか。


 凌太のあとに第二話を読んだトゥミの子孫が読者の中にいた――?


「限定会員って、どれくらいいるんだろう?」


「四〇〇人くらいだよ」


 バイユは即答した。


「限定ページのアクセス数を解析した。そのなかに君もいた。たどったら、宿のワイファイだったからわかったんだ」


「ハッキング……?」


「ヒトギキがわるい。解析だって」


「限定会員の中に、ナティとモニカっていう人はいない?」


「さあ。みんなハンドルネームだしね」


「あんたら、ナコーン・パトム行くんだって?」


 英語で割って入ってきたのは、昨日廊下ですれ違ったタトゥーの女性だった。


「はい。ガイドなしの車だけのツアーです」とバイユが英語で答えた。


「私も行こっかな。どこのツアーオフィス?」


「ここのレセプションで申し込みました。でも、席が空いてるかどうか」


 女性はバイユの忠告を聞かずにさっさと行ってしまった。


「あれ……」


 凌太は不思議な感覚があった。二人の英語の会話が、なぜかすらすらと頭に入ってきたのだ。まるで、竜星が夢のなかで広成の奈良時代の日本語や唐語を理解していたときのように、自動で翻訳される現象が起きていた。


 昨日の夜からそうだったことに気づいた。


「いや、それ以前に……俺、いま英語しゃべってる」


「へえ、昨日は片言だったのにね」


「魔奈……千里眼の力のひとつか」


「あ……凌太君、アップロードされてるよ! 第三話!」


「なに!」


 凌太はあわててスマホを見る。



【第三話 船出】


 ナコーン・パトムでは、王族と貴族、そして、試験に受かれば、平民の子や他の町の出身者でも、十一歳以上になると王立の学校に通うことができる。卒業は十八歳、とくにすぐれた者は学部に残って学者や僧正になる道もあり、インドや唐へ留学する者もいた。


 学校は千人ばかりの子供たちが数日に一度通っていたが、とくに身分の高い家の子と成績上位の子だけが入れるエリート学級がある。地方から来た者のための寄宿舎も町はずれの僧院に併設されていた。


 キキとトゥミは千人隊長の子だから入れたのだと思われていたが、違った。マカラが中級武官だったころに、すでに入学試験に合格していた。だから、キキは試験なしで入ったピーウォックらと一緒にされるのが嫌だった。


 仏教寺院が母体の学校なので、仏教の授業はもちろんあるが、エリート学級には歴史や文学のほか、梵語に唐語、クメール語、はては、算術や物理、兵法や経済学、哲学の授業もあった。キキは苦手な科目もあったが、学問は総じて楽しかった。


 利口なトゥミは全般が得意だったが、興味のない授業はさぼるので、教師からはあまり好かれておらず、加えて、帰化人の子ということで同級生にいじめられた。ピーウォックらにからかわれているのを見つけるたびに、力のあるキキがかばったが、トゥミは妹に助けられるのを格好悪いと言って嫌がった。弱いくせに、強情なところがあったのだ。


 キキがとくに好きな科目は課外授業だった。長安やナーランダへ行ったことのある高僧のバーリ先生による、神羅万象についての講義だ。


 星や海や風や虫についての、とりとめのない話。この世の真理の話。人生をよりよくするための話。理路整然とした知識を好むトゥミはあまり好きではなかったようだが、キキは月に二回のその授業が楽しみでしかたがなかった。早起きして、先生のところへ行き、一番のりで手伝いをして、質問をした。


 でも、今は――。


「ほら、この下着と敷布を洗って、昼までに全部干しとくんだよ!」


 寄宿舎付けの召使のおばさん、ムーシャは人使いが荒かった。やったことのない掃除や洗濯、食事の準備や買い出しなど、頭を下げて教えてもらいながら、キキはなんとかこなそうとした。間違えるたび、失敗するたびに、寄宿舎の生徒やほかの召使に聞こえるように甲高い声で罵られ、牛追い用の鞭で尻を叩かれたり、食事を減らされたりした。


 ここに連れてこられてから、この数日、少量の米と野菜くずの煮汁しか口にしていない。まだあばらも治っていないのに、朝から晩までこき使われ、自由時間などなかった。夜は固い土間の上に蓆を敷いて寝る。蚊に刺され、ダニに食われた。


 服や装飾品はすべて没収された。カレン族から買った靴も、インド商人から買った耳飾りや髪飾りも、すべてどこかに持ち去られた。キキに与えられたのは召使用の粗末な着物だけだった。当然、学校も強制的に退学させられた。


 すべては、息子の死を嘆き悲しんだガイヤン将軍の意向だという。


 母のムーとはこの前のバロンの襲撃以来会っていない。母はシュリーヴィジャヤ王国と通じてバロンを招き入れたという謀反の疑いで投獄されている。


 街で目撃されたのは、蛇のバロン・ナーガ、牝牛のバロン・スラビー、鰐のバロン・クンビーラ、蝙蝠のバロン・ティティーラ、そして、兎のバロン・シャシャンカ。いずれもバロンの幹部で、ひとりひとりが将軍クラスの武力をもつという。


 洗濯かごを担いで川へ向かおうとしたところで、寄宿舎住みのユーウィが肌着をキキの足もとに捨てた。


「キキ、これもきれいにしなさい」


 ユーウィは連合王国のひとつである北のラヴォ王国からの留学生で、ピーウォックの従姉だった。バーリ先生の授業で、よくキキと質問を競い合っていた


「なによ、その目」


 ユーウィが近づいてきて、泥のついた洗濯物を拾ってキキの顔に投げつける。キキはさらににらみつけると、かがんで洗濯物を拾い、かごに入れた。


「あんたのせいで、ピーウォックが死んだのよ」


 ユーウィがキキの背中を固い木のサンダルで踏みつける。


「わかってんの、ガイジン! 罪人親子!」


 キキは涙目を見せまいと、うつむいたまま、無言でユーウィの責めに耐えた。


「ほんっと、踊りのときも足ひっぱるし、こんな奴隷娘と同じ学級に通っていたなんて」


 ユーウィが去ったあと、キキはよってきた子猫のマチャンの頭を撫でてやり、なんとか気持ちを和らげた。


「あんたが最後の友達ね」


 かつての友人や町に住む母方の数少ない親族たちは、キキと顔を合わせても口をきいてくれなくなった。子供たちは、キキに関わるなと親から言われているのだろう。


 同情の目を向ける者もいたが、キキに手を差し伸べることはガイヤンを敵に回すことになる。味方は誰一人いなかった。


 ラヴォ王国の親族がキキを引き取ろうとしたが、ナコーン・パトム王がそれを禁じた。ムーの疑いが晴れるまで、キキも危険分子だからだ。


 トゥミは行方不明だった。市場の騒ぎで死んだのだろうと大人たちは言ったが、死体は見つかっていない。


 父マカラは裏切り者とされ、死体は奴隷や罪人とともに共同で火葬された。


 父は、バロンとともに暴れていたところをタオという衛兵が槍で突き殺したという。父と相打ちで命を落としたタオは千人隊長に特別昇格し、死後も英雄扱いされるそうだ。遺族には報奨金が贈られ、彼の四人の息子たちは学校に通えることになった。


 寄宿舎の裏に流れる細い川で洗濯をしていると、学校へむかう年少組の子供たちの姿が見えた。そのなかには、タオの息子たちもいた。キキは見ないようにして、彼らに背を向ける。飛んできた石つぶてが足もとの地面をえぐった。さらに、小石が彼女の背中に当たり、顔を覆った腕にも当たって血が出た。


「よせ!」


 キキをかばったのは、牛飼いの青年だった。


「小僧ども、それでも仏に仕える者か!」


 彼は牛追い棒を振り回して少年たちを追っ払ってくれた。


「大丈夫かい?」


 半裸の若者は、そう言うと、やせた牛たちを追いながら、そばを通り過ぎた。牛の匂いにキキは耐えられず、咳込んだ。青年は無言で悲しそうな顔をして、去っていった。


 キキは川面に映る自分の顔を眺めた。助けてくれた人にお礼すら言えなかった。それどころから、臭くて、顔の汚れた不潔な身分の男だと思ってしまった。そんな自分が哀れで、醜くて、いっそ自殺してしまおうかとふと思った。


「あんた、腕見せてみな」


 今度は牛追いの青年ではなかった。シュワンと呼ばれていたピーウォックの召使だ。髪も髭もぼさぼさで、不潔極まりないが、いつもと様子がちがう。


「いま、石でけがしたろ」


 キキは言われるがまま、左腕のすりむけた箇所を見せた。シュワンも臭かったが、今度は顔に出さないよう気を付けた。


 シュワンはキキの傷に手のひらを近づけ、祈るように目を閉じた。


 すると、血が止まり、痛みが和らいでいった。


「すごい……なにをしたの」


「たまに、できるんだ。魔奈っていう力だ」


「マナ?」


 シュワンはキキのとなりにぺたりと座った。奴隷男は目はつり上がり、鼻はぺしゃんこで、美しくないが、どこか幼い顔立ちで、見ようによっては愛嬌のある顔だ。


 その目には、前に市場で会ったときとはちがう、知性の光が宿っていた。


「なんか、俺は頭がいかれちまったみたいで、たまあに、正気にもどって、話もできるようになる。そのときに、今日みたいに体の調子がいいと、魔奈が使える。それに、この術がこんなに利くということは、あんたにも魔奈を体に吸い寄せる素養があるってことだ」


「あんたは、どこでそれを覚えたの?」


「思い出せねえ。この国に来たときのことも覚えてねえくらいだ。でも、俺が自分や人の傷を治してきたのは、ぼんやり覚えてる。魔奈についての知識は、たぶん、うんと若いころに叩き込まれたんだろうな。ガイヤンたちには言ったことはないけどさ」


「言えばいいのに、待遇がかわるかも」


「この力はあんまり知られちゃいけねえ気もするんだ。この前襲ってきたバロンってやつらも、俺と同じ魔奈の使い手だと思うんだ。幻を見せたり、化け物じみた力を使っていた」


 キキはバロン・シャシャンカの豪剣に吹っ飛ばされたときのことを思い出し、あばらが痛んだ。


 ――死んでほしかったんじゃないの。 


 心をえぐる言葉に、また胸が痛む。息が荒くなる。


「どうした?」


「……大丈夫。でも、ありがとう。まともに人と話したのはずいぶん久しぶりな気がする」


「俺もそうさ。今みたいに正気に戻ったときも馬鹿なふりしてる。ここでの暮らしはしんどいが飢え死にすることはないからな。ほら、そろそろ行くべ。あんたもまた怒られっぞ」


 キキは歩き去るシュワンの背中に、痛々しく焼けただれた火傷痕を見た。そこに、うっすらと、刺青らしきものの痕跡が見えたが、なんの模様なのかはわからなかった。


 宿舎に戻ると、入口にマチャンの死体があった。棒で殴られて頭が割れていた。


「マ、マチャン、誰がこんなことを……!」


 笑い声が聞こえ、見ると、塀の上からムーシャの息子たちが悪意のある笑顔を向けていた。



 ※



 木組みの桟橋が迷路のように入り組む港のはずれで、ラーマは日焼けした兵隊たちに取り押さえられていた。酒に酔っていて、さらに六人がかりで取り囲まれたので、呪符術を使う暇もなかったのだ。


「何しやがる、俺はまだなにも盗ってねえぞ」


 隊長らしき青年武官が、しゃがみこんで、陽に灼けた床板に頭を押さえつけられているラーマに顔を近づける。


「じゃあ、なぜ逃げようとした」


 大柄な武官は尖がった丸兜に銅の胸当て。顔と肩には太陽紋の刺青がある。ドヴァーラヴァティの海兵だ。


「習慣だ。あんたら軍人とかかわって、ろくな目にあったことがない」


「そりゃ悪かったな。しかし、おまえさんを捕まえたかったわけじゃない。むしろ、逃げてほしいんだ」


 わけのわからないことを言う武官はラーマを立たせると、逃げないように腰縄をつけさせ、連行した。


 連れていかれたのは、離れた場所にぽつんと停泊していた中型の遠洋船だった。シュリーヴィジャヤでよく見るアウトリガーのついた安定性のいい船だ。三、四十人乗りで、軍船としても使われるが、旅の商人がよく乗っている。


 薄暗い船室にいたのは、昨日の丸帽子の少年だった。


「おまえ……生きてたのか」


 ラーマはあの夜、運河の下流を一晩探したが、彼を見つけられなかった。自分が突き落とした相手が生きていたことに安堵した。


「帽子はなくさなかったみたいだな。剣はどうした?」


「まず、命を救われたこと……お礼を言わせてください。僕はナコーン・パトムのマカラ・プージャ軍隊長が息子、トゥミ・プージャ」


 声には覇気がなく、疲れている様子だ。さんざん泣き腫らしたという顔だ。


「俺はラーマだ。礼より前に、まず縄を解け。話になんねえよ」


 武官は部下に言って、腰縄を解かせた。


「で、俺にこのお坊ちゃんを会わせてどうしようってんだ? お友達になれってのか?」


「その前に申し遅れた。私は海軍百人隊長のジュターユ。マカラ様の部下で、わけあってトゥミ様をここにかくまっている。この方がここにおられることを知るのは私の部隊とおまえさんだけだ」


 ラーマはため息をつくと、壁にもたれ、長髪をかきあげた。


「おおかた、やばいやつらに狙われているこいつを連れて、遠くへ逃げてくれってことだろう。俺の逃げ足は有名だからな。けど、なにがあったか知らないが、そんな危ない話に乗るほど生活に困っちゃいないし、まだ死にたくない」


 ラーマは、あの夜会ったバロン・ガネーシャの冷たい瞳を見てぞくりとした感覚を思い出す。今度会ったら確実に殺されるだろう。


「もちろん、前金も逃走資金も用意するが、報酬は金だけではない。おまえさんが欲しがっていたものだ、青い王子」


 ジュターユは船室の隅の棚から、布にくるんだ細長いなにかをとりだす。


 布がめくられ、現れたのは海龍剣だった。


「それ……くれるのか?」


「六十五日間、誰にも奪われず、用が済んだらな」


「今から六十五日以内に、僕はそれをある人物に渡さなければならない」


「何の話だ」


「あなたは幻術の使い手と聞いた。千里眼という術を聞いたことはないか?」


「千里眼だって?」


「その千里眼が、教えてくれるんだ。僕が行くべきことと、なすべきことを」


 ラーマはトゥミの胸ぐらをつかんだ。


「海龍剣の魔奈をおまえが得たんだな!」


「おい!」


 ジュターユが太い腕でトゥミからラーマを引きはがす。


「くそ、なんてこった!」


 ラーマは頭を抱え、その場に崩れ落ちる。


「やっぱり、海龍剣には千里眼の魔奈が宿ってたんだ! ちくしょう、先を越されるなんて! いままでの苦労が!」


「千里眼を知っているなら話は早い。未来からの情報で、トゥミ様は海龍剣を守り切らなければならないのだ」


 話を聞かず、あああああ、と嘆くばかりのラーマ。ジュターユが立たせようとするのをトゥミは制した。


「ラーマ、聞いた話によると、また歳月を経れば、霊具に魔奈は溜まる。僕の用がすんだあと、剣はあなたに差し上げる」


「用って……どこに何をしに行くんだ?」


「朝貢だ。貢物を皇帝にお届けする」


「は? 皇帝って、まさか」


「玄宗皇帝に会いに唐へ行く。ドヴァーラヴァティ連合王国の百年ぶりの遣唐使としてな」


 ジュターユは事情を詳しく説明した。


 トゥミの目の前でバロンに殺されたマカラがバロンを都に招き入れた謀反の冤罪を着せられた。その奥方ムーも投獄された。トゥミの妹キキは奴隷の身分に堕とされた。


 マカラは民の信望も厚く、帰化人ながら、次期宰相候補で、王族のガイヤン将軍から疎まれていた。バロンの襲撃時に軍を動かさなかったガイヤンこそが、自身の利益のためにシュリーヴィジャヤと結託してドヴァーラヴァティを破滅に導こうとしているものとジュターユたちは考えた。


 老王ヴァルマンを支える宰相は病床に付している。これを機にガイヤンは政権を乗っ取り、シュリーヴィジャヤを後ろ盾にインドシナ全土を侵略するつもりだ。


「そこで、トゥミ様を遣唐大使に立てて大唐帝国の後ろ盾を得、ドヴァーラヴァティの他の勢力を味方につけるのだ。ムー様とキキ様はいわば人質だが、早いうちに圧力をかければガイヤンも折れるだろう」


「はははは」


 ラーマは大笑いした。


「何がおかしい!」


「あんたら、馬鹿か。これからの季節は逆風だぜ。押し流されておわりさ。六十五日間、このダサい船で海を漂えってか」


「この船は櫓が付いていて、もちろん水夫も雇う。沿岸づたいに北上すれば、この季節でも、安南まで四十日以内に着く。さらに二十日かけて揚州まで行く」


「安南……」


「そう、安南だ。チャンパの北で唐の最南端。問題はそこまでの海に立ちはだかるシュリーヴィジャヤの水軍とチャンパの海賊、そして嵐だ。そのために、おまえさんの逃亡術が要る」


 ラーマはひたいをぽりぽり掻いた。簡単に言ってくれるな、と思った。


「それはそうと、遣唐使って、勝手に名乗っていいもんなのか?」


「そのために、海龍剣が役に立つ。マカラ様は日本の元遣唐使だった。二十年ほど前、帰国船が嵐に遭って南海に漂着し、シャイレンドラ王家に拾われたが、政治的理由でドヴァーラヴァティに亡命された。海龍剣はマカラ様の一族で代々受け継がれてきたらしいが、これを見せればトゥミ様がマカラ様の息子だとわかってもらえるはずだ。そうなれば、証人になってもらえるだろう」


「誰に?」


「日本の遣唐使が今、唐に来ている」トゥミが言った。「父を知る人物も大勢いる。その中に、父と懇意にしていた吉備真備という学者がいる。その方に会えば、唐の役人に取り次いでもらえる。うまくいけば、皇帝に謁見できるし、正月の朝賀にも参列できる」


「それも千里眼で見たのか」


「ああ。夢で見たんだ、千里眼でわかった情報は、真備殿が六十五日後に揚州から帰国船に乗ることだけだ。それまでに会わなければならない」


「用が済んだら海龍剣はおまえに譲るし、報酬も出す」ジュターユが言った。「なんせ、遣唐使が唐からもらえる褒美は献上する貢物よりはるかに莫大だというからな」


「断る!」


 ジュターユの言葉を遮るように放たれたラーマの一言に一同は唖然とする。


「なぜなら、俺は安南には行けない理由がある。そこから逃げてきたんだからな。金を積まれても無理だ。いまさら海龍剣をもらっても、本当に魔奈が得られるかわからんしな」


「断れると思うのか。懸賞首のおまえを引き取りたがっている国はいくらでもあるんだぞ」


「ふん、やっぱり、はなから俺に選択肢なんてないんじゃねえか。ところで、この船は今どこへ向かっているんだ?」


「何?」


 いつのまにか船は動き出していた。桟橋が遠ざかっていく。


「誰が出せと言った?」


ジュターユは船室を出て部下に問いかけるが、部下たちも事情がわからず右往左往している。


「敵が乗り込んでるんじゃないか?」


 ラーマの言葉に、事態をのみこんだジュターユが血相を変えて部下たちに号令を出す。


 甲板の兵士たちは倒れていたり、うずくまっている。錯乱して、海に飛び込む者もいた。


 ジュターユが操船している水夫を問いただすが、彼は目がうつろで、わけのわからないことを口走る。幻覚を見ているようだった。


「なんだ、なにが起きている?」


 狼狽するトゥミとジュターユ。正気だった兵士もパニック状態だ。


 ラーマはこの隙に剣を奪って逃げようかと算段するが、そうすればまた自分が敵と結託していると疑われる。事態を見極めてからにしようと考え、あたりの様子をさぐる。


 どさり、と音がして、船が揺れた。帆の上から人が落ちてきたのだ。血まみれの兵士の死体だった。

 見上げると、帆柱の上に誰かがしゃがんでいる。逆光で黒くなったその姿は、まるで巨大な蝙蝠のようだった。両手につけた鉤爪が怪しく光る。


「バロンだ!」


 ジュターユが部下たちに矢をつがえさせる。その後ろで、トゥミは海龍剣を抱えたまま、縮こまっている。


「トゥミ、海龍剣を絶対に放すな」


 ラーマはトゥミの耳元で言った。


「えっ……?」


 トゥミの顔が不安でいっぱいになる。いやな予感がしたのだろう。


「この船、沈むぞ」


 不気味な黒い仮面の下で、蝙蝠のバロンがにやりと笑った気がした。


 ラーマはトゥミの服を掴み、海に飛び込んだ。



 ※



 キキは寝床から立ち上がれなかった。なにもする気がおきなかった。


 ムーシャの息子たちに棒でしこたま叩かれた傷がうずいているのもあったが、精神が限界だった。


 母も死ぬ前にひどい扱いを受けたようだ。


 さっき、火葬場で焼かれる寸前に見た母の死体は、風で布がめくれ上がったときにちらりと見えただけだが、激しい拷問があったことはわかった。片目が潰され、歯が何本折れていた。


 この町の僧たちは罪人に冷たいし、軍人に逆らったりしない。


 ガイヤンがムーを獄死させたのもキキを火葬に立ち合わせたのも、息子を失った腹いせであり、それでもまだ働けという寄宿舎の管理人や召使にもまた悪意があった。


 今回のバロンの襲撃にはじまったことではなく、モン人の中にはシュリーヴィジャヤ人に恨みを持つ者は少なくなかった。海洋貿易の利権を独占され、ハヌマンの海軍に沈められた船は数知れず。シュリーヴィジャヤの海賊に拉致された漁民もいる。


 シュリーヴィジャヤからの帰化人ということで、自分たちプージャ家が一部の人から憎まれていることはわかっていたが、これほどまでとは思っていなかった。


 しかし、まだ死ぬわけにはいかない。どれほど生きる気力をそがれようと、憎悪されようと、自分にはやるべきことがあるのだ。


「ガイヤン、バロン・ナーガ、バロン・スラビー、バロン・クンビーラ……バロン・シャシャンカ……」


 いつか殺すと決めた者たちだ。母を殺した拷問人もわかれば、そいつも殺す。


 キキは立ち上がると、台所でマンゴーをくすねてかじった。幼いムーシャの末息子に見られたが、マンゴーを投げつけて追い払った。


 建物を出ると、木々が生い茂る川のほとりで顔を洗った。


 この前の石つぶての傷はすっかり治っていた。


「あんたには、やっぱり魔奈の素養がある。離れていてもびしびし感じる」


 声に振り向くと、シュワンがいた。キキはなぜだか、彼がここへ来るのがわかったのだ。


 この前と違って、シュワンは背筋を伸ばして立っていた。キキより少し背が高く、筋肉質な体系だ。あいかわらず髪も髭も伸ばし放題だが、もはや弱弱しい奴隷ではなく、精悍さすら感じた。


「あれからずっと正気のまんまなんだ。あんたに治癒術を使ったときに、逆にあんたから元気になる魔奈をもらったみてえだ。ちょっとずつ、昔の記憶も戻ってきた。俺はモン人だけど、いろんな国を旅していたようだ。シュリーヴィジャヤやインドの言葉もわかるし、漢字も梵字も読める」


 キキは彼の目に危険なものを感じた。知性の輝きは増すばかりだが、同時に、獣が牙を取り戻しつつある、そんな気がしたのだ。


「あんた、バロンだったんじゃないの? その背中、前はなにかの獣の刺青があったと思うんだけど」


「そうかもしれねえ。ずいぶん人を殺した気がするしな。でも、前は魔奈を通じて別の誰かが俺に入りこんでいて、そいつが俺を止めていたみてえだ。でも、そいつはもういない」


「あんたがバロンなら、私も殺す?」


 シュワンは一瞬、値踏みするような目でキキを見た。


「いや、仮に俺がバロンの仲間だったとしても、あんたはピーウォックからかばってくれたから殺さない。むしろ、あんたが貴族に戻ったら、ぜひ家来にしてほしいと思っているくらいだよ」


 キキはシュワンの卑屈な笑顔に劣情が含まれているように感じたが、それを利用するのもいいかもしれないと思った。


「いいわ、今すぐ家来にしてあげる。その代わり、私の野望を手伝ってくれないかしら」


「いいよ。俺には、行くところも、やることもねえしな」


「あと、戦い方……じゃない。人の殺し方を教えて」


「教わるより、見て覚えるのが早いと思うぞ」


「じゃあ、手始めに、あいつらを殺してみてくれない?」


 怒り満面のムーシャと、いじわるなその息子二人が悪態をつきながらこちらにやってくる。キキが逃げたと思って追ってきたのだ。


 大柄な息子たちの手には折檻用の棒があった。マチャンを殺した凶器だ。


「いいけど、ここにはもう戻って来れねえかもしれねえぞ」


「いいわ。戻って来るときは、ガイヤンを殺して、この都を取り戻すから」



 ――。



 八人乗りのバンはバンコク郊外の国道を西に走った。


 凌太とバイユのほかには、さっきのタトゥーの女が助手席に乗っていた。運転手は寡黙なやせた中年男性。スキンヘッドに眼鏡の東洋人男性。


 凌太は後部座席で第三話を何度も読み返す。いまのところ、書き換えは起きていない。


 気になったのは、登場したバロンたちだ。蛇のバロン・ナーガ、牝牛のスラビー、兎のシャシャンカ、そして象のガネーシャ。鰐と蝙蝠もいた。前作に出てこなかったバロンばかりだ。


 前作では、獅子のバロン・クトットと猪のヴァラーハ、黒豹のマチャンを、ナギと彼女の従者ララワグが倒した。


 多胡弥が扮していた虎のバロン・ヴィヤグーラは広成が斬った。


 獣のような体術でナギを苦しめるもララワグに倒された山犬のバロン・シャルカールは一命をとりとめるが、シャーマンであるララワグの魂が乗り移って広成とナギの従者となった。


 バロン・クトットの正体はララワグの分身だった。ララワグがオーストラリアからジャワ島にわたってきたときに、海原に漂う仙人を見たことがきっかけで二人に別れたのだ。


 仙人は過去改変を常に繰り返す「遁甲術」を使って、「偶然」を操作し、帆も魯もない小舟で海を渡っていた。複数の並行世界を超えて存在するその姿を見たララワグはその後ナギと出会って従者となり、見なかったララワグはバロンに加入した。


 二人のララワグは別れたあと元来別の並行世界に生きるはずだったが、魔奈の力によって同じ世界にとどまり、存在が重なり合ってそれぞれ生きていた。


 仙人の正体は役小角で、その神がかった力にこの世の真理を垣間見たララワグは、彼の影を追い求めて世界中を徘徊した。そしてめぐり逢ったがその娘ナギだった。ララワグはナギの心の中の仮想空間に生きていた小角の存在を感じ取り、ナギについていくことに決めた。


 ララワグの槍でクトットが死ぬと、分身のララワグも死に、死体はひとつになった。しかし、ララワグは分身であるはずのクトットを自ら殺したことが「印」――つまり、クトットとは別個の存在であったことの証明をこの世に残した。「印」の発動でその存在の本質である魂は消えずに残り、近くにいたシャルカールの肉体に宿った。


 これはドラゴンジャーニーで最も難解な「ララワグ問題」、あるいは「シュレーディンガーのバロン」と言われている。凌太もよくわかっていない。


「ねえ、シュワンって、バロン・シャルカールだよね?」


 バイユが凌太のスマホを覗き込んで言った。


「なんでナコーン・パトムで奴隷になってたのかな?」


「広成やナギとはぐれたんだろう」


「ララワグの意識は?」


「消えたみたいだね。彼が記憶喪失になったのとも関係ありそうだ」


「それにしても、今回もまた遣唐使の話というのがおもしろい」とバイユ。「玄宗や朝衡も再登場しそうだよね。楊貴妃も出るのかな。歴史好きとしては楽しみだ」


 そのとき、助手席の女が振り返った。


「バイユ、もういいよ」


 バイユは女に言われ、ふてくされたような顔になった。


「せっかく、オタ話楽しんでたのに」


「ロン、停めて」


 車は減速し、路肩に停まった。


「なんだ?」


 困惑する凌太を、バイユと女は無表情で眺めた。


 運転手はエンジンを止めると、ふうっと一呼吸した。一仕事終えたかのように、静かになった車内で煙草を取り出して吸い始めた。


 畑に挟まれた国道は。トラックや乗用車が猛スピードでびゅんびゅん通り過ぎていく。


 凌太は心臓が締め付けられる心地がした。


 車のピックアップは十五分も早く来た。昨夜、バイユがナコーン・パトム行きをやたら勧めてきた。そもそも、あのチラシをくれた客引きが宿の場所を教えてくれた。


 不可解な事象の数々。それらは伏線として、足もとに巧妙に張り巡らされていたのだ。


 そのとき、一台のバイクが車の近くで停まり、ドライバーがヘルメットを脱ぐ。


 ロハスだった。


 昨日、凌太が飲み会を離脱したのは、彼が店に現れたからだった。


 似ていたのだ。竜星を殺そうとした密偵、ビリーに。その登場のしかたも雰囲気も。


「まさか、あんたら……?」


 タトゥーの女がにやりと笑う。



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