第一部 巡礼の印 5 聖地大阪 〜 8 聖地ジョグジャカルタ
注釈
【チャンパ王国】
現在のベトナム中部から南部にあったチャム人の王国。インド風の文化を取り入れ、ヒンドゥー教が盛んであった。林邑国、崑崙国とも。首都は現在のベトナム中部のダナン、ホイアン付近と言われる。
【真臘国】
「チェンラ」と読む、6世紀半ばから9世紀初頭にかけて現在のラオス南部からカンボジア東部かけて存在したクメール人の国。もともとはカンボジア地域一体を支配していた扶南国の属国だったが、イシャーナヴァルマン1世がこれを滅ぼし、メコンデルタや国際的な貿易港のオケオなどを支配下におさめた。8世紀に北部の陸真臘と南部の水真臘に分裂した。
【シュリーヴィジャヤ王国】
7世紀以降、スマトラ島のパレンバンを首都にして栄えた海洋国家。漢字で室利仏逝と書く。それまで海賊により通行が難儀していたマラッカ海峡を支配し、東西貿易で巨万の富を得た。首都やマレー半島のチャイヤーには多くの仏教施設があり、7世紀に唐からインドへ巡礼した僧の義浄も旅の途上に滞在しサンスクリット語を学んだとされている。一説には真臘に滅ぼされた扶南国の残党が建国したとも。11世紀にインドのチョーラ朝の侵攻で打撃を受けたことをきっかけに滅亡する。後に同じ読みの三仏斉という国が宋に朝貢したという記録はあるが、これはチャイヤーなど元シュリーヴィジャヤの都市でった港市国家の連合体と言われる。
5 聖地大阪
兎を狩り、雉を撃った。狩りが終わると、馬に乗ってゆっくり峠を下った。前には父の乗る馬。両脇には弓を持った従者たちが歩いている。
道幅が広くなったところで、郡の役人たちが七、八人ばかりのみすぼらしい男女を連行しているところに出くわした。ぼろを着た奴婢たちは縄で手を縛られている。老人や子供もいる。そばの草むらには男がうつ伏せに倒れていて、血溜まりができている。
その死体にすがりついて泣きわめく娘子。年の頃は自分と同じか、少し下のようで、見た顔だった。もう二、三歳幼かった頃、村のほかの子供らとともに遊んだことがあった。
娘は容赦なく鞭打たれ、列に戻される。打たれるたびに矢を射られたときの雉のような声を上げた。
役人たちは父に向かって、恭しく挨拶する。
「お見苦しいところを。逃げた奴婢の家族です」
通り過ぎるとき、娘と目が合った。助けを求めるようでもあり、憎しみをこめた睥睨のようでもあった。
広成は耐えきれずに目を背ける。
父に問いかけることなく、その広い背だけを見て、無言で通り過ぎた。一団が見えなくなったころ、背後からまた鞭打つ音がしたが、悲鳴はもう聞こえてこなかった。
馬の背に積まれた兎と雉のだらりとした死体が、やけに生々しく見えた。
父が自分の問いかけに答えなかったのではなかった。
自分が父に問いかけなかったのだ。
息子が奴婢をかばうようなことを言えば、父は、立場上、役人を止めることはしないにせよ、行き過ぎた仕打ちに苦言を呈すくらいのことはしたかもしれない。
記憶のなかで父に問いかけていたのは、そのときの自分のしたことを直視したくないがための虚構だ。悲痛な光景から目を背け、娘を見殺しにしたのは父ではなく、自分だった。
そのことを、ずっと、自分自身からも隠していた。
――。
波の音が聞こえる。
――夢か。
広成は薄暗い船室で転がって眠る養年富の顔を見た。えらくやせ細っている。
ナギはぐったりとした様子で、膝を抱えて壁にもたれ、眠っている。
――私についてきたばかりに。すまない。
嵐を抜けてから、ずっと波は穏やかだが、不安は日に日に高まっていく。船は舵が損傷したようで、進行方向を制御できずに陸に流れ着くのを待っている状態だった。
十月だというのに、えらく暑い。かなり南方に流されたようだ。
外の様子はわからない。この数日、養年富と碁を打って、ナギにおとぎ話を聞かせ、生米と小麦菓子を食べて、寝た。
水桶やおまるを替えてくれる若い水夫が今日はまだ来ない。広成は外が気になった。
「おい、どうなってる。何かあったか」
扉に向かって広成は言った。返事はない。がやがやと話し声はするものの、よく聞き取れない。
無理やりこじ開けようとしたところ、ぎいっと外から扉が開かれた。
「出ろ、釈放だ」
仏撤だった。その顔を見るなり、ナギが敵意をあらわにして、とびかかろうとした。
「すまん、平群。しくじった」
ナギを無視して、仏撤はくるりと背を向けた。彼は後ろ手で縛られていた。
船上は武装した男たちで埋め尽くされていた。聞きなれない外国語が飛び交い、何隻もの帆船と手漕船がまわりを取り囲んでいる。
拿捕された遣唐使船の乗員たちは、それらの船から渡された板の上を歩かされている。その中には知乗船事や弓手長もいた。
武器を持った男たちは、一様に肌色が濃く、多くは革の鎧を着ているが、ぼろ布のような粗末な衣服をまとっただけの者もいた。装備に統一性がなく、仕草や振る舞いが粗暴だ。
「海賊……か」
日差しは異様に強く、真夏のようだった。
遠くにぽつぽつと島影が見えるが、まだ陸地は遠い。
水の澄んだ青い海原は美しいが、それ以上に素肌に不揃いの鎧をまとう男たちの武骨な姿が鮮明だった。顔つきも唐人とはちがい、鼻が低く、目がぎょろりとしている。
「こいつらがうわさのラヤン一味か?」
「たぶん、ちがう」仏撤は振り返らずに答えた。「おそらく、室利仏逝の海賊だ」
広成はその国の名を聞いたことがあった。天竺に向かう途上にある海洋国家だ。海上貿易の要衝で、南海の島々で穫れる香辛料や西洋からの品々を唐に輸出することで古くから栄えてきたという。
仏徹が説明する。かつてチャンパの西にあった扶南国が属国の真臘に滅ぼされ、残党が南のマレー半島やスマトラ島に逃げて作ったのがシュリーヴィジャヤ王国だ。かれらは、要衝であるマラッカ海峡から海賊を締め出して、唐・天竺間の貿易の利権を独占した。
「そんな遠くまで流されたのか」
「少なくとも、海南島やチャンパよりは南だ。星や太陽の位置からしてな」
――。
せわしない着信音が鳴っている。
ネットフリックスでドラゴンジャーニーを観ていたレオ・ヴィーラはスマホの着信音を数秒泳がせてから応答した。
「……わかった。またすぐ折り返す」
リモコンで動画を一時停止する。
窓の外を見やる。
高層ホテルの上層階、壁一面の窓から見下ろす大都会大阪の街並みと大阪湾。日本の都会は、地上を歩くとごみごみしているが、高見から眺めると美しい。高速道路の車や港湾に行きかう船舶は淡い日差しのなか、優雅に流れている。
別の部下の番号にかけ、スマホを耳にあてながら立ち上がる。二コール目で応答する。
「はい、ソーマです」
電話のむこうの丸みを帯びた声は、事務的だが、好意を含んだ響きがある。
「モニカ・サンダーの居場所がわかったらしい。すごく近くにいた。書き換えのログは、サミット前後の分を送ってくれ」
「わかりました。あと、申し上げにくいのですが……ナンディたちがまた街でトラブルを」
「あとで聞く。対応はキリクにまかせろ」
電話を切り、ソファに座ると、アニメのつづきを観る。
ドラゴンジャーニーの第十六話。
平群広成と田口養年富が海賊に捕まり、真臘のオケオに連行されるくだりだ。
オケオはメコン川の西、現在のベトナム南西部に位置する。インドと中国を結ぶ交易路上の港市として一世紀頃から栄えた。後の世に古代ローマの硬貨も発掘されている。
早送りで、先へ進める。
運河を船で運ばれ、積み荷とともにだだっ広い荷下ろし場に降ろされた広成、養年富、ナギ、仏徹ら十数人は、奴隷としてオケオ太守のムチュクンダ将軍に献上されることになる。ほか百人の部下たちはマレー半島やジャワ島へ連れていかれたようだった。
ジャングルの中を運河が網の目のように結んでいて、象が人や物を運び、石づくりの仏塔が並んでいる。異様に強い日差しの、巨大な椰子の枝が揺れる異国の都。遣唐使たちは絶望して沈み込むが、広成は希望を失っていなかった。
広成は手を縛られ、汚れた服をまといながらも、背筋を伸ばし、同じ唐への朝貢国として帰国に協力するよう白象に乗った太守に要請する。そのけなげな姿に部下たちは涙する。
精悍な獅子のような顔つきの若き太守は彼を笑い、流ちょうな唐語で「自由をかけて戦え」と言って、広成と仏徹を半地下の闘技場に放り込む。
養年富たちは奴隷として採掘場に連行された。
石造りの巨大なすり鉢のような闘技場は地下牢につながっていて、肌の浅黒いモン人やクメール人の奴隷がひしめいていた。敗北者や逃亡者は鰐皮の鎧をまとう狂気じみた処刑人に殺され、堀に住む鰐の餌にされた。
第十七話はナギ目線からはじまる。
ナギは鰐の住む堀に囲まれた大理石の宮殿に連れていかれた。
数十人の官女とともに暮らし、天女のようなひらひらした衣服を与えられ、舞や化粧の技術、香の知識、「殿方に対する作法」を女性同士の実演で教え込まれる。殿方といっても、相手はムチュクンダ一人だった。そこは彼の子孫を残すために作られた後宮だった。
一方、広成と仏徹は戦いを勝ち抜いていく。目的は、闘技場で自ら剣をふるい、戦闘と虐殺に興じる太守を倒すために、二人は協力しあう。
ムチュクンダへの挑戦権を得るための最終戦の相手は、なんと養年富と遣唐使船弓手の牟呂だった。採掘場の部下たちを人質にとられ、本気で向かってくる彼らに、広成と仏徹は苦戦を強いられる。殺すことに躊躇しないよう、四人とも仮面をつけさせられていた。
養年富の得意とする下段からの回転斬り「水龍」と大上段からの捨て身技「大蛇乱舞」がさく裂し、広成は防戦一方だった。
――。
「養年富最強説か……」
レオはつぶやく。
ドラゴンジャーニーのファンの間でささやかれる強さ議論でよく出てくる話題だ。田口養年富は、普段はおとなしいが、体格に恵まれ、さらに魔奈の素養もあり、本気になると武内宿禰流正当伝承者の平群広成をもしのぐ剣の腕を持っていたと言われる。
広成のアドバンテージは、正当伝承者の奥義と、それを可能にする歴代所持者の魔奈を受け継ぐ海龍剣だったが、今はその手にない。
海龍剣の行方――レオはそれを追っていた。
ドラゴンジャーニーの結末では、それが曖昧になっている。物語の展開から、推理するしかない。
第十八話はラヤン一味の頭目バヤンの横暴なふるまいと、それを冷ややかに見る腹違いの妹、シーンが彼の暗殺を企てるところからはじまる。
暗殺は成功し、一味を引き継いだシーンは、南海のとある島にあるインド風の宮殿、真珠宮を訪ね、白い王子こと大海商シュヴェータに謁見する。
はるか千年前にギリシャからインドまでを支配したイスカンダル大王の血を引くという金髪碧眼の美青年だ。
シュヴェータはシーンを「いつぞやのお転婆娘か」と小馬鹿にしつつ、彼女の持つ海龍剣の龍のレリーフに興味をもつ。
「それは蛇王か?」
「いや、竜神だ」
平群広成の行方について情報共有を約束するシーンとシュヴェータだが、その協定はのちに破られることになる。それぞれ、ラヤン水軍の女帝とシュリーヴィジャヤ王国の防衛長官として、いずれ対立する運命にあった。
シュヴェータが広成の身柄を拘束したがる理由はまだこの時点では明らかにされない。
渦中の広成は白い王子と海賊女帝が警戒する第三勢力、ムチュクンダの手の中にあった。
場面はオケオの闘技場に戻る。
すり鉢の底で、遣唐使の判官どうしがクメールの剣を持って対峙している。
広成は旅に出る前は自分の命など惜しくないと思っていたが、それまでに犠牲になった人々を見ているうちに考えが変わった。何としてでも帰国しようという強い意思があった。行って帰ってきてこその使節だ。たとえ何も持っていなくとも、帰国してこそ使命が果たされる。
しかし、そこに立ちはだかるのは同じ志を持った親友養年富。彼は彼で、部下を助けるために、ここで負けるわけにいかなかった。
その地獄の釜のような半地下での死闘に、ついに決着がつこうとしていた。
養年富の猛攻に後ずさり、広成は先の戦いで倒れた奴隷の死体に躓いて転倒する。養年富は剣を振り上げるが、仮面が外れた広成の顔を見て、殺すことを躊躇する。
制裁として、客席の弓兵が養年富に向けて一斉に矢を放った。それを牟呂が体をはってかばう。
死んだ牟呂に覆いかぶさって泣く養年富。その大きな背中を見て広成はひらめく。
「養年富! 大高波だ!」
養年富は広成を背に乗せて跳躍する。広成はさらにその背を踏み台に跳び、欄干を飛び越え、客席の壇上に到達する。そうして、広成はついにムチュクンダの間合いに入ることに成功する。
憤怒の表情で壇上の弓兵を斬り捨てていく広成。
闘技場で生き残るために何人も殺した。その中には檻の中で食べ物をわけてくれた優しい青年もいた。
広成のムチュクンダに対する憎悪は頂点に達していた。
若き暴君は黄金色に輝く宝剣を振り上げ、這い上がってきた好敵手の出現に歓喜する。
闘技場は彼が仕込んだ「蟲毒の術」だった。壺の中で毒虫に殺し合いをさせ、生き残った虫に宿る最凶の毒を使うという道教の呪術だ。呪いの塊となった闘技場の英雄を殺すことで、黒魔奈をその身に吸収するのがムチュクンダの目的だった。
集めた黒魔奈により、ムチュクンダは不死の術を会得していた。斬られても、過去改変で一瞬先に戻り、攻撃をかわすのだ。広成はその闘いを何度も見ていた。
武内宿禰流撃剣術にはそういう者に対する技も伝わっていた。広成はムチュクンダの大技の数々を堅実な防御でいなすと、右手の剣の突きと左手の裏拳の同時攻撃を繰り出す。
ムチュクンダは不死の術で剣をかわすも、顔面に広成の左拳がめりこんで吹っ飛ぶ。意識が飛んだ暴君は再度の不死の術を使う間もなく、欄干の下の闘技場に転落し、首の骨が折れて絶命する。
ムチュクンダはリューシャと同じエフタル結社の一員だった。インドに逃れたエフタル王族の末裔として、南海に帝国を築こうとしていた。
チェンラに軍事協力して太守の地位を得たが、その野望はインドやシュリーヴィジャヤ、そして唐をも滅ぼすこと。つまり世界征服だった。
広成は兵に囲まれる。処刑されるかと思ったが、チェンラの中央政府から出向してきていた役人たちは、手を焼いていた独裁太守を倒した英雄として、広成を歓迎した。広成を暫定太守に任命し、官邸を与え、日本帰国の協力まで申し出た。
広成は、唐へ向かう商船を待つ間、憶良や行基、唐の律令体制から学んだ知識を駆使して、前太守の圧政で疲弊したオケオの再建に着手する。
しかし、ナギはいなかった。宝物庫で取り戻したヴェルーリヤのもつ黒魔奈の呪いにあてられ、番兵を殺して失踪していた。
彼女はその後、紆余曲折を経てシュリーヴィジャヤの王都パレンバンに逃れ、ギルドの組合長であるシュヴェータの庇護のもとで海商となるが、広成との再会は先の話となる。
広成はオケオ再建の予算交渉のため、メコン川中流の首都パラディヴァに向かう。途中、船上で国王軍に暗殺されかかったところを、チェンラ兵のふりをして潜伏していたシーンとアムーラに救われる。
そのとき、ムチュクンダの死を聞きつけたシュリーヴィジャヤのハヌマン将軍が大船団を率いてオケオに攻め込もうとしていた。広成はラヤン水軍に助けを請う。
シーンは広成にある条件をつきつける。その見返りにオケオはラヤン水軍に守られる。
こうして、広成は南海の覇権争いに巻き込まれていくことになる。
――。
リモコンで十八話の途中まで巻き戻す。
海賊女帝シーンがシュヴェータに海龍剣のレリーフを見せびらかして言う。
「ウルラガだ」
シーンとシュヴェータはのちに対立するが、二人は同じ名の国を作ろうとした。
作中では「リュガ王国」という名称だが、このシーンのセリフは、リュガ王国のモデルがウルラガ王国であることを示している。
ウルラガ王国――首都はボルネオ島北西部の港湾都市ラーガプル。八世紀後半にシュリーヴィジャヤ王国から独立し、貿易産業で栄えた港市国家。第二次世界大戦以前は東南アジア各地に飛び地を多く持ち、現ベトナムのオケオも領土のひとつだった。
GDPは日本をしのぎ、金融、貿易、IT産業で世界をけん引する。南シナ海の天然ガスや石油資源も豊富だ。ブルネイやシンガポールとよく比較されるが、それらの両方の要素をもちながらすべてにおいて上回る、世界有数の富裕国家。人口は二十万人とブルネイより少ないが、学生には国家ぐるみで徹底した英才教育が施され、高度プロフェッショナルに特化した移民政策で海外からのエリート帰化人も多い。
大阪での東アジア主要国サミットの次の日、大阪南港のホテルで日本とウルラガ交流1200周年式典が催された。
高齢で来日がかなわなかったイシャナ国王に代わって、レオ皇太子は主賓として壇上に上がり、英語で短いスピーチをし、しめに得意の日本語でジョークをとばして会場の笑いを誘った。
式典後、記者からドラゴンジャーニーについての話題をふられると、真正面からは答えず、笑顔でいなした。
「日本のアニメや漫画は大好きデス。私の子供の頃の夢は漫画家でしタ」
「リュガ王国と我が国は一切関係ありません」などという言葉が聞きたかった記者たちは不服そうな顔をしていた。
ドラゴンジャーニーの終盤、現代編にリュガ王国の密偵が登場する。竜星と広成の過去改変の代償――負の歴史の象徴として。
ナギが水鬼衆を討ったことで、平群広成の代わりに紀馬主が帰国し、歴史がかわるが、竜星は「印」の効果で存在を維持できた。
しかし、平竜星としてジーメイとともにベトナムを旅していたはずが、いつのまにか、漫画家の木野竜星になって、取材旅行のためにベトナムからラオスに向かう乗り合いバスに乗っていた。
竜星の意識は自己同一性を保っているが、先祖がかわり、人生も変わったのだ。
ジーメイのかわりに、バックパッカーの李小楊が道連れになっていた。彼女はヴィッキー・リーと瓜二つだった。
平竜星と平群広成の物語は、木野竜星の漫画『巡礼の印』に描かれていた。シンクロニシティにより、書き換え前の世界が、書き換え後の世界のフィクションとなったわけだ。
その書き換えとともに世界に出現したのがリュガ王国で、竜星につきまとう自称オーストラリア人のビリーは、リュガ情報庁の密偵だった。メコン川の中州の町シーパンドンで竜星の前に現れ、彼を夜のボートツアーに誘う。逃げようとした彼を無理やりボートに乗せると、カンボジアとの国境を目指す。
ビリーとは役職名で、千里眼を用いた国家政策で歴史を操作し、世界有数の富裕国となったリュガの闇を象徴する存在だ。
ビリーが竜星を狙うのは、多胡弥がユーファンたちを暗殺したのと同じ理由だった。秘密裡に、王国に都合のいい書き換えを実行しつつ、不安分子を消すわけだ。
レオが長官を務めるウルラガ情報庁に、かような暗殺部隊が実在するという噂が漫画連載時からささやかれていた。ドラゴンジャーニーの続編が連載されないのは、ウルラガ関係者からの圧力が原因だと騒がれている。
ウルラガ情報庁は未来予知により政策を動かし、魔奈の秘術を駆使してトラブルに対処していた。それは日本との交流歴にも関係する。
平安時代初期に日本に訪れたウルラガ使節団の数名が日本に残り、日本の陰陽寮の役人に就任したのが交流のはじまりと言われている。
ドラゴンジャーニーの中で、先祖の朝衡と朝元、シュヴェータ、そして菩提僊那に未来から指示を出し、最強の千里眼をもつ平群広成の魔奈を狙わせていた黒幕の大陰陽師が、日本に残ったリュガ使節団のひとりである瑠璃姫の血を引いているという描写がある。リュガの建国に広成が関われば、その子や孫を通じて伝わる彼の魔奈が、大陰陽師の先天的なポテンシャルを上げるというのだ。
しかし、シュヴェータは子孫の操り人形になるようなタマではなかった。先祖であるイスカンダル大王の力を召喚し、平群広成の魔奈を奪って、自らリュガ王国を築こうとする。
こうして、ドラゴンジャーニーの終盤は、クーデターでシュリーヴィジャヤ軍を乗っ取ったシュヴェータと、ラヤン水軍に組みした平群広成の対決となる。
それは、ナギというひとりの女をめぐる戦いでもあった。
レオはプライベートジェットの中で、もう一度ドラゴンジャーニーを最終話まで見た。
真珠宮に誘い込まれたシーンとアムーラはシュヴェータ軍に敗れるも、あとから乗り込んだ広成がナギの助けを受け、シュヴェータを倒す。
ジャワのシャイレンドラ王家のヴィルシャナ王子がシュヴェータ派の残党を制してシュリーヴィジャヤを再統一する。養年富は盟友となったハヌマン将軍とともにシャイレンドラ家の家臣となり、広成とナギは日本に向かうが、船が難破してチャンパに流れ着く。
シーンは胎に子を宿していた。それが誰の子かははっきり語られないが、彼女の部下との会話から、広成がシーンからつきつけられた条件に関係していることをにおわせていた。
不可解なラストで、真実は隠されている。海龍剣の行方はまだわからない。しかし、すこし状況が整理され、方向性が見えてきた。
キーマンは、広成とシーン、そして養年富だ。
ラーガプルの蒸し暑い滑走路で出迎えてくれたララ・ソーマは、部屋に入ると、シャワーも浴びずに抱き着いてきた。朝まで愛を交わし、ピロートークの途中で寝てしまった婚約者の無防備な寝顔を見ながら、レオはこれが夢でないことを祈る。その宝石のような褐色の頬を、美しい鼻筋を指でなぞり、実在を今一度たしかめる。
ひとりの女をめぐる戦い――歴史は往々にして、同じことを繰り返す。
玄宗も、チンギスハーンも、メネラーオスも、愛する女のために戦い、歴史を動かした。
この現実を守るため、書き換えによって手にした次期ウルラガ王の地位と、死の世界から戻ってきたララ・ソーマの存在を守るためなら、自分はなんだってするだろう。
たとえそれが、破滅に向かう道でも。
歴史そのものを敵にまわすことになろうとも――。
6 聖地吹田
ドラゴンジャーニーの終盤になると、この物語が歴史に実在する三人の超人の代理戦争であることがわかってくる。
一人目は、シュヴェータや朝衡の子孫の大陰陽師。作中では最後まで名前は出てこないが、正体は平安時代の安倍晴明と思われる。エフタル結社壊滅の副産物として平群広成が南海に建国する「リュガ王国」の存在が、自身の先天的なポテンシャルを高めると知り、シュヴェータをアバターにして歴史を操ろうとする。
次に、広成、馬主、養年富の先祖の武内宿禰。古代の海賊王の末裔で、古墳時代から世襲で天皇に仕える武官一族の祖。海龍剣に宿るその魂は、子孫である養年富や、さらにその子孫のジーメイに憑依し、竜星や広成の危機を救う。
最後に、エグニの夫でありナギの父、役小角。
飛鳥時代に蘇我氏の眷属として生まれ、葛城山の仙人となった彼は、先天的な神通力と山岳民族を率いる統率力を朝廷に恐れられ、冤罪で伊豆に流刑になり、その後大陸に渡った。
魔奈を極め、並行世界を行き来するうちにこの世から姿を消し、子孫の意識を媒介として作り出した仮想現実「金剛界ヴァジュラダート」に住む。
偏屈者で、宿禰や晴明を毛嫌いしているが、宿主であるナギの夢の中で彼女に助言を与え、ときに力を貸す。
物語終盤に広成の夢の中でこの三人が言い争っている描写がある。
この三すくみがモチーフとして何度も登場する。
シュリーヴィジャヤ王国にも三傑と呼ばれる国王に仕える英雄が登場する。
遊軍を率い、広い海域を巡航する海の将軍「ハヌマン」。
その精鋭部隊は魔奈が籠められた猿の刺青をしており、ハヌマンの術により猿を憑依し、獣じみた瞬発力を発揮する。
王から死刑執行権を付与された正義の粛清部隊「バロン」。
帰化人により構成され、獅子、虎、山犬、豹、猪など、木彫りの動物の仮面をかぶる。頭目はバロン・クトットと呼ばれる獅子仮面で、幻術でラヤン水軍を同士討ちさせ、ことごとく撃破する。ナギがジャワやスマトラで救出した遣唐使の生き残りをバロンが正義の名のもとに粛清したことで、ナギの仇となる。
そして、王都パレンバンを守護する防衛長官「ガルーダ」。シュリーヴィジャヤで王に次いで強い権限を持つ。
海商で名を上げガルーダに就任したシュヴェータはバロン・クトットと結託してシュリーヴィジャヤ王を暗殺。反王党派を扇動し、国軍を乗っ取った。マレー半島南端のテマセックを前線基地とし、各地で奴隷を解放しながら兵力を強めるラヤン水軍を迎え撃つ。
シーンの施策は広成から教わった行基集団の形成をモデルにしていた。
奴隷出身のシーンが目指す自由の国と、イスカンダル大王の魂に支配されたシュヴェータが目指す帝国は相反するものだった。理念と理念が南海でぶつかり合った。
大陰陽師にとってシュヴェータの抵抗は意図せぬものだった。彼の世界の史実では、広成とシーンにシュヴェータが協力してシュリーヴィジャヤから独立し、リュガ王国が成立することになっていた。しかし、白い王子はその未来を拒んだ。自ら王になろうとした。
シュヴェータとバロン・クトットはテマセックの真珠宮で幻術の罠を張る。ラヤンの精鋭は同士討ちで壊滅し、シーンを捕らえ、バロンを壊滅させたナギを捕らえる。そして救出に来た広成と仏徹を追いつめる。
幻術で気を失ったナギは夢の中で役小角に会う。河原でアユを焼いている小角と、砂利の上で動けないナギ。
青空に真珠宮地下広間での戦いの様子が映っている。イスカンダルの憑依で肉体強化したシュヴェータが仏徹を殺し、満身創痍の広成に剣を突き付けている。
ナギは胸を締め付けられる。愛した男が、大切な人を殺そうとしている。
ナギは、せめて自分がシュヴェータを止めたいと願う。あんたが私の父親だっていうのなら力を貸してくれ、と小角に懇願する。
宿主に死なれては困るので無理せず寝ていろという小角だが、娘の涙にほだされ、制限時間付きでナギを覚醒させる。
ナギはシーンが戦いの中で落とした海龍剣を拾うと、地下広間に駆け付け、剣をシュヴェータに投げつける。剣ははじかれるが、ヴェルーリヤによる怒涛のラッシュでシュヴェータに食い下がる。
ナギが時間切れで意識を失ったあと、海龍剣を拾った広成が白狼剣との二刀流で奇襲し、シュヴェータに致命傷を負わせる。
降参するよう迫られたシュヴェータは斬られた片目を抑えながら語った。
はじめは怒りで黒魔奈が膨れたナギを殺してその魔奈を奪うつもりだったが、気が変わった。ナギの目の前で平群広成をねじ伏せてみたくなった。それが運の尽きだ――そう話した白い王子を背後から何者かが刺殺する。
虎のバロンに扮していた多胡弥だった。朝衡の密命でシュリーヴィジャヤに潜伏し、暴走した白い王子を始末する機会をうかがっていたのだ。ラヤン水軍との交戦時にアムーラと相打ちになって死んだと思われていたが、それも偽装だった。
主の命令に忠実な多胡弥だが、彼には陰陽師の支配は及ばない。リュガ建国などより、任務終了後に命令以上の殺しを行う自身の「生きがい」を優先した。
多胡弥は長安での借りを返すと言って、立っているのがやっとの広成に斬りかかる。
ナギはどこからともなく聞こえた仏徹の声で目を覚ます。声に導かれ、シュヴェータが折った魔奈棒の先端を弓で撃ち、多胡弥に当てる。
魔奈の暴発で動きが止まる多胡弥。そこに、広成が最後の力を振り絞って白波を放つ。
ついに多胡弥を倒すが、その直後、宮殿が崩壊して水没する。多胡弥が事前に宮殿を支える要石を外していたのだ。
広成は溺れ、意識を失いかける。その中で夢を見る。青い薄闇の中で、三人の人影がなにやら言い争っている。そのうちの一人の大柄な武人は何か言いたげに広成をまじまじと見つめていた。
シュヴェータ軍との戦いの中でハヌマン将軍と同盟した田口養年富が真珠宮にかけつけ、溺れかけた広成とナギを救出する。広成には自分を抱きかかえる養年富が一瞬、夢で見た武人の姿に見えた。
広成はしばらくしたのち、ナギ、ララワグ、ウーウォンを従え、帰国の途につく。
養年富はシャイレンドラ王家の家臣となり、ハヌマン将軍とともに活躍し、分裂したシュリーヴィジャヤを再統一する。
シーン・ラヤンは産まれた子に戦死したアムーラの名をつけ、かつての本拠地だった海南島へ帰還する
――。
短い両手を広げたペンギン怪獣の腹に仮面のような丸顔がついている。
「すごーい!」
「実物はじめて見たー、ねえ、あれ、そもそもなんなの?」
大阪モノレールの中から見えた太陽の塔は、1970年の万国博覧会で建設された岡本太郎の巨大アート作品だ。
「へーっ、正体は烏なんだ」
「金烏玉兎集の金烏って太陽って意味デスしね」
「ナティ、なんでも知ってるねー」
「真備が言っていました。玉兎は月で、黒魔奈という意味もありまス」
「白魔奈が治癒術と千里眼、黒魔奈が憑依術と過去改変だっけ」
「隠形術も黒魔奈だよね」
アニメ談義が盛り上がる中、万博公園駅を過ぎ、次の駅で降りた。
横長の大きな団地が林立する坂の多い道を歩く。凌太の実家も、1000戸の部屋がある14階建てのマンションだった。
「軍艦島みたいやねー」
「これが日本の高度成長期を支えた大都市郊外の風景だよ」
玄関でナティとモニカを見て、凌太の祖母幸恵はしばらくぽかんとしていたが、すぐにいつもの朗らかな笑顔で二人を歓迎し、得意の豚玉お好み焼きを作ってくれた。
聖地巡礼はいったん休み。三日間、吹田市千里の葛城家を拠点に大阪見物したあと、モニカとナティは大阪南港からフェリーで北九州まで行くことにしたのだ。
ナティが風呂に入り、モニカが友人たちとスカイプで話している間、凌太は幸恵が出してきたむかしのアルバムを見ていた。子供の頃の凌太と、母羊子の写真だ。
独身のころの羊子は、髪が短く、露出の多い派手な服装をしている。エレキギターを持っている写真もあった。若いころはいろんなものに手を出したらしく、演劇や写真、陶芸にフラワーアートもやっていた。
「この人たち誰?」
凌太は祖母に訊いた。
羊子がギターケースを背負った若い男たちと一緒に映っている写真があったのだ。
「ああ、バンドやってやったんよ。ツアーや言うて、東京やらでライブもしとったみたいやけど、なんか、うまくいかんかったみたいやなあ」
初耳だった。てっきり、役者を目指していたと思っていた。
「あれー、誰それ、凌太のママ?」
モニカが覗き込んできた。
「あれ……なんかどっかで見たような。うーん、思い出せないってことは、気のせいか」
「またそれか」
ナティが風呂から上がり、入れ替わりにモニカが「覗くなよ、絶対覗くなよ!」とお笑いトリオのような口調で凌太に忠告しながらバスルームに消えた。
ナティはパジャマ姿だがしっかりとヒジャブをかぶっていた。長い黒髪が見られるかと思っていた凌太はすこし残念だった。
「ムスリムって寝る時もそうなんだ。あっ……」
「どないした?」と幸恵が凌太を覗き込む。
「豚玉……。ばあちゃん、ほら、イスラム教って、豚肉あかんのとちゃうかったっけ?」
「ああ、それやったら大丈夫や」
幸恵は笑った。
「ナティちゃん、仏教や言うてるで。インドネシアやから、日本のとはまたちょっとちゃうんやろけどな、さっき、おじいちゃんの線香あげてくれはったし」
「そうなの?」
ナティはにこりと笑って、ヒジャブを解いた。
するりと、なんの抵抗もなく布がのぞかれ、あらわれたのはつるりとしたスキンヘッドだった。
「……尼さん?」
「いいエ」
ナティはまたヒジャブを被る。
「ヒジャブは村の伝統デス。髪の毛は病気で抜けましタ」
ナティがかかっているのはケルビンスキー病――数百万人にひとりが発症するという、原因不明の難病ということだった。
ただちに命に別状はないが、進行すると脱毛、視覚障害、意識障害などの症状がみられ、免疫が著しく低下し、他の合併症を誘発することがある。
湯舟につかりながら、凌太はナティの病気について考えた。アイドルを辞めた理由は、病気――というより、髪の毛のせいだろう。旅に出たのは、目が見えるうちに見たい景色があったからだ。
過去改変を使うたびに、彼女の体に代償が蓄積されていったのだろう。
奇跡とその代償はドラゴンジャーニーの主題のひとつでもあった。
広成が過去改変で誰かを救うたびに、代わりに誰かが死ぬ。彼は不死の術を会得したあと、そのことに気づき、もう過去改変は使うまいと誓う。
ナギは、戦いで超人的な能力を発揮してきたが、自分が殺した分だけ仲間が死ぬことに、あるとき気づく。
「エントロピーだったか……いや、等価交換――」
視線を感じ、見ると、引き戸の隙間からモニカとナティが覗いていた。
「……うちらのつかったお湯、飲んでるのかなーと思って」
「飲むかーっ!」
凌太が叫ぶと、ぴしゃりと戸を閉まり、すりガラスの向こうでふたりはけたけたと笑った。つられて凌太も笑った。
ベランダに出て、手すりに身を乗り出し、夜風に当たりながら団地の風景を眺めた。
町の様子は、以前住んでいたころと変わっていない気もするし、変わった気もする。
スマホを見ると、めずらしく母から着信があった。
かけ直すと、いつものボリューム大きめの関西弁が耳に飛び込んできた。
「あんた、大阪戻ったんやて? もう漫画やめんのか?」
背景では英語らしき声が聞こえる。アメリカからかけているようだ。
「ああ、二年の約束やったからさ。金はちゃんと返すよ」
「あほか」
「え?」
「やめるのもつづけるのも勝手や。あんたの人生や。けど、二年とか、金とか、そういうのをまわりのせいにして言い訳すんな!」
「けど、俺には才能が」
「才能がどうとか言うてるうちはあかん。スタートラインにすら立ててへんわ! 金なんかどうでもいいから、やめるならやめるで、うちが納得いく答えを考えとけ。以上。ばあちゃんにはまた手紙書くからよろしゅう言うといて」
唐突に電話が切れた。
嵐の去ったあと、一呼吸おいて、背後の引き戸が開いた。
モニカかがベランダに出てきた。
「凌太、おばあちゃんとしゃべるときは関西弁になるんやね」
「え、ああ。十五まではここにいたしね」
「そのあとは東京?」
「そう。高校が寮制で。大学からは、母親の知り合いが大家だったあの竜星の部屋に」
「さっき、ナティの病気のこと聞いとったよね」
「え、ああ。うん」
「私は、なるべくあの子についててあげようか思う。日本にいる間だけでも」
薄闇の中でいつになくまじめなモニカは、声のトーンが低く、別人に見えた。堀の深い顔立ちは、まるで思慮深さをたたえたギリシャの彫像のようだった。
「凌太が奈良までいっしょに来てくれるって言うてくれたの、ナティめっちゃ喜んどったで。日本人がいるだけで、安心やと思うしね」
モニカの能天気なふるまいの理由がすこしわかった気がした。無理につきあってくれていると思わせたくなくて、彼女なりにナティに配慮していたのだ。
その姿は、わざと無邪気にふるまっていた物語序盤の広成と重なる。
そして、泊めてもらった相手に隠し事は失礼だと思ったのか、髪の毛のない頭を見せたナティ。本当は隠しておきたかったろうに。
「モニカ、ドラゴンジャーニーの巡礼地って、あと、どことどこ? ゴールはどこなの?」
凌太の唐突な質問にモニカがきょとんとする。
「え? ああ……西安、上海、香港、ハノイ、ホイアン……」
「それから?」
「シーパンドン、オケオ、チャイヤー、パレンバン、あと、シンガポールとボルネオ島」
「そんなにあるのか、飛行機代だけでけっこうかかるな」
「なに、急に。行きたくなった?」
「いや、うん、まあ」
モニカは凌太の曖昧な返事をゆるすように、優しく微笑んだ。
「漫画のネタになればいいね」
「え?」
「ナティが亨から、あんたの漫画のデータもらったの。さっき二人で読んだ」
凌太は気恥ずかしくなり、ごまかすように手すりに突っ伏した。
「絵、上手いね。ドラゴンジャーニーの絵にも負けてないし、あれを高校生のときに描いたって、すごいよね」
「あれはまあ、佳作どまりだったし、いまもっとすごいのを――いや、そうじゃなくて」
「この旅のこと、そのまんま漫画にしたらどう?」
もう漫画はやめた――と言いかけて、なにかが凌太の言葉を止めた。
そのまんま漫画――それこそ、ドラゴンジャーニーの鎬夕馬がしたことだとすれば、さらにその聖地巡礼を漫画にすることは、まるで入れ子構造だ。
奇妙な、運命のようなものを感じた。
絵を描くのは小さい頃から好きだった。
裏の白いチラシが一枚あれば一日中退屈しなかった。
小学四年生のときに、近くの寺で仁王像を写生するという授業があった。ただ仏像を描くだけだと物足りないので、仁王のとなりに彼とにらみ合う大きな「目」を描いた。目玉の妖怪と闘っている様子をイメージしたのだが、漫画チックだとまわりには馬鹿にされた。
その絵が担任によって市のコンクールにエントリーされ、努力賞を取った。努力などした覚えはないが、自分にはそういう特技があるのだと子供ながらに思った。
その絵が学校の廊下に飾られると、絵を見た低学年の男の子たちが目玉の妖怪を見てざわついていた。ほら、目がある。あれ、バックベアードだよね、など、話題になっていた。
賞よりも、そのことのほうが誇らしく、味をしめるようになった。毎日のようにスケッチブックにファンタジーめいた絵を描いた。
「血は争えんな」
と当時よく家に来ていた男が言った。母の友人か仕事の関係者だと思っていたが、あとから恋人のひとりだとわかった。母が嫌がっていたその言葉の意味を、凌太少年は、父の手がかりだと直感した。
父も絵を描いていたのでは。あるいは、漫画を。
漫画を描いていれば、いつか、いなくなった父に会えるんじゃないか――。
――「ドラゴンジャーニーって漫画、知ってる?」
母にラインを送ったが、なかなか既読がつかなかった。
7 聖地難波
『ドラゴンジャーニー』を読み終えた凌太は、この物語の意味するところ、結末について大いに悩んだ。
結局、どうなったのかはっきりしない。物語の構造上、続編があってしかりなのだ。
歴史改変で、平竜星が漫画家の木野竜星に代わった直後、竜星は取材先のベトナム中部にあるミーソン遺跡でビリーに暗殺される。『巡礼の印』を発表したことで、リュガの情報庁に目をつけられたのだ。
そのとき、無意識に不死の術を使うが、千里眼をコントロールできない彼は、一瞬前ではなく、数日前に巻き戻ってしまう。ホイアンの宿で知り合った李小楊の誘いに乗り、ミーソンへ行くのをやめて、ラオスとの国境に向かう乗り合いバスに乗る。
その一瞬の臨死体験のうちに、時空を超越した竜星の意識は先祖の体験を垣間見る。
雪の積もる道。貴族と思しき少年が牛車から降り、従者の侍に導かれて歩く。彼は大臣吉備真備のはからいで、ある老貴族の屋敷に密かにあずけられる。
背筋の伸びた小柄な老貴族は、はっきりと顔は描写されないが、侍が彼に藤原仲麻呂の乱のその後と犬養という人物の復職の見込みについて語るふしから、紀馬主と思われる。
老貴族は少年に向かって「はなぶさ」と呼びかける。
凌太が調べたところ、英親王とは阿部内親王こと崇徳天皇――作中では広成と安宿媛の娘と暗に示されている――と僧の道鏡との隠し子という説のある人物だった。
つまり、平竜星の先祖は、馬主が広成のかわりに帰国しようとしまいと、平群広成だったのだ。
しかし、その広成は戦いのあと、ナギら三人の従者とともに帰国を図るが、行方はわからない。
帰国したのなら、英親王は馬主ではなく祖父の広成に預けられてしかりであり、その子孫の竜星も平竜星――平群氏は平安時代に平氏と姻戚関係を持つ――に戻るはずだが、最終話の竜星の姓は「紀」から転じたと思われる「木野」のままだ。
そして、メコン川の町でもビリーが竜星を追ってくる。
ボートに押し込まれるが、魔奈を発動させて、カワイルカを操ってボートを転覆させる。広成が竜星から得た絶滅危機の情報を理由に救ったカワイルカの子孫が印となって、竜星の魔奈の力を増幅させたのだ。
竜星はカンボジア側の岸に這い上がり、命からがら走って逃げる。
シュヴェータ側が負けてバロンが全滅すればその後裔であるビリーも消えるのではないかと竜星は考える。
物語終盤は、広成の戦いの結果が竜星の命に直結するスリリングな展開になっていく。
シュヴェータとの戦いは広成の勝利に終わるが、真珠宮の水没でナギは溺れ、視力や聴力を失くす。彼女の部下のシャーマン・ララワグがバロンとの戦いで死ぬ間際にバロン・シャルカールの体に乗り移り、シャルカールの治癒能力でナギの目と耳を治す。そのため、広成たちは生き残ったバロンを処刑せず、命を救う。
ビリーは消えなかった。バロンは全滅せず、形を変えてリュガ王国に受け継がれる。
リュガの密偵と戦い、いくつもの印を見つけて過去改変を繰り返してきたヴィッキーとジーメイが合流し、竜星を助けようと奔走するが、二人とも不死の術を使うビリーに殺されてしまう。
カンボジアの地雷エリアに逃げ込んだ竜星は、生きて帰ったら今度こそラムに想いを伝えようと誓う。想像の中で未来をつかんだ彼は、ラムとの間につくる子孫とのつながりにより千里眼を発動させ、予測した地雷の位置に誘い込んでビリーを倒す。
古代編も決着がつく。
南海各地で救出した丹仁ら生き残った遣唐使は福州で船を直している中臣名代の帰国船に便乗するため、つぎつぎに唐へ向かって旅立つ。
ハヌマン将軍との同盟を取り付け、広成を救った養年富はシャイレンドラ王家の家臣となって反王党派を鎮圧する。シーンは水軍を解散して一海賊に戻り、生まれた息子には自分を助けて死んだ忠臣の名にちなんでアムーラと名付ける。
広成は、ナギ、ウーウォン、そしてシャルカールに乗り移ったララワグを従者とし、ペルシア商船で日本へ向かう。嵐に遭い、チャンパ王国の浜辺に流れ着いたところで、平群広成の物語は幕を閉じる。
アパートで目を覚ました竜星の目の前に、梅の花びらが舞う。再びの過去改変で漫画家から漫画家の卵に戻った竜星は、リュガ王国に目を付けられるきっかけとなった『巡礼の印』のアイデアを引き出しの中に眠らせることにする。
それから彼は二度と古代の夢は見なくなる。彼は音楽と漫画を両立しているが、その後の人生ははっきりとは語られない。
竜星の未発表作『巡礼の印』の最終話には、帰国した遣唐使たちのエピローグがついている。
――。
広成は、ばちり、と黒石を打ち込む。
中臣名代は熟考しながら、だんだんと顔が険しくなり、眉間にしわを寄せ、とうとう泣き出す。「こうして大使と碁を打てる日が来るなんて」とおいおいと涙する。
多治比広成は「もう大使じゃない」と苦笑する。
情緒不安定な名代を心配して家に招待し、こうしてときおり酒を酌み交わしているが、彼の漂流の心の傷は思いのほか深く、相手をするのに疲れ果てていた。
とはいえ、第二船で漂流した名代らの苦労は想像に難くない。名代は流れ着いた福州からはるばる長安まで帰国の嘆願に赴き、皇帝が傾倒する道教を日本で広めるなどとはったりを言って、なんとか唐政府の協力を取り付け、船を直したという。
一方、第一船の面々は先に帰国し、その後も順風満帆だった。下道真備は皇太子阿部内親王の家庭教師。玄昉は聖武天皇の母藤原宮子の心の病を薬で治し、僧正に昇進。二人とも大出世だ。
「して、名代よ。おまえが連れてきた菩提僊那はどうだ。大安寺にいるそうだが」
「はい、言葉の壁はありますが、梵語を習いたいという学僧たちにも慕われていますし、本物の神通力も持っているといいます。やはり、私の人選は間違いではなかった」
名代は自分の手柄と信じているが、菩提僊那をはじめに指名したのは秦朝元だった。多治比は彼らの唐での密命については深くかかわらないことにしていた。彼らの背後に、天皇とは別の、影の勢力の存在を感じていた。藤原氏とその一派だ。藤原鎌足の時代から、日本を動かしてきたのはあの渡来系氏族たちだった。
「それに引きかえ、彼の弟子の仏哲ときたら、勤めをさぼって玄昉のやつと怪しげな薬草の話をしたり、本当に林邑国の名のある僧なのか。菩提僊那が大事な弟子だというので信じたが、あれは人選ミスでした」
「仏哲か……たしかにぱっとしない僧だが」
帰国した彼のもたらした情報は、あの日、平城宮を駆け巡った。
判官、平群広成の生存――。
第四船で南海に漂流し、紆余曲折を経て唐に逃れてきた者たちの中に仏哲はいた。名代の船に乗って帰国した彼は、広成は海賊とともにいて、当面帰国のめどは立たないが、確かに生きていると語った。
一方、田口養年富は海で行方不明となり、おそらく死んだという。
養年富の父親は、「息子が役立たずで申し訳ない」と多治比に頭を下げに来た。その付き添いで来た男は、「役立たずなんかじゃないですよ!」と食って掛かり、騒動になりかけた。
「皇后の新しい名、光明子ってのは、拝火教の影響だよな。光の神アフロマンだっけ?」
「アフラマズダーだよ。名付けたのは玄昉ってことになってるけど……裏で操ってるやつがいるね。それが私だと誤解している連中もいて、いい迷惑だ」
下道真備は、川沿いの長椅子に腰かけ、鵜飼を眺めながら好物の小麦菓子をかじる。
「そいつが今の数々の問題の元凶だろうね」
「宮子様の回復も、天皇の呆けようも、同じ薬が原因だよな」
「だろうね」
「ほかにも中毒者はいる。宮廷内にも、庶民にも。流通量からして、誰かが唐から持ってきただけでなく、こっちで製造しているはずだ」
「話は変わるが、光明皇后は広成とお知り合いなのか?」
「え? ああ、子供のころ、仲が良かったと聞いたな。なんで?」
「彼の生存の報を聞いたとき、やたら嬉しそうにしていたよ」
「やっぱり、なんかあったんじゃねえか、あいつ」と言って、刑部大輔紀馬主は笑う。「近親婚のわりに娘は体が丈夫だと思っていたが、父親はもしかしたら……」
真備はきょとんとする。
「馬主、その広成とも関係しそうな話なんだが、魔奈って、覚えてるかい?」
「ああ。広成がそれを使っておれたちを助けてくれた」
「魔奈使いがこの奈良の都にもいる。わかるんだ。私も魔奈の力が強まったからな。この前、宮廷で胡人楽師たちが唐語でこそこそ話していた。よく聞こえなかったが、やつら、魔奈という言葉を使っていた。あと、玄昉が藤原仲麻呂の家に出入りしていたそうだ」
「皇后、玄昉、拝火教、胡人、魔奈、藤原……って、皇后はもともと藤原家じゃねえか」
「つながるな」
「仲麻呂って名も、偶然だろうが、気になる。きな臭い」
「名は呪いだ。似た道を歩む」
「コサムイ」
宮廷の長い廊下で、真備は玄昉を呼び止めた。
「その名で呼ぶのはよろしくないんじゃないか。真備先生」
しばらくぶりに会った玄昉ことコサムイは肥え太り、態度も大きくなっていた。
「誰もコサムイなど知らんから大丈夫だ。最近はずいぶん胡人たちと仲がいいようだな」
「彼らは無知な貴族どもと違って国際感覚があるから、話が合うのだ」
「裏から朝廷を動かしているつもりだろうが、やめておけ。やはり、おまえには向かん」
「あんたがおれを連れてきたんだ。ばらしてもいいんだぞ」
「ばれたらおまえは即打ち首だ。私がおまえに提案したと言って、誰が信じるかな」
「こ、こっちには宮子様の病気を治した実績がある」
「宮子様の回復は喜ばしいが、あの手の薬は中毒性がある。これ以上誰にも渡すな」
「ただの薬草だ。使いすぎるのは本人の問題だろう」
ああだこうだと言いあっていたが、人が来たので二人は黙りこくり、立ち去ろうとしたが、現れた男の顔を見て立ち止まる。
赤い官服を着た精悍な雰囲気の青年――藤原仲麻呂だった。
「これはこれは、真備先生とその盟友の玄昉殿。おそろいで」
「盟友だなんて、たまたま同じ船にのっただけですわい」
「仲麻呂殿、またゆっくり話がしたい。碁でも打ちながら」
「申し訳ないが、碁は疎いのです。馬術や弓など体を動かすことだけは得意なのですが」
「そのわりに、薬物のことはやたら詳しいし、知りたがりますな」
三つ巴で互いに牽制しあい、探り合い、三人は別れた。
――どうも、あの男だけは、考えが読みづらい。
真備の漠然とした不安感は日に日に増していく。
長屋王の変で頂点に達した藤原氏対皇族という図式はいまだに変わっていない。
虚弱な聖武天皇に代わって気丈な光明皇后が政治を動かしている。その背後には、彼女がお気に入りの甥、藤原仲麻呂がいる。
対する皇族である大納言橘諸兄は光明皇后の異父兄だが、藤原からすれば敵対勢力だし、そのブレインである真備や玄昉は目障りな存在だろう。
藤原、諸兄、真備、玄昉らのすべての中心に、北極星のように光明皇后がいる。そのそばについている仲麻呂は相当にかしこい。虎視眈々と権力の座を狙っている。
胡人は藤原側の手先なのか、それとも別勢力なのか、真備は確かめる必要性を感じた。
真備の懸念に共感したのは、意外な男だった。
図書頭の秦朝元。
真備は元判官と茶会の席で偶然再会し、輪から離れて静かに唐語で話した。
「あの頃の私は子孫に半ば憑依されていました。自分の意思があったかどうかすら、疑問に思います」
「朝衡もそうだろうね。あるときから性格が尊大になり、手段を択ばなくなった」
「子孫の陰陽師が用済みだと思えば、私たちは自我をとりもどすが、同時に力を失うのかもしれません」
「彗星の時代に生きる大陰陽師か――。いま憑依しているのは、もしかしたら」
「今後、共通の子孫が生まれるかもしれませんしね」
「争っている場合じゃないのにな」
真備が帰国して以来、日本では天然痘が大流行していた。
高熱を発し、体中に疱瘡ができる死の病。大宰府から全国に広まり、武智麻呂、宇合ら藤原四兄弟も全員病死した。それは藤原氏の独裁に歯止めをかけるきっかけになったが、農村が相次いで壊滅し、日本は大打撃を受けていた。
聖武天皇はそんな世を救うため、巨大な毘盧遮那仏を建立すると言い出した。玄昉の提案らしく、国費の無駄遣いだと真備は反対したが、天皇の意志は固かった。
真備は馬主と仏哲を家に呼び、作戦を練った。仏哲の持参した茸を焼いて、三人は真備の振舞う酒を呑んだ。菩提僊那は自分の指示のせいで大勢の人生を狂わせた負い目を感じてか、仏哲をかばい、好きなように振舞わせていた。
真備は思った。朝元とおなじく指示を受けたということは、僊那にも子ができるということだろう。僧とはいえ、まだ若いし、人間だ。
「さあ、馬主様、ぐっと」
仏哲は酌をする。
「しかし似ている。あの頃の長安に」真備が言った。「北極星の玄宗が光明皇后、朝衡が藤原仲麻呂、飢饉が疱瘡。暗躍するエフタル結社の位置にいるのは宮廷内の胡人たちか」
「じゃあ、さしずめ、あのときの広成は真備先生、おれはおれ、玄昉は丹……仏哲だな」
「せ、拙僧が玄昉さん?」仏哲は困った顔をしていた。
「私は私だろ。それで言うなら、大伴首名は誰だろう。今回の来日渡来人の誰かかな」
真備の何気ない一言に、刑部大輔の紀馬主は顔つきを変える。偽名とは言え、自分を一度殺した相手の名なので、無理もなかった。
「誰が黒幕でもいいが、とっ捕まえて、洗いざらい吐かせたいところだな」
「ああ、しかし、玄昉は仲麻呂邸にかくまわれて接触できないし、ほかにも薬を配っている者はいる」
「とりあえず、薬の出どころをさぐるか」
夕暮れ時、市から少し離れた路地裏。
松明の灯のとどかない薄闇のなかで、こそこそと立ち話をする者たちがいた。男が女に何かを売っている。
「おい、おまえたち」
真備が声をかけると、男は売り物の袋を抱えて、一目散に逃げだした。
「やれやれ」
と言って、背後に控えていた馬主はびゅんと走り、真備を追い越した。風のような俊足で、たちまち逃げた男の襟首を掴むと、路上に引き倒した。
男の持っていた売り物があたりに散らばる。それは干した薬草らしき葉っぱだった。
「疱瘡で市が制限されたから、密売してたってわけか」
馬主は男に馬乗りになり、首を押さえつける。
「ほ、疱瘡に効く解熱剤や鎮痛剤です。困っている民に安価で分け与えているのです」
「なぜ逃げた」
「元締めの指示です。役人には秘密でやれと。それに、彼らも家族が疱瘡患者だと知られたくないから、こっそり買いに来るのです」
「誰だ、元締めは」
大安寺の離れの作業部屋に押し掛けると、仏哲が助手たちと薬剤を煎じていた。
「おまえは、菩提僊那が何も言わないのをいいことに、金儲けに魂を売ったのか!」
「めめめ、めっそうもございません。新しい痛み止めの薬を売ろうとしても、朝廷の許可がなかなかおりません、そこで、疱瘡で苦しんでいる庶民がいれば、緊急措置として、その家族に安価で売っていた次第でございます」
「私が彼にそうしろと言ったのです」現れたのは菩提僊那だった。「天竺の薬物知識も弟子に与えました。責任は私にあります」
「これと同じ種類の薬が幻覚剤として宮廷に広まっているんだよ」と馬主。
「儀式や瞑想でも幻覚剤は使用しますが、乱用はよくないので、庶民には麻酔用しか売っていません」
「そうです、玄昉さんに売ったのも麻酔用です」仏哲が言った。「ただ……、唐の薬物知識を持つ人だったら、これを原料に幻覚剤くらい作れるかもしれません」
伸びやかな音色の胡弓の旋律が響いている。
三笠山の宿坊裏。背の高い青年が石段に腰かけて胡弓を弾いている。
「いい音だね。長安の路地裏を思い出すよ」
楽師は弾く手を止める。瞳は碧く、顔つきは波斯人だが、衣服は奈良の役人のそれだ。
「それはどうも。真備先生」と青年は流ちょうな唐語で言った。
「長安の羊肉飯店で隣あったことがあったね、李密翳。今の曲は、この前宮廷で聴いたな」
「ポウポウロウという曲です。われわれ幻人の一門に伝わる旅人の歌で、旋律は魔奈を集め、聞く者の過去と未来をつなぎます」
「幻人? エフタルの結社のことか?」
「さあ、どうでしょう」
真備は足元に赤い霊符らしきものが落ちていることに気付く。あわてて跳び退いたが、幻術はすでに発動していた。
彼は狭い楼閣の部屋にいた。高層階のようで、窓からは長安の街並みが見える。
部屋には背の高い赤鬼がいて、懇願するような目で真備を見ている。顔つきはどこか阿部仲麻呂に似ている。
「真備様、あなたは唐の役人に実力を妬まれて軟禁されているのです。私もかつてそうなって、故郷を思いながらも、今は死して鬼になりました。あなたをお助け申し上げます」
「やつを鬼にするとは、あてつけか」
真備はそこが仮想現実だと気付く。
手のひらをかざし、無数の黒蜘蛛を出す。蜘蛛は式神で、集まってたちまち巨大な獏の形を成し、夢の風景を食い破って出口を示してくれた。
黒い隙間から外へ出ると、そこはさっきの宿坊の裏だった。
「やれやれ、せっかく、いろんな難題を解決したら塔から出られる仕掛けを作ったのに」
密翳の手には別の呪符があった。次の幻術を繰り出そうと、真備に投げつける。
「そうはさせねえ」
ひゅん、と音がした。
密翳が放った呪符が空中でまっぷたつに斬られ、はたりと地面に落ちる。
馬主は密翳の鼻先に剣を向け、「おまえが黒幕ってわけか」と言った。
「黒幕? 私は歴史の監視役、幻人に過ぎませぬ」
「話してもらおうか、その幻人とやらのことを」
密翳はふたりを自室に案内した。長屋を豪華にしたような官舎の広い個室は薬草や楽器で溢れていた。壁には天竺や波斯を示す世界地図も貼ってあった。波斯のさらに西に、見たことのない陸地が続いていて、大秦国などと聞いたことのない国名がった。
「同じエフタルの末裔だが幻人は結社よりも歴史が古い。一族は世界中に拡散し、歴史改変を阻止するのが使命です。その点で朝衡とは目的が一致していた。私たちは長安の胡人社会の情報を彼らに与え、魔奈使いだけが反応する龍神のお告げの夢を世界中に拡散することにより、結社を長安に集結させた」
「竜神の夢か。広成が見たってやつだな。竜が長安へ行けと命じたって言っていた」
「ええ。平群殿が見たのは想定外でしたが。そして、朝衡と朝元は、私たちのかわりに結社を壊滅させてくれた」
「蘇州で呪符を売っていたばあさんも幻人なのか」
「私の叔母です。馬主殿の代わりに平群殿の船を漂流させるのが朝衡の要求でした。今思えば、それも歴史改変だった。歴史の番人の我々が歴史改変に手を貸してしまったのです」
「じゃあ俺は、あんたらがいなければ、もともと海の藻屑になる運命だったのか」
「あなたの逃者萬來の札は玄昉が盗んでいました。運命を変えたのは私たちではない」
「だよな。変えたのは、水鬼を討ったナギと、あのお転婆を船に乗せた広成か」
「広成が未来の子孫とつながったのは胡人の楽隊の音楽がきっかけだと聞いたが、それも幻人の術か?」
「ええ……古代の渡来人のなかにも幻人はいて、奈良貴族にもその血を引く者がいるはずだった。ポウポウロウの旋律を聴けば、魔奈の素質が反応し、うまくいけば千里眼に目覚めます。われわれはその者を遣唐使として唐に派遣し、結社の壊滅の手駒にすることを考えました。ですが、日本側が用意した隠密がかわりに仕事をこなした。それは結果的には正解でした。平群殿は剣の腕は立つが、先祖の影響が強すぎて操るのが難しかったので」
「正解だと?」馬主が食ってかかる。「その正解とやらが、広成が惚れた女を殺したんだぞ」
「歴史改変はそんな甘いことを言っていられるものではない。多くの人が生まれてすらこなかったことになるのですよ。人生をなかったことにされるなんて、死より残酷だ」
「まあまあ、答えなんて出ないよ」真備は言った。「それよりも、あんたらがこの奈良の都でなにをしようとしていたのかを知りたい」
「過去改変を防ぎ、未来に繁栄を求める。安住の地を求めて流浪しているのです、いまも」
「そのために薬で天皇や官僚を骨抜きにし、皇后と玄昉を利用して政治を動かしていたのか」
「そのつもりでしたが、やっかいな男がいた。藤原仲麻呂です。彼に計画を乗っ取られた。私たちはもう奈良の都を安住の地にする気はありません。国づくりからは手を引きます」
「やはり藤原か。いずれ対決するときがきそうだな」
真備はつぶやいて、顎をさわる。
「この国は病にかかっています。疱瘡だけではありません。汚職に犯罪、搾取。醜い権力争いはこのあと千年はつづく。仲麻呂も光明子もそれらを変えることはできないでしょう」
「だからおれたち役人ががんばるんだよ」馬主が強い口調で言った。「その戦乱の千年を一年でも十年でもいいから、短くしてやろうじゃねえか」
「同感だ。私が宮廷にいる間は、少なくとも大きな戦は起きないようにするつもりだ」
「真備先生、おれ、あんたとはじめて意見があった気がするよ。仲麻呂の野郎と戦をするときはいつでも呼んでくれ」
「戦はしないって言っただろ。それは最終手段だ」
密翳は前向きな二人の言葉に驚き、そして笑い出した。
「あなたがたのような人がいれば、……きっと、エフタルは滅びなかったのでしょうね」
「ここには二月堂って社が建つそうだ。広成が言っていた」
高台から見下ろす都の街並み、大和川、法隆寺、三笠山と若草山。絶景が広がっている。
「広成は、この国がどうなるのかも見えたのかね」
「戦が繰り返され、何度も遷都するらしい。千年後は武蔵国のあたりが日本の中心だとよ」
「で、本当に密翳を罰せずに唐に帰していいのかい? 刑部大輔殿」
「いいんだ。広成でも養年富でも、きっとそうする。それに、密翳一人じゃなく、大勢の幻人の末裔や胡人が日本に住んでるっていうしな」
「この平城京を安住の地にするつもりがないってのが気になるな。彼らに見捨てられたら都が変わるのかも。いや、考えすぎか」
と言って、真備は顎をさする。
「まあ、考えるのがあんたの仕事さ。学者先生」
「これはこれは。珍しい方々がおられますなあ。真備先生に馬主殿」
現れたのは行基だった。
二人は菩提僊那を通じて親しく彼と話す間柄になったのだ。
「もしかしたら、行基和尚も幻人……?」
「かもしれねえぜ。この人の統率力は超人的だ」
「はて?」
「いえ、なんでもありません。考えすぎでした」
「考えろ、考えろ」と言って、馬主は笑う。「それがこの国のためになる」
行基は馬主のとなりに腰を下ろした。
「さっき、馬主殿の背中を見て、一瞬、広成殿かと思いました。帰国されたのかと」
「ちょと、あんなやつと間違えないでくれよ」と言う馬主はどこか嬉しそうだった。
「……会いてえなあ、あいつらに」
今度は、さみしそうにつぶやいた。
「また、会えるさ」
そのとき、鳶が一声鳴いた。
見上げる三人のはるか頭上で、鳶はその世界の誰よりも高く飛んでいた。
それは優雅に風に乗り、茫漠とした夢うつつの一点となって、風にうねる雲の影に吸い込まれて消えた。
――。
大阪歴史博物館。
大阪城近くのビルの中に、古代から現代までの大阪の歴史関連資料が展示されていた。
大阪には、飛鳥時代に副都として難波宮が置かれ、奈良時代に乱心して都を転々と換えた聖武天皇が一時的に難波宮を都とした。短い間だが大阪が首都だった時代もあったのだ。
「聖武天皇が難波を都にしたのも、コサムイの薬のせいなんやろね」
「コサムイ、影響力多きすぎだな」
博物館のはす向かいには、難波宮跡の公園があった。野球のグラウンドぐらいの大きさで、宮殿跡は舞台のように地面より少し高くなっている。草がぼうぼうで人気はなく、排気ガスにさらされ、荒れ果てていた。都会の真ん中だというのに、まるで廃墟だ。
滅びた都というのは、とたんに土地としての力を失うのだろうと凌太は思った。かつて大和朝廷に対抗する勢力があったという出雲のある島根県も過疎化している。平城京や飛鳥京のあった奈良や、三内丸山遺跡のある青森も、大都会とは言い難い。
その点、京都が今も観光都市として日本文化の代名詞のような存在でいられるのは、陰陽道にのっとった徹底した都市計画による防衛機能が今も機能しているからだという説がある。徳川家康が作った江戸の町もそうだ。結界が町を守っているのだ。
真備の持ち帰った金烏玉兎集や安倍晴明の先祖となった遣唐使たちの存在がなければ、日本の歴史は大きく変わっていただろう。
大阪の歴史を見て回り、ナティとモニカは楽しんでいる様子だった。奈良時代の建物や官人、官女の人形の服装を見て、まるで古代中国だと思った凌太は西安の青龍寺でジーメイが竜星に言った言葉を思い出していた。
――唐は京都に、明はソウルにありってね。
中世以前の中国の建築様式は現代中国には遺跡としてしか残っていないが、日本や韓国の古都に行けばその時代に中国から取り入れた建築や文化がいまも現役で機能しているという意味だ。
平安時代中期に菅原道真が遣唐使を廃止するまで、日本は大陸の文化をとことん吸収した。日本の遣唐使が資金のほとんどを書物の買い付けにつぎ込んでいたという中国側の記録もある。
作中で竜星が青龍寺を観たときに、日本の寺とそっくりだったことから「完コピじゃないか」というセリフが印象的だ。時代を越えて文化が後世に残るのはすごいことだという彼の言葉は、広成がユーファンに聴かせた竜星の曲「ドラゴンジャーニー」が現代の西安で鳴らされることの伏線になっている。
長い年月、多くの時代の多くの人の手を渡って後世まで残る「印」は、そこに存在するだけで、すさまじい力を蓄積していくのだろう。
博物館を出て、モニカが大きく伸びをする。
「つまりこのへんが難波津か。昔は海やったんやね。じゃあ次は大阪城でも行く?」
モニカがナティに訊いた。ナティは首を振る。
「ふたりの行きたいところに行きたいデス」
ひっかけ橋のグリコの前で記念写真。たこ焼きを食べ、串カツを食べた。
道頓堀クルーズの小さな遊覧船に乗って、ビールを飲んだ。ほかにも外国人たちが大勢乗っていて、モニカの音頭で乾杯した。
満面の笑みでコーラの瓶をかかげるナティ。はしゃぐモニカ。
夕暮れを過ぎ、宵闇が大阪のネオンを呼び覚ましていく。夜が目覚めていく。
「思い出したんやけどさ」
モニカが凌太に言った。
「凌太のママ、ラムに似てるね」
「え?」
「バンドやってたし、なんとなく、若いころの髪型も、ファッションも。あの写真の男の人らの誰かが竜星のモデルで、鎬夕馬なんちゃう?」
「いや、んなアホな」
「あと、羊子って名前。ナティが気づいたんやけど、ラムって、ラム肉のラムからきてるんちゃうの?」
そういえば、ドラゴンフリークのラムの本名は明かされない。
「それにさあ、博物館の映像で見た九十年代の大阪、あれ、なんか竜星の町の様子に似てんねんなあ。通行人が誰もスマホいじってなかったし」
確かにそうだ。竜星もラムもスマホを持っていなかった。
さらに、作中の梅の木が吉祥寺のアパート裏にあったのはずっと昔だった。
つまり、あの物語は、現代の東京が舞台ということになっているが、そこはフィクションで、漫画の平竜星編のモデルになった舞台は九十年代――?
大阪でバンドをあきらめた竜星が漫画家になって吉祥寺に移り住み、あの漫画を描いた――のだとすれば、つじつまが合う。
最終回で、竜星は吉祥寺で再会したラムに告白しようとする。
昨日の母からのラインの返事は、「知らん」だった。アニメや漫画から最も離れた位置にいる彼女が知らないのは自然だが、既読がついてからかなりたってからの返事だったので、凌太は軽い違和感を覚えていた。
「つまり、やっぱり俺は竜星の息子?」
モニカは真顔から急に顔を崩し、笑い出した。
「なわけあらへんよねー、きゃははは!」
モニカの甲高い笑い声がボートのエンジン音と混ざって夜風にかき消されていく。
「そうだ、あれやろうよ」
モニカが右手の拳を前に突き出した。
凌太とナティは一瞬顔を見合わせたあと、笑顔になって、右手の拳を突き出す。
――別々の国で育った外国人どうしが、ひとつの作品で感動を共有し、笑顔になっている。そんな物語をもし自分が描けたら、どんな気分だろうか。誰かの楽しみになり、希望になり、前へ進むための原動力になるような、力強い物語を。
ドラゴンジャーニーを描いたのが父だったとすれば、その才能が自分に受け継がれていたとすれば――いや、そんなことはどうでもいい。
また、物語を描いてみたい。この旅が終わったら、もう一度。
恵比寿さんの恰好をしたドン・キホーテの巨大なペンギンの前を過ぎ、ひっかけ橋をくぐる。ネオンが降り注ぐ細い運河をボートはゆっくりと進んでいく。
凌太は、沿道に楼閣が立ち並ぶ運河を長船で行く遣唐使たちに自分を重ねていた。きっと、ナティやモニカもそうだっただろう。
クルーズの途中、とつぜんナティが意識を失って倒れるまで、凌太はそのときがこの楽しい聖地巡礼の旅のピークだったと思っていた。
時間切れがこんなに早く来るなんて、想像もしていなかった。
8 聖地ジョグジャカルタ
スコールが止んで、二人乗りのバイクが泥水を撥ねる。濡れた犬がぶるぶると体を震わせる。暑さが湿気に代わり、また暑さに戻る。
椰子の枝葉から垂れる水が露店のマンゴーにかかる。甘い熱帯の匂いが排気ガスと混ざり、牛の泣き声がモスクから流れてくるムスリムたちの詠唱と重なる。
店先のベンチでトランプに興じている男たち。真ん中には幼女がいる。父親が、ほら、どっちだと問う。娘は迷わず、こっちーと指さし、男はジョーカーをまわりに見せる。
ほら、また当たった。
ヒジャブを被った老婆が、不思議な子だよ、この子はと言って、厚ぼったい手で海老の皮を剥く。
店内では娘の母親が忙しそうに働いている。鶏飯を盛り付け、ソースのしみついたテーブルに出すと、フライパンに油をふり、焼きそばを炒める。
父親は目つきの悪い男たちと話し込んでいる。娘は彼らの言っている意味はわからないけれど、父とその周りが互いに説得しあっているのはわかる。
父が帰ってこなくなる。
母や祖母が相手にしてくれることが少なくなる。お祭りで祖母や母が躍っていたのを真似て、庭でひとりで踊ってみる。うまくいかず、犬と遊ぶ。
娘は、母のヒジャブを一枚勝手にくすねてきて、かぶってみる。大きすぎて、前が見えない。犬が不思議そうに幼女を見る。
表の通りに、黒い車が止まる。
背の高い、派手な首飾りや刺青を入れた男たちが店にやってきて、テーブルを蹴り、叫ぶ祖母を蹴り、母の髪をつかんだ。誰もが汚い言葉でののしりあい、近所の女性たちがやってきて、娘を家にかくまう。
やがて、迎えに来たよくしゃべる白髪の男性が、車で娘を連れて行く。大きな町の、病院のようなところだが、子供たちがたくさんいた。そこで何日も過ごす。母のことを聞いても、誰も教えてくれない。
何年もたってから、父が違法なギャンブル営業で捕まり、母は行方不明だと聞かされる。祖母はあのときの怪我が原因で腰を悪くし、入院してすぐに死んだ。父は刑務所で病死したそうで、それもだいぶあとに聞かされた。
娘は孤児として、十五歳までジョグジャカルタで暮らす。
ジョグジャカルタ近郊には世界三大仏教遺跡のひとつ、ボロブドゥール遺跡があり、世界中から観光客が訪れる。
ボロブドゥールは八世紀にシュリーヴィジャヤのシャイレンドラ朝が作った丘陵型のピラミッドのような仏塔で、円形のステージと回廊がいくつも積み重なっている。仏教の曼陀羅を模しているそうだ。娘は遠足で何度も行ったが、行くたびに形や大きさが変わるのが不思議だった。そう思っているのは自分だけだった。
予知能力は幼少期ほどではないけれど、まだ少し残っていて、テストのやまが当たったり、隠された靴の場所を見つけたり、先生や同級生の嘘を見抜いたり、あまり幸せな使い方はできなかった。
中学を出ると、成績がよかったので、ジャカルタの名門高校に入ることができた。
絵ばかり描いていたが、町でスカウトされ、日本のレコード会社がプロデュースするアイドルグループに入った。毎日、来る日も来る日も、ダンスのレッスンを受けた。
歌と踊りは楽しかった。モダンダンスだけでなく、サークルに入って、伝統舞踊も習った。腰巻をはき、音楽にあわせて精密に動かす手足。囃子の音、木琴や口琴の音、異世界で響くガムランの金音。
あの音は、この世界と父母や祖母のいる彼岸とで、同時に鳴っているのだ。そう思った。
ひとりのときも、寮のバルコニーで踊った。踊っているうちは嫌なことも忘れることができた。ひとりでに手足が動くくらいに集中すると、まるで時間から切り離され、宇宙の法則にしたがって、雨が降るように、風が吹くように、雨を受けて枝葉がしなるように、鳥の卵がかえるように、時計の針が回るように、体が決められた軌跡のうえを、決められたとおりになぞった。何度も、何度も。
まさに夢中になった。夢のなかでも踊っていた。古代の宮廷や祭壇で。王や神の御前で。その踊りは、インドネシアの伝統舞踏のなかに、足運びとして、手の動きとして、拍のとりかたとして、暗号のように身をひそめ、長い年月を経て、ふたたび還ってきた。舞は過去世と現世を循環し、はじめと終わりがなくなる。
その頃から、不思議な夢を見るようになる。
大昔の宮殿や港で、褐色の肌の剣士に連れられ、仮面の刺客と戦う。大冒険が断片的に、しかし鮮明に、まるで体験した記憶がフラッシュバックするように、走馬灯のように現れる。
それとよく似た映像を、テレビで見た。ドラゴンジャーニーは、夢で見た景色そのもので、なつかしく、そして、わくわくした。それでいて、怖かった。平群広成や木野竜星やナギの物語が自分の夢と関係しているようで、あまりにも世界が似ていて、不安になった。
しかし、希望の光のようなものも感じる。
過去を改変すれば、父や母や祖母を救えるかもしれない。そのためのヒントが、ドラゴンジャーニーのなかに見つかるかもしれない。「印」を見つければ、千里眼をもっとうまく使えるようになるかもしれない。
印を見つけるために、日本と中国に行こう。そう思いはじめたら、アイドル業がうまくいくようになって、面白いようにお金が入るようになった。日本語もすいすい頭に入った。
けれども、うまくいけばいくほど不安になった。うまくいきすぎるのだ。選択がことごとくいいほうに転がるにつけ、なにかがすり減っていくようだった。
あるとき、怖い夢を見た。鏡を見ていた。みるみる老け衰えていき、体が生気を奪われ、歯が抜けた。目を覚まして夢だと気づいたが、呪いは冷めていなかった。病魔は自分のなかに巣くっていて、じわじわと、気づかないところで着実に命をむしばんでいる。
血液検査を受け、ケルビンスキー病だと判明するのがもう少し遅かったら、手遅れになっていたと医師は言った。
薬を飲みながら気分が悪いのをごまかしながら踊り続け、目標のお金が貯まったとき、髪の毛が抜け始めた。
――。
点滴、白い天井、パイプベッド。
見慣れた景色だった。ナティは病院のベッドで目が覚めることには慣れていた。
いつもと違うのは、まくらもとに黄色い霊符が置いてあって、そばのパイプ椅子で凌太が眠りこけていることだった。
札には、「牢克拉奥库库」と書かれていた。なんと読むのかはわからない。
この状況、ドラゴンジャーニーでも似たようなシーンがあった。
蘇州で広成に助けられたあと、彼らが遣唐使だと知ったナギは、大伴首名はどこだと騒ぐ。そのナギの額を、仏徹が魔奈棒の先端でこつんと叩くと、鐘が響くようにあたりの空気が振動し、ナギが眠ってしまう。気が付くと、遣唐使の官舎の寝室。目が覚めたナギのそばで、田口養年富がひとりで饅頭を食べている。
大伴首名を出せと詰め寄るナギ。事情を知らない養年富はきょとんとして、「穏やかじゃないなあ。まあこれでも食べなよ」と白い饅頭を差し出す。饅頭をもぎとって食べるナギはやがて興奮が収まり、落ち着きを撮り戻す。
似たシチュエーションはほかにもあった。アムーラとの戦いのあと、気を失い、寝台で目を覚ました広成のそばに、夜通しの看病で眠りこけていたナギがいた。広成の枕元には、仏徹が占い師から買ってきた治癒の護符が置いてあった。
ナティははっとする。
「これは……魔奈の呪符」
「ああ、ナティ、目が覚めたのか。よかった」
目を覚ました凌太が言った。
「凌太サン、このお札……」
「モニカが置いてったんだよ。たぶん、おもちゃのお札。アニメショップで買ったんだろうね。なんかまじめな顔でぶつぶつ呪文唱えてたけど」
「フェリーの時間……過ぎましたよね」
「それどころじゃないだろ、千里眼の使い過ぎで死んだのかと思ったよ」
「大丈夫です……ちょっと疲れていたみたいです。モニカは?」
「わからない。なんか様子がおかしかったけど、また連絡するとか言ってどっか行ったよ」
「そうですか」
ナティはモニカの中に別の誰かがいるように思えてならなかった。
「そ、それとさ、俺の描いた漫画、ちょっと前に描いたやつなんだけど、PDFのデータがあったから、あとでナティに送るよ」
凌太は気恥ずかしそうに言った。
「読んだら感想聞かせてほしい。ドラゴンジャーニーには遠く及ばないけど」
「ありがとうございマス。楽しみにしてまス」
ナティが笑顔でそう言うと、凌太はごかますように「看護師さん呼んでくるよ」と言って、立ち去った。
壁の時計を見ると、夜の八時を過ぎたところだった。
ナティは袖机に置いてあった自分の荷物からスマホを取り出した。バッテリーはかろうじて残っていた。凌太からの漫画のデータはまだ届いていなかった。
ツイッターを開く。ニュースが表示された。大阪サミットの記事だ。
ウルラガ王国のレオ皇太子の会見。長い栗色の髪をオールバックにした四十歳の若き首脳。次回サミットはラーガプルで行われるという。
その記事がなぜかひっかかった。ウルラガなんて国、あっただろうか。違和感がある。しかしそれでも、なぜか懐かしくもあり、自分と関係があるような気もする。
そうだ、ドラゴンジャーニーのリュガ王国のモデルの国だ。ドラゴンジャーニーが実話に基づいているとすれば、ウルラガは、本当はなかったはずの国なのだ。
ツイッターのメール機能を見ると、誰かからダイレクトメッセージが届いていた。
送り主は――「パールパレス」。アイコンは白い大理石のインド風の宮殿。シュヴェータの居城、真珠宮だ。
フォロワー数一万人のドラゴンジャーニーの海外ファンサイトで、ナティとモニカもフォローしていた。
「only for limited member」
と英語の一文があり、その下にリンクが張ってあった。おそるおそる押すと、パスワード入力画面が出た。
ナティはすこし考えて、「109」と入力した。
※
ドラゴンジャーニーではさまざまな「印」が登場する。
そのたびに千里眼が発動し、広成や竜星の危機を救う。
広成が未来の情報に影響され将来絶滅の危機に瀕するカワイルカの命を救うと、現代のメコン川でその子孫の群れがビリーのモーターボートを転覆させ、竜星を救う。カワイルカの存在そのものが「印」だった。竜星の魔奈を操る力が増幅し、水鬼衆のようにイルカを使役したのだ。
養年富が未来からの情報に従い呪符の裏に書き付けた彼の子孫の名「ヴィッキー・リー」を、李小楊は現代で手に入れた呪符に見つける。「印」の発動で養年富は千里眼に目覚め、ハヌマン将軍からの追撃を回避し、部下や将来の妻となるモン族のムーを救う。それにより再度の歴史改変が起き、李小楊は漫画「巡礼の印」の登場人物ヴィッキー・リーに戻る。
しかし、奇跡の代償として、失うものもあった。
チェンラやシュリーヴィジャヤから救われた広成は一時的にラヤン水軍の一員となり、アジトのボルネオの宮殿に住みながら連れ去られた部下たちの救出活動をしていた。
オケオの後宮にいた唐語の達者な宮女サティが自ら志願して広成の身の回りの世話をした。広成は彼女が淹れてくれる桂皮茶を好んで飲んでいたが、そこにはボルネオの猩々(オランウータン)も天狗猿も食べない夾竹桃の果汁が含まれていた。
サティは床に倒れた広成を露台の端まで引きずっていき、海に沈める。最後に綺麗な珊瑚が見られるようにと、皮肉めいた気遣いで、広成が竜星から得た情報で職人に作らせた水中眼鏡を装着させて。
ビリーからの逃亡中の竜星は、一瞬のうたた寝の間に見た広成のバッドエンドを回避しようとする。
ジーメイが現代の古物商から広成の水中眼鏡を手に入れ、竜星に渡す。
「印」により、千里眼の力が一段階上がり、広成は不死の術に目覚める。死の分岐点までもどることに成功する。
広成は夜の海が見える露台の藤椅子に座り、サティから湯呑みを受け取ろうとしていた。破滅を知る彼はその桂皮茶を拒む。
そして言った。
「私がムチュクンダを討ったことは間違いではなかった。私は彼を討つために何人も殺したし、彼もたくさん殺した。あそこで彼を倒さなければ、さらに死人が出つづけただろう」
「わかっています」
サティは凛とした声で応える。
「闘技場の悲惨さも、民の苦しみも、ムチュクンダ様の罪深さも快楽に溺れる愚かさも」
「それでも、それ以上に、君は彼を愛していた」
「愛? そんな言葉は知りません。あの方は、私にとって太陽でした。私を支配し、凌辱し、蹂躙してくださるシヴァであり、ブラフマーであり、この宇宙のはじまりとおわりでした」
広成は静かにさざめく海を眺めた。雲が空を覆い、茫漠とした闇が視界に広がっている。
「私たちはみな、迷い子のようだな。道を間違えて、導いてくれる光を探しているんだ」
「その光を失い、私は生きる理由をあなたへの殺意にすり替えていたのかもしれません」
「殺意を抱かれて当然だ。剣をふるわなくていい世にしたいと言いながら、憎しみにまかせて剣をふるってしまった。けれど、優先すべきものがほかにあったんだ」
サティが泣いているのがわかった。広成は海を眺めつづけた。
多胡弥を憎んだユーファンとナギ、ムチュクンダを憎んだ広成、そして。広成を憎むサティ。広成が死んだら、シーンはサティを憎み、処刑するだろう。
「私は間違っていました。私の生きる理由さえ、ムチュクンダ様は奪い取って、去って行かれたのです。それでも……絶望と破滅さえも……あの方からいただけるものであれば、私は喜んで受け入れます」
広成が再びサティを見ると、彼女は湯呑を持ち、自分の口に近づけていた。
「よせっ!」
広成は制止しようとしたが、サティはすでに毒を飲みほしていた。
床に転がる湯呑。
広成は倒れるサティを受け止めた。彼女の潤んだ瞳は彼岸のムチュクンダを見つめ、恍惚としている。
「おい、誰か! 誰かいないか!」
守衛と女中が飛んできた。慌てて水を取りに行く女中。医師を呼びに行く守衛。しかし、彼らが戻ってくる前に、サティは広成の腕の中で息を引き取った。
広成は二度と不死の術を使うまいと自身に誓う。
そして、救えなかったユーファンやサティやオケオで死んだ大勢のために、今拾った自分の命を、誰かを救うために使うことを。
――。
魔奈で命を救うと誰かが死ぬ。敵の誰かを殺しても、身内の誰かが死ぬ。繰り返し語られる法則。命のルール。
それが現実に訪れるなど、凌太は思ってもみなかった。
凌太が看護師を連れて病室に戻ると、ナティが目を開けたまま止まっていた。息をしていなかった。その目に輝きは残っていなかった。
――そうだ、ナティは吉祥寺でいくつもの命を。
きっと、吉祥寺だけでなく、これまでも何度も未来を見て人々を助けてきたはずだ。
看護師が慌てて医師を呼びにいき、慌ただしい足音が響く。
凌太は目の前の現実が信じられなかった。はらり、とベッドから落ちる黄色い札。
景色がぼんやりとかすんでいく。看護師たちの声が遠くなっていく。
――これは、書き換えか。
色を失っていく世界。
ナティが死と同時に発動させた最後の書き換えだろうか――死を回避しようとしているのか、それとも、ほかのなにかのせいか。
すべての輪郭がうすれ、記憶が塗り替えられていくなか、凌太は予感した。ここから、失われたものを求める長い巡礼の旅がはじまることを。