エピローグ 聖地ハーモニカ横丁
吉祥寺。
住みたい町ランキングで毎回上位に入る東京都武蔵野市の町。
新宿から中央線快速で西に十六分。北は練馬区、東は杉並区、西と南は三鷹市に接する多摩地域の玄関口。
漫画家や小説家やアニメーターやバンドマンや俳優や漫才師やまだなにものでもないなにがしかの卵が多く住む、クリエイターの聖地。
駅北口のハーモニカ横丁には数十件の居酒屋や立ち飲み屋が狭い路地裏にひしめき、酒客たちが焼き鳥やもつ煮をつまみに、日本酒やベルギービールで顔を赤らめている。
二畳程度の立ち飲み屋や占い処、シーシャバーやケバブ屋などがあり、どこか、テーマパーク的な風情があって、ぶらぶらと散策しているだけでも退屈しない。
「で、結局どうなんの?」
亨はスペイン産のサラミを箸でつまみ、口に放り込んだ。
凌太はヒューガルデンを一口飲んだあと、げっぷを我慢し、答える。
「ちょっとずつ歴史が修正されていって、最後は史実どおりになる。晴明と幻人がそのあとも仕事をつづけたわけ」
「ラーマはどうなんの?」
「あの後、大幅に歴史が改変されるんだ。広成は史実どおりチャンパに漂着し、渤海経由でナギとともに739年に帰国。ラーマは広成とナギの子の平群広足として平城京に生まれ、のちに渡来人の瞬姫を妻にする。彼らの所業はシンクロニシティによって書き換え後も実を結ぶ」
「馬主と養年富は唐で死ぬの?」
「二人ともシュリーヴィジャヤに漂着して武将になる。シンクロニシティで養年富の息子は唐に留学し、のちに来日する。そこで広足の妹の瑠璃姫と出会う」
「瑠璃姫はシャシャンカでしょ? シュヴェータの子じゃなかったっけ?」
「そこも書き換わる。遺伝的には書き換え前の瑠璃姫と別人でも、魂は転生するんだ」
「都合のいい解釈だな」
「そうだね」
せめて、フィクションの世界くらい、都合よく終わってほしい。
現実は過酷だ。ナティにもモニカにも、もう会えないだろう。
「そういえば、漫画やめて大阪帰るって前言ってなかったか?」
「俺が漫画をやめる? そんなこと言ったっけ?」
漫画はアルバイトで食いつなぎながらなんとか書き上げ、オンラインの投稿サイトに掲載している。まずまずの人気で、手ごたえを感じている。
「ナティとモニカにも読んでほしかった」
「現実と虚構がごっちゃになってるぞ」
カウンター席にはもう十月だと言うのにタンクトップを着た外国人たちがいた。香港やバンコクと間違えているのだろうと思いつつ、ヴィッキーとロハスを思い出した。
「なに泣いてんの?」
「煙が目に染みただけだよ」
ナティたちは生まれてすらこなかったかもしれない。生まれてきたとしても、書き換え前の記憶があるかどうか。なければ、別人だ。
「おっちゃん、ぼんじりタレで二本ちょうだい」と関西弁の女の声がした。
書き換え前の現実は、なかった現実だ。今この目の前にある現実こそが唯一の現実であり、歴史なんだ。タイで李光明と会った記憶も、妄想となんら変わらないのかもしれない。
「へえ、あんたらもアニメ好きなんや。気ぃあうなあ」
凌太は顔をあげる。カウンターの角をはさんだはす向かいで隣の外国人たちと談笑する女性は――。
「モニカ……?」
女性が凌太の方を向く。
「そう、ハーモニカや」
と言って、女性は凌太をしばらく見つめ、そして笑った。
「ここハーモニカ横丁やけど、どないしたん?」
モニカではなかった。ショートヘアを金髪に染めた日本人女性——一緒に飲んでいた亨の奥さんだった。
「ダイスケでーす」
背後から聞き覚えのあるフレーズが聞こえ、振り返ると、タンクトップを着た大柄な店員が向かいの店でビールを運んでいた。
モヒカン頭のインド系の男が「ダイスケと呼んでくださーい」と女性客たちに笑顔を振りまいていた。
「さっきからどうした、凌太?」
「いや、ちょっと、知り合いがいた気がして。勘違いだった」
——シンクロニシティも人が悪い。
凌太は店を変えて飲み直そうと提案し、二人はハモニカ横丁を出てアーケードのダイヤ街に入った。
「あの、すみまセン」
振り返ると、赤いバックパックを背負った少女がいた。
「吉祥寺通りはどっちでスカ?」
「ナ……ナ、ナ」
凌太は少女に駆け寄る。
「ナティ!」
ナティだった。その丸顔も、透き通った声も、ココナツ色の肌も大きな目も、間違いなく、ナティのそれだった。
違うのは、青いヒジャブの隙間から見える長い黒髪。
少女はきょとんとして、目を丸くしている。
「こらこら、不審者、うちの姫になにしようとしてるの」
英語でそう言いながら少女の後ろから現れたのは筋肉質なツインテールの東洋人女性。
「久しぶりだね、凌太」
凌太は腰を抜かしそうなほど驚き、地面に尻もちをついた。
「ヴィッキー!」
「ちなみに、今の私は台湾人の黄小楊。まあ、ヴィッキーでいいよ。呪符が効いたみたい」
ヴィッキーは宝逢勞の黄色い札を取り出してひらひらしてみせた。
「あんたの漫画が書き換えを起こしたのかもね。書き換え前の記憶は全部残ってはないけど、あんたのことは覚えてる」
「どうして吉祥寺に……?」
「どうしてもなにも、あんたと竜星に会いに来たんだよ。ジーメイは漫画の締め切りに追われてて、来れなかったけどさ。で、この子はナイラ。羽田で会って道連れになったの。ナティの記憶はないけど、間違いなくナティの転生よ。その証拠に」
ヴィッキーはナイラが着ている白いTシャツを指さす。それはドラゴンスターのバンドTシャツだった。
ナイラは目を輝かせて凌太を見上げる。
「ねえ、ここ、リュウセイの町でスカ?」
凌太は涙があふれるのをごまかすように目をこする。
「ああ、そうだよ。竜星の町だよ、ここは」
ナイラがにこりと笑う。ナティの記憶があろうがなかろうが、どうでもいい。ナティに再会できた。
なんだかんだ、男は女の魅力的な笑顔を見るとほかのすべてが吹き飛んでしまうものだ。
夢見ていれば、少しずつ書き換わって、いつかモニカたちにも会える気がした。
「吉祥寺へようこそ。いや、おかえり!」
吉祥寺には何かがある。




