NHKの坂本龍一特番を見た。
私の音楽のマスターピースである矢野顕子の元夫。気にならない訳がない。
矢野顕子と「東風」を連弾で演奏している映像は、もうずいぶん昔の映像にはなるけれども衝撃的で音楽の素晴らしさを実感させてくれた記憶がある。楽しそうであり、真剣であり、一心不乱にピアノと向き合う二人の輝きに感銘を受けた。
「Akiko Yano and Ryuichi Sakamoto Tong Poo」で検索して聞いて欲しい。
本人もこの番組で語っているがピアニストとしての腕はプロ級に遠いし、やはり年齢と病魔による衰えも感じる。でも、感性はわかる気がした。
ドビュッシー好きというのもわかる。なんかドビュッシーっぽい和音展開が通り抜ける。
あと、やっぱりピアノだけではこの人は足りてないと思う。
番組の中で多数の音をピアノに落とし込む作業は楽しかったと言っているが、YMOで奏でた音の数はピアノでは足りない。矢野顕子は省略の天才で、矢野節に変えて過不足ないピアノ曲に仕立ててしまうが、坂本龍一のピアノは頭の中の音が加算されて完成しているように見える。所々で指揮をするような手の動きが見られるように、自分の奏でた音プラス何かを聞いているように見える。
私も良く知っている「東風」はYMOでも代表曲だし、矢野顕子もカバーしている。それだけに、演奏されているピアノに音を足したくなった。全体としてスローテンポで奏でられるピアノアレンジは、入れられるはずの音が入っていない感が漂う。そこでトリルをなぜ入れないのか、もうトリルは体力的に無理なのか、と思ったら別の曲ではトリルを使ってる。オクターブだったので東風よりは体力がいるはずで、敢えて入れていないことがわかる。
でも、たぶん頭の中にその音は鳴っている。
東風の中盤にコード進行だけのような数小節が入っていたが、演奏されていない旋律が脳内に再生されて鳥肌が立った。原曲を知らなければ感じられない音。
あと、気になったのが曲の終わり方。きれいに終わらない。
ドビュッシーの曲では深呼吸をさせてくれるようなリズムがあり、最後に大きく吸ってふぅーと吐いてにっこり、という終わり方があると思うのだけれども、今回聞いた曲のいくつかでは大きく吸うところまでで止まって終わるような形式が気になった。ストレスが残るのがわかっていてそうしている。
演奏中なのに曲が終わったような瞬間的に無音になるよう響きを止めてみたり、私が無知なだけかもしれないが違和感の多い演奏にも感じた。
それが坂本龍一だとしたら私は坂本龍一の多くを知らない。でも共感するものは大いにある。
少なくとも私の生きた時代の1つの軸となる人がまた消えた。寂しいものだ。
私が矢野顕子に惚れたのは、感性が坂本龍一に近かったからかも、などと比較できるようなものではないが、共感を多く持つ人物でもありました。