20話 砂橋ルミノ
何故、自分はアイドル事業を手掛けているのか――
ほんの半年前は、細々とカラオケボックスを営んできたはず。
だが、広い世界で輝きたがっている存在を知り、
その光を届けることが自分の成すべきことだと自覚した――
しかしいま、“アイドルという存在そのもの”が失われようとしている。
これを世間では、『アイドル・クライシス』などと呼んで騒いでいるようだが――
しかし、まだ滅んだわけではない。
だからこそ、彼は彼女たちを信じている。
彼女たちの放つ、<スポットライト>の輝きを信じている。
それは絶対に、悲劇のためのものであってはならない。
彼女たちの立つ現実は、喜劇の舞台であるべきだ。
なればこそ――
決して『悲劇』として終幕させるつもりはない。
もし、これがアイドルたちの『物語』であるのなら、
この局面はむしろ『クライマックス』と呼べるものだろう。
直面している、この局面を乗り越えるべく。
彼女たちが笑っていられる終わりなきフィナーレを向かえるべく。
いまはまだ白紙の脚本――それを完成させられるのは自分だけ。
そう、自分の手でやり遂げなくてはならないのだ。
ゆえに彼は天を仰ぐ。
彼女たちの『喜劇』をいつまでも輝かせ続けるために。
***
『全裸限定の天才アイドル』蒼泉歩
『今世紀最後の歌姫』古竹未兎
このふたりによるスペシャルユニット『|Undresstart』
知る者であれば、その成功を疑いようもなかった。
そして、知らなかった者――未兎しか眼中になかった者たちも、ふたりの輝きの前に思い知る。決して陽の目を見ることのない日陰舞台に、陽の光にも匹敵する眩いほどの情熱が存在していたと。
ふたりは、衣装を纏わない。
腕や脚を飾ったとしても、胸や下腹部には決して。
だからこそ、ふたりは輝く。
透き通る旋律の渦巻くステージの中で。
決して他の場所では実在させることは叶わない――
だからこそ、ここが実在していることを忘れてしまうほど非現実的な幻想。
ふたりを知る者であれば、その名だけでこの輝きを信じることができた。
だからこそ、それと同時に――
他者がこの輝きに辿り着くのは容易ではないと悟らざるを得ない。
誰よりも、特別ではないひとりであることを望みながら、
誰よりも、特別な高みへと至ってしまった古竹未兎――
その隣に歩が並び立てただけでも奇跡なのだと。
続く光は、残念ながら――
未兎の公演日は、いまも個人の特別枠になっている。
ここにようやく、歩だけは加わることができたが――
しかし。
ステージには、各々の“役割”がある。
若輩ながら卓越した技術と経験を誇る乙比野杏佳。
驚異の模倣力を持つ雪見夜白。
常識外れな身体能力を備えた草那辺蘭。
可愛い拳ですべてを粉砕する河合ミサ
――こと、桑空操。
ふたりの歌に華を添える四人の女のコたち――
ダンスに特化した杏佳の出現によって、アイドルとは唄いながら踊るもの、という固定概念が取り払われたようだ。当然、各々歌についてのレッスンは水面下にて継続している。だが、ダンスのみに注力するのであれば、未兎たちと合わせてもまったく遜色はない。乙比野杏佳を中心としたストリップ・ダンス・ユニット『シャドウステップ』は今後も様々なユニットと組んで出番を増やしていくことだろう。
加入したばかりだというのにリーダーに抜擢された杏佳はやや恐縮しながらも――それでも、譲れない信念があったらしい。
彼女たちはストリッパーでありながらライブアイドルに近い形で活動している。それも、新歌舞伎町という風俗街にて。ゆえに、歌って踊って終わりではない。
「『はぐはぐサービス』、シャドウステップを希望の方はこちらに……って乙比野さんッ!?」
それはTRKならではの催しのひとつ。イベント終了後にメンバーに抱きしめてもらえる企画だ。もちろん、服は着た上で。
今日は未兎を中心とした公演日なので、事実上すべての観客は未兎目当てである。これまで、未兎公演日は混乱防止のため特殊なイベントは一切開催されていない。しかし、自分も他のメンバーと同じように扱って欲しいという未兎本人の要望と、今日は他のメンバーも多数出演していることを鑑みて、初めて実施に踏み切ることとなった。
とはいえ、事実上未兎ひとりに対する行列となることは目に見えている。それをどう捌くか――その対策は講じてきた。が、ここで想定外の事態が発生したのである。
客席の方まで降りてきた面々は脱衣前の衣装を着直してきたというのに、杏佳ひとりだけ――左サイドで結われたテールはそのままに。だが、衣装については――ステージで着用していた袖袋やブーツまで脱ぎ外してしまっている。つま先に至るまで裸足であり、喉元に至るまで何ひとつ着用していない。
プロデューサーが驚いたのは、他のメンバーならともかく、これを杏佳がやらかしたことにある。実際、杏佳は羞恥に目を見開き――それでも、胸も股間も両手で隠すことはない。ただ、隠したいという本音の表れか、震える膝はピタリと閉ざし、二の腕に横から挟まれた両胸の間には深く柔らかい谷間が刻まれている。それでも、肩まで上げた両拳はしっかりと力強く握りしめていた。
このハプニングに――ここがストリップ劇場ということもあり、男性客たちからは遠慮のない視線が注がれている。そして、主催者側としては、誰ひとりとして益がない。
「ほらー、プロデューサー困ってるじゃんー」
「うっさいわね、これは私自身に対するケジメなの……ってか、アンタの所為でしょ!」
と夜白は杏佳からなじられているが、別段悪いことはしていない。ただ、杏佳はダンスについて自信があった。それを模倣するなどできるはずがない――もしできたら、今日の『はぐサー』は全裸で出てやるわ――……
夜白のコピーは歩の動きさえ可能にする。もっとも、撮影した動画などではなく、実物を直接見た上で記憶できるのは三十分程度、と限定されるが。夜白曰く“情報量の多い動き”を真似するのは自分を極限まで空虚にできるので何よりも気持ちいいらしい。そして、杏佳のダンスもそれに匹敵する、と夜白は称賛していた。
それでも、自分の写し鏡のような動きに、杏佳は――これを認めなければ、自分の見る目を否定することになってしまう――極めて遺憾ながら、膝を折った。その結果が、コレである。
杏佳はまだ人前で裸になることに慣れていない。いまも、顔を真っ赤にして、足はいまにも崩れ落ちそうだ。しかし、美しい――こうして無理を押しているときこそ、杏佳は<スポットライト>に包まれる。
ゆえに、プロデューサーは困り果てていた。このままでは、他のメンバーとのバランスが悪い。かといって――全員で脱ぎ始めてはそれこそ混乱必至である。
「……裸での実施日は、別途設けますので……」
杏佳と夜白の口約束を知らないプロデューサーには何があったかわからないが、一先ず矛を収めて欲しい。だが。
「そっ、それじゃあ意味がないでしょッ!」
杏佳は腰に手を当て、プイと横を向きプロデューサーを拒む。全員の全裸に混じっては罰にならない。そんなのは、“逃げ”であり、“自分に負けたこと”になる。だが、肘はピクピクと胸を隠したがっているようだ。このように虚勢を張っている杏佳はやはり愛おしい。
ゆえに、彼もまた覚悟を決める。
「……わかりました。仕方がありません」
そして、ざわつく場内に対して大声を張り上げた。
「列を再編成します! シャドウステップ……杏佳さんを希望する方はこちらへ!」
これには、ファンたちも困ってしまう。あの古竹未兎とハグできる、と期待してやってきたのに、その反対側には裸の女子――ダンサー体型であるため細く締まっているが、出るべきところは大きく膨らんでいて柔らかそうだ。そんな女のコが、全裸で抱いてほしいと待っているのである。ここは、未兎ファンとしての矜持が試されるところか。
しかし――やはり加入当初から未兎が見立てていたとおり、その多くが一度は有名人の裸を見ておきたいだけ、という浮ついた連中だったのだろう。その半数が脱落し、全裸女子の方へと流れていった。列は短くなったものの二本となったため、プロデューサーは新たな列整理に追われている。
だが、そんな中で。
「……あれ? 私でいいの?」
他のメンバーは、未兎の添え物のつもりでつき合っていた。それは、TRKセンターである歩とて同じこと。なのに、自分の前に歩み寄ってくるお客さんがいる。
だが、言って歩は思い出した。そもそも、“女のコ”がはぐサーに参加すること自体が珍しい。
「あ、もしかして、いつも来てくれてる……」
「はいっ、先日はサインをありがとうございました!」
サイン会にも参加していたということは、『めいんでぃっしゅ』のファンである。今日は未兎の独壇場だと思っていたが、自分のために来てくれた人がいてくれたことに歩は嬉しくなってくる。感謝の気持ちで、歩はファンを抱きしめた。
「今日は、ちゃんと服を着れてるねー」
サイン会では、全裸で書いていたから。
しかし。
「……はい、“服を着ているからこそ脱げる”んですしね」
「え……っ?」
胸に抱く柔らかな女のコの言葉に、歩はどこか重い意味を感じる。
だが、その真意を問おうとしたとき――
「おいっ! アホプロデューサーはどこにゃーッ!!」
ホールへの入り口はふたつ。そのクレーマーは、外から近い正面口から入ってきた。別途、ステージ横には通称『非常口』と呼ばれるあまり使われない扉もある。目当てのプロデューサーは、列を外へ流すためにそこから廊下へと出てしまっていた。会場内は女のコとの抱擁を控えてざわついている。だが、それでもその声が掻き消されることがなかったのは、男たちの低い声の中だったから。
そして――彼女もまた、アイドルなのだから。
「あっ、あの人、“盗撮犯”……っ!」
歩の胸の中で振り向いたファンの女のコは、驚き思わず声を上げる。だが、乱入者のところまでは届かない。それが、通常の声量というものだろう。だが、おかげで傍にいたTRKメンバーたちは状況を把握できた。
クレーマーは未だ入り口付近で揉めている。それは、有志のファン止めているわけではなく――しがみついている涙目の同僚は湊だった。
「なっ、成美ちゃん落ち着いて……っ!」
「アホゥッ! 外では芸名で呼ぶにゃっ!」
かつて糸織と競り合っていた歌い手・あんにゃの本名は成美というらしい。見るからに怒り心頭ではあるが――何故か猫耳をかぶっている。語尾のこともあるし、それが本来のスタイルなのだろう。同様に、湊も普通のシャツとスカートではあるが、ヘッドドレスだけはかぶっていた。しとれにいわれて、同じように持ち歩いているのかもしれない。ただ、必要以上に幼く見える小さなツインテールは下ろされている。この状況は、PAST側にとっても予想外だったようだ。
盗撮の件は事務所として全体に通達されている。この混雑状況では場外のプロデューサーには届いていないかもしれない。未兎は下手に動けば余計に混乱が増してしまう。ゆえに歩が報告に行こうとするも――狭い非常口は一方通行だと言わんばかりに塞がっていた。廊下も似たような状況だろう。“歩なら”脱げばどうにかなるかもしれないが、これ以上場を乱してプロデューサーに負担もかけられない。
だからこそ、“彼女”が出た。そういうことなら手加減はいらねぇよな、と。
いまも、あんにゃは騒ぎ立てている。
「うっせーわ湊ッ!“にゃー”は絶対ヤツらを――」
ボ――ッ!
その訴えは一瞬にして途絶えた。あんにゃには、何が起きたのかわからない。ただ、自分の左耳のすぐ傍を、重く硬い物体が超高速で通過していったような気がする。もし、自分の頭がもう少しそちらに逸れていたら――頬骨あたりが砕けていた――そんな恐怖だけが彼女の背中に残っている。
息が詰まり、心臓の鼓動に身体が耐えきれなくなり――あんにゃはその場でへたり込んだ。その左頬に、ブーツ越しに足の甲がそっと添えられる。
「ちゃーんと列に並んでくれないと……空手パンチの次は、空手キックで首の骨へし折っちゃうぞ☆」
口調はアイドルのものだが、口調が纏う凄みは操本来のもの。前に来たとき、このオンナがいなくて助かった――あんにゃにはもう、逆らう気力は残されていない。
なので。
「よこーいショー」
蘭が両腕で、バーベルのように無抵抗の人ひとりを担ぎ上げてしまった。下手に暴れて床に落とされたら――まだ腰に力が入らず、大怪我につながるかもしれない。
「そんじゃ、ラン、お客サマ、お持ち帰ル」
開いていた正面口から蘭はたったか駆け出していく。ここにいても暇だし服は着せられるしで、蘭にとって良いことは何もない。
そこに、ようやく。
「なっ、何があったのですか……っ!?」
場内の混乱を把握しても、プロデューサーには人をすり抜けることなどできようもない。列をその場に留めたまま、彼はやっとのことでホールの中まで辿り着いた。しかし、すでに事は片付いている。
そして、操にとって一撃で沈むような雑魚など瑣末事にすぎない。
「どうもこうもねぇよ。やっぱ、アタシの列ひとりもできねェじゃねーか」
「いまはそれじゃないよね」
個人的な鬱憤をぶつける操に夜白が冷静に突っ込む。
プロデューサーが事情を把握できたのは、未兎から説明を受けた後だった。
そして、杏佳はサービスが始まる前から羞恥と緊張により座席でぐったりしていた。
***
はぐはぐサービスはイベント中に違反者が出なかった場合に限る――それが、イベント中の治安維持にも一役買っていた。プロデューサーひとりで百人余りの来客に対応できるのも、来客たちの欲望をギリギリのところでコントロールできているからにすぎない。なので――今回のあんにゃの乱入は、そもそも彼女自身がイベント参加者ではなかったということで、現在もホールにて予定通り実施されている。あんにゃの狼藉を理由に中止していては、おそらく男たちの憤りを抑えることはできなかっただろう。
そしてその頃、控室にて――
「こちらとしても聞きたいことが山程あったし……自分から来てくれたのなら歓迎するわ」
前回と、雰囲気が違う――担がれてきたあんにゃと、その付き添いの湊は応接用のソファに座らされている。湊はともかく、あんにゃは冷や汗が止まらない。これまでの威勢はどこへやら、小さくなってガタガタ震えている。押せば倒れそうなパーティションなのに、まるで刑務所の外壁のようだ。
出入りのために一角は開けられているが、その隙間から覗くのは――間合いを瞬時に詰める高速の“刻み突き”から間髪入れずに放たれる破壊力の乗った“中段逆突き”、そこから流れるような“上段回し蹴り”――右足を大きく上げたままの操と、あんにゃはチラリと目が合った。操は、苛立っている。会場の男たちに自分の裸を見せつけたいところを脱がないよう命令したのは他でもないプロデューサーだった。なのに、杏佳は特別脱衣が許され――もしあの場で自分も脱げれば、少なくとも列ゼロ人という残念な結果にはならなかったはずだ。
そして、せめて操が全裸であれば、あんにゃの緊張も少しは和らいだだろう。だが、操にとって裸は男を魅了するためのものであり、女しかいないこの場で脱ぐ意味はない。可愛らしさ増強のためのツインテールウィッグも着けておらず、シャツに短パン――太い眉や短めの髪も相まってまさに男子の様相である。そんな相手から八つ当たりのような怒りに当てられて、あんにゃはいよいよ縮こまる。その隣にちょこんと座る湊は、おとなしくしていれば大丈夫だと信じようとしていた。
「こ、この度は、成美ちゃんがご迷惑をおかけしまして……」
本名で呼ばれても、あんにゃに反論する余裕はない。なので、代わりに別の者が訂正する。
「カスミ、ソイツ、外では『あんにゃ』、だゾ。ソイツ、自分でゆってタ」
薄いパーティションに、褐色の少女がひょいと飛び乗った。カエルように膝を開き、両手と足の指まで使って器用に縁を掴んでいるらしい。が、本来は何十キロもの重さに耐えられる設計ではないはず。バランス感覚以前に重力さえ感じられない。その上、先程は軽々と女子ひとりを運んできている。操とは対極的に、蘭は何ひとつ身に着けていない。だからこそ、種も仕掛けも誤魔化しもなく、本人の肉体だけでこの芸当を成していることが否応なしに理解させられる。逃走を試みたところで、彼女ひとりからさえ逃げられる気があんにゃにはしない。
だが、操と蘭は、いわゆる無断退場者である。はぐサーは、誰も希望者がいなくても本来は会場に残らなければならない。だが、ただでさえ現場は混雑しているし――このふたりはここにいてもらった方が有益そうだ、と霞は暗黙に見逃している。
「そうね、あえてあんにゃと呼ばせてもらいましょうか。貴女もPAST……天然カラーズの傘下のひとりなのだから、“この街のやり方”で対応する必要がありそうだし」
この街のやり方――! 女に弱いプロデューサーと旧知の糸織に“甘えて”勢いのまま乗り込んでみたが――
「ご、ごめんなさい……もうしませんから……」
「このように、成美ちゃんも反省しておりますので」
ふたりは猛省して頭を下げる。けれど、霞の表情は変わらない。
「反省で済めば警察はいらないのよ。まあ、最初から“警察に頼らない形”で解決するつもりだったけど」
元々芸能関係者との付き合いが長いためか、この街でのやり方にもすでに馴染んでいる。
「貴女、月三〇〇時間の過労働にも耐えられるのでしょう? なら、“大抵の店”では使えそうね」
この街で、一体何の店で働かされるのか――!? あんにゃにはもう、何も言えずに震えて許しを請うしかない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「な、成美ちゃんは、前職で身体を壊しかけていて、あまり無茶は……」
「でも、アイドル業ができるくらいなら“使えるところ”もあるのでしょう?」
霞はうっすらと微笑んでいるが優しさはなく、むしろ切り裂かれるような冷たさを孕んでいる。
これはもう、人生終わったかも――ひたすらに悔いるあんにゃだったが、そこに奇しくも天の救いが到着した。
「うーわアホ巨乳、性懲りもなくまた来たんかいな」
はぐサーにて予想外の状況になったとして、カラオケボックスの方に助っ人が要請されていた。いまはしとれや優がプロデューサーを手伝って現場対応に追われているが、合わせて糸織も呼ばれていた。あんにゃが“暴れている”とのことで、顔見知りの方が話も通じやすいだろうということで。
どうやって宥めたものかと糸織は鬱々としながら部屋の扉を敲いたが、どうやら、宥めなくてはいけないのは身内の方だったらしい。
「助けて! マジ殺される! ホントにもう、こんなことしないから、今回だけは見逃してッ!」
パーティションの陰から覗き込んで糸織が見たものは、真っ青になってマジ泣きしているかつてのライバルだった。これまで憎まれ口を叩き合っていた傲慢さのカケラは微塵もない。少し残念そうな霞に、空手の型に殺意を込めている操――これは運が悪かったな、と糸織はもうため息しか出ない。
怯えきっていたあんにゃは、すべてを洗いざらい話してくれた。
昨日の夜――希はまだライブアイドルとしての看板を下ろしてない――ゆえに、渋谷のとあるライブハウスで活動何周年記念かの単独ライブを行っていた。これまでの全楽曲を休みなくメドレー形式で流し続け、唄いきれなかったら即引退、という企画で。
あんにゃたちは、むしろそれをアイドルとして幕を引くセレモニーだと捉えていた。これから、プロデューサー業に専念するための。だが、その最中に“事故”は起きた。
「リーダーの衣装が突然、バラバラに崩れ落ちて……」
サウンドは無人で勝手に流れ続ける設定になっており、誰にも止められないようになっていたらしい。それで、希は最後まで唄いきることができたようだ。例え、全裸にひん剥かれても。
「多分、一分もにゃかったと思うにゃ……」
そのアクシデントを前にして湊たちも止めるべきか迷っていた。が、楽曲が終わりかけていたこともあり、結局そのまま唄い通したという。
一分とはいえ、全裸でステージに立つにはあまりにも長い。その後、希は控室に閉じこもり――今日は先に帰れ、と言われてふたりは会場を後にした。
『ダンススクール・オードブル』に持ち込まれる予定だった解体衣装――霞も過去の報告書にて目を通している。だが、それをPASTプロデューサーに仕掛けてくるとは思っていなかった。しかし、希自身は予感していたのだろう。だからこその、慎重なまでの間接的な情報提供だったのだから。
希のライブは公開情報である。霞たちはライブの後に直接本人に迫るつもりで会場出口に張っていたのだが――メンバーであるPASTたちさえ行方を知らないのだから、部外者であるTRKにその陰など捉えようもない。
「それっきり……リーダーと連絡が取れにゃくにゃって……」
あんにゃは、ひとつのスマホを取り出す。
「これ……控室に残されてたにゃ……リーダーの……。データは全部初期化されてたにゃ……」
次のライブ予定の告知はない。メドレー企画の是非に関わらず、引退することだけは決めていたようだ。
当事者から確認できたのは、その足取りを追うのが困難になったということだけ。あとは、このふたりにどう落とし前をつけさせようかと霞は考えていたが――ここで責任者が現れたため、穏便に済ませることになりそうだとため息をつく。
「お待たせしてしまってすいません」
これまでのピリピリした空気が、そのひとりの到来によって和らいだ、とあんにゃは感じる。
「社長、現場は良いのですか?」
「はい。列が半分になりましたため、予定より早く切り上げることができまして」
この男は前のままだ――これにはあんにゃの気も緩む。
「……何で、アンタがこの街で生きてけんのよ……」
何より、こんなアクの強い女たちが、この男に従っている理由がわからない。しかしそれは、彼の本質を見ていないからこそ。
「あんまPはん甘く見ん方がえーで。これでもニーチャン、頭ひとつデカいゴロツキをワンパンで殴り飛ばしとるさかい」
「ウソにゃ!?」
「頭ひとつは言い過ぎかと……」
ここまで冗談抜きだったので思わず本気にしてしまったあんにゃだったが――頭ひとつは言い過ぎ、ということは、ゴロツキをワンパン、あたりまでは本当らしい。
そして何より、糸織の表情が真実だと語っている。あのとき、この男と一緒に歩いていきたい、と本気で思えた――言いたいけれど、いまの糸織にそこまでは口にできない。そんな葛藤を抱えるかつてのライバルに、あんにゃは少し引いていた。コイツ、こんな“メス”の顔できんのかよ、と。
しかし、プロデューサーの女子に対する腰の低さは信頼されていない。
「社長、情報は私の方で大方聞いておりますので」
せっかくだから、このふたりにはファンムードにスパイとして潜り込ませようとさえ考えていたのに、盗人を裁くどころか追い銭まで与えかねない。
なので、尋問はここまでだ。そんな霞の意図を汲み取ることなく、ただ彼は秘書としての手腕に礼を述べる。
「そうですか、助かります」
話はすでに霞が一通り聞いているのであれば、プロデューサーから告げることはただひとつだけ。
「憐夜プロデューサーのことは、我々にお任せください」
残念ながら、希の行方はむしろTRK事務局側の方が教えてもらいたい状況である。それでも、彼は迷いなくPASTのふたりにそう告げた。
「何でよ。“にゃー”たち、敵同士にゃ」
あんにゃがすっかりいつもの調子を取り戻しているからこそ、彼もまた、いつもどおりに。
「このような形での決着は望んでいないからです」
その瞳を見て、あんにゃは――この男に敵対できる気がしなくなった。
「……ハンッ、あの女狐が何でアイドルユニットにゃんかに収まってるのか、わかった気がするにゃ」
当時、周囲すべてを敵と見做していた『まじかる☆えりりん』が周囲を活かすなどと言い出す方向転換――どうやら彼には、物事を丸く収める才があるらしい。
だからこそ逆に、“収まっていない事案”もある。
「おっと、その男に惚れるんやないで。ウチら全員敵に回すからな」
「あ、そーにゃの」
それは、心から意外そうに。
「にゃったら、リーダーとは――」
「成美ちゃんっ!」
気の緩んだあんにゃを湊が即座に遮った。
「なんや、まだ隠しとる情報があるんやったら軒並み吐いてってもらうで」
口調は荒いが、対面で微笑みかける霞と比べればそれが殺意なき演技であることはすぐにわかる。だが、湊を怯えさせるには充分だった。
「で、でも……“これ”と“それ”とは別の話だし……」
「アンタと違ってこのコは怖がりにゃんだから、あんま凄まにゃいほしいにゃ」
すっかり強気に戻ったあんにゃは、湊のことを慰めながら。
「もし必要な状況ににゃったら話すにゃ。“にゃー”たちだって、リーダーと逢いたいんにゃし」
ただし、まっとうに話せるのは相手が糸織だからこそ。
「それでは、これからも全面的に極力してもらえる、ということでいいわね?」
責任者の前で約束させられるのは、せいぜいこのくらいだろう。霞はジロリと来客ふたりを睥睨すると、それだけであんにゃはビクリと身を竦ませてしまった。脅しすぎたことを霞はやや反省する。
ともあれ、今日の一件で両者間の格付けは済んだようだ。
「それでは、お客様のお帰りよ」
霞はパンと柏手を叩く。だが、やはり特に動きはない。前に糸織もやっていたので、これがここの風習なのだろう、とあんにゃは判断した。だからきっと、部屋の外で聞き耳を立てられていたとは思いもよらぬことだろう。
部外者ふたりが退室したとき、案の定廊下には誰もいなかった。しかし、いまは再び扉の裏側に張り付いているに違いない。それは霞も承知しているので、場所を応接スペースから会議用の長机に移した。一応、同じく室内にいた操や蘭も着席している。
だが、霞が資料を差し出すのはプロデューサーひとりにのみ。もっとも、情勢統制されているため、他の者たちが見てもわからないものだが。
「次のターゲットについてですが、すでに目星はついています」
希絡みで誰かを探していて、杏佳はそこに挙がっていた候補のひとり――そのくらいは何となくの雰囲気でみんな察している。そこから自分なりに予想を立てようとしていた糸織だったが、それより調査の進展の方が速かった。
「もうかい。さすがは辣腕秘書様やで」
そう言われて、霞は自慢げに眼鏡をクイッと持ち上げる。どうやら、悪い気はしていないらしい。
「“あの”リスト――」
それは、歩がきの子の背中から記憶して書き写してきた情報のことだ。
「当然、その“ほとんど”が天然カラーズ系列の作品に出演されているキャストの方々です」
「“ほとんど”……ということは……」
「はい、ひとりだけ作品が確認できない方がおられます」
リストの内容自体は機密事項であるため、黒塗りにされていた。その一行を除いて。
「彼女の名は……砂橋ルミノ」
天然カラーズのキャストたちの名は、確かに全員カタカナである。だが、そうであっても、自分の名前をもじったり、もう少し素直な響きの者が多い。例えば、操が河合ミサと名乗っていたように。
「ん? それって本名なのか? 外人かよ」
様々な芸名を見てきた操だが、ここまで日本人離れしたものは初めてらしい。
「名前以上の情報はわかりません。ただ、珍しい名前ですので……」
こんなとき、彼らは無言で扉の方を見る習慣がついている。何故なら、何か一言ある者が扉を開いてくれるから。
そして、今回も。
「あー……うん、知ってる知ってる」
このユニットの慣例に倣って、杏佳は話を聞いていたらしい。ちゃんとシャツとキュロットで身なりは整えている。が、相変わらずブラは透けているところがやや甘い。
自分の情報が求められているらしいので、杏佳は入室して空いていた席に腰を下ろした。
「目立つ名前な上、目立つ“制服”だったしね」
「制服……?」
プロデューサーは、学校の制服には詳しくない。
「あのコ、鳥越学院でしょ」
「鳥越学院……?」
どこかで聞いたことのある名だ。しかし、とっさには思い出せない。そこで、部屋の外から言いたくて仕方のない者が割り込んできた。
「うわ、マジで!?」
カチャリと扉が少し開き、覗き込んできたのはアイドルに精通している天菊まこ。
「鳥越学院ってゆったら、芸能人がよく通ってる定時制の高校じゃん! ってことはそのコ、結構ガチ?」
と言うだけ言って、まこは再びドアの外へと捌けていく。それ以上の情報はないから、このまま話を進めてくれ、ということなのだろう。
扉が閉まる音を聞いて、杏佳は発言権が戻ってきたものと判断した。
「まー、不甲斐ない連中の中でも基礎はできてたみたいだから……うん、警戒していたうちのひとりね」
そこまでわかれば話は早い。
「それでは……」
言って、霞は糸織に視線を送る。
「ったく、エージェントはウチの部下でもなく、たんに実家におった頃から世話になっとっただけやからな。しかも、当時は大阪支部のやし」
金に関して糸織は抜け目ない。
「っつーことで、ツケにしとくで」
「…………」
こういうところで黙ってしまうのが、霞の秘書として立場ゆえか。
「カラオケボックスの経費から捻出します。でしたら、よろしいでしょう?」
「はい、問題ありません」
霞が気にするのは劇場の帳簿だけ。カラオケボックスはまだプロデューサーの所管であり、予算の流用はどうとでもなる。
「では、先方の素性が明らかになった、という前提で話を進めますが……」
「あ、そしたら私はもう帰った方がいい?」
必要な情報を提供したことで、杏佳は席を立とうとする。それを霞が呼び止めた。
「いえ、むしろ乙比野さんがコンタクトを取るのに最も適任なのよ」
「何で? そこに電話番号書いてんじゃん」
ならば、呼び出すことは容易なはずだ。
「……詳細は言えないけれど、この番号はデタラメなの」
その理由はプロデューサーも知っている。そもそも希の身内なのだから、正しい連絡先を知っていて当然だ。ルミノはファンムードの社長案件として狙われており、念の為に名前以外は偽るよう指示したらしい。今回必要なのは、『砂橋ルミノ』がPASTのバックダンサーに応募した――その事実だけである。
そしてそのままデビューさせ、ファンムードに手を引かせる予定だった。しかし、ルミノに対しては社長自ら熱を入れており――それは、PASTそのものを崩壊させるほど。障害を取り除いたのだから、すぐにでも接触してくるかもしれない。お前の逃げ場はなくなった、と脅しをかけるため。間違いなく、監視の目もあるだろう。
つまり、ルミノに接触するということは敵の渦中に踏み込むに等しい。ゆえに、霞の思惑――同じバックダンサー応募者としての立場であること。そして、まだTRKに加入したばかりで顔が割れていない可能性が高いこと――それは彼も理解できるが、危険であることには違いない。
「とはいえ、乙比野さんに頼むというのは……」
直接接触するのはあくまで最終手段――その慎重な姿勢が、逆に杏佳の癪に障った。
「……つまり、私には荷が重い、と?」
ただ鳥越学院の生徒に声をかけるだけ。それさえも自分にできないというのか。
「いえ、荷がどうこうではなく、そのー……この案には危険が伴うわけでして」
「それはわかるわよ」
詳しく聞かなくとも何となく察せられる。
ゆえに。
「他の誰よりも、私がやるのが安全なんでしょ? それでなお、私には不適切だっていうわけ?」
「そ、そのようなことを申しているのでは――」
「いいや言った! てか、絶対思ってる!」
怒鳴る杏佳に、彼はそれ以上何も言えない。何故なら――なんと凛々しいのだろうか――腕を組み、ジっと睨みつけてくる杏佳からまるで後光が差しているようにも見える。これが――彼女の<スポットライト>――
「この件、私が受け持つ。私がその砂橋ルミノってコと会って、その場で洗いざらい吐かせてやるわ」
「い、いえ……そこまでしなくても……」
どうやら、“良い意味”でプロデューサーは杏佳からの信頼を失ってしまったらしい。彼の言葉は自分への気遣いではなく、自分を見下しているものとして。こうなってしまっては、もう杏佳は止まらない。その様子を霞たちは微笑ましく眺めていた。珍しく、女のコの扱いが“うまい”ではないか、と。
***
学校がわかっていれば、プロのエージェントにとって身元を調べることは造作もない。ただ、これ以上ターゲットに近づくのは難しい、との報告も受けている。やはり、ルミノの身辺には常に複数人の監視人がついているらしい。ゆえに、得られた情報は顔写真とクラスと出席番号まで。そこから先は、裏の人間を敵に回しかねない。
鳥越学院の制服はすぐさま入手し、先ずは、呼び出しから。クラスと出席番号がわかれば、下駄箱の位置もわかる。そして、ルミノが下校した後――監視の目が学校からなくなったのを見計らって、杏佳は果たし状を放り込んだ。三日後の放課後六時、旧校舎裏の駐輪場跡まで来い、と。正しくは、『来てください』と丁寧に。一応、あまり面識もない相手なので。
このとき、杏佳の護衛として少し離れた位置から監視していたエージェントによると、他の同業者の気配はなかったらしい。やはり、関心はルミノひとりのようだ。
そして、決戦当日。
指定した時間は放課後なので、下校で賑わう頃合いを狙って杏佳はさり気なく敷地内に登校させてもらった。今回はターゲットが学校に残っているため、近辺にファンムードの雇った者たちが点在している。そのため、投函時ほど護衛を近づけることはできない。ゆえに、二重警備――杏佳のことを誰かが見守り、その誰かをプロが見守る――だが、何かに遭った際の救援の初動は明らかに遅れることだろう。
それを知らされていたからこそ、杏佳の挙動は明らかに不審者であった。今回は、敵が自分を監視している――もし、TRKのメンバーだとバレたら、拉致監禁陵辱殺人の被害者になってしまうのではなかろうか――だからといって、ここで引いたらカッコ悪すぎる――! この現場をプロデューサーが見たら、さぞ感動したことだろう。いまの杏佳は、誰よりも“輝いていた”。みんなが応援したくなる前のめりな初々しい新人アイドル――他の関係者たちがこの美しさに気づく前にスカウトできたのは、TRKにとって幸運だったかもしれない。
ただ、ここは数多くの芸能人が通う鳥越学院高等学校である。芸能人の卵ともいうべき学生は多数通学しており――驚くべきことに、それでもさほど目立つことはない。おかげで彼女は誰に声をかけられることなく、敷地の奥へ奥へと踏み込むことに成功した。
旧校舎とは、文字通り現在使われていない校舎で、その教室群は物置か、一部の名ばかり部活の部室となっている。その最奥にあるのが駐輪場跡――もう使われておらず、残されて錆びついた自転車の残骸とも呼べる鉄くずが数台分放置されているのみ。みんなで校内図を見て、怪しまれず、最もひと気がないはここである、と話し合って決められた。
ここなら他の誰が来ることもない。一対一で対話ができる。現在時刻は――五時五十九分。あと一分だというのに、ルミノが現れる気配はない。もしかしたら、差出人の名前を書かなかったから警戒されているのだろうか。とはいえ、さすがに身元を明かすわけにもいかず、偽名を使えばバレてしまうかもしれない。
それとも、すでにここには到着しており、自分のことをどこかの木陰から観察している――? 普段人が立ち入るような場所ではないため、あたりは鬱蒼と茂っており見通しは悪い。隠れられる場所はいくらでもありそうだ。
一先ず、校舎の壁に背を預け、森とも林ともいえる都会の小自然に向けて目を凝らす。どこから――どこから出てくるのか――?
杏佳は、ふいに手元の腕時計に視線を下ろす。いままさに、午後六時――
そのとき――
『シャッ』と数珠が滑るような音が小さく聞こえた。それは、本当に彼女のすぐ傍で。背後は校舎であり、窓だった。それで、振り向く。それはただ、無意識のうちに。
それまで――カーテンが開かれていたか、閉ざされていたか――裏庭ばかり注視していた杏佳の記憶にはない。だが、あえて正解を挙げるのであれば、閉ざされていた。ここは使われていない教室ばかりである。慢性的に、すべてのカーテンは閉ざされたままになっていた。
ゆえに、わざわざカーテンを開ける者などいない。
だからこそ、そこに例外はあった。
しかし、杏佳にはそこにあるものが認識できない。
だが、何となくグロテスクだな、と直感した。
まるで、どこぞのポルノのように。
しかし、それはポルノと呼ぶよりリアリティがある。
何故ならば、それは被写体――ポルノと呼ばれるものの現物。
カーテンを開いているのは、両足のつま先。
左右に大きく開かれた二本の足は、その付け根を隠すことはない。
縦に一筋入った女のコの割れ目まで。
しかもそれが、“大きな玩具”を飲み込んでいるところまで――!
「…………ッ!?」
突然同性の股間を目の当たりにして、杏佳は驚きのあまり声が出ない。
思わず腰を抜かしそうになったところを、後ろからふわりと柔らかな丸い塊に支えられた。
が、これはこれで驚愕に値する。杏佳は今度こそ声が出そうになったが、唇に指を立てるジェスチャーを見て、少しばかり落ち着いた。
そして、それは窓の向こう側の相手をも落ち着かせることになったらしい。
ルミノと歩――全裸同士の邂逅である。
実のところ――ルミノにとっても、杏佳は予想外の相手だったらしい。なので、自分の行いにむしろ青褪めていた。だからこそ、歩の存在が大きかった。歩の“裸”の存在が大きかった。学校の校舎裏で同じ格好の同性――それだけで、ルミノにとって信用に足る。ゆえに、外から手招きをされて、迷わず内側から鍵を開けた。そして、『カレシ』と書かれた玩具を右手に抜き取ると、少し高い窓枠から飛び降りる。歩はその身体を難なく受け止めた。裸で抱き合う様子は、まるで絵画のようだ。なのに、芸術品とすることを許さない刻印がルミノには記されている。
彼女の髪は長く、量も多い。それを大きな三編みでふたつにまとめている。顔立ちも、鳥越学園の生徒だからか、やはり可愛らしい。もし他の学生と同じように制服を着ていたら――背が低いこともあり、大人しい妹のように感じられたことだろう。おっとりとした瞳は、男なら護ってあげたくなるタイプかも、と杏佳は思った。胸も大きく――とはいえ、杏佳も大きい方なので、同程度。ついでに、乳輪の大きさは――そもそも、自分のをじっと見たことがないので比べようがない。が、そこから波紋を広げるような二重の円と、真っ直ぐ縦に貫かれた直線。加えて、乳首を中心とした放射線状に縦線とは別に六本――それが、先程杏佳が見せつけられた部位を図形化した記号であることは杏佳も知っていた。さらに、股間の方にも――毛の代わりに、同じような線が引かれている。おへそと股の中間あたりに複雑な模様のハートマークが。それと股とをつなぐのは、太くて不格好な丸みを帯びた矢尻のようなもの。先程ルミノ自身がしっかりと咥えこんでいたもの――の実物、なのだろう。
この線はきっと、油性マジックか何かだ――杏佳としてはそう思い込みたい。だが――
『カレシいるのでお付き合いできません。ごめんなさい』
『ルミノをオカズにおちんちんシコシコして❤』
――そのように書かれているお腹の文字とは線の質が明らかに異なる。そちらが肌の表面に付着しただけのペン書きであれば――
「……間に合わなかった……みたいですね」
杏佳は項垂れるが、そのような結論に行き着いたのは杏佳だけだったらしい。
「え? むしろせっかく間に合ったのに?」
事情を説明できておらず、状況が飲み込めていないルミノはともかく、歩まで安心しきった表情である。これに杏佳は納得できない。
「だってこんなの、ファンムードに捕まって――」
「ファン……っ!?」
その名を聞いただけでルミノは身を竦ませ、歩の腕にぎゅっとしがみつく。よほど怖い思いをしたらしい。だが、ここで杏佳も違和感に気づき始めていた。ファンムードに無理矢理刻まれたのなら、“そんなもの”は見せたがらないはず。にも関わらず、身体についてはこんなに平然と。
「も、もしかして……」
そこから先は、杏佳には口にするのも憚られる。なので、歩から。
「見られたい……んだよね……?」
その美少女は、へらりと口の端を持ち上げる。半開きになった唇はどこか怪しげにも見えた。そしてそのギャップこそ――<スポットライト>は彼にしか感知することはできない。だが――こういうの、オーナーは好きそうだな――と歩は察していた。
あまり長く拘束してはファンムードによる監視者たちに怪しまれてしまう。なので、後日劇場の方に来て欲しい旨だけ伝えて、ルミノにはいつもどおりに帰宅してもらった。もちろん、制服は元通りに着た上で。自身の足で向かう分には、ファンムードたちが怪しんでも力づくで止めることは難しい。
残されたTRKのふたりは、ルミノがファンムードの手の者を引き連れて学校から離れてくれるのをこの場で少し待つことにした。というより歩が全裸なので、人がいなくなるまで外には出られない。おそらく、プロデューサーが羽織るものを持って、車で校門前に待機していることだろう。
それにしても、杏佳にとって今回はわからないことだらけだ。
「そのー……歩さん、どうやってここまで来たんです?」
しかも、全裸で。
「そこのマンションから」
と言いながら、三階のあたりを指差すのだから杏佳には戦慄しかない。
「ちょ……あの高さって……」
学校の敷地は塀によって囲まれている。だが、建物の二階くらいまでの高さしかない。
「うん、まあ、下は土だし」
歩にとって、それは一度飛び降りている高さだ。しかも、アスファルトの舗装路に。だから、彼女にとって何の心配もなかった。だが、それはあまりにも常識を外れている。
「知らないんですか!? 高校生の頃、プロデューサー、“転落事故起こしてる”って――」
と口にして、お互い気不味そうに目を逸らす。
「――……知らないはずないですよね……。同じ高校通ってたそうですし」
しかも、“偶然が重なって”怪我を負うことはなかった、と杏佳は桃から噂話として聞いていた。なので、この先輩にとっては大した事件ではなかったのだろう、と納得する。それに、監視係が怪我で動けなくなるようでは本末転倒だし、そもそも、そんな危険なことをあの心配性なプロデューサーが許すはずがない――なお、以前もこのような飛び降りを行っていたことを杏佳が知るのは、もうしばらく先のこととなる。
「二重に監視はつける、って聞いてましたけど……」
まさか、全裸女子が自分の近辺をうろついているとは、どの生徒たちも思わなかっただろう。
「あ、学校に入るまでは糸織ちゃんで、私は敷地に入ってからだよー」
校門付近の人は多かったが、目視できる距離まで近づいて物陰から杏佳の動向を見守っていたらしい。全裸の歩は極めて勘が冴える。誰にも見つからないよう立ち回ることもできるし、そこは公道と比べて人通りも少ない。だからこそ、杏佳にとっての危険度は逆に跳ね上がる。そこで、全裸の歩が最も状況に対応できると判断されたようだ。とはいえ、命じられていたのは杏佳の監視だけ、自ら出てきたことは指示の範囲外である。
「てか、いつからここにいたんですか……」
「ん、一時間ほど前からかな。で、糸織ちゃんから連絡を受けて」
そう言って歩は左手首を顔の前に持ち上げる。女子がつける時計にしてはいささか大きく――いわゆる、スマートウォッチと呼ばれるものだ。
「……てことは、私が来たとき、先にいたってことですよね」
「うん」
「時間が来たとき、かなり慎重に周囲は窺ったはずなんですけど」
「うんうん、見てたねー。あははー」
「…………」
この人は忍者の末裔だろうか、と杏佳は思う。なお、一世紀以上前に、全裸になると最強の守備力を誇るキャラクターのゲームがあったが、当然彼女たちがそれを知る由もない。
色々と納得できないことも多いが、杏佳はふぅとため息をつく。
「……自分で見せたいんだったら、ファンムードでも何でも行けば良かったのに」
そのあたりについては、“この特殊な状況”から歩は何となく察していた。
「多分、男の人、得意じゃないんじゃないかな」
「見せたがりなのに?」
「苦手じゃなかったら、直接会うでしょ」
杏佳は窓の方を見やる。物理的に隔てられているからこそ安心できるのだろう。
「動物園のライオンは好きでも、柵とか無しに対面したら怖いじゃない?」
「でもそんなことゆったら、学校生活も難しいのでは?」
鳥越学園は共学である。しかし。
「ここには、『女優科』があるから」
「あー……」
クラスのアルファベットばかり気にしていたが、H組は女優科に分類されている。少なくとも、女優科に男子はいない。
「それに、ルミノちゃん、手慣れてた」
「確かに……」
待ち合わせ場所に応じて、開く窓を熟知していたようだ。この旧校舎裏に精通しているとしか思えない。
「杏佳ちゃん、お手紙の写しとかある?」
「書く前のメモなら」
そう言って、杏佳は自分のスマホを手渡した。余計なことは一切書かず、日時と『旧校舎裏の駐輪場跡まで来てください』とだけ。
「あー……これ、どう見てもラブレターだよねー」
「果たし状ですっ」
だが、もしラブレターを送った男子が、ルミノのあの姿を見たらどう思うか――歩も、そこに“ギャップ”を感じている。これは、恋する少年にとっては悪夢以外の何物でもない。可愛らしい妹のような――護ってあげたくなる女のコ――それが、全身卑猥な刺青を彫った変態痴女だったのだから。
『脱いでも救われない裸もある』――その意味を歩はようやく理解する。それでも、あの人なら――歩は、そんな気がしていた。
***
おそらく、歩が全裸で現れたことで、ルミノからの絶大なる信頼を得られたのだろう。もしくは、それほどまでにファンムードに怯えていたか。後日、と約束したにも関わらず、学校から直接劇場まで来てくれたらしい。
そして――
この場合は、大々的に告知しなくてはならない。ファンムードに対する牽制はもちろん、いまもどこかに身を潜めている希にも報せるために。
『期待の新人・砂橋ルミノ 衝撃デビュー』
少なくとも、ルミノはファンムードへの所属を一貫して拒んでいた。ゆえに、これは引き抜き以前の話であり――ただ、スカウト相手を間抜けにも横から掻っ攫われただけ。どんなに『先に目をつけていたのは自分たちだ』と声高に叫んだところで、恥の上塗りにしかならない。
だからこそ――
「クッ、やられた……!」
ここのところ、後手ばかりに回っていることをプロデューサーは悔やむ。やはり、あのブランドはどこまでも卑劣だった。何しろ、社長案件である。激昂した最高責任者を止められる部下など社内にはいない。しかも、休業日たる週末を挟んでいたのも間が悪かったといえる。
『ファンムード 組織ぐるみでリベンジポルノばら撒きか』
日頃責任を取ることなく、何かあれば末端を切り捨てて対処してきた――他人任せの危機管理のツケが、ここで回ってきたらしい。
萩名社長の情報は確かであり、これは紛れもない社長案件――事もあろうに、ファンムード・周防原社長は“自社ビル”からその画像を拡散させたらしい。
社長はルミノのポルノをダシに自分たちの事務所に所属するよう脅迫していた。それを蹴って何もしないのではナメられる――それゆえの、有限実行。
だが当然、IPから発信元は筒抜け。一応、部下が勝手にやっただけ、と言い訳しているようだが――休業日であったため、当日本社ビルにいた社員も数えるほど。今度ばかりはさすがに無関係を装うことなどできそうにない。
これまでも、傘下の有力レーベルがいくつか潰されていた。それに加えてこの体たらくは、まさに落ち目といわんばかり。関係者たちも次々と離れ、今朝は元ファンムード系列だったと思われる事務所からの問い合わせが相次いでいる。応接机の電話は鳴り続け、対応に追われている霞はもはや事務作業どころではない。
しかし、リベンジポルノ――ルミノの秘密を守ることはできなかった。どのような行為を撮られたのか、プロデューサーは確認していない。だが、あの刺青である。肌を晒しただけでもただのヌードとは比べ物にならない社会的ダメージを負うことになる。実際、学校側からは問答の余地もなく即日退学処分が下されてしまった。希はこうならないよう、歩に想いを託したというのに。
すべてが終わった後で、プロデューサーは歩からその言伝を聞いた。脱ぐことで救われない裸もある――けれど、彼は歩が思っていたとおりに優しく首を横に振った。ルミノと初めて対面したときのことを思い出して。
さすがの彼も、その肌の模様には驚かされた。そして、そんな驚いた彼を見たルミノは――<スポットライト>を輝かせていたのである。ゆえに、彼は救いたい。彼女が脱ぐことで、彼女の裸を。
パーティションに囲まれた応接スペース――その陰から、彼はそっと室内を覗いてみた。ここの女子たちは性関係への耐性が人並み外れて高い。そのため、ルミノの刺青をまったく気にすることなく、平然と打ち解けている。ルミノ自身も、このような場で全裸のまま過ごすことに何ら疑問を感じていない。中でも、学校の都合で芸能人慣れしているためか、未兎に対しても分け隔てなく接している。
「ルミノちゃん、何観てるの?」
何気なく声をかければ、何気なく返してくれる。それが未兎にとって、何よりも嬉しい。
ただ。
「あ、エロビデオ会社さんが流したっていう動画ですぅ~♪」
「!?」
何気なくとんでもないことを言い出すので、未兎だけでなくプロデューサーさえも耳を疑う。先程から紫希や操たちと和気藹々とスマホを囲んでいたが、まさかそんなものを鑑賞していたとは。
「おかげで、学校は退学になっちゃいましたけど……でも、ここにいれば……フフ……フフフ……❤」
どうやら、退学の宣告を受けた際に、怖いもの知らずとなったルミノは校内で“とんでもないこと”をやらかしたらしい。それを目の当たりにできなかったことを、プロデューサーは残念に思う。それを回想しているだけでも、ルミノはこんなにも嬉しそうに輝いているのだから。
そんなルミノに苦笑いする未兎に対して、操はさも普通のこととして受け止めている。
「ハハッ、男にもずいぶん慣れたみてぇだな」
「あの舞台の高さなら……はい」
乱入防止のために階段等も設けられていないため、ルミノも安心できるらしい。観客の反応も良く、鳥越学園出身ということで基礎能力もある。ただ、女優科であるため専門は演技だ。歌も踊りもそれほど得意ではない。それゆえにPASTは、一先ず目立たないバックダンサーとして保護することにしたのだろう。ゆえに、TRKのメンバーとしても、できる範囲で。壇の高さによって隔てていればともかく、はぐサーやサイン会は難しいので、それについては除外している。このような細やかな配慮ができれば、ファンムードとも迎合していたに違いない。ただ、出演者の弱みを握って自社の都合を強制するのがあの会社の常套手段である。ルミノがこうして笑顔でいられるのは、女のコに寄り添うこの劇場であるからこそだ。
しかし、希はルミノの痴態自体を隠したかったに違いない。何故なら彼女の母親は希の姉――つまり、ルミノは希の姪ということになる。ただ、ルミノも『希さん』――芸名で呼んでいたことからも、かなり疎遠だったようだ。それでも気にかけていたのだから、それなりの縁はあるのだろう、とプロデューサーは考えていたが――霞はまだ何か明らかになっていない家族関係があるのでは、と予感している。
そんな思惑とは無関係に、ルミノと紫希、それに操は流出動画に見入っていた。それはまさに、杏佳が校舎裏で見た光景――とはいえ当然、杏佳が撮影したものではない。別の日に、別の誰かに対して似たようなことをしていたことは、まさに歩の想像通りだったらしい。
「うーん……やっぱ下の毛は剃った方がカワユイかなぁ」
同性の性器を見ながら、操は自分の身体について考察する。
「生えてる方がエロくない?」
「いや、エロさじゃなくてカワユさを目指してるんだよ」
操と紫希の間には少々食い違いがあるようだ。
「けど……それを録画して芸能事務所に売るんだから許せねぇ野郎だな」
操は男に対しては本当に容赦がない。おそらく、先日乱入してきたのが女ではなく男だったら、本当に病院送りにしていたことだろう。
「どんなちんぽだったか覚えてる?」
ルミノは、紫希が『男』を『ちんぽ』と呼ぶことをまだ把握していない。
「それが……この人だけ、おちんちん見せてくれなくて……」
ひと気のない校舎裏であることと、突然見せられた想い人の痴態に、ショックのあまり放心し――自分をオカズにしろ、と書かれたボディメッセージに突き動かされるように――その場で致してしまう男子がほとんどらしい。
操は紫希の呼び方を承知しつつ、あえて言葉通りの意味で話を続ける。
「でもよ、逆にそれならツラの方は覚えてんじゃねぇか?」
「それはもちろん……えーと、吉坂先輩っていう、三年生の……」
「吉坂稔ッ!?」
と、真っ先に反応したのは未兎だった。
「う、うん……そうだけど……」
気圧されているルミノの横で、未兎はひとり納得して頷いている。
「あンのクソガキ……そうね、たしかに鳥越に通ってたっけ……ッ!」
その男性アイドルの撮影した動画がファンムードの自社から拡散されたのだから、何らかの裏のつながりがあってもおかしくはない。
「おっ、なんかクソ野郎がいるのか? やったれやったれ♪」
詳しい話はわからないが、男嫌いの操は男をとっちめる算段と察してノリノリで喜んでいる。
だが、誰よりも喜んでいるのは――
「……なるほど……今回不祥事を起こしたファンムードと松塚が……ね」
霞は何やら悪い顔をしているが、プロデューサーはあえて止めない。未兎のためにも。
そこに水を差すような呼び出し音が卓上の電話機から鳴り響く。これは外線の着信音だ。また避難を希望するファンムード系列の者に違いない。即座にテンションを切り替え、無意識に対応しようとしたプロデューサーの手に割り込むように霞が受話器を攫う。
「はい、TRK事務局です」
だが――
どうやら、今度はこれまでの相手とは異なるらしい。相槌を打つ霞の表情から、何やら深刻な用件であることは窺える。
そして電話を切った。短いやり取りだったが、重大な事案が降り掛かってきたらしい。
「社長、至急の面会です」
営業に関しては霞が一手に担ってきた。おかげで、プロデューサーは女のコたちのプロデュース方針の検討に注力できている。なので、自分に話が通されるのは地味に久しい。
「どなたでしょうか」
霞はプロデューサーのスケジュールをすべて把握している。ゆえに、予定を組み入れる際にそれ以外の事情は一切考慮しない。
「本日十二時より、先方の本社ビルにて――」
これから一時間後なのだから、よほどの急用である。そして、そんな無茶を押し通してくるのは――
「天然カラーズ社長、相馬様とです」
間違いなく、希の件だろう。ならば、プロデューサーとて断る理由はどこにもない。
***
どうやら相当切羽詰まっているようで、すべての予定をキャンセルしてでも、最優先で会いに来い、と相馬氏は言っていた。というより、怒鳴り散らしていた。希の身に何があったのか、プロデューサーとしても不安になってくる。
その場で会えれば良かったが、社長室へ赴いてみると、そこにいたのは社長だけだった。だが、明らかに様子がおかしい。いつもの余裕めいた笑顔はなく苛立ちを顕にし、髪も服も乱れている。外見を取り繕う余裕さえないようだ。
そして、案内してきた秘書を乱暴に部屋の外へ追い出すと、着いたばかりの来客に向けて苦々しく毒づく。
「貴様たち……ファンムードを潰しやがったようだな……」
「はぁ……」
潰すよう提案してきたのは相馬氏の方のはず。ゆえに、それは本人も承知の上で。
「ああ、ああ、わかってる。貴様らの言いたいことはわかってる。俺が言い出したことだって言いたいんだろ? だがな……」
落ち着かずに部屋の中をうろついていた相馬社長は、腹立たしげに傍の机に握り拳を叩きつけた。
「やり方くらいは考えろ!」
「やり方……?」
このような陳腐な威嚇でたじろぐほどプロデューサーたちもヤワではない。ただ、もしかすると、何らかの落ち度はあったのかもしれない、と考えを巡らせていた。が、結論を待つことなく、社長は矢継ぎ早に攻め立てる。
「本社の犯罪暴いちまったら……警察が図に乗るだろうがよ!」
「!」
それは想定外だった。もっとも、ファンムードの自爆なのだが、それを誘発させたことには違いない。
「貴様らがやらかしたツケを……見せてやる」
相馬社長は卓上からリモコンを掴み取るとモニタに向ける。そして、再生ボタンを押した。すぐに流せるよう、準備していたらしい。座るよう促されていないし、相馬社長本人も立ったままであるため、プロデューサーたちは少し上から画面を見下ろしている。
「これは……政見放送でしょうか」
「国営じゃねぇ。民放だよ。そもそも選挙までまだあと何ヶ月あると思ってんだ、アホ」
これまでの紳士ヅラがすべて剥げ落ちている。これが、相馬社長の本性のようだ。
しかし――
「……こ、これは……ッ!?」
社長の変わりように気を取られて気づくのが遅れてしまったが、たしかに民放のようだ。しかし、熱弁を振るっているのはまさかのテレビホープの局長――蛯川氏――ッ!
『今回、いたいけな少女が被害に遭い、さらには取り返しのつかない心の傷を負わせたのです!』
被害者の心境を代弁しているつもりらしいが、当のルミノは退学についても動画流出についても何とも思っていない。むしろ、楽しんでいるフシさえある。
それにしても、あの蛯川氏が……何故……? しかし、よく見ると肩書きは『テレビホープ局長』ではない。
「『キッズ・ガーディアン 代表』……ッ!?」
「フン、貴様でも知っているか」
「ええ、まあ」
それでも、“家庭の事情”で、とまで口にすることはない。
「アイツは、子供の人権を守るって団体の代表なのさ。ハハハハッ、立派な志じゃァありませんかッ!」
相馬社長は一周回って普段の口調に戻っている。だが、カラカラに乾いており、まるで張子の虎のようだ。
一方、蛯川氏の主張はますます熱を帯びてくる。それは、自分の正義にまったくの疑いを持たないからこそ。
『自己責任の成れの果てがこの事件なのです! やはり、子どもたちは我々大人が社会的責任を負い、未来を護っていかなくてはなりません!』
この発言にはプロデューサーも背筋が凍る。行き過ぎた自己責任主義の反動については常に頭の片隅にあった。それを爆発させてしまったのが――あの事件だった――だと――?
「よく聞けよ、ここからのヤツの壮大な寝言をな」
だが、社長自身は画面から目を逸らす。どうやら、自分は訊きたくないらしい。
『よって我がテレビホープは、今後……学生の出演を自粛いたします!』
「!?」
成人として認められている学生まで――あまりに行き過ぎた保護政策に、プロデューサーと霞も戦慄する。そしてそれは、アイドル事業を束ね、芸能界に乗り出そうとしていた相馬社長にとっては致命打以外の何物でもない。何しろ、アイドルの多くは学生だ。それを画面から排除するというのは――もはやアイドルそのものを滅ぼすに等しい。
何より、そのように推し進め、行き着いた末に巻き起こされたものこそが『歌舞伎町クライシス』であり――まさか局長は、あの悲劇を再び繰り返すつもりなのだろうか――!?
「このジジィ、頭おかしいだろ……ッ! すべてのアイドルが悪い大人たちに無理矢理やらされてるとでも思ってんのかッ?」
そう吐き捨てる相馬社長だったが――それはまさに、当の本人がファンムードに対して断じていたことでもある。彼らの作品は、人としての良心に反する、と、他人の良心を勝手に定義して。
そして、その自己中心性はそれだけではない。
「だが、ヤツを調子に乗らせたのは、貴様らだってのを忘れるなよ……?」
社長はプロデューサーたちを睨みつける。
「こちとら、ファンムード潰した後は“子会社”に規制対策は任せるから大丈夫っつーて、茶豚から許可もらってたんだからなッ!」
茶豚――茶蓋―――ブラウンキャップ――相馬社長率いる天然カラーズの親会社である。いわゆる蔑称的ネットスラングで呼んでいるところからも、愛社精神は感じられない。
そして、目の前の部外者に対しても。
「子会社……まさか……ッ!?」
それが、TRK劇場のことを差すというのなら――ッ!
「残りのビッチ共はテメェに預けるってゆったろーが」
新歌舞伎町に残る天然カラーズキャストたちの面倒をみて欲しい、という話は聞いている。が、子会社化については別件だ。が、相馬社長の中では、そこまで決定事項だったらしい。おそらく、キャストたちの環境を保証するためには、自分たちの傘下に入った方がやりやすい等と押し通す形で。
だが、それもすべて潰えた。
「規制は進み、肝心の“アホ女”はライブで裸踊りかましやがって……ッ! 俺にはもう何も残ってねぇんだよ……ッ!」
動物園のクマのようにせわしなく歩き回っていた相馬社長だったが、己の状況に堪えたのか、ソファにドスンと腰を下ろした。
そして、頭を抱えて。
「何が、アダルト業界からの救済だ……ッ、自分から踏み込みやがって……頭のネジぶっ飛んでんじゃねーの?」
「いえ、それはファンムードに……」
「だったら、少しは被害者ぶりやがれ! スッポンポンのまま最後まで踊り通したって話じゃねーか!」
それは、途中で止められない企画だったから、ということもあるだろう。アイドルとしての矜持を貫いた、とも。だが、それらはすべて第三者の憶測に過ぎない。やはり、本人の口から真相を聞くべきだ。
「相馬社長……憐夜希氏の所在はご存じないでしょうか」
「知らねぇよ。一発ヤッたし、もうあんなカス使い道ねェ」
「社長……?」
ここまで下手に出て聞き流していたが、女性に対してこの言い草は聞き捨てならない。その怒りを察知した霞が別の話題で割って入る。
「しかし、一民放がそのように言い出したところで、他の二局が続くでしょうか」
「続かざるを得ないように仕向けてんだよ。あの、天下のテレビホープ様がな……ッ!」
画面を睨みつける相馬社長の視線に釣られて、ふたりはテレビを見る。だが、そこに映っていたのは――
『氏は、今度の選挙戦に立候補予定の、この問題に詳しい――』
「!?」
ここまでも、驚きの連続だったといえる。
だが――
「見ろよ! 政治の世界にまで持ち込みやがって、マジのガチだぜ!」
プロデューサーは――
社長は大声でがなり立てているが、その耳には届いていないだろう。
画面の方こそ見ているが、おそらく目には入っていないだろう。
“ふたり”が――最後に顔を合わせたのは――もう、五年以上前のこと――
だが――それでも、その顔を忘れることはない――
フラフラと後ずさり、プロデューサーは背後のソファに躓いてその上にボスンと腰を落とす。
真っ青になっている上長の顔色に気づき――
「御社はこの問題について、どのような対策を?」
踏み込まれる前に、霞はすぐさま相手に踏み込んだ。
「これからだよ。っつーか、うちだけじゃどーにもなんねぇ。そもそも、茶豚の方が死活問題だろうよ」
そこはアイドル事業を預かっている総本山であり、キャストの八割以上は学生である。それが、三つしか残されていないキー局のうちのひとつが事実上の出禁宣言となれば、事業そのものが傾きかねない。しかも、局長自ら次の選挙の立候補者を担ぎ上げているのである。世論を導くことは容易であり、この時点で確実なる当選は疑いようもない。
「これから本社で緊急会議だッ! これは貴様が撒いた種だから、貴様が何とかしておけよッ!」
そんな捨て台詞を吐くと、あとは勝手に帰れ、と言わんばかりに相馬社長は部屋から出ていった。現在もテレビの中では児童労働の問題について延々と講じているが、霞は黙ってテレビを落とした。
ありきたりな苗字であったためこの場で相馬氏が気づかなかったのは霞たちにとって僥倖だった。しかし、プロデューサーのこの動揺――そして“顔立ち”――調べればすぐに行き着くことだろう。
「社長、もしや、先程の立候補予定者は……」
「……ああ、俺の――」
――父さんだ。
***
まだ陽が地平にかかりかけたばかりの静かに澄んだ朝靄の下で――彼は遥か頭上を仰ぎ見る。通りの入り口に掲げられた真っ赤なアーチには『新歌舞伎町』の文字。それはかつて、一度は取り崩されたもの。だが、こうして蘇った。
しかしそれは、萩名兵哉社長たち先人の努力があったからこそ。その安寧の揺り籠に甘んじてきたつもりはない。だが――今度ばかりは事が大きすぎる。
父は、新歌舞伎町のことを誰よりも愛していた。
しかし、愛深きゆえに、愛する街に背を向けた。
その父が、今度はアイドルの敵として戻ってきたのである。
彼の野望は確実に時代を逆行させ――歌舞伎町クライシスの再来――いや、日本全土で“女のコたちの輝きを奪うこと”になるだろう。
それを自分が、ここで食い止めなくてはならない。訪れようとしているアイドルたちの『悲劇』を喜劇の『クライマックス』とするために――
そんな、街を隔てる新宿両国通りの向こう側――
早朝のゲートを仰ぐ彼をそっと見守るひとつの陰があった。古びたビルに寄り添うように佇むその姿は白く、亡霊のようでもある。だが、そこに感じられるのは確かな生。ほんのりと胸の先を染める温かみと、静かにそよぐ腿と腿の隙間に茂る柔毛。二本の足で歩道に立ち、じっと彼と街を見つめている。
普段、この街は人に溢れており、人が途絶えることはない。だが、まるで無人の一瞬を切り取ったかのように、彼とふたりきりとなったそこに、彼女はいる。
――頑張ってくださいね。女のコたちの未来はきっと――貴方と、貴方を慕う女のコたちにかかっているんですから――
そう呟くと、彼女は誰に気づかれることなく踵を返して眠る街に背を向ける。それに合わせて――おとなしめな胸へと垂れ下がっていた二房の髪が、ふわりと円く舞いなびいた。