17話 高林霞
だって、しとれちゃんに『おかえりなさいませ』って言ってもらえないから――
その劇場は夕方から深夜までスケジュールが詰まっているため、他のイベントを開催するのであれば、その前となる。日曜日の午前中に設定された『めいんでぃっしゅ』による初のサイン会――なお、糸織が提案していた“パイ拓”については見送りとなったため、今回は普通にサインのみである。
「ほいほい、名乗りな、次のニーチャン」
糸織は軽快にファンの行列を捌いていく。
「ワタナベといいます! 『まじかる☆えりりん』の頃から応援してました! CDも持ってます!」
「ほー、古参やなぁ。今度ソロステージがあったら何か唄ったるで」
「ありがとうございますッ!」
糸織は歌い手時代にサインを求められたこともあり、このような催しも初めてではない。それに引き換え、慣れない歩はついサインばかりに集中してしまう。
「えーと、次は……」
「ほれ歩はん、名前訊かな」
「あー、そうなんだよねー」
転売防止のために名入れは必須だ。
「ミサキって言います! えーと……結構前から応援してました!」
隣のワタナベ君に対抗しているのか、女のコは応援経歴を声高に主張する。とはいえ、歩の芸歴は極めて短い。むしろ、活動を始めたばかりなので、ここで並んでくれているファンたちは――みんな、古参と呼ばれる人たちになってほしい――そのためには、末永く頑張らなくちゃ、と歩はホール外まで並んでくれている人たちを見て気持ちを新たにする。
その隣で、糸織は少々昔を思い出しているようだ。
「おっ、ニーチャンはこんきつねチャンネルからかい。何なら、『こんきつね』でサインしてやってもえーで?」
「そ、それは……!」
男性の糸織ファンは本気で悩んでいる。どうやら、こんきつねにかなりの思い入れがあるらしい。エロス具合でいえば、いまの劇場より動画の頃の方が激しかった。結局、男はエロいんやなぁ、と糸織はニヤニヤしながら葛藤している男性客を眺めている。見れば、続く列は男ばかりだ。それに引き換え、歩の方には女性ファンもそれなりの割合で混ざっている。
「ユイ、です……。応援してます……ッ」
「ありがとー。ごめんね、こんなカッコで」
「いっ、いえ! そのー……いい脱ぎっぷりでしたっ!」
歩たちも、最初は衣装を着て応対していたし、事前にもそのように告知している。しかし、蓋を開けてみれば歩の列がみるみる滞ってゆき――案の定の特例措置。バランスを取るために、結局三人ともいまは全裸で対応している。
「やれやれ、ええなぁ歩はんは。ウチも、一枚くらいおにゃのこにサイン書いてみたいもんやわ」
「お、男ですいません……」
列後ろからの早くしろプレッシャーに負けて、とっさに『しおり』を選択した男性客は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ま、ええねんええねん。ウチの客層の方が正常やさかい。ほなまたな。次のニーチャンは――」
「『えりりん』でお願いしますッ!」
すでに考えをまとめていたらしい。何年ものブランクがあったはずだがすんなりとサインをこなせるのは、密かに復習していたからか。
糸織は歩を羨んでいたが、歩も糸織が羨ましい。
「なーんか、カッコイイなぁ、別名があるの」
『まじかる☆えりりん』『こんきつね』――この劇場でも、『MMW』としてステージに上がる際には『まいど』を名乗っている。歩は歌も踊りもトップスキルを持っているが、使い分けられるほど器用ではない。
「私も、何か別名義とか二つ名とかほしいなぁ」
「欲しけりゃ勝手に名乗ればええねん。けどな、それよりも……」
糸織はチラリと反対側を覗き見る。おそらくこれまで書いてきたサインの数なら“彼女”が三人の中ではダントツのはずだ。
「『メイド☆スター』は業界から認められた称号みたいなもんやからな。ウチの自称とはモノがちゃう」
「うん、やっぱりスゴイよねぇ、しとれちゃん」
そのしとれだが――目の前の来場者を見上げてピタリと手を止めている。
「……しとれちゃん?」
「あっ、は、はい、お呼びでしょうか、歩さま」
「サインサイン」
そう長い時間ではなかったようだが、しとれはペンを片手に固まっていたようだ。
「もっ、申し訳ありません、ご主人さま。すぐにご用意いたしますので……」
どうにも、ファンの間ではいつから応援していたかがステータスになっているフシがある。その男性客は、メイド喫茶の頃からの常連だったらしい。お店の方もよろしくお願いしますね――しとれにとって、それは軽い社交辞令のつもりだった。しかし――彼はもう、喫茶の方には行っていないらしい。何故ならば、そこにしとれがいないから。
それを聞いて、しとれは――自分がしてしまったことの罪深さを思い知る。頭上に戴くヘッドドレスはメイドの魂――全裸であっても、それだけは守ってきた。しかし――肝心のメイド喫茶は――。メイド☆スターと称えられながら、やっていることは、メイド喫茶からの客引きに等しい。そんな自分に、メイド☆スターなどと名乗る資格はあるのだろうか。いや、むしろ『スター』などと呼ばれること自体――
ならば。
「……ありがとうございます、ご主人さま」
店長には、再びご奉仕の機会を与えてくれたことに対して恩義がある。だからこそ――自分が守らねば、と決意した。突如現れたライバル・アイドル・ユニット『PAST』――本来メイドは、情勢の深くに立ち入るべきではない。しかし、自分はただの“メイド”ではなく“メイド☆スター”――このプロジェクトを、劇場を、先頭に立って盛り上げていかなくてはならない立場にある。
だから――それを思い出させてくれた店長のためにも、やらねばならないことがあるはずだ。
***
プロデューサーに同席する秘書役は、スケジュールの空き具合を見て各自に振り分けられている。サイン会から一夜明けた翌日――その日は朱美が入る予定だったが――当人同士の話し合いによって――控室の一角の応接間――いまはしとれがここにいる。いつものメイド服を着てきた上で。
「よろしかったのですか? 今夜はステージも入っておりますけれど……」
「いえ、私に同席させてください」
リハーサルをキャンセルしてでも――それは、しとれにしては珍しいことだった。けれども、今回の面会は自分が立ち会わなくてはならない、としとれは急遽この役割を買って出たのである。
ただ、それは来客にとって想定外の事態だったらしい。
「せっ、先輩が……どうして……っ?」
来客が訪れたのは時間ちょうど。ノックと共に入ってきた。ひとりは、話題のプロデューサー・憐夜希。そして、それに付き従うのは――
「私からご紹介した方がよろしいでしょうか、店長。それとも……」
「いえ、彼女については存じております」
頭上にまとめられた小さなツインテールは、いまは解かれている。服装も一般的なブラウスにパンツルックだ。それでも、彼の記憶に新しい。一度は、TRKに応募してくれた女のコなのだから。
さて。
突然のアイドルユニット結成――PAST――それは、カメラの前で脱いできた女子二名によって結成されている。だが、ずっとふたりだけで終えるつもりはないらしい。新歌舞伎町には裸の女のコが多数ひしめいている。その中で、裸の人生からの脱却を願う者を従え――まるでハーメルンの笛吹きだな――それが、彼の印象であり――ゆえに敵対表明として受け止めている。
だからこそ、こうして対談の場を設けたのだ。事情を説明したい、という相手の意向を受け入れて。ゆえに、彼女は折り目正しくビジネススーツでやってきている。お互い、アイドルユニットを受け持つプロデューサーという立場として。
出されたコーヒーに一口つけて、希は相手に対して謝意を示す。
「……驚かせてしまったでしょうね」
憐夜希――ライブアイドルとして人気を博しながらも本業があるから、とデビューの話はすべて断り、自由気ままにアイドル活動を行ってきた。先日、天然カラーズとの交渉に巻き込む形で先方の社長・相馬智之との間を取り持ったが、まさか希本人のデビューではなく、プロデューサーという形となるとはあまりにも予想外である。
一方で、希にも別の予想外があった。
「本人がついていきたいと言うから連れてきたのだけど――」
希も、“彼女”がかつてメイド喫茶で働いていたことは知っている。なので、メイド☆スター・檜しとれと知り合いでも驚きはしない。意外だったのは――その、しとれ側の反応だ。普段から連絡を取り合う仲だとも聞いている。にも関わらず、あまり友好的には見えない。
ゆえに、これは希の誤算だ。こういうところで無茶をするようなコではないと思っていたのだけれど――PASTは急造のユニットだけに、意図しないところで不和が起きてしまったようだ。本当に、今日は事情を説明しに来ただけだというのに。
とはいえ、このセッティングには“彼女”自身も驚いている。肩をすぼめて、キョロキョロと視線も定まらない。これでは、話し合いにも支障を来す。
「――先に帰っていてもいいけれど」
希の一声に“彼女”はビクリと身を震わせた。しかし、プルプルと大きく頭を振る。
「い、いえ……あたし、まだ――」
――まだ、やらなきゃいけないこと、できてませんから――。打ち合わせにしては少々大きめのボストンバッグ――その中に、“すべて”は収めてきた――けれど、いまはこれだけ。“先輩”から教わった――メイドの『魂』だけ――
湊はカバンの中から白いレースのあしらわれたカチューシャ――ヘッドドレスを取り出す。それは、他でもない先代から教わったこと。どんな奇抜なメイド服でも難なく着こなす先輩に、どこからどこまでがメイド服なのか、と尋ねた際――これこそが、メイドの『魂』なのである、と――
彼女は弱く、小さく、あまりに未熟。だが、しかし――
「……まあ、アナタだって曲がりにも『メイド☆スター』だものね」
『“二代目”メイド☆スター』橋ノ瀬湊――しとれがメイド喫茶『|Cheese O'clock』を去った後、その名を襲名したのは彼女だった。
しかし――自分に実力が伴っていないことは湊も重々に自覚している。ゆえに、初めから彼女の中に喜びはなかった。ただ、先代の名に恥じないよう――それだけを考えて。
しかし、事あるごとに先代の歌唱力と比較され――それどころか、流出動画のような“裏の顔”まで疑われる始末。結局のところ、二代目に求められていたのは歌や踊りよりも、集客のための旗振り役と――先代の汚名に耐えるだけの精神力だったのである。
それでも、メイド喫茶界隈には『メイド☆スター』の存在が必要とされていた。ゆえに実よりも名を――二代目メイド☆スターとして名を広めるために開催された『メイドフェス5』だったが――まさかの初代の帰還によって、もたらされたものは、むしろ、初代の偉大さだけ。そして、ステージを共にすることで湊は悟ったのである。メイド喫茶にではなく、“自分自身”にこそメイド☆スターが必要だったのだと。
そのためならば、裸になることさえ厭わない――そんな覚悟をもって臨んだTRKへの応募だったが――添付されたストリップ動画はむしろつらそうであり、プロデューサーはそこに<スポットライト>を見出すことはできなかった。ゆえに、加入は見送りとなったが――自分には覚悟が足りなかった、と天然カラーズ傘下の『花丸動画』に参加。そして、初めてのMVを観た希によって、その可能性を見出されたのである。
明らかにTRKと敵対するコンセプトに、湊の中でも最初は戸惑いもあった。しかし、拒まれてしまったのなら、こうするしかない。自分が先輩に近づけないのなら、先輩の方から自分に近づいてもらうしか――
しかし、湊には自分だけで先輩を引き抜くだけの力量を持たない。ゆえに――『今日の打ち合わせの後、お時間をいただけますでしょうか』――希プロデューサーと一緒に説得すれば、少しは話を聞いてくれるのでは――そんな甘さは、当の本人によって打ち砕かれた。話し合いを拒むつもりはない。だが、それはプロジェクト責任者たるプロデューサーを交えた上で。
希も湊の目的は聞いていたので――裏目に出たのだな、とため息をつく。だが、あえてこのまま話を進めることにした。『メイド☆スター』の顔を立てる意味でも。
「ワタシとしても最初はね、在籍はしないまでも、たまに協力くらいしてやってもいいかな、くらいの距離感のつもりだったのよ」
それは、TRKと同じように。だが、相手は天然カラーズ社長である。それで終わらせない策を用意していた。
「けどアイツ、最初からワタシ自身をデビューさせるつもりはなくて――」
必ず断られるとわかっていたのだろう。
「ワタシ“に”アイドルをプロデュースしてほしいって言い出したのよ」
それは、希にとっても意外だった。ゆえに、惹かれたという事実もある。
「……ねぇ、アナタたち、このままでいいの?」
「このままとは?」
彼も、TRKをこのままにしておくつもりはない。何より、“この劇場の本当の持ち主”からの約束もある。メンバーを二十六人集めたとき、この建物を正式に譲り渡そう、と。
だが、希の野望は箱ひとつ、この街ひとつでは収まらない。
「ストリップなんてやってたら、いつまで経ってもここに押し込められたままじゃない。もし、“彼女たちを一旦預けてくれる”のなら、アナタにプロデューサーの座を譲ってもいい、って思ってるの」
「“預ける”……ッ!?」
TRKのストリッパーたちは漏れなく裸になってきた。PASTへの加入条件は全員満たしている。つまり、自分たちを吸収し、いや――
「アナタたちはいまこそ、“表舞台に立つべき”だわ」
希が相馬社長の案を呑んだ目的は我欲でも敵意でもなく――TRKとメジャーレーベルの橋渡しのため――!
だが、しかし。
「それは、できません」
彼は誰もが知るとおり、女性に弱い。それでも、彼はきっぱりと拒絶した。彼が女性に対して強く言えるとき、それは――
「……つまり、アナタたちは、こんな劇場ひとつで終えるつもりなのね」
一般部門も設けると聞いていたのに――少しこの男を買いかぶっていたか――あまりの見込み違い――様々な失望に、希の中で怒りがこみ上げてくる。それは、矛先を向けられていないしとれどころか、隣に座っている湊さえもすくみ上がらせるほどに。
だが、これに彼は正面から向かい合う。
「そうとは言っていません」
「言ってるわよ」
すぐさま畳み掛ける希に、彼は少しだけ間を置いて。
「そうかもしれません」
「どっちよ」
馬鹿にしているのか、と希の怒りは目に見えて増した。しかし、それでも彼が女性に呑まれることはない。何故なら、彼はもう迷わないと決めたのだから。
「それは、瑣末事だと申し上げているのです」
彼が女性に対しても一歩も退かないとき――それは、自分の背後に守るべき女性の存在があるときだ。
「私が願うのは、メンバーたちの<スポットライト>を人々に届ける――ただ、それだけです」
いまは、この劇場のステージ立つことが、彼女たちを最も輝かせる――そして、その枠に収まらないようなら、必要に応じて然るべき世界に旅立てばいい――だが、メンバーの多くはこの劇場でなくては輝くことはできない――いや、この劇場でこそ、最も美しく輝くことができる。ならば、まだ旅立つときではない。それだけのことだった。
しかし。
「そのスポットライトとやら……輝ける期間は短いでしょうね。それは、普通のアイドルよりも、ずっと」
希がアイドルデビューの話を蹴ってきたことには様々な理由がある。そのひとつとして――アイドルとは、永遠ではないからだ。多くの場合、一定の期間を積み重ねれば、女優や歌手への転身を余儀なくされる。ならば、地に足の着いた職を持ちたい――いつかくる、ライブアイドル引退の日のために。
だからこそ、希は懸念する。この劇場で脱いできた踊り娘たちは、この後どうするのか。いまは良い。しかし、近い将来、ストリップアイドルとして通用しなくなる日が来るだろう。そのとき、何らかの足がかりがあれば、アイドル以外の何かにつながるかもしれない。だが、この風俗街でのつながりとなると、著しく限られている。それを承知で、その場限りの<スポットライト>とやらのために若さを消耗させるというのか。
希の言い分は、彼にもわからなくもない。ただしそれは、女性性のほんの一部にすぎない、と考える。
「いえ、どんな形であれ、<スポットライト>は永遠に輝き続けるものですから」
いまは、脱ぐことで感じられることが多い。しかし、それだけではないはずだ。彼には、メンバーたちにアイドルであり続けて欲しいという願いはない。ただ、いまはアイドルであることが最も輝かしいだけのこと。他のことで輝けるのであればそちらで輝いてほしいし、何らかの形で輝くものと信じている。
だが。
希には、彼の思いが疑わしい。彼の言う<スポットライト>という概念を適切に理解できないこともあるが――結局、この男の目指すところは、女のコたちの成長ではなく自己満足――自分の手の届くところで好きにしたいだけではなかろうかと。
ならば、プロジェクトを解体させてでも――だが、最低限の仁義は通す。それは、自分が押し付けたことゆえに。
「じゃ、ひとつだけ警告してあげる」
それは本来、“取り下げる”つもりで来た。先月、歩の不在中にボーカル役として協力したツケがある。それに加えて、天然カラーズとの交渉にも同席した。それらを合わせてもなお、今回の件は“足が出る”。友好的な関係であれば、今後埋め合わせることもできたかもしれない。しかし、こうして決別したうえ、敵対意思を顕にしたのである。ゆえに、かけるべき言葉はひとつだけ――それ以上の情けはない。
「こないだ、お願いした代替バンドだけど……ぶっちゃけ、アナタたちの手には余るわよ」
「…………」
どのような意味で言っているのか、それを問うても答えてはもらえないのだろう。そして、希の方も訊かれたところで答えるつもりはない。だから、一方的に情報の断片だけを残す。
「普通のバンドと同じだと思って自分たちで何とかしようとしないことね。ちゃんと専門の運営に入ってもらわないと……大変なことになるわ」
希にこれ以上話すことはない。
「ワタシの目的は変わらない。やると決めたことは必ずやり遂げる。それだけよ」
スッと席を立つと、湊は慌ててノート端末の蓋を閉めた。しかし――先輩と何も話せていない、と湊は焦る。むしろ、両プロジェクトの溝は決定的なものとなってしまった。本当は、友好的な形で一緒になれたら良かったのだけれど――それでも――湊は思う。自分には、先輩が必要なのだと。だが、それだけではなく――
「せっ、先輩っ!」
希はすでに背を向けている。ゆえに、長く時間はかけられない。
「メイド☆スターは肩書きじゃありませんっ。メイド☆スターは先輩であり、先輩がメイド☆スターなんですっ!」
もはや、湊自身何を言っているのかわからなくなってきた。しかし、その迫真の表情が説得力を懐く。
「二代目なんてないんですっ! 先輩でないと、メイド喫茶には先輩がいてくれないと……っ!」
それは、メイドによるメイドからの訴え――だからこそ、しとれは無視できない。
「でも、私はもう――」
TRKプロジェクトの先頭を走る者として――
「先輩はいまでもメイドですっ! メイド☆スターです! だって――」
――メイドの魂をいまも掲げているのだから。
ボロボロと泣き出してしまった湊は、もう言葉を紡ぐことはできない。ゆえに、希がこの場を締める。
「安心しなさい。ワタシが『メイド☆スター』を引き上げてあげるから。他のメンバーと一緒にね」
古くいかがわしい小さな泥舟から――そう言いたげに、希は控室の扉を開く。それに続いて、湊もまた、涙を拭いながら。
ふたりの来客が去り――重苦しい空気が部屋にのしかかる。湊を泣かせたのはプロデューサーではない。だとしても、女のコを悲しませることは、彼にとって心を痛ませる。そして、その原因となったのは――
「……後輩が失礼致しました、店長」
湊とは堂々と向き合うつもりでこの場に同席したが、このような形となってはむしろ逆効果だったかもしれない。それに何より――私は、メイド☆スター――メイド喫茶を貶め、それでもなお求められ、拒み、また迷惑をかけている。
そして、今度はそんな自分を拾ってくれたこの劇場にまで――本当に自分は、皆から望まれるようなメイド☆スターなのだろうか――。いまは、胸を張ってそういえる自信はない。だからこそ、証明したい。PASTから、この劇場を守り切ることで。
***
それは、放たれた矢のように。しとれは即座に馴染みのイベント運営会社との打ち合わせの場を取り持ってくれた。元メイド☆スターとしての顔も利いたのだろう。その当日の夜に、新宿郊外のファミレスで話を聞いてもらえることとなった。
しかし――とにかく、早くしなければ――彼女は、本当に焦っていたらしい。しとれはこの後ステージが控えている。紹介した本人が同席できないことを思い出したのは時間を決定した後のこと。無理を言ってねじ込んでもらった以上、改めてずらすことも叶わない。
ならば、誰が同伴するのか。彼はひとりでも大丈夫だと言うが、相手は女性だと聞いている。甘い彼のことなので、とんでもない条件を飲まされかねない。その点においてのみ、彼はメンバーからまったく信頼されていなかった。
とはいえ、夜のステージと時間が重なっているため、出演者たちは動けない。また、現在学生は夏休みの真っ最中のため、カラオケボックスは大変混み合う。バイトのシフトを動かすことも難しかったが、そこは糸織が何とかしてくれた。
しかしその結果、秘書役として白羽の矢が立ったのはよりにもよって――
「……ったく、なんでオレがこんなことを……」
やっぱカラオケボックス住みに釣られるんじゃなかったぜ、と操はぼやく。しかし、ここを住処とすることは彼女にとって都合がいい。大学まで通いやすいということもあるが――彼女はTRKだけでなく、『ハニートラップ』という天然カラーズ傘下の事務所にも所属している。そことの打ち合わせも新歌舞伎町で行われるため、そちらの方にも通いやすい。しかしそのためにはカラオケ店のバイトとしても雇用契約を結ぶ必要がある。そして、今夜もシフトが入っていた。が、カラオケ店スタッフとしても直近で入ったばかりの新人であるため――TRKメンバーではない一般人に急遽シフトに入ってもらい、代わりに誰が抜けるかといえば当然の選択か。
プロデューサーの秘書役は持ち回りである。良い経験になるだろう、と今回は操が任命された。
とはいえ、肝心の彼女にこの仕事を覚える気がない。
「先に言っとくけど、メモ係なんて期待すんなよ。オレはレポート書くのだって苦痛なんだからな」
「は、はい……」
どうやら、体育会系の見た目に反しない中身のようだ。ただ、期待されているのはそのような細々とした書記係ではなく、女性に対して弱腰になっているのを察したら喝を入れる役なので、その点については問題ないだろう。
さて。
打ち合わせとして選ばれたのは劇場から徒歩一〇分ほどのファミレスだった。新歌舞伎町に面しているが、彼のカラオケボックスと同じく道路一本隔てた外側にある。さすがに、表の企業に夜の暗黒街で打ち合わせを、とはいえようもない。
「何だよ。この時間なら飲み屋の方が元気いいじゃねーか」
どうやら、操にはこれが仕事であるという意識はまったくないようだ。それは、彼女の“見た目”からも明らかである。彼女の仕事のオンオフは極めてわかりやすい。初めて会ったときは、仕事として。ツインテール――の片方――と、眼鏡――は外れていたが――ともかく、それがアイドルとしての彼女だ。しかし、それらはあくまで仕事用の変装のようなもの。平時の操は、パーカーにストレッチパンツ。眼鏡も伊達であるため視力は良く、髪の毛も――ウィッグが着けられるくらいの量はあるが、それでもさっぱりとしたシルエットだ。すでに女子としての中身も見ているが、服を着ているとなおさっぱりしている。凛々しい瞳を和らげるために仕事中は眼鏡を掛けているようだが、太く力強い眉毛の方はいじっていない。本人曰く、男はそんな細かいところ見ていないから。ミーティングと無縁な私物の詰め込まれた黒のショルダーバッグも機能性を考えて少し大きめのものを袈裟懸けにしている。これでは、男子と間違われるのも無理はない。
オンオフで雰囲気を変えているのは、あくまでその両者を結びつけてほしくないから、とのこと。実際、大学ではアイドル活動について伏せている。普段の“可愛らしくない”所作は、アイドルとしてマイナスにしかならない、と自覚しているらしい。ゆえにいつか、別の機会に可愛くなった自分に出会い、自分だと気づかず欲情してくれることを期待して。
だからこそ、操の様子はまさに普段どおりである。彼にとって、ステージにて<スポットライト>を輝かせてもらえるのなら、その外でとやかく言うことはない。とはいえ、少なからず気を緩めすぎではなかろうか。
「飲み屋は元気すぎて……声も通りにくいので……」
できれば喫茶店が良かったが、この頃合いとなると閉店時間が心配になってくる。何より、その店は先方の社屋から近く――これまで何度かしとれ自身が打ち合わせに使ったことがあったので、そこを指定したらしい。ならば、そこが一番なのだろう。
「こちとら、仕事のつもりはねぇぞ。全力で食わせてもらうからな」
「はい……ええ」
実のところ、彼は操を連れて歩きながら、少なからず萎縮していた。彼女はこれまでのメンバーとは少し毛色が違う。何というか――どことなく、怖い。
というのも、操は男全般を蔑んでいるフシがある。空手の腕っぷしなら並みの男たちより断然強いのに女というだけで甘く見られ、それどころか、『男女』だの『絶対“生えてる”』だのバカにされ続け――なのに、裸になれば掌返し――決して、それらは同一人物ではないのだが、操にとっては同じ“男”である。結局のところ、男って生き物はその程度の輩なのだと見下しており――それは、プロデューサーとて例外ではない。裸になって猫を被っている――むしろ、狼の皮を脱いでいると表現した方が適切か――そのときに放つ<スポットライト>は本物だ。しかし、ステージの外では狼の牙が常に突きつけられている。
ゆえに、彼の方から無駄に言葉をかけることはない。操の愚痴を適宜いなしつつ、ふたりは目的の店へとやってきた。駅から見て風俗街の向こう側、という立地もあり、幸いながら待っている先客はいない。相手方もまだのようなので、先に四人席を押さえておくことにした。
席に着くと、操はノータイムでメニューを開く。
「ふっふっふ~♪ やっぱ肉、だよな~、肉。それをメガジョッキでガーっと流し込んでーっと」
店内の香りのおかげか、操の機嫌が良くなってくれたことは喜ばしい。だが、黒毛和牛のページを見ながらそのように呟かれると、少なからずもったいない気もしてくる。食べ方は人それぞれだし、今日は無理を言ってついてきてもらった。が、豪快な飲み食いは打ち合わせが終わってからにしてほしい――とは思いながらも、女のコには強く言えないプロデューサーであった。
なので、食事は仕事が済んでから、やんわりと頼んでみたところ、操はニッと笑みで返す。飲み放題もつけていいのなら、と。これで大人しくしていてくれるのなら安い買い物だ、と彼はむしろホッとした。
食い物は後でも茶くらい飲ませろ、と飲み放題だけは注文し、その後待つこと一〇分少々、ようやく相手もやってくる。店員に伝えていたからか、迷わず案内してもらえた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
女性だとしとれから聞いていたが、ずいぶんしっかりした体格である。けれど、決して肥満体ではない。それでも大きく見えるのは、堂々とした胸周りや高い身長だけでなく、肩幅も女性にしては広いのだろう。キリっとしたスーツの背中に垂れるのは長く真っ直ぐな後ろ髪。眼鏡の奥の眼光も鋭く、上から見下されただけでも大変な威圧感だ。
ただし、そんな容姿であっても、プロデューサーには関係がない。彼は、相手が女性であれば平等に弱腰になってしまうのだから。
とはいえ、先ずは挨拶を。彼はすぐさま席から立つ。
「本日は急なご連絡にも関わらず、お時間をいただきましてありがとうございます」
さっと懐から名刺入れを取り出すが、相手の女性は受け取ることなく静かに横へ一歩避けた。その背後には小柄の女性がひとり。歳は四〇代後半といったところだが貫禄はなく、大柄の女性の陰にすっかり隠れていた形だ。
「こっ、これはご丁寧にー……。私が天堂コンテンツ企画部部長の山田と申しますー……。こちらは秘書の高林でしてー」
その様子を窓側の席から眺めていた操は、思わず口に含んでいたコーラを鼻から噴き出しそうになる。どう見ても、先陣切ってやってきた方がボスではないか。にも関わらず、あっちのへなっちょい方が偉いだと? きっと、決定権は強そうな方にあり、あっちのオバチャンはただの操り人形に違いない――そんな失礼なことを考えていた。
プロデューサーもまた、操と似たような印象を受けていたが――それを見越した秘書の対応だったのかもしれない。名刺を出す前に上司を紹介してくれたことで、結果的に失礼をせずに済んだ。
だから、というわけではなさそうだが――本来上役が座るはずの奥側に、部下が。山田氏の方がチラチラと秘書の顔色を窺い、先に席へ着かせようとしていたようにも見えたので、きっといつものことなのだろう。もしかすると、複雑な事情のある上下関係なのかもしれない。
一方、プロデューサーが通路側に座っていたのは――そこに操を座らせると、飲み物のおかわりのために足繁く離席を繰り返すのではないか、と懸念してのことだった。せめて打ち合わせ中の飲み放題は自重してほしい。そんなわけで結果的に、マナーを度外視した席配置になっている。
これで、ようやく役者は揃ったようだ。時間も遅いということで、山田氏は注文より先に本題を切り出す。
「えー……しとれちゃんから……まー……簡単に話は……聞いております……がー……」
プロデューサーもまた、しとれから簡単に話は聞いている。『天堂コンテンツ』は比較的中小規模のイベント運営を得意としており、お世話になっているメイド喫茶も多いらしい。しとれは秋葉原にある様々な会場にゲストで呼ばれていた。そのたびに顔を合わせていたので、次第にお互い名前を覚えるほどの間柄になったのだという。
一方、天堂コンテンツ・山田部長がしとれから聞いていたのは、少々難しいグループを舞台に上げなくてはならなくなった、ということだけ。なので、先ずはその相手について詳しく聞かなくては始まらない。
「そのー……今回のバンドというのは、どちら様でしょうー……?」
「まだ駆け出しではあるのですが、『ミトックス』と申しまして」
彼女たちとは、希をスカウトする際に一度だけライブを観たことがあった。少し前に流行っていた古竹未兎というアイドルのコピーバンドである。まだ経験が浅いためスキルは発展途上だったが悪い印象はない。だからこそ、不思議だった。思えば、これまですべてのデビュー話を断ってきた希が交渉の席に着く条件として呑む程である。そのときはたまたまTRK事務所に対して頼み事があったためであり、これだけでツケを解消できるとはプロデューサーも考えていなかった。が、逆にそれでは重すぎる、と頼んだ本人さえ捉えている。ミトックスとは一体――? だが、希の表現に誇張がなかったことを、彼は部長の様子からも理解する。
「え、え、えー……ちょっと、よろしいー……で、しょうか……」
「部長」
席を立とうとした山田氏を、秘書が強く呼び止める。少しオロオロした部長だったが――やはりそのままフロアに立った。そんな上司に秘書はキツめに釘を刺す。
「こちら、檜氏からご紹介ということをお忘れなきよう」
「わかって……ますー……。ええ……わかってます……から……」
秘書に怖気づきながら、山田氏はプロデューサーにも離席を促した。どうやら、このようなことは頻繁にあるらしい。だからこそ、山田氏自身が通路側に座りたがっていたのだろう。秘書に、逃げ道を塞がれないように。
こうして、ふたりは店の外までやってきた。灰皿が置いてあるので、店外の喫煙所なのだろう。だが、そこに人はおらず、ふたりも一服しに来たのではない。
あたりに人がいないとわかると、山田氏はすぐさま――
「ごめんなさいっ!」
「ッ!?」
勢いよく頭を下げる部長に、プロデューサーは思わず後ずさる。
「か、顔を上げてください……一体、どうなさったのですか」
「ミ……ミトックスは……いえ、古竹未兎だけは……ッ!」
有無を言わさぬ勢いだが、これではプロデューサーも判断できない。
「……お話を聞かせていただけないでしょうか」
本来は希から聞くべきだったのかもしれないが、このような形になってしまって申し訳なく思う。
説明するために、山田氏はようやく顔を上げてくれた。
「古竹未兎の件は……あー……どこまで……ご存知で……?」
「すいません。昨年引退したアイドル、というくらいしか」
「そ、そうですね……芸能界……とは、違いますし……」
と断りを入れて。
「古竹未兎……未兎ちゃんの引退……の理由は……熱愛、だったのです」
「はぁ」
プロデューサーはその手の話に極めて疎い。
「しかし、よりにもよって……その相手……は、『松塚芸能』の……吉坂稔クン、で……」
「それは……随分大きな話だったのですね」
吉坂稔の名はプロデューサーも聞いたことがあった。人気グループ・SAQSのリーダーである。その程度の認識しかないプロデューサーはついのんびりと応じてしまったが、イベント運営に携わる者としては対岸の火事ではない。
「いやいやいやいや! 大きいだなんてモンじゃないですよ!」
その深刻さは、山田氏の顔色を見れば明らかなこと。
「SAQSも稔クンも社運を賭けたアイドル……なのに、ここで恋人発覚……だなんて……女性ファンたちが……大激怒、ですよ!」
「そ、そうなのですね……」
今後、人気が出てきたら自分たちも気をつけようと彼は思った。
事務所側による必死の消火活動について、山田氏は語る。
「そこで、未兎ちゃんが一方的に……言い寄ってるだけ、ってことで、決着させて……それでもふたりが……別れようとしなかった、ので……」
「……なるほど」
とはいえ、未兎の人気も捨てたものではなかったはずだ。実力もあると聞いている。ならば、事務所を追放されても引く手は数多に違いない。
だからこそ。
「以来、古竹未兎は芸能界の……禁忌。彼女に協力する者は……松塚さんの、逆鱗に触れることになるわけ……で」
「まさかそれは、彼女の歌を唄う者さえも……?」
歌と歌手は別物だと思うのだが。
「いえ、そういうわけではない……のですが」
ならば、コピーバンドが恐れられる理由がない。それについて、山田氏は一応の確認を挟む。
「ところで、そのー……ミトックス、についての噂は……?」
「そちらについても……申し訳ありません」
彼も彼女たちの活動自体は時折チェックしていたが、直近の情報は漏れていた。しかし、山田氏はむしろ腑に落ちたような表情をしている。
「はぁ、はぁ、なるほどー。そう……でしょうね。知らなければ……話を受けるはずも、ありませんし」
ということで、山田氏はそちらの事情の説明を始める。
「ミトックスは、ミカ、ミキ、ミクの三名組、だったのですが……ちょうど昨年末、ボーカルのミキちゃんが……辞めて……しまって」
「辞めた? 何故」
「音楽性の違い、とブログにはあったそうですが、内情は……痴情のもつれと言うか……」
どうやらプロアマ問わず、音楽と性愛は切り離せないらしい。
「ともかく、代わりに入ったミケちゃん……なのですが……新曲のデモを聴く限り、どう考えても……未兎ちゃん本人、としか……」
「そんなまさか」
辞めたとはいえ、元プロのアーティストである。自分のコピーバンドに入るとは思えない。
「わた、私もそう……思う、のですが……けど、万が一……万が一にでも、未兎ちゃんに関わったとなれば……社が、飛んでしまいます……ッ!」
「…………」
この怯えようは、本当なのだろう。
「な、なので、予算の折り合い等、御社の都合で……この件は……何卒……ッ!」
ここまで深々と頭を下げられては、彼に話を進めることはできない。だが、解せないこともある。
「それは致し方無いとは思うのですが……でしたら、そのような回りくどいことをしなくても」
普通に天堂コンテンツから断ってもらえれば良いのだが。
「……しとれちゃんからの、依頼ですので……」
「檜さんの……?」
そういえば、先程秘書の方もそのように念を押していた気がする。自分の部下と向き合うように、山田氏はこわごわと顔を上げた。
「いま……その……メイド喫茶でのライブイベントが……低迷しており……」
「それはつまり、スターの不在による……?」
実力を伴わない湊が二代目に押し上げられるほど、現状唄える人材が不足している。元々、メイド喫茶は音楽イベントを提供する場ではない。ゆえに、このままではメイド喫茶界隈からライブ文化が消滅してしまう。山田氏のようなイベント運営に関わる人々にとって、それを放っておくことはできない。
「ゆえに、我々は……メイド☆スターの再来を……求めて……いるのです……ッ!」
おそらく、湊に二代目を押し付けたのも、この運営会社の意向に違いない。だが、その二代目さえもアダルト業界に流れ――本当に風前の灯なのだろう。
「……わかりました」
この件について深入りすれば、先方が要求してくるのは間違いなく『メイド☆スターのメイド喫茶業界への復帰』――それは、しとれのTRKからの脱退を意味する。本人の意思はともかく――プロデューサーとして、それを飲むことはできない。
「――では、そろそろ店内に戻りましょう」
交渉の席にて、無理難題を吹っかけるのは心苦しいが――あとは、操にそのあたりの相場観がないことを祈るばかりか。
だがしかし。
「も、も、もう少し……こちらで具体的な打ち合わせを……ッ!」
「?」
山田氏はまだこの場に引き留めようとする。
「話し合いはなるべく手短に……持ち帰る形で……具体的な指示は、あー……こちらで、出しますので……」
「どうやら、他にも問題があるようですが」
「はい、秘書の、高林がですね……」
初対面での見立て通り、決定権を握っているのは秘書の方だったようだ。
と、思ったが――実際のところ、それどころではないらしい。
「彼女は、その……優秀“すぎる”きらいがありまして……」
「は、はぁ……」
たとえ役職が上だとしても、実力の差が明らかな部下を持ってしまうと胸を張ることなどできなくなる。
「私“ごとき”が部長職になれた……のも、すべては、高林が難しい案件をすべて……仕切ってくれたおかげ、でして……」
どうやら、操が受けていた印象は間違っていなかったようだ。
「しとれちゃんからのご依頼ですから……この一件を取りまとめて、メイド喫茶ライブを復興させよう……と」
「なるほど、それは……」
どのような方向であっても、しとれを交渉材料としてくることは間違いない。山田氏の懸念はそれではないが、秘書の前で話を進めるべきではないことは理解した。
TRKやしとれを守るためにも、ここは慎重に事を進めるべきだろう。
「それでは、卓上にお互い材料を並べたところで、うちのメンバーに頼んで連絡を入れさせます。急用であるとして。それをもって我々は引き上げますので――」
そのとき――店内から女性の金切り声が上がったような気がした。
「……戻りましょう、急いで」
彼が抱いていた深刻さは山田氏にも伝わる。
「は、はい……まさか……とは、思いますが……」
どうやら、彼女にも悪い予感があるらしい。
早足で店内への扉を開くと、騒ぎの元凶はすぐ目に入った。各座席はパーティションで区切られているが、“ふたり”の上半身は隠れることなく、豪快に仕切りをも上回っている。このような惨状にも関わらず――彼は感じてしまった。“ふたつ”の眩い<スポットライト>を。
思わず見惚れていた彼は、傍からは呆然としているように映ったらしい。
「はっ、は、は……早く……止めませんと……っ!」
「あ、は、はい。そうですね」
部長に急かされ、早足でフロアを駆け抜けると――上半身だけでなく、下半身も想像通りの状態だった。
「いやぁ~ん♪ ミサ、恥ずかしい~❤」
操はミーティングの用意はしていなかったが、このような小道具だけはしっかりと持参しており――これが、アイドルとしての操の姿である。今日はちゃんと両方のツインテールが付いており、赤縁縞縁の伊達メガネもきちんと掛け――そのニーソックスは、スカートがあれば絶対領域を作り出したことだろう。だが、いまの彼女にそれはない。スカートどころか、ショーツもない。股の間まで見られることを意識しており――毛の密度はやや濃いながらも、多すぎないよう梳いているし、割れ目の方は綺麗に剃られている。
元々スポーツは得意としており、ダンスの方は難なくついてきた。そんな腰から下はきゅっと引き締まっており、掛け値なしに美しい。そして、胸の方も――そんなお尻とよく似合っているようだ。小さくとも身体を揺らせば胸先も一緒にふるふると踊る。自分の身体の魅せ方を自分なりに熟知しているらしい。
しかし、よりにもよってこのような場所で――ッ! 美しく輝いていることは認める。だが、そこまで非常識ではないと思っていたのだが――操をノせた別の者がいたようだ。
「あーっはっはーっ! 酒ーっ! 酒呑ませーっ!」
操と並んでいなければ同一人物だとは信じられなかっただろう。長い髪を振り乱し、色づいた先端まで余すことなく放り出された胸の膨らみは、服の上から受けた印象通りの豊満なもの。ソファに乗り上げ、片足は卓上を踏み締め――止めに入った男性店員の顔面を豪快に蹴り飛ばしてしまった。そして、そのまま股の間まで店中に見せびらかす。操と異なりムダ毛に気を配っておらず、脇はともかく、割れ目の方はもっさりだ。
暴力沙汰が発生したというのに、操はさらに盛り上がる。
「いいねいいね~♪ アタシたちのカワユさに、文句があるならかかってきなさい☆」
秘書に蹴られた方は、驚いて転倒しただけのようだ。しかし、操は男に対して容赦がない。もし力づくで止めようとすれば、空手キックで迎撃する構えを見せている。
ふたりの上長たちは、思わぬ相手が裸踊りを披露していることに驚愕を禁じえない。だからこそ、山田氏は無意識に探していた。それは必ずあるはず、と。そしてそれは、堂々とテーブルの上に鎮座していた。泡の残った空のジョッキがひとつ。
「だっ、だ、だ……誰がビールを……っ!」
「桑空さんっ! 食事は打ち合わせの後でと……ッ!」
「食いもんは、だろ? 飲みもんくらい先に呑ませろよ」
ふたりがいなくなり退屈していた操が、ビールサーバーから注いできたものらしい。
「ま、ま、まさか……高林さんの前でお酒を……っ!」
常識的に、会議をしながら酒を注文する者がいるなど考えもしなかった。そして、酒を飲んだ秘書に同調する者がいることも。
酒に酔い、唐突に全裸となった秘書を、操は“羨んだ”。自分ばっかりカワユイところを見せびらかして――自分のカワユさも魅せつけたい――! 新歌舞伎町が近いこともあり――何より、堅物だと思っていた女の臆することにない脱ぎっぷりが気に入った。つまり――悪い意味で噛み合ってしまったのである。
だが、山田氏は狼狽しながらも――この状況は“想定の範囲内”だった。
「すっ、す、すいません! 警察対応は私がしますので……高林のことを……お願いします……っ」
警察を呼ばれている前提で動いているところからも、どうやら初めてではないらしい。操はともかく、秘書の方は正常心を失っている。なので、腰回りに腕を失礼して、強引に肩へと担ぎ上げた。それを見た操は、少しだけ感心する。
「へぇ、意外と鍛えてるじゃねぇか……じゃなくて、プロデューサーさん、つおーい❤」
少し地が出たあたり、素で彼を見直してくれたらしい。ほんの少しだけだが。なので、操もまた彼に協力することにする。
「よーっし、それじゃアタシ、外でお巡りさんを引きつける役してあげよっかな♪」
可愛らしく言っているが、やることは危険極まりない。山田氏の発言で、これから警察が来ることは操も把握している。ならば、自分が全裸のまま追手を引き付ければ、その間にプロデューサーは秘書を担いで無事に逃がすことができるということだ。
とはいえ、男に媚びていると思われるのも癪である。
「同じステージで脱いだ仲だモン。捕まってほしくないからね~」
最近、新歌舞伎町内で全裸の女子が徘徊しているという噂を山田氏も聞いていたが――彼女がその張本人だと思い知らされていた。やはり、闇の街に常識は通用しないらしい、と。
「で、では……事情は後ほど説明しますので……」
少なくとも、ここは闇の外である。おそらく引き金となったであろう秘書のことは予め承知しているし、自分ひとりで対応した方がこじれない、と山田氏は考えた。なので、オロオロしながらも彼らに退店を促す。それに応じる形で、彼は操を連れて離脱した。あとで店にも改めて謝っておかなくてはならないな、と頭を下げながら。
夜の街は通勤帰りのサラリーマンで賑わっている。そんな中、裸の女と、裸の女を担いだスーツの男が飛び出してきた。この時点で、すでに騒ぎが飛び火したともいえる。ゆえに、速やかに沈下させなくてはならない。
「くれぐれも、やりすぎませんよう」
「だーいじょうぶっ。だってアタシ、カワユイもーん♪」
そう言って、くにゃっと身をくねらせ、道行くの男たちに色目を送る。時と場所をわきまえない露出行為に、人々は欲情よりも危機感の方を募らせているようだ。しかし、プロデューサーは紛れもなく<スポットライト>を感じている。だから、彼は操と共にこの場から速やかに立ち去った。彼女たちを輝かせる舞台は、ここではない。
***
実際に彼が山田氏より釈明を受けるのは翌朝のことになるのだが――辣腕でありながら、高林が秘書という立場に留まっている理由――それは、酒癖の悪さにあった。これまで何度も問題を起こし、その度に別会社への転職を余儀なくされ――三度目ともなれば悪い噂は広まっており、さすがに表に出ることは難しい。そのため、秘書という形で裏方に入った。山田氏を陰から支え、社に貢献するために。
しかし――外で酒を呷る度に警察沙汰になっていたことは山田氏も聞いている。実際、今回も程なくしてやって来たらしい。ただ、操が現場の外で挑発してくれていたおかげで、天堂コンテンツは深く追求されることはなかった、とのこと。
しかし。
高林秘書の懲戒免職は避けられないだろう――山田氏からの報告を待つまでもなく――ライブが始まり静かになった劇場の控室にて、プロデューサーは察していた。ならば、新たなステージに立ってほしい。泥酔アイドル――非常に難のある売り出し方だが、一度<スポットライト>を感じてしまえば、それを放っておくことなどできないのが彼の性だった。
部屋の隅を切り取った応接間――高林秘書はそこに寝かせている。照明をつけるのも忘れて彼は打ち合わせ用の席にひとり座り、様々なことを逡巡していた。
まずは、いまも全裸で駆け回っているであろう操のこと。少なくとも、新歌舞伎町内に逃げ込んでくれれば、ただのストリーキングとして扱われる。それでも、TRK事務所に苦情は来るだろう。街の中ならともかく、外での露出行為は謹んでくれ、と。こういうとき、どこの誰が脱ごうがクレームを受けるのは、きっと無条件にこの劇場だ。実際、いつもやらかしているのはメンバーの誰かだし、もしも――兼業している『ハニートラップ』に話がいけば、口頭による注意だけでは済まされない。
それに、山田氏と、迷惑をかけてしまった店のこと。明日の朝、改めて謝罪するつもりでいた。
それから、高林秘書のこと。スタッフとしてステージを創ることは達者でも、自分が立つことなど考えたこともないだろう。しかも、ストリッパーとして。シラフで話を聞いてもらえるだろうか。
そして、もうひとり――
「店長……ッ!?」
扉が開かれると、暗い室内に四角い明かりが差し込んでくる。そこに立つシルエットは柔らかく、優しい。どうやら、ステージを終えてから直接来たようだ。
「私、心配で……山田さまに打ち合わせのお礼のためお電話を差し上げたのですけれど……」
そこで、トラブルがあったことを知ったらしい。そして、匿うのであればここだろうと真っ先にやってきたようだ。出演者たちは演目の最後にカーテンコールが控えている。ゆえに、本来舞台裏から動くことはない。だから、しとれもそれまでに戻らなくてはならないのだが。
「ごめんなさい! 私……秘書さまのこと……っ」
「いえ、さすがに知らなくとも無理はありません」
だが、しとれがメイド喫茶に籍を置いていた時期はそれなりに長い。
「……実は、噂話くらいなら聞いたことはあって……」
しかし、とりとめのない流言で他人を貶めるのも良くないだろう、と判断し伝えなかった。それを事前に話していれば、このようなことにはならなかったはずなのに。
「やはり私は――」
自分の立場は理解している。理解しているつもりだった。しかし――
「私には、メイド☆スターの肩書きに相応しくないようです……」
そう言って、しとれが自ら頭上に手を伸ばしたので――
「お待ち下さい!」
プロデューサーは慌ててその手首を掴んで止めた。しとれがこのような形でメイドとしての『魂』を手放そうとするなどただ事ではない。ただ、突然のことだったので――
「……っ!」
「す、すいません」
驚きに顔を歪めるしとれに、慌てて彼はその手を放した。
照明は暗く、廊下から差す光が目尻に小さく照り返しているのは、決して腕の痛みから来るものではない。
肩から力が抜けたしとれに、彼は穏やかに真意を問う。
「……いま……“やはり”……と申されたようですが……」
つまり、唐突なことではなく、ずっと考えていたことに違いない。
ただ、それはここに訪れるずっと前から。
「何故か私はメイド☆スターと呼ばれ、私に憧れた、とお店に入ってくれたコも少なからずおりましたので」
恐れ多いことに、とその言葉に付け加えて。
「きっと、本人的には私を立てようとしてくれたのでしょうね。けれど……私はそんな器ではありません」
ライブとなれば、必然的にその中心に立つことになる。だが、その外側では――
「私はリーダーでもメイド長でもありません……っ、そんな私に……どうしろと……っ!」
うめき声のような叫びは、彼に向けられたものではない。きっと、メイド喫茶では――事実上のトップとして持ち上げられてきたのだろう。だが、目の前のことには対応できても、人々の間を取り持つのは別の才能だ。そのようなことが続き――彼女は一線を引く。自分はメイドであり、ご主人さまにご奉仕するだけの存在だと。
だが。
この劇場に来て、やはり自分はメイド☆スターだと気付かされて――今度はうまくやる、と心に決めていたけれど――勝手にミーティングに参加して店長に心労を追わせ、イベント会社を勧めれば、適切な補足事項も説明せず警察沙汰に――やはり、自らしゃしゃり出るべきではなかった。身の程をわきまえるべきだった。
「店長……お願いがあります」
それは、先程しとれがしようとしていたこと。
「メイド☆スターとしての名を、返上させていただけないでしょうか……」
お腹の下で両手を重ね、静かに頭を下げるしとれ。だがそれは――かつて、彼に掲げてもらったものを、彼の手で外してもらいたいという現れ。
ゆえに――
「いいえ、それはできません」
メイド☆スターの肩書きが、しとれを苦しめていることは違いない。だが、それは向き合い方が誤っていたから、と彼は思う。何故ならば。
「橋ノ瀬さんが申しておりましたとおり――メイド☆スターは檜さんであり、檜さんこそがメイド☆スターなのですから」
しとれは、メイドとして振る舞っているときが一番美しい。そして、彼女がメイドである限り、メイドの星――メイド☆スターなのだろう。しかし、その荷が重いと彼女は言う。ならば。
「私にも、その肩書きを支えさせていただけないでしょうか」
「え……っ?」
しとれは驚いて顔を上げる。
「メイド☆スターとて、すべてを背負いきれるわけではありません。期待がその身に余るとき――何なりとお申し付けください」
彼女に大いなる肩書きを背負わせてしまっていることは否めない。ならば、そんな彼女を支えるのが自分の役割だとプロデューサーとして思う。
「つらいとき、苦しいとき――微力ながら、私は何でもいたします。ですから――メイド☆スターとして、輝くお手伝いをさせていただけないでしょうか」
メイド☆スターだからといって、何でもできるわけではない――かといって、何もできないわけでもない――どうしてそれに気づかなかったのか、としとれは唖然と受け入れる。きっとそれは、誰も教えてくれなかったから。手を差し伸べてくれなかったから。しかし、ここにはそれがある。気づいてくれた人がいる。だから――
「……まさにいま、つらいのですけれど」
そう呟くしとれの中に、先程までの“つらみ”はもうない。しかし、欲しいものはある。どんなことでもしてくれる、と約束してくれたのだから。
ふわり――としとれはその胸により掛かる。そこは強く広く、彼ならば支えてくれるといった言葉も信じられるようだ。
なので。
しとれは顔をもたげて、目を閉じる。その約束が本物だと確かめるために。だが、彼は――このようなことになると思わず、少なからず戸惑っている。何しろ、自らどんなことでもすると言ったばかりだ。しかし、これは――プロデューサーとアイドルという関係として適切ではない。とはいえ、ここで彼女の期待に答えねば、自分の言葉が嘘になる。何より、これが彼女を支えることになるのなら――
ガチャリ。
「ちょ……おま……っ!?」
「しとれちゃん! 何してんの……ッ!」
慌てて振り向き、しとれが涙を拭ったところで部屋の明かりが灯された。入ってきたのは糸織と歩――ふたりもまた出番を終えたままの姿で。
「こ、これは……な、何でも……」
しとれはすぐさま彼から離れるが、言い訳できない状況は目撃されている。
「何でもないわけあるかいッ!」
暗い部屋でふたりきり――しかも、女の方は全裸で――正確には、全裸の高林氏もぐったり寝ているが――そんなところで顔を寄せ合っていて、何もなかったはずがない。
彼は無実を証明するため、ポケットからティッシュを取り出し、ゴシゴシと強く唇を拭う。一先ず、移る色彩はないようだ。
だからといって。
「あんさんなぁ……これまでPはんが平等に接してきたんを台無しにする気かいな」
それはあまりに他人事のような責め方。ゆえに、見逃せない者もいる。
「そんなこと言って、先にオーナーに言い寄ってたのは糸織ちゃんじゃん!」
歩は先日の六本木での一件を忘れていない。勝手に持ち場を離れて、プロデューサーの待機する車両に上がり込み――もう少し自分の到着が遅れていたら、糸織との間で一線を超えていたかもしれない。
糸織を責める歩の姿はあまりにも他人事である。しとれがこの場で咎められたのは事実だが、歩にそのようなことを言う資格があるだろうか。
「それを言うなら、歩さまこそ大浴場で……ッ!」
自分も同じ動機で近づいたことには違いない。だが、裸で抱き合っていたなど――あと少し遅ければ、歩との間で一線を超えていたかもしれない。
だが。
「そ、それは……というか、いまのいま、現行犯のしとれちゃんに言われたくない!」
ふたりがあのまま舞台裏で控えていたら、いま頃しとれとの間で一線を超えていたかもしれない。
今日はステージが始まる前からどこか不安そうにしていた。それで心配して探してみれば、プロデューサーから直々に慰めてもらっていたのだから開いた口が塞がらない。
もちろん、しとれにそこまでの打算はなかった。しかし、そうなってほしかったという願望は拭えない。
「現行犯ではありません! 未遂です!!」
言って気づく。これは、歩とまったく同じ言い訳だったと。
だからこそ、三人は同じ結論に行き着いた。薄々感じていた真実に。
「……あー、わかったで。うん、あんさんらのこと、よーくわかった」
今日のしとれと、しとれが口にした歩の話で。糸織はひとしきり力強く頷く。
「ふたりとも、紫希はんらと違うて……遊びやないやろ」
糸織の言いたいことを、歩もしとれも正しく察していた。しかし、それはここで言ってはならないことだとも。
だが、糸織はあえて口にする。
「ウチはな、Pはんのことが、好きや」
「な……ッ!?」
と驚いているのはその男だけ。女子ふたりは黙って拳を強く握りしめる。
「頼り甲斐あるんに頼りなくて、ほっとけん。ずっと……うん、生涯添い遂げたいと思っとる」
そして――まるで、彼は自分のものだと言いたげに――静かに歩み寄った糸織は彼の左腕を絡め取った。それを――宣戦布告としてしとれは受け取る。先程の一件について、抜け駆けしようとしていた自覚はあった。しかし、それに関する後ろめたさはすでにない。何故ならば、すでに――少なくとも、このふたりには抜け駆けされていたようだから。
「店長」
彼の右腕を取るだけでは飽き足らず、そのまま踵を上げて――その頬に唇を触れさせる。
目の前でそのようなことをされ、糸織は思わず舌を打った。だが、ここで自分まで対抗心を燃やしてはいよいよ収拾がつかない。自分にも六本木の車中での一件があるため、この場はあえて不問にする。ただし、歩が見逃すのならば――そう思い、彼女の出方を窺う。だが、歩にもしとれを責めることなどできようもない。自分が同じことをした現場を、しとれから咎められているのだから。
踵を床に下ろすと――しとれは彼を睨みつける。だが、三人から同時に視線を送られ、彼は誰に焦点を合わせれば良いのかわからない。不審な挙動の彼に対して、しとれは一方的に詰問する。
「店長は、私のために何でもしてくれるとおっしゃいましたよね?」
ハッとして、戸惑う彼の視線がしとれに下ろされた。当然、こんな状況で持ち出すために告げたのではない。それでもしとれは構うことなく。
「ならば……私を、愛してください」
瞳をそらさず、じっと見つめたまま言い切った。が、これは糸織には煮えきらないように聞こえたらしい。
「なんや他人任せやな。愛されるより愛したい、って知らんのかい」
「それは、愛に満ち溢れてる人間の傲慢な言葉よ」
これまで、メイドという形で周囲の皆々にご奉仕してきた。だからこそ、自分だって愛されたいとしとれは思う。そしてこの一言は――この場に向けての“宣戦布告”でもあった。
「お、メイド言葉はどうした、メイドはん」
「糸織は上司でもないし、ご主人さまでもないでしょ。それに……歩もね」
ここまで会話に加われなかったもうひとりを、しとれは強引に引っ張り込む。何故なら、大浴場で迫っているところをその目で見ているのだから。この場で、傍観者のままなど許されない。
当然、糸織も同じ気持ちで。
「歩はんは……どーすんのや?」
唐突に話を振られて、歩はドキリと狼狽える。睨みつけてくる糸織としとれ――これまで向き合ったことのないふたりの顔。
「わ……私は……」
「ちゃうんなら、はっきりそー言いや。ほんなら許したる」
少なくとも――違う、とこの場で口にすることはできない。しかし、ふたりのように想いを言葉にすることもできない。裸になれば何でもできる、と信じていた。けれど、むしろ溢れてくる想いを受け止めきれず――
「……フン、時間切れや。イクで。そろそろ大トリの|Left&Lightはんが終わる頃やろ」
このような状況でも、糸織は自分の仕事を疎かにすることはない。何故ならそれが、プロデューサーに対する誠意だから。しかし――
「カーテンコールやで。……ウチら、『めいんでぃっしゅ』のな」
「!?」
彼の腕への抱擁を解き、舞台へと向かおうとする糸織の小さな背中は、とても遠く、冷たく見えた。そして、ふわりと長い髪をなびかせ彼女たちの方へと顔を向ける。だが、その瞳に感情は見えない。
「自分の大切なモンを奪ろうとしとるヤツと、仲良く唄って踊れるとでも思っとんのか」
歩はそれでも、ふたりと共に唄いたいと願っている。しかし――
「…………」
しとれの無言が現実を示していた。ゆえに、糸織はふたりからの視線を断ち切る。
「せやから、解散や。今日をもって、めいんでぃっしゅは活動無期限停止とする。ええな?」
ゆっくりと頷くしとれ。直視できずに俯く歩。
そして彼は――ただただ打ちひしがれていた。音楽業界とは切っても切り離せない問題――遠い日の話だと思っていたことがこんな目の前にあったのにも気づかず、そして、つらそうな女のコたちに対してどうすることもできない自分の無力さに。