16話 桑空操
何故、彼が部屋から出ることになったのか。元々そこは彼の場所であったはず。
しかし。
カラオケボックス一階奥――スタッフたちの休憩所のさらに向こう側――ここは、この店の事務を司る店長室である。複雑な事情があるとはいえ、一応、事実上の店長は彼に違いない。ただ、実質的なところで取り仕切っているのは副店長たる丘薙糸織であるから――ということを彼が意識したというわけではない。彼はただ、音声通話の着信があったため、反射的に部屋を出た――それだけだった。彼にはいつも、自分が組織の最高責任者であるという自覚が薄い。
残されたのは空のパイプ椅子と、事務机の主として着任している糸織、それと、部屋の隅に置かれた簡易ベッドに腰掛けた里美だった。糸織はいつもTシャツとパンツのラフスタイルであり、この店の実権を握っているようには見えない。一方、里美はカラオケボックスのバイト制服であるレディーススーツだが、従業員というより、その雰囲気は最高責任者――出ていった彼を含めて、三者の外側と中身はことごとく食い違っている。
それでも、彼女たちのプロジェクトの最高責任者は、名実ともにあのプロデューサーだ。その彼が離席しては話を進めるわけにもいかない。ゆえに、ふたりは黙り込み――聞き耳を立てている、というべきか。軽い営業電話ならすぐに済むことだろう。発信先が誰かはわからなかったが――彼の第一声で、その相手に察しがついた。
「お電話ありがとうございます。こちらからも“あの三名”の件ですぐにご連絡差し上げようと思っていたところでして――」
あの三名――間違いなく、離島での件だ。ならば、ここでもちょうどそれについて話をしていたところである。ようやく、何か進展してくれそうだ。
ここでふと――糸織は里美の佇まいを改めて眺める。布団を座席にしているところはカジュアルだが、背筋、手の置きどころから肘の角度、視線に至るまで――どうやら、良家の教育方針はどこも似たようなものらしい。それはまさに、かつての自分のようだ――と糸織は気不味そうに視線を逸らす。かつてはそれを打ち壊したくて、そのために実家を離れ、いまの自分を作り上げた。大きすぎる父に対して、その娘という立場――里美ならば、共感してくれることだろう、と糸織は思う。実際、萩名家の令嬢もまた、自らの道を切り開くためにここまでやってきたのだから。
糸織は里美に自分の素性について話していない。が、里美は当然のように察していた。なので、糸織が突然しとやかに語り始めても驚きはしなかっただろう。それでもいまは、TRKの一員として振る舞いたい。
「せやけど……“天カ”はん、ちょいと処分厳しすぎやせんか」
天カ――天然カラーズは、新歌舞伎町の中でも比較的マイルドな風俗業を営んできたことで有名である。にも関わらず、キャストの規律についてはあまりにハードすぎるのではなかろうか。
「結局、未遂やったんやろ」
「一応は、ええ」
「ほんになぁ、相手が他所の傘下やったんも、騙されとったわけやし」
「それについては、少々誤解がありますね」
ただし、誤解という意味ではわたくしにも落ち度はありましたが、と付け加えた上で。
「本来、事務所に所属している女のコは、別の事務所の作品に出演することは禁止されております」
「おいおい、そいつは話がちゃうねんで」
「厳密にいえば、ですけれど。同グループの傘下であれば“黙認”されている、というだけです」
確かに、どの事務所がどの傘下か――その勢力図は頻繁に上書きされる。元締めの管理部門でもなければ、正確に把握している者はなかなかいない。
「……まあ、今回みたいな“事故”を防ぐためにも、ってか」
親会社が変わればルールも変わる。今回の件は明らかに騙し討ちだが、女優側が勝手に勘違いしていた場合は擁護のしようもない。
「ゆえに、そこは<自己責任>、ということで」
それがこの時代の鉄則である。
「ところで……ちょいと気になったんけど」
厳密なルールを知りつつ――恩を売るはずが突っぱねられたのは、里美にとっても計算外だったはずだ。
「さっき、ちょいと漏らした“落ち度”って――」
それは説明不足、という意味だけとは思えない。
「――っ、すいません、お静かに」
どうやら、部屋の外で何か異変があったようだ。盗み聞きのようで気不味いが、相手が相手である。自分たちとの打ち合わせにも影響してくる可能性が高い。部屋の外で、彼の声にも苛立ちが混ざっているようにも聞こえる。
「いえ、ですから、何度も申し上げておりますように、“彼女”はうちのメンバーではありませんので――」
どうやら、何らかの無理難題を吹っかけられているようだ。先方の抱えているメンバーを保護したにも関わらず、該当三名については規約違反につき契約解除とする――それが事務所側の判断であり、泣きついてきた被害者との橋渡しを務めているのがTRKのプロデューサーだった。とはいえ、彼が言うとおり、彼女たちは自分たちのメンバーではない。できることは限られている。
「……わかりました。では、話だけ通してみますので……はい、改めて」
こうして、プロデューサーと天然カラーズの交渉は一時休戦となった。あまり穏やかな雰囲気ではなく、事実上の決裂かもしれない。ゆえに、部屋に戻ってきた彼に対して――なんや、白旗か? ――そんな軽口を糸織は飲み込む。目の前で困っている女のコを見捨てることほど、彼にとって辛いことはないのだから。なので、言葉に詰まった糸織の代わりに里美が尋ねる。
「プロデューサーさま、どうやら天然カラーズさまからのお電話のようでしたけれど」
「はい」
短く答えて、彼は黙り込む。どうやら、様々なやり取りがあったらしい。それを、ふたりにどう伝えたものか――迷った末に、一言で表す。
「少なからず、難しい条件を提示されてしまいまして」
そしてそれは、話せば長くなるのか、それとも、話しづらいことなのか。ゆえに、里美は先に断ずる。
「わたくしのことでしたら、お気遣いなさいませんように」
萩名令嬢は自分の意思でここへ来た。そして、このプロジェクトと共に新歌舞伎町の一角を担う――そのためならば、我が身の犠牲も厭わない。里美は、父とは決別したものの、未だ多大な権力を有している。交渉材料に使われても不思議はない。
しかし、今回は別の条件だった。
「いえ、実は――」
そこに、ノックの音が響く。彼の知る限り、入室前に扉を敲くメンバーはほとんどいない。だが、扉を開いたのは、まったく予想外の人物だった。
「お疲れ。来週のミニライブの件で相談があるんだけど」
ミニライブ――カラオケボックス最上階は小規模な舞台となっており、ちょっとしたライブイベントのようなものが行われる。その常連にもなっているのが、この――
「これは……ちょうどいいところに。いえ、ある意味悪い、とも言えますが」
「どっちよ。歯切れ悪いわね」
言葉に悩むプロデューサーに対してはっきり言い放つのは――ミディアムボブの内向き髪――キリリと整った眉に力強く鋭い視線――その装いはビジネススーツだが、それは彼女の表向きの姿。一度ステージ衣装に着替えれば、ゆく先々で人々を熱狂させる実力は本物であり、それは全裸の歩と即興で合わせられるほど――
彼女の名は憐夜希――自由を求め、決して表舞台にデビューすることのないライブアイドルである。
***
この時代、人々はすべての不浄をこの地に押し込めようとした。そのため、不浄を成すのに必要なものは、一通り新歌舞伎町に揃っている。人から物、そして箱まで。ロビーとなっている一階から上――その一階さえも撮影に使われることもあるが――二階から八階に至るまで、コンビニ、教室、果ては電車の座席を模した部屋まで――あらゆるシチュエーションを実現するこのスタジオは、まさにその象徴といえるかもしれない。
天然カラーズから電話があった三日後のこと――前のミーティングが早く終わったから――希に言われるがまま、予定時刻より三十分も早く彼らはそこへ向かっている。天然カラーズ社長・相馬智之との交渉のために。相馬社長は直前までアイドルの撮影に同伴しているという。その様子を見てみたい、というのが希の弁だ。
ゆえに、抜き打ちのように。先方には事前通達することなく建物三階へ向けてエレベーターに乗り込む。その間、ゴンドラ内には不穏な空気が漂っていた。
「……あくまで交渉の席に乗ってあげるだけだからね」
「わかっとる。皆まで言うな」
糸織が苛立っているのは希に対してか、それとも、何かと女子に弱いプロデューサーに対してか。
希はTRKのメンバーではない。が、歩の実力には一目置いており、部外者ながら何かと協力している。その縁もあり、カラオケボックスのミニライブ会場を度々利用していた。来週も一件予定していたが、仕事の都合で――希のスーツ姿は伊達ではない。別に本業を持っており、今日もその帰りだという――次のイベント開催が難しくなってきたため、代わりに自分の知り合いのバンドに舞台を使わせてほしい、との交渉を希は持ちかけてきたのである。
これに対してTRK側から依頼したのが、今回の天然カラーズとの打ち合わせだった。交渉の場には、希にもついてきてほしい、と。それは、天然カラーズ側からの条件をそのまま横流しした形である。
希は、TRKに肩入れしていることを隠していない。あの、どこにも属さない一匹狼が、である。その噂は各芸能事務所にも知られており――最初に天然カラーズ側が要求してきたのは、憐夜希の加入――さすがに、部外者に対する決定権はないので、交渉の場を設けるだけ――こうして、南の島で保護した天然カラーズのメンバーたちの事務所復帰の約束を取り付けたのである。
だが、その結果として出てくるのが相馬社長本人なのだから、先方の熱の入れ方は尋常ではない。今日の日程も希に最大限譲歩した形だ。ゆえに、勝手に撮影現場を覗き見しようと、多少の非礼は大目に見てもらえるだろう。何よりそれ以前に、プロデューサーは性格的な都合で、女のコに対して強く諌めることはできない。
結局、希に引きずられる形で、彼らは三階ロビーに降り立った。閉ざされたその扉の奥にはファーストフードの客席が広がっている。だが、用があるのはあくまでこちら側。エレベーターホールの隅に設けられている四人席の打ち合わせ用テーブルセットの方である。そこで大人しくしていてくれれば――と彼は願うが、希の要望は現地視察だ。
とはいえ。
希だけは許されたとしても、そのはしご役まで許されるものではない。ゆえに同伴することなく、プロデューサー自身は先に椅子の方に着席する。そして、このようなとき、率先して悪ノリしたがる糸織であったが、珍しくプロデューサーの隣に腰を下ろした。そして、速やかにカバンからノート端末を取り出す。早くも仕事の態勢だ。
その様子が意外だったからか、つい糸織の方を見つめてしまったらしい。それに気づいた糸織は、少し微笑んで優美に応える。
「いまの“私”は、プロデューサーの秘書ですので」
元々、糸織は秘書に向いた性格をしていない。むしろ、秘書をつけて取り仕切る側の人間である。実際、これまでは――そもそも、カラオケボックスの運営も任せているため、秘書役は他のメンバー間で回していた。それが、乗りかかった船だからか――今回に限り、彼女がこの役を買って出たのである。
社長本人が出てくるとあっては、事前に対策を講じておかなくてはならない。ふたりきりのカラオケボックス事務室――色気のない話題だったとしても、糸織はそれなりに充実していた。それを唐突に、希の都合で切り上げられたのである。糸織の不満はそこにあった。ゆえに、あてつけのように。希と違って、ウチは真面目に仕事しとるんで、と言いたげに。
だとしても、希がそのようなことを気にかける必要はない。いつだって彼女は、自分のやりたいようにやる。外面は良くても、身内に対しては罵声を浴びせる上長など腐るほど見てきた。断る理由を求めて希は扉を開く。すると、そのとき――
――ゾワッ。
心配そうに希の背中を見守っていた彼は、突如全身に鳥肌が立つような感覚に襲われた。それは、彼女が持つアイドルとしての素質――<スポットライト>――だが、彼女が放つのは、歩たちのように眩い光ではない。空間を捻じ曲げ、周囲の人々を吸い込んでしまうような――その正体は得体が知れない。だが、あえてそれをステージ上で解き放ってみたい。同時に、本当に解き放って良いのだろうか、という不安もある。
スタジオを覗き込んだ希が何を見たのか。それは――
残念ながら撮影自体はとっくに終わっていたらしい。室内にいたのは担当アイドルと、社長だけ。窓を眺めるようにカウンター席に座っていた社長の上に、男の襟首を抱きしめて跨るアイドル――
女同士で目が合った。ゆえに、希は静かに戸を閉める。そして、振り向いた彼女は薄ら笑いを浮かべていた。かつて、路上ライブで魅せたものより圧倒的に強大な<スポットライト>を漲らせて。だからこそ、ロビー側で待っていたプロデューサーには彼女が何を見たのか想像もできない。ただ、社長との交渉の結果は“とんでもないもの”になるのでは――それだけを予感していた。
そして、すぐに彼らは現れる。
「いやー……、お待たせしてしまってすいません」
凛々しい眉に、少し垂れ気味の優しい瞳。年齢は若く見えるが――彼は萩名兵哉らと並んで新歌舞伎町を立ち上げた英傑のひとりである。ゆえにおそらく、四十代後半といったところだろう。オールバックの頭髪にしっかりした高級スーツ――それが少し着崩れている理由は、当事者と希だけが知っている。相馬智之――天然カラーズを治める社長、本人だ。
その隣で、少しむくれている女のコがひとり。彼女がさっきまで撮影していたアイドルである。ファーストフードの室内とはいえ店員ではなく、客としての設定だったようだ。小柄で、高校のブレザーを着込み――それは決して衣装ではない。リアルな等身大を撮影するため、普段の装いで――リアルだからこそ、ふたりの距離の近さには犯罪的な雰囲気が感じられる。
「……今日は、このあと空いてるって言ってたのに……」
「ごめんごめん、急な用事が入っちゃったからね」
そう言って、希の方にちらりと視線を送る。それが気に入らなかったのか、天然カラーズの女のコは――すっと背伸びして、男の頬に唇を付けた。
「私、事務所に戻ってる。終わったら迎えに来てね」
「けど、長くなるかも――」
「待ってるから」
一方的に強く告げると、一階へ戻されたエレベーターを待つことなく、女のコは階段の方で下りていった。希と共にこの場に居づらかったのだろう。あからさまな敵対姿勢であるが、希の方はまんざらでもなさそうだ。しかし、プロデューサーにはどうしても気になることがある。
「申し訳ありません。ところで、先程の方は……」
「ああ、御堂カナ、という現在当社でイチオシのキャストです」
もしかすると恋人なのかもしれない、と思って尋ねたが、そういうことでもないらしい。彼はTRKのプロデューサーとしてメンバー全員に対して平等に接するよう心がけてきた。が、天然カラーズではあえて差別化することで競争意識を高めようとしているのかもしれない。奇しくも、天然カラーズの内情を希に垣間見せることができた。それをどう受け取るかは本人次第である。
さて。
二対二で向き合う席配置であったが、希が社長の隣に座ることはない。広間の方へと一脚引っ張り出し、自らお誕生日席を作り出した。すると、社長の視線は対面ではなく真横へ。あまりに露骨ではあるが、眼中にないのならばそれでいい、とプロデューサーは思う。粛々と自身の要求を確認するだけだ。
「それでは、ミナミさん、シホさん、ナビキさんの件については、お約束どおりに」
「ああ、はい。構いませんよ。事務所残留といたします」
相馬社長の言い草はあっさりしているというより投げやりにも感じられる。やはり、目当ては希ひとりなのだろう。ならば、早々に退席させていただきたい。彼はそう考えていたのだが――
「ついでと言ってはナンですけれど……貴殿には別件でご相談したいことがありまして」
「それは、私にも用件がある、と?」
彼にとってこれは意外だった。
相馬社長はどこから話すべきか、と呟いたのち。
「かつて起きた『歌舞伎町クライシス』については……ご存知ですよね」
「それはもう、重々に」
半世紀ほど前の話になる。子供を性犯罪から守るため、と称して歌舞伎町を中心に風俗産業が一掃されたことがある。その結果、表向きは綺麗になった。しかし、正確には穢らわしいものに蓋をしただけであり――女性を求める男と、金を求める女による利害の一致――そんな違法行為を管轄するのは違法な組織――年齢に関わらず厳罰に処されるのなら、法を破るのにも年齢を問わない。摘発してみれば、手を染めていたのは規制していた頃より低年齢層――そんなケースが相続いたところで、現実的な法による管理が求められた。その先陣を切っていたのが、ライブネットの萩名兵哉、ムードファンの周防原明夫、そして、天然カラーズのこの男、相馬智之である。
彼らの働きによって様々な規制は撤廃され、歌舞伎町は“新”歌舞伎町として蘇った。しかし、相馬にとって、ここはさして重要な場所ではないらしい。
「当時の私は『ブラウンキャップ』の一部門におりました」
それは、アイドル事業を営んでいる芸能事務所である。当時、浄化運動の煽りを受けて水着グラビアを封殺されただけに留まらず、女のコを被写体にすること自体が女性軽視による性の搾取である、と活動家たちによるバッシングを受け続けていた。このままでは経営が成り立たない――そこで、上層部は相馬にひとつの使命を下した。
「今度設立予定のお色気部門……もし世論を動かし実現することができたら、その部署は私に任せる、とね」
とはいえ、彼ひとりにすべてを任せるのではない。すでに萩名・周防原の両名が活動していることは知られていた。彼らと合流し、一気に盛り返そう、という計画である。当然ながら、ブラウンキャップに所属する女のコたちは自分が性的に搾取されているなどとは微塵も考えていない。反対運動に本職のアイドルが加わったことで――彼女たちは職業柄宣伝能力に長けている。最初からそれに期待して、周防原側から協力を持ちかけられたようだ。
こうして、新歌舞伎町としての復活と共にブラウンキャップ傘下のお色気担当『天然カラーズ』は設立され――ただし、本家と差別化するために分社化され、本番行為を除くヌード撮影などは行っている。
とはいえ。
「天然カラーズの社長となったいま……私の目的は自社の繁栄であり、法の正常化ではないのです」
当時はやむにやまれず矢面に立った。しかし、それは彼の本懐ではない。
「……これは内部情報となるので私の口からは申し上げられませんが……」
と断った上で。
「新歌舞伎町内での弊社の勢力を、どう見ます?」
「そ、それは……」
面と向かっては答えにくい質問。だが、希に遠慮はない。
「あんまやる気ないわね。撤退も視野に入れてるとしか」
これについてはプロデューサーだけでなく、糸織も同じ見解だった。救出した三人のうち、ミナミとナビキは、去年までブランドを代表して活躍していた人気キャストである。ただし、ヌードアーティストとして。そのふたりをいとも簡単に切り捨てようとしていたのだから――間違いなく、事業としての方向転換を目指している。
そして、希にも合点がいった。
「で、表舞台への足がかりに、ワタシを使いたいってわけ?」
そもそも、希は脱ぐ仕事をしていない。天然カラーズに勧誘されたところで水着程度ではブランドのファンたちの期待に応えることはできないだろう。だから、彼女はいまでなく、見据えているその先のために。
これを受けて、相馬社長は何も言わずに微笑んだ。どうやら正解らしい。
「見たところ、御社も弊社と同じ方針で運営していると思われます」
あくまで、ストリップとして裸を披露するだけ――性の街にありながら一線を保ち、表舞台を目指している事務所同士――だが、現在積極的な表舞台への進出は考えておらず、その一線を頑なに堅守するつもりもない。もし、本番行為によって輝く女のコがいるのなら、それもまた検討するつもりだ。――実際、何人か心当たりもある。
それはさておき。
彼は相馬社長から求められた同意を沈黙によってやりすごした。異議がないようなので、先方はそのまま話を進める。
「そこで、提案なのですが……」
内容によっては断らざるを得ないだろう。そう覚悟してプロデューサーは臨んでいたが、それは、事業提携とは程遠いものだった。
「周防原……ファンムード系列の暴走を止めていただけませんでしょうか」
「つまり、我々に監視役になれ、と?」
相馬社長は頭を振って、その解釈を一蹴する。
「彼らは、その行動原理からして人としての良心を逸脱している……そうは思いませんか?」
確かにファンムード系列の撮影は、女のコを騙すことさえ厭わない。おそらく、彼らが供給したい作品を撮るためには必要なことなのだろう。それ自体は許されることではない。だが――互いに合意の上でなら問題ない、と彼は考える。その結果、合意を取っていては期待する供給を満たせなかったため、いまの暴挙はあるのだが。
しかし、ここでの問題はそこにない。重要なのは、ファンムードの行動原理――価値観そのものの否定――それはつまり、かつて『歌舞伎町クライシス』を起こした元凶でもある。
「ま……さか……」
しかし、社長にその意識はないらしい。
「何を驚かれているのです。てっきり、意図的に動いているものかと」
プロデューサーに、そのつもりはなかった。ただ、女のコを脅かしていたのが、どれもファンムード系列だった、というだけのこと。しかし、相馬社長にはそう映らなかったようだ。
「御社が弊社の代わりに街の規律を正してくださるのであれば……我々がこの街に固執することはありません」
「それはつまり――」
「ファンムードの活動を無力化させていただければ、新歌舞伎町における弊社の地盤を、すべて御社にお譲りしましょう」
そして、天然カラーズは新天地に向けて旅立っていく、ということだ。
「弊社のキャストには、この街に残るか、次の舞台を目指すか確認しますが……残ったキャストたちについては、お願いできますでしょうか」
確かに、ファンムードの行き過ぎた制作方針は是正しなくてはならない。しかし、その結果として彼らが沈黙し、天然カラーズさえも身を引けば、その後に残るのはライブネットの一騎打ちである。それは、萩名里美嬢のお父上と正面から争うことに他ならない。
「わ、わかりました……が、一旦持ち帰らせて――」
「即決しなさい」
「丘薙さん!?」
このような交渉事は糸織にとって得意分野である。ゆえに、ここで退いてはならないと空気で感じた。だからこそ、歌い手としての関西弁ではなく、経営者の娘の顔で。
「ここで尻込みするような決断力では、この街で戦ってゆけません」
「ですが……」
「里美嬢のことを考えているのですね」
この男は甘い、と糸織は思う。だからこそ、放っておけない。
「だとしたら、逆に失礼ですよ」
「……ッ!?」
「彼女とて、その程度の覚悟で袂を分けたのではないでしょう?」
ここで、彼女の言葉を思い出す。『わたくしのことでしたら、お気遣いなさりませんように』――里美自身、すでに覚悟していたのだろう。天然カラーズの撤退方針を感じ取り、その結果が訪れるこの状況を。
ならばプロデューサーとして、ここでこれ以上無様な姿を晒すわけにはいかない。
「……わかりました。その話、お請けします」
それは、彼にとってこれまでにない決意だった。相馬社長の考え方に対して全面的に賛同できるわけではない。だが、ムードファンの横暴は見逃せないし、それを制するためには力がいる。そのために、萩名社長と争うことになろうとも――ッ!
だが、相馬社長の反応は淡白だった。
「ありがとうございます」
やはり、去る者にとって新歌舞伎町の勢力図はあまり関心がないらしい。ゆえに、重要なのはどうやって風呂敷を畳むかだけ。
「それでは先ず手始めに、一件お願いしたいことがあります」
早速ファンムードに対して牽制攻撃を加えたいようだ。これに、プロデューサーは鼻白む。だが、これまでのやり取りで相馬社長は、どうすれば相手を乗せられるか何となく察していた。
「これには我が社の系列のキャストたちも被害に遭っておりまして」
「は、はぁ……では、先ずはお話だけでも」
他社のキャストの問題に首を突っ込み、そのためにこうして憐夜希まで連れてきてくれたのである。よほどのお節介焼きなのだろう、という相馬氏の予想はあながち間違っていなかった。
ひとまず聞く耳は持っているようなので、社長はカバンからノート端末を取り出す。そして、予め用意していた画面を開いて三人に向けた。
「こちら、いわゆる出会い系の掲示板でして」
それはかつて歩と組んでもらうためのメンバーを探していた頃に見たことがある。だが、このような投稿は初めてだ。
『今度の日曜日の深夜、六本木の街でストリーキングを行います』――ッ!?
「目隠し線は入っておりますが……間違いないでしょう。……『ハニートラップ』という弊社傘下の一ブランドの製品のパッケージですから」
確かに、プロフの顔写真は背景からしても一般人による自撮りには見えない。
「キャストにはただの撮影だと伝えておきながら、実際にはこうして部外者のギャラリーを集めているのです。そして、間違いなく、その中に男優スタッフが多数潜入しており――」
見世物のような形で陵辱される――それが、ヤツらのやり口だ。
「過去、二度ほど行われておりまして、今回も同じ文面であることから間違いないでしょう」
ここで、希は当然の疑問で口を挟む。
「わかってるなら先に止めればいいでしょうに」
しかし、相馬社長はもちろん、プロデューサーもその事情は何となくわかっていた。
「もちろん、本人にも警告しております。他事務所への出演は禁止している、と。しかし、本人はそんなことしていない、の一点張りで……」
プロデューサーは『メスブタ・ハンター』の件で重々承知している。彼らは、女のコの弱みを握って支配するのだと。
「弊社としましては、所属キャストが警察沙汰という事態は絶対に避けたいところでして」
社長の表情は穏やかだ。しかし、それと相対する糸織たちは――特にプロデューサーは女のコたちを預かる立場として、相馬社長に不穏なものを感じていた。きっとここで断れば、一方的な理由でそのコとの契約を解除してしまうことだろう。
だからこそ。
「了解しました。ただし、ひとつ条件があります」
「何なりと」
「彼女の、“専属出演規約違反”については目をつぶっていただけますでしょうか」
それはつまり、力及ばず彼女が犯されてしまった場合は――本番行為禁止については堂々と受け止める、ということ。そこには自分たちが必ず救い出す、という強い意志が込められている。
だからこそ、希は気に入った。
「いいじゃない。ワタシ、本当はすぐにでも帰るつもりだったのだけど……気が変わったわ」
それがブラフかどうかはわからない。だが、これが交渉というものだ。
「その条件を飲んでくれれば、ワタシの天然カラーズ入り、このあと話に乗ってあげる。最大限、前向きにね」
それでも、この場で確約しないのが希らしいというべきか。相馬社長としては、解雇寸前のキャストひとりより、希の方が遥かに大きい。
「いいでしょう。交渉成立、ということで」
これで、あとはこの被害者を助けるだけとなった。しかし、相馬社長にとってそれは瑣末事にすぎない。
「……では、憐夜希さんにはこのまま……よろしいでしょうか?」
「ええ、いいわよ」
ふたりからニコリと微笑まれて、彼と糸織は退室を余儀なくされた。少なくとも、TRKとしてここでこれ以上なさねばならないことは何もない。
***
ストリーキングの情報は掲示板の方に細かく記載してあった。深夜一時、ゲートパーク駐車場に裸で行くので、皆さん私の恥ずかしいところをいっぱい見てください――とのこと。しかし、その後のルートについては書かれていない。だが、本命と思わしきポイントは見当がつく。人目のある場所で集団陵辱などできるはずがない。ならば――街外れにある広い公園か。そこを仮のゴールとして、駐車場から至る道程をプロデューサーの車両で押さえておくことにした。
さて。
今回は離島での一件とは事情が異なる。先ず、この街には個人的に撮影を許可できるような広い敷地はない。主に公道をロケ地と定めており、完全に違法である。ゆえに、撮影を妨害したからといってその場で揉め事に発展することはない。直接手を下すことをしなければ。一方で、警察を介入させて止めるような手段は、新歌舞伎町の人間として禁じ手である。ならば――
「皆さん、今回の目的は間接的な撮影の妨害ですので……」
「あははー……これだけ裸の女のコがいっぱいいたら、色々台無しだもんねぇ」
いまは土曜日の午後十一時半――そろそろ、この六本木の街には下心に満ちたマニアックな男たちが詰めかけているはずだ。そのギャラリーに視姦させることで、作品として完成する。ゆえに、予定外の女のコが出現し、男たちが分散してしまえばいい絵を撮ることができない。人が減れば、陵辱用のスタッフを紛れ込ませることも難しくなる。あとは、女のコの方に他社で撮影している証拠を突きつけ、もうこのようなことをしないよう諌めるだけだ。今回だけは特別にお目溢しをもらえる、として。
今回はメンバーを厳選しているため、バンを借りることなくいつもの送迎用車両でやって来ている。厳選しなくてはならない理由としては――
「はいっ! 今回のトレーニングはお巡りさんから逃げ切ればいいのですね! 人生、日々特訓、です!」
毒をもって毒を制す――自分たちも法に触れるため、顔を隠してのストリーキングである。ならば、と真っ先に白羽の矢が立てられたのが晴恵だった。首から下は全裸だが、いつものウサギのマスクを着用している。彼女の体力ならば、警官も振り切ることもできるはずだ。
それと――撮影現場に直接干渉するわけにはいかないが、その状況は把握しておきたい。付かず離れず、何かあれば連絡する――この難しいポジションは歩が担当することになった。かつて、別のファンムード傘下の事務所を押さえた際に、全裸で活躍した実績を買ってのことである。着衣すると途端に動きの鈍る歩ではあるが、眼鏡やヘッドセット等はステージでも着けていたこともあり、このウーパールーパーのマスクをかぶっても大丈夫であることは確認している。
そして、陵辱現場の本命であり、最も危険が伴う公園に張り込むのは――
「オゥッ! ラン、そこらのオスに捕まったりしなイ」
離島でメンバーに加わった草那辺蘭――その驚異的な身体能力はプロデューサー自身、その身をもって味わっているし、夜目が利くことも歩が確認している。万が一誰かに見つかってもそう簡単に捕まることはないだろうし、全裸のまま駆け回ってくれれば、それだけで撮影を止めることができる。ライオンのマスクは、褐色肌も手伝って、むしろ捕食する側の様相だ。
なお、“もうひとり”参戦予定なのだが、彼女は直接“自宅”から配置場所に向かうことになっている。土地勘もあるため、作戦についても彼女が立案したようなものだ。加えて、自分なら抜け道やら隠れ場所をいくらでも知っている、と晴恵と共に陽動役として参加する。配置に着き次第、連絡をくれるはずだ。
「それでは、これから各々の担当場所までお送りいたしますが……くれぐれも、無理はなさらないよう」
はいっ、という威勢のよい返事ふたつにオウッ、という楽しげな掛け声が混ざる。車でひとり、またひとりと送り届け――とうとう車内は彼だけとなった。
時刻は〇時。どうやらあと三十分で終電がなくなるらしく、撮影は人通りがなくなった頃に敢行されるらしい。
とにもかくにも、彼は女のコたちの無事を願う。TRKのメンバーだけでなく、天然カラーズのキャストに対しても。そこに、コンコンと扉を敲く音が聞こえてきた。窓の方を振り向いてみると――
「な……っ、何故、丘薙さんがここに!?」
それも、一糸まとわぬ姿にて――! しかも、身元を隠すためのマスクさえしていない。このままにしておくことなどできないので、プロデューサーは大慌てで助手席側の鍵を開けた。
「よーっす、お疲れさん」
「お疲れ……ではありませんよ! 決行まで脱ぐ必要はないでしょう!」
糸織は晴恵と共に、少し離れた場所で歩からの情報によって適宜動く予定である。ここからはそう離れていないが、それでも道のりは短くない。
だが、糸織は彼の想像を遥かに上回っていた。
「……服は家に置いてきた。この戦いにはついてこれないだろうからなっ」
ニヤリと笑ってプロデューサーを見る。これには彼も絶句するしかない。
「もし、誰かに見つかったらどうするのです。ご近所様と顔を合わせたら生活もしにくくなるでしょう」
六本木住みの糸織にとって、ここはまさに地元のはず。それを危惧して、彼は一度糸織を今回の人選から外していた。が、それを突っぱねたのは他でもない糸織自身である。
「せやから、大丈夫ゆーたやろ」
それを証明するために、あえて全裸で来たのだった。
しかし、ここで急に糸織はキャラを変える。
「私のこと、信頼していただこうと思いまして」
「!?」
実家にいた頃のお嬢様口調――いつも唐突に切り替えるので、プロデューサーは対応できずに面食らう。その様子を見るのが糸織は大好きだった。が、今夜の彼女はからかいに来たわけではない。彼を通して、自分自身を見つめるためにここにいる。
「信頼してくださいますか? 私があなたのことを信頼している、と。信頼しているからこそ、このようなことができるのだと」
少し重い雰囲気になったことを察して、糸織は再びキャラを戻した。
「なーんてなっ。ちょいとウチらしくなかったかいな。せやけど――」
再び、伏し目がちになり。
「選んでください。貴女に必要な『丘薙糸織』はどちらでしょうか」
糸織はこれまで何度か名前を変え、キャラを変え、自分自身を取り繕ってきている。その演技力はメンバーの中でも突出して高い。これはまさに、別人がふたりいるかのようだ。
そんなふたりが、交互に呼びかけてくる。ただ、状況が状況だけに、遊びでこんなことをしているわけではないはずだ。今後のために、大切なこと――なので、彼は偽ることなく答えを出す。
「どちらも、ですね」
あまりにくだらなく、そして予想通りの反応だった。ゆえに、この程度のことで糸織がヘソを曲げることはない。
「せやろな。けど、そーいう話しとるんとちゃう、ってのはわかっとるんやろ」
「それは、はい」
一応、この男の話に臨む姿勢は確認した上で。
「では質問を変えますが……どちらの私が、“本来の姿”だと思いますか?」
「それは、こちらの“標準語”の方、ですね」
「正解♪」
彼女は生来お嬢様として過ごしてきた。そして、関西弁のキャラで歌い手を始めたのは大学に入ってからのこととなる。つまり、人生の大半はそちらだった、ということだ。かといって、関西弁の方も別段肩が凝ることもない。むしろしっくり来ていて、気軽にやらせてもらっている。だが、この男のことなので、無理して作ってるのでは――そう考え、慮るような選択まで誘導すればいい。
「僭越ながら……私、実家におりました頃から何度も歌唱のコンクールにて賞を頂いてまいりました」
「でしょうね。丘薙さんの歌声は一朝一夕のものとは思えません」
むしろ、実家にて――“実家におけるキャラクター”で積んできたものだ。ゆえに、もうひとりの自分を消したところで、舞台に立てなくなるわけではない。それも理解したことだろう。
ならば――
「――丘薙さんには、先日の相馬社長との打ち合わせの際にもお世話になりました」
「!?」
ここまではウチのペースで進んでいたはず――しかし――この期に及んで先を読まれた――? 糸織の中に初めて動揺が芽生える。ご近所全裸踏破であっても、ここまで緊張することはなかったのに。
プロデューサーには――糸織の言いたいことがすでにわかっている。
「あのとき、背中を押していただけなければ……こうして、キャストさんを助け出す機会さえ得られなかったかもしれません」
「わ、わかっとるんならええねんけどな」
不覚にも関西弁が出てしまったことで、糸織の目論見は崩れかけている。このキャラはもう不要――令嬢として、プロデューサーの力になればいい――もちろん――
「舞台も、当然こなすこともできますわ。だって、私――」
お嬢様キャラを貫いた上で、脱いでいくこともできることだろう。それを証明するために、わざわざ“この姿”でやってきたのだから。
しかし。
「――プロデューサーとして、私は関西弁のお嬢様に<スポットライト>を見出しましたので」
それを聞き――糸織は“落ち着きを取り戻す”。多少のイレギュラーはあったが、その答えは想定内のひとつだ。
「では……私には<スポットライト>は感じられない、と?」
糸織にその概念は認識できない。けれども、自信はある。この誰もいない場末の路上で唄って踊れば、必ずや納得させられるはずだ、と。
しかし、彼がその問いに取り合うことはない。
「それはわかりませんが……“関西弁のお嬢様が<スポットライト>を放っている事実”は変わりませんので」
「っ!?」
その答えは、糸織にとって最大級の誤算だった。
「……まさかウチらのこと、二重人格とでも思っとるんやないやろな?」
「もちろん、ひとりの丘薙さんと理解しております。ですから、私にはどちらも必要なのです」
<スポットライト>の有無にかかわらずお嬢様を必要としている――だからこそ彼は、前の打ち合わせでは世話になった、と礼を述べた。カラオケボックスの運営も任せており、経営者の令嬢としてのキャラクターにはすでに幾度となく助けられている。
そして、アイドルとしては当然のこと。例え、お嬢様キャラが映えたとしても――関西キャラで輝いていた事実は消えたりしない。そのキャラで輝いている限り、彼はそのようなプロデュースを望んだことだろう。
この一言をもって、糸織は計画の失敗を理解した。今後、大きくなっていく組織を回すためには、おちゃらけたキャラクターでは相応しくない。ゆえに、いまのうちに路線変更――組織人として、彼の隣で支えるために。だが――それは無意識か、それとも意識しないようにしていただけか――アイドルとして活躍できる期間は限られているどころかあまりに短い。ならば、その後は――運営側としてなら、ずっと彼の力になれる――そのためならば、慣れ親しんだもうひとつの顔を失うことになっても――
しかし、彼には見抜かれていた。やはりそれは、容易に捨てられるような一面ではなかったことを。だからこそ――このような形で、誰にも邪魔されない状況で持ちかけたのだろう。きっと、新しい自分に変わるよう背中を押してもらえると信じて。そして、少しの不安を、彼に慰めてもらえると期待して。それは、糸織自身も知らず知らずのうちに。
ゆえに、彼女は負けを認めた。結局自分は――ただ、甘えたかっただけなのだろう、と。己の足で踏み出す勇気もなく、その一歩を他人に押し付けた上、さらにその本人から優しくしてもらおうなどとは何と無様なことか。
だが、しかし――
無様なのは承知で、糸織は“あえて開き直る”。
彼に優しくして欲しい――その本心を認めてしまったから――
「確かに……どちらの自分も私ですね」
「はい、ですから――」
ここで彼は、言葉を止めた。じっと自分を見つめる彼女の心がわからない。正確には――関西人のような、お嬢様のような――どちらの雰囲気とも異なる。
どちらの雰囲気をも併せ持っている。
何か話してくれれば、その口調から判別できるかもしれない。だが、こうして黙って見つめ合っていると――無言であることから、彼は察する。言葉ではなく、自分の想いを感じ取ってほしい、と。そして、瞳まで閉ざすのであれば――伝え合う手段は“それ”しかない。
だが、それは――
しかし、ここで近づいてくる彼女を拒むことは、彼女の想いを拒むことにもなる。
ふたつの丘薙糸織――その両者を拒むことになるのでは――
ゴンゴンッ!!
運転席の窓が乱暴に叩かれる。彼は思わず外を見るが、糸織は急に止まれない。唇の先端で彼の頬に着地し、横目で来訪者を見てギョっとする。そこには――
「あ、歩はん……なんでここに……?」
「それはこっちのセリフだよ!」
相当大きな声で叫んでいるようで、閉ざした扉の内側でもその言葉は聞き取れる。むしろ、くぐもった糸織の声をよく聞き取ったものだ――実際のところ、唇の動きと状況でおおよそ察したにすぎない。
そして、歩も何故かマスクを外して全裸である。ゆえに、とにかく車内に匿わなくてはならない。運転席にはすでにふたりいるので――と言いたいところだが、歩は直近の持ち手に指を添え、他の座席に入るつもりはないようだ。なので、彼は仕方なく運転席の鍵を開ける。すると、そこから乗り込んできた。向こう側へと糸織を押しのけるように。
「お、おいおい、危いなぁ。昔、レバーが刺さって大怪我したって事故があったん知らんかいな」
「そんな太いのがヌルリと入るほど、糸織ちゃん、ガバガバなの?」
昔の仕様ならともかく、昨今はそのような悪戯を防止するためかグリップは大きく設計されている。何より、状況が状況だけに、歩の言葉選びは辛辣だ。
「というか、なんで糸織ちゃんがここにいるの? 持ち場、ここじゃないよね?」
「そっ、それは……っつーか、そのセリフ、歩はんにそっくり返すでっ!」
「私は、状況報告に来ただけ。駐車場の周り、人がいっぱいで近づけないよ、って」
どうやら、思いの外ギャラリーが大勢に集まっていたらしい。
「せやかて、全裸で来るこたないやろ」
「道に迷ったら嫌だから」
普段の歩らしからぬ強い口調と断言である。これまでの経験上、歩が全裸になると色々と捗ることは疑いようもない。人が少ない時間帯だけに、全裸の方が確実に到達できると考えたのだろう。
しかし、この行動は何かと不自然だ。
「いやいやいや、スマホで連絡すりゃええやろ」
「だから、人が集まってきてたんだって。通話して誰かに聞かれたら困るし」
それが仕込みのスタッフだったら大問題である。しかし。
「せやったら、文字で打てばええやんか」
「え?」
ここで、歩の理屈は綻んだ。
「歩はんなら、人がおらんとこに身を隠すことなんて楽勝やろし」
「け、けど、隠れてる間に事態が急変したら……」
「ほんならここに来てる時点であかんやろ!」
やはり、この状況を正当化するのは無理があったらしい。
「歩はん……ここに来た理由、結局ウチと一緒やん」
「そ、それは……えーと……」
今回もまた、危険を伴う作戦である。南の島で未遂に終わった件を完遂すべく機会を窺っていたが、今回は一歩遅かったらしい。
これ以上、歩が糸織を言及することはないだろう。そこで、作戦立案役として、改めて本来の指示を下す。
「っつーことで、歩はんは元の現場を頼むで」
だが、それは本人も同じこと。
「糸織ちゃんも配置場所に向かってくれなきゃ!」
もう時刻は〇時五〇分になる。そろそろ動きがあってもおかしくない。
だが、そこに――
ピピピピ……ピピピピ……
それは、プロデューサーのスマートフォン。何かあればすぐに連絡がくるものだ。ここにいる歩でも糸織でもないとすると――
『もしもし、コーチですかっ!?』
晴恵の話し方は常に威勢がよく、焦っているのかいつもどおりなのか判別できない。
『実は……すいません、男の人たちに見つかってしまいまして! いえ、お巡りさんでないことは確認しているのですがっ!』
晴恵はそもそも、裸を見られることに関する羞恥心がない。こと、マスクによって顔を隠している場合限定ではあるが。そのため、どうやら警察以外に見つかることに配慮していなかったらしい。
『どうやら、掲示板には“おセックス”までOKと書いてあったようでして……いかがいたしましょう!?』
どうやら、一般人の男から掲示板の主と間違われて言い寄られているらしい。状況はかなりマズイようなのだが、晴恵の口調からか、まったく緊迫感が伝わってこない。むしろ、お相手しても構わない、とさえ聞こえる。だが、今回の目的はそれではない。むしろ、触発されて天然カラーズの女のコまでスタッフではない一般人に襲われてしまう危険性もある。
「……丁重にお断りして、車まで戻ってきて待機していてください」
『了解しましたっ! 特訓、継続しますっ!』
通話は切られた。しかし、あまりに杜撰な状況に、彼にはもう、何も言えない。
「……Pはん、どないすんねん」
糸織にとっても、晴恵の不始末は想定の範囲外だったようだ。ならば、一度仕切り直すしかない。
「一先ず、現地の状況を見て判断します。蒼泉さん、もう一度持ち場に戻っていただけますか。園内さんが男性たちを引きつける形で人が減っているかもしれませんので」
「う……うーん……?」
あまりいいことはなさそうだが、そうするしかないのだろう。
「丘薙さんは車両で待機していてください。草那辺さんもこちらに戻して、状況を立て直します」
予想外の事態に対して、先方の出方が掴めない。ならば、歩の監視情報によって一から再検討すべきだろう。
しかし、問題が収まることはない。
「……草那辺さん……何故……っ!?」
メッセージを送った後、念の為に通話も発信しておいた。だからこそすぐに気づく。蘭からの音信が途絶えていることに。
「あのコ、スマホ使えないとか!?」
「原始人やあるまいし!」
時は二十一世紀末、このご時世にもなってスマホ操作のできない者はさすがに皆無だ。実際、蘭にも社用携帯を持たせており、何度か連絡も取り合っている。
「と、ともかく、私は草那辺さんの持ち場に向かってみます! 蒼泉さん、丘薙さんは先程の通りに――」
「いや、ウチが案内するわ。マンションの敷地突っ切った方が近道やで」
ここは、一刻を争う。車の鍵を開けっ放しにしていくのは心配だが、蘭の身の安全には変えられない。車内にはコートが用意してあった。しかし、それを羽織る間さえ惜しんで糸織は外へと飛び出していく。これを、彼が止めることはない。何かあれば身を挺してかばう覚悟が彼にはあった。だからこそ――好んで露出する趣味のない糸織でもこうしてストリーキングに繰り出すことができる。何があっても、彼なら自分を守ってくれるだろう、と信じているから。
さすがは現地住民である。糸織の言うとおり、案内された道は地図アプリではフォローできないものだった。
「こっちや! このフェンス乗り越えんとぐるりと遠回りさせられるで」
他所の敷地内を勝手に突っ切り、ふたりは公園の裏手に辿り着く。しかし、園内は広い。プロデューサーはもう一度通話を試みるが、やはり応答はなかった。
中央を走る通りは街灯に照らされて明るいが、一歩外に出ればそこは木陰であり、この時間では極めて暗い。その闇の中で何が行われていても見逃さないよう――目を凝らしながら進んでいくが――
「なぁ……Pはん、アレ……」
そこはおそらく、公園の中心部にあたる場所だろう。円く拓けた石畳の広場には大きな街灯が立てられており、そこはまるでステージに当てられたスポットライトのようだ。それを囲むように一〇人以上――深夜とは思えない数の男たちが集まっていた。スマホを構えている者もいるのだから、そこで何かが行われているに違いない。
「ちょっ、おい……って!」
糸織の静止を振り切り、良からぬ予感が彼の足を急がせる。助けを求める叫び声が聞こえないのが唯一の救いかもしれない。
だがしかし、そこでは彼が予想だにしないことが行われていた。
「オッ、オッ、オオォッ!?」
蘭が何者かに襲われている。だが、彼女を捉えることは難しい。顔面へと撃ち抜かれた右拳、左拳を上半身の動きだけで躱し、腰を狙って振り込まれた右足にはすかさず距離を取る。間合いができたことによって相手は踏み込み――跳躍! 中段蹴りの勢いはそのままに、首から上を刈り取るような鋭い回し蹴り――だが、蘭はすかさずしゃがみ込み、上から降ってくる追撃に備えて側面へとコロリと転がり立ち上がった。そして、改めて向き合う。蘭がライオンのマスクをかぶっているため、まるで人が素手で獣に立ち向かっているかのようだ。そんな激しい攻防が一息つき、ギャラリーからも感嘆の声が漏れる。
だが、それはあくまで格闘技に対するもの。裸の女のコに対する欲情ではない。そして、ふたりの動きが止まったことで、彼はようやく視認する。蘭に暴力を奮っていた相手が肌色一色であることはわかっていた。男が彼女を殴り倒そうとしていたかのようにも見える。しかし――その股間にぶら下がるモノはない。胸の膨らみは――控えめながら、筋肉によるものではない、と両の乳首がはっきりと主張している。その髪型はサイドテール――だと思われたが、少し離れた地面に落ちているのは、彼女の自毛――蘭によって切り落とされたものでなければ、ウィッグ。どうやら、元々ツインテールだったが、戦いの最中に落ちたらしい。その傍には格闘の邪魔になったのか、掛けていたと思われる赤縁眼鏡も添えられている。
紛れもなくこれは――全裸女子同士の戦い――!?
「や、やめてください!」
とにかく事態を収拾しようと、プロデューサーはふたりの間に割って入る。これが撮影中ならスタッフが止めに来るはずだ。しかし――? 撮影失敗を悟って離脱したのだろうか。これまで全裸組み手を観戦していた男たちは、ひとり残らずこの場をさーっと離れていく。
そして、この状況を意に介していないのか――格闘少女の怒りは冷めやらない。
「あンだ、てめぇ。サツでもねーんだろ」
「そ、それは……」
彼女が天然カラーズの女のコのはずだ。助けに来たはずなのに、逆に凄まれるとは思いもよらない。
やっぱ、おにゃのこには弱いなぁ、と糸織はため息をつきながら、糸織が仲裁を買って出る。
「見物ちゃうで。この男はそこのライオン頭とウチのプロデューサーでな」
興奮していた女のコだが、その単語に少し気分も冷めてくる。
「プロデューサーってこたぁ……同業者かよ」
「では、やはり貴女が、天然カラーズの……」
目の前に立っているのは、別のアイドルをプロデュースしている関係者――それを理解できたからこそ、女のコもすっかり我に返った。
「きゃ~、男の人たちに見られちゃって恥ずかし~ん♪」
これまでの威勢が嘘だったかのような変わり身である。いや、すでに手遅れであり――いまさら猫をかぶったところで、虎の威を借る狐ならぬ、猫の威を借ろうとする虎である。
だが。
「…………っ!?」
この場で、彼女に熱視線を送るものはいない。いや、正確には彼ひとりだけなのだろう。彼女は、視線を受けて昂ぶっているわけではない。このように振る舞うこと自体に恍惚としているのだろう。それが――美しい――まさに、闇夜を照らす<スポットライト>――!
それを、こんなところで摘み取ってしまうわけにはいかない。この輝きを舞台に届けることこそ自分の使命なのだから。
「ハニートラップのミサさん……ですね? 他事務所の撮影は禁止されているはずですよ」
「だからぁ、アタシ、そんなことしないも~ん」
一度事務所からも注意を受けているため警戒しているのだろう。しかし、もうその心配はない。
「大丈夫ですよ。この件については不問にするとお墨付きをいただいておりますので」
「……えーと、アタシ、ハニートラップの仕事しか請けてないんだけど」
なかなか信用してもらえない。いきなり言われても無理な話か。
「後で事務所に確認していただければわかりますので、この場はひとつ……」
ここで、ミサの堪忍袋の尾が緩む。
「……しつけぇぞ、ニーチャン。事務所がもっといい仕事くれてりゃ、オレだってこんなことしてねぇよ」
しかし、ハッとして彼は周囲を見回した。よく見れば、少し離れたところから男たちは女のコを覗き見ているらしい。それに恥じることなく、ミサはクネクネとポーズを決める。
「ミサ、もっとも~っといっぱいカワユイとこ、見てもらいたいな~って❤」
この変わり身は、先程魅せつけられた糸織のようだ。
だが――だからこそ断言もできる。ミサというアイドルとしての姿は、あくまで仮初であると。しかしきっと、だからこそ、その姿に憧れ――美しく輝かせるのだろう。
***
河合ミサ――こと、桑空操に、他事務所への無断撮影の事実はなかった。本当に、彼女自身が望み、独断で行ったことらしい。
彼女はこれまで、卓越した空手の腕前と男勝りで粗暴な性格が災いし、女のコ扱いしてもらえたことがなかった。しかし、可愛さに対する執着は確かに秘めており、普段らしからぬぶりっ子キャラで動画配信を開始。だが、視聴数は増えず、破れかぶれになってアダルトサイトで脱ぎ散らかしてみたところ――そこで、彼女は知った。自分のような身体にも需要はある、と。
こうして、アイドルの中でも裸を披露する天然カラーズをあえて選び、みんなに可愛がってもらうことを願っていた。しかし、撮影は閉ざされたスタジオばかり。もっとみんなからの歓声を受けたい。ネット配信で、画面越しに流れていたログのように――その結果が、あの公開ストリーキングだった。
実のところ、操はたまたま見かけたファンムードの手口を何も知らずに真似しただけらしい。自分で考えるのも面倒だったし、こういう文面で告知すればきっと人が集まるのだろう、と。
なので、スケジュールに厳密な縛りはない。早めに到着していた操はすでに観客が集まっていたため三十分繰り上げてストリーキングを開始。一番“華やか”で“堂々と振る舞える”公園を目指していた。しかし、そこで出会ったのである。同じ趣味のオンナと――蘭のそれは趣味ではないが、彼女もまた、晴恵と同じく警察以外には無頓着だったようだ。しかし、操にとっては都合が悪い。他に似たような裸の女がいては、男の視線が分散してしまう。むしろ、スタイルの差からして、その多くを取られてしまうかもしれない。ゆえに、口論となり――
つまり、最初からファンムードはまったく関係がなかった。ゆえに、事務所から責められる筋合いは何もなく――ストリーキング自体、違法行為ではあるのだが。
ただ、裸を披露できる劇場があると知り――操は社長特権により、別事務所への出演を許可されている。よって、天然カラーズ傘下・ハニートラップに所属しつつも、TRKと兼業することとなった。ここで、男からの歓声を浴びるために。
しかし、彼女はこの街のことを少し深く知りすぎてしまったようだ。
プロデューサーは劇場の応接室で仕事をしていることが多い。舞台の際には舞台袖から見守れるし、何かあればすぐに対応もできる。
そして、何かあった。電話越しでも春奈の狼狽ぶりが伝わってくる。
『ぷ、プロデューサーさんっ、操さんが、そのー……また広場で……』
ライブネット社長・萩名兵哉の後ろ盾があるため、営業目的でない限り、女のコが新歌舞伎町で裸になったところで警察が動くことはない。それを知った操は、テンションに任せて勝手に路上でヌードショーを開いてしまうことがある。いまのところ、警察のお世話になったことはない。が、営業目的でなかったとしても、やりすぎては補導対象になるだろう。
やはり、自分が止めに行かなくてはならないのか、と腰を上げる。そこに――
「ちょ、ちょ、ちょ……プロデューサー!」
大慌てで入室してきたのはまこだった。どうやらちょうどリハーサルを終えたところだったらしい。普段は常識的にきちんと服を羽織ってくるのに、全裸で飛び込んできたあたり、相当慌てているようだ。
「見て、見て……コレ……ッ!」
差し出してきたスマホに表示されているのは、いわゆる芸能関係情報サイト。まこは常にアイドルたるため、このような情報を弛まず収集している。そしてそれは――
「『元』風俗嬢によるアイドルユニット……『PAST』……ッ!?」
アイドルとヌード――その方向性はやや似ている。だが、それをPASTのものとしているのだから、その真意はある意味真逆。
何より、まこを、そして、プロデューサーをも驚愕させたのは――
「プロデューサーは、ライブアイドルとして人気の高い……憐夜希氏……!?」