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かき氷

六月、第三日曜日

作者: 千日紅

 午前中の雨のせいで、地面は色を変えていた。雨は夏に向けてぐんぐんと上がる温度をしばし落ち着かせたらしい。早足でも、汗が滲む程度だ。といっても、不快なことには変わりない。

 公園はいつもより人が少なかった。これも雨のせいだ。公園の入口から出口まで、歩き慣れた道をたどる。

 終わりまで半分といったところで、終わりかけのバラの花びらが一枚、俺の靴の横腹に張り付いた。落ちていたのか、降ってきたのか。すぐに取れるだろうと、足を早め茶色く褪せたバラのアーチをくぐってみたが、忌々しく花びらはますますぴったりと靴に張り付いている。

 俺は舌打ちをして、あたりを見回した。バラ、バラ、バラ。色とりどりの、形も様々なバラが咲いている。葉は豊かに繁り、さながら緑に花柄の絨毯を敷きのべたよう。

 ちょうど、一段降りた小径ぞいに公衆トイレがあって、そこに休憩スペースが設えてある。濡れた草の斜面をおっかなびっくり滑り降り、バラの迷路の脇を通って、休憩スペースに飛び込んだ。

 目指した時には気づかなかったが、そこには先客があり、なかなかきちんとした身なりをした、老紳士であった。俺は間を開けてベンチに座り、さて、靴の花びらを取ろうと屈み込んだ。だが、花びらを素手で取るのが嫌で、俺は持ち物を探る。ティッシュ──ない。そこに、老紳士が声をかけてきた。

「どうぞ」

 紳士の手にはポケットティッシュが載せてあり、いつもなら断るところだが、俺は受け取った。ティッシュ越しに花びらを剥がし取り、そのままティッシュにくるむ。薄く透き通った、赤い花びらは、白いティッシュにすっかり隠れて見えなくなった。

「革靴で公園とは、珍しいですね」

 ティッシュ一枚でも、恩のある老人を無下にするわけにもいかない。確かに俺は老人が履いているような運動靴を持っていない。俺は「はあ」と顎を突き出した。

「でも、あなた、よくこの公園に来ていますね」

 驚いた俺の手元から、丸めたティッシュが落ちる。ベージュ色の床に、ぽちんと空白ができる。

「ああ、お気になさらないでください。僕のような老人が、公園に来るのは納得できますでしょう。何しろ、僕らには暇ばかりがある。けれど、あなたみたいにお若い人が、日を開けず公園にやってくる。花を見もせず、革靴で、こんなすてきな公園をただ一周、歩いていく。僕でなくとも、あなたのことを自然と覚えてしまうと思いますよ」

 俺はティッシュを拾おうとして伸ばした手を、ゆるゆると引っ込めた。

「……そんなに、おかしいですか、俺は」

「ええ、おかしいですね」

「あんたに関係ないでしょう」

「ええ、関係ありませんね。ただ、興味があると言うだけです」

 老人はにこにこしていた。老人にとって俺は、一時の暇つぶしの延長でしかないらしい。そう思うと、苛立ちが湧いてきた。

「何も、俺が来たくてこの公園に来ているわけじゃ無いですから。医者が行けっていうからです」

「ほう、お医者様が。それはどうしてですかね」

「どんな理由だっていいだろう!」

 俺は立ち上がって老人に怒鳴っていた。はっと立ち尽くした俺に、老人はやはりにこにこと続ける。

「まあ、まあ、そうカッカせず。僕のことはこけしか何かだと思って、話してみればいいではないですか」

 何を話せと言うんだ。怒鳴りつけようとしたところ、老人が顔を歪めた。うう、と呻いて、胸を押さえる。

「おい、ちょっとあんた、大丈夫か」

 老人はしばしかたく縮こまっていた。このくらいの年齢の人間の持つ、忍耐強さがそうさせたのだろう。俺は少し老人を見直した。

 しかしそれにしても、長すぎる。俺が救急車を呼ぶためにスマートフォンを取りだしたところで、やっと彼は体を起こした。

「ふう、年を取ると、どこもかしこも悪くなっていけませんね。……耳も大分悪くなってしまって。あなたが何を言おうと、ろくに聞けないし、ろくに覚えてもいられないかもしれません。ねえ、だから、話してみませんか、僕に」

 老人は青白く乾いた皮膚を引き攣らせ微笑む。薄い瞳の色が、苦痛の涙で揺らいでいた。

 ──俺を見ないでくれ。

 ベンチに腰を下ろした。ひんやりと冷たい感触が尻に伝わる。

「……あんたも、あの医者も、話せ、話せって、バカのひとつ覚えみたいに……話さなくても、知ってるくせに」



 妻に対する暴力。妻はそれを離婚の理由に挙げた。慰謝料? 生意気な女だ。親権? お前が息子を養えるはずないだろう。俺はお前達に家を与え、金を運んできただろう。俺のおかげで、お前達は何不自由なく生活できたんだ。

 両親は妻が騒ぎ立てたらどうするの、とパニックになった。裁判になって、会社に知れたらどうするの。あんないい会社。あんたは自慢の息子なんだから、あの女が悪いのよ、いいからとっとと離婚して、次を探せばいいじゃない。

 妻は知り合いのつてを辿って弁護士を立てた。離婚の条件のひとつに、精神科クリニックの受診があった。

「……生意気なんだよ、どいつもこいつも。俺がどれだけ、お前らのためにやってやってるか、わかろうともしないで」

 俺は、お前のためにやってやってるんだ。俺がやりたくてやってるんじゃない。お前が俺にさせているんだ。

 家のドアを開けると、ぷんとカレーの匂いがする。またカレーか。手を抜きすぎじゃないか、子供が好きだからって、子供のためにメニューを決めるな。

 なぜ、おもちゃが出したままになっている。言い訳をするな、俺が帰ってくるまでに、部屋は完全に片付け終わっていろ。俺が寛げないじゃないか。

 おどおどするな。こっちに来い、疲れているから? 生理だから? 俺を拒絶するな。

 俺に刃向かうな。俺に尽くせ、いつでも俺を忘れるな、俺を受け入れろ、俺を一番、大事にしてくれ。



「……なぜ、そんな風に思うんでしょうねえ」

「なぜ? それが当たり前だからだ」

「相手だって、ひとりの人間でしょう。あれこれ命令ばっかりしてちゃ」

「バカだからだよ! あいつらはバカだから、俺が命令してやってるんだ! 俺のせいじゃない、あいつらが悪いんだ。あいつのせいだ」

「あいつって、誰です」

 紳士は咲き終わろうとするバラの方を向いて、静かに尋ねた。萎れかけた花々は、雨に濡れ、更にみすぼらしく、俺には見えた。

 俺は、この公園に来ていた。花が蕾の頃から。下を向いて急いで通りすぎる道すがら、お前たちは咲いた。

 過ぎし日、あれらは咲き誇っていた。己の美しさを、この公園じゅうに見せびらかしていた。その為に蕾の時期を萼の上で待っていた。

 私は美しい、私を見て、私を。

 バラのアーチを、バラの迷路を、人々はくぐり抜ける。感嘆のため息、笑い声。バラのとげも、バラを蝕む虫を、人々は見ない。

 そして花は散り、湿った土の上で、朽ちつつある。



 ──お父さん。



 線の細い息子は、いかにも弱々しかった。女みたいで、息子を見るとイライラした。いつも家で折り紙だ、なんだとちまちま遊んで。妻は息子をかわいがった。冬は分厚いジャンパーを着せ、夏は何度も着替えさせた。妻の育て方に腹が立った。ことある毎に妻をなじった。そんなに甘やかして、この先、社会に出たらやっていけないだろう。

 社会ってのは女が考えてるほど甘くない。どうせ女は結婚して家に入れば何とかなるんだ。男はそうじゃない。

 どんなに辛くても、どんなに悔しくても、歯を食いしばって、頭を下げて、金を稼がなきゃいけない。一銭でも多く稼いで、家族を養っていかなきゃいけない。お前達は、それがどれだけ苦しいか知らないだろう。弱みを見せたらやられるんだ。誰も助けてはくれない。



 ──そんな目で見るな、そんな、何かを乞う目で。



 家を買うんだ。庭だってちゃんとある。きれいな妻と、立派な息子。俺のおかげだろ? 俺がいるから、お前達は幸せなんだ。だから、俺を敬ってくれ。俺を大切にしてくれ。そうでもなきゃ、俺はどうやって、どうやってこの先の長い時間を、これまでの長い苦痛を、頑張っても頑張っても、まだ頑張っても足りない、そういう日々を──生きて──いけば──いいのか──……。



 紳士は、すん、と鼻を鳴らした。

「雨の匂いと、バラの匂い……。やけにじめじめしてきましたね。ああ、ほら、晴れてきた」

 さあ、と光が地面を撫でる。濡れた小径を行き交った人々ににじられ、茶色く千切れ、なかば土に還った彼らを慰撫するように。

「公園の入口でかき氷、売ってましたね。どうです、ご一緒しませんか」

 かき氷、と聴いて、なぜか、胸がちりちりと焦げる。俺は大きなため息とともに、痛みを吐き出す。

「……あんた、物好きだね」

「ええ、よく言われます」

「憐れみか」

「バラは毎年散りますが、来年も咲きます。バラにとって必要な世話をすれば」

 俺は老人につられて立ち上がる。

 そして、床に落ちたままだった、バラの花弁をくるんだティッシュを拾い上げ、ポケットに入れた。


お読みいただきありがとうございます。

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