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遊びに行こう、と誘われたのだとレンディットは巫女殿へ戻る途中で語った。
水精は水の流れに乗って様々な場所へと出掛けて行く。レンディットを泉へ引き込んだ水精はまだ生まれたばかりで幼く、人間が自分達のように水流に溶け込んで移動する事が出来ないのを理解していなかったらしい。花冠をもらってご機嫌だった所為かその水精は大燥ぎでありレンディットが一緒に行けない事を説明する余裕も、他の精霊達が制止する間も無かったそうだ。
ユーリとネルが慌てて泉へ駆け寄った時にはレンディットは自力で縁に這い上がっていた。けほけほと咳込むレンディットの肩を支えながらネルが心からの心配に早口に尋ねる。
「おい、レン!大丈夫か、服!?全部絹なんだから気を付けろ、バカ!!」
「……巫女より先に衣装の心配か?」
余りの台詞にユーリは思わず閉口した。
「この季節、少しくらい水被ったくらいで風邪なんか引かねえよ。そもそもレンはこう見えて私より丈夫なんだ。だったら心配なのは衣装の方だろ。高いんだから」
何と言われようともネルの中での優先順位は寸毫たりとも揺らがないらしい。果たしてこれは長年の信頼関係のなせる業という事で片付けていいのだろうか。ともかく、ユーリは水辺に座り込んでいるレンディットに手を差し伸べた。
「大丈夫ですか、巫女様?」
「…あ、はい。少し驚いたくらいで、他は何とも……」
とにかくレンディットを着替えさせないとならない。ユーリ達は揃って巫女殿へと戻る事になった。レンディットの私室に辿り着くまでの間、守護士や女官等が全身ずぶ濡れの巫女を見て何事かと目を丸くしたが、其処はネルの指示によるレンディットのいつもの微笑みで上手く誤魔化した。一々説明しているのでは無為に時間を食うからだと言うネルの声は酷く焦っている。何だかんだと言いながらやはり心配なのだろう。
急ぎ足で私室へと到着するとネルはレンディットの腕を引っ張って足早に奥の寝室へと消えて行く。ネルの周章振りを見兼ねて手伝おうかと申し出るが、これは私の仕事だからと断られた。特に食い下がる気も無かったので一人取り残されたユーリは近くの壁に背中を預け、レンディットの着替えが終わるのを待つ。
部屋はしんと静かで、寝室からの物音がやけに耳に届く。つと聞こえてきた声にユーリは眉根を寄せて寝室へ続く扉に目を遣った。
「だあーっ、ごちゃごちゃ着てんじゃねえよ!しち面倒臭え衣装だな!」
「これでも一応、略装なんだけど…」
「さっさと脱げ!そして身体拭け!」
凡そ侍女のものとは思えない暴言である。女官長辺りが聞いたら小言の一つや二つでは収まらないに違いない。あの叔母と姪は、各々の巫女への接し方について意見の相違があるようだった。
しかしながら今の遣り取りだけを取り上げてみれば、ユーリも女官長側の言い分に賛成してしまい兼ねない気分である。それだけでは終わらずネルは続け様に大声で巫女を痛罵しているのだから尚更というものだ。
「あーもう、髪長ぇーんだよ!鬱陶しいなあ!」
「こっちだって好きで伸ばしてるわけじゃ……痛っ!ちょっ、ネル、引っ張らないで…っ」
どうやらネルはレンディットの髪を拭いているらしい。手拭いで乱暴に巫女の髪を擦る侍女の姿が容易に脳裏に浮かぶ。曲がりなりにも護衛役の人間として未だかつて無く声高に上がったレンディットの悲鳴が気に掛かり、ユーリは扉へ向かって問う。
「大丈夫か?」
作業に手一杯で聞こえないのか、返事は無い。聞こえてくるのは苛立ったネルの声とレンディットの短い悲鳴ばかりだった。
「…痛っ、痛いってば、ネル!」
「お前の髪が細い所為だろ!?だから絡まっちまうんだよ!!」
「も、もういいよ…。後は自分でやるから…」
「煩え!いいからお前は服でも着とけ!!」
ネルの怒鳴り声に合わせて室内からはまたもや悲鳴が上がる。ネルは恐る恐るなされたレンディットの提案を無視して髪を拭く作業に戻ったようだ。自分の仕事に誇りを持っている、というよりは最早意地になっているようなネルの顔が目に見えるかのようだ。
これはいい加減、止めに入るべきではないか。
悲鳴混じりのレンディットの抗議の声を聞いていると段々と不憫になってきた。まあ、多少程度の違いがあれどもこれがこの二人の常態であると言えなくはない。なので放っておいても問題無いといえばその通りなのだろうが、着替えが終わるまでずっと此処でこの騒ぎを聞き続けるというのも辛い。
ユーリは大儀だなと溜め息をついて寝室の扉を軽く叩いた。が、幾ら待っても応答すら無い。もう一度、今度は強めに戸を叩いてみるも無意味だった。
中から聞こえる話し声――というか、悲鳴と怒声は一層激しさを増している。恐らく二人にはユーリの声など聞こえていないのだろう。
返事は無いが、内部の状況を考えれば放っておくのは憚られる。仕方無くユーリは寝室の扉に手を掛けた。
「――ぃよっし!これで後は梳かせば……って――」
緑銀の頭を乱暴に掻き回していた手拭いを脇に放り出してネルが大仕事をやり遂げたような顔をする。だが得意げなその表情はユーリが寝室に足を踏み入れた事に気付くと瞬時に凍り付いた。
ユーリは呆然と其方を見つめ、それでもどうにか詰問の一言を絞り出す。
「………どういう事だ?」
扉を開けたユーリの視界に映ったもの。それは満足げに手拭いを放るネルと、その傍らで湯上がりに使う大きな手拭いに包まり、ぐしゃぐしゃになった長い髪を顔の前から追い払うように片手で撫で付けているレンディットの姿だった。
まだ衣装を纏っていないレンディットは手拭いの合わせ目から透き通るように白い肌を覗かせている。精霊宮の建材に用いられている大理石の白さに勝るとも劣らない、レンディットの真白い胸元。其処には、十四という年齢であれば多少なりとも存在するだろう筈の膨らみが完全に無かった。
その事実が意味するところを考えて、ユーリは多大なる混乱を覚える。
「……あ、…ええと……」
一瞬で石像のように固まってしまったネルとは違ってきょとんとしていたレンディットも自分の胸元をユーリがまじまじと見つめる意味に気が付いたようで、狼狽えたように視線を足下に彷徨わせた。
「…えー、あー……。こ、こいつ発育悪くってさあ――…って、やっぱり無理があるか」
この場を取り繕おうと努めて明るく、冗談めかしてネルが言った。当然ながらそれで誤魔化せるような事態ではない。自分でも解っているらしいネルは言葉の途中で盛大に息をつき、がしがしと頭を掻いた。
「……お前が早く服着ないからこういう事になるんだぞ、レン」
「…だって、ネルが髪の毛引っ張るから…。あんな風にされてたら、着替えようにも出来ないよ…」
横目でお互いを非難するように見合って、巫女と侍女は同時に深い溜め息をついた。片方は俯いて、もう一人は天を仰いでの溜め息だったが、込められた想いは同一のものだろう。
史上随一とも謳われる稀代の才能の持ち主であり、類稀なる美貌でも広く知られる二十七代目精霊の巫女レンディット=ノワール。その巫女が本当は〝男〟であったなどと吹聴してみたとて一体何人が信じるだろうか。
疑念と驚愕と、幾許かの気不味さが入り交じった重い沈黙が寝室内に降りる。
ユーリは説明を求めて厳しい視線をレンディット達へ向けた。追究から逃れるように顔を明後日の方向へ背けたネルが疲れた風に、一際大きな溜め息を吐き出してしゃがみ込む。
「――あー…悪いけど、説明は後で。まずはこのバカにこの面倒臭え衣装、着せちまうからさ」
沈痛な面持ちのネルに了承を示し、ユーリは踵を返して一旦寝室を後にする。彼はネルよりも丈夫だという話だが、いつまでもあんな格好をさせていては風邪を引く事もあり得る。安全性を考慮してか巫女の寝室には窓は存在せず、私室の方へ出て来る他にあの二人に逃げ道は無いのだから、有耶無耶にされる恐れは少ないだろう。
奇妙な夢でも見ているようだった。生来の性質から大して表に出さないだけで、実際にはユーリは激しい動揺と困惑に襲われていた。
落ち着こうとして気息を整えつつ、ユーリは後ろ手に寝室の扉を閉める。
扉の閉まるその瞬間、背後の寝室からはレンディットの小さなくしゃみが聞こえた。




