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ファルガに連れられてユーリは本殿の東にある守護士等の訓練場へとやって来た。
移動の途中に回廊から見上げた空はいつしか薄明に染まっている。陽が落ちた事で少し肌寒く思えるような風を感じながら、ユーリはファルガと共に訓練場の扉を潜った。
詰め所の裏庭を利用している衛士隊の訓練場とは違い、守護士等のそれは屋根付きの独立した建物となっていた。街の通りの舗装などに使われているのと同じ材質の石床に縁取られ、中央に広く土の剥き出しになった地面がある。
場内では数人の守護士達が仲間同士で剣を打ち合わせたり、木で出来た人形を相手に剣を振るうなどして思い思いに鍛錬に励んでいた。そのいずれもがファルガが場内に入って来た事に気が付くと手を止めて挨拶をする。彼等の言葉にはファルガへの確かな敬慕と親愛の情が込められていた。
「稽古中に邪魔して済まんな。悪いが、少しだけ場所を空けてもらえるかな?」
地位が遙かに上であろうとも下の者に対する礼を忘れない。実力に加えて礼節を重んじるこうした人柄こそがそのように慕われる要因の一つでもあるのだろう。ファルガの一言で今の今まで鍛錬をしていた筈の守護士達が一斉に動き出し、場内の中央を明け渡す。
「いや、本当に一角を貸してもらえればいいのだが」
周囲の石床に整列した守護士等を見てファルガが苦笑する。ファルガは壁際の武具掛けの方へと行き、其処から長剣を二本手にして戻って来た。
「儂の剣は特別製なのでな、大抵の剣は打ち合うとすぐに刃毀れしてしまう。お互いこれで遣り合うとしよう」
手渡されたのは練習用の刃引きした剣だった。ユーリは剣の柄を握って軽く一振りする。刀身の長さは衛士に支給される品よりやや短く、その分少し軽くなっている。真っ直ぐな刀身は扱いに癖も無く、特に普段と変わらずに振るう事が出来るだろう。
あの衛士は一体誰だ。どうしてファルガ様と手合わせを。周囲ではそんな疑問が交わされていたがユーリは気に留めなかった。意識は既に集中の中にある。
互いに示し合わせて相手まで数歩の距離を取り、剣を構えて向かい合う。豊かな髭に覆われたファルガの口許が少しだけ笑ったように見えた。
「では、始めようか」
穏やかに告げられた開始の言葉。次の瞬間、ファルガの体躯が微かに沈んだかと思うと老巫女守は一瞬でユーリの眼前にまで詰めていた。
頭上から振り下ろされた一撃を咄嗟に剣で受け止める。とても老齢とは思えない速さと剣の重さにユーリは目を見張った。
先制を受けてこれ程の焦りを感じたのは久し振りだ。しかし平時に比べて鼓動が早鐘を打っているのは焦りの所為ばかりではなかった。
剣を払ってファルガを弾き、ユーリは一歩跳び退る。地に足が着くと同時に再度地面を蹴って今度はユーリの剣が斜めに切り払う形でファルガへと迫った。
一方ファルガは足を半歩引き、円を描くように回転して一閃を躱した。純白のマントが大きく翻り、ユーリの視界からファルガの動きを覆い隠す。
マントの陰から突き出される剣を躱す事が出来たのは偏にユーリがそれを警戒していたからだ。突き出された剣の脇を擦り抜け、攻勢へ転じ流れるように連撃を繰り出す。が、ファルガはユーリの剣を全て受け流し、即座に反撃の構えを取る。
二人の剣が切り結び甲高い金属音を立てる度、周囲からは歓声にも似たどよめきが上がっていた。だがそれ等の声はユーリの聴覚へ届く前に研ぎ澄まされた意識によって遮蔽されている。ユーリの知覚が捉えているのは目の前にいるファルガの動き、ただそれのみだ。
全身から発せられる気迫に思わず気圧されそうになる。轟く稲妻を思わせるような凄まじい剣を振るいながらもファルガは笑みさえ浮かべていた。立ち合いを始める前よりも生き生きとした彼の表情には、未だ衰えぬ武人としての精神が映し出されている。
押しては引いて互いの出方を窺い、己が腕の延長のように剣を振るい続ける。ファルガの鋭い剣捌きに押され始めるも、段々とその動きにユーリの眼が慣れてきた頃。
「…ぐっ!」
後方から斬り上げるように繰り出されたファルガの剣が聞こえるか聞こえないかの呻きに重なり、数瞬硬直する。ユーリは異常を見出しはしたが、本気で剣を交えてくれるファルガへの礼儀として其処で退く事はしなかった。
中程から切っ先へと刀身を擦り上げるようにして絡め取ったファルガの剣をユーリの剣が大きく弾き飛ばす。返す刀で手の中の剣をファルガの喉元に突き付けてユーリは荒く息をついた。
「――何処か、お身体の具合でも?」
剣を向けた姿勢のままで尋ねるユーリに、ファルガは幾らか汗の浮いた顔で微笑んだ。
「…儂ももう年でな。だからこそ後任を選ぶ事にしたのだよ」
言って、降参を示して両手を上に上げるファルガ。満足げに笑む老巫女守を見つめてユーリは剣を下ろした。
「出来るならば万全の状態の貴方と手合わせしてみたかったと思います」
「はは、小娘が言いよる。だがその心意気や良し。腕前の方も合格だ。儂の後はお主に任せる事としよう」
聞いている方まで気持ち良くなるような豪快なファルガの笑い声が訓練場に谺する。二人の手合わせを見守っていた守護士達の間からは感嘆と落胆とが入り交じった溜め息が洩れた。
ユーリは地面に落ちた剣を拾おうとするファルガを制してそれを拾い上げ、二本の剣を片付けに行く。ふと背後でファルガの一驚が聞こえた。続いて先程の立ち合いの時以上に守護士達がざわめき出す。
「おお、これはレンディット様!如何なされたか、このようなむさ苦しい所へ?」
剣を武具掛けに戻してからユーリが振り返ると、訓練場の出入口の所に二人の少女が姿をあった。一人は先刻巫女殿まで案内してくれたネル。もう一人は風変わりな緑銀の長い髪の少女。その少女が誰なのか判らない程ユーリも莫迦ではない。
「爺様……」
際立って端麗なその顔に憂色を湛え、巫女は傍へやって来たファルガをおずおずと見上げた。
「……あの…」
「何ですかな?む、さては儂が寄り道せずに戻って来るか心配で迎えに来て下さったのですかな」
可愛がっている孫とでも接しているかのように気さくにファルガが巫女を抱き上げる。幼い頃からの関係故にか巫女は別段嫌がる様子も無く大人しくファルガに抱えられている。
「おお、そうだ。レンディット様、あちらにいるのがお話ししたユーリ・ヴィッセです。今し方儂が実力を認めたところですからな。儂がおらぬようになった後も、どうか安心して下され」
ユーリを紹介しようとしてファルガが身体の向きを変え、今までファルガの陰に隠れていた巫女がよく見えるようになる。巫女守に抱き上げられた巫女は幾重にも重ねた絹衣に埋もれており、その様はさながらファルガの胸に装飾された布飾りか何かのようだった。
自分の就任時から常に傍にいた巫女守が退任を控えているのが寂しいのだろうか。涙を堪えるように震える少女の翡翠の瞳がのろのろとユーリを見た。此方へ向いた巫女の視線にユーリは無礼の無いよう膝を折って頭を垂れる。
「どうです?なかなかの男前でしょう。尤も、女性なのですがな」
ついさっきまでの威厳に満ちた口調は何処へ行ったのか。ファルガは茶目っ気たっぷりに冗談を言った。だが巫女は口を噤んだまま、頽れるようにファルガの首にしがみ付く。
「おやおや。儂の方が彼女より男前ですかな。流石、レンディット様は見る目がありますのう」
ぽんぽん、と片手で巫女の背中を軽く叩いてファルガが優しく語り掛ける。ファルガの態度は泣く子を宥める祖父のようで、二人の間に存在する確かな絆を察するには充分だった。
「――ファルガ様。そろそろ巫女様をお部屋へお連れして頂けますか?じきに夕食のお時間でございますから」
それまで黙って傍らに立っていたネルがそっとファルガへと声を掛ける。ファルガは心得た様子で頷いて巫女を下ろし、その手を引いて歩き出した。
「では、ユーリ。よろしく頼むぞ」
肩越しに掛けられた言葉は至極真摯なものとしてユーリの耳に響いた。ファルガと巫女が訓練場を出て行くのを見送って、ネルがユーリの許へ歩いて来る。
「ユーリ様。どうぞ、精霊宮の入口までお送り致します」
手前で立ち止まりお辞儀をしたネルは、ユーリの答えを待たずに訓練場の出口へ引き返して行く。この場に留まる理由も無いのでユーリは赤髪の侍女に続いて訓練場を後にした。
外に出ると景色はすっかり夜になっていた。頭上に広がる満天の星々に囲まれて月は明るく輝き、清らかな光を地上へと降り注がせている。
此処からなら脇から塀に沿って抜けてしまった方が早そうな気もするが、ネルはきちんと本殿を通り抜けてユーリを精霊宮の外門へと案内した。こういう畏まった場所では移動経路の短縮も許されないのかも知れない。
門や本殿の側の篝篭には来た時にはまだ灯されていなかった炎が赤々と踊っている。道を譲って本殿へと続く石畳の参道の端に避け、ネルは見送りに謝辞を述べた。
「巫女守のお役目、お引き受け下さり大変有難く存じます。引き継ぎの日程など、その他詳しい事は後程使いの者がお伺い致しますので。本日はご足労頂き誠に有難うございました」
「了解した。度重なる案内、感謝する」
ネルに礼を言ってユーリは精霊宮を背に参道を下る。
巫女は随分とファルガに懐いているようだった。また、老齢を理由に引退するファルガの方も巫女をとても可愛がっている。其処へ当のファルガに推薦されたとはいえ、自分のような者が中途から入っていって新たな巫女守として受け入れてもらえるのだろうか。衛士隊の寮へと帰る道すがら、ユーリはファルガの後を継ぐ事の不安を思った。
先の事を考えると面倒で気が塞ぐ。だが、そんな憂鬱も寮に着く頃には明瞭な解決を得た。
無用な危惧などしなくていいのだ。ユーリにとって巫女守になるという事は仕事以外の何ものでもないのだから。要は巫女を守るという職務に己が忠実であればいいだけだ。
我ながらく下らない事を考えて無駄に悩んだものである。少しばかり自嘲してユーリは衛士として仕事を終えたいつもの一日と同様に、多少酒の入った同僚で溢れる寮の喧噪へと帰って行った。




