1
祭殿の外では巫女舞に先駆ける祭司官等の祈りの歌声が続いている。厳かに流れゆく混声を聞きながら、ユーリは祭壇の側に立っていた。
内容が内容なので民衆には今回の一件は伏せられているが、過日の事件は祭司長という重責ある地位に就く人間が巫女の命を狙ったというその事実により、一部王城の人間を含めた精霊宮内外に多大なる衝撃を齎す事になった。それでもこうして例年通りの祭日に滞り無く秋の精霊祀を行う事が出来たのは、女官長が機転を利かせて万事上手く事を収めたからに他ならない。
あの日、闇に呑まれて姿を消した祭司長の行方は杳として知れず、現在は死亡に等しい扱いとなっている。彼がどうなってしまったのかは謎のままだが、さながら冥府に通じているかのようなあの闇に呑まれて生身の人間が無事でいられはしないだろう。
祭司長が事件を起こした動機は〝私怨〟という事以外は皆には明かされていない。ユーリ等の知る真相は様々な事情を考慮すると到底公言など出来るものではなく、次第のほとんどを誤魔化さざるを得なかったのだ。一味の中で生き残った見張り役の二人の守護士も真実は聞かされていない者達であったが為に隠蔽は思ったよりも容易に運び、祭司長の言っていた『権力さえば何でも出来る』という言葉が皮肉にも証明される結果となった。余談ではあるが、眠り花の一件に携わった元女官も守護士二人の投獄と併せて捕縛されている。祭司長に傾倒していたらしい彼女は彼の頼みとあらばと奮起し、子細など深く考えずに計画に荷担したのだという。偽りの弁明の中で恋人から花をもらったと語っていた事からは彼女の祭司長に対する想いの深さが推察される。
内部では祭司長の私怨についての様々な憶測が飛び交った。祭司長の日頃の言動を知る者達の間では絶大な支持を誇る巫女に対する妬みや嫉みが積み重なった末、今回の事件を引き起こすに至ったのだろうという意見が多いようだった。
大きな事件であるが故に皆が話題にするからか、態々知ろうとしなくても其処彼処で自然と耳に入る多くの噂話。だがその中で祭司長の動機云々以上に声高に囁き交わされていたのは、他でもないレンディットに関する崇敬にも近い賞賛だった。
――曰く、精霊に守護された奇跡の巫女姫。
巫女殿の女官達までもがひっそりとレンディットをそう呼び、口を揃えて噂話に花を咲かせているのをユーリはこの数日の間だけでも随分と耳にした。
内部の者といえども皆が皆、巫女が救出された際の状況を知るわけではない。だが、その中で離れに駆け付けた守護士等の口からその様相を聞いた者もいるのだろう。人間の力では為し得ないその場の有様に精霊が自ら巫女を守ろうとしたのだろうという話が事件の翌日から誰からともなく広がっていた。現場にいたユーリでさえも同じ勘違いをしたのだから致し方無い。噂の行方にレンディットは居心地悪そうにしていたが、真実を語る事が出来ない以上はと仕方無く聞き流しているようだった。
ユーリから見れば自業自得なのだが、レンディットは一連の事件に関わった者等の末路に対してとても心を痛めていた。殊に祭司長等を手に掛けてしまった事で、罪悪感から来る重苦と良心の呵責に二、三日の間は暗く沈んでばかりいたものだ。そんなレンディットを見兼ねて叱り飛ばしたのはやはりというかネルだった。
「いつまでも落ち込んでんじゃねえ!てめえがそうやってうじうじ悩んでるっていう事はな、ユーリを助けた事まで後悔してるのと同じ事だからな!!」」
この厳しい一喝にレンディットは苦悩から叩き起こされたかのような顔をした。持つべきものは剛毅な妹、とでも言うべきだろうか。あの時の平手はユーリもぎょっとするような凄まじい音がしていた。尤も、ネル本人に言わせれば「拳でなかっただけ有難いと思え」との事なのだが。
「…もうすぐ、終わりますね」
不意に、外から響いてくる歌声に耳を澄ませていたレンディットが呟いた。階段の下方へ目を向けている横顔は非常に落ち着いていて、緊張の色は少しも見受けられない。レンディットは精霊祀への参列に回廊の二階へと上がって行った王族等と挨拶を交わす際にも平然としていた。王妃の安産の祈願の時にも思ったが実際大した度胸だと、余り顔に出ないだけでそれなりの緊張を感じているユーリは感心する。
「よく平気だな」
「ええと……慣れましたから」
祭殿内にいる守護士や楽師役の祭司官達に聞こえないよう小声で発した言葉。短い一言のその意を正確に汲んで、レンディットは此方に顔を向けて淡く微笑んだ。ユーリを見上げる動作に合わせ、木の実を模して宝石の嵌め込まれた髪飾りが澄んだ音を立てる。
秋の精霊祀は豊穣を願い、地精へと捧げるもの。今日のレンディットの衣装は地精を象徴する黄色を基調とした礼装になっている。同様に普段は自然に流しているだけの髪も一部だけを高く結い上げて垂らしていた。その装いには普段の清雅さに加えてまた別の煌びやかさが加わっているが、ユーリとしては装いの出来映えよりも支度を終えた後にレンディットが珍しくうんざりした顔をしていた事の方が印象的だった。
他の女官に手伝ってもらう事が不可能なのでたった一人でレンディットの支度を整えたネルは今頃、レンディットの部屋で存分にだらけている事だろう。ユーリ等が祭殿の方へ移動する時刻には早くも長椅子に寝転んでおり、此方を見もせず適当に手を振るというぞんざいな見送り方をしていたくらいだから、宣言通りに本当に昼寝でもしているのかも知れない。
先に己の仕事を終えたネルとは違って、ユーリやレンディットはこれからが役目の本番である。最後の旋律を長く引き延ばしている外の祭司官等の声がそれを告げていた。
祭壇の下では楽師役達が各々の楽器を抱え、来る出番に背筋を正している。頃合いを見計らってユーリはレンディットへと片手を差し出した。ふわりと重ねられたレンディットの手を取り、隣で支えるようにして階段を下りていく。微かに沈み込む足下の青い絨毯の感触と少し冷たいレンディットの手の温もりを感じながら祭殿の大扉の前に立つ。扉の向こうでは選定が間に合わず不在となった祭司長の役を任された祭司次長が錫杖を打ち鳴らし、祈りの終わりに盛大な拍手が沸き起こっていた。
祭司官が舞殿を降りる暫しの時間の後、左右の扉が外側から厳かに開かれてゆく。
中庭では巫女の登場を今か今かと待ち望んでいた民衆が期待に顔を輝かせていた。精霊祀という儀式の場であるのを憚り、人々は喉まで出掛かった歓声を堪えているようだ。
扉の傍らで、現在不在の守護士長の代理を務めるイオン副士長がユーリの方を見て笑う。祭司長等の件もあってレンディットの事を甚く心配していた彼はユーリが巫女守として復職したのを聞くと、まるで我が事のように喜んでいた。
守護士達の間では先の守護士長を批判する傾向が強いらしいが、副士長は亡き守護士長に対して同情的な数少ない人間だった。騙されていたとはいえ守護士長は確かに祭司長の私怨に荷担した。だが彼はただ視野が狭かっただけで、己に恥じる事の無いよう正義を貫こうとした姿勢そのものは間違ってはいなかったのではないだろうか。守護士長の遺体を前に黙祷を捧げ、副士長は上司の死を惜しむように言っていた。
副士長等の前を通り過ぎ、立ち並ぶ祭司官等の間を抜け、舞殿への上がり口の手前でユーリは足を止める。ユーリが付き添うのは此処までだ。握っていた手を離すとレンディットはそっとユーリを見上げて小さく笑み、楽師達を従えて舞殿の中央へと進み出て行く。
楽師達が後方で膝を突きそれぞれの楽器を構える中、舞殿の中央で立ち止まったレンディットは典雅な挨拶を行ってから空へ右手を差し出し、すうっ、と息を吸い込んだ。中庭を渡る秋風がレンディットの髪と衣を揺らして駆け抜け、同じ風にユーリの纏う純白のマントがはためいた。
舞殿に立つレンディットの姿にふと彼が巫女位に就いての初のお披露目だったあの大精霊祀の夜を思い出し、少々の感慨を覚える。観衆の側から舞殿を眺めていたあの時は、まさか後に自分が巫女守として此処に立つ事になるなどとは思いもしなかった。
そういえば、あの夜に出逢ったものがもう一人いたか。今日は背中にへばりつくようにして気配を発している闇精にユーリは意識を向ける。闇精は機嫌良さそうに今度は左肩へと移動した。これから始まる歌舞が楽しみならしく、負ぶった子供が身を乗り出して前方を見ているような感覚が肩先にある。
初めの一音が大気を震わせる。低い音階から始まる地精へと捧げる祈りが透き通るようなレンディットの歌声で紡がれる。それを合図に祭司官達が歌を彩るように音楽を奏で始めた。
実り豊かな秋の訪れと豊穣を授けてくれる精霊への感謝を述べる出だしの一節を歌いながら、レンディットは大きく広げた両腕を優雅に伸ばし、複雑な舞の振りを辿ってゆく。しなやかな腕の動きに、長く幅を持たせた袖と重ねられた衣の裾が舞い散る花弁のように翻った。
舞うレンディットの周囲でぼんやりとした揺らぎが浮かび上がる。陽炎のようにも見えるそれ等は捧げられる歌舞に朧気な像を結んでゆき、やがて人に近い姿を形作る。
レンディットの感応力を介して可視化した幾多の地精達は、舞殿の上を覆い尽くすかのように飛び回っている。精霊の出現に観衆から小さなどよめきが沸き起こるが、場がすぐに静まり返る事をユーリは自身の経験から知っている。
引き摺る程に長い衣装の裾に空気を孕ませて、レンディットが軽やかに身を翻す。レンディットを中心に円を描くように集まった地精達はレンディットの舞をなぞって次々と青空に身を踊らせた。その光景はさながらレンディットという花心を持った大輪の花が宙で花開く様のようで、参列する人々は皆息を呑む事さえ忘れて精霊達の群舞に見入っていた。
ユーリも役目を忘れて思わず見惚れてしまいそうになったが、見惚れて呆けるのは意識の半分だけに止め置く。守である自分が他の者と一緒に見入っていては不測の事態が起こった時に反応が出来なくなってしまう。とはいえ、つい護衛の務めを忘れ掛ける程にレンディットの歌舞は素晴らしかった。
大地の躍動の如く力強く、それでいて温かく包み込むような旋律。高らかな祈りの歌声が中庭に美しく響き渡る。レンディットは息一つ乱さず地精への感謝を歌い上げ、舞を続けている。レンディットの瞳は周囲に集う地精達へと向けられており、時折浮かぶ楽しげな微笑が精霊達との間の確かな繋がりを思わせた。
高く澄んだ秋空の下。レンディットが歌い、精霊が舞う。レンディットが腕を引けば精霊達が腕を差し伸べ、足取りで鼓動のような拍子を刻めば、同じ拍子を取って実体の無い身体が揺れる。其処には誰も入り込む事の出来ない、彼と精霊だけの世界が在るかのようだった。
尾を引くように声を伸ばして歌うレンディットが両腕を斜めに広げて軽く上体を傾げ、その場で緩やかに身体を一回転させる。最中、此方へ向いた翡翠の瞳がユーリの姿を映した。
瞬きにも満たない、ほんの一瞬の空白。次いで、レンディットは微笑んだ。ユーリだけを見つめ、心からの笑顔で。
続く舞にレンディットは再度此方側に背を向けるが、その笑顔がユーリの心に刻まれるには今の一瞬だけで充分だった。
――守りたいのは、あの笑顔。形だけではなく、レンディットが心の底から笑う事が出来る日々。その為に、自分はこうして彼の傍にいるのだ。
ユーリは精霊と共に舞い踊るレンディットの後ろ姿を見遣り、少しだけ笑みを浮かべた。
遙かな蒼穹にレンディットの歌声が谺する。盛りを終えて穏やかに降り注ぐ陽光が地精を透かして舞殿へと降り立ち、風は秋の香りを存分に含んで草地に細波を起こしていた。