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精霊と踊る君と  作者: 此島
六章
31/33

 扉を開けた瞬間に視界に飛び込んで来た、仄かに輝くような緑銀の色。見たところレンディットに怪我は無く、その事に胸裡で秘やかに安堵する。

「…ユーリ・ヴィッセか。疾うに役目を降ろされた人間が今頃何の用か?」

 冷たい一瞥と皮肉や嫌味の響きさえ持たない冷ややかな声が、この場にいる誰がこの件の首謀者であるのかを指し示していた。

「自分が何をしているのか解っているのか、祭司長?」

 問い掛け、ユーリは油断無く室内にいる者等の立ち位置を見た。部屋の一番奥、寝台の側に探し求めていたレンディットの姿がある。その傍らには祭司長が冷然と佇んでおり、祭司長から数歩手前の位置に当惑する守護士長が立っていた。

「当然よ。私はあのあばずれの薄汚れた血統に制裁を加える為に此処にいる」

 底冷えのする声で言い放った祭司長は切れ味鋭い刃物のような眼をしている。邪魔をするつもりなら容赦はしないと、鳶色の双眸が言葉よりも雄弁に語っていた。だがユーリは元より邪魔をするつもりで此処に来ているのだ。今更その程度の脅しで怯もう筈が無い。

 構わずに其方へ進み出るユーリの進路を遮って二人の守護士が前に立つ。彼等の顔には多少の困惑が浮かんでいるが、それは予期せぬ人間が現れた所為であって他には何の戸惑いも持ち合わせていないらしい。祭司長の態度にも動じていないところから察するとこの守護士等は見張りの二人とは違い、祭司長の息の掛かった委細承知の者達であるようだ。

 手合わせをした時の持って回ったような意味深長な言動からユーリは守護士長を怪しんでいた。けれども守護士長も所詮は都合のいい手駒でしかなかったのかも知れない。現に守護士長は事態が呑み込めておらず、何の話だと問い質す視線を祭司長へ送っている。

「お前は…知っているのか?」

 道を塞がれ足こそ止めたものの、ユーリは間に立ち塞がった守護士等を無視して祭司長へ問う。祭司長はさもつまらなげに鼻を鳴らした。

「気付かぬ方が愚鈍というもの。私としては馘首された守が真実を知っている事の方が驚きだが?」

 苦虫を噛み潰したように祭司長は続ける。

「…この娘の眼は母であるあの女に生き写しではないか。清廉潔白な巫女の皮を被り、何処の馬の骨とも知れぬ輩と情を通じていた、あの汚らわしいノワール=アルメリアの眼とな!」

「なっ、何だと!?」

 思いも寄らぬ話だったのか、守護士長が愕然とする。ユーリは対照的に至極冷静に祭司長の台詞を聞いていた。

 祭司長は先代のノワールがレンディットの母親である事を知っている。だがしかし、レンディットが彼女の〝娘〟ではなく〝息子〟である事は知らないと見える。祭司長の知る事実は完全ではないようだがユーリは黙して言及は避けた。代わりに驚愕に絶句していた守護士長が声を荒らげる。

「ど、どういう事だ、ラグナー!?そなた、この少女は巫女の血筋とは縁も所縁も無い人間だと、女官長が精霊宮の実権を掌握せんとして己の都合の良いように巫女として仕立て上げた者であると……そう言ったではないか!!だから私は不正を糺す為に奮起して――」

「これは失礼、バルテス殿。貴殿に真の事を話しても下らぬ忠誠心を発揮こそすれ、此度のようなご協力は得られぬと思いました故。しかしながら、仮令血統正しくあれども不正に違いはありませぬ。この娘は不義の子。貴殿が正義を振り翳して糾弾するに些かの問題もございません」

「そういう問題ではない!私は巫女の位に就いているのが歴代巫女の血を一滴たりとも受け継がぬ娘だと、そう聞いたからこそそなたに協力を約束したのだ!それが今になってこのレンディット=ノワールがノワール=アルメリア様の実子であるなどと――どういう事なのか説明してもらおう!!」

 怒濤の勢いで捲し立てる守護士長は顔を真っ赤に怒らせ、大きく肩を上下させている。祭司長の言を疑っているというよりは、半ば以上信じた上で己が謀られていた事に激しい憤りを覚えているようだ。

 己に向けられた憤激にはまるで興味の無い祭司長は小莫迦にするような一瞥を守護士長にくれた。次いで顔だけでレンディットの方を振り返り、冷たい刃を思わせる怖気を震うような声で言う。

「私に言わせれば、この眼を見て何故気付かないのだと逆にお尋ねしたいところです。我々とは異なる世界を覗いているような、全てを見透かしておきながら何も見えぬ振りをしているかのような、この不愉快極まりない目付き。長じるにつれ益々似てくる。――おかしいと思っていたのだ。二十七代目は王家の姫君に決まり掛けていたというのに、突如現れた遠縁の娘が巫女位を継ぐなどそうそうあり得る話ではない」

 溜め息めいて長く息をつき、祭司長は暗く淀んだ光を湛えた瞳で向かい側にいる一同を見回した。その睥睨に射竦められ守護士長が僅かにたじろいで息を呑んだ。

「類稀なる親和性と感応力。それがこの娘が巫女に選ばれた理由という事になってはいるが、確実に何か裏がある。そう思ってこの娘の出自を調べる内に気が付いたのだ。翡翠と緑の違いはあれど、この眼はあれと同じものだと」

 奥底に押し込めた憎悪の感情を絞り出すかのような祭司長の言葉。其処に秘められた感情の並々ならぬ強さに、まだ幾らか半信半疑の様子である守護士長がレンディットを窺い見る。レンディットは何処か哀しげに瞳を伏せた。

「…し、しかし、ノワール様は未婚の身であらせられた。その御子などいる筈が――」

 信じられないのか、信じたくないのか。守護士長はせめてもの抵抗のように言葉を探して目線を右往左往させている。そんな守護士長を嘲って祭司長は酷薄に微笑した。

「未婚では子が望めないというわけでもないでしょう。覚えておりますかな、バルテス殿?ノワール=アルメリアが体調を崩したのを理由に一時期精霊宮を離れ、引退した先々代――ノワールの母親の許へ静養へ行っていた事があったのを。何でも気鬱の病とやらで」

「あれは確か十四、五年前…――!」

「この娘の年齢と合致する事にやっとお気付きでしょうか?手間は掛かりましたが昔先々代の屋敷で手伝いをしていたという者を見付け出し、どうにか話を聞く事が出来ました。間違い無くノワールはその屋敷で子を産んでいた。生まれた赤子は何でもノワールの侍女であったセレナ女官長殿が何処かへと連れて行ったそうです。序でに付け加えるなら、十二代目の末孫は年老いた老婆ただ一人。老婆には子もいなければ孫もいないと、既に調べはついております。此処まで言えば目前の物事以外には考えの及ばない愚かなバルテス殿にも、お解り頂けましょうかな?」

 駄目押しのような事実の提示に守護士長は唖然としてレンディットを見つめている。祭司長の語る自らの出自についてレンディットは否定も肯定もしないが、一言も発さずに俯く姿そのものが事の真偽を問う守護士長への答えとなっていた。

 祭司長が話を終えると室内には空隙めいた沈黙が降りた。この場にいる人間全ての呼吸の音が聞き取れそうな程に研ぎ澄まされた静けさ。音を立てるのすら躊躇させられるような沈黙を敢えて裂き、事の成り行きを静観していたユーリは口を開く。

「知っていて何故黙っていた?お前の言うようにレンディットが不義の子だというのなら、それを公表して巫女の座から追い落とせばいいだろう」

「何を言うかと思えば…。この娘がノワールの実子であると訴え出て何になる?あの女に対する批判の類こそあったところで、結局はこの娘の立場を強固にするだけで何の意味も無い。そもそも、私にとって真実を公にするなどどうでもいい瑣末事に過ぎないのだ。私の望みはこの汚らわしい娘をこの世から消し去る事であって、あの女の不逞を暴く事ではないのだからな」

 呆れの混じった苛立ちを含んで祭司長が答える。その口調の裏側に見え隠れする怒りとはまた違う別種の感情の存在が垣間見え、ユーリは思案に口を閉ざす。刹那、くすんだ銀の尾が視界の内で靡いた。

「この、奸物めが―――っ!!」

 鞘走りの音を響かせて剣を抜き放った守護士長が憤怒の叫びと共に踏み込みの動作を見せる。彼我の間に立ち塞がる守護士の牽制にユーリはそれを察知しながら動けずにいた。守護士長へ駄目だと発する暇さえも無かった。どん、という鈍い衝撃音が聞こえ、肉を貫いた刃を引き抜く濡れそぼった音が続く。

「……ぐ…っ…!?…が……」

 不意に足下から崩れ落ちる、青のサーコート。床に手を、膝を突きながら、我が身に何が起こったのか理解出来ていない彼は己の背後を、血塗れの剣を提げたまま立つ己の部下を顧みる。

「何…故……」

 掠れた呟きは口から溢れた血に掻き消されてゆく。凶刃に倒れた守護士長は束ねた銀の髪を血溜まりに浸し、力の入らない腕を伸ばした。血に汚れた顔が見上げる先には、顔色を失ったレンディットがいる。

「み…巫女…さ、ま…。おゆ……るし…を………」

 悔恨に差し伸べられた守護士長の腕が、ずるりと床へ落ちる。

「貴殿の腹心など所詮は己が利の為に追従していただけの人間。目の前に別の餌をぶら下げてやれば簡単に主人を変える。その程度の事が解らぬようでよく守護士長の位が務まりましたな、バルテス殿?」

 堪えるようにレンディットが唇を強く引き結ぶ。事切れた守護士長に嘲りを吐いた祭司長は今度はユーリを視線に掛け、鬱陶しげに小さく頭を振る。

「ファルガ・ロランジュが去って漸く機が訪れたというのに…。要らぬ忠義は自らを滅ぼすぞ、ユーリ・ヴィッセ。守を馘になったのなら大人しく引っ込んでおればいいものを」

「巫女を殺害して逃げ果せるとでも思っているのか?お前達の方こそ諦めて大人しく縛に付け」

「ふん、蒙昧な。ノワールの娘を殺したとてどうという事も無い。罪など幾らでも被せる相手はいるのだ。権力(ちから)さえば何でも出来る。この娘が此処に巫女として存在する事がその何よりの証拠ではないか。望むのであれば、守を馘首されたのを恨みに思っての犯行としてやるに吝かではないぞ。巫女を守ろうとして貴様と相討ちとなったという筋書きとあらばバルテスも名誉の死に滂沱して喜ぼう」

 祭司長の手下となった守護士等が一斉にユーリの周りを取り囲む。ユーリは腰の剣に手を遣った。全員が此方へ来てくれるのならば好都合だ。この程度、数の内にも入らない。殺された守護士長も不意さえ衝かれなければ負ける事など無かっただろう。

「抵抗するのは巫女守殿の勝手だが、その場合、この娘の命を先にもらい受けよう」

「…っ!!」

 祭司長の骨張った手がレンディットの首を鷲掴む。悪意など欠片も見当たらない、単に邪魔なものを退けようとするような淡泊さだが、其処には凄まじいまでの殺意が秘められている。

「――っ、止めて下さい!ユーリは関係無い!!」

 だがレンディットは彼を縊り殺そうとする手に怯むどころか声を振り絞ってユーリを庇い、その助命を乞うた。

 そうやってレンディットに庇われるのはこれで二度目か。微かな笑みを零してユーリは剣の柄から手を離した。前回のような女官長の小言相手であればまだ譲ってみてもいいが、この状況でレンディットに庇われるのを良しとする程ユーリは己に甘くない。

「お前は間違っている。ラグナー・ソルヴン。お前のそれは、ただの嫉妬だ」

 ユーリは室内に響くよう態と大声で言い、祭司長を見据えた。祭司長は不快に眉を寄せたがユーリは無視して挑発を続ける。

「お前はノワール=アルメリアを愛していた。そうだろう?それが叶わなかったから、ノワールと別の男の子供であるレンディットを憎み、殺そうとしている。随分と勝手な話だな」

 ノワールについて話す祭司長の言葉の内には激しい怒りと憎しみの他に、強い悲しみのような感情が入り混じっていた。恐らくは実らなかった想いと、恋い慕った相手の手酷い裏切りに傷付いた彼の心の奥底の痛みが滲み出ているのだ。それに気付いた瞬間ユーリは自身を突き動かした胸中に在るこの想いが何であるのを理解した。

「………黙れ。貴様なぞに何が解る?」

 時が凍るような間があった。言葉は肯定でしかなく、異様に静かで、だが膨れ上がるような怒気を孕んでいる。恋い焦がれた末に憎悪へと裏返った、その想いの深さは相当なものだろう。

 無論ユーリとて私情で祭司長を挑発しているわけではない。これは時間稼ぎだった。乗ってくれるのなら有難い。少しでも多くの時間を稼げるのなら、それに越した事は無いのだから。

 闇精は視えない体質なのか、祭司長はまだ気付いていない。ユーリはこの部屋へ飛び込む前に渋る闇精に頼んで女官長の許へ行ってもらっていた。レンディットが離れにいる事を伝える為だ。仮令意思の疎通は出来なくとも、勘のいい女官長ならばきっと闇精の訴えに気付いてくれるだろう。そうすれば彼女は応援を連れて此処へ来る。最悪でもレンディットだけは助けられる。

「解る筈が無いだろう?嫉妬に狂った男の身勝手な言い分など」

 冷たく切り返し、不遜に顎を上げる。今は傍にいない、あれ程疎ましかった精霊の気配がとても心強い。

 短剣を握り締める手が、腕が、肩が、憤怒に震えていた。ユーリを睨み付ける祭司長の瞳からあらゆる感情の色が抜け落ちてゆく。入れ替わるようにして浮かび上がったのは何があっても考えを曲げる事は無いだろう、狂的に輝く強固な意志の昏い光。

「…ずっと彼女だけを見つめてきた。彼女の近くへ行く為に祭司官として修練を積み、自己を高め、必死の想いで祭司長の座にまで這い上がった。だというのに、一身に彼女を慕い続けてきた結果がこれだ。どうして許せようか?」

「だからといって、ノワールの忘れ形見を殺す理由にはならない」

「私には充分だ。憎いあの女は疾うに亡く、相手の男はその名も姿も知れぬ。ならばその子に報いを与えるのは当然の帰結だ」

 長の年月により醸成され濁り凝った積怨を吐露する祭司長。怨嗟に淀んだその眼が狂気に眇められユーリを見、手前にいる守護士達に向けられ、一呼吸。

「――殺せ」

 ユーリは部屋の中程に立ち塞がっていた守護士達が各々腰の剣を抜き、自分の方へと距離を縮めて来るのを何もせずに見つめた。祭司長には些かの躊躇いも無く、此処で自分が動けば先にレンディットが死ぬ。ユーリが死んでも女官長が間に合う可能性があるのなら、どちらを選ぶべきかは明白だった。

 抵抗を警戒していた守護士等はユーリにその意志が無いのを見て取ると悠々と剣を構えた。格好ばかりで中身の無い構えではあるが、無抵抗の相手を斬るだけなら失敗は無いだろう。

「ユーリっ!!」

 振り翳される白刃にレンディットが長い髪を振り乱し、祭司長の腕を振り解こうと藻掻いた。突如として恐慌を来した巫女に守護士等の意識が其方へ移る。その隙をユーリは見逃さなかった。

 瞬時に剣を抜き放ち、最も近い位置に立つ守護士の腹に柄を叩き込む。反応され僅かに足を引かれた所為で気絶させるには至らなかったが守護士は身体を折って膝を突き、無防備に床に頽れる。奥から守護士長を殺した一人が飛び出して来るも、ユーリは突き出された剣を自らの剣で絡め取るようにして撥ね飛ばし、蹴りを入れた。硬い刃が石床に落ちる高音を背中で聞き流して残る一人に向かうべく身を翻し、剣を握った手首を返す。

「そこまでだ」

 身を捩って拘束から逃れようとするレンディットを祭司長が突き倒す。脅迫染みた制止にユーリは追撃を断念し、歯噛みをした。

「剣を捨てろ。抵抗はするなと言った筈だ。次に動けばこの忌々しい娘の喉、お前の眼前で斬り裂いてやろう」

 床に倒れたレンディットの首筋には祭司長が隠し持っていたらしい短剣が添えられていた。ユーリを視線で縫い止め、祭司長は片方の腕で髪を掴んで強引にレンディットを引っ張り起こす。

「私は別に、どちらが先でも構わぬが?」

 薄闇に短剣の刃先が仄白く煌めく。それが脅しですらない事は最早疑う余地も無い。ユーリはレンディットを見つめ、剣を握った右手の力を抜いた。

 石材と金属のぶつかる音が鳴り響く。音はすぐに闇に吸い込まれるようにして収まった。

「念の為、先に利き腕を奪っておけ。これ以上邪魔立て出来ぬようにな」

 ユーリに遅れを取った二人の守護士が立ち上がろうとする中、唯一無傷で残った守護士が前に出る。迫り来る剣先を無感動に眺め、ユーリは状況を打破し切れなかった自分に失望した。全く以て無様なものだ。これでは守を馘にもなろう。ユーリを見限った女官長の判断は正しかった。横からしゃしゃり出た結果がこの様では、守として務めていても役立たずに終わっただろう。

 右腕が灼熱するような激痛が走ったが、苦痛は噛み殺した。どんなに微かにであろうとも自分が苦悶など洩らせばレンディットが気に病む。彼はそういう性格だ。自分が此処で死ぬのが避けられないのだとしたら、せめてレンディットの心に負担を掛けたくはなかった。

 制服の上腕部があっという間に赤黒く染まり、火を吹くように熱く痛む傷口から血が溢れ出る。血は袖を赤く染めつつ腕を伝って指先から滴り落ち、白い床に幾つもの赤い点を穿った。

「……あ…」

 レンディットは抜けるように色の白い顔を更なる蒼白にして、茫然と目を見開いた。恐怖に凍り付いた翡翠の瞳がユーリの腕を、滴る血の雫を凝視している。

「…やだ……ユーリ…」

 ユーリを除いたこの場にいる誰一人として、レンディットの悲痛な呟きに耳を傾けはしない。祭司長も守護士等もレンディットの様子など気にする素振りは微塵も見せず、邪魔者であるユーリを片付ける事を優先している。

「……やだ…。…やめて……ころさないで…」

 制止の切願が譫言のように呟かれる。場違いな程に澄み切った、泣きそうなレンディットの声が胸に痛い。其方の痛みの方が勝って腕の痛みなど忘れてしまいそうになる。

 自分を殺す為に守護士が剣を構えるのを視界の端で捉えながら、ユーリはレンディットを見つめ、彼にだけ判るように笑んでみせる。心配はいらない。じきに女官長がやって来るから大丈夫だと、そう伝えるつもりで。ほんの少しでもレンディットを安心させてやりたかったのだ。

 触れ合うように視線が交わる。レンディットは一瞬でユーリの浮かべた表情の意味を悟って小さく息を呑み、嫌だと言うみたいに首を振る。

「…―――っ!!」

 レンディットが声にならない叫びを上げた。ユーリの眼前で高く翳された剣が傲慢に振り下ろされる―――筈だった。

「――…え?」

 ひゅっ、という空気を切る短く鋭い風音が鳴った。今正に剣を振り下ろそうとしていた守護士がぽかんと口を開け、茫然と床を見下ろす。

 立ち尽くす守護士の足下には剣を握ったままの彼の両腕が無造作に転がっていた。恰も両掌に握り締められた剣で接合されているかのような前腕部のみの人体はその存在の異質さから作り物めいて全く現実感を持たなかった。

 切断面から噴き上がった鮮血に腕を失った守護士の耳を劈く絶叫が迸る。

 屋内だというのに荒天の野外のような凄絶な風が吹き荒れ出した。燭台の小さな灯火が炎の帯となり、生き物染みてうねりながら悲鳴を上げる守護士へと絡み付く。火柱と化した守護士は瞬く間に炭化して、棚引くような掠れた断末魔の余韻だけを置き去りに崩れ落ちた。

 風が攪拌する焼け焦げた臭いと濃厚な血の臭いが鼻を突く。炎が生み出す熱気と吠え猛る風の音に紛れて次々に上がる恐怖の叫びは止まず、別の守護士が風の刃にいとも容易く首を落とされ、また別の一人は片足をもがれて床に倒れ伏す。新たな獲物を求めるかのように蠢く炎が延び、悶える守護士を一瞬でその身の内に包み込む。

 この現象を引き起こしているのが精霊の力である事は一目瞭然だった。感応力に乏しいユーリにさえ何処に精霊がいるのか判別出来る程の、恐ろしいまでの気配が渦巻いている。

 吹き荒ぶ風に煽られ、窓に下ろされた鎧戸ががたがたと揺れた。下手をすればこの離れごと打ち壊してしまいそうな有様だが、頬には穏やかな空気の流れしか感じない。惨劇の模様に呆気に取られていたユーリはその事に気付いてはっと我に立ち戻り、周囲を見渡した。

 付近には尚も猛烈な炎が踊り、嵐のように荒れ狂う風が空気を吹き裂く轟音を鳴らしている。それ等が全て円を描くようにユーリのいる場所を避けて暴れ回っていた。

 真っ先に腕を落とされた守護士は彼女の程近くに立っていたというのにユーリは熱風は疎か血飛沫一滴さえ浴びなかった。同様に部屋の奥にいるレンディットは暴風の渦中にあって長い髪の一筋さえも乱れてはいない。彼はただ耳を塞ぐように両手で頭を抱え、床に座り込んだ姿勢のまま衣に埋もれるようにして身体を丸めている。

「これはっ!?…何――っ、まさか、お前……!?」

 狼狽する祭司長が慄いて一歩壁際へ下がる。渦を巻く炎が祭司長の顔に浮かんだ戦慄の表情をはっきりと映し出し、彼自身の影を巨大な化け物のように奥の壁へと投影していた。

 狂ったように踊る炎の揺らめきに合わせて祭司長の影がゆらり、と動いた。錯覚かと思った。しかしそれはユーリの見つめる向こうで確かな質量を持って膨れ上がる。揺らめく影そのものが悪夢の具現であるかのように意思を持って独りでに動き、現実に彼を捕らえようとしていた。

「ひ…っ!!」

 ついさっきまで祭司長に追従していた筈の影の手はいつの間にか細く長く、まるでなよやかな女の腕のように優美に延び、祭司長の身体を背中から愛おしげに抱き締めた。祭司長は影から逃れようと懸命に足掻くが、幾ら暴れようとも優しく抱擁を続ける影はびくともしない。祭司長の足下からは濃く深い闇が湧水のように染み出している。

 ゆっくりと、だが大きく広がってゆく、黒い水溜まりのような底の見えない漆黒の闇。白い床を塗り潰した闇溜まりからは血液までもが凍るような悍ましい冷気と幾本もの腕が這い出し、祭司長を闇の中へと引き摺り込もうとする。

 恐怖の為に限界まで眼を剥いた祭司長は闇へと沈みながら、何事かを叫んでいる。救いを求める悲鳴なのか、それとも怨嗟の呪いなのか。声は闇に溶けて言葉にも音にもならず、闇はその叫びと共に祭司長を呑み込んでゆく。足から腰、腰から頭と祭司長の身体が緩やかに沈んでゆき、最後に右手首から先だけが闇の水面から伸びていた。力無く空を掻いたその手の指先までもを食らい尽くし、満足でもしたかのように闇が薄れてゆく。闇溜まりの霧散した後には石床が元通りの染み一つ無い白さを現していた。

 未だ吹き荒れる風の音を目で追いながらユーリは蹲るレンディットを見遣り、暴風の中へと一歩を踏み出す。

 先刻守護士達の肉体を簡単に千切ってみせた風の刃は予想通り、ユーリを傷付ける事は無かった。ユーリが前に足を踏み出す毎に風は道を開けるかの如く自ら分かたれて周囲で唸りを上げる。進む度に腕の傷から流れた血がぱたりと零れ落ちて床を汚すが、止まらない出血もそれに伴う痛みも皆、意識の外にあった。

「…レン」

 呼び掛けてみてもレンディットは蹲り俯いたままだ。風音の所為で此方の声が聞こえていないのだろうか。片膝を突き、小刻みに震えるその肩にユーリはそっと左手を伸ばした。

「レン」

「―――っ!?」

 触れた瞬間、慄くようにレンディットの身体が跳ねた。レンディットは放心したようにユーリを見る。

「落ち着け、レン。もう大丈夫だ」

 虚ろだった翡翠の瞳に少しずつ理性的な光が戻るのと同じくして、凄まじかった風の鳴き声が止んだ。併せてユーリとレンディットを遠巻きにするように蜷局を巻いていた炎の帯が忽然と掻き消える。

「……ユー…リ…?」

 たどたどしく呟かれた己の名に頷きを返す。レンディットはユーリの顔を暫し見つめてから赤く染まった右腕へと目を遣り、ユーリの後方に広がっている惨状を見て絶句した。

「――……あ、僕……ごめ、ごめんなさ……」

 翡翠の色に不意に激しい罪悪感が浮かんだかと思うと、それは見る間に大粒の涙へと変わり、蒼褪めた頬を伝う一条の線を描いた。

「……ごめんなさい…ごめんなさい……。…ごめんなさい…っ……」

 だが、零れ落ちた涙はその一粒のみだった。レンディットは両手で前髪を握り締めるように顔を覆って謝罪を繰り返し続ける。ひたすらに赦しを乞うその言葉は強く深い悔恨に溢れていた。

 程無くして、階下が騒がしくなる。近付いて来る沢山の足音の中には待ち望んでいた女官長の声が交じっている。

 いつの間にか傍らに戻って来た闇精の気配にユーリは事態の収束を感じ、ようよう胸を撫で下ろした。

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