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精霊と踊る君と  作者: 此島
六章
30/33

 ――そろそろ起きなさい。直接心に語り掛けてくる〝声〟で目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 亡くした母を思い出させるような、柔らかな温もりを湛えた響き。声に気を取られて目覚めた瞬間に寝台の埃を思い切り吸い込んでしまい、喉の奥にまで入り込んだ文字通りの埃っぽさに暫く噎せる。怪我の功名と言うべきか、寝起きの頭とぼんやりとしていた意識の覚醒には役立った。

 一頻り咳き込んで、心配そうに此方を見ている精霊達に大丈夫だとレンディットは微笑んでみせた。起こしてくれた礼を言い、どのくらい眠っていたのだろうかと窓を見遣る。

 寝台の奥にある窓には当然だが鎧戸が下ろされたままだ。精霊達から時刻が夜へと変わっているのを教えられ、レンディットは身を起こした。

 幾らする事が無いからといってこの状況で転た寝とは、自分も大概図太い。ネルにでも知られたら酷く呆れた顔をされる事だろう。いや、もしかしたら呆れるどころか即刻注意喚起という名の拳が飛んでくるかも知れない。それは嫌だな、と想像してはたと気付く。そういえばネルには口も利いてもらえない状態なのだった。それなら叱られる事も無いか。ほっとしたような、寂しいような。

 苦笑してレンディットは寝台の上に座り直す。この部屋は昔、精霊宮にやって来た頃に与えられた自室でもあった。といってもその頃は次期巫女としての教育を受ける為に巫女殿の祈りの間や書庫、祭殿などで日々を過ごしていた事もあり、たった一月暮らしただけのこの部屋に馴染みは無い。なのに、不思議と懐かしいような心持ちがした。

 離れの寝室は幼い頃の記憶にあるままだった。こうしていると、隣室の書斎で巫女に必要な知識を身に付ける為に女官長と一緒に遅くまで机に向かっていたのがつい先日のように思えてくる。父母を亡くし、一時的とはいえネルとも引き離されたその寂しさを紛らわせようとして一心に勉強に励んだ。

 此処にいるとどうしてもあの頃の事を思い出してしまう。だから何も考えないようにしようとして、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。母の夢を見ていたような気もするが、それがどちらの『母』だったのかは憶えていないので定かではない。

「あの人、怒っているかな。最期まで『お母さん』って、呼べなかったから…」

 育ててくれた両親を亡くし、ネルと二人で叔母である女官長の許に引き取られてからレンディットは初めて自分が貰い子である事を知った。言われてみれば自分はネルとは違って父母のどちらにも少しも似ているところが無かった。それまで疑いの欠片すら抱かずに生きてきたのは両親がレンディットの事を分け隔て無く、我が子のように可愛がってくれたからだ。

 言動は荒っぽいが優しくて、大きな手で頭を撫でてくれた父。怒ると何よりも怖いのだが普段はにこやかで温かく、料理上手な母。花冠の作り方を教えてくれたのも母だった。

 大好きだった両親。だから自分が二人の本当の子供ではないと知った時、レンディットは世界の全てが引っ繰り返ってしまったかのような衝撃を受けた。その事に茫然とする時間も無く、事実を知った数日後にはあっという間に実母の前に立つ事になっていた。彼女の跡を継ぐ、次なる巫女の候補として。

 少女の格好をさせられていたというのに、此方が名乗る前からノワールはレンディットが誰なのかに気付いていた。ノワールの許までレンディットを連れて行った女官長が驚いていたのだから、前以て彼女が告げていたわけではないようだった。

 ――ああ、私のレンディット。ずっとずっと、逢いたかったの。

 体調を崩して床に就いていたノワールはレンディットと顔を合わせた途端に、小鳥の囀りのように美しいその声を歓喜に震わせた。感極まったように自分を見つめる緑柱石を思わせる瞳が涙で潤んでいたのが、不思議なくらいに胸に残って忘れられない。

 精霊宮という場所で一緒に過ごした時間はほんの僅かで、彼女が病床に臥している事を踏まえても、跡継ぎとして話を聞く他にはノワールと私的に言葉を交わした事など数える程しかない。

 それでもノワールはどんな時もレンディットの事を息子として扱っていたように思う。女官長が苦言を呈していたようだがノワールは意に介さず、母親としてレンディットに接し続けた。

 ノワールの想いに応える事が出来なかったのはそれが嫌だったからなのか、それとも困惑していただけだったのか。レンディットには今でも判らない。ただ、自分にとっての父母を手酷い形で亡くした直後に出逢った生みの母の存在は幼心にも複雑で、ノワールが息を引き取る間際になってもレンディットは彼女を母と呼ぶ事が出来なかった。

「一度くらい、呼べたらよかったのかな。…でも、あの人なら怒ったりしないか。そういう人じゃなかったね」

 夢の中に生きているような、そんな人だった。夢見がちという意味ではない。病の床にあっても尚浮き世離れした風情のふわりとした、確かに其処にいるのにまるで儚い幻のような、そんな独特の空気を纏った女性だった。

 いつも心に在る養母の想い出とは異なり普段はほとんど思い出す事の無い実母の記憶は、少な過ぎるが故に断片的だ。寂しいとは思わない。だが、寂しいとすら思えない事に幾許の申し訳無さを感じる。

 幾人かの精霊等が溜め息染みた微かな笑みを零すレンディットを気遣って虚空を舞う。奥庭から此処へ来る際に精霊達には付いて来ないよう言ったのだが何人かは断固として譲らず、心配だからと行動を共にしてくれていた。

 暫しして静寂に慣れた耳に重なり合う幾つかの足音が届き、頷く精霊等にレンディットは待ち人が戻った事を知った。忙しいその身の上故に一度本殿の方へ戻らざるを得なかった彼だが、遅くなってから戻って来た事を思うと用事は全て済んだのだろう。それなら、少しは落ち着いて話が出来るだろうか。

 開いた扉から守護士長と祭司長が順に室内へと入って来る。最後に入室した守護士が扉を閉め、手燭から近くの燭台へと灯火を移した。室内は俄に明るくなり、ちらちらと揺れ動く光源が暗闇に親しんだ瞳を刺す。眩しさに少しだけ顔を顰めて、レンディットは守護士長等の方へと目を向けた。

「ご機嫌は如何でしょうかな、巫女様?」

 依然として慇懃な言葉遣いとは裏腹に敬意など微塵も含まない声音から、守護士長が自分をどう思っているのかが察せられる。レンディットは口を噤んで其方を見つめた。

「ふむ。どうやら優れぬご様子。これまで巫女として傅かれてきたところが一転して囚人めいた扱いでは、気に入らんというのも無理からぬ話か」

 大仰な溜め息をついた守護士長は聞き分けの無い幼子を相手にしているように肩を竦めた。

「…それ程までに、私が憎いですか?」

 レンディットは寝台に腰掛けたまま動かず、目線だけを其方へ向けて尋ねた。

 心は酷く静かに凪いでいた。巫女として生きる事になってから常に己の心を律し、決して取り乱す事の無いようにと懸命に心掛けてきた。しかし波紋一つ立たない程の平静を保つというのはこの上無く難しい事だ。だから笑顔を作る事によって自己の感情に蓋をする方法を覚えたのだが、この状況下でそれに頼らなくても落ち着き払っていられるとは思わなかった。

「何か勘違いしているようだが、我々にはそなたに対する恨みなど無いのだぞ。そなたは道具として利用されただけであって、真に罪深きは欲に取り憑かれ、偽りの巫女を擁立したあの女狐だ。素直に全てを白状しあの女を糾弾する為の足掛かりとなるのであれば、そなたにはまだ酌量の余地がある。――どうだ、語る気になったか?」

「憎まれても、仕方の無い事をしたのでしょう。そのくらいは解るつもりです」

「……。女官長の言いなりの、頭の弱い愚かな娘だとは思っていたが、よもやこれ程とはな。呆れて言葉も出ないとはこの事か」

 落胆を見せる守護士長の憐れみの眼差しには構わずにレンディットは言葉を続ける。

「私を、殺すのですか?」

「話にならんな、この娘は」

 侮蔑を露わに守護士長が眉を聳やかす。しかし、そんな事は少しも気にならなかった。何故ならレンディットは初めからずっと変わらず、()一人だけを見つめていたからだ。

 知っていた。誰が自分を疎ましく思い、目の前から消えてしまえばいいと考えていたのかを。精霊達が全て教えてくれたのだ。元は直向きで清浄であったと聞く彼の心を捩じ曲げ、歪めてしまった原因を。聞き知った事実を他者に伝えなかったのは、それが偏に自分の――自分たち母子の所為であったからに他ならない。

 現在レンディットに守は無く、だからこそ関わりの無い人間を巻き込む恐れは無い。いつまでも彼の心を苦しめ続けるのが居た堪れなくて、レンディットは彼ときちんと話をしようと考えた。傍に護衛のいないこの状況なら、相手にもきっと都合がいい筈だから。

 自らの生死に関わる質問をしたというのに、心中には微かな波風すらも立ちはしない。どうして自分はこんなにも落ち着いているのだろう。心の片端ではそれを不思議に思いながらもレンディットはただじっと、視線の先にいる人物を――彼の鳶色の瞳を見つめ続けた。

「―――無論だとも。貴様のような汚れた血筋、生かしておけるわけがない」

 彼は静かな口調の奥に底知れぬ憎しみを滾らせている。

「……ごめんなさい。そんな風に苦しめてしまって……」

 ノワールは決して謝りなどしないだろう。だから彼女の分も引き受けるつもりでレンディットは言った。どんな顔をしたらいいのか判らなくて、少し歪に微笑みながら。

 真白い衣の裾を引いて、彼は泰然と近付いて来る。理解が追い付かないでいる守護士長の脇を通り抜け、一歩ずつ此方へとやって来る。応じるようにレンディットも寝台から立ち上がり、彼が側まで来るのを待った――その時。

「……っ…」

 耳打ちのように囁かれた〝声〟に心がさざめいた。同時に幾つもの感情が入り乱れて沸き起こる。急激に騒ぎ出す心を静めようと無意識に巫女衣の胸元を強く掴んで、レンディットは表情を苦痛に歪める。

 ―――どうして、あなたが。

 心で形になった想いはそれだけだった。もう関係など無い筈なのに、どうしてあなたがこんな場所に来るのだ。

 身勝手に切り捨てた。他者に対して必要以上に心を動かしてはいけないと誓ったのに、己が未熟で至らなかったその所為で。そんな最低な自分などの為に、あなたが此処に来る必要などは無いのだ。

 今からでも遅くはない。お願いだからどうか引き返して。レンディットは祈るような気持ちできつく瞳を閉じたが、直後に響いた扉の音に息も出来なくなった。

 大きく開け放たれた扉から駆け込んで来た、守護に風精を頂く城下の衛士の緑色の制服。レンディットが泣きそうな想いで見つめる先で、肩まで届く漆黒の髪を揺らせた彼女の凛と美しい灰色の瞳が灯火に照らされていた。

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