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城下街を貫いて十字を切るように延びる二つの大通り。その双方が交差する街の中央広場に面して衛士隊の詰め所はある。目指す精霊宮があるのは此処から北西の方角だ。
詰め所を出たユーリは黒闇の通りと呼ばれる南北に延びる大通りを北へと向かって歩き始めた。空の色は日暮れというにはやや早く、通りはまだ多くの人々が行き交っていて活気に溢れている。
丁寧に舗装された石畳の道に長靴の音を響かせてユーリは黙々と歩みを進める。彼方には並び合うなだらかな双丘が頭を覗かせおり、その上にそれぞれ建てられた王城と精霊宮が見える。天へと枝葉を伸ばす大樹にも似た幾つもの尖塔を持つ王城とは対照的に、凹凸に乏しい四角を組み合わせたような造りの建物が目的地である精霊宮だった。
双丘の間を潜り抜けて街の端まで延びていく通りを途中で右に曲がり暫く行くと、やがて参道と呼ばれる精霊宮へと続く丘を登る広い道が現れる。緩やかな勾配を持つ真っ白な石畳の敷かれた参道には、ユーリの他にも精霊宮へ向かう者や其方から戻って来る人間の姿が多々あった。
日中は参拝にやって来る街人の出入りを許している精霊宮だが、王城と同じく日暮れの頃には外門が閉められる。この時刻になると精霊宮へ向かう人間よりは街へ戻る人間の方が多く、丘の上を目指して上って行くのは外での用事を終えて帰る途中の女官くらいのものなのだろう。衛士隊の緑の制服を着たユーリが精霊宮に向かうのを目にし、丘を下る街人等が何事かあったのだろうかと訝しげに囁き交わす。好奇を含んだ人々の話が洩れ聞こえたが一切気にせずにユーリは精霊宮の門を目指した。
参道を上り終えた先にあるのは高い白壁に囲まれた美しい白亜の宮。宮外での実権こそ持たないものの、国王陛下と並び立つ地位を有する尊き巫女様のおられる、精霊を祀る聖殿だ。こうして此処へやって来るのは何年振りになるのだろうか。思い返してみれば六年程前、十三歳の頃に家族揃って大精霊祀を見物に行った時が最後だったような気がする。
嫌々ながらも到頭辿り着いてしまった。精霊宮の門前まで来てユーリは沈鬱として立ち止まる。自分に他の選択肢は無いわけだが、望まぬ打診に了承の返答を持って行くというのは気分の良いものではない。
精霊宮本殿の扉は祈りを捧げに来る人々の為に広く開かれている。袋小路を思わせて正面と左右を塞ぐような方形をした本殿の建物を前にして幾許かの逡巡を覚えたが、此処で帰る事は許されないのだ。門番を務める守護士等の不審の表情に急かされるようにしてユーリは億劫ながら足を動かした。
本殿の内部はユーリの記憶に残るものと相違無く、落ち着いた雰囲気でありながら清雅な華やかさがあた。
大理石の白床に敷かれた天鵞絨の青い絨毯。等間隔に配された銀燭が白い壁に揺らめく照り返しの輝きと、仄かな炎の赤を添えている。正面には大きく開け放たれた遙か天井まで届くかのような両開きの大扉。数段の階段の先に鎮座するその扉の向こうは祈りの間となっており、参詣に来て立ち入りが許可されるのはこの祈りの間だけだ。祈りの間の大扉から見て左右に位置する扉の先は舞殿がある中庭だが、一般人は精霊祀の時にしか進む事が許されない。
祈りの間にはまだ数人の街人がいた。奥に設えられた祭壇へと跪き、一心に祈りを捧げている。それを横目にユーリは小さく溜め息をついて周辺を見回した。ユーリを送り出した衛士長は「女官長殿を訪ねて下さい」などと言っていたが、その女官長とやらは一体何処にいるのだろう。用件を済ませる為に何処へ行ったらいいのかも判らないので誰かに尋ねてみなければなるまい。
立ち尽くすユーリの側を数人の女官が忙しそうに通り過ぎて行く。向こうには立ち話をしているらしい祭司官達の姿が見えたが、彼等もまた此方が声を掛ける前にその場を立ち去って行ってしまった。
巫女守として欲しいという言葉に喜び勇んで精霊宮へやって来たのならともかく、衛士長に泣き落とされて仕方が無く此処へ来たユーリとしては忙しそうな人間を態々呼び止めてまで女官長の所在を訊くような情熱の持ち合わせが無い。
「――失礼致します。もしやユーリ・ヴィッセ様でいらっしゃいますか?」
後ろから声を掛けられてユーリは振り返る。鮮やかな深紅の色が視界に映り込んだ。
いつの間にか女官衣に身を包んだ年若い少女が近くに立っていた。背中まで伸ばされた深紅の髪に縁取られた顔に若干の幼さを残しながらも佇まいには大人びた雰囲気を持つその少女は意志の強そうな青い瞳で此方を見上げ、ユーリの答えを待つようにたおやかに微笑んでいる。
「…そうだが」
ユーリが返事をすると、少女は笑みを深くして口を開いた。
「まあ、やはり。肩まである黒髪に灰色の眼をした、お背の高い、一見美男子に見える女性というお話でしたので、お声を掛けさせて頂きました。私、巫女様付きの侍女を務めさせて頂いております、ネルと申します」
両手で衣の裾を持ち上げて優美に一礼したネルは真っ直ぐユーリの目を見て言葉を続ける。
「この度は態々のご足労、誠に忝く存じます。例のお話の事で奥の巫女殿にて女官長様がお待ちです。ご案内致しますので、どうぞ私についていらしてくださいませ」
ネルは楚々とした物腰で踵を返す。祈りの間の右にある扉へ向かうネルの後に続きながらユーリはたった今耳にした、ネルの伝え聞いたらしい自分の特徴について考えていた。恐らくは衛士長の言であろうが、果たして自分は褒められたのだろうか。それとも貶されたのだろうか。出掛けの衛士長の態度からはその真意は測れなかった。
ネルに先導された扉の先はすぐ屋外で、精霊祀の行われる祭殿へと続く短い回廊へと出る。徐々に橙色に色付き始めた陽光が、回廊と其処を歩くネルとユーリの影を緑の生い茂る地面に長く伸ばしている。
遠くにちらほらと青い制服を来た番兵役の守護士の影が見えるだけで、ユーリ等の他に回廊を歩く者はいなかった。仄かに草の匂いを含んだ風が頬を撫で、静かに中庭を吹き抜けて行く。風が一足先に祭殿の向こうへと駆けて行くのを見送って、ユーリは先を行くネルの小さな背中に問い掛けた。
「ネル、だったな。巫女付きの侍女だと言ったが、それが何故女官長の使いを?」
彼女の主は巫女その人ではないのか。そう言外に滲ませる。
「ユーリ様にご足労頂いた理由は主である巫女様に関わり深いものでございますから。それに、侍女とは申しましても私も女官の端くれである事に変わりはございません。女官達の纏め役でいらっしゃる女官長様のお言い付けを聞くのは当然ですわ」
「成る程」
尤もな返答に納得してユーリは再び口を閉じた。ネルの言葉の裏には忠心というよりも義務感めいたものが見え隠れしてはいたが、それを指摘して掘り下げる程興味があるわけでもない。
あの大精霊祀の夜に家族で陣取った舞殿の正面まで来ると回廊は舞台を取り巻いて祭殿へと続く。四角い回廊と繋がって左右にはまた別の回廊があり、ネルは右手の方向へ足を向けた。
回廊はそのまま一本道になっていて、進んで行くと北東を角にした大きな鉤型の建物の入口に突き当たった。祭殿の辺りからも見えていたその建物こそが巫女の居住空間である巫女殿だという。
正面入口らしき両開きの扉の前に立ったネルに、脇に立つ守護士等が挨拶の敬礼をする。ネルは教本に載った手本の如き会釈を返して巫女殿の扉を開いた。
「どうぞ。こちらへ」
まさか屋内に足を踏み入れる事になるとは生まれてこの方夢にも思わなかった巫女殿。その内部の様子は本殿の方と比べてみても然程の違いは無かった。壁の銀燭も塵一つ無い石床の白さも、絨毯の青も同じ。ただ、見掛ける人影は皆立ち働く女官達のものだけで、本殿のように祭司官や守護士の姿は見当たらない。
「巫女様の他にここにいる者は巫女守様や、女官長を始めとした巫女殿付きの女官だけなのです。ここは巫女様のお暮らしになられる館のようなものでございますから。他の方々はご用事が無い限りこちらにはお出でになられないのです」
ユーリの疑問に答えながらネルは向かい見える大扉の右の、一回り小さな扉を指し示した。促されユーリが其方へ近付くと扉に手を掛けたネルは微笑んで言う。
「どうぞ、こちらの応接室でお待ち下さいますよう。ただいま女官長様をお呼びして参ります」
「了解した」
衛士として染み付いた癖でそう返事をすると、ネルは少し瞳を細めてからお辞儀をした。奇妙な事だが、その顔に僅かな羨望のようなものが浮かんだように見えたのはユーリの気の所為だろうか。
静かに閉められる扉と、すぐに聞こえなくなる足音。ネルの気配が遠ざかった後もユーリは座って待つ気にはなれず、何となく応接室の入口付近に立っていた。
実際には大した時間は経過していないと思うが、人を待つ間の静寂は時間の流れを遅く感じさせる。室内に置かれた二つの長椅子に挟まれた背の低い長机。其処に置かれた花瓶に生けられた名も知らぬ白い花の花びらが一枚、ユーリに先んじて待ちくたびれたかのように机上に落ちた。
そうして無為に時間を過ごしている内に外から扉が叩かれる。返事をした方がいいのかとも悩んだが、来客である自分が「どうぞ」と言うのもおかしいだろう。結局黙ったままでいる事を選んだがユーリが返答しなくとも扉の向こうの人物は気にしなかったようで、すっと取っ手が動いた。
「お待たせ致しました。衛士のユーリ・ヴィッセ殿ですね?」
緩く波打つ黄味の強い金の髪を結い上げた、三十の年を幾つか越えた辺りだろうと思われる女が確認染みて問いを発する。他の女官の衣とは意匠の異なる女官衣の右肩の袖に、精霊宮の紋が大きく織り込まれている。
女は作り自体は華やかだろう顔立ちに堅物的な表情を形作ってユーリを見つめた。値踏みしているようにも感じる視線だったが、ユーリはそれを真っ向から受け止める。
「私は女官長のセレナ・ハルシェルフと申します。まずはどうぞ、お掛け下さい」
手前の長椅子を差して女官長は言った。ユーリがその言葉に従うのを見届けてから、女官長自身も反対側の長椅子の脇に移動する。
「こうして不躾にお呼び立てした事を、まずはお詫びさせて頂きます。続けて、この場に本来巫女守の任命権を持つ巫女様がおられず、代わりに私がお相手させて頂く事も謝罪申し上げます。生憎と巫女様はこれより夕刻の祈りを捧げるお時間ですので」
両手を腹部で重ね合わせ、女官長は角度も美しい礼を披露した。これ程丁寧でありながら此処まで心に響かない謝罪というのも、なかなかお目に掛かれないだろう。態々裏を読もうとする必要が無いくらいの清々しいまでに通り一遍の〝お詫び〟だった。
「――それでは、本題に入らせて頂きます」
改めて長椅子に座った女官長は、そう前置くとさっさと話を始めた。もう少し格式張った前置きが続くのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。会話に無駄な装飾を加えるのが苦手なユーリとしては有難い次第だ。
「この度の私共の用件は既にお聞き及びの事と存じますが、何卒そのお返事を頂けますでしょうか?次の巫女守として巫女様のお側にお仕えして頂けるのか、否か。勿論我々としましては色好い返事をお願い致したいところではございますが、ユーリ殿の正直なお気持ちをお聞かせ願いたく存じます」
持ち得る感情の全てを心奥に隠しているかのような、女官長の冷たい青の瞳がひたとユーリを捉える。見れば先程のネルという少女とよく似た青色をしているのだが、あの侍女とこの女官長とではその印象は大分異なっていた。彼方の瞳は青く燃える炎の色のようだったが、此方は目を合わせているとまるで凍った湖の底を覗き込んでいるかのような気分になる。
「…返事をする前に一つお訊かせ下さい」
小さく息を吸い込んで、ユーリは女官長の氷のような瞳を見つめ返して言った。
「何でしょう?」
「私を次の巫女守に選んだ理由は?」
それだけはどうしても確かめておきたかった。当然、返答如何によっては後で衛士長に恨まれようが断るつもりで訊いている。
女官長は少しの間、問いの意味を熟考するように沈黙していた。何か考え込んでいるようにも、此方の意図を探っているようにも思える。
「…それは、以前貴女が騎士団への入団を断ったという件と関係がおありですか?」
女官長は初めから全く変わらぬ表情と声音でユーリへと尋ね返した。そのように事情に通じている様子は流石と言うべきなのだろうか。こういう立場の人間は得てして耳が早いように思うが、果たしてどのような情報網を持っているのやら気になるところである。特段噂になどなった記憶は無いのだが、まあ知っているのなら話は早い。頷いてユーリは話を続ける事にした。
「同じ理由での誘いなら、私は応じるつもりはありません。これで帰らせて頂きます」
「私の記憶が確かであれば『〝精霊憑き〟の人間が欲しいだけなら他を当たるように』という事でしたね」
「ええ」
ユーリが答えるのに併せるかのように、肩の後ろで視えない気配が幽かに動く。
六年前の大精霊祀。その後から感じるようになったこの気配が自分に取り憑いた精霊のものだと教えてくれたのは、視る才を持った近所の雑貨屋の老婆だった。使いに行ったユーリに精霊が憑いている事を指摘した老婆は、それをとても幸運な事だと言った。偉大な精霊様から格別のご加護を頂いているのだ、と。
しかしユーリ自身にそうした感覚は全く無かった。ただ時折気配を感じるくらいで物語に聞くような特別な力など貸してもらった覚えなど無いし、はっきり言っていてもいなくても変わらない存在でしかない。
だというのに、他者はその事を知ればユーリを精霊憑きの人間として色眼鏡で見るのだ。実際に何らかの力を貸してもらっているのなら此方も事実として受け入れもしよう。だがそうではないのに自身に対する評価に「あれは精霊憑きなのだから」という余計な一言が加えられるのがユーリには不愉快で仕方が無かった。
恩恵など感じた事は無い。特別な加護など与えられた事も無い。元より己に憑いた精霊にそんなものを望んだ事すら一度も無いのだ。ユーリにとって取り憑いている精霊と精霊憑きという肩書きは、不要なもの以外の何ものでもなかった。
だから、もしそんな理由で自分を巫女守に望んだというのであれば仮令後で誰にどう責め立てられようとも引き受けるつもりなど皆無だった。そんなユーリの決意が伝わっているのか、女官長が微動だにしなかった表情をほんの僅か引き締めた。その瞳の青が先程までよりも真剣な深みを帯びる。
長机を挟んで互いの視線が交錯する。一呼吸の間の後、女官長は意外な事に厳しく引き結んだ口許を少しだけ和らげた。
「ご安心を。私共は精霊憑きだから、という理由で貴女を選んだのではありません。――貴女が腕の立つ〝女性〟だとお聞き及びしたのでお願い申し上げたのです」
「…どういう意味です?」
今度はユーリが考え込む番だった。精霊憑きだというのが理由で無いというのはいいが、今一つ答えの意味が掴めない。
頭を捻るユーリに、女官長は再度険しい顔をして言う。
「言葉の通りの意味です。……巫女様は今年で十四になられました。世間でいえばそろそろ色恋沙汰に興味を持つようになるご年齢でしょう。勿論巫女様はご自身の立場をよくご理解しておられ清く正しくおありですが、周囲の若い祭司官や守護士の中には巫女様に純粋な憧れ以上の視線を向ける者もいるのです」
嘆かわしいと言わんばかりに女官長は溜め息を零す。憧れ以上、という言葉の含意で思い当たったのは噂話に疎いユーリの耳にまで入るような、城下の世間話の類に聞く巫女の容貌の麗しさ。それで漸くユーリにも女官長の言わんとする意味が呑み込めてきた。
「つまり悪い虫が付かないように同性を巫女守に据えたい、という事でしょうか?」
「少々俗な言い方ではありますが、概ねその通りです」
女官長は細い眉を顰めて肯定した。その件で思い悩んている所為なのだろうか、よく見ると女官長の目の下にうっすらと隈が出来ていた。
「巫女守とは、侍女と並んで巫女様の最もお側近くにお仕えする者。その為に最良と思われる者を据えるのは当然でしょう。ですが、残念ながら現在守護士の中に女性は一人もおりません。ですので騎士団の方に良い人物がいないかお尋ねするべきかと考え倦ねていたところ、現巫女守のファルガ様が貴女をご推薦なさったのです」
女官長が口にした推薦者の名前を聞き、ユーリは驚きを隠せなかった。
「貴女は以前とある騎士と立ち合い、瞬く間に勝利してしまった事がおありだとか。加えて自らの意志により騎士団長直々の誘いを断る気骨の持ち主らしい、と又聞きではありますがファルガ様より伺っております。ですので、貴女ならば心技共に次の巫女守として相応しいのではと考えた次第です」
一旦言葉を切った女官長は椅子から立ち上がると、ユーリに向かって深々と頭を下げる。
「どうか巫女守の役、お引き受け頂きますよう切にお願い申し上げます」
女官長は頭を下げた体勢のままでユーリの返事を待っている。幽かながら外の廊下を歩く人間の話し声が聞こえてくるような静けさが場を支配する。ユーリは瞑目し、一度深めに呼吸をした。
「―――承知しました。巫女守の任、お引き受けします」
極めて事務的に返答を告げる。答えるに際して浮かんだ感情そのものは特に無かった。
精霊憑きが理由であるのならユーリは間違い無くこの打診を断っていただろう。けれども先方がユーリを選んだ理由は腕が立つ事と女性である事、この二点からだった。
剣に関してはそれなりの腕を持っているという自負がある。そして、男に間違われる事が多々ありはするが自分は一応女性である。序でに付け加えれば、衛士長からも絶対に引き受けてこいと言われている。これでは残念ながら断る為の理由が見付けられない。
衛士隊に入った理由も身に付けた剣の腕を活かせる職業を選んだだけだった。四年も務めた今となっては少なからず思い入れはあるが、配属が変わったとでも思えばいいだろう。どちらも剣で生きていく道には違いあるまい。
「――感謝致します」
再び頭を下げた女官長の声からは、多少の安堵が感じられた。
「では、詳しいお話ですが……」
承諾を得た後も女官長の表情は緩まない。芯でも入っているかのように真っ直ぐに背筋を正した彼女が言葉を続けようとした時、不意に外から訪いがあった。
「よろしいかな?」
扉越しに低い声が入室の許可を求める。女官長は片方の眉根を微かに寄せたが、すぐに「どうぞ」と応えた。
「では、失礼する」
言葉の後に続くようにして壮年の男が扉の向こうから姿を現した。白髪交じりというよりは元の色なのだろう茶髪交じりの白髪といった方がしっくりくるような頭をして、年の割にはがっしりとした体躯に青紫の騎士服を纏っている。歩みを進める度にその背で靡く純白のマントの中央には光闇を意味する日月と、それを囲むよう円状に火水風土の図案が配された精霊宮の紋章が縫い取られている。
そのマントを身に付ける事が許されるのは巫女守のみと聞く。ならば、この人物は〝彼〟以外の何者でもない。
――ファルガ・ロランジュ。勇猛果敢で知られた元騎士団副団長にして、現巫女守。彼が過去に築いたその武名は、剣を志す者達の間で今も色褪せる事無く語り継がれている。
「首尾はどうだろうか、女官長殿」
「ええ。たった今、お引き受け頂いたところです」
「おお、そうかそうか」
女官長と二、三言葉を交わしたファルガは、小さく微笑んでユーリの方へ向き直った。
「ファルガ・ロランジュと申す。此度は我が後継引き受けてもらい、感謝する」
「いえ」
話だけなら剣の師からも聞いた事があるが、こうして本人と対面する事になろうとは。巫女守となる話を持ち込まれてから今初めて、幸運と呼べるものに遭遇した気がする。
年齢を重ねて尚も噂に違わぬ風格を漂わせるファルガはじっとユーリの眼を覗き込んでくる。睨み合いでこそなかったが、ユーリは視線を逸らしはしなかった。
「…名はユーリだったな」
ファルガの紫色の瞳が輝く。
「はい」
「すまんが少々儂に付き合ってくれんか?何、然程時間は取らせんよ」
「構いません」
何故か、と問う事はしなかった。彼が何を望んでいるのか、その眼がはっきりと語っていたからだ。
ユーリが長椅子から立ち上がるとファルガは先に立って歩き出した。この場で一人、女官長だけが意味が解らず怪訝な顔をしている。
「もし、ファルガ様。どちらへ行かれるのですか?」
「うむ。新たな巫女守殿の実力を確かめておきたくてな」
女官長の問い掛けに立ち止まったファルガは顔だけを其方へ向け、子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言った。




