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精霊祀を数日後に控えた慌ただしい精霊宮において平時と変わらぬ閑散とした奥庭。微風に揺れる緑の絨毯に座り、レンディットは墓所の裏手に隠れるようにして其処にいた。
深く吸い込んだ空気に初秋の匂いが胸一杯に広がる。穏やかな気候の中にもある淡い四季の移ろいは、過ぎ去る時間の流れを強く感じさせた。
いつもなら傍にいてくれるネルはユーリが精霊宮を出て行って以来、侍女としてしか口を利いてくれなくなっている。ユーリを辞めさせた事が腹に据え兼ねているのだろう。私室にいる時間でさえ地の口調で話してはもらえないが仕方の無い事だ。あの子をああまで怒らせてしまったのは、他ならぬ自分なのだから。
ネルはどちらかといえば短気な方ではあるが、後日まで長々と怒りを持ち越すという事は少ない。小さい頃から荒っぽくて口より先に手が出る類の子供ではあったがネルの根底にあるのは親分気質であり、喧嘩をしてもあんな風に遠回しに怒りを表す質ではないのだ。それを思うと今回の件に対する彼女の怒りは相当のもののようで、そう簡単には許してもらえそうにない。
ネルを彼処まで怒らせてしまっているのはとても心苦しい事ではあるがレンディットにも引けない理由がある。譲れないのだから、貫き通すしかない。仮令このまま一生口を利いてもらえなくなったとしても、此方から謝る事は出来なかった。
レンディットは瞳を伏せ、少し離れた位置に咲く白詰草の花を見つめる。
たった何日か前までは、此処にはレンディットの他に二人がいた。奥庭には一緒に剣技を磨く二人の奏でる金属音が鳴り渡り、稽古が終わると三人でたわいない雑談に興じた。
目など閉じなくても、今も其処にあるかのようにありありと思い描ける想い出。ネルが悔しそうな声を上げて地面に転がり、息一つ乱していない彼女が鞘を受け取りに此方へ歩み寄って来て――。
其処までを想起してレンディットは記憶の中の彼女から目を逸らし、高い空を仰いだ。何処までも蒼く、遠く続いてゆく空。膝を抱え、緩やかに流れる雲をぼんやりと眺めていると、辺りをゆらゆらと飛び交う精霊達がそっと語り掛けてくる。
優しい声。温かな微笑。口々に囁かれる精霊達の言葉は残酷なまでに無邪気で、真摯であるが故に他を顧みない。さながら甘い誘惑のような精霊の囁き全てを辞してレンディットは下を向いた。
「……大丈夫。お願いだから、何もしないで」
空に溶けるような呟きに精霊達は頷き、あるいは肩を竦めるようにしてまた元のように周囲を漂う。
本当は、このように外へなど出ずに私室に閉じ籠もっていなければならなかった。新たな巫女守を選定するまでの間の身の安全を考慮して部屋で大人しくしているように。それが女官長からの言い付けだ。
私室に籠もりきりでいる事には不満や文句は一欠片たりとも無かった。だがレンディットは今日、密かに窓から私室を抜け出した。ネルが他の女官等の手伝いに行って傍にいない時間を見計らい、女官長との約束を破ってまで奥庭へ来たのには訳がある。無論ただの気紛れや暇潰しが理由ではない。
昨日の夕刻、祈りの間から戻ると閉じた窓の間に一通の手紙が差し込まれているのを見付けたのだ。付き添いを終えてすぐに夕食の支度に出て行ってしまったのでネルは手紙の存在を知らない。気付かれなかったのを幸いに、レンディットは食事を運んで来てくれたネルに一言も手紙の事を話さなかった。
手紙の内容は至極簡潔で、奥庭で会いたいという文章と署名のみが記されていた。文末に添えられた差出人の名前を指でなぞると、切なく苦しい吐息が零れた。
この場所は人目を忍ぶのには最適だ。だから向こうも此処を待ち合わせの場所に指定したのだろう。
心を落ち着かせるように深く息を吸い込んでレンディットは祈りの歌を口遊み始める。秋の精霊祀で歌う、豊穣を齎してくれる精霊達への感謝の聖句を。秋の精霊祀の主役は地精達で、歌う祈りも舞う踊りも全て地精に捧げるものとなっている。
小さな声で細く紡がれる歌に合わせて地精達が楽しげに踊り出す。己に捧げられるものではない歌に他の精霊が羨ましそうな顔をするが、レンディットには彼等の様子はほとんど目に入っていなかった。
祈りの最後の小節を歌い終え、静かに呼吸をする。周囲の音に耳を澄ませ、レンディットは自嘲めいた微笑みを浮かべた。
署名にあった名は、ユーリ・ヴィッセ。もう二度と見る事も聞く事も無いと思っていた彼女の名前だ。
文末にあったその名の綴りを思い出すだけで胸苦しさが込み上げる。きちんと理由を語る事も無く馘首を言い渡したにも拘わらず、ユーリは立ち去る最後にレンディットを気遣う言葉を残していってくれた。
胸が痛かった。もう一度だけでも逢えたなら、心を尽くして謝りたかった。――所詮は叶わぬ願いであるのだけれど。
近付いて来る草を踏み拉く足音は二つ。誰なのかは気にしなかった。ユーリが此処へ来ない事は最初から知っているし、待ち人本人が奥庭へ来ないだろう事も何となく察していた。
ユーリの名前を使えばレンディットを誘き出せると彼方は思ったのだろうか。だとしたら、大分判り易く感情が表に出てしまっていた事を反省しなければならない。レンディットは自制一つ儘ならない自身の稚拙さを噛み締めた。
例の手紙は読んだ後に炎精に頼んで燃やしてしまってある。レンディットの他にあれを読んだ者はいないから、仮令何があってもユーリにおかしな疑いが掛かる事は無いだろう。
ユーリはきっと、逢いたいなどとは言わない。レンディットの知るユーリはああして馘首されたからには己の不足を思って此方と距離を置くだろう。精霊から教えられなくとも、差出人が全くの別人であるのは自明だった。ユーリはあのような手紙を寄越すような真似などしない。レンディットにはそう断言出来た。
だが、もしも。あの手紙が本当にユーリからのものだったなら。果たして自分はどうしていただろう。平静を装い、見なかった事にして黙って処分出来たのだろうか。一時の情動に突き動かされ、矢も盾も堪らず飛び出してしまっただろうか。
残念だがレンディットにはそのどちらも選べそうになかった。僕は多分、何も出来ずに立ち尽くすばかりだろう。
あの手紙が本物でなくてよかった。レンディットは立ち上がり、ゆっくりと足音の方を振り向いた。見知った顔の守護士が二人、態とらしくも目を丸くして驚いた振りをする。
「巫女様、このような場所にお一人でどうなさいました」
「巫女守もいないのに侍女すら付けずにお一人で外歩きとは、如何に精霊宮の内側といえども感心出来た事はないでしょう。さ、私共と巫女殿へお戻り下さい」
それとなくレンディットの逃げ道を塞ぐように分かれた守護士達は何食わぬ顔で同行を促した。レンディットはにこりと微笑み、彼等に連れられるままに歩き出す。
何処へ連れて行かれるのは判らないが、彼等の言うように巫女殿に戻るのではない事だけは確かだろう。抵抗はしない。元よりそのつもりで呼び出しに応じたのだから。
先行きに恐れも戸惑いも感じなかった。ユーリの事を考えていた先刻までは心が千々に乱れていたというのに、不思議な事だ。レンディットは己への呆れを込めて小さな忍び笑いを洩らし、いつもの微笑を作り直した。




