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今日もまた、晩課の祈りの時刻がやって来る。定刻通りに自室を出たユーリは隣のレンディットの私室へ向かった。
あれから数刻を経た今も尚、苛立ちに似た感覚が心の中に燻り続けている。それを強引に振り払うように腕に掛かったマントを払い除ける。
守として失態を犯したという自覚がある所為だろうか。レンディットと顔を合わせると思うと気が重かった。だがいつまでも扉の前で突っ立っていても仕様が無い。ユーリは迎えに来た事を告げに扉を叩こうと右手を持ち上げた。その矢先、脇から声が掛けられる。
「ユーリ様。少々お時間を頂きたいのですがよろしいでしょうか?」
女官長だった。言葉そのものは相手の都合を窺っているが、返答に関しては有無を言わせぬ空気があった。時間が欲しいと呼び止めるという事は件の黒幕について何か判明したのだろうか。此方も守護士長の一件を報告しておかなければならないと思っていたところだ。先刻女官長の部屋を訪ねた時は留守だったのでまだ報告が出来ていなかった。
「了解した。祈りが終わった後に部屋に行けばいいのか?」
「いいえ。出来れば今すぐに。ですので巫女様の付き添いにはネルを付けました。先程祈りの間へ向かわれましたので、ユーリ様はこのまま私の所へいらして頂けますか?」
強い調子の物言いに加え、先回りしてユーリの仕事をネルに肩代わりさせたとなれば余程の話があるのだろう。ならば断る理由は無い。
入室後、静かに自室の扉を閉ざした女官長はユーリをまじまじと見つめてきた。椅子を勧めるでもなく、さりとてすぐに本題に入るわけでもない。如才無い彼女にしては随分とらしくない態度だ。
女官長は暫くの間ユーリを見つめてじっと押し黙っていた。其方が喋らないのであれば先に此方の報告をするべきだろうか。ユーリは少しだけ悩んだ。
「単刀直入に申し上げましょう、ユーリ様」
口を開こうとしたユーリに先んじて言葉を発した女官長は一度瞑目し息をつくと、感情の入る余地など無いような単調な声と冷厳な無表情で言った。
「――本日を以て、巫女守の座を降りて頂きます」
「……何?」
ユーリは茫然と女官長の顔を見る。意味が解らなかった。
「――…何故?」
言葉も出ないような衝撃に揺れる最中、どうにか口に出来たのはそんな短い一言だけ。思い掛けない宣告に思考は完全に停止していた。たった今投げ掛けた問いと、何故かレンディットの顔だけが鮮明な輪郭を持って脳裏に浮かんでいる。
「何故と言われましても、ご自身に身に覚えは無いのですか?」
女官長はユーリの問いを冷たくあしらい、温度を感じない青い瞳を細めた。だがユーリには馘首される理由に心当たりが無い。視線を返す事で女官長の意を問うと彼女は呆れたように息をついた。
「本日の守護士長との一件、私の耳にも届いております。…負けを喫したそうですね。それだけならまだしも、最後の決め手の際に貴女は棒立ちのまま動けなかったとか。その直前に守護士長に何か言われた様子であったとは聞いておりますが――いざという時に動けなくなるような者に巫女様の守役を任せておくわけにはいきません。付け加えて言わせてもらえば、その程度の人間がお傍に付いていたところで何の意味もありません。ですから、今すぐその務めを降りて頂くのです」
「っ――!」
女官長の言葉が鋭利な刃となって胸に突き刺さり、ユーリは二の句を呑み込んだ。歯噛みしたくなる程に身に染みている失態。責められるだけの自覚がある分、女官長の断言に返す言葉が見付からない。だからといって唯々諾々と頷く事も出来ず、渦を巻く様々な想いの中からユーリは今の自分に許される言葉を探した。
「…決定事項か、それは?」
「勿論です。この事は既にレンディット様もご承認になられておりますから」
「……私の次の、巫女守は?」
「まだ決まってはおりませんが来月の初めには精霊祀が控えています。皆慌ただしく走り回る時期ですから、巫女殿の中も外も誰かしらの人目が存在します。内部に巫女様を狙う不届き者がいても易々と行動を起こせはしないでしょう。あの方には私室で大人しく過ごしていて頂くつもりですし、巫女殿に出入りする人物にさえ気を付ければ新たな巫女守が決まるまでの間程度は問題無い筈です」
完璧主義のこの人が此処まで言い切るのだから警護の計画に手抜かりは無いのだろう。しかし、せめて次の守役が決まるまでは。愚かにもそんな想いが胸中を過ったが、恐らく許されまい。女官長の態度の端々にはユーリへの拒絶のようなものが透けている。
「―――解った。なら、すぐにでも出て行こう」
自分で口にした返答の言葉を、ユーリはまるで他人事のように聞いていた。
反論の仕様が無い事は事実だ。女官長の意見は正しい。仮に自分が彼女の立場だったとしても、そのような使い物にならない人間に大切な巫女を任せてはおけないと判断を下しただろう。それは当然であり、仕方の無い事だ。だがユーリには数あるそういった尤もな理由の何よりも、レンディットが承認しているという事実が不思議なくらいに徹えていた。
レンディットがユーリを巫女守から降ろす事を認めている。それはユーリが守として相応しくない、言い換えれば彼にとって必要の無い人間であるという事に他ならない。
驚いた事に頬の切り傷などよりも怪我などしていない筈の胸の方が遙かに激しい痛みを訴えていた。けれどユーリは痛みを表に出す事無く胸奥に沈める。こんなものはどうせ一過性のものに過ぎないのだ。精霊宮の外へと戻ればその内薄れて忘れていくだけの、下らない感傷だろう。
「ではそのように。レンディット様の件については他言はならさぬと貴女を信じておりますので。それから、衛士隊の所属へと戻れるよう此方から既に話を通してあります。今のところ近日中に退任の式を行う予定はありませんので、その辺りの事に関しては追って連絡を差し上げましょう」
「感謝する。…最後に一つ伝えておく事がある。守護士長には注意しておけ。例の件について怪しく思うところがあった」
「――解りました。心に留め置きましょう。ご忠告感謝致します」
促されるより早くユーリは自ら巫女守の剣を女官長へ手渡した。腰からたかが長剣一振り分の重量が無くなっただけなのに、自分の中が空虚になったような、奇妙な軽さを感じた。
退室するユーリに女官長が頭を下げる気配がしたが、振り返る事はしなかった。
ユーリは女官長の部屋を出たその足でレンディットの私室を訪れた。幾ら何でも二月余りの日々を共にした主に対し一言の挨拶も無しに出て行くのは礼を欠いている。そろそろ祈りを終えて戻って来ている頃合いだろう。
私室の扉を叩いてみたが応答は無い。中からは代わりに怒鳴るようなネルの声がくぐもって聞こえ、訝ってユーリは返事を待たずに扉を開けた。
「勝手にしろ、この大バカ野郎!!」
ユーリが室内へ入ったのとほぼ同時に怒りに満ちた声で吐き捨てたネルが勢い良く寝室の扉を閉める。全力で叩き付けたような音が大きく部屋に轟き、その余韻で鼓膜が震えた。それでも静まらないらしい怒気にネルは手近な椅子を蹴り飛ばす。
「…あのバカだったら向こうだぜ。言いたい事は山程あるけど、ほとほと愛想が尽きたからな。私はもう何にも言う気はねえよ」
椅子が床を滑った先にユーリに立っている事に気付いたネルは不機嫌を隠そうともせずに顎で寝室の方をしゃくる。
激しい怒気を立ち上らせているネルの前を通り越し、ユーリは寝室へと続く扉の前に立った。向こう側にあるレンディットの気配が微かに身動ぎをする。扉を背にして其処に立っているのだろう。取っ手へと伸ばし掛けた手を思い直して止め、ユーリは一呼吸の間を置く。
「辞去の挨拶に参りました。至らぬ守であった事を、お許し頂きたい」
ネルとの喧嘩の原因はユーリの解任に関する意見の相違のようだ。今し方のネルの表情から察しが付いた。だからユーリはレンディットが何も気に病む事の無いよう、努めて平静に挨拶を述べる。
幾ら待ってもレンディットからの返事は無かった。つまり、自分はそれ程までに見限られてしまったという事だろうか。未熟な自分を恥じる想いで人知れず溜め息をつき、ユーリは扉に背を向けた。
「………至らないのは、僕の方です。ユーリは何も悪くありません。――…ごめんなさい」
幽かに聞こえたレンディットの声。ユーリは肩越しに後ろを振り返る。目の前の扉は閉じられたまま。けれども確かに耳に届いたレンディットの声にユーリは僅かな笑みを浮かべた。
レンディットは自分の事を〝私〟ではなく〝僕〟と言った。今の言葉が巫女としてのものではなく、レンディット自身のものであるという証だ。何故レンディットが謝るのかは謎だが、それでも別れ際に本心が聞けた事でユーリも気持ちに踏ん切りが付けられそうだ。
「どうぞお元気で、レンディット」
この決定が女官長の意に従っただけでなくレンディット本人の意思にもよるものだという事が、声に湛えられた許しを乞うような響きに表れていた。それならユーリにも異存は無い。解任がレンディットの意思によるならば、守役であった自分はそれに従うだけだ。
「ネルにも世話になった。元気でな」
擦れ違い様に、ぽん、と赤い頭を叩くとネルは拗ねたように外方を向いてしまった。素直に馘首を受け入れるユーリにも腹を立てているらしい。鼻を啜る音がしたが、別れに涙してくれているのだろうか。存外懐かれていたらしいと嬉しく思う反面、ネルと手合わせをする事ももう無いのだという寂しさも覚えた。
与えられていた自室に戻ったユーリは平服に着替え、精霊宮を出て行く為に荷物を纏め始めた。大した荷物は持って来ていないので片付けはあっという間に終わる。最後にざっと室内を見渡して何も忘れ物が無いのを確認し、つと卓の上に置いてある白い花が目に止まった。
昨日レンディットにもらった白詰草の花冠だ。丸一昼夜以上経過しているというのに未だに摘みたてのような瑞々しさを保っている。レンディットの作という事での精霊の加護によるものなのだろうか。ユーリは花冠を手に取って眺め、そっと息を零して再び卓の上に戻す。
いつの間にか雨も上がっていたが、空はもう日暮れも過ぎた薄明だ。薄墨色に染まる室内でただ一つだけ光を放つような花冠の連なる白を背に踵を返す。己の存在を主張するかの如く、左肩の辺りでいつもの″気配″が強くなった。
――もしかすると、慰めているつもりなのだろうか。
そう考えると、何だかこそばゆい気分になった。別に落ち込んでなどはいないつもりだが、ユーリの勘違いでないのならその気持ちは有難く受け取っておくとしよう。
ユーリは色濃い闇精の気配と共に静かに部屋を後にした。幾許かの心残りを胸に、レンディットの為にも早く良い巫女守が見付かる事を願って。




