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精霊と踊る君と  作者: 此島
五章
25/33

 色めき立つを通り越しておたおたと慌てふためく守護士等一同にユーリは深い溜め息をつく。

 レンディットを伴って訪れた訓練場の状況は予想通りというか、まさかユーリだけでなく巫女までがやって来るとは夢にも思わなかったのだろう。やれ場所を空けろ、やれ椅子をお持ちしろと騒ぐ守護士達は一生懸命といえば聞こえはいいのだが、要は主君にも等しい美貌の巫女のお出ましに舞い上がっているだけなのである。レンディットの正体を知っているユーリからすれば、情けないというよりも逆に彼等を不憫に思う感情の方が込み上げて来る。

 場内は守護士達の様々な申し出に騒然となるもレンディットはそれ等を全て辞退して、ネルと二人で周囲の邪魔のならないような訓練場の端に居場所を定めた。いつもなら守護士相手に限らず人から視線を向けられれば当たり障り無く微笑を返してみせる筈なのだが、今日のレンディットは此処にいる者達の注目を一身に集めながらも恰も置物の如く佇んでいる。

 あの様子を見ているとネルの発言にも得心がいく。望み通り此処へ連れて来た事によって少しでも気晴らしになればいいのだが。そんな事を想いながらユーリはレンディット達の方から視線を外し、気持ちを切り替えた。

 しかし、これから鍛錬に望もうというのに気の散じている者が多過ぎる。幾ら巫女の御前だからといってユーリが約束していた者達は疎か今此処にいる全員がそんな感じなのだから、揃いも揃って精神修養が足りていない。唯一副士長だけが超然とその場に立っているが、実のところ彼は彼で緊張の余りに動けなくなっているだけのようなので結局似たようなものだろう。

 ユーリは棒でも差し込まれたかのようにぴんと背筋を伸ばして硬直している副士長に声を掛け、皆を落ち着かせるように言った。こういう場合、普段大した関わりの無いユーリが纏めようとするよりも彼等の直属の上役である副士長が号令を出した方がすんなりと事が運ぶ。

 我に返った副士長は吃りながらも連れの守護士達に大声で鍛錬を始める旨の言葉を掛けた。これには上の空だった他の守護士一同もはっとしたようだ。場内には少しずつ、元のような訓練場特有の引き締まった空気が戻って来る。

 稽古を再開した守護士達の発する気合いの入った掛け声が響き始める。土の地面の一角に集まったユーリ等は合同で鍛錬をする時の常として、まずは適当に二人一組になった。準備運動がてらに組になった者同士で軽く剣を打ち合わせるのだ。そうして程良く身体も暖まった頃合いに本格的に組み合わせを決め、そこから次々に輪番のように組み合わせをずらして試合形式で腕を磨く。これは副士長の発案だった。折角こうやって集まるのだから、通常通りの稽古ばかりしていても勿体無い。どうせなら時間の許す限り立ち合い続けようというこの案にはユーリも含め、皆が賛同を示していた。

 各々得意な得物を手に打ち合いを始めると、気も漫ろだった者達も真面目な顔になって鍛錬に集中し始める。その合間にユーリはレンディットのいる方を一瞥した。ネルと二人でいるといっても、心に生じた懸念は完全には拭い切れなかったのだ。丸腰とはいえ体術も仕込まれているらしいネルの腕を信頼していないわけではないが、それでも守を務める身としては全く気に掛けないではいられない。

 ネルは澄ました顔をして立っているが、よくよく見れば羨ましそうな目をユーリ等へ向けている。本当は自分も稽古に交ざりたくてうずうずしているのだろう。けれどもどうあっても参加出来ない立場である故か、隠れて残念そうに溜め息を零していた。

 一方レンディットは稽古が始まる前と何一つ変わらずに其処にいる。瞬きすら忘れてじっと此方を見ているようなその顔には読み取れる感情の類は一つも浮かんではいない。虚ろに佇むレンディットを見ていると、ユーリの心中に微かな不安にも似た想いが影のように差し込んで来た。

 奥庭でのユーリとネルの手合わせを見ている時のレンディットはあんな表情(かお)はしない。いつも尊敬と憧憬を湛えた、だが楽しげな顔をしているのだ。

 自分から一緒に行きたいと言った割には見物に際して然して気乗りしていないように思える。剣の稽古を見るのは好きだと言っていたからこそ、レンディットのその態度はどうにも腑に落ちなかった。

「巫女様があそこにおられると思うと、やっぱり何だか落ち着かないよなあ…」

 室内の中央に設けられた硝子張りの天窓。空から届く雨天の弱々しい光を遮るような形でユーリの対面に立った副士長が呟く。まるで独り言のような言い方だったが、ユーリの方を見ながら言っているので恐らく話し掛けられたのだろう。

「私は副士長とは違うぞ」

 ユーリは自分よりやや背の高い副士長を軽く見上げて訂した。落ち着かないというところは同様だとしても、ユーリはいつにもまして儚げなレンディットが気になっているだけだ。いと尊き精霊の巫女様が近くで稽古を見物している事に緊張しているだけの小心な副士長と一緒にしないでもらいたい。

「いやあ、まあ、そうかも知れんけど…。お前、ずっと巫女様の事を気にしてるだろ?何か意外だなあと思ってな」

「意外?」

「ああ。何て言うかなあ。最初の頃に見掛けたユーリは巫女様と一緒にいても何か事務的っていうか、義務としてお傍に控えてるって感じに見えてたんだよ。それが今は自分から気にしてる風だったから、変わったなあと思ったわけで…」

 歯切れの悪く言って頬を掻く副士長はレンディット等の方を忍び見た。釣られてユーリも其方へ顔を向けるが焦点がずれているのだろう。レンディットは真っ直ぐ此方を見つめているにも拘わらず、視線が搗ち合う事は無かった。

「…四六時中一緒にいれば、情も湧くだろう」

 夏の精霊祀の後に巫女守に就任して以来、気が付けばもう二月以上が経っている。その身を案じる事くらいはするようにもなるだろう。別におかしな事ではない。

「おいおい、そんな道端の犬猫に対するみたいな言い方は止めろよ。親しき仲にも礼儀ありって言ってな、しかも相手は巫女様なわけで……」

「下らない話は終わりにして始めるぞ」

 物言いたげな副士長の苦笑を切って捨て、ユーリは手に提げている練習用の剣を握り直した。副士長が厳つい肩を小さく竦めて表情を引き締め、差し向かいで剣を構える。

 突如、どよめきが起こった。出端を挫かれ、何事だろうかとユーリと副士長はお互い剣を下ろして声の上がった方角――訓練場の入口の方を振り返る。

 視界に入った男を認識してユーリは微かに眉を顰めた。どうしてこんな所にやって来るのだろうか。彼が足を運んだとしても当然の場所である筈なのについそうした感想を抱いてしまうのは、あの男が此処で鍛錬に励む姿が少しも想像出来ない所為だ。

 現れた守護士長は必要以上に偉そうに胸を張り、取り巻きを引き連れて室内をつかつかと突き進んで来る。守護士長の登場に守護士等全員が皆慌てて稽古を中断し、一様に敬礼をして挨拶をした。己に投げ掛けられる幾つもの礼に守護士長は軽く手を挙げる事で纏めて応え、室内を威風堂々と横断してユーリ等の許へやって来る。

「これはこれは巫女守殿。此処で出会うとは奇遇だな。何でも聞くところによれば我が配下に稽古を付けてもらっているようだが、礼を言っておくべきだろうか?」

 此処最近は静かで有難かったのだが、人を見付けるとすぐに威張りたがるその習性は些かの改善もなされていないらしい。守護士長は東側の壁際にいるレンディットに気付いて恭しく片膝を折り曲げて礼を取る。そのままいつも通りユーリの事を無視してレンディットの方へ行くかと思ったのだが、意外にも守護士長は挨拶もそこそこに此方へ向き直った。

「…ふむ。――イオン副士長、その剣を私に貸せ」

 見下した目をユーリに据えたまま、守護士長は高圧的に言い放つ。

「は?し、しかしながら守護士長様、我々はこれより鍛錬の続きを行おうとしておりましたところで……」

 突然の命令に副士長は窺うように守護士長を見た。副士長の視線は明らかに「何故?」と問うていたが、傲岸不遜に立つ守護士長は物分かりの悪い部下を哀れむような顔をするだけだ。

「副士長。守護士長殿に剣を」

 ユーリが言うと副士長は顔を困惑に染めた。彼とて本当に守護士長の意図が解らないわけではない。守護士長の思惑など、その表情にしっかりと書き記してあるのだから。

 いいのか、と目顔で尋ねる副士長に頷きを返し、ユーリは剣を握る手に力を込めた。守護士長は副士長から彼の持っていた剣を受け取ると手に馴染ませるように簡単に一振り二振りし、刀身を水平に持ち上げて切っ先をユーリの眼前に突き付ける。

「巫女守殿。一つ私と手合わせなどどうだ?」

「受けよう」

 来るだろう思っていた提案だ。ユーリは即答して守護士長を睨み据える。気に入らない新参の巫女守を叩きのめして実力の差を思い知らせてやる――といったところだろうか。特別義理も借りも無いのだから、此方にも負けてやるつもりは一切無い。

 迷わず受けて立ったユーリの態度を生意気にでも思ったのだろう、守護士長の片眉が動いた。守護士長は腰の剣を取り巻きに預けて土床の中央へと歩いて行く。

 守護士長の取り巻き等が他の守護士達を壁際へ追い払っている間にユーリはレンディットとネルのいる所へと向かった。これから行うのは剣こそ刃引きされた物を使用するが、紛れも無い真剣勝負だ。

「巫女様。お預かり頂いても?」

 立ち会うのに邪魔になるだろう剣を剣帯から外してレンディットへと差し出す。レンディットは不安に揺れる瞳で見上げてきたが、それでも何も口出しはせずにユーリから剣を受け取った。

「おい、ユーリ。あんたなら判ってると思うけど守護士長(あいつ)、偉そうなだけあって結構やるぜ。油断するなよ」

 表面の淑やかさを保ったままでネルが小声で助言めいて囁いてくる。隣ではレンディットがユーリの剣を抱き締めるように持って、酷く心配そうな顔をしていた。

「ああ。心する」

 答えてユーリは守護士長の待つ中央へと移動した。

 場内の雰囲気は守護士長が来た時からまた一変し、張り詰めたような静寂が建物の端まで満ちているようだった。皆が固唾を呑んでユーリ等の動向を窺っているのが気配で判る。あれ程騒がしかった訓練場は耳の痛くなるような静けさに包まれていた。

「巫女守殿の実力とやらがどれ程のものか。試させてもらうとしよう」

 改めて対峙した守護士長は構えを取り、ユーリを嘲弄する笑みを浮かべた。飽くまでも余裕の態度を見せる守護士長の挑発は完全に黙殺して、ユーリもまた正眼に剣を構える。

「――始め!!」

 土床の北辺に立つ審判役を買って出た副士長の声が、威勢良く空気を断ち割った。

 いやが上にも高まる緊張感の中、その場で構えたまま一歩も動かないユーリと守護士長は睨み合う事で互いに動きを牽制していた。ユーリは相手の出方を探るように、守護士長は相手を見下す眼差しを更に細めて。両者の纏う威圧的な沈黙にほんの一呼吸の時間がやけに長く、ゆっくりと過ぎていく。

 短く呼気を吐き捨ててユーリは一瞬で間合いを詰め、守護士長の肩口から斜めに剣を斬り下ろした。手にはすぐに金属の硬い感触とそれ等が打ち合わさる衝撃が伝わってくる。ユーリの先制を真っ向から受け止め、守護士長が口の端を少しだけ笑みの形に引き上げる。

 無論決まるとは思っていない一撃だ。止められた瞬間にユーリは既に剣を引いている。半歩跳び退り、先の一閃を逆からなぞるように守護士長の空いた胴を狙う。だが守護士長は瞬きの内に剣を返し、反対にユーリの顔目掛けて突きを放ってきた。

「…ちっ!」

 相手の的確な反応に思わず舌打ちが洩れる。偉そうな分は強いというネルの言を身を以て実感しつつ、回避の為にユーリは身体ごと大きく首を倒して地面に片手を突き、そのまま守護士長の脇を擦り抜けて彼の背後に回った。

 片や守護士長は悠然と身体を反転させ、素早く手首を返して剣を構え直す。その間も守護士長には隙は無く、彼が伊達や酔狂でその座に在るわけではない事を嫌でも思い知らされた。

 剣と剣とを打ち鳴らして、もう幾度目かになる鍔迫り合いにユーリと守護士長は激しく睨み合う。時間が経過するに従い、剣戟の音に交じって室内の其処彼処で二人の立ち合いを見守る者達の洩らす強張った吐息や微かな囁き声が大きくなる。

 噛み合った剣の向こうでは守護士長が元から吊り気味の目許を一層吊り上げるように眇めてユーリの動きを捉えていた。適度に冷えている頭でユーリは冷静に状況を分析する。

 力ではそれ程負けてはいない。技自体も目に見えて劣っているわけではない。守護士長の得意技らしい鋭く穿つような突きは厄介ではあったが、速さはあれども所詮は点の攻撃だ。落ち着いて動きを読めば躱すのは難しくない。

 総じて判断して、強敵ではあるが決して勝てない相手ではなかった。現に相対する守護士長の顔からは当初の余裕は消え、代わりにその眼には初めて見るような真剣な光が宿っている。

「――侮っていた非礼は詫びよう。正直意外ではあったが良い腕をしている。巫女守としての実力は充分に備えているようだ」

 競り合いの最中、つと守護士長が感心したように呟いた。

 いつもの当て擦りの類かとも思ったが守護士長の表情にそういったものは無く、どうやら本気でそう言っているらしい事が察せられた。ユーリは突然の謝罪と褒め言葉に少なくからずの戸惑いを抱き眉根を寄せる。けれどもそれは続く言葉を聞いた途端に明確な不信感へと変わった。

「惜しいな。その腕前、あの巫女の守でなければ存分に活かせただろうに」

「…どういう意味だ?」

 守護士長が薄茶色の眼を同情するように細めた。ユーリの方も真意を詰問する意を込め、守護士長を鋭く睨み返す。

「言葉通りの意味だ。あの巫女の傍に在るのはそなたの為にはならん」

 語調には憐れみを含みながらも剣に込められた守護士長の力は少しも緩まない。鍔迫り合いが長引けば、此方の剣を上から押さえ込む形で組んでいる守護士長の方が有利になっていくだろう。

 しかしユーリは一度下がるという選択をしなかった。この距離だからこそ人知れず交わせる問いがある。守護士長の剣を押し上げるように剣を握った両腕に力を込め、沸き起こる静かな怒気を声に滲ませてユーリは目の前の男に核心を問うた。

「……この間の一件は、お前の仕業か?」

「さて、この間の一件とは何だ?生憎だが何の話か解らんのだが」

 空惚けているような守護士長の口調は肯定とも否定とも受け取れる。ユーリの睨み据える視線の先にある顔は実に堂々としたもので、それが厚顔なのか、それとも潔白故なのか。表情からでは判然としない。

 レンディットを狙っているのは内部の者。守護士長ならばある程度行動の自由も利く。密かに襲撃の手筈を整える事も不可能ではないだろう。

 けれども、もしも守護士長が襲撃の黒幕だとするならば一つ、大きな疑問が残る。

 少々の語弊はあるが守護士長はレンディットに好意的に接していた筈だ。彼は世間知らずの巫女の保護者を自任している節があり、だからこそ巫女を都合のいいように利用している――と守護士長は思いこんでいる――女官長や、役に立たないと決め付けた巫女守と対立するような態度を取っていたのだ。その守護士長が人を雇ってレンディットを襲撃させる理由とは何だ。

 ユーリは競り合いを続けながら意識の端で思考を巡らせる。だが幾ら考えども明確な答えは導き出せない。そんなユーリを嘲笑うかのように、守護士長が口許に笑みを刻んだ。

「――ふむ。巫女守殿に問おう。そなたは己と主、どちらが大切だ?」

「…何?」

「そなたの真後ろには丁度巫女様がおられる。余程そなたの事を心に掛けているのだな、我等の勝負を息を詰めて見守っておられるようだ。あの方はそなたと違い荒事には無縁の人間。よしんば反応出来たとしても、あのように重い剣を抱き抱えていてはすぐに動く事などは出来んだろう」

「何が言いたい?」

 不穏な気配にユーリの声が尖る。守護士長は綽々と言葉を続けた。

「例えば此処で私がそなたに攻撃を仕掛ける。その際に誤って手が滑ってしまう事も有り得る話ではある、という事だ。特にそなたのような腕前の剣士が相手では、如何な私とて勢い余って得物を手放してしまう可能性も否定は出来ん」

「…っ、お前――っ!」

 遠回しでありながらその意図は明瞭だった。お前が避ければ巫女が怪我をする。さて、どちらを取るか。守護士長はユーリに向かってそう問い掛けていた。

「私から見て右、左と打ち込んで、最後にそなたの左眼目掛けて突き込むとしよう。殺さぬようにはするが、失明はまあ避けられんな。そなたが躱した場合はこの剣、巫女へと投擲する。先の二撃の内にどちらか選んでもらおうか」

 訓練場での事故を装う。図らずも先刻考えた可能性だった。刃の無い剣とはいえ、重量は普通の物と変わりない。それなりの速度と狙いを以て投げ付ければ充分な威力を発揮する凶器となり得る。

 脅しの言葉で意識が其方へ向いたユーリは背中にレンディットの視線を感じた。どうして連れて来てしまったのだろうか。己の愚かさ加減に虫酸が走った。少しでも考えが及んだのならば、レンディットの安全を思って断固として承諾するべきではなかったのだ。

 ユーリは己に憤りを覚えながらも状況を打破する術を模索する。守護士長が動くより先に攻撃を仕掛け、レンディットを背にしたこの位置から移動すれば、守護士長の剣がレンディットへ届く事は無いのではないか。考えて、思い直す。

 守護士長程の力量であれば此方が動いた瞬間にその思惑に気付き、咄嗟に手が滑った振りをしてレンディットの方へ剣を飛ばさないとも限らない。ネルが反応して庇ってくれるかも知れないが、示し合わせたわけでもないのにそれを期待するのは危険を冒す事以外の何ものでもなかった。

 レンディットの無事を確保するには言われた通り自分が動かない事が最良なのだろう。そうでなければレンディットが大怪我を負うかも知れない。想像した情景にユーリは激しい動揺を覚え、同時に異常なまでに焦りを感じている自身に狼狽した。

 守護士長が大きく後ろへ下がる。宣言通りに打ち込まれた横薙ぎの一撃をユーリは身体が反応して動くまま剣で受け流す。思考の淵に沈んでいたのを急激に現実に引き戻され、心臓がいつにない速さでどくどくと鳴っていた。

 頭上の天窓を叩く雨粒の音がやけに大きく聞こえる気がする。次いで繰り出された返す刀の二撃目をユーリが剣先を返して防ぐと、守護士は刀身が触れ合うか合わないかの隙に今度は小さく後方へ跳び、突きを放とうと踏み込みの為の距離を取る。

 猶予など無かった。次に来るのは選択を迫られた最後の一撃。ユーリは眼前に襲い来る守護士長の剣を凝視し―――、

「――そ、それまで!!」

 判定を下す副士長の叫びが落雷染みて響き渡る。

 頬を一筋伝う、ぬるりとした感触。歯噛みして手の甲で乱暴に血を拭い、ユーリは悠々と剣を下ろす守護士長を睨め付けた。

「…良い勝負だった。またの機会を楽しみにしているぞ、巫女守殿」

 守護士長は平生と同様に踏ん反り返るように胸を張り、束ね髪を揺らして取り巻き等の待つ方へ颯爽と身を翻す。

 まるで何事も無かったかのように去って行こうとする守護士長にユーリの苛立ちは募るばかりだった。否、この苛立ちはあの男の所為ばかりではない。

「……っ、ユーリ!」

 声に引かれて振り向けばレンディットの無事な姿が目に入った。レンディットはまだ行くなと腕を押さえていたらしいネルの手を振り解き、長い裾と抱えた剣の重量に蹌踉きつつも駆けて来る。

「ユーリ、血が……」

 ユーリは硬い声で言うレンディットに首を左右に振る事で応えた。この程度、怪我の内にも入らないような微々たるものだ。取るに足りない切り傷など気にもならなかった。

 刃引きがなされていても剣に充分な速度を乗せて鋭角に突けば、人間の皮膚如き簡単に斬り裂ける。真っ直ぐにユーリの左眼へと迫った切っ先。剣は直前で僅かに逸れ、頬を掠めて動きを止めた。

 守護士長の剣の軌道は読めていた。けれどもユーリはその場に立ったまま、大人しく守護士長の一閃を喰らった。

 守護士長の脅迫に応じて敢えて動かなかったのではない。あの時、頭は冷静に回転していたのだ。相手の狙いが変わった、反応しろ。下から剣を跳ね上げれば守護士長の手から武器を取り上げられる。動け、と。だが身体の方が思考に反して全く動かなかった。

 どういう訳か、など悩むまでもない。ユーリは怯んだのだ。守護士長の剣がレンディットへと向く事に。

 守として主の身を最優先したのだ、と。そう言えば聞こえはいいだろう。だがこれはそういったものではない。当惑し怯んだ結果、身体が動かなくなっただけの事だ。ユーリは何もしていない。守る為の決断も、止める為の行動も、何一つ出来なかった。

 頬の怪我を気遣うレンディットの瞳から顔を逸らし、ユーリは守護士長の消えた訓練場の入口を睨んで悔し紛れに唇を強く噛み締める。血の味がしたが込み上げる怒りで痛みは感じない。己の不甲斐無さに心の奥底までが灼けるようだった。

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