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――この頃、何か変だ。
レンディットは私室の窓辺に立って物思いに耽っていた。
疾うに日も落ち、定められた就寝時刻さえも過ぎてしまった深夜。窓を塞ぐように引かれたカーテンを軽く払い、漫然と夜の風景を眺める。裏庭の草木の揺れる様にそっと窓を開けてみると、冷たい夜風が部屋の中へと吹き込んできた。
風と共に飛び込んで来た、室内を駆け回る風精の囁きがレンディットの聴覚に響く。ぼうっとしているレンディットを心配してくれている彼等は室内の空気をぐるりと一巡りさせると傍らに寄り添うように集まって、付近をゆらゆらと漂っている。
「自分がよく、解らなくて……」
風に歌う草木の声に紛れるような幽かな呟き。だが精霊達には声の大きさなどは関係は無い。レンディットが真に伝えたいと思えば、言葉など無くとも想いを伝え合う事が出来るのだ。だから精霊達は今の呟きを確かに聞き取ってくれる。それでも敢えて声として発したのは、言葉にして吐き出したら胸の内を塞ぐようなこの想いが幾許かでも楽になるのではと思ったからだ。
窓枠に腰掛けたレンディットは少しだけ微笑んで、周囲に集まる精霊達を見渡した。
窓の側には風精と、地面の暗がりから延びるように浮かび上がる地精。先程明かりは消してしまったのにまだ此処に留まってくれている炎精と、泉の方からやって来た水精。夜を統べる闇精の一体が、座るレンディットの膝の上に頭を載せてくる。眠たそうな光精達は欠伸をしながらも、まだ帰る素振りも無く近くにいてくれていた。
「…どうして苦しいのかな?何かおかしいね、僕」
ぽつりと零すように言って、レンディットは長い溜め息を吐き出した。
この頃、ユーリといると不思議と胸が苦しくなる。呼吸が出来ないわけでもないのに、何故だか奇妙に息苦しい感じがするのだ。勿論体調が悪いわけではない。だが彼女が傍にいるとおかしな事に、突然胸が締め付けられるような感覚に襲われる。そして、それは決して不快な感覚ではないのだ。
理由すら定かではない不可解なこの感覚が何なのか、レンディットには全く判らなかった。ネルにでも相談しようかと思った事は何度かある。だが何となく憚られて、結局こうして毎夜のように一人物思いに耽る日々を送っている。
精霊達は話は聞いてくれるが、レンディットの抱く悩みに対して具体的な答えをくれる事は無かった。彼等の反応は様々で、一緒になって不思議そうに首を傾げるものもいれば、訳知り顔でうんうんと頷いているものもいる。けれど、その誰一人として答えを与えてはくれない。
「今日も、変に心配掛けちゃったかな…」
昼間の出来事を思い出すと、まだ気分が鬱々としてくる。迷惑ばかり掛けている自分が至極情けない。
転びそうになったのを助けてもらったのだから、普通にお礼を言えばよかっただけなのだ。なのに抱き留められた瞬間の距離の近さと、ユーリの綺麗な灰色の瞳が間近に自分を見つめている事に意味不明な羞恥が湧いて、何も言えなくなってしまった。
「…こんな風じゃ駄目だね。もっと、しっかりしないと」
窓枠に頭を凭れ掛けてレンディットは目を閉じた。自分は『精霊の巫女』として此処に在るのだ。理解不能な私情に左右されて心を乱すなど、あってはならない事だ。
強くなった風の音と、揺れる草木のざわめき。歌うような虫の声。闇夜の静寂に包まれた世界で精霊の気配と自分の呼吸の音だけを感じながら、空気に溶かすようにして凝り固まった心を広げる。もうじき雨が降るよ、と水精が耳元で囁いた。
レンディットは暫くの間そうやってざわめく心を静めていた。水精の言ったように次第に空気の中に雨の匂いが混ざり始める。瞼を開けて窓の外へと目を遣るが、雨雲はまだこの辺りには届いていないらしく、先触れだけを湿り気を帯びた夜風に伝えていた。
「…そろそろ寝ないといけないね」
窓を閉ざし、元のようにカーテンを引き直す。朧な月明かりも見えなくなった室内は一層暗くなるが、明かりが無くとも闇精が手助けしてくれるので暗闇は移動に際して何の障害にもならない。おやすみなさい、と精霊達に挨拶をしてレンディットは寝室へ足を向けた。
「――え?」
と、精霊からの不意な呼び掛けに踏み出し掛けた足が止まる。
セレナが来る。レンディットを呼び止めた炎精はそう言った。こんな時間に女官長が部屋を訪れるとは、一体どのような用事だろうか。
今日の話し合いの席では何もへまはしていないと思ったのだが、自分が気付いていないだけで何かやらかしてしまったのだろうか。それとも別の用件だろうか。二度の外出の件で女官長に対して後ろ暗い想いのあるレンディットとしては思わず身構えて姿勢を正してしまう。
物音を立てぬようゆっくりと開かれた扉の先で女官長が驚いたように少しだけ目を丸くする。まさかレンディットが其処に立っているとは思わなかったようだ。
「――まだ起きていらしたのですか?夜更かしは身体によくありませんよ」
「あ…。…えっと、ごめんなさい」
片手に手燭を掲げた女官長が厳めしく顔を顰める。謝るレンディットを見下ろすように眼前に立った女官長は素っ気無くも淡々と、このような夜分に訪れてまで話す必要のあるらしいその用件を語り出した。