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精霊と踊る君と  作者: 此島
四章
16/33

 今日は何だかレンディットの様子がおかしい。すっかり習慣となった一緒に取る朝食の席で、普段以上にぼんやりしているレンディットの顔を見ながらユーリは思った。

 向かいに座るレンディットは上の空で食事がほとんど進んでいない。元々食欲旺盛といった方ではないがそれでもレンディットはいつも、出された分はきちんと食べる。だというのに少しも手が動いていないのは体調でも悪いのだろうか。

「おい、レン。お前全然食ってねえじゃねえかよ。調子でも悪いのか?」

 ネルも同じ事を思ったのか、給仕の手を止めてレンディットの顔を覗き込んでいる。少々目が赤くなっているようだが、このくらいならただの寝不足の可能性もある。だがもし具合が良くないのであれば侍医を呼ぶなど、何らかの対処を考えなければならない。

 声を掛けられた事にもすぐには気付かなかったレンディットは数拍置いて「…え?」と小さく呟く。

「お前、本当に大丈夫か?」

「あ……うん。…大丈夫」

「だったらちゃんと飯食えよ。そんなんじゃいつまで経ってもでかくなれねえぞ?」

 ネルは溜め息交じりに籠からパンを一つ手に取ると、動きの止まっているレンディットへと押し付けるように手渡した。

「巫女として通すなら大きくならない方がいいんじゃないか?」

 思った事柄をユーリはそのまま声に出して言った。今はまだ申し分無く少女として通せる外見をしているが、この先の成長の仕方次第ではそれが難しくなる事は充分にあり得る。女官長がいつまでレンディットを巫女として据えておくつもりなのかは知らないが、何にせよ隠し事を続ける分には出来るだけ発育が遅い方がいいのではなかろうか。

「いや、まあ、それはそうなんだけどさ。何ていうかこう…全体的に貧相で、妹としちゃあ不憫になるんだよな」

 卓へと背中を寄り掛からせ、ネルはユーリの方を見て苦笑いを浮かべた。

 軽口染みた会話を交わしながらもネルはレンディットの様子がらしく度々其方へ目を遣っている。ユーリも同様だ。

 思い返せば、先刻の合同朝課でもレンディットは妙にぼんやりしていた気がする。それもただぼうっとしていただけではなく、出出しの聖句を歌いそびれて祭司長から終わり際に非難を受けた程だ。その時はレンディットが歌を忘れるなど珍しい事があるものだという程度にしか思わなかったが、現在の様子と併せて考えると流石におかし過ぎやしないだろうか。

 ユーリとネルが見つめる先でレンディットは唇を引き結んでいる。何事か思い煩うようなその面持ちを訝しんだネルが口を開こうとするが、直前にレンディットの方が俯かせていた顔を上げた。思い詰めたような、酷く真剣な表情だ。

「―――ネル、お願いがあるんだけど……聞いてくれる?」

 ただならぬ雰囲気にネルは幾分戸惑った顔を見せた。レンディットがネルに頼み事をするのをユーリはこれまで見た事が無い。困惑気味のネルからして、そうした事はとても稀なのだろう。ネルは直ちに話を聞く体勢を取る。

「何だよ?」

「……(じじ)様の所へ、行って来てくれる?」

「お師匠様の所?何でだ?」

「……うん。昨夜、寝る前に部屋に風精が来て――…爺様が倒れたって、教えてくれて。…だから……」

 だから、心配で。そう続けられた言葉の最後は掠れて消えてしまいそうな程に小さく、レンディットが不安に押し潰されそうな想いでいるのがよく判る。知らせを受けた昨日の夜から、ずっとファルガの容態を案じ続けていたのだろう。道理で朝から様子がおかしい訳だ。

 震えるような声で告げられた頼み事。本当は自分でファルガを見舞いたい事だろう。だがレンディットは私用では精霊宮を出る事が出来ない身の上だ。それ故、最も信頼する存在であろうネルに代わりを頼んでいるのだ。

 話を聞いたネルは一瞬驚いた顔をしたが、直ぐ様事態を把握したようだった。怒ったように舌打ちをしてレンディットの頭に手刀を落とす。

「――そういう事なら早く言え、バカ野郎」

 結構いい音がしたが、今のレンディットには良い気付けになるかも知れない。普段ならユーリも一応形だけは注意をしておくところだが、この状況ではそれも必要無いだろう。

 ネルは縋るように彼女を見上げるレンディットへ、にっ、と笑い掛けて言う。

「任せろ。すぐに様子を見て来てやる。…つっても、まだもうちょい後になるけどな。この後で巫女様のご用事って言って抜け出しはするけど、ある程度時間が掛かるのは勘弁してくれ」

「うん……」

「…そんなに心配すんなよ。倒れたっていってもあのファルガ様だぜ?そう簡単にくたばったりするもんかよ」

 努めて明るく言ってはいるが、ネル自身も胸裡に少なからずの不安を抱いているのが声の調子で察せられる。心配するなというその言葉はレンディットにだけではなく自分自身へ言い聞かせるものでもあるのだろう。それを理解しているからレンディットの方もネルに向けて安心したような微笑みを作る。

 その後もレンディットはほとんど食が進まなかった。ネルは去り際に呆れて文句を言っていたが、声にいつもの元気が無いのは明白だ。

 今日はとてもそんな気になれないのだろう。ネルが出て行った後、レンディットはいつものように奥庭へ行こうとはせず、ネルの帰りを私室で待つつもりのようだった。本来巫女が私室にいる間は巫女守は自由時間となるのだがそれは侍女が側に控えているのを想定しての事であるし、ユーリは退室はせずにレンディットの側にいた。正直なところ、こんな状態のレンディットを一人で放っておくのは気が咎めたという事もある。

 といっても、特にレンディットを励ますような気の利いた真似が出来るわけではない。ユーリは窓辺に立ち、閉ざされていた窓を開けた。部屋を閉め切っているとただでさえ重い空気が余計にそう感じられる気がして、此方まで気分が暗くなってくるからだ。

 大きく開け放たれた窓からは草木と水の匂いを含んだ涼やかな風が吹き込んでくる。気持ち良く吹き込んでは不自然に長く室内に留まるこの風は、風精の仕業なのだろうか。

 風がその長い髪を引くかのように軽く揺らすが、レンディットは何一つ反応しなかった。ネルが出て行く前と変わらず卓に就いたままで俯きがちに天板を見つめている。そんなレンディットの横顔がユーリの眼には酷く奇妙なものに映った。

「――巫女様」

 不審から大きめの声で呼び掛ける。酷く鈍い動きで顔を此方へ向けたレンディットは、俯いていた時と同じように、にこりと微笑んでユーリの事を見た。

「…何故、〝笑って〟おられるのですか?」

 レンディットはまるで彫像の如く表情を例の〝笑顔〟から動かさない。朝課で祭司長に注意を受けた時も今と全く同じ表情をしていたのをユーリは思い出す。あの時は場を誤魔化す為に笑っているのかと思ったが、今は笑う理由など何も無い筈だ。それなのに、どうしてレンディットは笑っているのだろう。

 此方の声が聞こえていないのではないかと思うような長い沈黙を経て、レンディットは吐息に紛れて消えてしまいそうな幽かな声で答えた。

「………笑っていないと、溢れてしまいそうになるから…」

「何がです?」

 しかしレンディットは続く問いには答えなかった。ただ、にこりとした微笑みを浮かべるだけでそれ以上は口を噤んでしまう。

 会話は其処で途切れて終わった。昼食の時間になってもネルは戻らず、代わりを頼まれているという別の女官が給仕役としてやって来たがレンディットは昼食にも碌に手を付けず仕舞いだった。

 昼食が終わってから少しして。ネルは漸く街から戻って来た。

 ネルが部屋へと入って来るなり、それまで微動だにしなかったレンディットが音を立てて椅子から立ち上がった。同時に笑みの表情が一瞬にして消え去り、胸に抱える不安に蒼褪めた表情が姿を現す。

「……おかえりなさい」

 囁くようにレンディットはネルに言った。直接病状を尋ねる言葉は発せられない。迎えられたネルはむっつりと怒ったような顔でレンディットを見つめた。

「――言われた通り、お師匠様の所には行ってきた。…けど、あの人がどんな様子かは自分で確かめに行くんだな」

 ネルから返ってきたのはどういう訳か刺々しさを感じさせる、やけに不機嫌な返答だった。それ程までに思わしくないという事なのかとユーリはファルガの容態を危惧した。

「…よく考えりゃあ初めっからおかしかったんだよな。私に様子を見て来いなんてさ。お前がその気になれば、風精に限らずどんな精霊からだって欲しい情報を聞き出せる。お師匠様の具合なんて簡単に判るんだ。……お前、態と私に行かせただろ?」

 ネルは鋭く眼を細め、レンディットを睨み付けている。対してレンディットは睨むネルの視線から僅かに顔を背け、床へと視線を落とした。

「お師匠様、言ってたぜ?引退してからお前と私の事がずっと心配だった。チェリスといつもそんな話してた、ってさ。…だからお前、私を会いに行かせたんだろ?お師匠様にもしもの事がある前に、ってな」

「……嘘は、言ってない」

「解ってんだよ、んな事は。だから言ってんだ。様子だったらお前が自分で見に行けってな」

 言うとネルは部屋に入って来た時から手にしていた包みをレンディットへ向けて投げ付けた。反射的にそれを受け取ったレンディットは手の中の包みを見、問うようにネルを見る。

「帰りに古着屋で調達してきた。それに着替えて自分でお師匠様の所に行って来い。…悪いけどついて行ってやってくれるか、ユーリ?」

 話の外にいた自分へと突如向けられた、堅固な意志に強い光を湛えたネルの青い双眸。戸惑わなかったと言えば嘘になる。だがユーリはその頼みに迷わず肯定の意を表した。

「巫女が何処かへ出掛けるのなら、それに付き従って護衛するのが私の役目だ」

 ユーリの返事にネルは少し安堵した風に吐息を零し、再度厳しい眼をしてレンディットを真正面から見据えた。

「後はお前次第だ。お師匠様はお前にだって会いたがってんだ」

「……駄目だよ。巫女は、私用での外出を禁じられている」

「お前、規則とファルガ様どっちが大事だ!?」

「……っ!…そんなの――そんなの、当然爺様に決まってる!!」

 怒号のようなネルの二者択一に、レンディットは普段の彼からは想像出来ないような大声で怒鳴り返した。直後、レンディットは失敗にはっとしたような表情を浮かべ、ばつが悪そうに瞳を伏せる。けれどもネルがは兄の口から引っ張り出した台詞に満足したようで、踏ん反り返るようにして腰に両手を当てレンディットに命令した。

「――よしっ!じゃ、決まりだな。そしたらさっさと着替えて来い。今から行けば夕方の祈りまでには余裕で帰って来られる」

 言いながらネルはレンディットの腕を掴んで強引に寝室の方へ連れて行き、室内に放り込んだ。レンディットの瞳はまだ迷うように揺れていたが、扉が閉められた後に少しして着替えているのだろう衣擦れの音が幽かに聞こえ出した。決心が付いたらしい。

「……ったく。ほんと、世話の掛かる奴だぜ」

 言葉では呆れたように、だが嬉しそうなネルの独り言を背中に聞きつつユーリはレンディットの私室を出た。巫女守の騎士服姿ではお忍びとなるレンディットの隣は歩けない。ユーリも平服に着替えて来なければならない。

 置いていく事も考えたが、巫女守の剣はやはり帯剣していく事に決めた。柄や鞘の目立ちそうな装飾部分にのみ布を巻いて隠してしまえば普通の長剣を装える。身支度を終えたユーリが隣室へ戻ると、男物の衣服に身を包んだレンディットを前にしてネルが悲愴な溜め息をついていた。レンディットが来ている服は城下に暮らすこの年頃の少年としては一般的な衣服だったが、着る人間が浮き世離れした美貌をしているので全く別の衣装であるかのようだ。

 レンディットは長い髪を首の後ろで束ね、ネルから受け取ったつばの広い深めの帽子の内側に押し込んでいる。しかし、それが本来纏うべき衣服であるにも拘わらず、贔屓目に見ても男装の美少女にしか見えないのはどうしてなのだろうか。

「……お前、哀しいなぁ」

 思わずといったネルの呟きに、ユーリは心の中でつい同意してしまった。だがそれは決して顔には出さず、差し当たっての問題点を指摘する。

「支度はそれでいいとして、どうやって精霊宮を出る?正門からは出られないぞ」

「それについてはいい場所があるから心配しなくていいぜ。……ってか、あんたもあんたでほとんど男装だな。それじゃ騎士服も私服も大差ないんじゃねえ?」

 と言われても、城下の娘が好んで着るようなひらひらとした服はユーリの好みではない。己の趣味に則って衣服を誂えると自然こういった物ばかりになるのだから、それは仕方が無い事だろう。推測ではあるが、ネルもどちらかといえば自分と似たような嗜好の持ち主に思う。それを言うとネルは「まあな」と苦笑して、時々そうやるように着ている女官衣の裾を鬱陶しそうに蹴飛ばしてみせた。

 ネルはその〝いい場所〟とやらへ向かう為に窓から外へひらりと身を踊らせる。ユーリ等がついて来たのを確認し、ネルは巫女殿の裏手を北東の方角へと歩いて行った。ユーリにはネルが何処へ行こうとしているのかさっぱり判らないが、レンディットは心当たりがあるような顔をしている。

「んー、確かこの辺だった筈……お、あったあった」

 精霊宮を囲う白石の塀の角。塀の程近くには淡い色の花を咲かせる喬木と灌木が植えられている。灌木の茂みに腕を差し入れ、枝葉を退かすようにして木陰を覗いていたネルが発見の報を上げた。ネルの肩越しに其方を覗いてみると石壁にはなんと、人が出入り出来そうなくらいの大きな穴が開いている。

「私達しか知らない秘密の抜け穴さ。ガキの頃、レンとお師匠様と三人で精霊宮の探検した時に見付けたんだ。この外には守護士はいないし、ここからならこっそり外に出られるぜ」

 ユーリは呆れて物が言えなかった。よくもこんな大穴が今まで他の人間に見付からずに放置されていたものだ。果たしてこの精霊宮の警備体制はどうなっているのか、是非ともあの威風堂々たる守護士長殿に尋ねてみたいものである。

「……あの。普段はここ、精霊達が人間の眼に触れないように隠しているみたいで…」

 大穴の存在にユーリが唖然としているのに気が付いたらしく弁解するようにレンディットが囁いてくる。ネルも大きく頷いて、レンディットの後に言葉を継いだ。

「レンが初めに見付けたんだけどさ、言われるまで私もお師匠様も全然気が付かなかったんだよ。あんただって最初は見えなかったんじゃねえ?」

「いや、お前が木々を掻き分けた時点で見えていたぞ」

 だからこそ杜撰だと思ったのだ。上手く木陰に隠れてはいるようだが、かといって全く気付かないようなものではないだろうに。

「ユーリには闇精が憑いているからだと思います。こういう〝隠し事〟は、闇精の得意な分野ですから」

 レンディットの言を肯定するかのように肩の近くで〝気配〟が動く。それを無視してユーリは石壁に空いた穴を簡単に調べてみた。

 大きさはざっと見て、屈んだ大人が潜れる程度。腹這いになれば体格の良い人間でもまあ潜れるだろう。崩れた部分の境界は人為的に崩されたようにも自然に崩落したようにも見え、そのどちらとも判断が付かなかった。

「ただ、どうしてこの抜け穴を隠しているのか、ここにいる闇精(みんな)は教えてくれないのです。内緒の約束だからって言うだけで…」

 後ろから小さく耳に届いたレンディットの発言にユーリの頭には一つの想像が浮かんでいた。

 先代巫女の相手であるレンディットの父親は、推測だが精霊宮の外の人間だろうと女官長は言っていた。もしそうだとしたら、その男は此処から出入りしていたのかも知れない。巷ではレンディットの方が格上だろうと噂されているが、先代の巫女も高い親和性の持ち主だったという。ならば、想い人と逢瀬を重ねるのに精霊の手助けを得ていたとしても不思議は無い。

「ま、何にしたって今はそれが好都合って事でいいだろ?ほら、さっさと行って来ないと夕方までに帰って来れねえぞ。後は私が適当に誤魔化しておくからさ」

 ネルにどん、と背中を押され、ユーリは一先ず思案を止めて抜け穴から石壁の外へ出た。丘の向こうが遙か遠くまで見渡せ、先日訪れたシュリス湖までが悠々と一望出来る。

「じゃ、ユーリ。レンの事よろしくな」

 微笑むネルに了承の頷きを返し、ユーリは丘を下ろうとレンディットの手を取った。されるがままのレンディットは丘からの眺望をぼうっと眺めていたが、触れたその手は僅かに震えている。不安から来るものと思われるが、それは規則を破って外に出る事に対してなのだろうか。それともファルガの病状を案じてのものなのか。

 丘を覆う草花をさあっと揺らせて城下の方へ、風が一陣吹き抜けて行く。駆け抜けて行った風の後を追うようにして、ユーリ達は城下街に向かって歩き出した。

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