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精霊と踊る君と  作者: 此島
三章
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 月も天頂に差し掛かるような夜更けだというのにその窓は彼を誘うように開かれていた。窓枠に取り付けられた薄手のカーテンがひんやりとした夜風に揺られてはためき、此処へおいでと手招きをしている。

 火照る顔に心地好く吹き当たる夜の風に導かれ、彼は小さな手燭を手に窓辺へと近付いた。

 窓枠の高さは胸の位置より少し上くらいまでで乗り越えるのは容易だった。彼は逸る鼓動を懸命に抑えつつ、慎重に、音を立てないようにして部屋の中へと降り立つ。

 ついに立ち入る事の出来た憧れの君の私室は彼女の清雅さをそのまま映し出したかのように飾り気が無く、けれども上品に整えられている。自分は今、彼女の部屋にいる。そう思うと叫び出したくなるような喜びに駆られ、興奮に胸が高鳴った。

 いつまででもこうして此処に立っていたい。部屋に漂う彼女の気配を感じていたい。そう願う心も彼の中には確かに存在していた。だが今宵彼がこの部屋を訪れたのは彼女の生活を感じる為ではなく、実際に彼女に逢う為に他ならなかった。此処で無為に時間を過ごすのは芳しくはない。

 きょろきょろと室内を見回すと二つの扉があるのが目に入る。方角的に見て此方が廊下へ、彼方が恐らく寝室へと続く扉だろう。彼は足音をさせないよう注意深く歩みを進め、寝室の扉の前へと立った。

 そうっと、取っ手に指を掛ける。鍵などが掛かっている可能性も考えていたのだが、内開きの扉は彼の入室を歓迎するかのように何の抵抗も無く開かれた。

 窓の無い寝室は酷く暗いが、夜の中を歩いて闇に慣れてきた眼と仄かな明かりを供する手燭のお陰で不自由は無い。

 忍び込んだ寝室は彼女に相応しく慎ましやかな趣をしていた。室内に配されているのは小さな卓と椅子と、大きな衣装箪笥が壁際に並んで二つ。縁に花を象った飾り彫りが施された鏡台。部屋の奥に小さな抽斗。そして、雲間から射し込む光のような天蓋の付いた広い寝台。其処には眠る彼女が横たわっているのだろう真白い掛け布に覆い隠された人一人分の膨らみが在った。 

 卓の上に手燭を置いて、彼は恐る恐る寝台へと近寄って行く。一歩足を進める毎に心臓が大きく跳ね上がり、その度に彼は己の胸の内にある彼女への狂おしい想いを噛み締めた。

 幾日幾夜、彼女の事を想い続けてきただろうか。身分が違い過ぎるのは彼自身、口惜しい程に理解している。だから、初めは遠くから姿を見るだけでも幸せだった。それが役目の上で何度か間近に顔を合わせる機会を得、気が付けば、ただ見つめるだけでは堪え難いような苦しみに変わってしまっていた。

 ふと目が合った時に見せてくれる彼女の笑顔が自分の心を捕らえて放さない。あの微笑みを夢に見た事だって一度や二度では決してないのだ。彼女が自分に向かって微笑んでくれる。以前はたったそれだけで言い表しようが無い幸せに浸っていられたのに、最早彼はそれだけでは満足出来なくなっていた。

 彼女に恋い焦がれて止まないこの想い。諦めるべきだと己に言い聞かせた。だが簡単にそう出来るくらいの底の浅い恋慕であれば彼は最初から悩みなどしなかったのだ。

 どうしたらいいのか。幾度となく自問自答を繰り返して辿り着いたのは自分でも大それていると思うような答え。しかし恋をする者としては至極全うな感情であるとも彼は思う。

 ―――彼女を、自分だけのものにしたい。

 それは元来控えめな性情である彼を此処まで突き動かすくらいに強く激しく、確固とした想いだった。

 彼は寝台の側まで行って呼吸を落ち着けるように足を止めた。眠る彼女は頭まで掛け布を被り、規則正しい呼吸を続けている。

 昂揚による緊張で酷く喉が乾いていた。せめてもの癒しを求めて彼は生唾を飲み込み、そっと寝台の上に身を乗り出す。

 焦がれて焦がれて堪らなかった彼女が今、この手の届く場所にいる。彼女を現実にこの腕に抱く日がついに訪れたのだ。込み上げ溢れる歓喜の念に彼は彼女が被っている掛け布へと手を伸ばし、

「―――!?」

 勢い良く撥ね上げられた掛け布が彼の視界を白く覆った。何が起こったのか判らない内に突然腹部に重く鈍い痛みを感じ、彼は苦悶を洩らして冷たい床へと倒れ込む。

「――ったく、来るんならもっと早く来やがれってんだ。お陰で何度か寝掛けちまったぜ」

 頭上から降って来たのは彼の想い人のものではない別の少女の声。無数の疑問符が鈍痛に呻く彼の頭の中を駆け巡る。

 声の主が払い除けたのだろう。薄れゆく意識の中で真っ白な掛け布が風に散る花弁のように舞った。薄れゆく意識の向こう側では彼の恋い慕う緑銀の色ではなく、燃え盛る炎の深紅の髪を持つ少女が不機嫌そうに唇を尖らせていた。

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