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翌朝。シュリス湖へ発ったユーリ達を含む一行は、街道を一路北へと向かっていた。
グラルフェーゼの王都であるヴィアの城下街は広大な平原に蹲るような低い台地の上に造られている。その丘の北側に王城と精霊宮の建つ小高い双子の丘があるわけだがシュリス湖はその双丘を越えた先に在った。城下の人間にはシュリス湖で釣ってきた魚を売って生計を立てている者もいるくらいなので、大人の足なら大体一刻もあれば楽に出掛けて行ける場所である。
それなのに目安となるその一刻近くが経過しても一行はまだシュリス湖に到着していなかった。巫女を警護するに当たり隊列を組むところまではユーリにも解る。だがこうものんびりと進む事に意味はあるのだろうか。巫女の安全を考慮するというのであれば、さっさと行って早く帰って来れば済む話のように思うのだが。
隊列は先頭を務める徒の守護士が一班。その後ろに騎乗の守護士長と守護士二班に護衛された巫女の乗った馬車、馬に乗った祭司官等が続き、殿である徒の守護士が一班で構成されている。
ユーリは巫女守としてレンディットと馬車に乗っていた。尚、同乗にする際に掛けられた同格である筈の守護士長の有難いご訓示は疾うに記憶の彼方へ葬ってある。
暇を持て余しているユーリは扉に付いた小さな丸窓から適当に外の景色を眺めていた。がらがらと街道に轍を引く車輪の単調な響きと馬車の震動とが退屈さを煽る。偶に地面の水溜まりの上を通って水の撥ねる音がする以外には格別何事も起こらない。
昨夜の夜半過ぎから降り出した強い雨は明け方には止んでいたようだが、雨の影響で窓から見える街道のすぐ脇を流れる川は平時よりも増水している。あの川は目指すシュリス湖から続いている川だ。この分だと恐らく湖の方も水量が増えている事だろう。
「昨夜の雨も先日と同様のものですか?」
目線は窓の外に向けたままでユーリは真向かいに座るレンディットへと話し掛けた。
「はい。シュリスの御方はまだお怒りらしくて…」
沈んだ声で言うレンディットはユーリと同じく窓へと目を遣りながら、小さく肩を落とす。
先日レンディットが突然シュリス湖へ出掛けたいと言い出したのには無論正当な理由があった。何でも水精達からの悲痛な訴えがあったそうだ。
「……先日、凄い突風が吹いた事があったでしょう?その時に湖を訪れた風の大君と喧嘩をなさったそうで……それ以来ずっとシュリスの御方が荒れているから、どうにか取り成して欲しいのだそうです」
猛る自然を鎮めるのは巫女の役割だ。しかし、どうにかしてくれと願い出てきたのが人間ではなく精霊の方だというのが些か理解に苦しむ話である。
レンディットが言うにはシュリス湖の主というのはこの地方一帯の水精達を束ねる長であるらしい。ずば抜けた親和性を誇るレンディットが相手とはいえ、自分達の長の機嫌取りを精霊が人間に頼んでいいものなのかとユーリは疑問に思わざるを得ない。精霊同士の諍いで腹を立てたというのなら、これは同じく精霊同士で解決するべき事案なのではなかろうか。
「可能ですか?」
ともすれば巫女に対する暴言とも取られ兼ねない問いをユーリは躊躇も無く投げ掛けた。この程度の発言で機嫌を損ねる程レンディットは器の小さい人物ではない。もしも同行する守護士長の耳に入れば手酷い叱責を受けそうではあるが、幸いあの男は馬車の外だ。然程大きな声で話をしているわけでもないので大丈夫だろう。
「それは…判りません。でもシュリスの御方は昔から時折精霊宮の方へもお出で下さるので、よく知っている方なのです。奥庭のあの泉がシュリス湖と繋がっているから小さい頃からよく話をしたり、遊んで頂いたりしていて…。ご気性の激しい方ではありますが本当はとてもお優しい方なので、きっと大丈夫じゃないかな…と、私は思っています」
おっとり――というよりもぼんやりといった方が正しそうな感じでレンディットはぼうっと外の景色を見つめている。少し眠たそうな顔をしているが、声音には意外な程しっかりとした意志を感じるのでそれなりの意気込みはあるようだ。
会話が途切れると、馬車の中には再び元の退屈な時間が戻って来る。生来寡黙な質であるユーリだがする事が無さ過ぎて今なら無意味なお喋りにも興じられそうな気分だった。遅々として進まないこの道程に飽きずに平気な顔をしていられるレンディットには感心してしまう。
ユーリは込み上げてくる欠伸を噛み殺した。曲がりなりにも護衛という名目で馬車に同乗している身分では暇だからといって眠ってもいられない。早く目的地に着かないものか。これなら普通に歩いて行った方が確実に早く湖まで行けるに違い無い。
レンディットに倣ってユーリも無言で湖へ辿り着くまでの時間を堪え忍ぶ。苛立つくらいの牛歩で時が進み、のろのろと移動を続けていた馬車がゆっくりと停止して、守護士長が漸く目的地への到着を告げた。これで降りた途端に嫌味――守護士長にとっては真っ当な苦言のつもりなのだろうが――の一つも投げ付けられようものなら、反論の言葉よりも先に拳の方が出てしまうかも知れない。
手ずから馬車の扉を開けた守護士長は降りようとするレンディットへと巫女守を押し退けて手を貸しはしたものの、先んじて降車したユーリには見向きもしなかった。いつにも増して殊勝な表情でレンディットの傍らに傅く守護士長は今、お得意のご高説を宣うつもりは無いらしい。理由はともあれ大変結構な事だ。
ようよう辿り着いた紺碧のシュリス湖は遠い対岸にある深緑の針葉樹の森を背景にして、その雄大さを誇示するように眼前に広がっていた。視界の遙か彼方では白く煙る北東の山々が森の向こうに切り立った稜線を描いている。
昨日の内にお触れが出されている為、一行の他に湖に来ている人間はいない。だがお触れなど無くても今日は恐らく誰一人としてこの湖に近寄ろうとはしないだろう。
湖一帯には奇妙に背筋が寒くなるような空気が立ち込めていた。攻撃的な拒絶ではないが訪れた者が自ずから引き返す事を選ぶような、話に聞く水精の長とやらの冷めやらぬ怒りを思わせる薄ら寒い不可侵の意思の気配が漂っている。
背筋が粟立つような雰囲気に呑まれ、帯同して来た祭司官等が少々怯えた様子で周囲を見回す。仮にも祭司を名乗る者がこれでよいのかとも思うが致し方無い事だろうか。精霊への感応力が高く、感じるものが強いようで、他にも何人かの守護士達が竦んだ風に身を縮めている。精霊に対して鈍感なユーリにも判るくらい威圧感だ。皆一様にこの気配の主に畏れを抱いているのだろう。唯一守護士長だけは気配を鋭敏に感じている様子ながらも堂々と胸を張ってその場に踏み留まっていた。
一同はレンディットが進み出ると慌てて膝を突き、畏まって低頭した。巫女という存在に縋るかのように周りの者達が一斉に跪く。レンディットは湖を見つめて歩き出した。ユーリは守として後に続きながらその顔をちらと窺い見た。
気負うでもなく、さりとて怯むでもなく。ユーリの見る限りレンディットは至って平生通りだった。水精の長を宥めるという大役を目前にしているというのに大した落ち着き様である。伊達に幼い頃から巫女を務めているわけではないようだ。
湖の畔まで行くと辺りの空気に含まれる水の匂いが鮮やかに深くなった。しかし澄んだ清涼な水の香とは裏腹にシュリス湖の湖面には多くの細波が立っている。
然程風は強くない筈なのだが湖面は強風が吹き付けているかのように引っ切り無しに波立っていた。この有様を見ていると湖の主の機嫌が悪いというのも納得出来るような気がする。
「――シュリスの御方。レンディット=ノワールがご機嫌を伺いに参りました。この声届きましたなら、どうかお姿をお見せ下さい」
レンディットは湖の縁まで行くと凛と声を張り、典雅に挨拶の姿勢を取った。異様なまでに静まり返った湖には何の反応も起こらない。水辺に立つユーリ等の背後ではレンディットの呼び掛けで我に返った祭司官等が巫女の側に控えようとあたふたと動き出す。足下の草を小走りで踏み分ける忙しない足音。それ等を皆吹き飛ばすかのように、突如として凄まじい水音が湖一帯に轟いた。
広大な湖の其処彼処から、湖に棲む水精の怒りの顕現であるかの如くに奔流のような幾つもの水柱が立ち上る。異変に守護士長が素早く巫女の許へと駆け寄って来るが、ユーリは汀にいるレンディットの正面に自分の左腕を回し、彼を背に庇って湖とレンディットとの間に割り込んだ。
天を穿つかのように吹き上がった水柱は上空で弾けて飛び散り、湖の周辺に雨のように水を降り注がせた。湖が降らせた雨を全身で受けながらユーリは注意深く周辺の様子を窺う。一頻り注いだ雫がやっと落ち着いたかと思ったのも束の間。殊更凄まじい水柱が湖の中央から立ち上り、激しく注ぐ水飛沫が全身を打った。
ユーリは片腕を掲げて飛沫を防ぎ、視界を確保した。定位置となっている彼女の肩付近で例の闇精の気配が水柱を見上げて頭を擡げる。彼方此方で悲鳴が上がるのを意識の端で聞きながら、その身を案じてレンディットに退避を促す。
「――っ。巫女様、お下がりを!」
「巫女様、此方へ!」
不穏な様相を目の前にし、稀な事にユーリと意見の一致した守護士長がレンディットを湖から引き離そうとする。
「……あの、どうしてですか?」
けれども巫女を守ろうとする双方の対応に返ってきたのはそんな純然たる問い掛けだった。全く状況を理解していないような声に釣られて肩越しに其方を振り向くと、レンディットがきょとんとして此方を見上げている。レンディットはどうしてユーリ達が下がれと言うのか解らないらしく戸惑いに首を傾げている。
一体何処までずれているのだろうか、この少年は。何故この状況でそんな言葉が出て来るのか。呆れつつユーリは無理にでも水辺から遠ざけようとしてレンディットを抱き抱えようと手を伸ばす。
しかしレンディットは首を振ってユーリの腕をやんわりと押し留めた。見れば此方は皆この降り注ぐ飛沫の雨で濡れ鼠だというのに、レンディットだけは髪の一筋すらも水に濡れてはいなかった。空から降ってくる水の量は仮令ユーリと守護士長が壁となったからといって到底防ぎ切れるものではないというのに。
ユーリは唖然としてレンディットの顔を見つめた。一方レンディットの視線はユーリの頭の横を通り過ぎ、後方に広がる湖に生じた巨大な水柱を見ている。
「――お久しぶりです、シュリスの御方。ご無沙汰致しておりました」
つと、空を見上げていたレンディットの顔が柔らかな微笑を形作る。同時に圧倒的なまでの何かの気配を感じ、ユーリは弾かれたように湖を振り返る。
途轍も無い水柱と飛沫はいつの間にか収まっていた。未だ湖面は荒れているが、湖は先程の水柱など全て幻だったかのような静けさに包まれている。
睨むように湖を見据え、己の眼に映るのが元通りの風景だけであるのをユーリは確認した。湖面を乱す細波の幽かな音だけがひっそりと耳朶を打つ。異変の去った景色にただ感覚だけが視えない精霊が其処に姿を現している事を告げていた。
圧迫感さえ覚える程の強烈な力の気配が、然して鋭くはない筈のユーリの精霊に対する知覚を突き刺すように刺激する。長と呼ばれる精霊の放つ気配。その凄まじさに知らず気圧され、背中からは冷や汗が吹き出してくるようだった。
姿の視える視えないに拘わらず、現れたシュリス湖の主の気配にこの場に集った面々が次々と平伏していく。あの高慢な守護士長までもが畏敬と恐れの入り交じった表情で宙を見上げ、恭しく両膝を地に付けた。祭司官も守護士も、皆が恐れ慄いて精霊に対し膝を折る。その中でレンディットだけがいつもと変わらぬ風情で水辺に佇んでいる。
「…あ、はい。それでどうにかご機嫌を直して頂きたくて、こうしてお伺い致しました」
シュリス湖の主から何事か語り掛けられたのだろう、小さく頷きながらレンディットは答える。
視えないものを視ようとするようにユーリは気配の在る場所に目を凝らした。自分に憑いている闇精以外でこれ程までに強く精霊の気配を感じた事は無かった。
其処ではたと気付く。湖の主の御前にあってこのように立ったままでいるのは礼を失しているのではなかろうか。自主的にそう思わせるだけのものが眼前にいるらしきこの精霊にはあった。他の者から遙かに遅れてではあるがユーリは濡れて張り付いたマントを後ろに払い除け、片膝を突いて頭を垂れた。
傍らではレンディットがとの対話を続けている。心に思うだけで語り合う事が可能である筈なのにそうして声に出して話をしているのはレンディットにとって精霊との会話がそれだけ日常的なものであるという事の表れだ。
「…いいえ、そういうわけではなくて……ただ、御方がそのようにいつまでもお怒りになられているのは、あの水精達も嫌なのだと思います。――はい。悪口なんて気にしないで欲しい、って。普段のご気性の激しいところも含めて、皆、御方が大好きなのですから」
嘘偽り無い本心からの想いを言葉に乗せてレンディットはおっとりと微笑んだ。
話の内容はレンディットの言葉しか聞こえないので想像の域を出ない。態度として礼は尽くしながらも交わされているらしい言葉に耳を傾け、ユーリは事の成り行きを見守る。
「――…え?…ええと、そんな事でご機嫌を直して頂けるのですか?」
シュリスの主の返答に対してだろう。レンディットは嬉しそうに笑うと急に身を翻して駆け出した。
「巫女様?」
訝るユーリへ答えの代わりのようにほんのりと笑み、水辺と平伏する人々との間の空白までレンディットは小走りに駆けて行く。
すう、とレンディットが大きく息を吸い込んだ。次いで透き通った歌声が清らかに響き渡る。夏の精霊祀でお馴染みの、精霊の中でも水精にのみ捧げられる祈りの歌だ。せせらぎを思わせるような音から始まる心地好く流れる旋律。しとしとと降る雨のように優しく、時に激流のように力強く変化しながら、水を司るもの達への崇敬と感謝とがレンディットの声で紡がれてゆく。
歌い出しと時を同じくしてレンディットは舞を始めていた。休む事無く流れ続ける水流を表現するように滑るレンディットの指先が空を撫で、纏う巫女衣が波飛沫を思わせて翻る。跳ねる魚のような足取りが細かい拍子を刻み、動きに合わせて長い髪が細波のように踊った。
舞いながら歌っているというのにレンディットの声には僅かの震えも見られない。歌声は飽くまでも楽しげに、美しく伸びやかだ。伴奏となる楽の音も無いレンディットただ独りで作り上げられた歌舞でありながら、それは此処にいる全ての者を魅了していた。
高く伸びていた歌声が不意に途切れる。上体を深く倒して一礼したレンディットが顔を上げて再び水辺へと駆け寄るまで、ユーリは舞が終わった事にすら気付かなかった。しかしレンディットの舞に見入っていたのはユーリだけではなかったらしい。巫女と共にシュリス湖の主を慰撫する筈だった祭司官等がはっとして、務めを放り出したも同然の自分達の失態を思い出したかのように蒼褪めていた。
「――有難うございます、シュリスの御方。あなた様もどうぞ、お健やかにあらせられますよう。……え?あ、はい。―――…はい、有難うございます」
レンディットは別れの挨拶をしているらしく湖へと典麗な所作で一礼をする。幾許かの間があってから強烈な存在感を示していた気配がふっ、と掻き消えるように霧散した。
気配の消えた後に残されたのは波紋一つ無い穏やかな湖面。すっかり落ち着いた様子の凪いだ湖の様を見つめ、レンディットがほっとしたように小さく息を吐く。
「…それでは、精霊宮に戻りましょうか?」
一同を振り返り、レンディットはにこりと微笑んだ。残念ながらその言葉にすぐに答えを返せた者はいなかったのだが。
移動というのは行きよりは帰りの方が早く感じるものだが、この馬車に関して言えばそれは無いようだった。相も変わらず馬で引く意味を感じないのろのろとした速度で進む馬車にうんざりして、ユーリは丸窓の外へと目を遣った。
「……そういえば、シュリスの御方がユーリの事を褒めていらっしゃいました。なかなか気骨のある人物のようですね、って」
「そうですか」
レンディットを見もせずにユーリは素っ気ない返事を返した。あれだけの気配の主である水精の長殿に多少なりとも認められるというのはユーリとて悪い気はしないが、自分が直接聞いたわけでもないので話半分程度に受け止めておくのが丁度いい。
ユーリがたった一言だけで会話を打ち切ってもレンディットが機嫌を損ねる事は無い。ただ、少しだけ微笑むだけだ。
そんなレンディットを横目で観察し、ユーリは今更ながら女官長の言った言葉の意味を噛み締めていた。
近隣一帯に豪雨を降らし、広大な湖を一面波立たせ、幾本もの水柱を立ち上らせるような強大な力を有する長と呼ばれる水精。それを歌と舞一つでいとも容易く宥めてしまうレンディットの才は、一歩使い方を間違えれば想像も付かないような災厄を招く事になり兼ねない。仮令性別を偽ってでも巫女の座に据えて厳重に管理しておくべきだという女官長の言い分は一面正しいのだろう。
馬車の中にユーリの闇精以外に精霊が入り込んでいるのか。レンディットは傍らの空間を見て、穏和な笑みを浮かべていた。
「お帰りなさいませ、巫女様。ユーリ様」
精霊宮へ到着し巫女殿へと戻ると入口の所でネルに出迎えられた。聞くと馬車が戻ったと聞いて此処で帰りを待っていたらしい。
お疲れでしょう、と労るように接してくるネルに連れられてユーリ達は一先ずレンディットの私室へと向かった。
部屋へ入って扉を閉めた途端に被っていた侍女の仮面を脱ぎ捨てて、ネルは卓の側の椅子にどっかりと腰を落ち着けた。
「外出から戻った巫女より先に椅子に陣取るのはどうなんだ?」
道中は馬車での移動であったとはいえ果たしてそれは如何なものか。幾ら義理の兄妹だからといって、仮にも侍女として側仕えを務める人間の行動ではないだろうに。
「うちの兄貴は優しいからさ、椅子くらい喜んで譲ってくれるんだよ」
当のネルは悪怯れた様子など全く見せず、半跏の姿勢を取って卓の上に頬杖を突いた。何とも堂々とした言い訳である。出しにされた当人であるレンディットは苦笑めいて小さく笑いを零し、ネルの向かいの席をユーリに譲って部屋奥の長椅子の方へと座った。
「んで、首尾は?つっても、別に心配はしてねえけどな」
「うん。大丈夫。シュリスの御方もご機嫌直してくれたよ」
「そりゃあお前が出て行って機嫌が直らない訳ねえって。ま、何にせよ早く片付いてよかったな。雨が多いと洗濯物が乾かなくて困るし」
偉大なる精霊殿の機嫌の話だというのに出て来る感想が洗濯物の乾き具合の事だとは、ネルも部屋の隅にいるレンディット同様に観点がずれている。この二人を育てた親の顔が見てみたいという想いが一瞬頭を過ぎったが、両親共に亡くなっているらしいのでは無理な話か。
「あーあ。こっちの件も早く片付きゃあいいんだけどなあ」
面倒臭そうに言ってネルは頭の後ろで両手の指を組み、椅子の背凭れに身体を預けて両足を卓の上に載せる。椅子がぐらぐらと揺れ動くがネルは持ち前の運動能力で転げ落ちないよう絶妙の均衡を保っていた。
「…ネル。お行儀が悪いって、セレナ女官長に叱られるよ?」
「別にいいだろ?叔母さんがここにいるわけじゃねえし」
窘めるレンディットの言葉にもネルは態度を改めない。其処で大人しく聞いておけばよかったものを、と思うユーリはついさっきネルの発言に紛れて扉を叩く音がした事を彼女に教えなかった。教えたところでどうせ間に合いはしないからだ。現在廊下にいるのはレンディットの返事が無くとも関係無く私室へ入室して来る事が出来る唯一に等しい人間なのだから。
「――ネル。何です、その態度は?はしたないと何度も言っているではありませんか」
開口一番、厳しい叱責がネルへと飛ぶ。入室して来た女官長は柳眉をきつく吊り上げ、卓に足を載せている姪を睨み据えた。
少し考えてみれば外から戻った巫女の許に女官長が挨拶に訪れる事くらい判るだろうに。しっかりとした侍女を演じてはいても、中身はまだまだ子供であるらしい。天敵である叔母の突然の登場に硬直してしまったネルを見てユーリは小さく溜め息をついた。
その後、慌てふためき均衡を崩したネルが椅子を巻き込んで盛大に転んだ事は言うまでもない。