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白の法衣が白い室内を埋めるように立ち並ぶ。平生以上に厳かな雰囲気の本殿の祈りの間。祭司長を先頭に整然と並んだ祭司官等は皆一様に姿勢を正し、正面の祭壇を仰いで精霊へと捧げる聖句を唱え始める。
儀式然とした重々しい空気を震わせて、月初めの朝課の祈りが広い室内に朗々と響き渡った。
祈りの声は他の全ての音を呑み込むかのように祈りの間全体に寄せる波のように満ちてゆく。男声、女声。高音、低音。歌声同士が絡み合い、引き立て合って聖句を紡ぎ、奥側の壁一面に設えられた祭壇へと祈りを捧げていた。
数多くの祈りの中にあって聞く者を捉えるかのように美しく、明澄に響く一つの声。それは祭壇のすぐ手前に立つ巫女から発せられている。その小さな身体の何処からそれだけの声量が出て来るのだろうかという声でレンディットは祭司官等を先導するようにただ一人、音程の違う複雑な旋律を歌い上げていた。
歌う巫女の斜め後方。祭司官等の最前列に位置取る祭司長と巫女の中程の壁際に控えたユーリは、この合同朝課の為に諳んじた聖句を唱えながら前方に見えるレンディットの横顔を見つめた。
その事実を知っても尚、其処に佇む巫女が本当は少年なのだとは到底思えなかった。清楚にして可憐な容貌にに神秘的な美しさを併せ持ったレンディットの外見は正に〝巫女〟という言葉で想起される少女の心象そのものだ。仮にこの場で彼の真実を吹聴したとしてもそれを信じる者などは皆無だろう。事実を目の当たりにしたユーリでさえ、こうしているとあれは何かの見間違いだったのではないかと思ってしまうくらいなのだから。
祭壇を見上げてこそいるが、レンディットは此処ではない遠くを見るような瞳をしている。その周囲では明らかに天窓から入ってきたものではない風が天幕と巫女衣の裾をはためかせ、祭壇の銀燭が急激に燃え上がって背の高い炎を吹き上げていた。
「――まさか半月も経たない内にこのような事になるとは夢にも思いませんでした。あれ程徹底しなさいと言ってあったのに、全くあの子達ときたら……」
レンディットが実は少年であると知ったその日の夜。事情を説明すると呼び出された先は女官長の自室で、女官長は真っ先に愚痴めいた言葉を零した。
あの後。「まず叔母さんに言ってくるから」と部屋を出て行ったネルが戻ってからユーリに告げたのは夜になったら女官長の部屋へ行けという事だけで、以降は何を訊いてもただただ女官長から聞けの一点張りだ。故に日が暮れ、夜が訪れるまでの数刻がユーリには非常にもどかしいものだった。ネルが戻って来るまでの間にレンディット本人にも事情を問うてはみたが、彼は困ったように顔を逸らすだけで一言たりとも答えはしなかった。
「説明してもらえるんだろうな?」
漸くやって来た回答を得る機会に単刀直入に本題に入る。待たされた時間の長さがユーリの口調から最低限の慇懃さを削り取っていた。
「まずはお座りなさい。少し長い話になりますから」
睨むように其方をひたと見据えて動かないユーリの視線を顔色一つ変えずに受け止め、女官長は近くにある椅子に座るようユーリに勧めた。自身も円卓を挟んだ向かいの椅子に着く。
「…そうですね。貴女が既にご存知の通り、レンディット様は女性ではありません」
意識的に感情を排しているかのような喋り方だった。疲れたような溜め息をついてはいるが女官長の口調からはその内心は欠片も窺えない。
「ですがあの方はこの精霊宮の歴とした主であり、また正当に位を引き継いだ巫女でもあります」
「性別を偽っている時点で正当とは思えないが?」
端的なユーリの指摘にも女官長は動じはしない。予めユーリが口にするであろう言葉を予測していたかの如く、飽くまで淡々と冷静に言葉を継いでゆく。
「それは致し方の無い事です。男児では巫女とはなれないのが本来の決まり故、性別は偽らざるを得ない。ですが、レンディット様には決まりを破ってでも巫女位に就いて頂かなくてはならなかった。――あの方の巫女舞をご覧になった経験は?」
「一度。六年前の大精霊祀で」
「そうですか。ならば理解してもらえるでしょう。…あの方は精霊との親和性が異常なまでに高い。レンディット様の傍にはあの方が望むと望まぬに拘わらず自然と精霊達が集い、まるで極親しい友人か何かのようにレンディット様に応ずる。……そのような存在が市井にあっては要らぬ混乱を招く事態になり兼ねません」
「――…延いては悪用される危険性がある、と?」
要らぬ混乱、という台詞に潜んだ深意を嗅ぎ取ってユーリは言う。女官長は明確に表情を曇らせ、柳眉の間に深い皺を刻んだ。
ユーリもこのグラルフェーゼで生まれ育った人間だ。女官長の言わんとする事は解らないでもない。精霊とは、この世界のありとあらゆる自然を統べるもの。彼等と語らうという事は、自然界の大いなる力そのものと語らうという事。精霊達に慕われ、自由に意志疎通が図れるというのであればそれはつまり、凄まじい力を得たに等しいのである。
「数多の精霊達との仲立ちをとなり彼等の加護を賜るのが精霊の巫女の役目です。また時にとして天災を鎮める事も巫女の行うべき重要な務め。精霊からの恩恵を得るのは言わずもがな、自然災害を治めるという事は裏を返せばそれそのものを自在に操れるという事と大差ありません。…仮に、未曾有の被害を齎すような大嵐を起こすよう精霊に願い出たとしましょう。勿論、其処で精霊が聞き入れなければ何の問題もありません。ですが万が一レンディット様がそのような事を精霊に願うような事態があれば、あの方のたっての頼みならばと精霊達はそれを受け入れてしまい兼ねない。それがどのような結果を齎す事になろうとも――。…それ程のお力を、レンディット様は有しておられるのです」
荒唐無稽にも聞こえるが、あの巫女舞の様子を思い出してみれば絶対にあり得ないとは言い切れない。現に巫女は民の訴えによって雨乞いや治水などを行う事もある。精霊の力があれば天候すらも思うがままに操る事が出来るのだ。仮令レンディット自身に邪な考えが無くとも、ともすれば周りの者が彼の力を利用しようとする恐れは充分に考えられる。
しかし、だからといって態々彼に巫女位を与える必要があるとまではユーリには思えなかった。その才能が危険だというのであれば、精霊宮なり王城なりの目の届く所に置いておけばいいだけだろうに。それを何故、敢えて巫女として据えるのか。
「ただ手元に置いておくのでは、万が一という場合も考えられます。その点巫女として務めて頂くのであれば、あのお力はあの方が巫女であるが故のものだと周りの者は思うでしょう。それに、国王陛下と並ぶ我が国の象徴である巫女の力を悪用しようなどとは、よしんば考えたとしても実行に移すのは困難な筈です」
どのような質問をぶつけられようとも女官長の答えに淀みは無い。時折その瞳に幽かな陰が落ちはしても口調そのものは至って単調なもので、その本心を推し測る事は出来ない。
「ですので私はレンディット様をこの精霊宮にお招きし、巫女の座に据えました。この事は当時ご在位であらせられた先代国王陛下もご承知の上です」
「それで土壇場になって次の巫女の候補にあの少年を担ぎ上げた訳か。…こうなると昔の巫女の血筋という出自そのものも怪しくなってくるな」
ある種毅然と語ってみせる女官長にユーリは多少の皮肉を交えてそう呟いた。無論、全くの冗談というわけでもない。
女官長の話が真実だとするならば、生まれ持った親和性の高さという才を危ぶまれたのがレンディットが巫女となった理由だという事になる。だとしたら彼は巫女の血筋とは何の関係も無い人間であるという可能性もあり得るのだ。レンディットの祖だという第十二代目の巫女は現在から数えて十五代も前の人間だ。それだけ昔の人物ならば血統を騙る事も不可能ではあるまい。先代国王までもがレンディットの巫女就任に一枚噛んでいるというのなら尚更だ。
「……随分な言い草ですこと」
溜め息交じりの言葉はそれまでのものと異なり酷く暗かった。女官長の様子を見る限りレンディットの出自が怪しいという考えは強ち間違いでもなさそうである。ユーリは女官長の感情を押し殺したような凍る青の瞳を真っ直ぐに見据え、では推測通りなのかと視線だけで尋ねる。
凝るような暫しの沈黙。長い時間を置いてから、女官長は覚悟を決めたかのようにゆっくりとその重い口を開いた。
「…公的にはレンディット様は十二代目の巫女様のお血筋という事になっていますが、貴女のおっしゃる通り、それは正しくありません。あの方は、本当は先代の――…ノワール=アルメリア様の…ただ一人の忘れ形見なのですよ」
「―――何だと?」
女官長の告げた思いも寄らない事実にユーリは一瞬己の耳を疑った。俄には信じ難い話だったが、今の発言がユーリの聞き間違いなどではない事は女官長の厳しい表情が証明している。
「…確か、先代は未婚のまま夭折なされた筈だ」
「ええ。ノワール様はご婚姻はなされませんでした。ですが、密かにお産みになられた御子がおありだったのです」
レンディットの出自を疑惑を抱きはしたが、まさかそのような事実を告げられるとは。人々の信仰を一心に集める清浄な筈の精霊宮の内にも、何やら外からでは判らない複雑な事情が入り乱れているらしい。自分が内部に身を置くようになってからそうした事は少なからず感じてはいたが、よもやこれ程とは思わなかった。レンディットが男であったという事に続いてとんだ秘密があったものだ。ユーリは衝撃の余りに散逸しそうになる思考をどうにか纏め上げる。
「では、父親は?」
女官長は無言で首を横に振った。言えない、という事なのだろうか。ユーリが顔を顰めると此方の考えている事を察したように女官長は続けて首を横に振った。
「そうではないのです。……父親は、判らないのですよ。ノワール様のお言葉からすると恐らくは外の人間であるのでしょうが、あの方は口を固く閉ざして最期まで教えては下さいませんでしたから。あの方が当時侍女であった私に教えて下さったのは、たった一つだけ。子供が生まれたら『レンディット』と名付けてくれと、そう〝あの方〟に言われたという事だけです」
「それで納得したのか?」
「まさか。納得など出来る筈がないでしょう。けれども、私がご懐妊に気付いた時にはもう手の施しようが無かったのですよ」
判り易く苦い顔になった女官長は言外にではあるが、可能であれば堕胎も辞さなかったと臆面も無く匂わせる。
「当時の女官長様にもご相談した結果、仕方が無しに内密でご出産頂く事になりましたが、当時ノワール様はまだ十四歳…。加えて未婚ともなれば、生まれたご子息を慣例通り正式に精霊宮の外へ出すのは憚られました。ですので私はレンディット様を密かに私の実の姉に預けました。姉は王都から遠く離れた辺境へ嫁いでおりましたので、其処であればレンディット様の存在が公になる事も無いと思いましたから。……しかし、結局はその才能の所為でレンディット様はああして巫女として此方に戻る事になってしまいましたが」
因果なものですね、と深い溜め息をつく女官長。仄かな憂いを湛えた表情は今は亡き主の大切な遺児の行く末を案じているかのようでもあり、ユーリはこのセレナという女性の氷の面に隠された一面を垣間見た気がした。
女官長は静かにユーリを見つめる。相手の出方を窺うような女官長の目付きに話の終わりを悟り、ユーリもまた女官長の瞳を見つめ返した。
探るような視線の応酬と、長くはない沈黙。
「――それで、他言はしないと誓って頂けるのでしょうか?巫女守殿」
「他言するなら消す気だろう?」
さながら抜き身の刃を突き付け合うかのように空気に緊張が走る。
幾らレンディットの正体が露見したからといって、この女官長が素直に観念して事情の説明に応じるだけで終わらせるなどという事はあり得ないだろうと思っていた。まだ半月にも満たない短い付き合いではあっても、それくらいの事はユーリとて感じ取っている。
女官長は姪のネルの直情径行的な激しさとはまた違った苛烈さのようなものを持っている。その気になれば口封じ程度の事は軽くやってのけるに違いない。ユーリに真相を語ったのもその上で此方がどう出るかを見定める意味もあったのだろう。此処で否と答えれば何某かの手段で以て女官長は遠からずユーリを消しに掛かる筈だ。その程度判らない程ユーリは世間知らずではない。
「――…元々他言するつもりは無い。巫女が男であろうと何だろうと、所詮私には関係の無い事だ」
自分の仕事は巫女の護衛。守るべき対象が性別を偽っていたところでそれは何ら変わらない。これでレンディットが巫女として碌に務めも果たせない人物だというのならまだ考えるところだが、特別そんな事も無い。城下の平民間の噂にもあの方は素晴らしい巫女様だと聞いた覚えも数多くある。そうやって周囲から褒めそやされるくらいにきちんと役割を果たしているのなら、巫女が本当は少年であろうがユーリにはどうでもいい話だった。
言葉の真意を吟味するように女官長は押し黙ってユーリを見たが、探られて痛い腹などは無い。
「…では他言せず、これからも今までのように巫女守を務めて頂けると理解して宜しいのですね?」
やがて口を開いた女官長は、いつもと変わらぬ生真面目な堅さを持った声でそう尋ねてくる。
「馘首されないのならな」
ユーリの答えに女官長は眉の一筋すら動かさず厳粛に頷いた。
祈りの最後の一節。終わりの一音がそれぞれの歌い手によって高く、低く伸ばされる。殊更長く響いたレンディットの歌声が、彼が口を閉ざした後も澄んだ余韻となって祈りの間に反響していた。
レンディットが祭壇へ向けて一礼するのに合わせ、この場に集う者達が機を揃えて深々と頭を垂れる。ユーリにとっては初めての合同朝課であったが思っていた程の苦労は無かった。共に小難しい祈りの歌に参加せねばならないのは少々大変ではあるが、これもやっていれば次第に慣れるだろう。
衣擦れの音をさせて祭壇を後にするレンディットの一歩後ろに従い、ユーリは青い絨毯の上を進んで行く。巫女の退出に左右に分かれた祭司官等が一斉に頭を下げる様は、実際にその間を通ると多少なりとも圧倒されるものがある。
本殿を出て巫女殿へと戻る道すがら、レンディットと交わした会話は無かった。
通常の朝課よりも遅い終了時刻に顔に射す朝の日差しも僅かに強く感じられる。回廊の間を駆け抜けて行く風につとレンディットが足を止め、空に向かってほんのりと微笑み、また歩き出す。
レンディットが見上げた空に目を遣ってみても、ユーリには何者の姿も視る事は出来ない。
先代巫女の血を継ぎ、その能力故に奇しくも母と同じ位に就く事になった彼の眼には、一体どのような風景が視えているのだろう。
前を行く少年のその如何にも巫女然らしい行動に、ユーリはふと、そんな事を考えた。




