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艦魂・神龍編シリーズ

駆逐艦『雷』 〜武士道を志す戦乙女〜

作者: 伊東椋

 遂に『雷』の物語を執筆することができました。

 『神龍』完結以来、本編に未登場で外伝のみというのは雷が初ですね。

 彼女の物語はもっと今の日本人や世界中の人たちに知ってもらいたいです。



(※)2014.06.21 修正


(※)創作ボイスグループATLAS様より、ボイスドラマ化する事が決まりました。

 平成二十(二〇〇八)年十二月七日。埼玉県川口市


 川口市北部にある薬林寺の境内には大勢の人々が参列していた。彼らが向かう先には、一人の元日本軍人の墓があった。

 彼の墓に参列する人々の中に、車椅子に座った一人の老人が居た。

 老人は英国から訪れた、サミュエル・フォール卿。この老人もまた元は軍人だった。目の前の墓の下で眠る男とは、国は違えど同じ海で出会った軍人同士であった。

 老人・フォールは車椅子に座ったまま、墓前に献花を行った。

 「座ったままでは、彼に失礼だな……」

 献花の最中、フォールは車椅子から立ち上がり、周囲を驚かせた。しかしフォール自身は年老いた身を立たせる以外の選択肢を考えていなかった。

 かつて彼が示した精神に、自分もまた相応の精神を以て返礼する。

 フォールが示した精神とは、英国に脈々と受け継がれる騎士道精神。

 そして、フォールが目撃したもう一つの精神が――


 武士道であった。


 フォールは、彼が自分達に示してくれた武士道と言う名の精神と信条に想いを馳せた。

 今は高齢となり老いた身だが、ここまで長生きできたのも、目の前の墓石に刻まれた名前を持つ彼に救われたおかげだ。

 工藤俊作――彼の名を忘れた事は一度もなかった。

 墓前に向かって敬礼するフォールの鼻に、墓前に上げた線香の香りが漂った。







 平成十五(二〇〇三)年十月十九日。


 一人のイギリス人が初めて日本の土を踏んだ。老人の名はサミュエル・フォール。

 元イギリス海軍の士官として、戦場を駆け巡った人物だ。

 軍を退いた後は外交官として活躍したが、その身はすっかり年老いている。

 しかし、彼は長年の間に渡って執心していたものに、ようやく巡り合える機会を得たのだ。

 初めて日本の土を踏んだフォールは、恩人である工藤の捜索を行う決意を抱いていた。

 しかし工藤の消息を掴む事は叶わなかった。

 工藤に巡り合えなかったフォールだったが、彼の下に一枚の招待状が届く。フォールの来日を知った日本の外務省や海上幕僚部が、海上自衛隊の観艦式にフォールを招いたのだ。それも海上自衛隊最精鋭の護衛艦隊・第一護衛隊群に所属する護衛艦『いかづち』にである。

 何故、彼の来日に日本政府がこのような反応を示したのか。

 それは彼と一人の日本人の関係が関わっているからだった。

 その日本人こそ、工藤であった。

 元日本帝国海軍軍人の工藤俊作。フォールと工藤の関係は、第二次世界大戦頃まで遡る事になる。

 



 日本政府からの招待状を受け取ったフォールは、八四歳という高齢の上に心臓病を患わっているにも関わらず、喜んで政府の招待を快諾した。

 観艦式当日、護衛艦『いかづち』では、万端の準備でフォールを歓迎した。

 一〇月二六日午前九時五〇分、フォールを乗せた『いかづち』は横須賀港より出港し、観閲艦隊随伴艦の二番艦として観艦式に参加した。

 フォールはエスコート役の外務省職員に艦内を案内される途中、ふと、ある者と目が合った。

 それは少女だった。甲板で艦の説明を受けていたフォールは、彼女の存在を認めると、懐かしそうな瞳を浮かべた。

 フォールは少女に優しげな笑顔を向けると、案内役の職員に「一人になりたい」と懇願した。

 なんとか無理を言って案内役から離れると、フォールはまっすぐ彼女の下に向かった。

 少女は警戒心もなく、ただ年相応の可愛らしい笑顔でフォールを迎え入れた。

 「初めまして。 私は『いかづち』の艦魂、いかづちと申します」

 「――君と出会えて嬉しいよ。お嬢さん」

 いかづちと名乗る少女はニッコリと微笑み、手を差し出したフォールと握手を交わした。

 護衛艦『いかずち』の艦魂と名乗る少女――いかづちを前にしても、フォールは全く驚いた様子を見せなかった。むしろ好意的にいかづちに近付き、いかづちもまた彼を歓迎した。お互いに相手を知っているような関係だった。

 「私はこの日をずっと待っていました。でも驚きました。まさかフォールさんまで私のような存在がお見えになる人だったなんて……」

 「君のような娘と、私は昔にも出会った事があるからね」

 フォールの言葉を聞いて、いかづちはハッとなる。

 「では、『雷』のほうも……」

 「ああ。いい娘だった。君と似ていて、とても可愛かったよ」

 いかづちは照れくさそうに微笑んだ。

 「あの奇跡の夜、あの艦で君のような娘と言葉を交わせたのは、私と……恩人ミスタークドウ。二人だけだったよ」

 「やはり工藤艦長も」

 「ああ。思い出すよ。彼と彼女の事を……」

 懐かしそうに目を細めたフォールに、いかづちはある提案をする。

 「良かったらフォールさん。私が艦内をご案内いたしましょうか」

 「良いのかい?」

 「はいっ! 私、自分が受け継いだ名前の駆逐艦と出会った貴方にずっと会いたかったんです」

 「それじゃあ、お願いしようかな。 ……ついでに年寄りの話でも聞きながら、ゆっくりと歩こうではないか」

 フォールはそう言って、シワだらけの手を差し出した。

 いかづちはその手を見詰め、ニッコリと微笑んでそっと自分の手を乗せた。

 「はいっ」

 優しく彼の手を引いたいかづちとフォールは共に艦内へと歩を刻んでいった。

 過去の記憶を辿るように……。






                              ●



                         生きている?死んでいる?

                         それは本当のことなの?

                          それは真実なの?

                           どうして?何故?

                         あなたは存在しているの?

                          此処にいるの?

                           近くにいる?

                         あなたはほんとうに・・・・・・



                         sovereignty of fear natumegumi.



                              ●





 昭和十七(一九四二)年 インドネシア スラバヤ沖――



 ここに日本帝国海軍の連合艦隊と米英蘭豪の四カ国連合軍艦隊の海戦が行われた。

 日米開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃と同じくして、日本軍が英国の東洋艦隊を撃滅したマレー沖海戦から東南アジアでの日本軍の戦況は著しく有利であった。快進撃を続ける日本軍はシンガポールやインドネシア等、東南アジア諸国及び地域での戦闘に次々と勝利を治めていった。

 東南アジアに常駐していたイギリス軍を始めとした連合国軍は各地で敗退。開戦劈頭から東南アジア海域を支配していたイギリスの東洋艦隊は壊滅した。



 日本海軍はインドネシアのスラバヤ沖で連合軍艦隊と交戦、これを撃破した。スラバヤ沖海戦である。これによりインドネシア方面の連合軍艦隊は壊滅。日本はその制海権を不動のものとする事に成功したのだった。

 この戦闘は日露戦争の日本海海戦以来の艦隊決戦で行われたものだった。

 戦闘後、英駆逐艦『エグゼター』は被弾した場所を応急処置し、僚艦『エンカウンター』等の護衛艦と共にインド洋コロンボへの逃走を図った。

 しかしそんな彼らを日本艦隊は逃がさなかった。日本帝国海軍の駆逐艦隊が逃走する英艦隊を発見、攻撃した。計一〇一発の連続猛射が浴びせられ、二月二十八日午後一時十分、連合軍側は降伏した。



 海上に浮かぶ艦は炎に包まれ、鉄屑になり果てようとしていた。敵艦の砲撃を浴びた艦体は既に満身創痍の状態にあり、艦が息絶えるのも時間の問題だった。艦上では『総員退去』の命を受けて我先に脱出しようと、乗員達が海に身を投げ出していた。

 その中には、サミュエル・フォール中尉の姿もいあった。

 フォールは燃え盛る炎を背後に、先に飛び込んだ仲間達が浮かぶ海面を見詰めながら、唇を噛み締めた。

 この艦はもう保たない。

 すなわち、この艦は死ぬ。

 ほんの数分前まで一緒にいた彼女の顔を思い出す。死に行く彼女の言葉を胸に、フォールは海に飛び込む覚悟を決めた。

 背後に感じる炎の焼き付けるような熱さ。艦は海水に浸かり、沈もうとしている。

 海に飛び込む寸前、最後に見た彼女の変わり果てた姿が脳裏によみがえる。

 血だらけの白い肌。その顔は天使のように微笑みながら、子供のように泣きすがる自分にこう言った。

 生きて、と。

 諦めずに生きて、と。

 そして自分はここにいる。彼女と別れて。彼女のそばにいたかったが、自分は生きなければならない。それは彼女の最期の願いでもある。

 フォールは心の中で彼女に別れの言葉を捧げると、燃える艦上から海に飛び込んだ。







 砲弾が飛び交った海は、嘘のように平穏だった。

 波が穏やかに漂う海上を進むのは、吹雪型二十三番艦(特III型三番艦)駆逐艦の『いかづち』だった。

 先の海戦には、彼女自身も参加していた。彼女個人の戦果は、敵重巡洋艦一隻、駆逐艦二隻を僚艦と共に撃沈という大戦果。

 50口径12cm連装砲3基6門と61cm3連装魚雷発射管3基が彼女の自慢の武装であった。

 全体的な戦果は重巡洋艦一隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦五隻撃沈。重巡洋艦一隻小破。それに対し『雷』を含めた日本艦隊は駆逐艦一隻が大破しただけで、沈没した艦は一隻もなかった。

 明らかに日本側の大勝利だった。

 遭遇した敵艦隊と戦い完全勝利した『雷』は、まるで制海権を手にしたことを語るようにその海域を進んでいた。

 その艦長室で、一人の男が卓を挟んでいた。

 男は『雷』の艦長、工藤俊作少佐である。そして彼と卓を挟むのは――軍服を着た少女であった。

 「制海権は我が軍が有したとて、油断は禁物だ。 敵潜水艦が未だに潜んでいる可能性は完全に取り除けていないからな」

 「……同感です」

 将棋をさしながら呟いた工藤に対し、少女もまた冷静に言葉を返しながら将棋も打ち返した。

 「で、そう言っている割に艦長は余裕ですね」

 「余裕だと?」

 「本当にそう思うのであれば、こんな事をしている暇はないのでは?」

 「息抜きも大切だよ」

 その時指した工藤の動きに、少女は目を細める。

 「勤務時間帯に息抜きですか」

 工藤は何も言わず、小さな笑みを浮かべる。

 「艦長としての職務に影響を及ばないのであれば私は構いませんが。 しかし私の命は艦長に託されている事をお忘れの無きよう」

 「もちろん。心得ているさ」

 「そうですか」

 パチン、と指された将棋に、工藤はむっと呻く。

 「そう来るか……」

 「これで艦長が手を打たなければ、次で私の勝ちです」

 「むむむ……」

 うぅむと唸る工藤。対して少女はとことん冷静だった。

 男所帯の軍艦に「少女」という異端者が存在している事は通常ならあり得ないのだが、彼女は違う世界に生きる存在だった。

 艦魂。それが彼女の正体だ。

 艦一隻には一人の少女が存在する。その少女こそが艦魂と呼ばれる存在だ。少女達は艦に宿る魂が具現化した存在で、艦が戦う事になれば戦う、沈む時は艦と共に死ぬという、戦う宿命を持った戦乙女である。

 少女と言われるように、彼女達は例外なく皆うら若き姿をしている。

 しかし艦魂と呼ばれる彼女達の存在は、全ての人間に確認されるわけではない。

 正確な理由は不明だが、限られた人間にしか、彼女たちの姿は見えない。

 古来より七つの海では伝説として囁かれていたが、時代の流れと共に艦魂と人間達のドラマは増えている。それは確かに現実として在るのだ。

 工藤もまた艦魂が見える人間だった。こうして駆逐艦『雷』の艦魂である少女、雷との交流も今に始まった事ではない。

 「……く、くく」

 「艦長?」

 「――はははは! 負けた負けた。 いやぁ、完敗だよ」

 豪快に笑う工藤とは相反して、少女は一言も笑わず、終始無言だった。

 「これで五十三敗目か。いやぁ、どうしても勝てんなぁ」

 「……違います、艦長。五十四勝です。艦長にとっては五十四敗ですが……」

 「海戦では勝てても、将棋は勝てんなぁ」

 「先の海戦では完全に我々の勝利でした。 お見事でした、艦長」

 「褒めるない。 あれは別に私だけの勝利ではない」

 「……正に、艦長は私の目標です」

 先の敵艦隊との海戦で、『雷』は工藤の指揮の下で僚艦『いなづま』と共に敵艦隊を攻撃、勝利した。敵艦が降伏を勧告してきた時、工藤は攻撃を中止し、乗員達を並ばせ、沈む敵艦に向けて敬意を示したのだ。

 戦闘には徹底的に自分の戦いぶりを見せ付け、最後は敵であろうと敬意を表す。

 正に武士の誉れである。

 「私なんかより、もっと別の、ふさわしい人を目標にしなさい。私なんか将棋ですら女の子に勝てないような男だ。目標にしてもなにもならんぞ」

 工藤が微笑んでそう軽く流すが、雷はスッと立ち上がり、丸い髪留めで結んだ長いポニーテールを揺らした。

 「私は女であり、真の侍にはなれない。しかし戦船いくさぶねの魂であり、心は武士です。 そして武士道という大和精神を志す者」

 丸い髪留めで縛ったポニーテールが可愛らしくもあるが、冷静沈着な雰囲気と凛とした物腰は男にも負けない風格があった。

 こんなに男らしい女性を見たのは初めて、というのが雷と出会った工藤の最初の感想だった。

 「なんなら、上村将軍を目指すと良い」

 「上村将軍とは、日露戦役の……」

 「ほう、知っているのか」

 「当然です」

 「では、歌を知っているか?」

 「歌?」

 雷が首を傾げる。工藤は深く頷いた。

 「ああ。 俺も祖父母からよく聞かされた『上村将軍』の歌だ。聴くか?」

 「ぜひ、聞かせてください」

 雷はそう言うと静かに正座して、子供のように目をキラキラと輝かせた。

 どんなに男らしい少女(本人に言うと怒られるが)であっても、中身は年相応の少女であった。

 好きなものに関わるときらきらと目を輝かせてしまうのは、本来の幼さからだろう。

 工藤は彼女の本来の姿に微笑むと、歌を口にした。


 

 ――上村将軍とは、上村彦之丞かみむらひこのじょう提督の事であり、歌は彼の逸話から作られたものだ。

 上村提督は日露戦争中、海に投げ出された敵兵六〇〇余人を救出した帝国海軍の軍人である。

 当時、上村提督は第二艦隊司令長官として、ロシア海軍を相手に戦っていた。

 しかし当初の彼は他の帝国海軍と同様に、世界最強のロシア海軍に苦戦を強いられていた。明治三十七(一九〇四)年八月十四日、上村提督は蔚山沖でロシア海軍のウラジオ艦隊を捕捉。ロシア極東部にあるウラジオストクを母港とするウラジオ艦隊は、ロシア最強の装甲巡洋艦(『リューリック』『グロモボイ』『ロシア』)を配備した艦隊であり、旅順艦隊とは異なり、主に日本の商船を狙って攻撃し続けた仇敵であった。

 日本はこれに対抗するために上村提督率いる第二艦隊を派遣したが、ウラジオ艦隊を中々見つけられなかった。その間にウラジオ艦隊の行動は更に激化した。陸軍兵士を乗せた輸送船は次々と撃沈され、挙句の果てには函館市街や東京湾、伊豆大島にまでウラジオ艦隊が出没する有様だった。ウラジオ艦隊の行動を許してしまっている上村提督を「無能」と罵る輩が現れ始め、「ロシアのスパイ」とまで言う声が上がり、自宅にも民衆が押し寄せ「切腹しろ」などと石を投げつけられる程だった。

 そのウラジオ艦隊を遂に補足した上村艦隊は、ウラジオ艦隊と交戦。双方の激しい戦いの末に、ウラジオ艦隊の『リューリック』を撃沈、他二隻を大破させた。

 日本にとってウラジオ艦隊は、輸送船等撃沈の恨み骨髄に徹するものがあった。しかし戦闘後、ロシア兵六〇〇余名が海に投げ出されたのを見た上村提督は「彼らを全員救助せよ」と命じたのだ。

 上村艦隊は、海に浮かぶロシア兵はもちろん、動物の一匹にいたるまで救い上げた。

 上村提督の救出劇は、たちまち世界中から賞賛されるようになった。

 これまで西洋諸国が出来なかった事を極東の島国・日本が実践しやり遂げた。これは世界が日本の武士道を賞賛して惜しまなかった出来事でもあった。



 「……いい歌ですね」

 「だろう?」

 歌を聴いていた雷は、ぽつりと呟いた。歌が終わると、雷はゆっくりと瞳を開けた。

 「私たちは自分勝手な欧米人達とは違う。この戦争も私たちの武士道にある正義の下で戦っているんですよね」

 「君の言っている事は間違いではない。だが、彼らも我々と同じ人間だ。今は大喧嘩の真っ最中だが、何時かは分かり合える日が必ず来る事を信じているよ」

 「そういえばあっちにも騎士道というものがありますね」

 「武士道と騎士道。 この戦争はそれのぶつかり合いでもあるのかな」

 工藤の言葉に、雷が敏感に反応する。

 「武士道が負けるはずがありません。この戦争は日本の勝利として終わります」

 はっきりと断言した雷は、口を閉ざす工藤に向かって言葉を続ける。

 「この戦争は我が帝国がアジアを欧米諸国の支配から解放するために行われています。正義は我々です。武士道の精神に従ったこの戦争に、敗北はありえません」

 「………………」

 工藤はすこし微笑んでいるだけで、なにも言わなかった。

 雷は工藤の無言になにか引っかかるものを感じ、不機嫌に眉をしかめるも、すぐに立ち上がった。

 「どこに行くんだ?」

 「ちょっと風に当たってきます。 それと艦長……」

 「ん」

 「……歌、ありがとうございました」

 微かに頬を赤らめて、雷は逃げるように工藤の前から立ち去った。

 一人残された工藤は、見事に負けた将棋の面を見下ろし、疲れたように溜息を吐いて椅子に背を預けた。

 舷窓の方に視線を向けると、外はどっぷりと夜闇に浸かっていた。

 「今日は疲れたな……」

 戦いの疲れがどっと出たために襲いかかってきた眠気に耐えようと、工藤は重い腰を上げた。艦長として、ここで寝るわけにはいかない(さっきまで将棋していた人に説得力ないが)。

 まだ残っている艦長としての責務を果たすため、工藤はぱんぱんと頬を叩いて眠気を誤魔化し、その場から出て行った。





 夜闇に覆われた海は、まるで墨のように真っ黒で、数メートル先は何も見えない。

 故に敵潜水艦が海面下に潜んでいたとしても、こちらに知る術は無いので、これ以上の恐怖は無いだろう。

 先の海戦に勝利した事で敵艦隊を駆逐し制海権を有したとしても、油断はできない状況だ。

 海戦後、『雷』には敵潜水艦の雷撃で被害を受けた艦の情報が届いていた。

 油断は禁物なのだ。

 「……はぁ」

 艦首甲板の上で、雷は膝を抱えていた。

 「……また、やってしまった」

 先ほどの自分の姿を思い出す。夜の空から吹く潮風が彼女のポニーテールを揺らした。

 「……はぁ」

 また深い溜息が漏れる。

 ふと、雷はポニーテールを結んだ丸い髪飾りを触った。

 この髪飾りは工藤から譲り受けたプレゼントだった。

 色は桃色で、少しだけ大きい。女の子っぽくて可愛らしい髪飾り。貰った時は自分には似合わないと思ったが、あまりに薦めたものだから仕方なく受け取ったけど、その時に工藤に褒められて以来、ずっと縛るようにしている。

 最初は恥ずかしかったが、今はもう慣れている。

 ……女の子っぽい、か。

 自分の女の子っぽさなんてこの髪飾りくらいだ。

 「……心は武士と豪語しておきながら、私は何を言っているのだか。 身体は女であろうと心は武士! 武士道を志す者! そんな者に――お、お……ッ、女の子っぽさ、なんて……必要ないんだ……!」

 そう言ってはみても、まだ心が晴れない雷だった。

 「……なんなんだろ、私って」

 工藤の優しい笑顔を思い出す。

 「……おじさんなんかに興味はない」

 とは言っても、自分の「女」を改めて思う時に出てくるのはいつも工藤の顔であった。

 「ふんっ」

 むすっと抱えた膝に自分の顔を埋める。周りに誰もいないのに、色を変えた顔を隠すように。

 熱くなった顔を冷やすように、暫くの間、潮風を浴びる。


 ――強い風が吹いて、彼女の肌と髪を撫で上げた。


 その時――


 『……て……、助け……て……』


 「――ッ!?」

 膝の中に埋めていた顔を、ガバッと勢い良く上げる。

 今、何かを感じた。まるで風と共に運ばれてきたように。

 聞こえた、ではない。感じた。言葉ではない。何かの念のようなものだった。

 「………………」

 もしかして先の海戦で海に散った魂の無念だろうか。

 そう思った雷は、その場から逃げるように走り去った。

 駆逐艦『雷』はまだその海域を航行していた。





 海に飛び込んで数時間が経った。

 辺りはすっかり夜闇に包まれ、周りは何も見えない。

 夜になって寒くなってきたのか、海水に浸かる身体が冷えてきた。

 残骸である木片にしがみついてなんとか浮いていられているが、このまま助けがなければいつ力尽きるかわからない。

 英国海軍士官、サミュエル・フォール中尉は漂流の中、思考を巡らせていた。

 絶望的な状況の中、彼はこの場を生き抜く術をいつまでも考えていた。

 しかし何も出来ないのが現状だった。視界360度は水平線しか見えなかった。今となっては夜闇で近くのものさえ見えなくなっている。

 周辺に漂流する仲間達の安否を確かめるために、フォールは声を上げた。

 「おぉーいっ! 生きてるかーっ!」

 フォールの叫び声に、闇の先から仲間達の声が応える。

 「生きてるーっ!」

 「俺もだーっ!」

 「早く助けてくれーっ!」

 生き残った多くの仲間達は、ほとんどがこの海に漂流している。

 救命艇の数が足りず、残骸等に掴まっているか、仲間同士で浮いているのが大半だ。

 「助けてくれぇ……! 俺はこんな所で死にたくない」

 泣いて叫ぶ者もいた。海に投げ出されてから、助けを叫ぶ者は大勢いたが、それは当たり前だった。いつ死んでもおかしくない状況。しかし、誰だってこんな海のど真ん中で死にたくはない。

 「頑張れ! 必ず助けが来るっ! だから耐えるんだ!!」

 フォールのように諦めず、仲間を励ます者もいる。

 「もう、限界だ……」

 絶望して諦める者に、フォール自身も必死に励ました。

 「頑張るんだ。 生きて祖国に帰ろう! 家族を思い出せ!」

 「オランダ軍がきっと助けにきてくれる。それまで頑張ろう!」

 海に浮かぶ彼らはそうやってお互いを支え合っていた。

 しかし日が過ぎても、助けが来る気配はない。徐々に絶望が彼らの大半を支配していく。漏れた重油で視界を潰された者、水中の浸かった足を魚に突っつかれサメだと叫んでパニックになる者、絶望が彼らの全てを呑み込もうとしていた。

 「(ここで死ぬわけにはいかない! なんとしてでも生き抜くんだ……!)」

 フォールはどんなに絶望的な状況に襲われようと、決して諦めはしなかった。

 故郷にいる家族、そして沈んでいった彼女との約束。

 それがフォールを強く支えていた。

 彼らはいつまでも、間近に迫る死に恐怖しながら、長い間海に浮かび続けていた。





 朝日が昇って数時間後、『雷』はインドネシアの沖合を進んでいた。夜が明け、敵潜水艦の存在を警戒しながら航海は続いている。艦橋には朝食を済ませた工藤が立っていた。

 「おはようございます、艦長」

 工藤がその声に振り返ると、姿勢を正した雷が見事な敬礼を掲げていた。

 「おはよう、雷」

 雷の挨拶に、笑顔で迎える工藤。

 工藤の傍に、雷が歩み寄った。

 「よく眠れたかい?」

 「……はい」

 雷はすこし戸惑うような表情を見せてから頷いた。

 それを工藤は見逃さなかった。

 「本当はよく眠れなかったんじゃないのか?」

 「い、いえっ! そんなことはありません!」

 動揺を見せる雷の様子を、工藤は訝しげな表情を浮かべる。

 「どうしたんだ、雷? 元気がないようだが……」

 「いえ。なんでもありません」

 「怖い夢でも見たか?」

 工藤の言葉に、雷は声を荒げた。

 「な……ッ! そ、そんなことありません! 私は子供ではありません!」

 「どうだかなぁ」

 「ほ、本当です! 信じてください……ッ!」

 「わかったわかった。 もちろん信じるよ」

 「……ッ」

 顔を赤くした雷はふんっとそっぽを向く。

 工藤の目の前を通り過ぎる雷の横顔、そして揺れるポニーテールを結んだ丸い髪飾りを見て、工藤は口を開いた。

 「髪飾り、気に入ってくれたようだね」

 「艦長が贈って下さった物ですから……」

 横顔を向けたまま、雷はぽつりと返す。

 「そうだね、ありがとう。 やはりよく似合ってるよ」

 「――ッ!」

 顔を赤くしてぷるぷると震えだす雷に、工藤は「えっ?」と声を上げた。

 「ど、どうしたんだ? やはり身体の調子でも悪いのか?」

 「か、艦長の……」

 「私がどうした?」

 「艦長の痴れ者ぉぉぉぉぉッッッ!!」

 鞘から抜いた刀を振り回す雷と、わけがわからないまま逃げ回る工藤。艦魂が見えている艦長を知っている士官達はそれを微笑ましく眺めていた。

 朝から巻き起こった一騒動が沈着した頃、工藤の目の前には正座した雷の姿があった。

 「……私とした事が取り乱してしまいました。申し訳ありません、艦長」

 「いや、私の方こそ悪かったな」

 何が悪かったのか、未だにわからない工藤だった。

 「艦長に対するご無礼。 ここは武士として切腹して詫びるしか!」

 いつの間にかサラシ姿になり、短刀を握り締めている雷の姿を見て、仰天した工藤は慌てて制止に入った。

 「しなくていい! それにそんな事を言えば、君は今までに何度切腹する羽目になっていたと思ってる!」

 「……では今までのご無礼も纏めて、やはり切腹を――」

 「やめなさい!」

 今度は短刀の奪い合いに突入した二人だったが、艦魂が見えない周囲の者から見れば、工藤が一人で変な踊りでもしているようにしか見えない。艦魂が見えている事を理解しているとは言え、やはりその光景が不思議に見えてしまうのだった。

 「こんな真似は二度とするな」

 短刀を奪い取る事に成功した工藤は、改めて目の前に正座する雷を戒めた。

 「第一、女の子が簡単に腹を出して短刀突き刺して死ぬだなんて言うな」

 真剣に怒っているように見える工藤を前に、雷は何も言い返せなかった。

 「はい……」

 シュンと落ち込む雷に、工藤は溜息を吐く。

 「反省したならそれで良し。 二度とあんな馬鹿な真似はするんじゃないぞ」

 「……しかし武士は責任を償う」

 「わかったな?」

 「了解しました」

 「艦長、また雷ですか?」

 工藤にそう声をかけたのは、先任将校の浅野市郎大尉だった。

 「まぁな」

 「今度はどうしたんです?」

 次に声をかけてきたのは、航海長の谷川清澄中尉だ。

 「切腹しようとしていたから、慌てて止めた所だ」

 工藤が微笑んで答えると、浅野と谷川も微笑んだ。

 「はは。 相変わらずですね」

 「それくらいの度胸はウチの若い連中も見習ってほしいですよ」

 「はははは……」

 笑い合う三人の話題とされた雷は、恥ずかしそうに頬を紅潮させた。

 赤くなった顔を下げた雷の下に、工藤が声を掛ける。

 「それと、雷。 元気がない理由を言ってみなさい」

 「艦長?」

 顔を上げて、見上げた先には真剣な……そして、心配そうに娘を見る父親のような表情を浮かべた工藤の顔があった。

 「無理に、とは言わないが……。 さっきといい、どうにも様子がおかしいからな。気になって仕方ない。良かったら話してもらえないか」

 工藤から優しく掛けられた言葉に、戸惑いの表情を浮かべた雷だったが、やがて顔を上げて向き合った。

 「はい」

 はっきりと頷いた雷は昨日の夜の事を話した。誰かの強い念のようなものを感知したと言う雷の言葉に、工藤は真剣に最後まで聞いていた。

 「……なるほど」

 端から聞けばわけのわからない事だが、それでも真剣に聞いてくれた工藤に対し、雷は心の内で感謝していた。

 「……確かに感じました。残留思念と言うのでしょうか。とにかく強い思念を」

 「きみは艦魂という不可思議な存在だからな。我々には知覚できないものを感じ取ったのかもしれん」

 工藤はふむ、と考えるように顎を撫でた後、机に広げた海図に視線を向けた。

 「そろそろ航路上では戦いが行われた周辺海域だな。 もしかしたらそこに何かがあるのかもしれない」

 工藤は海図に描かれた海域を見詰め、目を細めた。

 艦が向かっている先はかつて戦闘が行われた海域だ。日本軍が制海権を握っているとは言え、この先の海域では敵潜水艦が出没する情報が入っている。

 雷の感じたもの、戦闘海域、これらの情報を頭に入れた工藤は意を決した。

 「敵潜水艦に警戒」

 それを聞いた浅野が応え、艦内に命令を伝える。

 「辺りの見張りに集中しろ」

 工藤の指示を聞いた見張り兵達が、艦の周りを囲む海を凝視する。

 戦いがあったのが嘘にように、静まり返った海に再び緊張が漂った。その揺れる白波は穏やかで、艦が慎重に航行しているのが伺えた。

 昨夜感じたもの。あれの正体がわかる時が来るのだろうか。

 戦闘があった海域に突入した『雷』周囲に警戒しつつ前進する。僚艦もいない、単独行動の『雷』は敵潜水艦にとっては格好の獲物だった。

 海域を進んでいた『雷』から、一人の見張り兵の声が上がった。

 「左三十度、距離八〇〇〇。浮遊物、多数!」

 見張り兵の報告に、艦橋に緊張が走った。誰もが指定された方角に目を向ける。工藤もまた目を細めるが、眼鏡越しに見詰めた海に何があるのかまだわからなかった。

 「もしかしたら我が軍の艦が、敵の潜水艦に撃沈された直後かもしれません」

 工藤の右隣に立つ浅野が意見を述べ、続いて反対の工藤の左隣に立つ谷川も口を開いた。

 「浮遊物はその艦の残骸かもしれません」

 二人の意見に、工藤は頷いた。

 敵潜水艦に襲われた僚艦の残骸の可能性は工藤も考えていた。敵潜水艦が出没する危険な海域である事は知っていた。

 なら――敵がまだどこかに潜んでいる可能性もある。

 航海長の谷川に、工藤は言葉を投げた。

 「近くに敵の潜水艦がいる可能性がある。 潜望鏡がないか確認しろ」

 「はい」

 谷川が指示通りに、周囲に敵潜水艦の潜望鏡らしきものが無いか確認する。

 水上にいる艦にとって、潜水艦というものは本当に恐ろしいものだ。神出鬼没にして、小さくて細い潜望鏡が海面から出ていれば、それが海中に戻れば、すぐに魚雷が発射されるのだ。現に『雷』も二ヶ月前に敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた事があった。

 更に最近も、日本の輸送船が敵潜水艦に撃沈されたばかりであった。

 「……この海域は油断ならん」

 浅野は、工藤の口から漏れた言葉を聞いた。

 「――戦闘用意」

 それを聞いた浅野は、すぐさま復唱した。

 「戦闘用意!」

 艦内に号令がかかり、兵達が騒々しく戦闘配置に走った。総員戦闘配置完了が告げられると、工藤は続けて言った。

 「見張りは警戒を『厳』と為せ」

 緊張感が重くのしかかる中、『雷』は進む。

 そして、遂に見張り兵が浮遊物の存在をはっきりと視認した。

 「見えました!」

 工藤達の注目が、海の浮遊物に向かう。

 彼らが見た先には――

 救命ボートと残骸に掴まって浮かぶ大勢の人間が、手を振っている光景があった。

 しかも、友軍ではない。

 「浮遊物は敵兵らしき!」

 届いた報告が、工藤の目を見開かせた。

 雷も聞いた報告に耳を疑い、驚いてその方向を見詰めた。

 人間とはかけ離れた視力を持つ雷の視線の先には、海面に浮かぶ大勢の敵兵らしき姿が確認できた。

 「嘘……。 まさか、本当に敵兵……?」

 その時、雷の頭に電流が走った。昨夜感じたものと同じ感覚だが、もっと強かった。

 「もしかして、私が感じたのって……」





 夜が明けた。午前十時。漂流から二十時間が経過していた。

 しかし助けは相変わらず来なかった。

 朝になり、フォールは閉じていた瞳をゆっくりと開けた。日の光が眩しかった。

 「………………」

 ゆっくりと周囲を見渡すが、助けの船はどこにもいなかった。

 遂に夜が明けてしまった。

 フォールは神に祈った。助けてください、と。

 ふと、フォールはそばにいる仲間の一人が不審な動きを見せている事に気付いた。

 フォールは彼がなにをしようとしているのかがすぐにわかった。

 「!! おい、やめろっ!」

 絶望のあまり、自殺を試みようとしていた仲間を止める。

 「は、離してくれっ! 死なせてくれぇっ!」

 「おい、落ち着け!」

 周りの気付いた仲間達も、自殺しようとする彼を止める。

 フォールは戦慄を覚えた。

 自らの命を絶とうとする者まで現れ、もう彼らは体力も精神も限界だった。

 もう、助からないのか……と、生きる決意を誓っていたフォールでさえ諦めかけていた。


 しかしそんな彼らに、希望の光が射し込んできた――


 「……船だ」

 離れた距離、その先には一隻の船が確かにいる。

 仲間たちも船の存在に気付き、大声をあげ始めた。

 「おぉーいっ! ここだーっ!」

 「助けてくれーっ! おぉーいっっ!!」

 彼らはやっと舞い降りてきた希望にすがるように、必死に助けを求める。

 船だ。船が来た!

 長い間、漂流していた彼らにとっては、自分達に近付いてくるその船は正に救世主だった。

 「……ちょっと待て。あれは――」

 だが、彼らは気付いた。

 フォール達の目の前に現れた船、それは――






 「艦長、イギリス海軍です。 四〇〇名以上はいます」

 漂流する敵兵達を眺めていた谷川がそう断言した。

 「四〇〇名!?」

 それを聞いた浅野は驚愕する。

 「……引き続き潜望鏡が見えないか確認しろ」

 工藤は慎重さを欠かさなかった。

 「四〇〇名って……私たちより多いじゃないかっ!」

 雷はその数に圧倒されていた。

 無理もなかった。『雷』の乗員は二二〇名。そして発見したイギリス兵達は推定四〇〇名以上。乗員の二倍の数だ。

 「イギリス海軍……。 昨日の海戦の残党ね」

 雷は昨日の海戦を思い出す。

 浮かんでいるのは、敵……。

 我々アジアの民を、黄色人種と罵って差別、支配する白人達。

 戦場に情けは無用ということもある。実際、救命ボートで漂流していた日本の病院船の乗員一五八名が敵に攻撃されて死亡するという悲惨な出来事も起こっている。

 しかし……ここであの敵を皆殺しにしても、それは敵と結局同じになってしまう。

 雷は――自身の心に志したとされる武士道精神に問い質しながら、工藤から聴いた『歌』を思い出していた。

 「――!」

 雷はハッと、工藤の方に視線を向けた。

 工藤の表情は――既に何かを決めていた。

 「取り舵一杯」

 工藤の指示を聞いた『雷』は大きく舵を取り、左に回った。そして艦は徐々に浮遊するイギリス兵達との距離を縮め、遂に彼らを射程距離内に捉えた。

 艦から押し寄せた白波に揺らされるイギリス兵達。彼らの目の前に、『雷』の艦体が迫った。

 「日本軍だ!」

 フォールはマストに靡く旭日旗を認めた。

 せっかく助かると思っていたのに。彼らの前に現れた船は日本軍の駆逐艦だった。

 「そんな……」

 絶望が、また新たに彼らに重くのしかかった。

 漂流するそんな彼らを、工藤は双眼鏡で見詰めていた。工藤が見たものは、救命ボートやガレキなどの残骸に捕まり、必死に助けを求める四〇〇名以上のイギリス兵達だった。

 ――しかしこの海域はいつ敵潜水艦に襲われてもおかしくない海域だ。

 すべては、艦長の工藤に委ねられた。

 「艦長……」

 雷の抱いた、決意した気持ちが工藤も同じであると願う。

 瞳を閉じた工藤。

 浅野や谷川たちが決断を迫られた工藤の命令を緊張した面持ちで待ち続けた。

 瞳を閉じた工藤は、その時、祖父母からよく聞かされた『上村将軍』の歌を思い出していた。



 蔚山沖の雲晴れて

 勝ち誇りたる追撃に

 艦隊勇み帰る時

 身を沈め行くリューリック

 恨みは深き敵なれど

 捨てなば死せん彼等なり

 英雄の腸ちぎれけん

 「救助」と君は叫びけり

 折しも起る軍楽の

 響きと共に永久とこしえ

 高きは君の功いさおなり

 匂うは君の誉れなり



 工藤は――瞳を開いて、そして叫んだ。

 「救助ッ!」

 工藤の思いは、雷と同じだった事に、雷は喜んだ。

 浅野と谷川達は工藤の言葉に驚いた。

 工藤の声が、艦橋に響き渡る。

 「敵兵を、救助せよッ!」







 『雷』の傍で漂流するフォール達は日本軍に機銃掃射されて蜂の巣にされると恐怖し、全員が最期の瞬間を覚悟した。

 しかし、フォールたちが見たものは銃口ではなかった。



 音を立ててマストに勢いよく上がり翻る『救助活動中』を示した国際信号旗だった。



 それを見たのは、フォール達だけではない。

 もちろん艦にいた乗員達も上がった国際信号旗を見て驚いていた。

 「艦長! あれは敵兵ですよ!?」

 「それに敵潜水艦に襲われる危険性もあります!」

 浅野や谷川が反論するが、工藤は頑として命令を取り消さなかった。

 「救助といったら救助だ。 お前達、自分達が彼らと同じ状況になった時、助けてくれと思うだろう?」

 「敵に助けられるくらいなら死にますっ!」

 誰かが言った。だが、それに即座に返したのが工藤の怒鳴り声だった。

 「馬鹿! 生きたいと思うのが人間として普通だろうが!」

 「………………」

 「艦長……」

 雷は嬉しかった。

 工藤が何を貫いているのか、雷にはわかっていた。


 武士道――


 浅野達の言っていることは間違いではない。一歩間違えば、敵兵を助けるどころか、自分たちが海の藻屑と消えてしまう。だが、工藤を始めとした日本帝国海軍軍人には、ふつふつと宿る魂があった。雷もそうだ。『武士道』である。明治以来、いや、それ以前から日本人の中に脈々と続く命の鼓動が、彼らの中にその精神を甦らせたのである。

 敵とて人間。弱っている敵を見ればフェアな戦いはできない。ならば助ける。これが武士道である。

 「艦長、やはり私はあなたが素晴らしい人間だと思います」

 「なにを言っているんだよ、雷」

 「艦長の武士道、信じていました。 私と同じ思いを持っていてくれてとても嬉しいです」

 「そうかい」

 工藤はにこやかに微笑んだ。雷も微笑んだ。

 工藤の命令を受けた『雷』の乗員達は、イギリス兵を助けるためにロープや縄ばしごなどを海に投げ入れた。

 イギリス兵達がパニック状態になってそれを掴もうとするが、イギリス士官が号令をかけると、全員が一瞬で秩序を取り戻し、整然と順番を待ち始めた。

 「さすがイギリス海軍……」

 それを見た雷は、乗員達が感じた思いと同じ事を呟いた。

 しかしイギリス兵達はなかなか上がってこない。

 「お前たち、何故上がってこないんだ!」

 「早く上がってこいっ!」

 言葉が通じない。しかしその思いは伝わっているはずだ。

 浮かぶイギリス兵が救命ボートに横になっている病人と重傷者を指差した。怪我をしている者から優先的に助けてほしいという事なのだろう。

 日本兵達は必死に怪我をしたイギリス兵達を先に助け、そして次に泳いできたイギリス兵達も助け上げていく。

 しかし……

 「艦長! 自力で上がれる者がほとんどおりません! 救助するにも手が足りません!」

 「一番砲を残し、総員敵溺者救助用意」

 工藤の第二の決断だった。それは敵潜水艦への警戒を削る事にもなる。

 それは、日本海軍史上極めて異例な号令だった。最低限の人間だけ残し、後の者は救助に向かえという工藤の命令に、全員が覚悟した瞬間だった。

 「艦長」

 浅野が工藤に一歩、歩み寄った。

 「なんだ」

 「私も、救助に行かせてもらってもよろしいでしょうか」

 最初は反対の声をあげたと思われた浅野が、はっきりと進言した。

 「俺も行きます!」

 浅野に続くように、谷川が前に出る。

 工藤は自分に集まった視線を見渡した。皆、同じ目をしている。

 工藤は、頷いた。

 「……行ける者は行け。敵兵の救助に全力を傾けろ!」

 「了解!」

 浅野や谷川を始めとしたほとんどの者が艦橋から走って出て行った。

 「……私も、助けにいってやりたいな」

 「きみはここで私と共に居てくれ。 彼らを、見守ってやってくれ」

 「私にできることがそれしかないのであれば。ならば私はそれをやろう。彼らの武士道を、この目に、心に焼き付けます」

 雷は胸の前に手を握りしめ、真っ直ぐな瞳で、救助活動を行う光景を隣にいる工藤と共に見守るのだった。



 

 「手空き総員、ロープ、竹竿を両舷に出せっ!」

 一七〇名の乗員による急ピッチに進む救助によって、イギリス兵は助けられていく。

 しかしイギリス兵達も限界だった。

 地獄の漂流から二一時間が経過し、必死に泳いで力尽き沈み、またロープを掴んでも、最後の気力を使い果たしたのか、また沈んでいくという者が続出する。

 これを見た日本兵達は「頑張れ!」「もう少しだ!」と涙を流しながら叫ぶ。

 「……くそ!」

 「おい、貴様。何を……!?」

 そしてこれにたまりかねた水兵が一人、命令違反を覚悟に海に飛び込んだ。

 彼は沈んだイギリス兵を支えては体にロープを巻きつけ、必死に助けだす。これに続くように次々と、日本兵達が飛び込んでいく。

 もう、ここまで来れば敵も味方もなかった。

 「魚雷搭載用のクレーンで救助者を引き揚げろ! 救助に使えるものはすべて使え!」

 救助に使えるものはなんでも使えと指示する工藤。

 フォールもその時、助けられた。

 「(これは奇跡ではないのか……。まるで夢のようだ)」

 救助されたフォールは、目の前で起こっている事が信じられなかった。

 工藤の指示により、他の漂流者も次々と救助された。

 「やりましたね、艦長」

 雷がそうやって声をかけるが、工藤の双眼鏡をはずした瞳はまだ真剣だった。

 「まだ終わってはいない。 左に舵を取る」

 「え?」

 「漂流者を全員救助する」

 「――! はっ!」

 雷はビシリと敬礼してみせる。

 しかしそれを聞いた谷川が、工藤の傍に歩み寄った。

 「しかし艦長。 このまま救助を続けると戦闘になった時に燃料が足りなくなる恐れが」

 「構わん。 漂流者は一人も見逃すな」

 そして工藤は、たとえ遠方にいる生存者でも救助した。

 一人でも漂流者がいたら艦を停止させて救助させたのだった。

 こうして、海戦直後に『エンカウンター』四二二名のイギリス兵は『雷』によって救助されたのだった。




 「救助したイギリス兵四二二名……。よくこれだけの数を助ける事ができましたね」

 雷は、艦上にいる大勢の助けられたイギリス兵達を見渡す。イギリス兵達は日本兵からもらった毛布をかぶせられ、まみれた重油を綺麗にふき取られていた。寒さに凍える者、疲労のあまり動けなくなる者、『雷』の乗員である日本兵の数より二倍にも達するイギリス兵達の手元には、温めたミルクやビスケット等の食物の他に、新しい着替えや毛布も与えられていた。

 「同じ光景を、上村提督は見ていたのでしょうか」

 「そうかもしれないな」

 「確かに、こうなっちゃあ敵も可哀そうですね」

 「敵も我々と同じ人間だよ」

 「……イギリス海軍は帝国海軍の先生のような存在であり、元は同盟国でもありました。そしてこんな光景を見ても、彼らは敵国なんですよね。 彼らの中にも、私達の事を理解してくれる人が出てきてくれたら」

 「この機会にきっと彼らはわかってくれるさ、我々日本人は君達イギリス人とどこも変わらない人間だとね」

 二人の前には、今が戦争中である事が嘘のような光景が広がっていた。敵同士だったイギリス兵と日本兵が励まし合う光景。その光景の中で、ただ一人フォールだけがそんな二人をジッと見詰めていたのだった。



 


 救助されたイギリス将兵達は艦上の一角に集められていた。定員オーバーを遥かに越えた『雷』の艦内に収容し切れないイギリス兵達は日本兵に与えられた毛布にくるまり固まっていた。

 「中尉、あの時は本当にありがとうございました」

 フォールに声を掛けたのは、自殺しようとした所をフォールに止められた兵士だった。

 「中尉が馬鹿な俺を止めてくれなかったら、俺はここにはいなかった。本当に感謝しています」

 「いや、俺は特別な事はしていない。 本当に感謝すべきは、敵である我々を助けてくれた彼らだ」

 「はい」

 フォールは彼の肩を叩いた。二人は顔を見合わせ、笑い合った。

 「このまま、我々は日本に行くのでしょうか」

 「さぁな。だが、そう悲観する事はないだろう」

 日本軍は残虐で、敵を嬲り殺すと聞いていたが、そんな噂は『雷』にいるイギリス兵達には関係のない話になっていた。初めて触れた日本兵は、決して残虐非道な猿ではない、穏和な人間である事を知ったからだ。

 「日本に着いたらどこに行きたい? 俺はトウキョーがいいな」

 「俺はキョウトだ。実はテラって奴を見てみたいんだ」

 「俺達は捕虜だぞ? たとえ日本に行けたとしても、行く先は収容所だ」

 「日本も島国らしいが、どんな風なんだろう」

 開戦後の艦上では敵国を罵倒していた者でさえ、見た事がない日本という国を想像し合い、語り合っていた。助けてくれた日本兵の事を話す者もいる。

 「なぁ、サミュエル。お前はどう思う?」

 「日本? そうだな……」

 フォールは艦上で見た二人の事を思い出していた。

 「面白そうだな」

 仲間の質問に答えたものかわからない発言をした直後、フォール達の下に日本兵がやって来た。

 自分達の前に現れた日本兵は「士官のみ前甲板に集合せよ」と伝えた。

 助かったとはいえ、捕虜であることには変わりない。呼び出された士官のほとんどが不安を覚える。だが、彼らは言われた通りに集合場所に向かった。

 もちろんその中にはフォール中尉もいた。

 集まった英国海軍士官達の前に、整列した日本兵が道を割ると、その中心から一八○センチを越える巨漢の男が現れた。その男こそが『雷』艦長・工藤俊作少佐であった。

 その後ろから工藤のそばに立つように、一人の少女も現れた。

 それに気づいたのは、フォールだけだ。

 スラリと伸びた軍服に凹凸のある女らしいライン。揺れる長い黒髪のポニーテールが美しく輝き、整った顔立ちはまるで人形の様。漆黒の瞳は見ていると吸い込まれてしまいそうだ。フォールは一瞬彼女の姿に見惚れてしまった。

 東洋の女性に見惚れるなんて、フォールにとっては生まれて初めての体験だった。

 工藤の口から出た言葉を聞いて、フォールは我にかえった。

 「私はイギリス海軍を尊敬している。 今回、イギリス政府が日本に戦争を仕掛けた事は愚かな事です」

 工藤は、流暢な英語で続けた。

 「You had fought bravely.(諸官は勇敢に戦われた)」

 工藤の言葉に、フォール達は俯いていた顔を上げた。

 「and...」

 工藤の滑らかな英語が、彼らに届く。

 「You are the guest of the Imperial Japanese Naby.(諸官は日本海軍の名誉あるゲストである)」

 工藤は言葉を言い終えた直後、彼らに優しげな微笑みを向けて敬礼した。

 フォール達も感銘をうけて答礼した。中には涙を流して泣く者もいた。

 微笑む工藤の隣には、一人の少女も微笑んで敬礼していた。

 フォールは涙を潤ませた瞳で、工藤の次に少女の方を見た。

 やがて敬礼を続けていた少女はフォールの視線に気付き、最初は気にしていなかったようだが、自分が見えている事に気付き始めたのか、訝しげな視線を向けてきた。

 フォールはそんな彼女にウインクして、少女を更に驚かせた。

 工藤が踵を返し、フォール達の前から立ち去っていく。整列した日本兵達の敬礼に見送られながら、艦橋の方へと消えていった。雷もそれに続くが、何度もフォールの方を振り返っていた。

 フォール達――英国海軍士官一同は、工藤が去った後もいつまでも敬礼を続けていた。



 

 「艦長。ちょっと……」

 「どうした、雷」

 艦橋に戻った直後、工藤は雷に呼び止められた。

 「あの、さっきの英国海軍士官達の中に、一人だけ私が見えていた人が……」

 雷の言葉を聞いて、工藤は目を見開かせる。

 「何? それは本当か」

 「はい。間違いないと思います」

 雷が言っている事はおそらく間違いないだろう。救助したイギリス兵の中に、工藤と同じように艦魂が見える人間がいたとしても不思議ではない。

 「よし、その者を呼ぼう。 挨拶したいな」

 唐突な工藤の提案に、雷は驚きを隠せなかった。

 「正気ですか、艦長!」

 「私は最初から正気さ。 彼らを助けた時からね」

 目の前でにこやかに微笑む工藤の表情を見詰めながら、雷は途方に暮れたように呆けていた。



 工藤から激励の言葉を貰った英国海軍士官達が兵達の下に戻った矢先、今度はフォールの下に呼び出しがかかった。

 「サミュエル・フォール中尉は居るか」

 「私だ」

 イギリス兵達の下に訪れた日本軍の士官が、英語でフォールの名を呼びかける。浅野だった。浅野の呼び掛けに応えたフォールは手を上げた。

 「艦長がお呼びだ。付いてきてくれ」

 「?」

 艦長直々の呼び出しに、フォールだけではなく、周りにいたイギリス兵達も訝しげに思った。

 「わかった」

 フォールは首を傾げるも、浅野に連れられて艦橋へと訪れた。

 「艦長、連れてきました」

 浅野がフォールを従えて艦橋に入る。工藤がフォールの目の前に現れた。

 「ご苦労。 彼と二人きりにさせてくれ」

 「はっ」

 浅野は一礼するとフォールを残して、早々とその場から立ち去ってしまった。

 困惑するフォールに対し、工藤は笑顔を浮かべながら迎え入れる。

 「ようこそ、中尉。 私は『雷』艦長の工藤少佐だ」

 工藤の分厚い手から握手を求められる。フォールは慌てて、手を握り返した。

 「サ、サミュエル・フォール中尉です。 艦長直々にお呼び出されるとは光栄です」

 「私もだよ。 乗っていた艦は?」

 「『エンカウンター』です」

 「……うむ。そうか」

 フォールの蒼い瞳を見ながら、工藤は続けた。

 「実はきみに会わせたい人がいてね」

 「はぁ……?」

 「来なさい」

 工藤がどこかへ呼び掛けると、フォールの視界の端で淡い光が生まれる。光の中から姿を現したのは、先程見たばかりの軍服を着た少女だった。

 「……………」

 「オォッ…」

 「中尉も彼女が見えているようだね」

 「では、やはり彼女は……。 という事は艦長も!?」

 「初めまして、サミュエル・フォール英国海軍中尉」

 少女は工藤のように笑顔で迎え入れる事もなく、ただ無表情に淡々と挨拶を始めた。

 対面するフォールは見惚れたような瞳を浮かべながら、喜んで雷の挨拶を受けた。もしかしたら既に彼女が艦魂である事に気付いていたのかもしれない。

 「君のような美しいお嬢さんに会えて嬉しいよ」

 フォールの言葉に、雷は肩を震わせるだけだ。

 「落ち着け、雷」

 「ですが艦長……!」

 「イカヅチ……。それが貴女の名前か」

 雷の名を知ったフォールは、紳士のような柔らかい笑みを携えながら、手を取り頭を下げた。

 「よろしく、イカヅチ。 なんて高貴な響きのある素敵な名前だ」

 「……馴れ馴れしい」

 「そう言わずに」

 「艦長は黙っていてください。 大体何故こんな奴を呼んだのですか」

 初めて目にするイギリス人を前に、雷は少なからずの動揺を覚えていた。簡単に身体に触れては、痒い台詞を吐く彼の態度に慣れない疼きが生じた。雷は彼と鉢合わせた工藤の思惑が読み取れなかった。

 「……雷。 彼も艦魂が見える人間なんだ」

 「それがどうかしましたか」

 「彼は、何故漂流していた?」

 「それは艦が撃沈されたから……」

 何かに気付いた雷の反応を見た後、工藤は頷いた。

 「そう。 彼はね、失ってるんだよ。大事な存在を」

 「……………」

 フォールは艦魂が見える。という事は以前乗っていた艦の艦魂とも知り合いだったのだろう。しかしその艦はこの世にはいない。

 日本語で話し合う二人にフォールは少々困惑気味だったが、彼の前に雷がゆっくりと歩み寄ってきた。

 目の前までやってきた雷のいい匂いがフォールの鼻先に漂ってきた。

 「……ッ」

 その匂いに頭を眩ませるも、雷の呟いた口の動きが彼を硬直させた。

 「……沈んだ彼女とも知り合いだったの?」

 「――!」

 「どうなの?」

 フォールは見開いた目で雷を見詰めていたが、やがて観念したかのように、肩の力を抜いて頷いた。

 「ああ。 エンカウンターとは親しい仲だったさ」

 彼が以前乗っていた駆逐艦『エンカウンター』は先の海戦で撃沈されている。

 艦は沈み、フォールを含めたイギリスの乗員達は冷たい海に漂っていた。

 「……彼女とは別れる前に約束してね。 彼女と生きる約束をしたから俺は必死に生き抜こうとした。 でも諦めかけてしまっていた。 そこにあなたたちが助けてくれた。 本当にあなたたちには感謝している」

 「……恨みはないの?」

 「我々は助けられた。 敵であるにも関わらず。恨む要素がどこにあるというんだい」

 沈黙する雷を前に、フォールは言葉を続けた。

 「……何故、あなたたちは我々を助けてくれたんだ?」

 フォールは目の前にいる少女に問うた。

 雷は工藤の方に視線を向けた。工藤は微笑みながら頷いた。雷は工藤の反応を見届けると、再びフォールと向き合った。

 「――武士道よ」

 「Bushido?」

 「そうよ。 私たちはたとえ敵であろうと同じ人間であるあなたたちを助けた。私達は武士道精神に則っただけ」

 雷の答えに、フォールはしきりに頷いていた。

 「……なるほど、武士道か。 我々にも騎士道というものがあるが、似たようなものなのかな」

 「私たち日本人は武士道をもってこの戦争を戦っている。あなたたちも騎士道をもって戦っているんでしょう?」

 「……武士道」

 フォールは何度もその単語を呟き続けていた。

 フォールはニコリと微笑み、「Thank you」と何度も繰り返しながら雷の手を握り締め、さらには雷の手の甲にキスをした。

 雷は呆然としていたが、やがて状況に気づいて、そばに工藤がいる事に気付くと顔を真っ赤にさせてわなわなと震え出した。

 「そこになおれ、イギリス人め! 私に対するふしだらな行為、断じて許すわけにはいかない!」

 「oh,why!?」

 ギラリと輝いた日本刀を振りかぶり、襲いかかる雷にフォールは悲鳴を上げた。工藤はやれやれと呆れがちになりながら雷を止めに入った。

 「落ち着け雷。 今のはキッスといって、欧米では当たり前の行為なんだよ」

 「ここは我が帝国海軍の駆逐艦であり、すなわち日本の領内と同じです! 何より私はこの艦の艦魂であり日本人ですっ!」

 「だから落ち着けって、雷」

 怒りと恥ずかしさに顔を真っ赤に染めて、刀を振り回す雷を必死に止める工藤と逃げ惑うフォール。三人の騒がしい声が静かな夜の海に溶けていった。





 翌日、駆逐艦『雷』に救助されたフォール達イギリス兵四二二名は、寄港したボルネオ港で日本管轄下の病院船に捕虜として引き渡された。

 イギリス兵達は『雷』から下艦する際に、『雷』に向かって敬礼。そして工藤とも敬礼して別れを告げた。工藤も、フォールも、そして雷も笑顔で敬礼して別れたのだった。


 工藤艦長と雷による武士道を貫いた救出劇はこうして幕を閉じた。


 終戦後、フォールは無事イギリス本土へと帰国し、故郷と愛する家族の下に帰る事ができた。

 半世紀が経った頃、フォールはその体験談を纏めた一冊の本を出版した。

 一九九六年、自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を執筆。その筆頭に――


 This book is dedicated to Merete and our

children, Stina, Sam, Anna Catharina and

Helena, who made my life lucky, and the

late Lieutenant Commander Shunsaku Kudo

of the Imperial Japanese Navy, who saved it.


 (この本を私の人生に幸運を与えてくれた私の家族、

 そして私を救ってくれた元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる)


 「日本の武士道とは、勝者はおごることなく敗者をいたわり、その健闘を称えることであると私は思います」

 フォールの言葉である。

 一九九八年、イギリスでは日本の天皇陛下のイギリス訪問に対する反対運動が激化していた。その運動は当時、日本軍の捕虜となっていた軍人達が関与しており、その時の強い恨みと反日感情から生まれたものであった。

 フォールはこの時、タイムズ紙に自らの体験談と共に投書した。

 「元日本軍の捕虜となった者として、私がどうして昔の敵と和解する事に関心を持っているか説明したい」

 として、工藤艦長の『雷』の話を書いたのだった。イギリスの反日運動をきっかけに世界中に知られた『雷』の救出劇は、この時まで誰も知らされていない出来事だった。

 この投書により、それ以降の反日運動はいずれも衰えていった。

 そして二〇〇三年、フォールは悲願の来日を果たすことができた。高齢の上に持病を持った老体としては心配な来日であったが、日本側は快く歓迎し、フォールは日本で工藤の消息を探し求めたが、結局見つける事はできなかった。

 工藤は何も語らず、ひっそりと余生を過ごしたのだ。

 この来日から五年後にフォールは工藤の墓参りを叶える事となった。




 フォールは昔の思い出話を語り終えた。

 そのそばにはしんみりとした表情の、海自護衛艦『いかづち』の艦魂、いかづちがフォールの老いた手を握っていた。

 「これが二人との出会いだよ」

 「……とても素敵なお話でした。フォールさん、ありがとうございます」

 話し終えたフォールに、いかずちは礼を述べた。

 「戦後生まれの者として、この経験は私の艦生にとって最も大切な瞬間になりました」

 いかずちの言葉を聞いて、フォールは笑顔になった。

 「これを他人に直接語るのは久しぶりだよ。 私は本当にクドウ艦長を、彼女を、心から感謝している。だが……どちらとも再会できなかったのが唯一、残念だったよ」

 工藤は戦後生き残るも、戦友との連絡は一切取らずに、親戚の病院に勤めながらひっそりと余生を過ごした。そして昭和五十四年一月四日、七十七年の生涯を終えた。

 自らの事を一切語らずに亡くなった工藤艦長。

 故にフォールが本を書いて来日するまで、この封印された奇跡の物語が世界中に知られる事はなかったのである。

 数多く失った戦友、……そして雷という存在が、戦後の彼の口を閉ざしたのだろうか。

 それは誰にもわからない。工藤自身にしか知り得ない事だ。

 そして雷は――駆逐艦『雷』は二年後の昭和十九(一九四四)年四月十三日、船団護衛中にグアム沖で敵潜水艦の雷撃によって撃沈され、その駆逐艦としての生涯を全うした。彼女は現在も海の底で静かに眠っている。

 「……この奇跡の出来事は、私に日本人に対しての印象に大きな影響を与えた」

 フォールは優しく、微笑みながら言った。

 「彼に、そして彼女に、深い尊敬と感謝の念を抱いているよ」

 フォールの眩しい程の優しい微笑みに、いかづちも微笑み返した。


 日英両国が繰り広げた激戦の最中、四二二名もの敵兵であるイギリス兵を救助した工藤と雷が貫いた真の武士道は、現代の日本人の心の中にもあるはずの精神であり、そして彼と彼女の武士道は今も人々の心の中に生き続けている――


伊勢「伊勢と〜」

日向「日向のぉ」

伊勢・日向「艦魂姉妹ラジオ外伝版番外編〜〜〜っっ」


――本番組は、北は樺太、南は台湾まで、全国ネットでお送りいたします―――

――大本営・海軍省・大日本帝国海軍支援協会・艦魂同盟の提供で、お送りいたします―――


日向「なんか久しぶりな感じがするわね」

伊勢「そうねぇ」

日向「待たせたわねっ! めいんぱーそなるてぃの伊勢型二番艦『日向』の艦魂、日向よっ! …よし、噛まずに言えた」

伊勢「姉の伊勢型一番艦『伊勢』の艦魂、伊勢です。よろしくお願いします」

日向「今回は『雷』の話だったけど、史実感動的なお話よね〜」

伊勢「そうですね。 あの激戦のさなかに敵であろうとも手を差し伸べた工藤艦長と雷は素晴らしいかたがたかと思いますねぇ」

日向「人間として当たり前、なんて無知な馬鹿が言ってそうだけど当時の時代を考えてみなさい。あの互いに憎悪の対象だった日本と欧米諸国同士の戦争よ? 考えてみたら工藤と雷がやったことはすごいことよ。 アメリカ人やイギリス人にも出来なかったことだわ」

伊勢「武士道があってこそ、でしたし」

日向「武士道最高って叫びたくなるわね。さて、ということで今回のゲストに雷をお呼びしてるわ」

雷「…お初にお目にかかる。雷だ」

伊勢「こんにちは。よくおいでくださいました」

雷「い、いえ…。 参謀がたにお誘いを受けるなんてこちらとしても光栄です」

伊勢「あなたは私たちより人として艦として素晴らしいことをやってのけたわ。もっと自分に誇りを持っても良いくらいよ」

雷「いえ…。 そもそもあれは艦長の意思によるもの。我々はただ志した武士道に則っただけです」

日向「固いわねぇ。もうちょっと楽にしなさいよ」

雷「は、はっ。申し訳ありませんでした」

日向「まぁとりあえず、あなたと工藤、そして乗員たちに乾杯ね」

伊勢「フォール氏を含めたイギリス兵たちにもね」

雷「は、はい…」

日向「ところでさぁ、伊勢姉さん」

伊勢「なぁに、日向」

日向「さっきから気になってたんだけど、馬鹿作者はどこ行ったの?」

伊勢「そういえば最初からいなかったわね…。どこに行ったのかしら」

日向「まったく…。なにやってるんだか」

伊勢「そういえば次回の外伝はどうなるのかしらねぇ」

日向「もちろん私たちの物語でしょ? 念願の、やっとの出番が来るのよ…ッ」

伊勢「でも作者さんがいないわけだから詳細がわからないわね」

日向「ええいあの馬鹿作者ッ! もったいぶらないでさっさと教えなさいよッ! ちょっと捜してこようかしら! 引っ張り出してやるわッ」

伊勢「まぁまぁ日向。席を離れちゃだめよ」

雷「…あの」

日向「なによ」

雷「先ほど、ある人物から手紙を譲り受けたのですが…」

伊勢「あら、作者さんからだわ」

日向「なんですって? ちょっと中身を開けてみなさいよ」

雷「は、はい…」

ガサガサ……

雷「?」

日向「なに、どうしたのよ。なんて書いてあるの?」

雷「え、えっと…。 なんでしょうか、これ」

伊勢「?」

日向「なによ、なんて書いて――」


『未定  裏へ』


三人「……………」

日向「はぁっ?! なによそれっ!」

伊勢「裏まで続いているわ。とりあえず裏も見てみましょう」

ペラ…(捲る)


『たぶん日向・伊勢・榛名メインの物語。詳細は未定』


日向「意味わからんっ!」

伊勢「要は、私たちの物語が最候補にあがってるけど、他にもあるかもしれない。だから完全には決まっていないってことなんじゃない?」

日向「ハッキリしなさいよ!」

雷「ずばり、そうですね…」

伊勢「まぁでも結局私たちの物語になるんじゃない?」

日向「そうでなきゃ困るわよ」

伊勢「私たちの話となれば、きっと呉大空襲と解体のあたりでしょうね」

日向「馬鹿作者も明後日から学校だから、きっとそういう意味で未定って言いたいのかしらね」

伊勢「あぁ…。学校が始まったらまた忙しい毎日ですからね。次の投稿はいつになるのかしら」

日向「明日までは冬休みだけどね。 まぁ次の作品は冬休み中には到底無理ね」

雷「内地ではすでに学校が始まっておりますが、こちらも遂に学校が始まるのですね」

伊勢「学校が始まったらまた面倒くさくて忙しい毎日だって作者さん嘆いていたわ」

日向「駄々こねてないで大人しく行きなさいよ。学生なんだから」

雷「…しかしそれでは参謀たちのお話が遅れるのでは?」

日向「よし馬鹿作者に強制的に引きこもらせましょう!学校なんかに行かせないわ!私たちの物語を書くまではっ!」

伊勢「こらこら。無茶言うんじゃありません」

日向「ちぇ…」

伊勢「と、いうわけで次回はたぶん、私たちの物語ねぇ。 でもハッキリしていないわけは学校が始まることと何故か関係あるんだけど、ごめんなさいね。 だけどほとんど私たちの方向で進んでるらしいわよ? だから次回もまたお会いしましょう。 お楽しみに、ね」

日向「次も必ず読みなさいよねっ!」

雷「命令形ですか…(汗」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 雷の話は数年前にとあるテレビ番組を見て知ってましたが、ここに雷と言う『艦魂』が登場する事により当時の状況、雰囲気、緊迫感が伝わりました!! と、率直な感想を述べた私ですが、私自信はというと…
[一言] うぉー!! 何ていい話なんだ!! これって実話なのか!?
[一言] はじめましていつも読んでいるだけでしたが今回かなり遅くなりながらも初めて感想を書くことにしました。 雷のこの話は知っていましたが今年フォールさんが来ていたのは知りませんでした。工藤艦長のおか…
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