三、秘密
夜、日課の読書をしているフィルは、ノックの音にページをめくる手を止めた。
ドアに近づき声をかけると、その向こうからの返事は女の声。
フィルが警戒しながらドアを開けると、そこにはフィルと同世代と見える女。
ストレートでセミロングの髪は明るいブラウンで、美しい艶を持つそれをハーフアップにしている。彼女が着ているのは、胸元にリボンをあしらった薄手のワンピース、というか、ネグリジェのようにも見える色気のある装い。彼女自体の第一印象は健康的な魅力を感じさせる容姿だが、今のその表情はやや沈んでいるように見えた。
話は中で、ということなので、武器となる物を携帯していないことを確認した上で招き入れる。
因みに、フィルは部屋の中で盗聴や盗撮が行われていないことはすでに確認済みだ。
そして。
「私は、フィル様の今宵の夜伽の相手として参りました、リサと申します」
その女リサは開口一番、そんな発言。
全く予測していなかった事態にフィルは一瞬フリーズしかけたが、プレゼントを届ける、といわれたことを思い出し、目の前の状況を一応の理解はする。
そして素早く思考を巡らせ、咄嗟に出てきた言葉は――、
「ノーサンキュー」
だった。
それは普段では有り得ないような言葉のチョイス。
外からは全く動じていないように見えるフィルだが、どうやらその内面はかなり取り乱しているようだ。
対するリサは、いきなりの容赦ない言葉に思わずその表情を引きつらせている。
たとえ断るにしたって、もうちょっと言い方ってもんがあるだろう!
そんな気持ちがそのまま口を衝いて出そうになるが、それはなんとか踏みとどまる。今の状況は、自分の短気が招いたものであるという事実を思い出したからだ。
私は悲劇のヒロイン、と自分に言い聞かせて、なんとか殊勝な態度をキープして食い下がる。
「貴方に追い返されてしまったら、私は酷い目に遭わされてしまいます!」
この後すぐ、とは言っていない。でもいずれはそうなるのだろうから、嘘は言っていない。
フィルもその言葉に心は揺れるのだが、受け入れられない事情があるので、
「いや……、でもね……、困るし……」
こんな言葉を絞り出すことしかできないでいる。
暫し後――、
「私に魅力が無いからですか?!」
「……そんなことは、ないと思うけどさ……」
「なら! どうして!?」
「どうしてと、言われてもね……」
「理由が無いなら! さあ!! 是非!!!」
いくらかの問答を重ねても煮え切らないフィルの態度に、徐々にムキになってその本性を現してきたリサに対し、フィルは未だ混乱の中で目を回しているばかりの様子。
だがフィルはそれでもなんとか頭も回転させて、必死に言い訳をひねり出した。
「あっ! そう、ボクはね、あれだ、男としてね、不能なんだよ!」
実は、フィルは決して嘘はついていないのだが、いい言い訳を思いついたぞ! という嬉しさがそのまま顔に出てしまって笑顔のため、端から見ると全く信憑性が無い。
案の定、
「最初の「あっ!」って何ですか! それ、いま咄嗟に思いついたってことですよね! そもそも、そんな嬉しそうに言うようなことじゃないじゃないですか!」
と、さらに詰め寄られることになる。
「もうあったまきた! 絶対抱かれてやるんだから!」
「いやいやいや、それ女の子のセリフじゃないよ……」
――もう、しっちゃかめっちゃかだった。
「大体ね! 断るにしても、そんな嘘まで吐くことないじゃないのよ!」
「いや……、その、まあ、嘘じゃ、ないんだよ……」
「だったら私が治してあげるわよ!」
言うやいなや、リサの手はフィルの股間を捉える。
フィルも、全く想定外の行動に反応が遅れ、それを許してしまった。
そして、全てが停止した。――かのように見えた。
男の股間を握った女。
女に股間を握られた男。
そのまま固まる二人。
その絵面だけ見れば、とてもシュールだ。
そして、その停止した空間を再び元に戻したのは、リサであった。
「ド、ユ、コ、ト?」
――元には戻っていなかった。
「…………つまり、そういうことなんだ」
ごまかしようのない状況に、フィルも覚悟を決め、そう語りかける。
その優しく言い聞かせるようなフィルの声に、リサもようやく正気を取り戻す。ゆっくりと目の前の現実を受け入れてから、何故かおもむろにフィルの胸に頭を埋めた。
フィルは、男ではない。
その事実を知られてしまったことに全く慌てていない自分に、フィルは驚きを感じていた。
目の前の女の子が、自分よりもずっと驚き混乱しているから、冷静なのだろうか?
そんな風に考えてみるが、そうではないことはすぐに判った。
(そうか、ボクはもう、彼女をどうするか、決めてしまったからなんだ)
この秘密は、知った相手を殺してでも守り抜け。ゼノンからはそう言われ続けてきた。
でも、この僅かな時間の交流だけで、もうリサを殺すという選択肢はフィルの中から全く消えていた。それは、フィルにとって、理屈ではない、何か。その“何か”が、何であるのかは、まだ本人も解ってはいなかったけれど。
フィルがそんな思索に耽っていると、さほど時をおかず、胸の中のリサがかすかにその身を震わせだした。
フィルには、その震えが怒りや悔しさからのものだと感じられ、申し訳ないような気持ちになる。そしてその想いは自然と言葉になって溢れた。
「ボクは、君を騙したり、傷つけたりするつもりはなかったんだ。でも、もし君が何か傷ついたのなら、言い訳をするつもりもない。……ごめん」
その言葉の後、僅かな間をおいてから、リサの口から震える言葉が零れた。
「……どうして」
フィルはその言葉に、彼女が望むならどんな質問にも真摯に答えよう、と思う。
「どうして! 男のカッコしてるくせに!! 私よりも胸が大きいのよー!!!!」
怒るとこ、そこかー。
よくわかんないけど遺伝なんじゃないかなー。
そんな、変に律儀なフィルの心の声もその闇に飲み込んで、夜はゆっくり更けてゆく――。