光の在り処
花火の打ちあがる音が、やけに煩わしく聞こえた。追い立てられる。散らばって、どうしようもない衝動。いつからこんなに夏が嫌になったのだろうと、僕はどうしようもなくなって腕時計が刻む時間に目を移した。待ち合わせまであと数分。
人で溢れる通りから離れようとすぐ後ろを振り返ると、陽菜乃はいた。
「……いつからそこにいた?」
「最初の花火が打ちあがったとき! いつ気付くかなぁってわくわくしてた!」
彼女に無理やり連れてこられた花火大会。一人では絶対に乗り込まないような、人という人で埋め尽くされた会場。屋台のぎらついた灯りが僕は嫌いだ。何かの拍子に落ちてしまったのだろう、地に捨てられた飲食物はやけに生々しい。聞きたくもない他人の会話が耳に捻じ込まれる。それでも僕は、気持ちを顔に出すことはしない。小さく息を吸い、口角を緩やかに上げる。これは陽菜乃のためではなく僕のためだ。道化を演じるのとは少し違う。僕は、ありたかった僕であるために自己を偽るのだ。
見ようと思えば、僕の部屋からでも花火を拝むことはできた。それをわざわざ会場まで見に来るというのはあまり気の進む話ではなかった。この場のどれをとっても、僕にとって何ら心躍るものはないのだ。ただ彼女だけが、僕にとってはほとんど益のないこの場で、それは幸せそうに微笑む彼女の姿だけが僕の至福だった。
「私ね、今年こそは何としてでも見たかったんだよね、花火」
「僕もだよ。今年こそは、ね」
さっきまで思ってもいなかった台詞がさらりと口を突いて出る。こういうときの僕は、非常に気まぐれで、それでいてひどく好感が持てる。本来人間というのはこうあるべきではないのかとすら、錯覚してしまうほどだ。理詰めで全てが回るのだとすれば、きっと僕は陽菜乃を恋人にはしていない。
「なぁに? 何かおかしい?」
陽菜乃は組んでいた腕を自身の方へ引き寄せ、不服そうな表情で僕を見ていた。
「いや、陽菜乃は可愛いなと思って」
「嘘だ、顔が嘘だって言ってる!」
「何だよ、それ」
自分でも薄い笑いを浮かべているのが分かった。無論、言葉にするほど心の底から陽菜乃を可愛いと思っていたわけではないが、だからといって嘘ではない。僕は陽菜乃を愛おしく感じる自分でありたかったのだ。それは陽菜乃を可愛いと思っていないことにはならないだろう。
ときに欲求が先行することもある。こうであってほしい、その理想のために思ってもいないことを口にする。退屈で、眩しくて、まるで居場所のないこの祭り会場で、僕は頭上の花火を楽しみながら会場の光に溶け込んでいたかったのだ。そうして愛おしい彼女を抱き寄せ、愛の言葉の一つや二つを囁くのも良いだろう。夜空に残る煙の跡を、それは長いこと見つめていたい。この夏が終わらなければいいのにと、そう願っていたい。
「私、夏って本当に大好き。夏の夜の匂いが大好きなんだ。今だってそう。とても切ない気持ちになるんだけど、きゅって締め付けられるこの感覚は恋する感覚に似てるんだ」
「陽菜乃は本当に夏が好きなんだな」
「うん。寒いのが苦手っていうのもあるんだけどね」
「陽菜乃と居ると、自分が何が好きだったのか忘れてしまいそうになるよ」
「……? どういうこと?」
真摯に僕を見つめる陽菜乃の姿に耐えきれず、僕は彼女を連れて出店が連なる通りを抜けた。それでも人通りが少なくなることはないのだが、次第に人工的な光は消えていった。月明かりが照らすのみだ。
僕は昔、月光が好きだった。張り詰めた夜に、月の灯りだけが凛と佇んでいるさまが好きだった。帰路に一人で見る月光には心が癒され、その日のわだかまりまで浄化された気分であったものだ。ところがどうだろう。陽菜乃と出会ってからは、月明かりにその手の安堵を覚えることはなくなってしまった。ただ寂しさだけが、僕を支配するのだ。
「どこに行くの? さっきのところでも花火よく見えてたのに」
「陽菜乃と二人きりになりたい」
どこに行っても人はいるのにと、無邪気に笑う陽菜乃の手を僕は強く握った。また花火が一つ、打ちあがる音がする。
「段々花火が豪華になってきたね。もうそろそろクライマックスかな?」
僕の思いを詮索することなく、いつも通りのおしゃべりを続ける陽菜乃に、僕は心の底から愛おしさを覚えた。花火が上がるたびに鮮やかな光が点滅する。
「わっ、ねぇ見て! 特大花火! 一番すごいやつだよ、きっと!」
言い終える前に陽菜乃はばっと僕の手を払い、木々の合間に見える花火を見ようと一生懸命になっていた。どんなに大きな花火が上がろうと、それは一瞬で煙と化す。どれだけの音を響かせても、どれだけの光を放っても、明日の空が何事もなかったかのようにかき消してしまう。陽菜乃はそのことを切なく思わないのだろうか。
また一つ、打ちあがる音がした。
子供のころ、夏休みになると念入りに休みの計画を立てることが何よりの楽しみだった。祖父母の家へ遊びに行くのも旅行へ行くのも、普段会えない友達と遊ぶのも、それを行うまでが楽しみだった。しかしいざ当日になると、終わりが見えて寂しい気持ちになったものだ。家を出るときの開けた青い空と膨れ上がる入道雲、一斉に鳴く蝉の声に、僕の心は爽快感で満たされたものだ。その感覚は今でも覚えているが、小学生のあの日から10年以上経つ今、同じ光景を目にしても僕の心は満たされなくなった。今夏など蝉の死骸ばかりが目に入るくらいだ。
花火の打ちあがる音は次第に大きくなる。
子供の頃に描いた夢は、今では然程魅力的には映らなくなった。限界があることを知ってしまったからだ。あるいは、経験してしまったからなのかもしれない。子供の目には、見るものすべてが新しく映った。どれもが好奇心の対象だった。ただ手に入れることだけを考えておけばよかった。しかし今は違う。手に入れすぎたのだ。夏休みを有限であると感じるほどに、僕は時間を使い尽くしてしまった。遊びの他にも大事なものを見つけてしまった。好奇心以外の感情が割合を占めるようになった。
花火の打ち上げは連続し、音の合間はなくなっていった。
陽菜乃と出会ってから、僕は以前にもまして脆くなった。一人でいた時間が長かったために、孤独を知らなかったのだ。一人でいるときの寂しさを、僕は陽菜乃と恋人関係になるまでは知らなかった。失う怖さを知らなかった。抱え込んできたものの多さに気付かされたとき、僕は戦慄した。陽菜乃を前にして、僕が集めてきたものはときにガラクタであることが多かったのだ。僕は自分が抱え込んできたものの意義がわからなくなってしまった。
一際大きな音を立てて、最後の花火が打ちあがった。長い余韻の後で、光は煙となり、夜空に紛れていった。
「やっぱりすごかったね、最後の!」
程なくして、陽菜乃がぱたぱたと駆け寄ってくる。
「最後のあれを見るために来たと言っても過言じゃないね! 良かった、近くで見られて。付き合ってくれて有難う!」
「陽菜乃が楽しかったなら良かった。でも……終わってしまったのは寂しいな」
「そう? 花火は、限られた時間でしか打ちあがらないからいいものなんだよ」
「……そうだな。陽菜乃と見ることができて良かった」
「もう、陽菜乃、陽菜乃って連呼しすぎ! 陽菜乃がいれば何でもいいみたい」
「はは、案外そういうものなのかもしれないな」
僕の世界を見る目は、もしかすると日々変わってしまっているのかもしれない。子供の頃に信じた永遠は、なくなってしまったのではなく、自分で消してしまっているのかもしれない。寂しくはない。きっと陽菜乃はそのことを寂しいとは言わないだろうから。