本
本
本を、どんどん集めていった。
本を読むことの楽しさを知ってから、もっと面白い本が読みたいと思い、もっと自分に強い衝撃と、深い感動を与えてくれる物語を探し続けるようになった。
とにかく、読んでみたい本、何かの切っ掛けで物語の粗筋を知り読みたくなった本、物語の題材が気に入った本、好きな物語の作者の他の本、ただ題名が気になった本、を集めていった。
しかし、いつしか、集めた本を読む速度よりも、本を集める速度の方が圧倒的に速くなっていった。本を、どんどん集めていくだけで、その半分も読めていない。いや、集めた全ての本の内、読破したものが五割となり、やがて三割になり、一割にも満たない状態になってきた。
そして、気が付いてみると、私の人生は半分以上、終わっていた。
――あと、半分もないのか……。
と思うと焦る。しかも、その残りの半分の人生の、更に半分において私は老人で、もしかしたら本を読むどころではないかも知れない。そう考えると、たくさん集めたが、まだ読めていない本を、どうしたらいいものか、という焦燥感だけが募ってくる。
どんどん読むしかない、と思って、まだ読んでいない本の内で、今一番に読みたいと思う本から読み始める。しかし、読んでいる最中にも、まだ集めただけで読めずに、本棚に置いてある本や、机の横に積み上げられたままの未読の本が気になって仕方がない。
さらには、いま読んでいる本よりも、もっと強烈な衝撃を与え、魂を揺さぶるような感動を与えてくれた読破済みの本を読み返したくて仕方がなくなってくる。あの読んでいるときの総毛立つような興奮が、いま読んでいる本からは感じられなくて、やはりあの本を読み返すしかない、という欲求が抑えられない。そうなると、いま読んでいる本が、まったく手に付かないのだ。
あの自分にとっては最高の、理想的な本を読んでいる時の感動だけが忘れられない。それなのに、その本の内容や文章の詳細までは記憶していない事がもどかしい。あの感動を完全に甦らすには、もう一度あの本を読み返すしかないのか。
けれども、自分の人生も、あと半分足らずである。集め続けている本も、どんどん読んでいきながら、以前に読んだ本も読み返したりしていては、とても残された時間だけでは足りないのでないか、という心配ばかりが大きくなってきて、今度は読書どころではないような気がしてくる。
まだ少年や青年だったら、山のように積み上がった本も全部、すぐに読んでやろうという気にもなるのだろうが、これからの老齢を考えると、もう本を新たに集めるのは止めようと思わざるを得ない。面白そうな本があっても、わざと見て見ぬ振りをして、これ以上は読みたい本を探すことはしないようにするべきだ。
今までに集めた本を大切にして、そのくらいの量の本が、自分の生涯に読んだ本の全てで、まあいいだろう、とそういう事にするつもりだった。
しかし、やっぱり、まだまだ面白そうな本が、あちこち目に付いてきて、諦め切れない。魅惑的な本の噂が耳にはいり、話題の新しい物語が目に映り、思わず興味が惹かれる。
そして、これまで以上に、もっともっとたくさんの読みたいと思う本を読み漁るようになり、まだ読んでいない本を読みかけては、既に読んだが細かい部分が思い出せない為に以前読んだ本を読み返し、また別の本の事が頭に浮かび、その本が何だったかが気に成り出すと、いま読んでいる本も、次に読もうと思っている本も、もうどうでも良くなってくる。そんなことを百年も繰り返してみると、頭が本の事で、いっぱいになってきて、脳が破裂しそうな気がした。
それでも、本が読みたくて、次の本を開いてみたら白紙だった。どの項も全部、白紙だった。山と積まれている本のいずれも、全ての項が、ただの白紙なのだった。今まで集めてきた本が、すべて空白になっていたのだ。まだ、読んでいなかった本を初めて読むことも、以前に読んだ本を、もう一度読み返すことも、今では決してできなくなって、取り返しが付かない。もう、どの本も、すべて無意味なものとなってしまった。白紙になってしまった本なんて、どれもただの無駄でしかない。
本が、すべて白紙になっていて、ただの空白になってしまったのは、本の文章、文字が消えてしまったからではなかった。私の脳の記憶が、すべて消えて無くなってしまったからなのだ、と私がようやく気が付いたのは、私が死んだあとの事だった。