逢魔が時のバス
明くる朝、眠い目をこすりながら昨晩と同じ食堂室に向かう。食堂室とはいっても、台所から続く広い土間に箱馬と机が置かれただけの簡素なものだ。箱馬などというものは、屈強な男の固い臀部を腰かけるからかろうじて椅子として成り立つもの。桃谷の場合は、ものの数分でお尻が痛くなってしまう。だからと言って他に腰かけるものはなく、仕方なく小学校の理科室でしかお目にかかれなくなったそれに腰を下ろす。周りは相変わらず大柄な男がひしめき合っており、朝から何とも騒がしく、そして賑やかである。半ば呆れがちにあくびをひとつすると、ちょうど隣からもあくびがひとつ。昨夜ともに夜更かしをした秀則だ。
「おふぁよう」
ろれつの回っていない何とも締まりのない挨拶をかわした後、手を合わせる。本日の朝食は、ご飯と魚の煮つけと味噌汁だ。まだ日の昇らぬうちに、当番がこさえたものらしい。パンにバターを塗っただけのいつもの味気ないそれと比べれば、雲泥の差。ご飯とおかずの間を飛び交う箸の動きが止まらない。あっという間に器は空になってしまった。
「随分と食べっぷりがいいじゃねえか。おかわりはいるか?」
首を横に振り、手で払うしぐさをしながら、「大丈夫です」と断りを入れたつもりだった。
「なあに、遠慮するな」
だが聞き入れてはくれず、目の前にご飯が並々と盛られた茶碗が差し出される。結局このやり取りがあと2回続いてしまった。
膨らんでしまったお腹をさすり、苦しむ桃谷を秀則は指をさしてけらけらと笑っている。そんな秀則の態度に、桃谷は頬までも膨らます。
「笑わなくたっていいじゃん」
「親父の前ではわざと時間をかけて食べないと、どんどんご飯をよそわれるぞ」
「……わんこそばみたいになってるのね」
朝食のあとの小休止。そろそろ腹ごなしに男どもが仕事に取り掛かるころ。桃谷は、自分にも何か仕事を振り分けられるのだろうかと思っていたその時、秀則が親父からの呼び出しを食らう。しばらくすると、ポケットの中に何かを詰め込みながら、鼻歌交じりで秀則が出て来た。
「どうしたの?やけに上機嫌ね」
「おだちんもらったんだよ。それに今日は外に出てていいってよ」
「そうなんだ」
そっと秀則が耳うちを仕掛ける。急に口を突き出して顔を近づけるものだから、桃谷は少しよろけてしまう。
「だから、今日逢魔が時のバスが来るかどうか確かめよう」
桃谷が首を縦に振ると、秀則はすぐさま身支度をするように言う。彼女が帰れることがわかったらすぐに帰せるようにとの配慮だ。
「この服は?一日来た学生服くらいなら、あたしもう一度着るわよ。
それに丈もあってないし」
「あ……そ、そうだね」
厠に入り、着替えを済ませると、ちょうど出会った時と同じ女学生の出で立ちになる。
「準備はできたか?」
「う、うん」
秀則は桃谷が準備をしている間に自転車を修理していた模様。昨日の無茶な運転のせいで馬鹿になっていたブレーキもすっかり治ったらしい。流石は鉄工所で手伝っているだけのことはある。
「よし、行くか」
「今度は無茶しないでよ」
「わかってるって」
桃谷が荷台に腰かけ、秀則の腰に手を添える。昨日までは何もなかったのに、なぜだかちょっと照れくさい。なぜかちょっとだけ。
「ねぇ」
「なんだ?」
一生懸命にペダルをこぐその背中に声をかけてみた。
「……随分とあたしを帰す準備がいいんじゃないの?」
「どういうことだよ」
「うーうん、なんだかちょっとだけ寂しい気もするなあって」
「でも帰らないといけないんだろ」
「そうね。それにまだ帰れるとも決まってないし」
「帰りたくないのか、帰りたいのかどっちだよ」
「さあ、またあとで教えてあげる」
こそばゆい会話が続いたあと、少しの間だけ沈黙が訪れる。生暖かい春の風がそよぎ、若葉が揺れる。木造家屋や田んぼがしばらく続くと、青々とした木々に囲まれた丸太と土でできた長い長い階段が見える。芦見山山道と書かれた立札が階段の横には立てられている。
「自転車はここでお預けだ」
立札のわきに自転車を停め、ここからは山道をひたすら登っていくのだという。先を見上げると少し気が遠くなってしまいそうだ。だが、なにしろ駆け下りれば止まれなくなってしまうような坂だ。自転車では到底登れない。
「これをずっと登っていくの?」
「時間はある。ゆっくり行こう」
そうはいっても、活発な少年と文芸部の少女では、歩みに差が出てしまう。そうとは知らずに秀則はぐいぐいと差を広げて行ってしまう。
「ちょっと待ってよ。歩くの速いってば」
「ごめん」
立ち止まる秀則。それより数歩遅れて、追いついた桃谷が膝に手を当てて立ち止まる。
「もうだめ、いったん休憩」
息を切らしてその場に腰かけると隣に秀則も腰を下ろす。
「のど渇いちゃった」
「飲むか?」
秀則が水筒を差し出す。ブリキ製のボトルを布でくるんだだけの水筒で、戦争を扱った作品で出てくるそれとよく似ている。
「ありがとう」
水筒を受け取って、桃谷は当たり前のように口をつけてそれを飲み干す一歩手前で思いとどまる。流石にいくら喉が渇いていたとはいえ、他人の水を飲み干すのは気が引ける。もうあと二口かそこらで飲み干してしまうかのところで、水筒を秀則に返す。
「ああ、ごめん。一気に飲んじゃった」
「あ、ああ……」
そして桃谷が口をつけた水筒が秀則のもとに返される。直接唇をつけて飲んだ水筒だ。ただ、それだけだ。
「秀則くんはのど渇いてないの?」
「え……?……ま、まあ……」
喉が渇いていないと言えば嘘になる。そう、嘘になる。でもなぜだか自分ののどの渇きに正直になることをはばかってしまう。
「ねぇ」
「な、なんだよ……」
その理由が何なのか。秀則はそれを知られたくなかったが、彼の額を伝う冷汗が、生唾を飲み込みごくりと音を鳴らして上下する喉仏がすべてを物語っていた。
「なんか変なこと考えてない?」
「な、ば、バカ言えっ!」
「本当に?」
「うるさい!のどが渇いてないだけだ!」
癇癪を起こして声を荒げる秀則に、桃谷は大笑い。だが、彼女が笑うのを責めるのも馬鹿らしいと感じ、気が付けば春の風に誘われて桃谷のそれがうつるようにして、ふたりともが大笑いしていた。
「はぁ~あ、なんか笑ったらお腹すいてきちゃった」
「確かにな。かなり歩いたしな」
「なんか食べるか」
突拍子もない提案を秀則が投げかける。いや、そこまで突飛ではないのだが、桃谷からすれば突飛だ。あたりには青々とした森が広がっているだけで、店などは一切見当たらない。
「こんな何もない山道でいったい何を食べようっていうのよ」
「店がなくたって、ものは食えるぜ」
「キイチゴでも取ろうっていうの?」
「生えてないわけじゃないけど、それじゃあ腹の足しにならないだろ?
ちょうど見つけたんだよ、そこに」
そう言って指さす先には、ほんのりと山吹色に色づいた紡錘形の果実を携えた木が生えていた。草丈は高いものの、熟して詰まった実を多数生らしているからか、枝がお辞儀をして垂れ下がっている。肩車をすれば届きそうだ。
「……かりん……?」
「かりんは生では食べれないし、この季節にはならないよ。
それに大きさも全然違う」
「じゃあなに?」
「枇杷だよ枇杷」
答えを教えても桃谷は今ひとつピンと来てない様子。
「肩車してやるから乗れよ」
「う、うん」
同じぐらいの年ではあるが、成長期を通り過ぎてしまっている桃谷と、まだ差し掛かったばかりの秀則では、時代の違いも手伝ってか体格差ができてしまっている。少々不恰好ながら、桃谷を持ち上げる秀則。その肩の頼りなさが太ももに伝わってくるので、急いで枇杷の身を両手いっぱいに取れるだけ取る。少し乱暴に下され、何個か落として転がしてしまった。
「ああ、ごめん」
「落ちちゃったのはどうする?」
「皮は向いて食べるから問題ないだろ」
「どうやって剥くの?」
桃谷の前で、秀則は枇杷の実を房の反対側の瘤から親指の爪を食い込ませて、皮を丁寧に剥ぎ取る。見様見真似で桃谷がやってみると力加減を間違えて、果汁が一気に皮の裂け目から滴り落ちる。
「おわっ」
慌てふためく桃谷を笑う秀則。
「手がべったべたになった」
「どうせ食べてたらそうなるよ。それに美味しく熟してる証拠だしな」
それもそうねと納得し、剥きあがった実にかぶりつく。
「ああ、種がでかいから気を付けるよ」
「早く言ってよ」
勢いよく種に歯が当たったため、痛そうに口元を押さえている。だがゆがんだ顔もすぐさまほころんでしまうくらい、甘い甘い果汁が口の中にほとばしる。
「あっっまっっ!」
「美味しいだろ?」
口いっぱいに枇杷の果肉を含み、無言でただただ頷く桃谷の様子は、あまりにもの美味しさに言葉を失いましたとでも言わんばかり。摘み取った実を半ばふたりで奪い合いになりながら食べれば、種ばかりで食べるところがそんなにないかと思ったものの、それなりに空腹は満たせた。
「あ~、すっごく美味しかった」
「枇杷、食べたことなかったのか?」
「うん、スーパーで見かけたことはあったけど
名前まで気には留めてなかった」
「スーパー?」
「食べ物とかなんでも売ってるところよ」
「へえ、便利なとこがあるんだな」
「なあ、桃谷」
「なあに?」
ふと聞いてみたいことがあったので尋ねてみた。未来のことだ。
「俺って有名な作家になれたのか」
「さあね」
「ほかに俺の作品を読んだことは?」
「さあね」
「はぐらかさないで答えてくれよ」
「なんとなくそれを言ったら、秀則くんが気を削がれるんじゃないかって」
「……やっぱり、有名にはなれなかったか」
ため息に任せるようにしてそう呟くと、桃谷が怒ったようなふくれっ面を秀則に向かって差し向けていた。
「なんだよ」
「そういうとこは鈍感でいなさいよ」
「いいんだよ、別に。有名になれなくたってさ」
「え?」
「それに、桃谷が読んでくれるってんなら、俺は書くよ」
「そう」
唇からこぼれ出てしまいそうになる笑みをごまかすかのようにしてすくっと立ちあがる。なぜだか嬉しい。そしてなぜだかそれが照れくさい。
「なんか嬉しそうだな」
「な~んでもない。行こっ」
桃谷の笑顔は木漏れ日のように優しく朗らかに揺れた。
『この先立ち入り禁止 芦見山トンネル 昭和18年5月12日閉鎖』
ここに来たときに面を食らわせられた立札だ。ようやく、芦見山の廃トンネルまでたどり着いた。うっすらと傾いた日が茜色に色づき始める。別れの逢魔が時が近づいてきたようだ。
「ねぇ」
「どうした」
「あたしを帰したら、秀則君はひとりで帰るの?」
「そりゃ、そうなるな」
「じゃあ、あたしにはフラれたって思われるんだ」
「え?」
桃谷が言った一言に分りやすい焦りを顔いっぱいに表す秀則。そんな様子を見てまた桃谷は悪戯っぽく笑う。
「帰りたいのは帰りたいけど、もう会えないかと思うと
ちょっとだけ寂しいんだ」
「……そういうことか」
またあとで教えてあげる。そう言った桃谷の心中を秀則は少しだけ理解した。本当に少しだけ。
「でも、そういう考え方嫌いだな」
「え?」
しばらくは秀則の言ったことがわからなかったが、すぐに頭をよぎった彼の機能の言葉から、その意図を理解した。
『諦めた考えは嫌いだって、そう言ったのは君だろ?』
「そうだね」
バサッ……。
烏が荒い羽音を立てて飛び立った。
バササッ……、バササッ……。
また一羽。そしてまた一羽。茜色が濃くなるとともに、周りの木々を怪しい風がざわつかせる。そしてひとりでにトンネルにつながる道脇に立てられたガス灯が、鬼火のように灯される。さらにトンネルの奥が時代を先取りしてつけられたナトリウムランプの灯によって橙色に照らされる。時を超えるというより、黄泉の国へといざなわれそうなくらいの不気味な雰囲気。
「ここにつけられた灯はまだ普及してない技術でさ。
未来から来たみたいだなって思ってたんだ。
なのにすぐに使われなくなっちゃったけど、場所が悪かったかな」
「でも、物語の舞台にはいいだろう?」
「……そうね、こうしてみると……時なんて簡単に越えてしまいそう」
ナトリウムランプが照らす暗闇の中に吸い込まれるようにして、桃谷がトンネルの入り口に差し掛かった時、クラクションを鳴らしてそのバスは現れた。来た瞬間が見えず、まるでその場所にまさに飛んできたかのように現れたのだ。相も変わらず運転手は不敵な笑みを浮かべ、案内もしなければ一言も話さない。昇降口に片足をかけて、すこしだけ寂しげな顔を秀則に向ける。
「……どうやら、お別れみたいだね」
「不思議な気分だよ。喜びも悲しみもいっぱいある」
「……あたしもだよ。だからさ、お父さんに伝えてくれる?」
「いつか刻を越えて逢いに行くってさ」
逢魔が時、茜色から夕闇の青に変わるころだが、再び陽が空に戻ってくるような。そんな気さえする明るく屈託のない笑みだった。バスが見えなくなるまで必死に手を振る。あっという間に廃トンネルは元通りに暗闇に閉ざされ、ざわついていた辺りはすっかり静まりかえってしまった。
「刻を越えて逢いに行くか……」
「親父には笑われそうだな」
自分が過去に飛ばされたのと同じく、時を越える旅はあっという間だった。下された先もまた廃トンネル。桃谷がもといた時代で下されたことは、携帯電話の電波が入っていることを見れば一目瞭然。帰って来たという安心感もあるが背後の廃トンネルの中暗闇に戻っているどころか、柵で塞がれている。
「夢のあと……か……」
「何してんだよ、そんなとこで」
もの寂しそうに柵の向こうの闇を見つめていると後ろから声がした。桃谷のよく知る声だ。
「あ、秀則くん」
「先に帰ったんじゃないのかよ」
「うん、ちょっと向こうに寄り道してた」
「はぁ?」
秀則の反応も頷ける。なにせ、トンネルは塞がれてしまっているのだから。首をかしげるも、桃谷はそんなことはさておきと別の話を進める。
「あ、そうそう秀則くん。面白い本また見つけたよ」
「そうなのか。また貸してくれよ」
「うん、あたしが読み終わったらね」
「あとさ、俺のこと下の名前で呼んでたっけ」
「……ちょっとだけ、気分が変わったのかも」
「かもってなんだよ」
「さあね」
そう、ここからはまた別のお話だ。