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料理教室

 桃谷はひきつった薄ら笑いを浮かべながら、調理台の前で立ち尽くす。秀則の父親が仕切る男ばかりがひしめくむさ苦しい工場で、桃谷が任された仕事。それは、男どもの食事を作ること。男ばかりのところに紅一点が舞い込んできたわけだから、まさにお誂え向きの仕事を任されたわけだが、問題は桃谷が壊滅的に料理のセンスがないということだった。


「てんでダメって、別に手伝えないことはないだろ?」

「いやいやいや。無理ほんと無理だから」


首をしきりに横に振り、秀則が突き出した包丁の柄を受け取ることさえ拒絶する。自分が手を触れてしまえば、味に責任は持てないということだろう。


「……玉葱切るくらい出来るよな?」

「無理です」


「人参」

「無理です」


「じゃがいも」

「無理ですっ!!」


拒絶するあまり、同年代の秀則に対してなぜか丁寧語。目をつむってそっぽを向いて、両の掌を突き出す。だが、断られても桃谷の華奢な腕で、工場の泥臭い力仕事をさせる気にもならない。


「俺が教えてやるから、やってみろよ」


結果的に秀則の手間が増えたことになるのだが、桃谷に手とり足とり教えてやることにした。


「まずは、包丁持ってみろよ」


桃谷の前にまな板と包丁が差し出される。持ってみろと言われても、桃谷は包丁ひとつ握ったことすらない。恐る恐ると調理台の上に指を走らせて人差し指と中指で一歩、また一歩と千鳥足で包丁の柄のもとにすり寄っていく。そろりそろりと忍び寄るように近づいていき、指先で柄をちょんちょんと小突く。


「いや、早く持てよ……」

「緊張してるのっ!」


「たかだか包丁で緊張するかぁ……」

「じゃあ、あんたはピストル持ったことあるのっ?」


「包丁とピストルは次元が違うだろ」

「どっちも凶器になり得るじゃないの!」


ああだこうだと終着点のない論争。論点がずれているにもかかわらず。桃谷が居直るのは単純に包丁を握ることさえ怖いからだ。結局桃谷の作業を秀則が終始見守るという形で折り合いがついたが、秀則は全くもって作業ができないということになってしまった。


「いい? 絶対に離さないでよ!」


おまけに見守るだけでは頼りなく、手を添えていろとまで言い出した。いまだにがたがたと震えてじっとりと手汗で濡れた桃谷の手を、秀則がそっと支えてやるといった格好だ。これが女性経験の豊富な大人の男性ならば、安心して桃谷も作業に集中できたかもしれない。だが、秀則は桃谷と同じく十代半ば。思春期真っ只中である。となれば年頃の少女の腕に触れて平静など保っていられるわけもない。得体のしれない緊張で鼓動が小刻みになり、心音が互いの聴覚にぐりぐりとせり入ってくる。鼓動はやがて、身体全体を震わせる。緊張で肩が震えるといった具合だ。決して変なことを考えているわけではない。


手汗をじっとりとかいてしまっているのも。

鼻息が少し荒くなってしまっているのも。


ただ純粋に女の子の肌に触れるという慣れない行為。慣れない行為をしているがために緊張するというのは、人間として普通の生理現象だ。


桃谷の白い腕は、おぼつかなく小刻みに震える。玉葱の皮の上を刃でちょんちょんとつつく。刃を突き通すことにまだたじろぎを覚えているのだ。桃谷は答えを求めるような悩ましげなまなざしを秀則に向ける。だが秀則はそれに気づく様子もなく明後日の方向を見つめている。本来なら桃谷の言いつけ通り、彼女の手元を見ていなければいけないのだが、どうも手先を見つめ続けることができない。たとえ手先という体の一部分であれ、長時間異性を見つめるということに躊躇してしまい、意識的に目をそらしてしまう。そして、秀則があらぬ方向を見つめている間に、刃は玉葱の皮の上をつるりと滑ったのだ。


「いったぁあっ!」


反射的に動かした腕に巻き込まれて包丁がまな板の上を跳ねて、床に転がり落ちる。包丁の軌道を後ずさりで避けた後、かすり切ってしまった左手の人差し指を押さえてしゃがみ込む桃谷と、同じくしゃがみ込んで目線を合わす。


「大丈夫か?指を切ったのか?」

「あんたが、手汗ぐっしょりかいてるから気が散っちゃったじゃないの!

 ああ、もうべったべた!」


「不安だから手添えていろって言ったのお前だろ?」

「手汗かけなんて言ってないしっ!どんだけ緊張してんのよ!」


「大丈夫かっ!今、叫び声が聞こえたが!」


調理場に慌てた様子で秀則の父親が駆けつける。少女の悲鳴を聞きつけてまっさきに駆けつけたと言えば聞こえはいいが、どうにも様子がわざとらしい。下心が見え見えである。そんな男の目に入ったのは、悲鳴を上げた主である桃谷とともにしゃがみこんでいる自分の息子、秀則の姿。


そして、なぜか硬いげんこつが秀則の頭上に振り下ろされた。


「いだっ!」

「バカ野郎っ!女の子を泣かしてんじゃねぇ!」


「ちょっと包丁かすって、切っただけだから心配しなくていいですよ」


桃谷が秀則には罪はないとフォローを入れるが再び無慈悲にも、秀則の頭にげんこつがもう一発。


「泣かした上に気まで使わせてんじゃねえ!」

「いたぁ!だから、こいつは玉葱の皮で指を滑らせて……」


もう一発。


「うるせぇ、男は言い訳するなっ!」


さらにもう一発。


「おまけに罪を人に擦り付けるなんぞ」

「いや、だからこいつは包丁もろくに握れなくて」


「まだいうか、このクソガキがっ!」

「いい加減絆創膏ぐらい持ってきてよっ!!」


やっとのことで秀則が絆創膏を持ってきてくれた。父親は秀則に対し、「遅いんだよ」と毒づいているが自分は何もしていないどころか、秀則に危害を加えたのみである。男だらけのところに女がひとり入ると、男が働かくなるとは聞いたことはあるが、こういう事を言うのだと桃谷は実感した。


「大変ね、秀則くん」


秀則の父親の姿が見えなくなったのを確認してから、苦笑いで微笑みかける。


「まあな……、とりあえず作業に戻ろう」

「う、うん……」


「どうした?気が進まないか?」

「……」


「大丈夫だよ。今度はうまくやれるから」


先程は玉葱を皮ごと切ってから皮をはがすという方法をとっていた。これは玉葱の皮をはがす際に、折り重なっている皮を一気に剥がせるので非常に便利だ。だが、最初皮ごと切る際に、玉葱の皮の表面が滑らかでかつ、硬いため切れ味の悪い包丁を使う際は注意が必要である。先に皮を剥いてしまえば、内側の身は刃通りも良い為さっくりと切れるはずだ。


だが、玉葱の身はネギ特有の粘り気があり、ぬるりとした液体で覆われている。それが身の層の間を湿らせているとなると、層が互いに滑り合うことになる。


「いったぁああっ!」


再び桃谷の断末魔が調理場に木霊するのであった。




 目尻に涙を溜めて瞳を潤ませながら、絆創膏と包帯まみれになってしまった右手を押さえる桃谷。痛みをこらえて口を歪め、半分泣きそうになりながらも目の前に並べられたカレーの出来栄えにご満悦の表情だ。


「なんでい……少しはましな料理になるかと思ったら、またカレーか……」


だが、それを踏みにじるかのように素っ気ない物言いが食卓を囲むむさくるしい男どもの口からぽろりと転がり出る。



「あ、あたしが血の滲むような努力で作ったのよ。

 少しくらい褒めてもいいじゃない……」


「いや、うまいこと言わなくていいから……

 だいたい、ほとんど俺がつくったんじゃねえか!」


もちろん利き手があ包帯に覆われていたのでは料理をすることは愚か、包丁を持つことすらかなわない。よって、玉葱を切るのに右手を4回負傷してから以降、桃谷は一切料理に関わっていない。そして血が付いてしまった玉葱を洗ってカレーに使用したことはここでは内緒だ。桃谷の言う血の滲むような努力のせいで若干血なまぐさくなったのではないかと内心心配していたが、カレー粉の強力な香りのおかげで気にはならなかった。いつもどおりの自分が作った可もなく不可もないカレーの味だ。


「いやあ、すまなかったな。料理が苦手だってのに、何も知らないで

 調理担当にさせちまってよぉ」


秀則の父親がぽりぽりと頭髪の薄い頭をかきむしりながら、出会った時と同じ品のない大笑いをする。


「でも出来は悪くないな。うちのガキがつくったのより数倍うまい」

「だからほとんど俺がつくったって言っただろ!聞いてたのかよ!」


そしてもはやお決まりといった具合に、秀則の頭にげんこつが一発。食卓にどっと笑いが沸き起こるが、桃谷は苦笑い。


「そういや、桃谷とか言ったか」

「あ、はい」


秀則の父親と同じ職場で働いているせいか、屈強な体格から品のない笑い方まで何から何までそっくりだ。類は友を呼ぶというのか。それとも一緒に暮らしているうちに似てきたのか。


「嬢ちゃんはどっから来たんだ」


家出した宿無し娘にぶつけるにはおあつらえ向きといった質問だ。これが普通の家出娘ならば、しおらしくなって正直に話せばいい。だが桃谷の場合はそうもいかない。彼女が家出をした家は、この時代から遠い未来に建っている。それに、望んで家出をしたわけではない。帰る方法がわからないから状況を仕方なく受け止めて平静を保っていられるのだが、本当を言えば今すぐにでも帰りたいくらいだ。従って桃谷には、しおらしくなるところまでしかできない。


「……こいつは隣町から来たんだよ」

「ああ、隣町つってもあれだぞこっから坂を登って丘の向こうに出たところだ」

「じゃあ、随分と栄えてるとこなんじゃないのか」

「だだっ広い工場建てるために安い土地買っただけだからな、ここは

 田舎臭くて嫌になっちまうよ」

「仕方ねえよ、どっかの石頭が土地代ケチったんだからよ」


そこでどっと笑いがもうひとつ沸き起こったあとに、げんこつが従業員の頭上に舞い降りた。石頭が石頭を石のように硬い拳で殴るの図だ。これには桃谷も口を押さえることも忘れて大きく笑った。初めて居候させてもらった誰も顔も知らない食卓ではあったが、そんなことは微塵も感じさせない明るい食卓だった。



*****



 その日の夜のこと。寝床ははっきり言って最悪だった。ここにいる従業員の大半が住み込みだったため、作業場にむしろを敷いて雑魚寝だ。桃谷もそれに混じる形になったため、固く埃っぽい床の上にむしろを敷いただけの、まるで囚人のようなベッドに横にならなければならない。おまけに従業員の連中は揃いも揃って大いびき。もちろんのこと寝れるはずもなく、月が昇れば昇るほど、彼女の眼は冴えていった。そんな中、雑魚寝をしていた作業場の向こうの部屋から光が漏れていることに気づく。そして、自分の隣に寝ていたはずの秀則の姿がない。桃谷は忍び足でゆっくりと光が漏れている部屋へと歩み寄る。


「秀則…く…ん?まだ起きてるの……?」


だが、部屋の中には明りの主はいない。その代わりに、つけっぱなしになっているランタンの明かりに照らされて原稿用紙の束が机の上に置かれていた。なにか長い文章が書かれている。書きかけの小説かなにかだろうか。興味のままに覗き込むと原稿に書かれた小説のタイトルが目に入る。それは桃谷のよく知るタイトルだった。


刻を越えて君に逢いに行く 


それを見た瞬間、桃谷は固まってしまう。芦屋川秀則という名前は確かにどこかで聞いたことがあるとは思っていた。それがまさか、ここでつながるとは思いもしなかった。


「も、……桃谷……」



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