自転車
芦屋川秀則、神崎と同じ下の名前だ。だが、それ以外にも何か引っかかる。どこかでその名前を知っているような気がする。漠然と思考を巡らせるが答えには行きつけず、秀則のこぐ自転車の荷台に腰かけ、流れる景色を眺めていた。ふと、自転車が山のふもとの街へと一気に下る坂の手前で停まる。
坂は街を映えさせるという。少しだけ西に傾いた昼下がり、まだまだ暖かい日差しが降り注ぐも、時代の違いか桃谷には少し肌寒く感じられた。日光を反射するのは黒光りしたアスファルトではなく、小麦色の土を均しただけの道。それが趣のある木造家屋を両脇に携えて下へ下へと開けている。芦見山の廃トンネルを抜けたところから少しの距離で、高地から街を一望できるこの何ともすがすがしい景色にありつけるのだ。桃谷は、爽快感とともに自分が随分と遠くまで来てしまったことに一抹の不安を覚える。バスで寝過ごしたりしたことは、自慢ではないが何度もある。それでも時を超えて遠くに来たことなどもちろんない。
「いい眺めだろ?この坂は」
「うん…」
「…なんだ、そうは思わないか?」
「い、いや…」
「…帰りたくなったか?」
返事の声に翳りがあったのを読み取られてしまったようだ。桃谷も平静を装うのがあまり得意ではないようで、肩をびくりと跳ねあがらせてわかりやすい反応をしてしまう。そうすれば振動が自転車の車体を伝わって、図星であると秀則に伝える。
「……ごめん、…俺には何もできない…」
「…謝らないでよ。あたしを助けてくれたんだから。
何もなんてことないでしょ?」
「…そうだな、なんかおかしいな。俺が励まされてるなんて
…また謝りそうになるところだ」
「……、そうだ」
何かを思い出したようにつぶやくと、秀則は悪戯っぽい悪ガキと呼ぶにふさわしい笑みを浮かべる。そのひん剥いた白い歯が並んだ口からはニカッという擬音語が飛び出てきそうだ。
「…なによ?」
「お前、根性はあるほうか?」
「…まあ、人一倍ね…」
よしと小声でつぶやいて、手の甲に青筋が浮かび上がるくらいハンドルを思いきり握りしめる。いかにも今から悪巧みしますという表情を浮かべてからの自転車のハンドルを握りしめる仕草、そして、見晴らしのいい坂の上。となれば秀則の企みは
予想できてしまう。
「ま、まさか…秀則く…ん…、この坂を…」
「その通りっ!」
「ちょっと、まっ!うわぁああっ!」
坂の傾斜は、普通に走っただけでもなかなか止まれなくなりそうなくらいだ。それをふたり乗りの自転車でやったものだから、車体はきりきりと甲高い声をあげて、ギアの隙間から火花が飛びそうな勢いだ。風は台風のように吹き付けて桃谷のスカートをそよがせるが、そんなものに恥じらいを覚えている暇などない。
「やっほうぅういっ!」
秀則は疾走感を楽しんで上機嫌だが、桃谷からすればたまったものじゃない。身体をこわばらせて、秀則の腰にしがみつく。彼女にはこの行為がもたらす結果が予測できていたからだ。斜面の終わりに差し掛かり、秀則はブレーキを馬鹿力で握りしめる。急斜面をふたり乗りで下ったのだから、ブレーキはけたたましい悲鳴を上げる。当然ブレーキパッドの上でタイヤが滑ってしまい、自転車はコントロールを完全に失ってしまうのだった。
「あ、あれ…ブレーキが…」
「だから言ったのよ!このバカ!」
「お前が何を言ったんだよ!」
「言う暇がなかったのよ!このバカ!」
「バカバカって言うな!」
「それより、前っ、前ぇえええっ!」
なんともありきたりなオチがついてしまった。ふたりを乗せた自転車は、猛スピードで塀に激突。強固なコンクリート製ならば、ふたりは大怪我だっただろうが、幸いにも木を張り合わせて作ったようなものだったため、かすり傷程度で済んだ。ところが、塀のほうはもちろん大怪我で、大穴が開いてしまった。
「いたた…ちょっと、どーすんのよ!これ!」
「まあ、気にすんな気にすんな。怪我も擦りむいたぐらいだし」
「こっちが無事でも、思いっきり壊しちゃったじゃないの!」
桃谷が起こるのも無理はない。秀則の無茶のせいで、御覧の通りの惨状だ。
「ああ、本当に気にすんなよ。これ俺んちだからよ」
「ようし、わかった。自分の家なら壊してもいいんだな」
筋骨隆々とした見るからに固そうな鋼鉄の拳が秀則の頭上に振り下ろされた。見ているだけでも痛そうで桃谷は片目をつむってしまう。
「ったぁ!殴んなくてもいいじゃねえか、親父」
「す、すみません…」
「あっはは、嬢ちゃんは謝らなくていい。こいつが無茶な運転しただけだからな」
頭を下げる桃谷。男は、秀則の親父とだけあってことの顛末などお見通しの様。
「それより…」
男は秀則の肩をつかんで、家の影、桃谷の視界から少しそれたところに秀則を引きずり込む。そしてひそひそ声で耳打ちをした。
「ずいぶんとハイカラなねーちゃんじゃねえか。
お前も随分とやり手だな」
「そ、そんなんじゃねえよ!…実は宿無しでよ…
家でかくまってくれねえか?いいだろ?」
父親の耳打ちに対して、同じく耳打ちで返す秀則。
「嬢ちゃんは、宿無しだってこいつが言っているが本当かね」
「……、はい…」
学生服の宿無しというのも何ともおかしな話だ。自分は学校に行くふりをしてそのまま逃避行に走った家出娘とでも思われるのだろうか。だとしたら、自分は相当な不届きものと思われるのではないだろうか。そんな一抹の不安を吹き飛ばすがごとくすがすがしい笑い声が、男の口から漏れた。
「そうかそうか、だったらしばらくうちで厄介になるがいい」
身体全体を揺らして口を大きく開けて、がははがははと品のない笑い方。しかし、嫌悪感は全く感じられなかった。むしろ人の好さが笑い方から滲み出ているようだった。桃谷はあまりにもあっけらかんとした男の受け答えにお礼を言うのも忘れてぽかんとしてしまう。そしてしばらくして自分が受け入れられたということに気づき、桃谷は深々と頭を下げて礼をした。
「そう、かしこまるな、かしこまるな。あんたみたいな嬢ちゃんがいれば
こっちも仕事がはかどるってもんよ」
「うちは鉄工所なんだよ。働き手はいくらあっても足りないから
たんと手伝ってくれよ」
再び鉄の拳が秀則の頭上に振り下ろされる。ひょっとしたら鉄よりも固いのではないかと思ってしまうくらいだ。
「ってえな親父!なんで殴ったんだよ!」
「うるせぇ!こんな腕の細い華奢な嬢ちゃんになんてことやらせるつもりだ」
「あ、あの…あまり、力仕事は得意ではないですけど…
できることなら何でもやりますよ…」
ドスンと重々しい音を立てて目の前に置かれたのは、無理矢理頑張れば自分の体を詰め込んでしまえるのではないかと思うほど巨大な寸胴鍋だった。
「……あ、あの…これは……」
自分でもこの状況で口にするのは愚問だとは分かっている。分かってはいる。それでもこの現実から否が応でも、是が非でも逃げ出したかった。
「女手が入ったんだ。ちょうど男臭い飯はうんざりしてたんでな」
「俺も手伝うからよ」
はぁ…と胸の内から漏れ聞こえてしまいそうなくらいのため息をつく。察しがいい秀則は桃谷のテンションの低さを気に掛ける。
「どうしたんだ?」
だがその原因までは読み取ってくれはなさそうだ。土間に作られた炊事場には、どうやって火をつければいいのかわからない釜戸と歴史の教科書でしか見たことのない手押し式のポンプが鎮座している。この時代の住人ではない桃谷は、その場に立ち尽くすのみだ。いいや、桃谷にとってはそんなことは全くの別の問題といってもいいのかもしれない。なぜなら…。
「あ、あたし…料理……てんでダメなんだ…」
桃谷にできること、それは力なく笑うことのみだった。