出逢い
今の今まで夢中になっていた小説を閉じて、見知らぬトンネルの中をひた走るバスの行き先を尋ねようとぐらぐらと揺れるバスの中を歩き始める。
「あ、あのー…すみません。このバスは相崎住宅街行きですか」
よろめきながらも、運転席までたどり着き、覗き込んだところでバスの動きが止まる。だが奇妙なことにトンネルの中、出口のすぐ近くだ。
「すみませーん…」
運転手はこちらを振り返らない。停車中とはいえ運転の最中だから、そこに不思議はないのだがまるでこちらに気づいてないかのようだ。さらに表情を覗き込むと、なぜだかほくそ笑んでいる。怪訝な顔を浮かべると、運転手はやっと気づいたような素振りをしてドアの開閉ボタンを押した。乗るバスを間違えたのなら、ここで降りるといいと言ってくれた。
「あ、ありがとうございます…」
ちょうどバス停に停車してたようで、降りるとトンネルの中で、それも出口のすぐ近くという何とも奇妙な位置にバス停の看板が突っ立っている。珍しいバス停もあったものだと心の中で呟きながら、あたりを見回すとあり得ないことに気づく。自分がバスに乗って通ってきたはずの方向がレンガを積み上げてふさがれているのだ。そして、中を照らしていたはずのナトリウムランプは点いておらず、灰色の味気ない表情を浮かべている。なのにそれが見えたのは、出口から真昼の日差しが挿しこんでいるからだ。だが、それもおかしなことだ。なぜならバスに乗ったときにはもう、陽は沈みかけていたのだから。しきりに湧き上がり、尽きることのない疑問に顔をしかめているとたまたまパトロール中の警官に見つかってしまう。
「嬢ちゃん、こんなところで何をしてるんだ?」
警官ではあるが、どことなく出で立ちが古臭い。腰にはもはやめったに見ることのなくなった木製の警棒を携えている。それも桃谷には、うどんを伸ばす棒にしか見えない。そしてもちろん、この白昼になぜ、警官がうどんを伸ばす棒を持ち歩いているのか、桃谷には見当もつかない。
「すみません…バスでここに来たんですけど…
どうも間違えて乗ってしまったみたいで…」
自分がここに来た方法をありのままに伝える桃谷。自分でも訳が分からない。自分は、すでに閉ざされてしまった廃トンネルをバスに乗って通り抜けてきた。そんな非現実的なことを言って通じるのは、強いて言うなら妖精くらいの非現実的な人物にのみだ。もちろん、今彼女の前にいるのは、一昔前の格好をしているというだけで、ごく普通の警官だ。当然のことながら、バスに乗ってこの廃トンネルに降りて来たという彼女に向けて、眉間にしわを寄せて怪訝な顔を浮かべる。
「…バス…? こんなところをバスが通るわけないだろ。
もう3年前に使われなくなって、ふさがれた廃トンネルだ」
そう言って、トンネルの出口の真ん中にポツンとたてられた看板を指さす。薄暗いトンネルから出て、桃谷は外に向けて立ち入り禁止の注意を呼びかけるその看板に書かれた文言を一瞥する。
『この先立ち入り禁止 芦見山トンネル 昭和18年5月12日閉鎖』
思わず口を開けてポカンとしてしまう。このトンネルが閉鎖されたのは、3年前。このトンネルが閉鎖されたのは、昭和18年。どう考えても頭の中で計算が合わない。桃谷が知る限り、今は昭和21年などではない。もっと、ずっと先の未来だ。頭の中で自分がさっきまで読んでいた小説の冒頭が繰り返される。
少女は見飽きてしまった帰り道に味をしめて、
本を開いて字をなぞりながら歩く。
人通りが少ないのをいいことに、どうせ今日も何も起こらないもの。
うつつを抜かして、歩いて行けば、自らが道を違っていることにすら
気づかないまま。知らないバスに乗り、少女は気づかぬまま、
なおも本の中に潜り込んでいく。紙面を影が覆う。
少女はそこで、バスが普段通るはずのない
トンネルを通っていることに気づく。
そしてトンネルの向こう側へ出たそのとき。
少女は刻を越えた。
それと自分がここに来た経緯を振り返れば、なんと奇妙な一致だろうか。
桃谷が読んでいた小説は、まるで預言書のように彼女に起こることを記していたのだ。ここまで非現実的なことが続けば当惑など通り越えてしまって、ただただ呆れ果てることしかできない。心配そうに警官が尋ねるも、自分が未来から来たなどという現実離れした現実を言うわけにもいかず。薄っぺらく平静を装った後は、文芸部に似合わない脚の速さでその場から逃げたのだった。もちろんのこと、行先はない。
荒い息をして膝に手を付いて立ち止まると、春の生ぬるい風が背後から吹きつける。スカートがひらりとそよぎ、首元を汗の雫が伝うのを感じる。一息つこう。心の中でそう呟いて、見晴らしのいい山の斜面に腰掛ける。スカートが汚れるなんて知ったことじゃない。どこか投げやりな気持ちになって、空を仰ぎ見ながら大の字になって寝ころんだ。自分が知っているよりも幾分か澄み渡った空に視界が包まれる。
いつもなら、悩み事なんて吹き飛んでしまいそうな空。
だが、今の状況でそんなものを見せられても、空がきれいであることに腹が立ってくる。トンネルは閉鎖されていて、時を超えるバスも遠くに行って見失ってしまった。八方塞がりなのに、なんでこんなに空は晴れているんだ。心の中で悪態をついて、膝をたたんで横向きに寝そべってふて寝する。耳元に春風がざわめく。人気のない静かな山の斜面。今日くらいなら、全てを忘れてこのまま眠ってしまってもいい、そんな気の迷いをかき消すように自転車の車輪の回るカラカラという音が聞こえる。その音は近づいて、ちょうど自分の真上の所できぃとブレーキ音を鳴らして止まった。
「…、おい。そんなとこで何やってんだ?」
もう少しでうたた寝しそうなところだったのに。声をかけてきたのは声色から判断するに少年らしい。声変わりの途中なのか、やけに声の低い安定しない声質がクラスメイトの男子を思い出させる。重たい上半身を起こして振り返ると、予想した通り自分と同じくらいの年ごろの少年が自転車にまたがった状態で足をついていた。こちらを不思議そうな顔つきで見つめている。
眼鏡を外して目をこすり、もう一度眼鏡をかけ直して目を凝らす。セーラー服に身を包んだ自分とは対照的に、少年はこの昼間に薄汚れた長そでの白シャツと布パンという出で立ち。学校はどうしたのだろうか。それとも今は平日ではないのか。
「学校はどうしたんだよ。女学生だろ?
勉強するために学校に行ってるんじゃねえのかよ」
その一言で理解した。少年は学校になど行っていない。自分のいた時代では高校は行って当たり前のものであったが、この時代ではもちろんそうではない。中学を卒業したら働き始める人も沢山いたのだ。
「…そうね、あなたは?」
「そうねって…」
少年はあっけらかんとした桃谷の返事に戸惑いとともに苛立ちまで覚える。
「…俺は行きたくても、学校になんか行けねえんだぞ」
「…ごめん、なんて言っていいか…わかんないよ」
この時代の高校というのは裕福で稼ぎに余裕のある家庭で育ったおぼっちゃんかお嬢ちゃんがいくような場所。自分より恵まれていながら、学業をさぼっている様子に腹が立つのも頷ける。だが、桃谷は決してそんな理由で山の斜面でうたた寝をしていたわけではない。
「…ねえ、馬鹿げたこと言ってもいいかな?」
「なんだよ…馬鹿げたことって…」
「そうね…たとえば、あたしが未来からやって来たとか?」
「……、え……」
話しかけた女学生がいきなり支離滅裂なことを言うものだから、少年は時が止まったように固まってしまった。しばしの沈黙ののち、少年は口を開く。
「そういや…変な眼鏡してるな…」
開口一番がその罵声だった。桃谷は思わず顔を膨らませてカッとなってしまう。桃谷の愛用する眼鏡は淵が太く真っ黒で、耳元とレンズの付け根の部分に白黒のチェックがあしらわれており、彼女が人一倍オシャレに敏感なことを表している。しかし、それもこの時代では奇天烈なものとしか認識されなかったようだ。
「変じゃないわよ!オシャレでかけてるんだから!」
「オシャレ…?」
「視力は裸眼で0.8だから、日常生活には支障はないけど…
ほら、可愛いでしょ?」
眼鏡のフレームにしなやかな指を添えて、斜面に腰掛けながら首を傾けて少しうなじが見えるような角度をつける。そして上目づかいを少年に差し向ける。異性好きな彼女お得意の手管が少年の思春期の心を刺激するかと思いきや、どうやら空振りした様で冷めた視線が彼女に返される。
「いや…眼鏡は女を下げるとか言うし…目が悪くないのにかけるのはどうかと」
「こういう方が萌えるとか言うのよ!」
「燃える?何が…?」
「わかんないかなぁ、キュンとなるというか」
「子犬の鳴き声か?」
「…心臓が締め付けられるような…」
「狭心症か?」
「ああ、もう!違う!ぜんっぜん違う!恋をするとか、好きとかでいいわよ!
本当はちょっと違うけど…」
「一目見ただけで好きになるような…一目ぼれってことか?」
「もういいわ…それで…」
不服そうに声をワントーン下げたアルトボイスの返事を返す。短いため息をひとつついて、膝をはらってすくっと立ち上がる。すると、少年は驚いたような目つきになった。
「…どうしたの?」
「い、いや…女のくせに…デカいなって…」
桃谷の背丈は160cm後半といったところ。彼女がもといた現代でも高身長女子の部類に入るものだから、この時代ではなおさらだ。斜面を登って少年と同じ高さまで来れば、彼女は見上げられる形となる。少年もまだ成長期の途中からだというのもあるかもしれないが、この時代を考えると少年が大人になっても彼女の身長を越えるかどうかは微妙なところだ。
「もう少しデリカシーってものを知りなさい」
「え?でり…か…すぃー…?」
「要するに、人に失礼を与えないように遠慮しなさいってことよ」
「……、おまえ、本当に未来から来たのか…?」
高めの身長、耳慣れないカタカナ語などの言葉遣いや会話の内容から、少年はそれを読みとったらしい。
「…そう言っても信じてくれる?」
「少なくとも、お前がこの時代にそぐわない感覚を
持っているということはわかったよ。ただし、俺以外には言うんじゃねえぞ」
「なにそれ、告白のつもり?」
「違うわ、俺以外に言っても、頭が狂ってるとしか思われないだろ」
「…それもそうね…、信じてくれてありがとう…」
渇いた笑いを浮かべて、大きく息を吸い、声を上げて唸りながら伸びをする。どこか吹っ切れたようになって歩き始める彼女の背中を少年は呼び止めた。彼女の背中からうっすらと悲しさが漂っていたのを読み取ったのだろう。
「…待てよ、後ろに乗れよ」
「……、いいの…?」
遠慮がちに呟いて、後ろを振り返る桃谷。
「どうせ、行くとこなんてないんだろ?」
「…厄介になるかも……」
「いいさ、ちょうど単調な生活に飽きてきたところだ。
お前がいると、少しは賑やかになるかもな」
「あたし、重いかもよ」
「バカ、俺は男だぞ。ひとひとりくらい担いでやるわ」
自転車の後輪につけられた荷台に腰掛け、何気なく少年の腰に手を回す。
「…おわぁ!」
慌てて、桃谷の手を振りほどく。
「な、なによ。振り落されたら困るじゃない」
「そ…そっか…。あ、あんまり強くつかむなよ」
「…もしかして、照れちゃってる?」
「ち、違うわ!いいから掴まってろ!」
少年の分かりやすい反応を、桃谷はくすくすと笑う。自分が笑われているということに少々不服そうな顔を浮かべ、少年は自転車をこぎ始める。彼女が荷台に乗っている分、ペダルに力を込めてこがなければならない。だが思ったよりも足取りは滑らかに進んでいた。
「おお、速い速い」
なぜかは少年にも分からなかった。
「ねえ、そう言えば名前聞いてなかったよね?教えてよ」
「秀則だ」
「芦屋川秀則だよ」