少女は刻を越えた
西に傾いた茜色の陽が挿しこみ、茶色い粉をふくくらいの年季の入った机に、黄金色のストライプが施される。その机の天板に腰かけて両の足をぷらぷらとさせるひとりの少女。セーラー服に身を包んだ少女は、右手で白のレースカーテンをつまんで、くるりくるりと指に巻き付け、悪戯っぽく微笑みながら同じ年ごろの少年を見下ろす。
「どう?神崎君、新しい構想はできた?」
神崎という少年は机の上に置いたノートに視線を集中させていたがために、上方から急に話しかけられてまごつく。さらに、少年の視線の先にあったのは、あろうことか女子生徒のスカート。思春期真っ只中の神崎は、思わず顔を90度回転させて、彼女を見まい見まいとする。その反応を面白がって少女はクスクスと笑う。
「び、びっくりさせんなよ桃谷。こっちは集中してんだから」
「そう?行き詰まってるように見えたけど?」
「行き詰まってんだから、集中したいんだよ」
高等学校の文芸部の部室。そこでふたりは部活動という名のもと自作小説の執筆に勤しんでいるのだ。神崎は、たった今構想を練っている最中であり、行き詰まっているときに限って桃谷が茶々を入れて来る。苛立ちも手つだって、いつも以上に桃谷を邪険に扱う神崎。すると、止めるどころかさらに輪をかけて邪魔を入れてくる。
「そーいうときは、考えが固まってるからいいアイデアなんて浮かばないの。
むしろそういう時は、誰かの作品を読んだりするといいのよ」
そう言いながら、小麦色のざら半紙でカバーを施した文庫本のページをパラパラと開いて、眼鏡のふちを指でつまんでかけ直した後にご丁寧に音読をし始める。彼女の妨害を必死で無視しようとしている神崎の意志でさえ、彼女は無視してしまう。
「女は微塵も感じていないながら、男を誘うために偽りの恥じらいを顔に浮かべる。
豊かなふくらみを持つ胸の前にかぶせただけの布きれを、しきりに
ひらりひらりと悩ましげにめくる仕草を、上目遣いとともに見せつける。
そうして女は、見えない巨大な手の小指の上に男を乗せて、ゆっくりと
ただゆっくりと、手相の谷を肉欲の河が伝うようにして、掌の中に陥れ…」
「あああああ、そんなシーンをわざわざ声に出して読むなぁ!」
「性描写の勉強中なの。神崎君もこういうの興味くらいあるでしょ?」
「そんなんだから、エロ子とかいうあだ名つけられるんだよ」
桃谷の下の名前は恵理子だが、男子に対してからかうような言動をすること。性的な表現のある著作を読んだりすることがあるため、いつの間にかエロ子というあだ名が広まってしまった。
「まあ、い~んじゃない?真実だし。
それにもうひとつの方があだ名になるよりはましね」
「もうひとつって?」
「え?言ってなかったっけ、最近は男同士の方も結構…」
「それは本気で聞きたくないからやめろ」
それだけにとどまらず、桃谷はどうやら男色を扱ったものも読んでいるらしく、所謂腐女子だというのだ。神崎も男女の関係を取り扱ったものならまだ、健全な男子としての興味もあったが、男色とあってはもはや嫌悪感を抱かずにはいられない。そんな嫌悪感でさえ、桃谷には笑いの種となっているというようで、神崎にとっては何とも厄介なことこの上ない。もともと聞いてもらえるとも思ってないくせに不服そうな膨れっ面を浮かべるあたり、まさに先ほどの小説の「女は微塵も感じていないながら、男を誘うために偽りの恥じらいを顔に浮かべる」という項にそっくりだ。桃谷の気質は悪戯な猫そのもの。そうして、ひとしきりじゃれた猫は手のひらを反して、人間に媚を売り始める。
「で?どんなところまで思いついてるのよ」
真面目なのか不真面目なのか。ひょうひょうとして掴みどころがないのが彼女のいい所なのかもしれない。からかいつつも、最終的には協力してくれる。それを分かっていてか、分かっていなくてもただの同じ部活だからという腐れ縁なのか。神崎と桃谷はよくふたりで話すのだった。決して恋人同士などではなく、気の置けない友達として。
「タイムスリップを扱ったファンタジーを書きたいんだよ」
「ファンタジー?…神崎君って、そういうの好きだね」
「そういう桃谷はどういうのがいいんだよ」
「やっぱりベタに恋愛小説かな…、あんまり男はこうだ女はこうだという言い方は
良くないけども、男は目的を外の世界に置きたがるの。
だから、それを探すために冒険をしたり、戦ったりする物語が好き。
でも…女は、その目的が人の心の中にあるの。だから恋をする物語が好き」
「何が言いたいんだよ」
「だからさ、神崎君も物語の目的を、登場人物の心の中に置いてみるってことを
やってみたら面白いかもよ。それを根底に据えた上での
タイムスリップものがあれば、あたしも読んでみたいなぁ…」
主観が入ってるとは言え、それなりの助言となったのか。神崎は相槌を打ちながら、桃谷の言葉をメモに取る。桃谷が言った言葉は神崎自身、小説を書く上であまり注意を払わなかった部分だ。改めて考えてみれば自分が書いた小説は、外にあるものばかりに注目して、登場人物の内面にあまり迫れてなかったのかもしれない。内心でそんな反省を抱きながら、もう一度構想を練ってみる。
「タイムスリップと…人の心……」
「じゃあ、これは?神崎君がクレオパトラに恋をする」
「…からかってるのか?」
「事実は小説より奇なりという言葉があるじゃない。裏を返せば、小説なんて
現実じゃあり得ないくらい奇天烈で馬鹿馬鹿しいほうが
ちょうどいいのかもしれない…」
なるほど。桃谷が言うのも一理はある。現実ではありえないことを紙面で起こすために、小説を書いている。ファンタジーを書くというからには、そう意識しているのだが。それでも枠にとらわれてしまっているかもしれない。神崎は再び桃谷の言葉を助言として受け止める。
「感心ね。あたしの戯言を熱心に聞くなんて」
だがその助言の主は、自分の言葉はとるに足らない戯言だと思っているらしい。わりかし真剣になって聞いていた神崎は、してやられたような顔をして、それをため息をついてシャープペンシルとともに机の上に投げてしまう。
「じゃ、あたしはそろそろ帰るね」
さんざん引っ掻き回しておいて置いて帰る始末。まさに猫と形容するにふさわしい。もう慣れたことなのか、呆れるそぶりさえ見せずに神崎は桃谷に「じゃあな」と呼びかけて手を振る。桃谷はそれに応えて手を振り返し、部室を後にするのだった。
いつもより少し早い帰り道。それには理由がある。学校から、最寄りのバス停をわざと通り過ぎて歩いていくと、一軒の本屋がある。桃谷の行きつけの本屋で、先程の文庫本も彼女がここで買ったものだ。行き帰りのバスの中で読む本をちょうど切らしていたのだ。今時珍しい不均一な歪みのあるガラスの引き戸をガラガラと開けると、小鳥を模したドアベルがカラカラと子気味の良い音を立てる。中は古い内装の割に流行りの小説や漫画も取り揃えてあり、もちろん似つかわしいような古書も豊富だ。そんな色とりどりで賑やかな本の背を人差し指でなぞるのが桃谷の愉しみのひとつであった。目をつむって、背をなぞり、再び目を開けたときに自分の指が触れていた本を読む。そんな偶然に任せたような選び方をすることもあれば、じっくりと何度も手に取ってみて選ぶこともある。本を読む前の、いわば準備段階に当たる行程の方が、本の中身よりもむしろ楽しいとさえ思ってしまう。
「…あれ……、この本…」
そして、ある本が桃谷の目に留まった。著者の名前は、芦屋川秀則。別に有名な作家ではない。桃谷も初めて見た名前だ。ただ、秀則というのは、神崎の下の名前でもあってそういう意味では親しみはある。だが、それにも増して興味を引いたのはそのタイトルだった。
「…刻を越えて君に逢いに行く……」
さっきまで、神崎に向かって言っていた戯言。物語の目的を人の心の中に置いた上で、タイムスリップを盛り込んだもの。神崎に向かって言った冗談。登場人物が時を越えて恋をする。それをまさに表すような明快なタイトル。眼鏡の奥で瞳を輝かせながら桃谷は微笑み、迷わずにレジに向かった。
買い物を済ませて本屋から歩き出す。学校の最寄りのバス停と、そこからもうひとつ離れたバス停。そのちょうど中間のあたりに本屋はある。本屋からそのバス停までの道も道路沿いをまっすぐに進むだけで慣れたもの。人の通りが少ないのをいいことに、桃谷は早速買ったばかりの本を開いた。書き出しはこうだ。
『少女は見飽きてしまった帰り道に味をしめて、本を開いて字をなぞりながら歩く。
人通りが少ないのをいいことに、どうせ今日も何も起こらないもの。
うつつを抜かして、歩いて行けば、自らが道を違っていることにすら
気づかないまま』
桃谷の視界には、もう紙面に並べられた文字とそれが織りなす世界しか見えていない。それでも内容を読み進めたいという好奇心と、長い間この道を歩いて来たという慢心が視線を紙面から遠ざけてくれない。やがて彼女はバス停に着き、聴覚でバスが到着したことを悟る。もとよりこのバス停には同じ行先の物しか止まらない。その事実がさらに彼女の慢心を助長させた。
『知らないバスに乗り、少女は気づかぬまま、なおも本の中に潜り込んでいく』
ぷしゅーという音が鳴って、バスのドアが閉まる。エンジンの回転数が上がって、座っている椅子の背もたれが小刻みに揺れれば、バスがゆっくりと動き出す。バスに乗ってしまえば、自分の家の最寄りまで、5つのバス停を越えるだけ。いつも桃谷はこの30分弱の時間を読書に没頭することで費やすのだ。
『紙面を影が覆う。少女はそこで、バスが普段通るはずのないトンネルを…』
そこで窓の外から射していた光が途絶えて、紙面が薄い闇に閉ざされる。暮れかかった西日の強い日差しの眩しさになれてしまったせいで鳥目になったのか、急な明暗の変化について行けず、字を追うことが出来なくなった。そこで桃谷は気づく。窓の外側がコンクリートのドームでおおわれており、仄明るいナトリウムランプが灯っていたことに。そして、物語の冒頭はこの言葉で締めくくられることになる。
少女はそこで、バスが普段通るはずのないトンネルを通っていることに気づく。
そしてトンネルの向こう側へ出たそのとき。
少女は刻を越えた。