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弱くて厳しい人  作者: スタンドライト
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 それからの僕達の呑みに行く回数は倍どころか三倍、四倍くらいにまで膨れ上がっていた。普段からそれ程外出をしない僕だっただけに、その夜の外出の多さから一緒に暮らしている両親や親しい友人から一体どうしたんだよ、とあからさまに疑問を投げかけられる事があったがもはやそんな言葉達が僕に制動をかけられる訳もなかった。

次第に親密になって行く僕と水沼さんの関係は職場でもあからさまだった様で、周囲を省みない僕達の関係を遠巻きから見つめている人達が増えたようにも感じた。僕自身それらの問題に対して自分を律さなければいけない部分は多々あると、自覚はあるつもりではあった。なにしろ離婚を考えているとはいえ、まだ水沼さんは婚姻状態にあるのだ。そんな人を夜な夜な振りまわしていいはずが無いと思ってはいたのだが、彼女はそれを望むかのように僕の対応に、全てを委ね夜を共にする事が多くなった。そんな僕達の関係が俗に言う交際と名のつく物に変遷していくのは自然の事だったし、そしてそれを言いかえれば不倫と呼ぶ事が出来るようになっていたのも当然の事だった。しかしあやふやな関係がいつまで続く訳もない。

そもそも水沼さんには子供がいるのだ。

僕が何度子供は大丈夫なのかと、夜中の逢引きに聞いた所で大丈夫としか答えない彼女の周辺状況に、不意にヒビが入らない訳が無かった。そもそも僕達には行く所が無かった。互いの実家に帰る訳にも行かず、毎回毎回ホテルに行く金もない。いつの間にか酒を呑む回数は減りファミリーレストランで時間を潰す事が多くなった秋の初旬。

付き合ってから二カ月目にしてその話題に水沼さんは触れて来た。

「あのさ、もう分かっているとは思うんだけど、そろそろ限界だよね」

水沼さんが何を言いたいのか、分かっているつもりだった。しかし僕の方からその事を言うにはまだ覚悟も勇気もなかった。

「もうちょっとしたら私達の関係も落ちつくのかな、なんて思ってたんだけど、どうにもそんな雰囲気じゃないしね。私自身驚いてるくらいだから、もう限界だと思う」

仕事が不規則勤務体制なのにも関わらず、僕等は殆ど毎日、夜勤が無い時意外は顔を合わせていた。それがどれだけ彼女の家庭に対して影響を及ぼしていたのかは容易に想像が出来るだろう。

「離婚、していい?」

何故僕にそれを問うのか、どうしてその決断を僕に委ねて来るのか、その質問の意味は分かっていた。今の旦那に取り立てて不満がある訳じゃない。暴力や酒癖、女癖が悪い訳でもない。子供の事も良く見てくれるし何よりこんなにも自由にさせてくれている。だけど、嫌いになってしまった。水沼、いや、愛美が言った事はシンプルかつ、どうにもならない事柄だった。

出来るだけ同じ空間にいたくない。言葉を交わしたくない。

それが今の愛美の現実でもあり、空間でもあった。それに愛美はこうも言った。

本来だったら離婚は二年後を予定していたと。それは一番下の子供が小学生になるのと、自分自身がケアマネージャーの試験を受ける為に必要な現場での実務経験五年に至る為だ。そう言った意味でも、自分達が付き合うきっかけになったあの時の呑みでのセリフはカマをかけているような物であったのだが、しかし実際問題そんな事は関係なかった。

「正直な所物凄くずるい事をしてるのは分かってるつもり。私はあなたに大きな決断をさせようとしてる。でもそれをしてくれないと私達は今後一緒にいられないと思う」

違う。

僕は首を横に振って、愛美の言葉を否定した。

「ずるいのは俺だ」

僕は気付いていた。旦那がいる状態で付き合い続ける事の中途半端さに、その都合のいい状態が僕にとって楽である事は充分過ぎる程分かっていたのだ。都合が悪くなったいつでも逃げられるような物なのだ。しかし相手が離婚をしたのなら違う。それは紛れもなく僕自身がもたらした結果でもあり、僕が負わなければいけない責任だからだ。そこにはもともと離婚するつもりみたいだったし、なんて軽はずみな考え方はない。あるのは自分を縛りあげる自重の念だった。

「離婚、していいよ。いや、ていうか……」

僕は頭を下げて、誠意を込めていった。

「離婚してください。お願いします」

僕の願いに愛美は笑顔で頷いていた。

愛美が一体心の奥底で何を感じていたのか定かではない。だけどこれだけは確実だった。もう後戻りは出来ない。もし後戻りをするのだとしたら、それは僕の人生に置いて大きな、見たくもない歴史となってしまうのだろうと、そう実感するのだった。




               ●

 愛美は旦那に離婚届を突きつけて一人、家を出た。しかし子供がいる事から実家のすぐ近くにワンルームのアパートを借り、朝、保育園の送りと小学校の見送りを愛美が担当し、夕方の保育園のお迎えを旦那が行う事で当面は家族としての体裁を保って行くらしい。

現段階の愛美の経済力では子供を引き取り育てる事が出来ないから、それが理由だった。

そして当の僕はと言うと、殆ど愛美の家に入り浸るようになり半同棲状態のような生活を送っていた。その内二人でもっと広い部屋に引っ越して、子供を引き取って四人で暮らそうだなんて話しをしていたけど、僕は実際の所その事についてあまり実感がわかないままだった。

いきなり子供と一緒に生活をする事になるなんて想像が出来なかった。出来る訳が無かった。だからその問題は脇に置いて考えない事にしていた。しかしだからと言って二人の間になんの問題が起きない訳でもなかった。

僕自身気になっていたのは愛美が同じ職場にいるという事実だった。

後になったからこそ、僕はその当時をこう振り返る事が出来たのかもしれない。

僕は恐ろしいまでに弱かった。それは当時、これからなるかもしれなかった親としてとか、或いは、一人の男としてとか、そう言ったレベルの弱さでは無かった。

僕は愛美の事を弱くて、厳しい人だと思っている。でもそれと同時に、僕も充分に弱かった。一人の人間として、僕は成熟していなかった。だからこそ僕は耐えられなかったんだと思う。

「職場、変えないか?」

僕の放った言葉に愛美は素直に頷かなかった。当然だったと思う。彼女は彼女でこの職場に対して意味を見いだしているのだ。それをいきなり、僕自身の都合で阻む事は出来なかった。でも、それでも限界だった。

慢性的に続く人員不足によって常に時間に追われている現場。それを考慮してか上層部は現場の体制を一新すべく他部署から主任を引き抜き僕達の部署にそのままのポストで突然抜擢した。裏で何かあったんじゃないかと現場の職員達が次々と揶揄していく中、突然の方向転換についていけない職員達は異を唱えながら職場を去り、いつの間にか中堅職員と呼ばれる人達は誰もいなくなっていた。

そんな状態の中で愛美が被った仕事量の多さが甚大な物にならなかった訳が無い。早い話しをしてしまえば僕が堪えられなかったのだ。一人で請け負うには無理な仕事を背負いこまされて毎日を過ごしている愛美を見る事が。

決して自分の為に言っているんじゃないという自負はあった。僕はキミの事が心配だから、お前の事が好きだから言うんだ。

そう何度も言い続けた夜が何度もあった。その度に愛美は僕に向かって反論し、こう言った。自分の仕事は自分でケリをつけるから、放っておいてくれと。

何度も何度もけんかをした。だけど気持ちはお互い平行線のまま月日が流れて十月の終わりごろになって、それは不意に訪れてしまった。

愛美は呆気なくパンクしてしまったのだ。

今まで張りつめていた物が全て吹き飛んでしまったかのように、彼女は全ての仕事を放り投げて家に閉じこもるようになってしまった。

愛美は苦悩していた。突然現場に移動してきた主任と古参のベテラン職員の意誇示な意見の狭間で振りまわされて、彼女が理想とする介護を追及する所か今まであった物すら守れない現実に落胆をして、そのまま辞めてしまった。

たった一年半の短い時間ではあったけど、愛美はそれを心に刻みつけて、決して忘れられない程の想いを引きずったまま、施設から去った。

正直な所僕としてはこれ以上職場で苦しんでいる姿を見なくて済むと思った。それが何よりも幸せなんだとも思った。図らずも自分が望んだ結果となって日常を見渡し僕は満足するはずだった。でも訪れたのは幸せでは無く悲しみだった。

愛美は毎日泣いた。

悔しくて悔しくて仕方が無いと言いながら、自分にはどうする事も出来ない事が悔しいからと言って泣いた。彼女が責めていたのは自分だった。どうする事も出来なかった訳じゃない。道は他にもあったし、まだまだ出来る事も沢山あった。でも自分にはそれが無理だった。もうどうやったって立ち上がる事も出来ないし、職場に足を運ぶ事も出来ない。それが何よりも悔しくて、何よりも悲しくて、自分を責めることしかできない現実に、愛美は涙を流し続けた。

そんな彼女の姿を見て僕は思った。

僕が彼女に押し付けていた幸せとは何だろうと。結局の所仕事の事で心を煩わされている愛美を直視したくないから自分は彼女に退職を迫ったのではないだろうかと、そう思うようになっていた。愛美を家に置いて職場で過ごす時、その気持ちは更に強くなっていた。

僕は自分の為に愛美を家に閉じ込めようとしていたんだと。

愛美が涙を流す理由は自分だけであってほしい。愛美が心を苦しめるような理由は全て自分が原因であってほしい。

狂おしいまでの愛美に向けた愛情が歪んでいると知った時、僕は僕に幻滅していた。

だけどそんな僕の事を愛美は好きだと言ってくれていた。なんでお前は俺の事が好きなんだよと問い詰めた事もあった。だけどその度に愛美は僕を見据えてこう言っていた。

「そんなのもう忘れちゃったよ」

たった一年という時間しか共にしていないのに、まるで何十年来の時を過ごしてきたほどそれらの時間は濃密だった。

家に閉じこもるようになった愛美に僕は安寧を覚えていた。それと同時に僕と愛美は二人だけの世界に没頭しているようでもあった。僕は愛美にぞっこんだった。仕事が終わればわき目もふらずに家に帰り、周囲から向けられた様々な誘いを全て断り続けていた。別に愛美がそれを強要した訳じゃない。僕が僕自身の意思でそれをしていたのだ。だから自然と愛美も引け目を感じていたんだろう。毎日のように決められた時間に帰って来る僕を出迎えるべく、愛美も僕と同じようにそれ以外の関係を絶つようになっていた。

結果僕達が維持する事が出来たのはそれぞれの家族くらいの物で、それ以外の物は一切排除された正に二人だけの世界が完成したと言っても良かった。そんな世界が毎日のように続く事に対して僕は安堵をおぼえ、対照的に愛美は気持ちを不安定な物にさせていった。

「なんか私達、無人島で過ごしてるみたいだね」

十二月のとある日、愛美は不意にそんな言葉を放っていた。彼女が仕事を辞めてから三カ月ほどの事だった。愛美にとってその言葉が一体どういう意味だったのかは分からない。でも僕にはそれが自分を非難しているように聞こえて仕方が無かった。

「なんだよ?」

僕は二人っきりの世界の中で、愛美を睨みつけ鋭い言葉を投げつけた。

「なんか文句でもあんのかよ?」

あの時の事を振り返って僕は思う。

弱くて厳しかったのは愛美だけじゃない。僕自身もそうだったんじゃないかと。

愛美は自分に厳しかった。自分の中にある理想とそれに追いつけない現実に悩みながら、それでも努力する事の出来ない自分の不甲斐なさに責任を見いだして、それを弱さだと呼んで嘆いた。

私は弱い。私は強くない。あなたがうらやましい。

愛美は僕に向かってそう言った。愛美にとって僕は強かったのだ。様々な人間が、様々な理由で職場から去っていく中、それでも施設で介護を続ける事が出来る僕に、愛美は強さを見いだしていた。そして僕も僕自身、周囲に振りまわされる事無く自分の道を進める事に自信を以っていた。自分は強い。そう思っていたのだ。

だけど違った。愛美と出会って、僕は知った。いや、思い出した。

僕も弱かったと言う事を。弱くて、しかも自分の愛すべき人に対して厳しかったと言う事を。

僕にとって愛美に向けた感情は愛では無かったのかもしれない。仕事を辞めさせ、家に閉じこもらせ、それで満足している僕のちっぽけな感情はただ人形を愛でているだけの変態的な男にしか過ぎなかった。

堪えられなかったのだ。愛美が外に出てなにか危険な目に遭うんじゃないかとか、新しい職場に行って男を見つけて浮気でもするんじゃないかとか、果ては介助すべき利用者からセクハラ行為を受けるんじゃないかとか、そんな不安が僕を突き纏い続け気持ちをささくれ立たせていたのだ。

僕は弱いのだ。好きになった相手を信頼することすらできない位にチッポケで、そしてその弱さを補う為に相手に依存する、相手を縛りあげて厳しくする、そんな愛美とは対照的な弱くて厳しい性質を持った男だった。

そんな性質を自分が持っていると知った時、本当に弱い人間が一体どういった行動を取るか、そんな事は一目瞭然だった。

自分に弱く、他人に厳しい。

理想に弱く、自分に厳しい。

そんな組み合わせのカップルが辿る結末などもはや見えているような物だった。

「愛美」

一月の中頃。愛美が子供を保育園に送って家に帰って来た時、僕は自分の弱さに打ちひしがれながらも言うのだった。

「別れようか」

僕は今、自分が最低な事をしている事は分かっていた。離婚してくれないか? ほんの数カ月前に言ったその言葉がふと頭を過ぎったが、忘れる。絶ち切る。耐えられないから、斬り捨てる。

もうこれ以上弱い自分を見つめる事は無理だった。僕はお前と一緒にいたら弱くなってしまう。こんな自分を見るのはごめんだ。

僕はそう言った。全て愛美の責任にして、何も自分は悪くないと言って、だからもう一緒にいられないから別れようと言った。

「もう俺は苦しみたくないんだ」

挙句の果てに出た言葉が自分の事しか考えていなかったセリフだっただけに、正に僕は僕に幻滅していた。だけどだからこそ別れたかった。こんな気持ちに気付いてしまったのも全て愛美のせいだと、全てを愛美にぶつける事によって、そして斬り捨てる事によって自分の精神のバランスを保とうとしたのだ。ぞっこんだったはずの愛美に向けられた感情はただの悪意に変わり、それがそのまま全身に向かってぶつけられた時、愛美はその言葉を受け止めていた。

弱く厳しい人だからこそ、僕が向けた自分に弱く他人に厳しい言葉は全て、愛美が全身で受け止めてくれていた。

愛美な涙を流しながらこう言った。

「もういいよ」

ただ泣きながら、僕の事を見ないままこう言ってくれた。

「さようなら」

たったその一言だけで僕達の関係は終了してしまった。およそ一年の交際期間。今まで味わった事の無かった濃密な時間に終止符が打たれた瞬間、実家に戻ってきて自分の部屋に寝転んだ瞬間、僕は実感してしまうのだった。

やっぱり、弱くて厳しかったのは僕の方だったんだなあって。僕と愛美は鏡みたいな存在だった。何となく似てるんだけど、どこか違う。そしてそれがお互いを傷つけあってしまう、そんな関係だった。例えそんな関係だったとしても、このまま人生を共にする事だって出来たのかもしれない。だけど僕にはそれが出来なかった。僕にはそれが耐えられなかった。それが僕自身の弱さだから。僕自身の、何のためらいもなく相手に向ける事の出来る厳しさだから。







 これが僕の、弱くて厳しい人を斬り捨てた時の話し。

なんて事無い、この話しは愛美だけじゃなく、僕自身のその一面を斬り捨てた話しでもあった。相手を切りするてる時、きっと自分の心のどこかも一緒に斬り捨ててるんだろうなって、その時僕はそう思った。それが僕の今回の教訓に繋がったんだろうけど、それが今後も生きる事はなかった。何故なら僕は今までも、そして今後も含めて、色んな人を斬り捨てながら生きて行くからだ。

だけどこれだけは言える。耐えられないから切り捨てる。そんな事を何度も行って来た僕である筈なのに、心の片隅にはいつだって斬り捨てた人の記憶が残っている。それは愛美の事も例外じゃなくて、彼女の事もきっと一生忘れられないんだろうなって、そう思った。


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